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1988-03-26

兵庫広布35周年記念幹部会


 遠いところ、また、ご繁多のところ、わざわざご参集され、本当にご労様と申し上げたい。

 今回、私は尼崎に来る予定ではなかった。が、ぜひとも尼崎の皆さまとお会いし、久方ぶりに語り合い、これまでの御礼を種々申し上げたいとのいが募り、昨日、予定を一日繰り上げ、白浜から帰阪した。今日、このように願が実り、私は本当に嬉しい(大拍手)。

 7年前の3会長勇退の約2年後であるが、私は尼崎文化会館を訪れ、記大会に出席した。だが、内外の情勢から、うようにお話もできず、十分に皆さま方を激励することもできなかった。それが、私には長い間、大きなの悔いともなってきた。

 今日は償いの味も込め、前回を補ってあまりあるように、ゆっくり、たっぷりと(大笑い)、お話させていただきたい(大拍手)。


1988-03-26 尼崎池田文化会館

1988-03-25

安田富男


【騎手(40歳/当時)】


安田氏は、前人未到の中央全10競馬場開催重賞制覇を成し遂げ、引退。現在は競馬評論家として活躍。


「どんな馬だってね、ほんとは精いっぱい走りたいとってる。だから、馬の個を生かす乗り方をしてやんなくちゃ、勝てっこないのよ」


 中央競馬会の騎手。20歳の初騎乗から数えて、20年のキャリアのあるベテランだ。


「昔は、おれも漠然と馬に乗ってた。だけど、宗教やるようになって変ったね。馬のことも考えて騎乗するようになったんだ」

 おれが信しているのは、創価学会。入ったのは昭和28年(1953年)、6歳のときだ。自分の志で入ったわけじゃない。願いが叶うからって、オフクロがいっしょに入れただけの話さ、最初はね。


 だけど、おれの頭のなかにある最初の宗教は天理教よ。オフクロもオヤジもはじめは天理教だったんだ。覚えているのは、白いご飯のことだな。おれのガキの頃はさ、白いご飯なんてめったに食えなかったんだ。白い飯は天理教の神さまに持ってくっちゅうんだよ、オフクロが。そうやって持っていかれちゃったら、おれたちには晩飯がないんだよ。しょうがないから、その辺の畑からサツマ芋をかっぱらって食ったもんだった。なんで、こんな馬鹿らしいことをしなくちゃならねえんだって、いつもってたよ。なんたって食い物の恨みってやつだからさ、いまでも忘れらんないね。


 オフクロがいうには、「こうすればお父さんが真面目になる」ってことでさ、子どもにしてみりゃ、そんなもんかなと我慢するしかなかったのよ。オヤジはたいした酒飲みで、働きもせず、競馬ばっかりやってて、といっても馬券のほうだけどさ。家に帰ってくりゃ、よく暴れていたのよ。ひもじさより、そっちのほうが恐かったね。なに、昔のことだから、食いもんぐらいはその辺の木にでも登れば何とかなる。いきなり頭をぶん殴られるよりは、腹空かしてるほうがまだマシだって、子どもってたね。


 ある日、オフクロが創価学会に変ったんで、そいで、オヤジが気違いみたいに暴れちゃってね。「なんで、おれに断りなしに宗旨変えやがったんだ」って、オフクロの髪をつかんで家のなかを引きずりまわすわ、もうムチャクチャよ。


 どうしてあんなに乱暴したんだって、ずいぶんあとになってオヤジに聞いたことがあるんだ。そしたら、「もう少しで(天理教の)分会長になれるとこまでいってたからだ」っていってた。分会長になれば、金になるんだってさ。上納金を集めて、そのうちいくらかは分会長の活動費になるってことでね。まあオヤジのいうことだから、ほんとのことはどうだかわかんないけども。


 オフクロが創価学会に入ったきっかけは、おれのすぐ下の弟が全身火傷という目にあったからなんだ。こいつはかわいそうなやつで、後で交通事故で死んじゃったんだけどね。とにかく金がなかったんだなあ。全身火傷だっていうのに、薬箱にあった軟膏を塗ってやることしかできなかったんだから。ヒィーヒィー泣き喚く弟のが、まだにこびりついてるよ。


 そういうところに、「創価学会で信すれば、必ずよくなる」、「一生懸命拝めば、子さんは助かる」っていわれて、オフクロはその気になったんだろう。そのせいかどうか、入信して2〜3週間もしたら、ただで診てやると医者が現れて、どうにかそのとき弟は死なずにすんだんだけどね。


 天理教から創価学会に変るというのは、おれにとっても切実だったさ。「ご飯もってくの」って、オフクロに聞いたもんだよ。「持ってかない。ただ拝むだけでいいんだよ」っていうから、こりゃあ、いいなあとったね。オフクロにしても、弟のヤケドを直す(ママ)のにお布施が必要か必要じゃないかというのが、入信のいちばんの理由だっただろうな。


 うちじゅう創価学会になって、おれも少年部という子どもの集まりに顔を出すようになったんだけど、信しようなんて気は全然起きなかったね。四つ年上の兄貴がその集まりの幹部をやってて、行かないとうるさいから行ってただけのことさ。まあ、幹部の弟だということで、でかい顔してられるということもあったし。


 かなりワルだったよな、おれは。勉強なんか全然しなかったわ。小学校3年のときから、学校になんかろくに行かないで遊びまわってた。自分だけじゃなくて、友だちにも「学校なんてサボレ、サボレ」ってけしかけて、15〜16人も子分を引きつれて団体で動いていたよ。そんなだったから、卒するときになって、出席日数が足りなくて職員会議が大モメにモメてさあ、おれはなんとか卒できたけど、子分のうちの3人は卒できなかったんだから。


 そういう遊びのなかに、競馬場があったわけさ。当時おれたち家族が住んでいたのは船橋(千葉県)で、公営競馬場が近かったんだ。小学校6年ぐらいだったな、寝藁をひっくり返したり、馬の背中に跨ったりするのが面白かったのよ。そんなことやって、2〜3日遊んでたとき、函館孫作さんという、公営では有な調教師の人に見つかって、こっぴどく叱られちゃってさあ。「おまえ、身体が小さいからジョッキーはどうだ。やってみる気はないか」っていわれたわけ。函館さんはすっかりその気になっちゃって、オヤジ、オフクロを説得しにうちまでやってきたのよ。


 金も稼げるからっていうから、おれも乗り気だった。ただ、公営競馬っていうのが、ちょっと気に入らなかったんだな。なんか、ソフトボールみたいだろ。どうせジョッキーになるんだったら、ほんとの野球の中央競馬会のほうがいいってうじゃないか。なんとかならねえかなと考えてたら、兄貴が「学会に中央競馬会の調教師さんがいる」って教えてくれて、その人がいまおれの師匠になる加藤治郎さんだったってわけよ。


 もし、競馬場で遊んでなくて、創価学会とも関係なかったらって考えると、ちょっとゾッとするな。とんでもないところへ行ってただろうな、きっと。あの頃、うちの近所にヤクザの親分が住んでてさ、カッコいいんだよなあ。銭湯なんかでいっしょになると、刺青に憧れてよー、ハッハッハッ。ああいう世界でのほほんとやってさ、刺青を覗かせて威張って歩いてさ。まず間違いなく、おれもああいうふうになってたとうわ。


 まあ、学会さまさまってことになるのかもしれないけど、当時は知ったこっちゃない。相変わらず、信しようなんて気はこれっぽっちもなかったね。学会になんか背中向けっぱなしだった。


 そいで、ジョッキーになって2年目の昭和44年の9に、オフクロがひょっこりやってきたのよ。「富男、ちゃんと信してるか」ってね。冗談じゃないよ。競馬会に入って、加藤さんのもとで修してきた何年間かは、、お題目をあげないと飯食わしてくれないから、いやいややっていたさ。だけど、ジョッキーになって独り立ちしたら、やるわきゃないよ。ジョッキーってのは、金と暇がたっぷりあるからさ。おかしくって、信なんてやってらんないよ。遊んでるほうがずっといいって。


 オフクロにも、そういったわけなんだ。そしたら、「お前に信の凄さを教えてやる」っていいはじめてさ。どうするんだって聞くと、「お前の乗る馬を勝たしてやる」っていうから、「へっ、こりゃいいや」ってわけだ。内では「バカいうんじゃないよ」ってってたのよ。でも、勝てなくても、もともとだからさ。


「じゃあ、拝んで勝たしてくれよ」っていうと、「そうなったら、真面目に信するか」ってオフクロもしつこいんだよ。「わかった、わかった。勝たしてさえくれりゃあ、真面目にやるよ」って返事しといたんだ。


 ところがオフクロがそういった週から、ホントに勝ちだしちゃったんだ、これが。2〜3週勝ちが続いているあいだは、まだ「偶然てのは重なるもんだ」なんてニヤニヤしてられたのよ。それが4週、5週となると、「おい、おい、どうなってんだ」って不安になりだしてさ。勝ち続けてると、この次は負けるんじゃないかって、恐くなってくるんだよ。オフクロのところに電話して、「拝んでる?」なんて聞いたりするわけだ。「拝んでるよ」っていわれると、また勝てるって安してさ。


 あとでわかったんだけど、その頃オフクロが家に帰ってくるのは、毎晩12時過ぎだったって。夕方まで仕事して、それから布教活動にまわってさ。それから家に帰ってきて、3時間も拝んでたっていうんだぜ。毎晩だよ。一にお題目あげてたって、信じられるかい? おれのほうは、「拝んでる?」って電話するだけで、自分じゃあ何もやってないんだ。


 結局ね、9から12まで、毎週毎週勝ってたような気がするね。この年は、なんと26勝もしてるんだ。2ケタ勝つってのは、並大抵じゃないってのにな。


 そいで、オフクロとの約束通り、おれが真面目に信するようになったかっていうと、大違いだ。ただもう遊び癖に拍車がかかっただけさ。勝ちゃあ勝ったで、金はたっぷりあるから、そのぶん酒と女に注ぎ込んじまうだけのことよ。


 デビューした年が14勝だったんだよ。それで、2年目が26勝だろ。マスコミは、ワッと持ち上げてくれるしさ。おれにしても、これだけやれたってことは、安田富男は馬の背中に乗ってさえすりゃ仕事ができるんだって舞いあがっちゃったよ。夜遊びが過ぎて、の調教にも起きられなくても、「ま、いいや、いいや」ってことになってさ。それが度重なるだろ。マスコミからも「天狗になってる」って叩かれるようになったのは、時間の問題だったね。


 そうなりゃ、勝てっこないわ(笑う)。確か翌年の45年が5勝で、そいで46年が3勝、47年が7勝か……、見事にズルズルーッと後退よ。ところが、それでも遊び癖ってのは抜けないのよ。


 おまけに、金なんて入ってきたそばからパッパッと使っちゃうから、気がついたときにゃ、借金の山だ。そうだなあ、700万ぐらいあったのかなあ。仕事の関係者からもあらかた借りまくってたからさ、仕事場に行けば、「金返せ、金返せ」の大合唱で、わざわざ債鬼の群れのなかに飛び込んでいくようなもんさ。馬に乗るどころの話じゃなかったよ。


 にっちもさっちも行かなくなって、オフクロに泣きついたんだよな。46年の暮れだったよなあ。一度裏切ってるからさ、オフクロだって色よい返事はしてくれるわきゃない。「金はあっても、あんたには絶対に貸さない。あんたは金が身につかない命だから、まずそこを直さなきゃいけない。裸になって、もう一回やり直しな」って、きついことをいわれちゃったよ。


 暮れだったろ。このままじゃ年越せないって、家財道具を全部売っ払ったのよ。大晦日の夕方に質屋のトラックが来て、あの頃人気のあったパイオニアのセパレートステレオから、冷蔵庫、テレビ……、全部持ってったわ。一流メーカーのもので揃えといたっていうのに、一切合切で10万にしかならなかった。借金返そうたって、焼け石に水だよ。


 もう一回、オフクロに電話したんだわ。そしたら、正に来てくれたね。そこまではいいんだけど、金は貸さないっていうんだな。その代わり、「拝め」の一点張りだ。おれも頭にきて、「拝んで、金が入ってくるか」って怒鳴ったよ。そしたら、「おまえはものごとから逃げよう、逃げようとするからいけない」っていいやがった。「仕様がねえだろ。騎手なんだから、逃げるのだって、商売のうちだ」って馬鹿をいったら、ジーッとおれの顔をにらみつけてさあ。


「人間には、ものごとにぶつかっていく命ってものがある。それをいま『南無妙法蓮華経』で出さなきゃ、おまえは絶対に立ち直れないよ」と、きたね。


 それからが大変だ。なんと3時間、拝まされたよ。本は逃げてえ、逃げてえという気持でいっぱいだったけど、拝めば金を出してくれるとったから、拝んだね。そう読んでさ。


 ところが、「拝んで、ぶつかっていく生命力がついたから、これから金借りた先を一軒ずつまわって、待ってもらうように頼んどいで」。たまんない台詞だったぜ。行けるかっていうの。いままでさんざん逃げまわってきたのに、そんな真似した日にゃ、飛んで火に入るナントヤラだよ。だけど、おれと違って、お題目ですっかり生命力がついちゃってるオフクロは、引きさがりゃしないんだ。


 しょうがないから、いちおう外に出て、その辺をグルッとまわって帰って、「駄目だったよ」って芝居を打ったのよ。そしたら、「謝りに行って、こんなに早くすむわけがない。行かなかったんだろ?」ってあっささり見破られて、「生命力がついてんだから、大丈夫だ。ひとりで行けないんだったら、あたしがいっしょについていってやる」って、馬丁さんの家へ引っ張っていかれたんだ。


 おれはオフクロもいっしょに謝ってくれるのかとってたら、玄関の前で立ち停まって、「ここで待ってるから、『私をジョッキーとして殺したくなければ、借金の返済を待ってください』っていっといで」って、おれの背中を押すのよ。そんなこといったら、ほんとに殺されるんじゃないかとおれはったね。


 ところが、馬丁さんは「富男。そこまでなったんなら、待ってやる」って快く受け入れてくれたんだよ。次に行ったある人なんか、「いい覚悟だ。その覚悟に免じてチャラにしてやる」とまでいってくれてさあ。ああ、よかった、よかったとったよ。


 そいで、信に励むようになりゃいいんだよな。でも、喉元過ぎれば、「拝む? バカらしい」だもんな。ホントに、おれっていう人間もどうなってんだか(笑う)。


 まあ、それでも借金は少しずつ返していったんだけどさ、そういう一件から2年ぐらいたった頃、調整ルーム(レース前に騎手が外部と接触しないように隔離される宿泊施設)に泥棒が入るという事件が持ち上がったのさ。かっぱらわれたのは300万か400万で、ほんとの犯人はかなり後になって捕まるんだけど、真っ先におれが疑われたんだよ。借金も抱えてるし、ヤバイやつだって。身から出たサビっていえば、そうかもしれないけどさ。


 仲間はみんなそうい込んでるからさ、たとえば、おれが食堂へメシを食いに行くだろ。それまで賑やかに笑いあっていたのが、シーンだ。酒飲みに行っても、おれが店のドアを開けると、みんなスーッと出てっちゃう。もう完全に村八分さ。これは寂しいぜ。あんなにガックリきたことはなかったよ。つまんなかったよなあ。


 こうなりゃ仕方がない。いよいよ、信するしかないかなって覚悟を決めたよ。遊びにも行けないし、だれも相手にしてくれないんだからさ。遊べないから、金も使わないだろ。それで、信する決を固めるために、ちょっと金かけて壇を買おうと考えてさ。


 最初に100万円の壇を買ったんだ。だけど、ちょっと傷があったんで取り換えて、次のやつも家のなかに置いてみると気に入らなかったりで、最後にこれだと決めたやつがすごいんだ。値段を聞いてたまげたね。なんたって、400万っていうんだからさ。オイ、よせよってったけど、仕方がない。買ったさ。


 そんな高いの張りこんだからさ、もう毎日、拝んだね。さま拝んでんだか、壇拝んでんだかわからなかったけど。だけど、壇で信できるのは、ひとぐらいだったね。もともと、お題目唱えるなんて年寄りくさいことが大嫌いな人間だからさ。


 壇の蓋(ふた)を閉めっぱなしにして、1年もたった頃だったかなあ。創価学会に入っているジョッキーが集まって、「赤兎馬」っていうグループができてね。おれにもがかかった。いや、かかったどころの話じゃなくて、「グループ長になれ」っていうわけよ。入信暦でいうと、おれがいちばん古手だっていうんでさ。


 これが大変よ。みんなの突き上げっていうか、反発がすごいんだわ。「長がは寝坊するし、調教はサボルっていうんじゃ、ついていけない」って。チキショーとったよ。だけど、そこでケツまくって、また村八分にされちゃあかなわないっていう頭もあるからさあ、「真面目にやるからいっしょにやろうや」っていうしかない。いったけど、しいこと、しいこと(笑う)。おれなんか、酒飲んでても、二言目には「うるせェ、コノヤロー」だろ。そういう男が、「とは耐え忍ぶものだ」なんていわなくちゃならないんだから。


 あるとき、競馬新聞の記者の人を赤兎馬に誘ったら、入ってきたんだよ。入ってもらった以上は簡単にやめるようなことになっちゃまずいから、「よし、教義を教えよう」ってわけで、「御書」を使って始めたわけだ。「御書」っていうのは日蓮大聖人が書いたもので、創価学会教典なんだけど、そんなのおれもろくすっぽ読んだことなかったのよ。向こうは大学出だからさ、漢字もおれよりは知ってるからさ。すぐに突っ込まれて、困っちゃうわけだ。


 新聞記者だから、おれの知らない本もよく知ってるんだ。池田大作さんの『生命を語る』っていう本だったかな。「読んだことある?」って聞かれてさ、おれの格だから「読んだことない」とはいえないのよ。「ああ、昔ね。だけど忘れちゃってるところもあるから、ちょっと貸してよ」ってごまかして、調整ルームでこっそり読んだんだけどさ。あとで内容を説明しなきゃならないから必死よ。まあ、笑い話みたいだけどさ、これが勉強になったね、ホントに。


 その本のなかに、命にはお金とか時間を追っかける命もあるって書いてあった。おれはさ、借金と時間に追っかけまわされてた人間だろ。それだけに、納得した。信じるに足ることだなってったよ。


 でも、根が勉強ぎらいだからさ、本読んでてもすぐ眠くなっちゃうんだ。新聞記者の彼にそういったら、「本を好きになるように拝めばいいじゃない」っていわれて、南無妙法蓮華経……って、一生懸命やったのよ。そしたら、冗談じゃなくて、本読むのが面白くなっちゃったんだよ。「おい、今度は眠れなくなっちゃったぜ」っていうぐらい、ハッハッハ。


 それから、競馬を好きになろうとって、毎日毎日拝んだね。こっちも、急に面白くなってきたね。34歳になってから、人は歳だっていったけどさ、そのときからの調教も休まなくなったのよ。識が変ったっていうか、自分の命がグーンと大きくなった気がしたね。考えてみれば、28年目ってことだよなあ。


 拝むってのは、何かにすがることじゃないって、おれはいまうのよ。目標に向かっていくために、自分に鞭を当てることなんだ。お題目を唱えて、目標をはっきりさせて、自分を夢中で走らせる。それが拝むってことだってうよ。


 目標を持つことが大事なんだ。赤兎馬でも話すんだけどさ、みんな、目標が小さいんだよな。「10年後どうなりたい」って聞くと、「幼稚園の先生」ってのがいる。何いってんだ。コノヤローだね。「10年後には何百勝してます」っていってもらいたいとうよ。なかには、「池田先生の平和を祈ってる自分になりたい」っていう人もいるね。信でいえば、否定できないことだけどさ、信ってのはそんなカッコイイもんじゃないよ。おれたちはジョッキーだろ。その仕事でいま成功しなかったら、信する味なんてないぜ。おれなんか、ジョッキーやるために生まれてきたんだしさ。


 人間はとにかく「驕慢」になりやすいよ。現状維持で、あきらめちゃうってことだよな。それを打ち破るには目標、夢ってものを持ってかなくちゃ、学会ではそう教えてるわけさ。その目標が正しいとえば、拝むことで力が湧いてくるんだよ。


難即悟達」っていう教えもあってさ、が来たときバネになるのが信ってことだけどさ。51年の夏に新潟で落馬したことがあるんだよ、おれ。そんとき、落ちながら瞬間的にいろんなことを考えたね。あ、ほかのやつが勝つな、とかさ。で、難即悟達が本当なら、ちゃんと信しているおれは、これで浮かび上がれるってったね。


 地面に叩きつけられたときは痛くてさ、南無妙……ってやれば楽になるとったりして、結局やめたけどさ、まだ未経験だったクラシックに乗れるようになる、ってことだけは信じてたね。


 クラシック初騎乗の「菊花賞」で勝ったのが、この年よ。おれにとって初馬場の京都競馬場で、馬券も大穴だった。信の力だったとうね。だから、おれはいまも信してるのよ。好きな競馬で伸びていくためさあ。


【『「宗教時代」いま日本人のココロに起っていること』米山義男編(晶文社:絶版)1988-03-25発行】

1988-03-12

ドストエフスキー


 ドストエフスキーの生涯、それはに次ぐの連続だった。逆境と悩の打ち続く人生であった。しかし、彼は決して屈しなかった。それどころか常に、が大きければ大きいほど、それを自己のかけがえない財産へと転化していった。

 彼が代表作の一つである『罪と』を執筆したのも、最悪ともいうべき状況のさなかであった。創作に当たったのは1865年から翌年にかけてである。

 その前年の1864年4に、彼は妻マリヤを肺病で亡くしている。続いて、その3ヶ後には兄ミハイルが亡くなる。ミハイルは、ドストエフスキーが常に胸中のしみや悩み、そして、喜びも打ち明けてきた深き絆の人であった。兄の死が与えた精神的な打撃は大きかった。

 その上、兄とともに始めた雑誌『世紀』に関する多額の負債が、彼の双肩にのしかかってきた。彼は、兄の家族の生活まで全部、面倒をみようとした。

 そして、雑誌を軌道に乗せるために不眠不休で働いた。しかし、借金は増える一方である。1865年には遂に雑誌は廃刊のやむなきに至った――。

 その無さは、像するだに痛ましい。しかも、自身も病気がちであった。

 妻と兄を失った孤独の中、経済的にも、肉体的にも、彼はしみ疲れていた。しかし、近代文学中の傑作である『罪と』は、このどん底の中からこそ生まれてきたのである。


 なき人生などあり得ない。大いなるなくして、大いなる人生もない。順調だけの歩みで、後世に残る不滅の事を成し遂げた人は一人もいない。

 偉大なる仕事をなす人は、人一倍、大きな悩があり、労がある。それは避けられない人生の鉄則である。

 ゆえに必要なのは、逆境をも財産と変えていける不屈の魂である。そして、何があろうとも、自ら決めた使命の道で、“本物”を徹底して追及しゆく揺るぎなき信である。

 ドストエフスキーは飢えにしみながら、『罪と』を書き続けていった。この頃、彼は知人宛ての手紙に、「この小説だけが、今の場合、私の唯一の希望です」と書いている。

 もちろん、生活の糧としての味もあったにちがいない。しかし、何より彼には、この小説が人類にとって価値ある作品であるとの自信があった。どうしても自分が書き上げなければならないという自負があった。

 その確信と使命があったからこそ、創作は逆境の闇を照らす「唯一の希望」――精神的支柱となったのにちがいない。

 誰しも人生を導く希望の光が必要である。何らかの支柱を持たずして、困な人生を生き抜くことはしい。

 様々な希望があり、支柱がある。その中で、私どもは信仰という無限の“希望”の源泉を知った。三世にわたって壊れない生命の金の“柱”を持った。

「私には信仰がある。ゆえに希望がある」――この命の底からの叫びにこそ、人生を限りなく切り拓いてゆく魂の光がある。


 1865年の11末、小説はもうほとんど出来上がっていた。一日も早く出版社に原稿を渡さなければならない。時間的にも、経済的な味でも余裕は全くなかった。

 にも関わらず、彼は何と書き上げた原稿を全部、火に投じて灰にしてしまった。そしてまた、新たに書き始めた――。

「ぼく自身、どうしても気に入らなくなったのです。新しい形式、新しいプランが、ぼくを惹きつけてしまったのです。そこで改めて、初めからやり直しました」

 彼は旧友への手紙にこう書いている。

 この、どこまでも“本物”を追求してやまない、信に徹した姿に、私は彼の偉大さを見る。容易にできることではない。この一点を見ても、彼はまさしく“本物の作家”であったとう。

 聞も利も、真実の前にははかない。人に「どう見えるか」ではない。自分が「どうあるか」である。かりに他人はごまかせたとしても、自分はごまかせない。自分自身が納得できない生き方をして、本物の人生をおくれるはずがない。

 ドストエフスキーは、インチキは嫌だとった。誰に何と言われようと、たとえ損な生き方のようでも、芸術家としての良に生きた。芸術こそ、彼の自ら決めた「使命の天地」だったからである。その時、彼の眼中には利も聞も消え去っていた。

 本日は、芸術部の代表の方々も参加されているが、芸術派もちろんのこととして、人生万般にわたる真実を示唆してくれるエピソードであるとう。皆さま方は、それぞれの「使命の天地」で、どこまでも“本物の人生”であっていただきたい。


 ドストエフスキーは、このように、ぎりぎりのしみの中にあって、毅然として進んだ。自らの中に、自らの勇気で、日々新たに「希望」と「喜び」を見出しながら、『罪と』を一行また一行、一枚また一枚と執筆していった。

「罪」そして「」――生命の本質の課題であり、また、社会の不条理とも深く関わる問である。

「罪」とは何か? 「」とは何か? 人は人を裁く権利を誰から与えられたというのか? 「力」こそ正義ではないのか? それとも「正義」は他に存在するのか? そのような現世の「力」を超えた正義が存在するなら、人はなぜこんなにも不幸なのか? 人は生まれながらにして宿命づけられた存在なのだろうか?

彼は、根本の課題から目をそらなさい。真っ向から取り組み、しみながら、自らの血を振り絞るようにして不朽のを書き残していった。売らんかなのみの作家たちとは、あまりにも違う尊き姿である。

 彼の労の結晶は、1866年1から12にかけて、雑誌『ロシア報知』に連載された。この年、彼は45歳。発表と同時に、読書界に一大センセーションを巻き起こした。連鎖中、どこに行ってもこの小説は人々の話題の中であった。そればかりでなく、ヨーロッパ中に好評の旋風は広がっていった。

 日本には1892年明治25年)、作家・翻訳家で文芸評論家の内田魯庵によって、英訳から部分訳されたのが最初の紹介である。

 以来、日本の近代文学に多大な影響を及ぼした彼の作品の中でも、最も広く読まれてきている。


 戸田先生は、よく私ども青年部に、「偉大な小説を読め。徹底して勉強せよ」と厳しく指導された。「御書の拝読は当然として、その上で、人類の偉大な的遺産は、みな法に通じ、法を証明しゆく糧となる」とも言われていた。

 内容のない低俗な雑誌ばかりを読んでいれば、「青年として、あまりにも情けない」と嘆かれた。その先生の慨嘆の姿は、今もって忘れることができない。

 今は時代も違って、何かとせわしなく余裕がないかもしれない。また、必ずしも古典を勉強しなくても済む時代かもしれない。更には、社会そのものが、“本物”を大切にしない退廃的傾向を増しつつあるといってよい。

 そういう味では、青年が真っ直ぐに本格的に成長していくのが困な時代であるという側面もある。しかし、だからといって、時流に流されてしまえば何もならない。また、創価学会は、広布のため、人類のために、何としても“本物の人材”を、“一流の人物”を育て上げる以外にない。

 当然、人それぞれの生き方がある。多様を大事にしなければならない。誰もが残らずドストエフスキー全集を読破しなければならないとは、絶対に言わない(爆笑)。

 しかし、私は戸田先生の指導通り、懸命に勉強した。それが、今全て血肉となっている。本当にありがたいとっている。

 その体験の上からも、諸君は、自分自身のために、それぞれの立場で、それぞれの工夫によって、これだけは負けないという徹底した本物の実力を養い、蓄えてほしいと私は期待する。


 さて後年、次々と傑作を生み出した彼の青春時代はどうであったか。これまた、極限ともいうべきとの戦いであった。

 正義強き青年であった彼は、必然のように、当時の社会主義の洗礼を受けた。ペテルブルク(現レニングラード)という大都会にあって、ロシアの虐げられた人々の運命に無関ではいられなかったのである。1847年の初め頃から、革命家ペトラシェフスキーのサークルに出席し始めている。

「民衆は、なにゆえに、かくも不幸なのか」「善良な人々が、どうして、このようなどん底の悲惨にしまなければならないのか」――青年として、彼は問わずにはいられなかった。叫ばずにはいられなかった。

 民衆の不幸を眼前にして、手をこまねいているのは卑怯だとった。その不幸の原因を探求し、彼なりに政治革命の道を選び取った。「誤れる社会を革命しようではないか」「人々が幸福を満喫できる世の中をつくり上げようではないか」。彼の若き情熱はたぎった。

 私どもも、戸田先生のもとで、民衆のために立ち上がった。「人類の不幸の根源を断ち切ろう。それには宗教革命しかない」。それは、青年としてのやむにやまれぬ正義の叫びであった。

 現在も、日本には、また世界には尚更、不幸に喘ぐ多くの民衆がいる。“飽食”ので呼ばれる時代の安逸に流され、その現実から目をふさいではならない。

 青年として、ただ自己の安楽のみを求めてゆくような小さな生き方であっては、深き価値も充実もない。ひいては、何のための人生かわからない。

 青年よ、正義によって立て。革命の炎を燃やし、崇高なる理に生きよ――それが戸田先生の願望であった。また、大聖人の法の精神である。その叫びを受け止め、身に体した時にこそ、諸君の人生は、果てしない舞台で、無限の力を発揮し、無量無辺の輝きを放ち始めるにちがいない。


 1849年4ドストエフスキーたちは、国家体制転覆を謀る政治犯として逮捕される。ペテルブルク郊外のペテロ・パウロ要塞監獄に8ヶ間拘留。その後、裁判に連れ出される。

 裁判の結果は「銃殺刑」。ドストエフスキーは、同志と共に、セミョーノフ練兵場で銃口の前に立った。1849年1222日、28歳の時である。

 彼は後に、『作家の日記』という作品の中で、この時のことを回している。

「我々、ペトラシェフスキー・サークルの同志は、処刑場に立ち、下された判決を聞き終えたが、後悔のはいささかもなかった。

 もちろん、私は、全員については証明できない。しかし、あの時、あの瞬間、全員とは言わないにしても、少なくとも我々の大多数の者が、自分の信を否定することを恥辱とった。そう断言しても間違ってはいないとう」と。

 彼らは死刑の判決にも、いささかもたじろがなかった。「よろしい、死にましょう! 何ものも私の信をまげることはできない!」と堂々と胸を張っていた。

 信への「殉教」――これこそ真実の青年の生き方であると私はう。社会のため、民衆のためには、我が身を犠牲にして、いささかも顧みない。にも莞爾として、また、炎のごとく進んでいく――。

 何と崇高なことか。何と偉大な人生か。いかなる栄誉の勲章よりも、いかなる栄華の地位よりも、尊く立派である――と、私は強い強い印象を受けた。


 ドストエフスキーたちの死刑執行は、寸前で取りやめになった。実は既に減一等のシベリア流刑と決まっていたのである。それを、皇帝の慈悲によって死刑を免じたのだと強調するために、模擬死刑という芝居が打たれたのだった。このような人の人生をもてあそぶ権力の傲慢は、いつの時代も変わらない。

 先ほど引いた『作家の日記』の続きに、彼はこう記している。

「最初に我々全員に対して読み上げられた銃殺刑の判決は、ふざけた冗談ごとではなかった。判決を受けた者たちはみんな、その判決が執行されるものだと信じた。

 そして少なくとも10分間、死を待ち受ける残酷な、底なしの恐怖の時間を耐えた。この最後の数分間に、我々の中のある者たちは、本能的に自己の内に沈潜し、まだあまりにも若かったその生涯を一瞬のうちに隈(くま)なく点検した。

 そして、いくつかの重しい事実を見出して慙愧したかもしれない(どんな人間にも、ひそかに良のトゲとなっている事実があるものである)」と。

 人生を顧みて、全く後悔がなかったわけではないというのである。それは、その通りである。

「しかし」――と彼は書いている。

「しかし、今この判決を受けることになった事件、我々の精神を捉えたその、その考えは、我々にとって、後悔を要しないものであるばかりか、かえって、何か我々を浄(きよ)めてくれるもの、我々の多くの罪がそれによって赦(ゆる)される殉教である、とわれた」と。

 殉教によって清められる生命――この文章の元は甚だ深いと言わざるを得ない。

 政治への殉教ですら、彼はこう実している。まして、妙法という「生命の大法」への殉教は、正義の中の正義である。真実の中の真実の生き方である。それは宇宙大の功徳に連なり、自身の内奥の宿命を転換する成への大直道である。無量の先祖と、無量の子孫までも回向できる。

ゆえに、青年諸君は断固として、信の道を一生涯貫き通してほしい。

 かつて、国内のある超一流の著な方と対談した時、その方が言われていた。

「色々な主義主張はある。言論もある。しかし、現実に、自分の信に殉じ、迫害を恐れず堂々と死んでいける人間が今、日本に何人いるか。おりはしません。私は事実をよく知っています」と。

 その方は、その味から、私自身の生き方を深く見つめ、評価してくださっていた。

 私は戦ってきた。御聖訓のまま、戸田先生への青春の誓いのままに、まっしぐらに走りに走ってきた。ありとあらゆる迫害にも、困にも、陰謀、裏切りにも、一歩も退(ひ)かず進んできた。

 永遠から見れば、また大宇宙から見れば、それらはすべてさざ波に過ぎない。ただ人類の未来のために、大法の流布はなしとげなければならない。そのために、広布の未来をどうすべきか。学会の将来をどう開くか。その一点にのみ、いをこらし、祈りを定め、生命をくだいてきた。

 信に殉じた我が青春と人生に悔いはない。に偽りなく進んだゆえに、言葉に言いつくせぬ福徳をいただいた。“得”をえた。純粋なるゆえの“損”もあったが、比較にならぬ生命の宝を得た。

 ドストエフスキー達のは、法と比べれば部分観に過ぎない。それでも、あれだけの決で戦った。いわんや大法流布の使命深き諸君である。高貴なる立場にふさわしき、高貴なる決の人生でなければならないと私はう。


 さて、私ども創価学会の歴史を振り返ってみても、昭和18年7、初代会長・牧口常三郎先生、第二代会長・戸田城聖先生が不当な国家権力によって入獄されている。そして、牧口先生昭和19年1118日、東京拘置所でその生涯を閉じられた。

 まさに、牧口先生は、妙法のために、その尊い生涯を貫かれた殉教の人であった。大聖人の門下として、これほどの素晴らしき人生の生き方はない。護法のために不惜身命の生涯を全うされた牧口先生を、初代会長としていただいている私どもは幸せである。


 牧口先生は、拘置所から家族に送られた手紙に次のように記されている。

「大聖人様の佐渡のおしみをしのぶと何でもありません。過去のが出て来たのが経文や御書の通りです。御本尊様を一生懸命に信じて居(お)れば、次々に色々の故障がでて来るが、皆直ります」と。

 また、戸田先生は、入獄されたことに対して、「法のため、牧口先生は私を獄中にまでお供させてくださった」と謝されていた。冗談でもいえる言葉ではない。

 牧口先生戸田先生が、広宣流布のために、自らの命をかけて創立し、築かれた学会は、大聖人の御精神にかなった重大な使命と義をもつ仏勅の教団である。そのに不惜身命の広布の実践で応えていこうというのが後継の道である。にも関わらず、この大ある学会に対して、自分の慢とエゴから、反逆したり、私どもをしめたりすることが、御聖訓に照らし、どれほど罪の重いものか。後継の諸君に、本日は明確に申し上げておきたい。


 ところで、政治犯で逮捕されたドストエフスキーは、1850年1から54年2までの4年間、シベリアのオムスクの監獄に送られる。

 更に刑期を終えたあと、59年3までの5年間、セミパラチンスクのシベリア第七守備大隊で兵役につく。

 しかし、彼はシベリアで過ごした、29歳から38歳までの人生の盛りともいうべき9年間を、決して無為にはしていない。

 つまり、監獄では当然、労役と食事と睡眠を強制される。しかし、その強制的な規則正しい生活によって、彼は健康を回復し、身体を鍛えた。また、獄中等で出会った人々の様々な人生経験を知り、その後の作品に生かしていった。

 ドストエフスキーは、兄ミハイル宛の手紙の中で、次のように述べている。

懲役暮らしの中から、民衆のタイプ、その格をどれほどたくさん持ち出してきたことか! ぼくは連中と一緒になっていましたからね。だからぼくは、彼らのことは相当深く知っているといます。

 浮浪人や強盗どもの身の上話を、そもそもあらゆる裏街道、人生の悲惨な暮らしのことをどれほど聞いたことか。何巻もの厚い本になるくらいありますよ。実にすばらしい連中でした。要するに、ぼくにとっては、時は空しく失われたのではなかったのです」

 ドストエフスキーは、シベリアでペンを執ることは許されていなかった。だが、その逆境の中で、全てを創作のための財産へと転換していったのである。


【第2回全国青年部幹部会 1988-03-12 創価文化会館

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