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1989-08-17

第20回本部幹部会


 本日は、長野の代表幹部の皆さまに加え、関東会、白糸会、ほたる会、インテレクト会、また、全国最高会議、白樺グループ、ドクター部、更に海外の代表等が出席されている。日頃の皆さま方のご活躍に対し、から謝申し上げ、称賛したい。


「過去」を食べて生きている人は「老人」である。「現在」を食べて生きている人は「中年」である。それに対し、「未来」を食べて生きる人こそ「若人」であり、「青年」である。

 これは年齢の問題ではない。人生を生きゆく一の姿勢の問題であり、の境涯の問題に他ならない。

 ましてや、大聖人法は本因妙の法であり、現当二世の大法である。現在から未来にわたり、永遠にして絶対の幸福を構築しゆく「法」といってよい。

 ゆえに私は、常に未来を志向し、時代を先取りしながら前進してきた。胸中には既に100年、200年の構が湧き出でている昨今である。また、皆さまの胸中にも、それぞれ大いなる希望が輝いているにちがいない。その味で、21世紀は「既に始まっている」のである。


さて、現代はまさに、目まぐるしい「変化、変化」の時代である。であれ、技術であれ、流行であれ、数年前の「新」は、たちまち「旧」となり、精彩を失う。この傾向は21世紀に向かって、ますます強くなっていこう。

 ものの見方や価値観も多様化し、旧来の世界観で現実を理解することはしくなった。例えば、10年前には像もつかなかった「人間」「物」「情報」の世界的な交流である。これにより、地球の一体化と相互依存は飛躍的に高まり、従来の国家中の考え方は大きく揺らいだ。柔軟にしてグローバル(地球的)な視点なくして、何も語り得ぬ時代である。

 とともに、こうした時代の波浪と変転に流されぬ「個人」「人格」の確立が一段と重要になっている。確かな人生の哲学、そして、人間としての強靭な個。これがなければ、人はいつしか、絶え間ない変化の波に押し流され、社会の激流に翻弄されてしまうであろう。


また、個人だけにとどまらず、いかなる団体にせよ、時代の急速なテンポについてゆけないところは、みるみる淘汰され、消えてゆく時代である。古き、古き表現もまた同様である。

 その味で21世紀は、あらゆる団体が生き残りを賭けた“新たな戦国時代”ともなるにちがいない。

 それは、もはや軍事力の戦いではない。経済力のみの競争でもない。人々の精神の宇宙をどう開き、を充実させ、人間としての尊厳を実現していけるのか。誰がそれを成せるのか。その一点に焦点を定めた戦いである。その味で、知恵と精神の力の限りを尽くした、まさに“精神の戦国時代”が到来するであろう。

 それは同時に、知力の勝負ともいえる“知の戦国時代”でもある。

 一面、大変厳しい時代でもある。しかしその反面、いくらでも伸び、拡大してゆくチャンスが広がっているともいえる。むしろ、痛快にして面白い時代ではないだろうか。


現実の激しい変動とともに、人々の識、世界観が揺れ、生まれ変わる。そうした歴史の転換期は、これまでも人類史に何度か訪れた。

 その一つが、約500年前、15世紀末に始まる「大航海時代」である。アメリカ大陸発見(1492年)、インド航路発見(1498年)、世界一周の達成(1522年)、そして、ヨーロッパ人の世界進出――人々の「世界観」が年ごとに変わり、「新世界」が次々と開け、猛烈な勢いで世界の勢力地図が塗り替わっていった。

大航海時代、それは新鮮な「冒険」と「発見」の時代である。ヨーロッパ人は、沸騰するような勢いで、東へ東へ、西へ西へと新天地を求めた。

 新しい「物」が、新しい「情報」が、また、新しい「技術」、新しい「チャンス」が、更に、新しい「課題」、新しい「」が現れた。何より、新しい「人間」「個」が誕生し、続々と押し寄せてきた。

 凄まじいスピードの変化の中で、無数のドラマが生まれた。

 21世紀もまた、新たな「大航海時代」となるにちがいない。いわば「精神の大航海時代」「生命の大航海時代」である。絶えざる変化、変動。世界観の転換。個の創造。限りない盛衰と新生のドラマ。躍る「冒険」と「発見」の時代が目前に迫っている。

 その激動期を、どのように乗り越え、勝ち進んでゆくか。それは、歴史に学ぶ以外にない。歴史を知る者は、未来をも知る――これが戸田先生の教えであり、一貫した信でもあった。

 500年前の大変革期に誰が勝ったか。なぜ勝ったのか。他はなぜ勝てなかったか。未来への歴史の教訓を得るためにも、それらの点について少々論じておきたい。


大航海時代以前、実はヨーロッパは、世界の中でも閉鎖的な地域であり、さほど豊かでもなかった。

 それに対し、アラブ世界をはじめ、アジアの方がよほど学問も進み、豊かでもあった。

 当時、東洋はヨーロッパ人にとって、いわば憧れの地であった。そのロマンの大地との交流は、東西を細々と結ぶシルクロードによって、辛うじて保たれていた。が、14世紀にはチムール帝国の興隆によって、シルクロードは閉ざされ、交通は遮断された。

 東洋との交渉の停止。それは、ヨーロッパ世界の行き詰まりをも味した。

この時、発を転換し、新たな東洋への道を開こうとした国があった。――“陸”がダメなら“海”がある。東洋への“海の道”を開拓すればよい。必ずや、その新たな道を開いてみせる――と。こうした新時代の突破口を開いたのは、ポルトガルであった。

 これも一つの「知恵」の力である。「発」の勝利といってもよい。歴史の「挑戦」への立派な「応戦」であった。

 豊かな「知恵」と「発」。いつの時代も、これを持つ者が次々と境を開き、勝ち越えてゆく。まして妙法は、限りない「知恵」と「発」の源泉である。ゆえに、私どもに打開できない境はないし、どこまでいっても行き詰まりがないことを確信されたい。


それにしても、ヨーロッパの最西端のイベリア半島、そのまた西端の、資源も乏しい小国ポルトガルである。当時、人口は約200万といわれる。この国が、なぜ世界中に領土を持つ大帝国に成長したのか。また、ポルトガルを“海の勇者”“時代の勝者”へと押し上げたものは何であったか。

 その原点は、たった一人の青年であった。「一人」の決と努力、実践が、一国を導き、人類の新時代を開いた。その「一人」とは、有なエンリケ(ヘンリー)航海王子(1394-1460)である。

 人数さえ多ければ物事は成就できる――それは明らかに誤りである。屹立した「一人」があってこそ、歴史の転換は成され、新たな舞台が開かれる。この原理は、今までも何度かお話してきた通りである。

「一人立て」と人に言うことはあまりにたやすい。しかし、現実に自ら“一人立つ”のでなければ、何の味もないし、価値もない。

 むしろ、口で言う必要はないのである。自ら一人立ち、行動してゆけば、必ずや二人、三人と後に続き、やがて澎湃(ほうはい)たるうねりとなってゆくからだ。


エンリケ航海王子は、ポルトガルの国王ジョアン1世の三男である。若くして(21歳)、北アフリカイスラム世界に触れ、世界の広大さ、そして新時代の足音を確かにじつつ、つかみとっていた。そして“よし、東方への大いなる道を開き、大ポルトガルをつくろう”と決してゆく。

 ――見知らぬ世界にを開き、人の言葉にを傾ける人は強い。その人は常に若々しく成長と進歩の道を歩んでいける。

 反対に、“自分は人の見を聞く必要はない”“今の自分で十分である”と、偉ぶるようになれば、もう人間としての向上はないし、輝きもない。


 大ポルトガル建設の大志を抱いた王子は、まず、華やかな宮廷生活を捨てた。

 彼には王子の立場に安住し、栄華と安逸の日々を過ごすことも可能であったかもしれない。しかし彼は、決然と宮廷を離れ、目的の達成に向かった。いかなる快楽や栄華も、所詮、空しい幻に過ぎないことを、青年の目は鋭く見抜いていた。


イベリア半島の南端・サグレス岬。大西洋の荒波以外には何も見えぬ荒涼たる地である。この岬に王子は移り住み、世界初の「航海学校」を創設した。

“まず、教育だ。土台づくりだ。あわてずに、じっくりと確実にやるんだ”――王子はこう考えていたにちがいない。そのは、私にもよくわかる気がする。

 王子はその学校に、ありとあらゆる分野の一流の学者を招いた。航海術はもちろん、地図製作、造船、地理学、数学、医学、天文学等々。

 人種は問わなかった。ユダヤ人、アラビア人、そして、ルネサンスの先進国イタリアからも一級の知が集まり、自由に研究を重ね、教育に没頭した。


 この当時、最先端の知識と技術を持っていたのは、実はイスラム教徒とユダヤ人である。ヨーロッパはキリスト教のために遅れていた。

 それにしても、ユダヤ人はあらゆる時代に、常に最高峰の知識人を輩出してきた。

 ちなみに、現代に最も大きな影響を与えた3人の家も、みなユダヤ人である。

 宇宙の法則に迫ったアインシュタイン、社会・経済発展の法則を扱ったマルクス、そして理・無識の世界の法則に着目したフロイト。

 詳しい論議は、ここでは避けたい。しかし、しみの中にこそ、民族の偉大な精華は発現し、陸続と人材を輩出した。「」と「栄光」との間に一つの法則ずるのは、私一人ではあるまい。


さて、エンリケ航海王子は、この岬で約40年もの間、“大航海”の基礎をつくり続けた。結婚もせず、「海と結婚した王子」と呼ばれた。

 実験航海が失敗すれば、王子はその損害を補償したため、借金だらけであった。

 本来ならば、自由気ままに一生を送ることもできた身分であった。しかし、彼は祖国のために一人黙々と働き続けた。

 そして、この王子のひたぶるな「無私の情熱」が、国を挙げて「海へ!」と向かわせる原動力となった。

 世界を変えた“大航海時代”も、まず、エンリケ王子という一人の若者の「の中」に生まれたのである。

 一人の人間の「一」が、どれほど偉大な力を持つか。また、その限りない可能を深く確信した者が勝利者となる。


王子の偉大さは、夢の実現のために周到な準備をしたことである。「現実」を決して甘く見なかった。

 何事も現実を甘く見ることは敗北につながる。いわんや法は、どこまでも厳しく現実と戦い、現実を向上させゆくところにこそ、根本の精神がある。

 では、エンリケ王子はその「現実」に勝利するために、どのような手を打ったのか。

 まず彼は、最新の「情報」「学問」「知識」、そして「人材」を集めに集めた。

 第二に、それらを目的のために使い切る「組織」を確立した。個々人がバラバラであれば、大いなる事も成し遂げられない。一人ひとりの力や才能を結集し、知識を集め、それぞれの持ち味を存分に生かしてゆく。その時、「足し算」ではなく「掛け算」の力が発揮できる。ここに組織の力と必要がある。

 それまでは、どちらかというと「個人」の「経験」のみに頼る航海であった。いわば、あらゆる人材の団結が時代を変えたのである。

 学会の発展も、妙法の力用は当然として、戸田先生の鋭き先見と指導力によって築かれてきた「組織」があったがゆえである。


ところで、大航海を可能にしたものの一つは「新しい船」であった。

 要約し、わかりやすく言うと、王子らの工夫もあって、「風に向かって走る船」が開発されたのである。

 それまでの航海は「風向き次第」であった。追い風の季節風を待っての旅であった。それを様々な技術改良によって、順風の時のみならず、あらゆる風向きの場合にも前進できるようにしたのである。

 この発明は、自然を克服した大きな一歩だった。まさに“必要は発明の母”である。

 人間もまた、風向きで流されるのではなく、目的地を目指して“風に向かって走る”力があって初めて「人生の大航海」ができる。

 その力の源泉となるのが「信」であり、信によって培った「信」である。そして、人間としての偉大な使命の「自覚」なのである。

 いわゆる順風満帆の人生、山登りでいえば、ふもとの方をもなく歩いて回るような人生は、何の味わいもなく、また、大きな価値を生まないものである。むしろ、険な山の尾根に敢然と挑み、山頂を目指す生き方こそ、大いなる「価値」と「歴史」を残すものだ。

 いわんや私どもの「広布」と「人生」の歩みは、あらゆる向かい風にも力強く挑戦し、新しい価値と歴史をつくりながら、人類史に永遠の光彩を放ちゆく、誉れの航海であると申し上げたい。


エンリケ王子が開いた大洋への航海の道。ところで「航海」と「漂流」の違いはどこにあるか。

一つには、明確な「航路」があることである。行方(ゆくえ)もわからず、海に漂うだけでは航海とはいえない。私どもにも明確な人生の「航路」があり、羅針盤がある。

 もう一つは、「出発点に帰ってくる」ことである。

 恐らくアメリカ大陸にもインドにも、偶然流されて漂着した船乗りは大勢いたことであろう。しかし彼らは、それを故郷に知らせることができなかった。“行きっ放し”では漂流と変わらない。

 原点である祖国と世界を往復し、どちらをも豊かにしてこそ「航海」である。

 信を根本に、時代・社会の大海原へと進みゆく皆さま方の「航海」も、方程式は同じかもしれない。

 信と学会という“祖国”と、社会という現実世界との往復作を忘れては、いつしか人生と社会の「漂流者」となってしまう。そのようなことがあってはならない。

 特に社会的地位や立場が重要になればなるほど、このことを絶対に忘れてはならないと、私は強く申し上げておきたい。


さて、大航海時代は実質的にいつ始まったのか。このことに触れたい。

 1434年、一人のポルトガル人がアフリカ西海岸を南下していた。彼はエンリケ王子の元で学んだ、いわば“門下生”である。

 王子はアフリカ西海外を懸命に探索していた。そこはまだ“未知の世界”だった。しかし、夢は中々実現しない。なぜか。船乗りたちが、ある地点以上に進もうとしないのである。

 その場所はボジャドール岬。この岬から向こうは、「暗黒の海」と信じられていた。怪物たちが棲み、海は煮えたぎり、滝となって落下していると、中世以来、伝えられていた。

「岬を越えて南進せよ!」。いくら王子が言っても無駄だった。船乗りたちは15年間、王子の命(めい)に背き続けた。ある者は、王子をだまし続けて他の進路をとった。

 面従腹背――それでも王子は耐えた。15年目にとうとう彼は言う。

「おまえたちみんなが、ありもしないことに妄をいだいているのが、まったく不議でならない。もしかりに、世界でいわれているような噂が、すこしでも根拠のあるものならば、わたしもおまえたちをこれほどまでに責めはしない。

 しかしおまえたちの話を聞いていると、ごくわずかの航海者たちの見に過ぎないではないか。しかもその連中というのは、たかだかフランドル地方だとか、そのほかかれらがいつも航海する目的地の港に通じる航路からはずれてしまえば、羅針盤も航海用の海図も使い方がわからない連中ばかりなのだ」(集英社『図説 探検の世界史 1』ダンカン・カースレイル)

 風評にだまされるな! 何も知らない者たちの噂にだまされるな!――王子の叱咤に、ついに一人の門下が肚を決めた。

「行こう! 岬を越えよう!」

 そして彼は超えた。王子の確信通り、“向こうの海”は何でもなかった。

像していたのと、実際は正反対だった!」


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彼は土産(みやげ)にバラの花などを採集して帰った。穏やかそのものである。それも当然、この岬が位置するのはカナリア諸島の約240km南。アフリカ全体の大きさから見れば、“航海学校”からでさえ、いかほども離れていなかった。

 ゆえに地理上の発見としては、ほとんど価値もないように見えた。しかし、それまでの「恐怖の岬」という「の境界線」「臆病の壁」を越えた。そこに決定的義があった。(ボジャドール岬に関するエピソードについては、前掲書を参照)

 遠洋航海に従事する「波濤会」の方からも、かつて同様の話をうかがったことがある。


 一人の勇者が壁を越えれば、あとは次々と続く。ついにアフリカ西海岸を踏破。やがてあふりか南端「喜望峰」の発見(1488年)、インドへの新航路発見(1498年)と続く。

 つまり、「大航海時代」とは、あの無の船乗りが、かの小さな岬をい切って越えた、その瞬間に本格的な幕を開けたのである。


 ともあれ、新しい時代を開くのは、常に青年の勇気である。誰を頼るのでもない。若き勇者が一人立つならば、いかなる困な道も切り開いていけるものだ。

 この後、マゼランの一行が世界一周に成功したのは1522年。王子の死から60年後、航海学校設立から100年後であった。えば、学会も創立60周年に過ぎない。戦後の再建からみれば、実質40年である。今、私は、創立100年、200年の確かな未来を目指している。そのための人材をいかに育てるか。広布という壮大な航海における課題もここにある。


歴史上のかつての“航海”は、むしろ多くの悲惨と争いをもたらした。悲しい、残酷な歴史であったといってよい。

 だが、私どもの旅は、反対に「平和」と「文化」を運びゆく大航海である。しかも、今や世界的視野に立って行動すべき段階に入った。

 そこで必要となるのは、若々しき「冒険」の魂である。「冒険」とは「自己実現」であり、「自己表現」である。

 自らの力がフルに発揮されるのも、もはや引き返す術(すべ)なき「冒険」での鍛えによる。そこには、「独創」がわき、「人格」が確立される。「動」が広がる。「団結」も生まれる――。

 これに対し現代日本は、“アンチ冒険”の官僚的発、体質が染みわたっているといわれる。しかし、それでは人生の深き価値が生まれない。

 また、「科学」も、この冒険のから生まれた。否、新しい世界はどこでも、若々しき未知への挑戦から突破口が開かれてきた。

 その味で、「平和の新世界」「広宣流布の新大陸」へと、青年諸君にこそ、私は勇気ある「新航海」の先駆をお願いしたいのである。


 日蓮大聖人は「椎地四郎殿御書」にこう仰せである。

「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」(1448頁)

 ――迷(めいく)に満ちた人生の大海を渡るには、“妙法”の船でなければ不可能である――と。

 私達こそ、“妙法”の船に乗り、進む勇者である。その確信も深く、広布の航海者としての誉れある人生を、堂々と生き切ってゆきたい。


さて、話は戻るが、ポルトガルはこうして「海の覇者」「時代の勝者」となった。南米(ブラジル)からアジアまで広がる大帝国をつくり上げた。日本にも、いわゆる南蛮文化をもたらしている。

 しかし、その繁栄も長くは続かなかった。それは何が原因であったか。本日、私が申し上げたい焦点もここにある。その要因の一つを要約していえば、自らの国力を超えて、はるかに膨張し、拡大に走り過ぎたためだといわれる。

 大航海時代を拡大すればするほど船員が必要となる。船員確保のために農民がどんどん転用され、航海用の食糧をつくる人手が足りなくなる。そのため、外国から食糧を買い入れなければならない。だが、足元を見られたりして、高い値をつけられる。そうした結果、貿易による利益よりも、費用の方が高くつくようになる。

 こうして航海に出れば出るほど赤字が膨(ふく)らむという悪循環に陥ってしまった。植民地の維持のために本国が疲弊するという事態をも招いた。

 このことは、スペインも同様であった。ポルトガルとともに世界の海を二分していたスペインも、せっかく手に入れた「富」を蓄積して、自国の資本を育てるだけの基礎体力がなかった。そのため、後進のオランダに、また、イギリスに「海上の覇権」は移り、「富」は奪われていった。

 所詮、「富」も「権力」も無常である。

 ポルトガルもスペインも、繁栄を持続し、拡大する基礎体力を持っていなかった。そのため、世界への行動範囲が広がれば広がるほど、発展への対応をしくした。それが、自らの立場を危うくし、繁栄への歯車を逆回転させることになった。

 このことは、いかなる国、団体、組織にあっても、十分留しなければならないことである。


 学会もこれまでは発展に次ぐ発展であった。組織的にも伸びに伸びてきた。そこで私は、次への大いなる前進のために、今はもう一度、足元を固め、基礎体力を強くしておかねばならないとう。組織を十分に整備し、人材の育成・鍛錬に全力を挙げていかねばならないと深く決している。

 そうでないと、大聖人の御遺命である広宣流布を、どこまでも進め、拡大していく創価学会の使命が果せなくなってしまうからである。

 したがって、今は組織の発展を急ぐ必要はない。焦ってもならない。「人材」を、ともかく「人材」をつくることである。


ところで、15〜6世紀の大航海時代に、なぜヨーロッパが歴史の主役となり得たのか。

 アラブや中国は当時、ヨーロッパより、文化的にも栄えていた。ずっと優れた航海技術を持っていた。それなのになぜ、これらの文明先進国は、後進国のヨーロッパに後(おく)れをとったのか。

 色々な理由が挙げられるが、結論的にいえば、アラブ世界も、中国(当時は明国)も、物質的に満ち足りていた。ゆえに、それ以上、自己の世界を広げようとのいが弱かった。いわば、自己満足していた面があることを否定できない。

 そこに、「飢えたヨーロッパ」が襲いかかった。侵略、略奪である。善悪をいえば、もちろん、ヨーロッパが「悪」である。しかし、そう言って非したところで、奪われた人命も富も返ってはこない。所詮、敗北はどこまでいっても敗北である。

 以後、アジア、アフリカ、南米の民衆は、ヨーロッパの列強のために、長く悩の歳を送ることになってゆく。


 何事も、「自己満足」に陥り、「もう、これでいいだろう」とった時から、後退が始まる。その刹那から、かつての中国・明(みん)の一面のように進取の気を失い、保守化し、自分のカラに閉じこもってしまう。そこには新しい世界へと打って出る“勢い”がなくなる。ゆえに狂暴な力の前に餌食となり、蹂躙(じゅうりん)される結果となる。

 その味で、絶えざる“冒険”“挑戦”の一の姿勢が、鋭く敵を見抜き、敵を破るのである。その気概を失ってしまえば、もはや厳しい現実社会で生き残ることはできない。


そのことでい起こすのは、戸田先生がよく言われていたことである。

“学会ほど純粋で、人のよいところはない。これほどの価値ある、素晴らしい団体はない。反面、悪い人間にとって、これほど利用できるところもないだろう。いわば獲物を狙う獣の前に置かれた新鮮な鯛(たい)のようなものだ。必ずこの学会を利用し、食い物にする者が出るだろう”と。

 その言葉通り、これまでも学会を利用し、餌食にしようとする働きは幾度となくあった。それはまた、皆さま方がよくご存じの通りである。

 大聖人は、「かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ」(931頁)――敵を知らないと、敵にだまされてしまう――と仰せである。

 敵を見抜く鋭い目を持たねばならない。そして、「悪」という敵とは、どこまでも戦い抜くを失ってはならない。それがなくなると、知らず知らず、「」に蹂躙(じゅうりん)され、「悪」に食い破られてしまう。


ところで、アジアを支配した封建主義や、南米に見られた神君主義は、人々の精神を、いわば骨抜きにしていった。つまり、人々は命令されたり、服従することに慣れきってしまったのである。そこに、ヨーロッパ人という“新しい主人”が侵入し、それに簡単に仕えてしまった精神的土壌があった。容易に奴隷にされたのである。

また、そこには「仕方がない」という宿命論の網にとらわれた悲しい、弱いがあった。

 一方、ヨーロッパの人々には、ルネサンス(人間復興、文芸復興)を通して鍛えられた「個人主義」と「自立せる志」があった。人間を抑圧する勢力と戦い、自らの信に生きる「強さ」を持っていた。それによって培われた「何としても行くのだ。勝つのだ」という「志」が、アジアや南米の人々に瀰漫(びまん)していた「あきらめ」のに打ち勝った。これが、“大航海時代”の精神の一断面であったといえよう。

 社会的権威や権力に媚びへつらったり、従順であることだけが、決して正しい信仰者の生き方ではない。それらと妥協せず、真実の人間の生き方を求めて戦ってゆくのが信仰の精神である。


来るべき21世紀の「精神の大航海時代」。私は学会こそ、その新世紀の王者であると確信している。

 その希望の出発に当たり、軌道を誤らぬため、大切な一点を本日は確認しておきたい。

 それは、「法」を根本に生きるか、自己中に生きるか、ということである。そして、何があっても、「法」を根本に生きる人こそ、真の勇者であるということである。


 よく「傲慢であってはならない」という。誰もがそうい、そう強調する。しかし、それでは実際には、どう“慢”を見極めるか。

 表面が謙譲そのものであっても、シェークスピアが言うように、その謙虚さが「野がその足場にする梯子(はしご)」(『ジュリアス・シーザー』)である場合もある。すなわち、悪い野を達成する足がかりとして、「謙虚な人物」との信用を得るための演技である。

 ――その場その場で、状況にうまくへつらう生き方。それが本当の「謙虚さ」なのかどうか。反対に、昂然と胸を張って、自己を貫く生き方。それは「高慢」と非されるべきなのかどうか。ここに重要な課題がある。


 大聖人は「撰時抄」に、こう仰せである。「大慢のものは敵に随う」(287頁)と。大慢のものは、いざという時には、敵にしたがってしまうとの御指南である。

 状況が変化すると、それとともにが揺れる。が転ずる。それが不安定な「慢」の生命である。

 いつも、どちらにつこうか、どう動いた方が得か、そんなことばかり考えている。要するに「保身」の一である。

 自分を大事にし、よくしてくれるから、こっちについておこう。形勢が変わったから、今度はあっちへ行こう。そのように、落ち着きなく、常に自分の利害を中に“機”をうかがっている。「法」が根本ではなく、自分の「エゴ」が根本である。ここに慢の本質がある。

 これまでの退転者らも、皆「大慢のもの」であった。ゆえに、純粋な信の世界にいられなくなると、「敵に随う」姿を見せた。全て大聖人の仰せ通りの実相である。


 謙虚に「法」を中にする者の勇気、そして、傲慢に「自分」を中にする者の臆病――。

 ある人は言う。「佐渡御書」のあまりにも有な次の一節も、これら二つの正反対の生き方を対比されているとも拝せるのではないかと。そうとも言えるかも知れない。

「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失はん時は師子王の如くなるをもてる者必ずになるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜むの強盛なるべしおごれる者は強敵に値ておそるる出来するなり」(957頁)と。

 御文の大をわかりやすく言えば、「悪王」すなわち悪しき“社会的権力”が、正法を破壊しようとする時、「邪法の僧」すなわち、よこしまな“宗教的権威”が味方し、連合軍をつくって、智者を亡き者にしようとする。智者とは正法を正しく弘め教えている者、すなわち日蓮大聖人であられる。

 その時に、師子王のようなを持って悪と戦う者は、必ずになる。例えば大聖人がそうであると。

 そして、「これは傲りから戦ったのではない。『正法を惜しむ』が強く盛んなためである。傲っている者は、強い敵にあえば、必ず恐れるが出てくる」と仰せである。


 この御文にお示しのごとく、権力と権威が連合軍を成して行う「迫害の構図」は、永遠に不変である。

 その時に、正法を惜しみ、広宣流布を第一義とするゆえに、敢然と「師子王」のようなで戦えるか否か。戦い抜けば必ず成できる。

 しかし、「法」を大切にわない傲慢の人は、臆病な「恐れる」が出てきて、逃げてしまうであろうと御指摘になっている。普段、威張っているような人間ほど、大事な時に一歩退(ひ)いてしまうものである。


 端的に結論すれば、こうも言えるかも知れない。すなわち、「傲慢」は「臆病」とセットになっている。そして、「謙虚さ」は「勇気」と表裏一体である。

 たとえ誰に傲慢とわれようと、「法」を中に生き、「広宣流布」を根本として生きる人は、常に変わらない。いざいという時は、いよいよ力が出る。

 反対に、「自分」を中にして、うまく泳いでいるだけの人は、正法の勢力が強く、自分に利用できる時には、そちらにつき、形勢が変わると敵方にさえついてしまう。


 こうした大聖人の教えを拝する時、最も偉い人とは誰か。それは何の地位も権威もなくとも、「正法」のため、「広宣流布」のために、現実に日夜行動している無の地涌の友である。学会の同志である。私は深く強く、そう確信する。


「法」にのっとり、「法」に従うことを嫌がるわがままな修行者は、いつの世にもいた。釈尊の時代も同じであった。

 釈尊が入滅した時である。スバッタという修行者は、その死を聞いて喜び、他の嘆き悲しむ弟子達にこう言ったという。

「やめなさい、友よ。悲しむな。嘆くな。われらはかの偉大な修行者からうまく解放された。〈このことはしてもよい。このことはしてはならない〉といって、われわれは悩まされていたが、今これからは、われわれは何でもやりたいことをしよう。またやりたくないことをしないようにしよう」(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元訳、岩波文庫)と。

 まことに人のは恐ろしい。この時、彼のあまりの暴言は人々を不快にし、経典に記録された。そして現代にまで伝えられ、当時の人間模様を生々しく証言している。

「正法」が永遠であれば、正法に敵対した「悪の言」も永久に伝えられる。そして時が経てば経つほど、その醜い根を後世の人々にさらし、正義の人が、正義ゆえに耐えねばならなかったの大きさを物語る確たる「証拠」となっていくのである。


スバッタにとって、師の慈愛の導きも、ただの「束縛」にしかじなかった。要するに、わがままに好きなことがしたかった。既にの根は腐り、堕ちていた。

 堕落した彼には、師が教える「正法」への従順など、実は面倒この上ないことであった。厳しく正義を説く師の存在も、の奥ではうとましい限りにっていた。

そこで釈尊を「独裁者」のように批判した。すなわち、「法」の支配が嫌なあまり、それを「人」の支配であるかのようにすり替え、中傷したのである。

それほど嫌ならば、やめればよいものを、釈尊が健在の時は言い出せない。ここに臆病の本がある。

 そして、釈尊が死ねば、もう怖いものはない。“さあ、やっと自由になれた!”。彼は卑しく喜んだが、その自由は、成への厳しき軌道から完全に脱線した。“無軌道の自由”であった。

 否、“地獄への軌道”をまっしぐらに下降していた。そのことに気づかないほど、慢という生命の毒は、人を狂わせる。

 ともあれ、釈尊のいる時といない時とで態度を変えてゆく。状況に左右される。それが、「法」を中としていない「慢」の生命なのである。


 釈尊の時代でさえ、人のはかくも恐ろしい。末法の今、少々の悪人が出ることも、ある味で当然かもしれない。

 私どもは、その本を見破り、将来にわたって絶対に悪のうままにさせない力を持たねばならない。


変転する慢のは醜い。それに対し、定まれる人の生死(しょうじ)は美しい。

 ある人が、ギリシャ映画の忘れい一シーンを語ってくれた。題は『旅芸人の記録』。ギリシャ現代史を象徴的に描いた作品である。

 灰色の雲の下、乾いた土を掘って、一人の青年の遺骸が埋められようとしていた。

 青年は第二次大戦中、祖国ギリシャを占領したナチス・ドイツと戦い、勝利した勇敢なゲリラの一人である。ところが、この英雄は戦後、反共的な新政府に追い回されることになる。

 つかまれば拷問。転向のサインをしなければ、死ぬまで、いたぶりが続く。

ナチスとの戦いから数えて10年。遂に彼は捕らえられる。転向を拒否。

 祖国を救った勇者は、何と、その祖国の政府の手で処刑されてしまうのである。これ以上の悲劇もない。一体、誰のための、何のための戦いであったのか――。

 何事も、勝たねば悲惨である。強く、また強くあらねばならない。


 彼の遺体はボロ切れのようになって、家族に引き渡される。友人達が埋葬に立ち会った。

 荒涼たる原っぱ。暗い空。たった6人の寂しい葬儀――。遺体が埋められようとしたその時である。

 わず一人が「拍手」を送った。1人から2人へ、2人から3人、4人、5人へ……。皆の無言の拍手が勇者の上に、いつまでもいつまでも降り注いだ。

“友よ、君の「死」に、君の「生」に、僕達は熱き「拍手」を送る。それは、どんな優のドラマよりも荘厳な立派な劇であった”。

 彼らのいを、仮に言葉にすれば、このようなものであろうか。


 何の栄誉もない、寂しき埋葬であった。しかし、真実の同志の称賛の「拍手」に包まれた死は、いかなる華美、盛大な権勢家の葬儀よりも美しい。そこには真実の「人間としての勝利」があった。


広宣流布に生き抜いた人の「生死」は、無上道の「生死」である。

 私は40年以上、世界中、数限りない人々の「死」の実相を見てきた。また、詳しく報告も受けてきた。

 その結論として、見事なる「生」は、見事なる「死」をもたらしているといえる。「死」に臨んで、ごまかしは一切きかない。厳しき総決算として現れてくる(席上、昨年亡くなった山川副会長、秋山元国際部長の素晴らしい遺言が紹介された)。

 皆さま方もご承知の通り、多くの先輩は、最後の最後まで立派に信根本に生き、模範の臨終の姿を示してくださっている。

 皆さま方も、「よき人生」を、そして、永遠の幸福へと連なる「素晴らしき生死」をと、私は願してやまない。


 かつて、「ドレフュス事件」の話をした。ユダヤ人であったフランスのドレフュス大尉が、軍部によってスパイ容疑を捏造され、流刑となる。当局は、反ユダヤ人情を利用し、ドレフュスを窮地に追い込んだ。

 その時、敢然と一人立ち上がったのが文豪エミール・ゾラ(1840-1902年)である。彼の作品『居酒屋』や『ナナ』は日本でもよく知られている。ゾラとドレフュス事件との関わりは今日は略させていただく。

 ある時、ゾラはこう呼びかけた。「青年よ、青年よ……」と。

 ――青年よ、青年よ、君は恥ずかしくはないか。正義の人が何の助けもなく、孤立無援で、卑劣な攻撃と戦っている時、それを黙って見ていて、青年よ、君は恥ずかしくないのか、と。

 血涙を流しながらの叫びとも私にはえる。

 ともあれ、「謙虚なる勇者」の正義を、身をもって助けようとしない「臆病な傲慢者(ごうまんしゃ)」であってはならない。それは、断じて法者の生き方ではないからである。


大聖人は「弥三郎殿御返事」の中で、御自身が二十余年の間、生命(いのち)に及ぶ大を受けてきたのは、ひとえに日本国の一切の人々を救おうとってのことであると述べられ、次のように記されている。

「さればあらん人人は我等が為にと食すべし、若しを知り有る人人は二(ふたつ)当らん杖には一は替わるべき事ぞかし、さこそ無からめ還って怨をなしなんどせらるる事は得ず候」(1450頁)

 ――ゆえにある人々は(大聖人が一身に攻撃を受けていることは)「私達のためである」とわれるべきである。

 もし、「」を知り、ある人々であるならば、(大聖人が)2回、杖で打たれるなら、その内1回は代わって受けるべきではないか。

 そうしないどころか、かえって迫害を加えるなどというのは、まことに納得できないことである――。


 大聖人の御生涯は「少少のは・かずしらず大事の・四度なり」(200頁)――少々のは数え切れない。大は四度である――と仰せの通りの歩みであられた。

「数数見擯出(さくさくけんひんずい)」(たびたび擯出=追放=されること。伊豆、佐渡への流罪がこれに当たる)の経文をはじめ、法華経予言そのままの法、また法であられた。

 それも全て、日本の人々のためではないかと大聖人は仰せである。これほどの大慈悲で、これほど正法を弘め、これほど国にも民衆にも尽くした。にも関わらず、これほどの大である。

 人々はに報いるどころか、かえって迫害を加えてくる。もしも、少しでもある人であれば、大聖人のの、せめて「半分」は我が身に受けようとして当然ではないか、と。

 大聖人は決して嘆いておられたのではない。大聖人を守ろうとしない“なき人々”が、度を過ぎて謗法に陥ることを悲しまれてのお言葉であると拝される。

 また、門下として、この大聖人の御聖訓を拝する時、大聖人お一人にを全て押しつけて、そのまま、おめおめと生き、死んでいけるのか。それで恥ずかしくはないのか、成できるのか、との叱咤のおが胸に轟いてくるようにじられてならない。


 師弟は一体である。日興上人も伊豆へ、佐渡へと師とを共にされた。

 また、次元は異なるが、戸田先生牧口先生にお供して牢獄にまでも行かれた。しかも、そのことを謝さえされていた。弟子として、師のを代わって受けたいとの強き強き一と祈りが、そこにはあったに違いない。私もまた同じであった。

 この方程式、この師弟を貫く信は、現在もまた不変でなければならない。


最後に伝教大師の言葉を紹介しておきたい。

「能(よ)く言いて行うこと能(あた)わざるは、国の師なり。能く行いて言うこと能わざるは、国の用(ゆう)なり。能く行い、能く言うは、国の宝なり。(中略)言うこと能わざる、行うこと能わざるを、国の賊となす」(『山家学生式』〈さんげがくしょうしき〉)

 すなわち――「智」ありて「行」なきは国の師、「智」なく「行」あるは国の用、「智」と「行」共にあるは国の宝、「智」なく「行」なきは国の賊、と。

 この味で大聖人は、「国宝」中の無上の「国宝」の方であられた。また、門下として、法のため、社会のために、叫び、行動している私どもも、総じては「国宝」の誇りを持ってよいと信ずる。


 そして、“「智」も「行」もないのは国賊”と。何も言わず、何も行動しないのはゼロではない。マイナスの存在なのである。

 善をなさないのは悪である。成長しないのは惰である。前進しないのは後退である。

 そして、「杖」の一つにも代わろうと祈らない臆病は、「正法」と、それを弘める「人」への軽視と傲慢の証拠なのではあるまいか。


 最後に、真実なる、また、勇敢なる我が創価学会員の皆さまの「永遠なる幸福」と「永遠なる勝利」「永遠なる栄光」をよりお祈りし、本日の記スピーチを終わらせていただく。長時間、本当にご労さま。


1989-08-17 長野研修道場