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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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1987-11-18

細川敏子


東京都】


骨肉腫に倒れた娘


 私は昭和52年3御本尊をいただき、その功徳で、母娘2人の生活を始めることができました。それからわずか1年半目の昭和55年1210日、寒いの出来事でした。

私と娘のささやかだけれど幸福な暮らしに、宿命の波は突然に襲いかかってきたのです。

「お母さん……足が……痛い!」

 中学1年の娘がしぼりだすようなで、左足の激痛を訴えたのです。立って歩くこともできない、という娘に、私は成長期によくありがちな、ひざに水のたまる病気だろうと軽く考えておりました。それでも娘のあまりの痛がりように日赤病院へ診察を受けに出かけたのです。

 ところが診察した医師は「即刻入院してください。精密検査の必要がある」というのです。

 検査結果を聞かされたときの私は、あまりのショックで、医師の言葉も理解できず、何が何だか分からないほど取り乱してしまい、病をはっきりと理解できたのは、医師が二度目に「悪骨肉腫」といったときでした。

 全身の血が凍りつくのをおぼえて、もでませんでした。「悪……骨肉腫……」頭のなかを病が駆けめぐっていました。

「骨肉腫はガンのなかでも一番恐ろしく、再発率も高い。切断手術をしても、肺や脊椎(せきつい)に回る可能は大きく、転移すれば、3かの命も保証できません」

 医師の言葉は残酷なものでした。どこをどう通って家にたどり着いたのか、記憶にもありませんでした。

 夜更けまで眠ることもならず、しさに打ちのめされそうな毎日が続きました。どうして? なぜ? 私たち母娘が、せっかくささやかな幸福を手に入れたいま、こんなせつないしい目にあわなくてはいけないの?

 今にも絶望の淵に沈みそうな矢先、先輩の指導を受けることができました。 その先輩は、厳しくかつ優しく、私に謗法の家に生まれた宿だと指導してくれたのでした。

 考えてみれば父方は、母方は真言です。母方の姉妹には男児が生まれず、女児たちの長男は全員外へ出てしまい、娘たちははとんどが主人と離婚、または死別しています。さらに骨の病気の者もいるといったありさまで、本当に真言の特徴であるとされる亡家・亡人の姿そのものです。

 私自身のお話をすれば、御本尊に巡りあうまでは、生きていることさえ不議なほどの地獄の毎日でした。

 生きることのむなしさに自殺未遂を3度、それも走っている車から飛び降りたり、睡眠薬を飲んだり……荒れ放題の生活でした。

 昭和43年には人並みに結婚し、娘の亜紀が誕生しましたが、亜紀が小学校1年生のときに離婚、生木を裂くように、娘は主人方へ連れ去られました。このときから、私のしみは何倍にもなりました。

 娘を失った狂おしさに、毎日毎日、それこそ地獄の底をはい回るような日々でした。私の様子をみかね、父母が「体を悪くするよ。少し遠くへ離れ、落ち着くことが大事」と東京へ送り出してくれました。単身で金沢の駅から誓ったのは、昭和49年の11末の寒い日だったといます。

「遠く離れれば気持ちも落ち着く――」

 とんでもないことでした。離れれば離れるほど、娘と一緒に暮らしたいとのいはつのるばかり。仕事中でも気がつけば“どんな覧きくなったかしら”“ケガや病気はしていないかしら”、そんなことばかり考えていました。


すばらしい初信の功徳


 そんなとき一人の職場の先輩に、私は自分の境遇を問わず語りに語っていました。胸中のしさを誰かに知ってほしいと無識にっていたのでしょう。

 ところが先輩は私の話を聞きながら、大粒の涙を流し続けるのです。「この人、他人の私のために泣いている。なんて人だろう。なんて温かいの人だろう」。私は不議な気持ちで彼女と話をしたように覚えています。

 私より小さな体で、聞けばずっとずっと労している。なのに私のために泣いてくれている。それからもその先輩と話すうちに、いつか信の話となり折伏をされておりました。信の肝要な部分など、もちろんわかりません。ただその先輩の人柄、温かいにふれ「こんな私でも幸せになれるなら、この人を信じてついていこう」と、昭和52年3に入信したのです。

 私の初信の功徳はまず娘の件でした。

 ちょうど私が信を始めたころ、主人が娘の面倒がみられないと、母の元へ連れてきたとの連絡が入りました。夢かと跳び上がらんばかりのうれしさでした。

 入信1年半目には、小学校5年にまで成長した亜紀を、東京へ呼び寄せることができたのです。

 私と娘は、それこそ、それまでの空白を埋めるように、母娘のふれあいを満喫し、本当に幸せの絶頂にいたのです。

 悪骨肉腫の宣告は、私からまた幸せを根こそぎ奪いとる、地獄の底からのでもありました。先輩幹部の指導で、私はこのに負けることもなく、ずっと真剣な唱題を続けることができたのです。御本尊に過去の誘法をおわびし、娘を広布のお役に立つ娘にしてくださいと、真剣に祈り続けたのです。

 医師は「本人には、絶対に病を明かさないように」と固くいわれていました。が、娘の姿を見ると題目もおろそかになってきます。このままではガンに負けてしまう、とうと歯がゆく、いたたまれません。

 これではいけない。母娘で力を合わせて祈るしかない! 私はそう決し、13歳の子供には残酷なことは百も承知で、病を打ち明けたのです。

「亜紀ちゃん、よく聞いてね。あなたは骨肉腫なの!」

 私にとっても亜紀にとっても、賭けでした。もし自暴自棄になれば、どうなるか。ゾッとするような結果も像できます。娘は、こう私にいいました。

「私が骨肉腫というより、いままでママが私のために、一人で悩んでいたことの方が、ショックよ」

 娘は入信以来、勤行と座談会の出席は一度も欠かしたことがありません。少しずつ信のすごさを生命で受けとめていたに違いありません。

 このとき、母娘の歯車がぴたりとかみ合うのを実しました。

御本尊様、絶対に治してみせます!」

 私たちは御本尊にこう誓ったのです。

 どうでしょう。その日から、娘の足の痛みはピタリと止まりました。不議としかいいようもありません。私は驚きとともに、御本尊から信じ祈っていくならば、この病は必ず乗り越えられる、との確信をつかむことができたのです。

 娘の病は確かな治療法などありません。それならばと、わが家で母娘2人、いきり祈ろうと決め、医師とも相談、結局退院する運びとなったのです。私たち母娘が信していることを知っているある医師は、冗談めかして「信で病気が治るわけないですよ。もし治ったら土下座するよ」といいましたが、娘は「じゃ約束ね。きっと土下座してね」と応えていました。

 この亜紀の確信ある医師への言葉は、親の私が驚くばかりでした。

 わが家の御本尊の前で、私は自分がガンになったつもりで唱題を繰り返しました。そして何ヶかのち、病院へ検査を受けに行ったとき、私たち母娘は、御本尊の偉大な力に謝の涙を流したのです。

「世界でも、こんな例はいまだ聞いたことがない」

 医師の見せてくれたレントゲン写真から、ガンの病巣は消えていたのです。医師は、亜紀のカルテに「信仰で治すとのこと、治療法ナシ」と書き込んでいたそうです。

 この事実で、それまで信に反対し続けた私の母が「亜紀のためなら」と、入信いたしました。母が題目をあげ始めたところ、長年にわたってしんできた股関節の痛みが消えさり、私として二重の喜びでした。

 亜紀の回復と同時に、私は再び仕事を始める決で、地方公務員試験を受け、百数十中3という狭き門を突破、生活にもゆとりがでるまでになりました。毎日、活動にも夢中で走り回りました。


題目ひと筋の日々


 亜紀は、マラソンやハードルまでこなせるほどに回復、毎日が充実した日々でした。が、やがて3年が過ぎようとした昭和59年1、高校1年の亜紀の左足に、またもや激痛が走ったのです。

再発でした。

「亜紀ちゃん、この分だと肺へも転移しているな、即刻入院しなさい」

 医師は事もなげにそういいました。この場合の再発は、90%以上肺への転移があるそうです。医師の言葉に私は、再び深く暗い奈落の底にたたき込まれるようないでした。が、亜紀は違いました。

「交通事故で即死というんじゃなくてよかった。また戦うことができるもの」娘の言葉に、目の覚めるいでした。いま一度、真剣な唱題に励む以外にない!

 肚はすぐ決まりました。毎日どれほどの唱題をしたことでしょうか。“御本尊様、娘を助けてください、不惜身命で、この命、すべて広布のために使い切っていきます。お願いします!”

 すがるような題目でした。

 病との闘いが再度始まった矢先、朗報がもたらされました。医師は「実に運がいい」といっていました。肺への転移がなかったのです。ガンは足に凝り固まっていました。

 再発を宣告され、それでも自宅で闘う娘に決定的な痛みとしみが襲ったのは、再発宣告を受けてから4か後のことでした。

 娘は畳をかきむしり、私に爪をたて痛みをこらえていましたが、とうとうあまりのつらさに入院を決しました。そして、身の毛もよだつようないが脳裏をかすめました。母娘で死ねたらどんなに楽だろう。元で死魔のささやきを聞いたようにいました。

「いっそ電車に飛び込みたい……」

 ぽつりとつぶやく私に、亜紀は鋭い言葉を投げかけたのです。しいのなかでです。

「冗談じゃない! いま宿命転換しないで死んだら、来世でまた同じことのくり返し。私は絶対にいやよ」

 ああ、私は何を考えていたんだ。ゾッとするいでした。死なせてなるか! 切らせてなるか! 唱題の量は日増しにふえていきました。とうとうのどから血を吐くほどでした。

 いとは逆に、娘の足でガン細胞はどんどん増殖していきます。「このままだと1年の命も保証できない。切断したほうがいい」。医師の言葉は切迫したものでした。

 娘が片足になる。胸のはりさけるいです。代われるものなら代わってやりたい。しさのなかで開いた御書の次の御文がなければ、私は弱い生命の起こるのを防げなかったかもしれません。

「大地はささばはづるるとも虚空(おおぞら)をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず」(1351頁)

 私の生命にぐんぐんと力がわき起こってくるのです。何度も何度も拝読しました。

 私の姿を見て、亜紀は「どんな姿になっても、この母に返しするまでは死ねない。必ず生き抜いてみせる」とのいで、切断手術を承諾したようです。

「早くよくなってください、待っています」

 池田先生から見事な花束と激励のメッセージが、数日後に届きました。私たち母娘は流れる涙をどうすることもできませんでした。同志の方々の真の題目に支えられ、61日、手術は無事に終わりました。片足になったわが娘の姿に、立つこともできない私でした。

「ママ、ありがとう。私にはまだ片足がある。障害をもっても、まで障害者にならないからね。大悪起これば大善きたる、足を切ったことに悔いはないからね!」

 亜紀はこういいきって、私を励ましてくれました。


すべてかなった願い


 こうした私たちの闘いのなかで、亜紀の担任であった大和田先生が入信されました。

「16歳の少女が、自分がガンと知りながら明るく力強く生きていることに動しました。教師であるいまの自分が彼女にしてあげられることは信することしかない」とわれたそうです。

 手術後、痛みは全くなく、4日後には車椅子で散歩するほどの回復ぶりでした。義足も、すばらしい技術者の方が作ってくださいました。再発から8か、高校2年の2学期から、友人の待つ学校へ再び通えるまでになったのです。

 駅から学校までの道路に急坂(きゅうはん)があり、義足では通えず、タクシーでの往復です。あるとき、校長先生が娘の姿に目をとめられ、義足でしかも母子家庭の娘と知り、驚かれ、なお明るい娘の姿に激され、授料の免除や、奨学金の適用を申請してくださいました。その上、個人的にはタクシー代まで、お小遣いとして毎くださったのです。

 こんなにすばらしい輝くような人たちばかりに囲まれ、私たち母娘は本当に幸せでした。

 授の遅れた娘ですが、進級も卒も異例中の異例でなんの問題もなく決まりました。娘は池田先生のもとで勉強したいと、創価大学への進学にいがつのっておりました。そんなとき、同じ障害をもつ多くの同志の方から「亜紀ちゃん、創価大学へ行って私たちの希望となってください」との励ましを受けたのです。池田先生が「待っています」といわれたのは、このことであったかもしれない――。亜紀は、高校3年の夏休みから固い決で、創価大学をめざしたのです。そして再び池田先生から「一生涯希望と努力の栄冠の人に」との揮毫(きごう)をいただきました。亜紀のに100倍の勇気がわき起こったのです。

 受験は3学部でした。結果は、すべて不合格でした。「今年だから、入学する義があるのに来年では価値がない」娘はそう語り、落胆していました。そんなとき、高等部の先輩が「最後まであきらめないで! 補欠に賭けなさい」と激励してくれたのです。「ああ、まだその手が残っていた――」この一言で、亜紀は目の覚めたように再度、御本尊の前にすわり直し「使命があるなら、どうか創大へ行かせてください」と唱題を繰り返しました。そして10日後。「『エイブンノホケツニパス』ソウダイ」との電報が届いたのです。第一志望の学部でした。喜びで泣きくずれる亜紀を強く抱きしめ、私も泣きました。

 そして、京王線沿いの募集1戸という都営住宅にも同時に入居が決まったのです。創価大学まで京王線1本で行けることになりました。

「願いとして叶わざるなし」のままに、すべての願いが叶ったのです。

 今年は手術から3年、娘の底抜けの明るさにどれほど信を教えられ、救われた私でしょう。

「私は片足になっても、この末法に生まれたいと願って生まれたの。ママのせいじゃないのよ」

「自分はピクニックやサイクリソグに行くために生まれて来たんじゃない。題目を唱え、広宣流布するために生まれてきたの」

 ことあるごとにこう語る娘です。この娘がいたからこそ、生きてこれた。これからも生きていける、生命ある限り、広宣流布のお役に立っていく覚悟はできています。

 亜紀は「もうこれからは大丈夫」と医師の太鼓判ももらいました。

「唱題と活動してるときのお母さん、大好き!」

 といってくれる娘と二人三脚で、どこまでも信ひと筋でせいいっぱい毎日をがんばっていきます。義足がすり切れるほどに――。


【『輝け! ふれあい教育』聖教新聞社編(1987-11-18発行:絶版)】

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