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1989-01-21

ミルトン


『失楽園』は、イギリスの詩人ジョン・ミルトンの代表作であり、イギリス文学の最高傑作の一つと讃えられる。

 詩の原題は、『Paradaise Lost』(パラダイス・ロスト)。ミルトンはこの作品を、過労による失明、迫害と投獄、持病の痛風等々の逆境の最中(さなか)にあって完成させた。全12巻(初版は10巻)、1万行を超える大作である。

私も若き日に、気に入った個所は暗記するほど徹して読んだものだった。座談会の帰り道、きらめく夜空を見上げながら、その一節一節を吟じつつ歩いたことが懐かしくい起こされる。




 彼が勉学の締めくくりとしてヨーロッパ大陸への旅に出たのは29歳の時であった。フランス、イタリアで学者、文化人と出会い見識を深めつつ、新たな創作欲を燃え上がらせていった。

 中でもイタリアでは、幽閉中のガリレオに出会っている。当時、ガリレオは地動説を唱えたことによって宗教裁判にかけられ、囚われの身であった。偉大な先人が行動の自由、言論の自由を取り上げられている姿に、青年ミルトンの「正義の」は炎と燃え上がった。彼の胸中には、権威をカサにきた理不尽な仕打ち、真理への弾圧に対する憤りが強く刻まれたにちがいない。

 この旅行の途中、イタリアのナポリを訪れた時、ミルトンはイギリスの内乱の報に接する。彼は祖国で市民が自由のために戦っていることを知り、自身も戦列に加わるため、旅行を中止して急遽(きゅうきょ)、帰国するのである。

「いざという時にいかなるで、いかに行動するか」――ここに人間の真価が問われる。広布の世界においても、最も困な時に、「法」のため、「同志」のために、決然と立ち上がる人が真実の勇者なのである。


 この内乱は、1628年にイギリス議会が国王チャールズ1世に「権利請願」を提出したことに端を発する。その後も国王は国教主義を強化して、清教徒を圧迫。更に、議会を無視して重税を課していったため、国王と議会の対立が激化し、ついに「清教徒(ピューリタン)革命」の勃発となるのである。

 1642年にクロムウェルが清教徒を中として兵を起こし、この議会軍が王党軍を打ち破って、1649年に共和政を樹立するが、まだ政権の基盤は不安定であった。

 この間、帰国したミルトンも「ペンの剣」を持って立ち上がった。その後20年間、彼は詩作活動ではなく、議会側の論客として散文をもってあらゆる“自由”のための言論運動に身を投じていった。

 彼は、高位聖職者が支配する主教制度の廃止を主張し、イギリス国教会を批判して「宗教の自立」を訴えた後、「言論・出版の自由」を訴える論文を発表した。また、共和政の発足に際しては“権力は常に人民の側にある”と論陣を張っている。


 やがて、共和政府の外国語秘書官となり、ラテン語を駆使して活躍していたミルトンにも運命の暗雲が訪れる。

 1652年、彼が43歳の時に両目を失明するのである。長年の過労によるものだった。そしてこの年、二度目の妻と、長男を相次いで亡くしている。

 更に、チャールズ1世の処刑後は、国王派の反撃によってミルトン自身も指しで攻撃されたが、彼は筆を折らなかった。

 両目から光を奪われても、彼のが闇に覆われることはなかった。

 失明後、彼が友人に宛てたソネット(14行詩)には、自分が勇気も希望も失わずに真っ直ぐに進んできた理由を、次のように綴っている。

「それは、

 自由擁護のための、過労ゆえに、失明したという

 自覚なのだ。全欧の津津浦浦で話している高潔な績だ」(宮西光雄訳)と。

 自分は最後まで、「自由のため」「人民のため」との信に生きて、失明したのだ――逆境のどん底で彼を支えたのは、この潔い「自覚」と「誇り」であり、どこまでも気高い「使命」であった。

 これこそ崇高なる“革命児気概”といってよい。


 の嵐は、更にミルトンを襲い続ける。

 1658年、再婚して1年余のキャサリンが死亡。

 同じ年、清教徒革命の指導者クロムウェルが世を去り、共和政は危機に陥る。ミルトンは多くの論文(「市民権条約」「自由共和国への近道」等)を書いて、共和政を弁護したが、1660年、チャールズ2世が王位に復し、革命派は敗北した。

 社会は一転、王政復古の時代となる。ミルトンは窮地に追い込まれる。

 逮捕状が出され、著書を焼き捨てる命令も出た。そして投獄――。しかし、彼は屈しなかった。周囲はてのひらを返したような「王礼賛」である。その中でも彼は、信を翻すことはなかった。

 ミルトン死刑は免れたものの、財産を没収される。盲目の身に経済的困窮が加わり、更に痛風にも悩んだ。娘との不和にもしめられた。何より半生をかけた革命の挫折は、深刻な打撃であった。

 しかし詩人のは、彼を取り巻く逆境の壁に、絶対に「屈服」することはなかった。現実が悲嘆と幻滅に満ちていようとも、その不屈の魂は以前にも増して「人間の使命とは何か」「永遠の真理とは何か」を探求していった。

 世間の人々から見れば、敗北して当然のようにえた彼の人生だったかもしれない。しかし、逆風が強ければ強いほど、ミルトンの理と行動の炎は大きく燃え上がった。彼は真の「勇者」であった。


 ミルトンの筆舌に尽くせぬ労の末に完成した『失楽園』も、ロンドンのペスト流行などのため、出版のめどが中々立たなかった。

 ようやく刊行されたのは1667年。原稿完成から2年ほど後のことである。

 ちなみに今や世界に冠たるこの叙事詩も、出版当時、彼が受け取った収入は、刷り増し分を含めて、わずか10セントであったと伝えられている。

 こうした中、彼は痛風で死の床につくまで、詩人としての自己の使命に生き切った。我が人生の課題と真っ向から対決し続けた見事な一生であったといってよい。


【第13回本部幹部会 1989-01-21 創価文化会館