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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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1989-10-24

自受用身


 ここで御書を拝しつつ、語っておきたい。

自受用身」とはどういう味か。

 当然、これは「の身(身)」についての言葉であり、様々な角度から論じられている。また、「久遠元初自受用身」といえば、御本日蓮大聖人の御(おん)ことになり、甚深の義が含まれている。


 御義口伝では次のように説かれている。

自受用身(ほしいままにうけもちいるみ)とは一三千なり」(759頁)と。

 すなわち、ここでは自受用身を「ほしいままに受け用いる身」と読まれ、それは「一三千」の当体に他ならないと述べられている。

 ほしいまま――自由に、また自在に、広大無辺の「法楽」を受け、用いながら、大宇宙を永遠に遊戯(ゆうげ)されゆくの御境界である。つまり、日蓮大聖人の御生命のことである。

 そして、この「自受用身」とは、「一三千」すなわち事の一三千の御当体であられる「御本尊」のことである。

 大聖人は、「日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり」(759頁)――南無妙法蓮華経と唱えたてまつる日蓮大聖人とその門下こそ、この「一三千即自受用身」である――と仰せである。

 御本尊を拝し、妙法広布に生きゆく私ども門下もまた、総じては「ほしいままに受け用いる身」となってゆくとの御断言である。


 戸田先生は言われた。この信を貫けば、必ず「生きることそれ自体が楽しい」という絶対的な幸福境涯になってゆくと。

自受用身」とは、決して遠いところにある観的な話ではない。それどころか、他ならぬ、この「自身」の生命についてのことである。

 大聖人の仰せを拝して述べれば、自受用身の初めと終わりの字をとれば「自身」となる。中の「受用」は自身の活動である。「受」は受動、「用」は能動の振る舞いとも拝される。

 自身の一切の活動が、「ほしいまま」になってゆく――それが「自受用身」の義なのである。


 人生は全て「自身の生命」の活動である。他の誰のものでもない。誰のせいでもない。“神”などの誰か別の存在が決めたものでもない。

 この自身の生命を、清浄にして無限に力強き「界」の生命へと変革してゆく。それでこそ、何があっても一切を幸福幸福へと、受け、用いてゆくことのできる人生となる。


 しかし現実は、絶えず何らかのしみがある。何かに悩まされ、うようにならない場合が多い。それをどう打開してゆくのか。

 大聖人は法華経薬王品の文について、御義口伝で次のように仰せである。

 すなわち薬王品に「能く衆生をして、一切の、一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたもう」(『妙法蓮華経並開結』602p)とある。

 法華経の功力を解いたこの文について、「法華の煩悩即菩提生死即涅槃なり、離解(りげ)の二字は此の説相に背くなり」(773頁)――法華経煩悩即菩提であり、生死即涅槃である。いま経文に「一切の病痛を離れ」「生死の縛を解く」とある。この離と解の二字は、この法華のに背くものである――と。

 病のしみ、病の痛み、それらを「離れる」というのは法華経ではない。また、生まれてはしみ、死してしむという繰り返し。そうした悩に縛りつける「生死の縛」を「解く」のでもない。


 それでは、「法華の」で、この経文を読むとどうなるのか。

「離の字を明(あきらむ)と読むなり、本門寿量の眼(えげん)開けて見れば本来本有の病痛悩なりと明らめたり仍つて自受用報身の智なり」(773頁)

 ――「離」の字を「明らむ」と読むのである。本門寿量の眼を開いて見るならば、病痛や悩は「元々生命に本然的にそなわっている病痛、悩である」と明らかに見てゆくことができる。よって、これは自受用報身(自受用身の智身)の智である――と大聖人は仰せである。

 まことに明快な御指南である。

 生命は十界互具の当体である。悩の地獄界も永遠になくすことはできない。しいから「離れる」ことはできない。できるとうのは幻である。

 要は、そのしみに支配されるか、しみを支配するかである。「煩悩即菩提」であるゆえに、妙法の力によって、あらゆるしみを「幸福への糧」としてゆくことができる。

 そのためには、「病痛悩」を避けられぬものとして、「明らかに」見てゆく――達観してゆく。「をばとさとり」(1143頁)、境を大きく開いて題目を唱えてゆくことである。

 あたかも、山の上から下界を見下ろすように、悠々と我が生命の悩を見つめ、その因果を信で受け止め、じながら、転じきってゆくことである。

 のしかかるような岩も、山の上からは小さく見える。子供には重い荷物も、大人の体力で担(かつ)げば軽くなる。

 生命力が大きく、強く、広大であれば、一切の病痛、悩も嘆く必要はない。未来を悲観することもない。真に強い人間には、しみもまた楽しみとなる。その偉大なる生命力を涌現するのが信の力である。


 また、「生死の縛」を「解く」というのも、「解とは我等が生死は今始めたる生死に非ず本来本有の生死なり、始覚の縛解くるなり」(773頁)と。

 ――「解く」というのは、我らの生と死は、今はじめた生死ではなく、(無始の昔より永遠に繰り返してゆく)生命に元々そなわった生死であると見る。すなわち、(今恥じあった生死と錯覚する迷いにとらわれた)「始覚の縛」を「解く」と読むのである――。

 少々しいかもしれないが、これらの智も全部、自行化他の唱題行に含まれている。唱題こそ最高の智なのである。

 すなわち、御本尊への「信」の眼(まなこ)こそ、「本門寿量の眼」である。信の眼を開いて見ることが「自受用報身の智」に通ずる。


 要は、誰を恨むのでもない。自分を苛(さいな)むのでもない。一切の悩、一切の病痛、一切の生死は全て我が生命の上に展開される「本有の劇」である。「宿命転換」と「成」の姿を示し、広宣流布への使命の姿を現じゆく、自分自身の「生命のドラマ」なのである。

 この「信」という自在の「境涯のドラマ」を堂々と演じゆくところに、「自受用身(ほしいままに受け用いる身)」の重大な義があり、その証明がある。


【第22回本部幹部会 1989-10-24 創価文化会館