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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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1989-06-26

随自意の声で名指揮を


 本日は、まず指導者の要件の一つである「」について少々触れておきたい。「事をなす」との義については、これまでも述べてきたし、更に、経論の上から、また、現代諸科学の上から、折を見てきちんと論じておきたいとっている。

 法では、この娑婆世界を「得道の国」と説く。「」を訊いて成する国土とするのである。

 目は使わない時には、つぶる。口も閉じる。しかし、はいつも開いている。人間に向かい、宇宙に向かって――。

 そのにいかなるを届け、入れてゆくか。そこに、あらゆる指導者のもあり、使命もある。また、勝利へのカギもある。


は第二の顔である」。これは、フランスの作家・ボーエルの有な言葉である。

 にも、それぞれの“相”がある。の特徴を分析した「紋」は、「指紋」と同様に個人差があるとされ、犯罪捜査にも利用されている。

 また、西洋中世の言葉に「人物を知るのに、ほど確かなものはない」とある。

 は鏡であり、その人の生命状態、境涯がくっきりと映し出される。はある味で、顔の相以上にその人の真実を雄弁に語る。

 話している人の生命力、説得力、成長ぶり、話している内容に裏づけと確信があるかないか、策か本か、を聞けば、大体わかるものである。


 天台大師は「上医はを聴き」(優れた医師を聴いて診断し)と説いている(摩訶止観巻八の上、「病患を観ぜよ」)。

 には体調の変化も如実に表れる。発には、ほとんど全身の諸器官が関係するからである。もちろん、理状態も大きく反映される。

 ちなみに、天台大師は上中下と分けた医師の内、残りの中医と下医は、それぞれ「中医は色(しき)を相し、下医は脈を診る」(中ほどの医師は、表にあらわれた顔色や身体の様子を観察し、その他の下医は脈をとって診断する)と述べている。

 ドクター部の皆さまもいらっしゃるが、これは決して私が言うのではない(爆笑)。

 ともあれ、「」はそれほどデリケートなものである。


 の微妙さを示す、こんなエピソードを、ある人が話していた。

 森鴎外の作で有な『山椒大夫』の物語を映画化した時のことである(1954年)。

 主演は女優の田中絹代さん。彼女は、幼い姉弟、安寿と厨子王に生き別れする哀れな母親を見事に演じた。

 老い、疲れたしみの母という役づくりのため、彼女は撮影中、ずっと肉を口にせず、野菜中の食事を通した。

 撮影がやっと終わり、ホッとしてビフテキを食べに行った。その気持ちは、よくおわかりとう(笑い)。

 次は画面を見ながら「音()を入れる作である。ところが――。

「厨子王! 厨子王!」。何度やっても、溝口健二監督はオーケーしない。

にツヤがあり過ぎる。何かいいものを食べただろう!」と、見事に言い当てられた。このでは駄目だと、監督は首をたてに振らない。

 何と5時間、同じ場面を繰り返した。疲れ果てた頃、やっと許しが出たという話である。

 聞く人が聞けば、それほどは繊細なものであり、正直である。


 また、このエピソードは、何事も一つのことを仕上げるに当たっては、どれほどの労があるか、妥協のない厳しさが必要かを教えている。

 例えば幹部の指導も、何の勉強も工夫も祈りもない安易な話であってはならない。実際には内容の浅い話であっても、皆は一応、拍手をしてくれるかもしれない。しかし、それでよしと錯覚すれば、そこで成長は止まる。これが組織のもつ悪しき一面である。

 これは万般について言えることであり、「組織が偉大であるゆえに、それに甘えて、鍛えなき幼稚な人格の人となってはならない」と強く申し上げておきたい。


 ともあれ、一流の指導者は総じてがよい。明快であり、よく通る。説得力があり、人のの奥深くにしみ通ってゆく力がある。いわゆる「話のうまさ」は別にして、多くの人が納得できるの響きをもっている。

 秋谷会長や青木副会長は、その点、やはり立派とう。

 また、スピーチする場合、内容は当然として、私が最も気を配るのもである。先日もフランス学士院で講演したが、成否の大半はで決まるとを定めていた。


 勤行のも「すがすがしい」「さすがである」と言われる指導者であってほしい。勤行は御本尊感応しゆく荘厳な儀式である。それにふさわしい朗々たる響きのであっていただきたい。

 悪は地だから仕方がない(笑い)という人もあるかもしれないが、信の境涯の変化は、勤行のに最も端的に表れるのも事実である。


 様々ながある。

 お母さんのような「温かい」、非情な裁判官のような(笑い)「冷たい」。

 パッと惹きつけられる「明るい」、谷底へ落ちてゆくような(笑い)「暗い」。

「柔らかい」と「硬い」、「高い」と「低い」、「太い」「細い」、「重い」「軽い」、「豊かな」「繊細な」、「透明な」「濁った」、「落ち着いた」「迫力のある」。

 その他、黄色い(笑い)、金切り、とがった、つくり、裏、奇、蛮(ばんせい)、等々。まだまだあるとう。

 面白いことにこれらの多くは、物質の質を表す形容詞と共通している。すなわち硬さや明暗、重さ、色などを表す言葉である。

は、ある味で、一つの物質であり、物理能力を持つ”と著な演劇指導者は言う(竹内敏晴氏)。

 は、いわば肉体の一部であり、現実に波動があり、現実に力がある。

 を聞いて「腹にこたえる」「胸にしみる」「腑(ふ)におちる」などの表現も、単なる“たとえ”ではない。が自分の身体の中まで届き、入ってきた実を言った言葉である。


 人を励ます時、手で肩をたたく。それと同じく、で相手の肩をつかみ、揺さぶり、激励することができる。

 そうした真剣な、力のこもった庶民の「真」によって、今日の麗(うるわ)しい学会の世界は築かれてきた。一人また一人と、確信と勇気をもって立ち上がり、全世界への広宣流布の道も開かれてきた。

 反対に、子をしめ、幸福への直道から退かせてしまった、無責任で無慈悲な指導者のもあった。


 人の「生命を揺さぶる」。それは技術でも策でもない。まして、権威や立場とは無関係である。

 自分自身の生命の奥底から発する率直な、真実の叫びでなくてはならない。すなわち、ありのままの、強き「随自意」のこそが大切なのである。


 御書には次のように仰せである。

「人のを出(いだ)すに二つあり、一には自身は存ぜざれども人をたぶらかさむがためにをいだす是は随他、自身の(おもい)をにあらはす事ありされば(こころ)がとあらはる法・は色法・より色をあらはす」(469頁)

 ――人がを出すのに2種類ある。一つには自分では、たとえそのつもりがなくても、(相手に自分のを偽って)だまそうとするためにを出す。これは随他である。

一方、自分のいをそのまま表したがある。この場合は、自分の中のとなって外に出ている。法、は色法であり、法から色法が表れる、と。

それ自体も生命の一つの実相であり、と一体となっている。つまり、が色不二をなしているがゆえに、真実のは相手のに響き、動かしていくことができる。しかし、「随他」は、自分のを歪(ゆが)めているために本当に相手を動かす力とはならない。


 ともあれ、というものは「生きもの」である。

 例えば、元気よく話すのだが、最後は必ずが「わあわあ」と散らばってゆく人がいる。そうした人は多くの場合、実は相手と本音で触れ合うことを恐れて、一方的に「を投げ出している」だけなのである。

 また、言葉の語尾を自分の口に飲み込み、引っ込めてしまう人がいる。この人もまた、自信がなくて相手から逃げようとしている。

 両者とも、相手と確信をもって本音で語り合うことができない自分の弱さを、ごまかして話している。これは先ほど申し上げた「随他」といえよう。

 表面上、うまく相手に安房得るだけの「タテマエ社会」もある。しかし、「随他」ばかりが通用するそうした社会は、表面がどれほど立派であっても、内側から白アリが食い尽くした家のように空虚である。

 信の世界もまた同じである。組織の上でいくらうまく立ち回ろうとも、法のため、広布のためという確信と「随自意」をもたなければ、精神的に空しくなり、人間の破壊へと進んでゆく場合があるだろう。


 語源的にも、「話す」とは、実は「放す」ことに通じている。

 自分のの中のいを率直に、ありのままに、相手に向かって真っ直ぐ「解き放つ」。「随他」に対して、これこそ「随自意」であるといえよう。「私は私の信のままに、全てを言い切った。何の悔いもない」――ここに自身の「解放」がある。

 ピシッと相手に届く、「ああ、確かにこの人の言う通りだな」と、相手の胸を揺り動かしていく――それは、誠実にして確信ある自身の深き境涯から生まれることを忘れないでいただきたい。


【第18回本部幹部会 1989-06-26 創価文化会館

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