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1979-05-03

神奈川・静岡合同協議会


 私は、昭和54年53日、創価大学での儀式を終えて、その足で、一番はじめに来たのが、ここ神奈川文化会館であった。

 到着したのは、午後6時59分。妻と一緒であった。

 そこには、大勢の、山をなした神奈川の同志がおられた。

 会館の前の、1階から2階にあがる大きな階段にもいた。皆、大拍手で迎えてくださったのである。

 あの時、なぜ私は、神奈川に行ったのか。

 それは、未来を見つめてのことであった。

 本部でもない。

 東京でもない。

 神奈川文化会館の前から、海を見つめて、これからは全世界の指揮を執ろう!

 小さくて窮屈な、嫉妬の小国よりも、世界に向けて指揮を執ろう!

 そう決していたのである。

 私は全世界を志向して神奈川に来た。

 この海の向こうに、アメリカがある。ヨーロッパがある。アフリカがある。アジアやオセアニアにも通じている。

 海を見るたび、構は広がった。

 当時、嫉妬と陰謀と謀略、妬みと焼きもちが渦巻いていた。

 創価学会が、あまりにも大発展しているゆえであった。

 反発した邪宗門の坊主らが、若干の騒ぎを起こしていた。

 その時にも私は、もっと高次元から、世界を凝視した。

 ──ちょうどいい。

 世界広宣流布の布石を、本格的に始めよう!──

 そして今や、五大州の190もの国や地域に、学会の平和勢力、文化勢力が発展したのである。

 私の指揮と行動は正しかった。

 戸田先生がおられたならば、「よくやった、よくやった」と賛嘆してくださることだろう。

 その師が今いないことは、さびしい限りである。


 私が第三代会長を辞任したのは、この昭和54年の424日であった。

 その時、真剣に、「偉大な学会と、宗門を発展させてきた大指導者が、なぜ、会長を辞めなくてはいけないのか」と、馳せ参じた友がいた。

 藤原武君(現・関西長)をはじめとする関西の七勇士であった。

 その目は爛々と輝き、その態度は「必ず自分が師を護る」という強い強い魂が光っていた。

 今、彼らは、悠然として関西で、最大の勝利の指揮を執りながら、戦っている。

 あの時、友は熱い熱い姿を見せた。その光景は一生涯、忘れることができない。

 私は言った。

新しい時代を必ずつくる。

 君も一緒に頼む。

 あとになって、皆が、偉大な仕事をしたと驚嘆するであろう」と。

学会を弾圧した、知らずの邪宗門の連中は皆、もう立ち上がれないだろうとっていたに違いない。

 堕ちた学会の幹部もいた。しかし、あとになって、幾人か、「あの時は、本当に申しわけなかった」と懺悔してきた者もいた。

 関西が立ち上がった。続いて埼玉の同志が立ち上がって、をあげた。

「これだけの大功労の会長を、なぜ宗門も、幹部も、辞めさせたのか。

勇退』と言いながら、引きずりおろした。

 学会の将来は、池田先生がいなくては、めちゃくちゃじゃないか。分裂してしまう」

 こう憂えていたのである。

「第三代会長を守れ! そうすれば、広宣流布は必ずできる」

 これが戸田先生の遺言であった。最高幹部ならば、皆、知っていることである。

 何よりも、日蓮大聖人が「こそ誉れ」「こそ安楽」と教えられている。

 何があろうと、いかなる波浪があろうとも、私は、戸田先生との誓いの道をゆく。平和の道、希望の道、広布の道を、朗らかに歩み抜く。


 大聖人の法の真髄は「進まざるは退転」である。

 広宣流布へ前進また前進──そのために、リーダーはを砕くことだ。間断なく手を打ち続けていくことである。

 戸田先生も、牧口先生も、一面から言えば、本当に、口やかましかった。

「こんな細かいことまで」と皆がうほど、神経をめぐらせた。

 基本に徹し、よき伝統を守ることだ。それをないがしろにすると、あとで困る。崩れていく。

 よき伝統というのは、皆が納得し、安するものである。正しい指導をたもっていける。

 教育の世界でも、優れた学校には、素晴らしい伝統があるものだ。

 リーダーは、よき伝統を大事にしながら、「堅実な発展」をしていただきたい。

 今日(12日)は神奈川と縁の深い四国でも運営会議などが行われている。これには、高橋四国長、四国婦人部長、また四国の方面幹事である西口総関西長と大内東海道副婦人部長らが出席している。四国の同志ともを通わせながら協議会を進めたい。


 今年は、聖教新聞の創刊55周年に当たっている。

 神奈川・静岡の同志も、また四国の同志も、いつも聖教新聞の拡大に健闘してくださっており、謝に堪えない。

 つい先日の聖教新聞の「」の欄(10日付)に、あまりにも懐かしく、あまりにもうれしいい出が綴られていた。

 それは、昭和55年(1980年)114日、四国の約1000人の同志が、あの「さんふらわあ7」号で、冬の荒海を越え、ここ神奈川文化会館に来てくださった歴史である。

 あれから満26年。四国の友は、あの日あの時を原点として、人生の試練を乗り越え、師弟の誓いを原動力に、広宣流布の拡大を成し遂げてこられた。そのことが、動的に記されていた。

 この「」を読まれた方々からも、早速、多くの反響が寄せられている。

 あの年は、私の会長辞任の翌年であった。

 113日の午後1時すぎ、神奈川文化会館で執務する私のもとに、第一報が入った。

香川、高知、愛媛、徳島の四国全県から、勇んで集った約1000人の同志が、高港を出航したとの知らせである。

 目指すは、ここ神奈川文化会館の眼前に広がる横浜港。

 船は、白亜の客船「さんふらわあ7」号である。

 私は、航海の無事安全を、妻とともに真剣に祈った。一人も船酔いすることなく、元気で到着されるようにと、題目を送り続けた。

 出発したその日、横浜は雪の舞う寒い日であった。東海上には低気圧があり、海上は荒れることが予された。

 学会本部からは「のため中止してはどうか」という連絡も入ったという。

 しかし、もう出航直前だった。合図のドラが鳴っていた。“出航したあとは、すべて船長の判断に任す”と決め、旅が始まったのである。


“船上幹部会”では、気軒昂に語り合われていた。

 ──本来ならば、池田先生に指揮を執っていただいて、本年の学会創立50周年を盛大に祝賀すべきである。

 牧口先生戸田先生、そして池田先生という三代の会長が築いてくださった創価学会ではないか。

 しかし、今、先生に、自由に動いていただくことはできない。四国にお迎えすることもできない。

 それならば、私たち四国が、全国に先駆けて、先生のもとへ馳せ参じて、創立50周年のお祝いを申し上げようではないか。

 先生がおられるところが、広宣流布の本陣だ。最前線であるのだ──と。

 のちに、手書きで書き留められた、その船内の克明な記録を、私は拝見し、で泣いた。

船には、ドクター部や白樺(女看護者のメンバー)の方々も、勇んで同行され、同志の健康を見守ってくださっていた。

 創価班や白蓮グループをはじめ、志願の男女青年部の、はつらつたる献身も光っていた。

船内で皆が楽しく過ごせるようにと、私は、“寅さん”の映画(「男はつらいよ」)の手配も、事前に、そっとお願いしておいた。

 ありがたいことに、波涛会(海外航路に従事する壮年・男子部のグループ)の方々も、太平洋岸の要所要所の岬に待機して、変化の激しい波の様子を、逐 次、報告する態勢まで取ってくださっていた。

 四国で留守を守ってくださる同志たちも、皆、たえまなく唱題を続け、無事故・大成功を祈っておられた。

 そこには、どんなに嫉妬に狂った坊主らが壊そうとしても、絶対に壊せない「異体同」の金剛の団結が輝いていたのである。


 波頭を越えて、四国の友が、横浜港の大桟橋に到着したのは、翌114日の午後1時前であった。

 前日とうってかわって、この日は穏やかな陽気となった。

 大聖人は、「当に起って遠く迎うべきこと、当にを敬うが如くすべし」という法華経の一文を「最上第一の相伝」とまで仰せであられる。

 私は大桟橋に立って、花束を抱えて、遠来の同志をお迎えした。

 この私と同じで、神奈川県中から集まり、真剣の歓迎をしてくださった友の顔も、私は今もって、忘れることができない。

 わが音楽隊も、勇壮な学会歌の演奏で盛大に出迎えてくれた

 そのあと、午後1時半から、四国・神奈川交流幹部会が、神奈川文化会館で劇的に開かれた。

 はるばると勇み来った四国の同志も、誇り高く偉大であった。

 その同志を勇み迎えた神奈川の同志も、また誇り高く偉大であった。

 私は、ピアノで「大楠公」「熱原の三烈士」など数曲を奏で、贈らせていただいた。

 の交流が、幾重にも深く、また強く結ばれた。凝結した黄金の時が流れた。

 そして、その日の午後7時、四国の同志は、横浜港を出航して、帰途につかれたのである。

 私は、船が見えなくなるまで、神奈川文化会館の窓から、妻とともに懐中電灯を振り続けて、お見送りした。

 深夜11時半ごろと翌の9時、私は、船に直接、電話を入れて様子をうかがった。来られなかった方々への伝言も託した。

 船が着いてからも、高知県の方々など、自宅へ戻るまで、さらに長い道のりが続く。妻も、皆さまが全員、無事に帰宅されるまではと、祈り続けていた。

 なお、この時の船長が語ったというお話も、のちにうかがった。

「初めて、創価学会の方を乗せました。なんというか、言葉では言い表せませんが、本当に爽やかな気分です。

 この人たちを、一人も船酔いさせてはいけないとい、慎重に舵をとりました」

 当時の宗門に遠慮した聖教新聞の紙面では、「交流幹部会」自体は報じられているものの、四国の同志と私との出会いのことは、一行も記されていない。

 しかし、だれ人も冒すことのできない、荘厳な師弟の劇が厳然と刻まれていたのである。

 その後、5にも、徳島の約1000人の同志、そして愛媛の約1000人の同志が、それぞれ船で、神奈川までお越しくださった。

 2回とも、私はから歓迎させていただき、忘れ得ぬ歴史となった。

 のちに、私はこの方々を、「三千太平洋グループ」と命させていただいた。

 学会が一番、大変なときに、私とともに、一番、深く、一番、尊い歴史をつくってくださったのは、四国の友であった。

 そしてまた、東海道の皆さまであった。


 アメリカの鉄鋼王カーネギーの言葉に、「危機に当たって、人間の真価が試される」とある。

 困な時こそ、本物が光る。

 古代ローマの詩人ルクレーティウスは言った。

「人を見るのには、危機に陥った際に限る、逆境にあってその人物如何を見るに限る。

 即ち、かような時にこそ始めて真実のの底から出るものであり、また仮面ははがれ、真価のみが残るからである」

その通りである。

 有な『プルターク英雄伝』には、こう記されている。

「真に高貴健剛な精神は、厄に処し逆境に沈淪(ちんりん)する日において、真骨頭を発揮するものである」

 よ、来るなら来い!──これが学会精神である。

 御聖訓に「大来たりなば強盛の信弥弥悦びをなすべし」(1448頁)と仰せの通りである。


 あの日あのときの偉大な四国の同志は、私の胸の奥底に、永遠に刻まれて離れない。

最も困な時に、戦ってくださった人を、私は断じて忘れない。

 あの日あの時の尊き皆さま方が、今、四国広宣流布の中核を担い立って、指揮を執っておられる。その英姿を私は、何よりもうれしくうかがっている。

 また亡くなられた方々にも、私は毎日、追善回向の題目を送っている。

 後継のお子さん方や後輩たちも、「さんふらわあ7」号の師弟旅の先駆者を、最大に尊敬し、謝し、誉れとして、そのあとに続いておられる。

 広宣流布の“師弟の航路”を貫き通した人は、永遠に誇り高く、自分自身が光り輝いていくのである。


2006-01-12 神奈川文化会館

昭和54年5月3日 獅子となりて 我は一人征く


 1979年、すなわち昭和54年の53日――。

 間もなく、創価大学の体育館で、“七つの鐘”の総仕上げを記する、第40回の本部総会が行われることになっていた。

 本来ならば、その日は、私は、偉大なる広宣流布のメッセージを携えて、創価の栄光を祝賀する日であった。

 すべての同志が熱に燃えて、楽しき次の目標をもち、至高の光を胸に抱きながら迎えゆく、歓喜の日であった。

 尊い広布の英雄たちが微笑をたたえ、共々に、珠玉の杯を交わしながら祝うべき日であり、大勝利の鐘を自由に打ち鳴らす日であった。


 しかし、嫉妬に狂った宗門をはじめ、邪悪な退転者等の闇の阿修羅が、この祝賀の集いを奪い去っていったのである。


 午後2時から始まる総会の開会前であった。

 妬みと滅びゆく瞋恚の魂をもった坊主を乗せたバスが、大学に到着すると、私は、ドアの前に立ち、礼儀を尽くして、彼らに挨拶した。

 ところが、坊主たちは、挨拶一つ、会釈一つ返すわけでもなく、冷酷な無表情で、傲然と通り過ぎていった。

 学会伝統の総会も、いつものように、学会らしい弾けるような喜びも、勢いもなく、宗門の“衣の権威”の監視下、管理下に置かれたような、異様な雰囲気であった。

 ある幹部が後で言っていた。

「冷たい墓石の上に座らされたような会合であった」

 激怒したが多々あった。


 会場からの私への拍手も、遠慮がちであった。

 また、登壇した最高幹部は、ほんの数日前の会合まで、私を普通に「池田先生」と言っていたのが、宗門を恐れてか、ただの一言も口にできない。

 私をどうこうではない。

 それは、強き三世の絆で結ばれた、会員同志のへの裏切りであった。

 婦人部の方が怒っていた。

「どうして、堂々と、『今日の広宣流布の大発展は、池田先生のおかげです』と言えないのでしょうか!」と。

 私が退場する時も、戸惑いがちの拍手。

「宗門がうるさいから、今日は、あまり拍手をするな。特に、先生の時は、拍手は絶対にするな」と、ある青年部の最高幹部が言っていたと、私はにした。

 恐ろしき宗門のに毒されてしまったのである。言うなれば、修羅に怯えた臆病者になってしまったのである。


 しかし、私を見つめる同志の目は真剣であった。に出して叫びたいいさえ、抑えに抑えたが、痛いほどじられた。

体育館を出た直後、渡り廊下を歩いている私のもとに駆け寄って来られた、けなげな婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない。


 会合が終わり、特別の控室にいた高僧や坊主どもに、丁重に挨拶をしたが、フンとした態度であった。これが人間かという、そのぶざまな姿は、一生、自分自身の生命に厳存する閻法王に、断罪されることは、絶対に間違いないだろう。

 法は、厳しき「因果の理法」であるからだ。

 私はった。

宗門と結託した、学会攪乱の悪辣なペテン師たちは、これで大成功したとい上がったにちがいない。彼らは、「これで、計画は着々と準備通りに進んでいる。これでよし! これで完全勝利だ」と計算し、胸を張っていた。

 その陰湿さと傲慢さが、私には、よく見えていた。

 私は、ずる賢き仮装の連中の実像を、その行動から見破ることができた。


 この陰険極まる、狡猾な連中には、断固として、従ってはならない。いかなる弾圧を受けようが、「忍耐即信」である。

 学会は、蓮祖の仰せ通りの信仰をしている。死身弘法の実践である。柔和な忍辱の衣を着るべきである。

 学会に敵対する彼らは、蓮祖の姿を借りて、真実のの使いを道具にし、利用し、破壊しているのである。

 これが、恐ろしきの荒れ狂った、現実の実態であった。

 あまりにも悲しく、あまりにも情けなかった。

 本来、宗教は、人間の幸福のためにあるものだ。

 それが、坊主の奴隷になり、権威の象徴の寺院・閣の下僕になってしまうことは、根本的に間違いである。


 私は、重荷を、また一層、背負った気持ちで、皆と別れ、自宅には帰らず、神奈川文化会館に走った。


「今の新聞に、先生のお前が出ていました」

 神奈川文化会館で、側近の幹部が教えてくれた

 この3日付の読売新聞には、日米国民の「生活識」調査の結果が掲載されていた。

 その中に、日本人が「尊敬する人物」に挙げた上位20人の第6位に、私の前が出ているというのであった。


 上から、吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、そして、昭和天皇と続き、その次が私である。

会長勇退」直後の53日に、このような記事が出たことに、私は不議なものをじた。

 また、同志の皆様が、懸命に私を応援してくださっているようにもわれた。


 数日後、ある識者の方からいただいたお手紙は、この調査のことを非常に驚かれ、こう結んであった。

「現存する人物では、民間人の第1位です。

 そして、日本の宗教界では、貴方、お一人だけです。まさに宗教界の王者です。どんなに、戸田会長がお喜びになるでしょうか!」


「大事には小瑞なし、大悪を(起)これば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし」(1300頁)とは、日蓮大聖人の絶対の御確信であられる。

 誰が何と言おうが、私は私の信で勝つことを決した。

 そして、ただ一人、今まで以上の多次元の構をもちながら、戦闘を開始した。

「獅子は伴侶を求めず」とは、よく戸田先生が、私に言われた言葉である。

 一人、孤独になった私は、無言のうちに、必ずや、真実の伴侶はついてくるであろうと信じていた。

 師弟の両者が一つの姿で、無限に戦い、舞い、走り、勝利しゆく。私は、その新しき時代の、新しき伴侶を待っていた。

 神奈川の地は、世界に通じる港である。

 ここから、私は「一閻浮提広宣流布」との大聖人の御遺言を遂行する、決を新たにした。そして、「正義」という二字を書き記した。

 この義を深く留めて後世に伝えてほしいと、側にいた数人の弟子に託した。

 55日のことである。


 いったん帰京した私は、東京の開拓の新天地、第2東京の拠点の立川文化会館に向かった。

すでに、夕方近かった。

 別な世界を見るいで、まさに沈みゆかんとする夕日の光景を、しばし呼吸した。

 夕暮れの立川に着くと、その清楚な頬に頬ずりしたいような、憧れの月天子が、顔を見せてくれた

 私は一詩を詠んだ。


 西に 満々たる夕日

 東に 満 煌々たり

 天空は 薄暮 爽やか

 この一瞬の静寂

 元初の生命の一幅の絵画

 我が境涯も又

 自在無礙(むげ)に相似たり


 この日、511日の日記に記したものである。

 世界の創価学会は、太陽と同じく、太陽の生命で、永遠に転教を休むことなく、進みゆくことであろう!

 また、断固、勝っていくことであろう!


【「随筆 新・人間革命」80/聖教新聞 1999-05-01付】