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1981-10-31

「歴史と人物を考察 迫害と人生」


を乗り越え真の偉


 本日は伝統の創大祭の義を含めて、最近、常々私が考えている、歴史上、迫害に遭った人々がいかなる背景から迫害を受け、また、それをいかに勇敢に乗り越えていったかということを考えてみたいといます。言うなれば「迫害と人生」とでも言えるでしょうか。芝生の上で秋の日差しを受けながら、5〜6人の学生と語り合うような気持ちでい付くままに語らせていただきます。

 私は、10代の時に読んだある西洋の哲学者の「波浪は障害にあうごとに、その堅固の度を増す」との格言が胸に迫り、大好きでありました。言うなれば、この格言を土台として、人生を歩んできたとも言えるかもしれません。

長い人生行路にあって、偉大なる作をしていくためには、それなりの限界や絶望の時もあるかもしれないし、巨大なる幾多の障害もあるに違いない。その時こそ、いやまして、自らが逞しく光り鍛えられていることを、忘れてはならないといます。多くの優れた伝記を残した、今世紀のオーストリアの有な作家ツヴァイクは、次のように訴えております。

「だれか、かつて流罪をたたえる歌をうたったものがいるだろうか? 嵐の中で人間を高め、厳しく強制された孤独のうちにあって、疲れた魂の力を更に新たな秩序のなかで集中させる、すなわち運命を創りだす力であるこの流罪を、うたったものがいるだろうか? ――自然のリズムは、こういう強制的な切れ目を欲する。それというのも、奈落の底を知るものだけが生の全てを認識するのであるから、つきはなされてみて初めて、人はその全突進力が与えられるだ」(『ジョセフ・フーシェ』山下肇訳)と。

 ツヴァイクはここで、釈尊モーゼキリスト、マホメット、ルター等の宗教者、またダンテミルトン、ベートーベン、セルバンテス(スペインの作家で『ドンキホーテ』の著者)等の芸術家の例をとり、流罪や迫害が、いかに彼らの「創造的天才」を育てる沃土(よくど)となっていったかを述べております。誠にこそ、人間の人生や運命を、闇から暁へ、また混沌(こんとん)から秩序へ、破壊から建設へと飛躍させゆく回転軸であったのであります。私はここで、自分なりの立場から古今東西の歴史を俯瞰(ふかん)しながら何人かの人物にスポットを当て、人生における迫害や流罪のもつ義を、時間の都合上、簡潔に探ってみたいとうのであります。


古今東西の史実が示す“迫害の構図”


 まず初めに、我が国の歴史に目を向けてみたい。それは学識深く文雅の才に富んだ菅原道真であります。彼は右大臣にまでなった特筆すべき学者であります。父祖三代の学者の家に生まれ、その天禀(てんびん)の才能は鋭く開花し、藤原氏盛期の平安期に群臣の上首に並ぶことは、異例の栄進でありました。

 左大臣兼左大将の藤原時平とともに、道真は右大臣兼右大将となり、更にその当時の最高の位であった従二位に進み、まさに位人臣を極めようとした時、突如、急転直下、九州大宰府左遷されたことは有な史実であります。

 これは明らかに藤原時平らの讒言(ざんげん)によってこうむった冤罪(えんざい)でありました。道真は、当時の最大の権力者であった藤原氏の常套(じょうとう)手段であるライバル排斥の一つの犠牲者になったわけであります。時に道真57歳。その冬、道中の国々から食料も馬も給与することを禁じられた長途の旅は、さぞかし辛かったに違いないとわれます。

 現在の福岡県、すなわち当時の筑紫への下向にあたり、道真が我が家の梅の木に向かって「東風(こち)吹かば匂いおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな」と詠んだ和歌はあまりにも有である。彼は無実の罪を晴らすことも出来ないままに、筑紫の配流の地で59歳の生涯を閉じた。しかしこの讒言による冤罪によって、菅原道真のは、後世に不滅の光を放って残されていることは、皆様ご存知の通りであります。

 彼の、晩年の悲劇の模様とは逆に、彼の学識と文才に多くの人々がいよいよ敬慕のを深めていったことは事実であります。彼の学問、彼の詩文、彼の書、彼は最大の歴史家と謳われ、また歌人と謳われ、江戸時代の寺子屋教室においては、津々浦々に彼のが語り継がれていったのであります。「通りゃんせ、通りゃんせ、ここはどこの細道じゃ」とのわらべ唄にまで歌われてきた通り、そのはとどろきわたり残されていったのであります。

 中世になると、菅原道真は、柿本人麻呂、山部赤人と並んで和歌の三神とまで呼ばれるようになりましたが、この柿本人麻呂についても、梅原猛氏は誠に独創的な新しい仮説を立てておられるのが、私には興味深くえるのであります。

 この万葉集を代表する歌人である人麻呂も、晩年は、現在の島根県へ流罪にあって刑死したという新説なのであります。当時は律令がやっと制定され、厳しい法治社会が実現しつつあった。そこで権力者ののままにならぬ人間は、どしどし流罪になっていったようでありますが、かの柿本人麻呂も、島根・石見の国へ流されて一生を終えたのではないか、というのであります。

 我が国最大の詩人であり、我が国第一の歌人であり、その歌いし歌は雄大にして荘重な調べを残した「ますらおぶり」の代表である人麻呂でさえも、このように時代から突き放されていったことが、悲しくも浮き彫りにされてくるのであります。

 時代は下がって明治維新の夜明けを作り上げた二人の人物、頼山陽と吉田松陰について、少々述べたいといます。

 今から100年前に、日本最大の文豪は誰かと問われれば、当時の人々は、ほとんどが頼山陽(らい さんよう)と答えた、とも言われています。「鞭(べんせい)粛々夜河を渡る……遺恨なり十年一剣を磨き……」と川中島における上杉謙信の境を詠んだ頼山陽の詩などは特に有でありますが『日本外史』22巻は、江戸時代の後期、明治維新の革命を推進しゆく大きな力となったともいえるのであります。

 この明治維新の世代にとって革命の書であった大著の原型は、頼山陽が脱藩ののため、21歳から3年の間、一室に監禁されていた時にできたものであります。源平の勃興より徳川家光あたりまでの、武将の盛衰興亡を、簡潔にして平明に、誠に文で描いた『日本外史』は、座敷牢の幽閉生活から誕生したわけであります。自由を拘束された狭い空間で、人生を見つめる機会にあったのか、頼山陽の筆は踊ったようであります。

 山陽が、晩年、喀血して死の床に臥してからも、門人を動員し、阿修羅のような勢いで著作に取り組んだことも事実であります。頼山陽のような人物にとっては、幽閉というの事実も、病といえども、また死魔といえども、すべてを発奮の発条(ばね)として、少しも障害とはならなかったようであります。

 吉田松陰もまた、迫害と逆境の連続のなかにあって、常に自らの信条に生き、先覚の道を切り開いていった、頼山陽とほぼ同時代の家であり、革命家であります。彼の30年に満たないその短き人生は、安政の大獄連座して惜しくも終わりましたが、その文字通り死を賭しての姿を多くの弟子門下に植え付け、そのは確実に継承されていったのであります。

 彼の少年時代より鍛え上げられた学問的風格は、やがての獄中生活、また幽閉生活で、いよいよ磨かれていったのであります。陰自身が書いた『野山獄読書記』によると、1年2ヶの獄中での読書は600冊ということであります。しかも、ただ通読するというのではなく、丁寧に抜き書きし、所も記入しての読書であります。

 時代の課題に、鋭く常に対決し、ついには死という陰自身の“実物教育”によって、陰門下は、いかに生きるべきかを深く理解していったといえるのであります。

 現在でも山口県萩市内に、彼の入った野山獄という遺跡があります。この野山獄内でのエピソードとなりますが、ともにいた囚人11人を自然に化、教育し、獄中問答すなわち獄中座談会、更に獄中読書会や獄中講義を進めながら、絶望の空気からそれらの囚人たちを解放させたりしています。それは陰の人格とヒューマニストとしての人間愛からほとばしる境涯であったことが、うかがえるのであります。なお獄吏も、その子も、ともどもに廊下で陰の獄中講話を拝聴するようになったとまで言われております。

 陰の理不尽な刑死を知った門下生の憤慨がいかに筆舌に尽くせないものがあったかは察するに余りあります。陰門下の双璧であったその一人、高杉晋作は「実に私共も師弟の交を結び候程の事ゆえ、仇を報い候はでは安し仕らず候」と決した。またその一人、久坂玄瑞は「先師の非命を悲しむこと無益なり、先師の志を墜さぬ様肝要なり」と述べている。事実、やがてこれら青年門下生は陰の遺志を継ぎ、獅子奮迅の戦いを始めて、明治維新へと時代は大きく回転していったことは、皆さまご存じのとおりであります。


障害に鍛え信の道歩む


 ここで、国を変えて、中国におきましては、いわゆる二千数百年前の戦国時代、楚の国に屈原という詩人がおりました。この屈原という詩人は、楚の国の懐王という君主に仕えておりました。大変に有能な人で、司馬遷の著した『史記』という本の中に、かの屈原のことについて「博聞強記で、治乱の事跡に通じ、文辞に習熟していた」(野口定男訳)と述べられております。

 この時代は、今から二千数百年前の中国の事であり、当時の中国は中原鹿を争う乱世であり、いわゆる弱肉強食の社会であったわけであります。揚子江つまり長江中流一帯を有した楚の国に対し、西北には秦という大国があった。その大国より楚の国は、いつも脅かされていたのであります。そこで屈原は、楚の国の将来の安泰のために山東方面を有していた斉国との親交を鋭く説いてきたが、その進言は、ついに容れられなかったのであります。その反対に楚の国は屈原の進言に反して秦の国に接近してしまったのであります。そればかりか阿諛諂佞(あゆてんねい)の側近の讒言にのせられてしまった懐王は、賢者である屈原を追放してしまったのであります。

 しかし屈原は、君主をい、国をうあまり、血涙を流しながら「離騒」という圧巻の詩を書いたのであります。この離騒という義は、“憂いに罹(かか)る”という味で、自分自身の痛恨のいで、後世に残していったものであります。すなわち、この屈原の叫びは「を屈して 志をおさえ 追放のとがめを忍んで 恥に耐えよう 清廉潔白をまもり 正義に殉ずることこそ 古の聖人の教えたもうところなり」とあります。

 楚の国の運命は、屈原が配したとおり、懐王は、欺(だま)されて秦の国で死去している。その懐王の位を継いだ長子も忠義の士である屈原のを侮辱して更に屈原を追放してしまったのであります。事ここにいたり、楚の国を去って他の国の英明な君主に仕える事を潔しとせず、屈原は楚の国の滅亡を予言しつつ川に身を投げたのであります。こうして信に殉じた予見の士、屈原が没してから5年足らずして、果たせるかな秦の国の大軍が南下し、楚の国はついに滅亡してしまったのであります。

「余がの善しとする所 九たび死すともいえども 猶未だ悔いず」――愛国の詩人、屈原は自らの詩に、こう歌っております。つまり自分が追放されたのは、自分が善しと信じたことによるものであり、その信の生き方によって、たとえどのような迫害にあい、たとえ九たび死のうとも、悔いる事は断じてないというのであります。

 また中国にあって最大の歴史書といわれる『史記』の作者である司馬遷もまた、逆巻くような逆境のさなかで、ひとたび決めた志を貫き通した人であります。

 漢の武帝のころ、彼は父祖伝来の、記録係と天文官を兼ねた太史令という職にあった。当時の中国は、北方の蛮族ともいえましょうか、匈奴の征伐のためにたびたび出撃していたのであります。そういう時に漢の一将軍であった李陵という人が、勇戦むなしく孤立無援に陥ってしまった。最後には敵の軍門に降ったわけであります。昨日までは、勇将である李陵の戦いをさんざんほめていた宮中の居並ぶ位官達は、手の裏を返すように、今度は彼をさんざん非していったのであります。 

 人のは移り変わりやすく、いつの時代でも恐ろしいものであります。よき時は付きながら悪しき気流が始まると非したり、去っていくものであります。そればかりではなく、卑劣きわまる反逆をなすものであります。それはそれとして、そのような激変の最中にあって、司馬遷ひとりが、わずかな軍勢を率いて匈奴の大軍を悩まし続けた李陵の奮戦を弁護したのであります。そこで彼、司馬遷は武帝の怒りにふれ、投獄されたうえ、その身は宮刑に処せられたのであります。

 宮刑というのは別腐刑ともいわれまして、男子にとって最も屈辱的な刑だったのであります。司馬遷自身、友人への手紙の中で「自分は自殺すべきであったかもしれないが、志を完成させるため、屈辱をしのんで生き延びた」と書いております。その「志」こそ、父から託された『史記』の完成にあったのであります。そして残る人生のすべてを費やして、中国史上に冠たるこの大を成し遂げるのであります。

史記』の中には、有な「天道是か非か」の文が記されております。正義が滅び悪がはびこる世の中で、もし天道なるものがあるとすれば是なのか非なのか――。これは、我が身に照らしての司馬遷の痛憤の問いかけでありました。かれはこの痛憤の中でただむなしく悲哀に明け暮れているのではなく、それを発条として『史記』の著作に没頭していったのであります。『史記』が他の中国史書と異なり、没落した人や悲劇の人に暖かい共を示しているのも、著者自身の過酷な体験、ツヴァイクの言葉を借りれば「奈落の底を知ったもの」だけが持つ人間洞察の深さであるように、私はえてなりません。


「喜びは、悩の大木にみのる果実である」


 話をインドに移させていただきます。そこでまず述べねばならない人は“インド独立の父”マハトマ・ガンジーであるといます。彼ほど迫害との戦いに終始した人は少ない、とうからであります。ご存知の通り、彼の一貫したは「抵抗するな、屈服するな」の非暴力主義として我々に知られております。彼の戦い方の方途は、過酷なイギリス植民地主義の鉄鎖を打ち破るためへの、良のすべてをかけての選択でありました。

 彼の一生は、逮捕と投獄、そして断食による抵抗の一生であった。戦いを開始する際、彼が「非協力は宗教的かつ厳密な味での道徳運動があるが、政府打倒をめざすもの」と宣言した時、既にイギリスの植民地政府の弾圧と迫害の手が伸びることは必然の運命でありました。それを覚悟のうえで独立闘争に乗り出したガンジーにとって、迫害こそ自らの信を鍛えゆく格好の場であると、知っていたに違いありません。 

 私はガンジーの「善いことというものは、カタツムリの速度で動く」という言葉が非常に好きであります。人間の精神の力を信ずるがゆえに、彼は武力を用いて短兵急に解決する戦いを避け、粘り強く大衆に訴え続けていったのであります。確かにガンジーの戦いは「カタツムリの速度」であったかもしれませんが、迂遠のようにもみえるが、物事の真実への解決の方途を彼は知悉(ちしつ)していたとわれるのであります。

 だからこそありとあらゆる迫害に一歩も退かなかった彼は、インドの独立にも安住できなかったようであります。つまり願かなっての、晴れの独立式典にも出席せず、彼はとどまることを知らず、ヒンズー、そしてイスラム教徒達の抗争が限りなく続きゆくカルカッタの貧民街に、その老躯を見せているのであります。つまり迫害と闘争を繰り返しながら磨き抜かれたガンジーの生命は、常に民衆の解放を求めて、休むことを知らなかったのであります。そのガンジーの存在をアインシュタインは「20世紀の奇蹟」と賞賛しておりますが、私も同なのであります。


 また、フランスにおいてはレジスタンス運動で知られる歴史の示すように、その中から多くの人物が輩出しております。その一人として、“民衆の詩人”として、今なお世界の人々に親しまれているビクトル・ユゴーを選ぶことができるでしょう。ビクトルとは勝利のである。いかなる迫害にも屈せず、百折不撓の魂を燃やしながら人間と庶民への賛歌をうたい、守り抜いた剛毅な人物といえるでありましょう。

 彼ユゴーは、20歳の若さで「ロマン派の驍将(ぎょうしょう)」といわれた詩人であった。更に1848年の2革命の時には、かのユゴーは既に46歳になっていました。その年に彼は政治の場に登場していくのであります。そして、詩も小説も中断しさってひたすら政治に没頭していくのであります。ここで彼は、貧困の解決と、教育権の独立と、自由民権の擁護などのために火を吐くような弁舌をもって戦った。フランス上院には、現在もその活躍を記して、彼の座っていた議席に横顔を彫った金の銘板がはめこまれているのを、本年6、私も慨深く見学したものであります。

しかし彼の理と行動は、手練手管に長(た)けた政界の容れるところとならず次第に孤立していったのであります。51年の議会でのナポレンオン3世への弾劾演説を最後に、ついに亡命を余儀なくされてしまう。その時、彼は「喜びは、悩の大木にみのる果実である」とうたい、再びパリの地を踏むまで、亡命生活は19年の長きにわたっているのであります。

 しかしその中にあってユゴーの闘魂は少しも衰えなかった。否、亡命の地で弁舌をペンに代えて、ますます盛んに燃え上がっていったのであります。ナポレオン3世の圧政を痛烈に批判、風刺した『小ナポレオン』『懲詩集』、世界的な著である『レ・ミゼラブル』等々、ユゴーの作品の大半は、この亡命期に生まれていったのであります。最後の小説『九十三年』の結構が練られたのもこの時期であります。

「人生は航海なり」と言ったユゴーの生涯は誠に逆巻く怒涛を乗り越え乗り越え、大いなる劇にも似た振幅を描きながら、ただ前へ前へと進むことしか知らなかったのであります。彼が死して後大衆にたたえられながら国民的英雄としてその遺骸はパンテオンに納められたのであります。そのの通り“勝利の人”になったのでありました。


先駆者の栄光と嵐の道程


 ユゴーの格が剛毅で貫かれているとすれば、同じように迫害と亡命生活を送ったジャン・ジャック・ルソーは、どちらかといえば優しさの人であったと、私はみたいのであります。

 ルソー哲学は“20世紀の預言者”とまで言われているのであります。その先見ゆえに、同時代のありとあらゆる家、哲学者、学者達をはるかに越えて“フランス革命の生みの親”とまで言われているのであります。私は、その先見を支え、地下水のごとく流れているものこそ、人間、特に弱い立場の人々へのいやり、優しさであるとっております。

 彼の書いた教育学政治学、文学は、古典として、200年たった今日もなお不滅の光を放っている。その代表作である『エミール』や『社会契約論』を見ても、徹底した自然や人間への連環的な深き洞察は見事であると言わざるをえません。その優しさゆえに、彼ルソーは、独断的なキリスト教哲学には誠に批判的となり、当時の教会や政治権力に対して、日増しに激しい攻撃を繰り返していったのであります。

 ここで特筆すべきことは、1762年の4に『社会契約論』を著し、その1ヶ後には有な『エミール』が相次いで出版されているということであります。しかしその結果、ルソーに逮捕状が出され、5年間という長い逃亡生活、亡命生活を強いられていったのであります。更にまた、彼が愛し市民権を持っていたジュネーブの行政委員会では、この2つの著書を焚書(書籍を焼き捨てること。学問弾圧の手段)に処するという、誠に恐るべき決定さえなされていったのであります。

 このようにして、ルソーの晩年は、教会や権力に追われながらヨーロッパの各地を転々としていく、誠に不遇な色に塗りつぶされていくのであります。えばこれもまた、先駆者という宿命に負わされた栄光と嵐の道程と言えるかもしれません。やがてフランス革命が起こると、ルソーの遺骸もまた、国民的英雄として、のちにユゴーが眠った、かのパンテオンに改葬されたのであります。

 

 続いて現代絵画の父と言われる、ポール・セザンヌの一生を考えてみたいといます。彼はまさしく、世界の画壇史に輝きわたる歴史を打ち立てた人であります。しかし、その一生のほとんどは世間の無理解と嘲笑と侮辱のなかですごしていたといってよいでしょう。

 彼セザンヌは南古都エクス・アン・プロバンスに生まれる。やがて、パリに出て絵を模索し続けます。当時のパリは、新しき時代の潮流として官学派のアカデミズムに対抗する動きがあった。そこでセザンヌは、のちに、いわゆる印象派の先鞭を切りながら彼と情をともにするモネやピサロ、ルノワールらと画論を交わしていくのであります。

 やがて1874年には、第1回の印象主義展覧会が開かれた。セザンヌは3点を出品しております。しかし新聞報道はその絵を「錯乱によって動かされて描く狂人の絵」とまで酷評したのであります。更に3年後、彼、セザンヌは今から振り返れば印象派最高に開花した時期の展覧会に15点の絵を出品しております。しかし、展覧会への非は相変わらずであり、特にセザンヌの絵には、前より更に手ひどい嘲笑が集まり、「ヴィクトル・ショケの肖像」については「狂人が狂人を描いたような絵である」とまで、毒を含んだ批評を書かれたのであります。

 人一倍、の強いセザンヌのは深く傷つき、失のなかにあって再び南の故郷に戻り、“エクスの画家”として頑固なまでに自己の芸術の精進を続け通していったのであります。

 彼は1906年、67歳でこの世を去っていった。それも雨の中で、自らの絵を描き続けながら倒れていったのであります。 

 果たせるかなセザンヌの没後、パリではセザンヌの影響を深く受け継いだピカソなどの立体派と呼ばれる世界的な画人達の動向が脚光を浴び、現代絵画の見事なる開花を迎えていったのであります。私も本年6、彼の故郷であるエクスの町を訪ね、彼が描いたサン・ビクトワールの山をな夕な眺めながら、嘲笑と罵をしのびながら描き続けた彼の執の姿が、懐かしく二重映しになったのであります。

 ともあれの嵐の中にあって、営々として一つの信の道を歩みゆくことは、誠に容易なことではないと改めて痛したものであります。

 そこで最後に、今日の世界の形成に大いなる影響を与えた人物の一人、レーニンについても、語らざるを得ないとうであります。

 彼、レーニンの兄は、皇帝(アレキサンドル3世)暗殺未遂者として死刑になっている。その弟という立場にあったというだけで、入学したばかりのカザン大学(タタール自治共和国の首都カザンにあり、19世紀初めに創立)を放校処分となった。復学の願いもかなわない。彼の人生はこのように、前途に希望を見いだせない暗き青春期から始まったのであります。しかし彼は放校処分に負けないで、から晩まで貪るようにして集中的に本と取り組んでいったのであります。

 その後、彼は革命運動に進んで逮捕される。そしてペテルブルグの獄窓に1年2ヶ、つながれたのであります。更に1897年の2にはシベリアへ3年間の流刑の判決が下り出発している。その流刑地で1900年の1まで過ごしたのであります。しかしレーニンは、その流刑地で、ロシア経済の分析を進め『ロシアにおける資本主義の発達』を著した。

 この大著『ロシアにおける資本主義の発達』を読んだロシアの高な歴史家、そして社会学者でもあるコヴァレーフスキーは、レーニンの大歴史家としての才能に驚いたようであります。

 やがてレーニンは自らの目的であった革命を達成したが、いまだ残る旧勢力の反撃や他国の干渉のなかで国内戦が打ち続き、最も厳しい時期を迎えていったのであります。産は農をはじめ、あらゆる面で壊滅状態となった。人々の間にも不安が出はじめ、未来への展望もしいものとなってきました。

 しかし、レーニンは悠然と、を大にして青年に呼び掛けています。

「若い青年の最も重要な事は、学習である」と――。レーニンという人物の偉さは、実は、私はここにあったとみるのであります。つまり、革命後の最も困な時に、彼は青年にすべてを託し、期待し、「今こそ学べ、学べ、また学べ」と叫んだのであります。


の民衆に包まれた生涯


 ここでえることは、これらの事実から見ても、歴史的偉は、けっして平坦な道のりのうえに出来上がったものではない、という事であります。むしろ、迫害やの悪気流を、半ば宿命づけられていったところに、像を絶する歴史と、後世への奇跡ともいうべき記が、振り返ってみると、立てられていることが、うかがえるのであります。

 かの若き時代のニーチェは、歴史に残る記碑的偉を押し包みゆこうとする、こうした悪気流をこのように糾弾している。「鈍重な習慣が、卑小なものと低劣なものが世界の隅々を満たし、重しい地上の空気としてすべての偉大なものを取り巻いてたちこめ、偉大なものが不死に向かって行くべき道の行くてに立ちふさがって、妨害し、たぶらかし、をつまらせ、むせかえらせる」(『ニーチェ全集』小倉志祥訳)と。

 私は、いわゆる“英雄主義”“天才主義”にくみするものでは決してありません。歴史的偉といえども一人の手で成し遂げられるものでは絶対にない。多くの無の民衆に支えられ包まれながら、支持されて成就するのが道理であると信じております。

 歴史的偉というものは、どんなに偉大な個人が冠せられていようとも、庶民という大地に、しかと根を張っているものなのであります。だからこそ、民衆の犠牲の上に君臨しゆく権力者やエリートは、野望と保身から発する、ドス黒いねたみと羨望の炎に焼かれるのであります。彼らの地位や位がどうあれ、その根のいうべき本質を、ゲーテは「人間も本当に下等になると、ついに他人の不幸や失敗を喜ぶこと以外のをなくしてしまう」(『ゲーテ全集』大山定一訳)境涯にまで堕落してしまっていると言っております。そこから民衆のリーダーに対して、迫害の嵐が巻き起こるのは必然の理なのであります。「古きを温(たず)ねて新しきを知る」という諺(ことわざ)がありますが、こうした“迫害の構図”こそ、古今を通じて変わらぬ歴史の鉄則と私はみるのであります。

 これは私事にわたって誠に恐縮ですが、私も一法者として一庶民として、全くいわれなき中傷と迫害の連続でありました。しかし僭越ながらこの“迫害の構図”に照らして見れば、迫害こそむしろ法者の誉れであります。人生の最高の錦であるとっております。後世の歴史家は、必ずや事の真実を厳しく審判していくであろうことを、この場をお借りして断言しておきます。

 若き学徒の諸君にあっても、長いこれからの人生の旅路にあって、大なり小なり悔しい嵐の中を突き進んでいかねばならないことがあるといますが、今日の私の話が、その時の一つの糧となれば、望外の喜びであります。

 どうかこの数日間、楽しい創大祭を送られますようお祈り申し上げ、私のつたない話を終わらせていただきます。 


【第11回創大祭記公演 1981-10-31 創価大学中央体育館】(※近藤氏の投稿)