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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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1991-09-26

ハーバード大学講演「ソフト・パワーの時代と哲学」


 法では、人間界であれ、自然界であれ、森羅万象ことごとく、互いに“因”となり“縁”となって支え合い、関連し合っており、物事は単独で生ずるのではなく、そうした関係のなかで生じていく、と説きます。これが“縁りて起こる”ということであり、端的にいって“個別”よりも、むしろ“関係”を重視するのであります。

 また関係を重視するといっても、そのなかに個が埋没してしまえば、人間は社会の動きに流されていくばかりで、現実への積極的な関わりは希薄になってしまいます。

教史にその傾向が著しく見られることは、ベルクソンや貴大学で長く教鞭をとっていたホワイトヘッドなどの知が鋭く指摘するところであります。しかし真の教の真髄は更にその先に光を当てております。すなわち、真実の法にあっては、その関係の捉え方が際立ってダイナミックであり、総合的であり、内発的なのであります。


米ハーバード大学記念講演 1991-09-26】

1991-09-02

依法不依人


「〈私は修行僧の仲間を導くであろう〉とか、〈修行僧の仲間は私に頼っている〉とか、このようにう者こそ、修行者の集いに関して何ごとかを語るであろう。しかし、向上につとめた人は、〈私は修行僧の仲間を導くであろう〉とか、あるいは〈修行僧の仲間は私に頼っている〉とかうことがない。向上につとめた人は修行僧の集いに関して何を語るであろうか」

「向上」という言葉、これは禅の言葉にもなっています。修養、修行につとめるという味です。釈尊には「おれがこの仲間を導くのだ」という識はなかった。では何が導くのか。それはダルマ(法)である。人間の真実、それが人を導くのである。

「アーナンダよ。私はもう八十となった。たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、私の身体も革紐の助けによって長らえているのだ。……。

 この世で自らを島とし、自らをよりどころとし、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとせずにあれ」

 自分に頼れ。他のものに頼るな。「自分に頼れ」というのはどういうことか。それは、自分を自分たらしめる理法、ダルマに頼るということである。

 この強い確信は、ダルマに基づいているという自覚から現われます。「百万人といえども、われ行かん」という言葉がありますね。百万の人がぜんぶ自分に反対しても、自分はこの道を行く。なぜ「この道を行く」とあえて言い切れるのか。自分の行こうとしているこの道が、人間のあるべき道、あるべきすがたにしたがっているからです。だから他の人がどんなに反対しても、自分はこの道を行くのだといえる。すると、「自分に頼る」ということと「法に頼る」ということは、実は同じことなのです。釈尊の説法に、この点が明快に示されています。

 そして「自らを島とせよ」と説かれました。「島」というよりは「洲(す)」といったほうがいいようにいます。漢訳にも「洲」という字が出ています。原語はディーパです。

「自らを洲とする」というのはどうもわかりにくいかもしれません。これはインド人の生活環境を頭において考えれば、理解しやすいといます。

 インドの洪水は、日本とはずいぶん様子が違うのです。日本は山国で、川もだいたいが急流でしょう。だから洪水が起こると水がどっと流れてきて、何でもかんでも押し流してしまう。ところがインドの洪水は、押し流すというよりも、いたるところで水が氾濫するのです。だだっぴろいところに水がずうっと及んできて、一面が水浸しになる。ものが押し流されることもあるにはありますが、押し流されないでただ水浸しになってしまうという場合が、非常に多いのです。

 インドでは、土地が平らだから、地面に立って向こうを見渡しても、山なんか見えないところが多いのです。日本で山が見えないところというと、たとえば関東平野ですが、それでもお天気のいい日で空気が澄んでいると、秩父の山が見えますね。ところによっては富士山も見えますね。ところがインドだと、ウッタルプラデーシュ州、ビハール州、オリッサ州などでは、山が見えないのです。ただ一面にずうっと地面が広がっている。

 そういうところが水浸しになると、一面の海のようになる。その中で人間はどうするかというと、土地が平らとはいっても多少の高低はあるから、ちょっと高くなっていて水浸しにならない場所でを避けるのです。それが「洲」です。

 日本で「洲」というと川中島みたいな場所を考えますが、そうではないのです。あたり一面が水浸しになって、ちょっと高いところだけが水につかっていない。そこへみんな逃げていくのです。だから「洲」というのは、頼りになるところという味になるのです。

 ときにはそこに木がそびえていたりする。退屈すると彼らは木の上に上ったり(ママ)、親しい友だち同士でチェスなんかして遊んでいる。それがインド人にとっての洪水です。釈尊の言葉も、そういうところから来ているのです。

 ところがこれはやはりシナ人には理解しにくかったのでしょう。「ディーパ」には「洲」という味の他に、もう一つ「灯明」という味があります。語源は全然違います。同音異義語ですね。ところが、シナ人が漢訳するときには、「ディーパ」をこの味に解釈して、「自己を灯明とせよ、法を灯明とせよ」とした。この方がシナ人、日本人にはわかりやすい。とくに日本人は圧倒的にわかりやすいですね。


【『ブッダ入門』中村元春秋社、1991年)】

ブッダ入門

1991-09-01

四門遊観


「私はこのように裕福で、このように柔軟であったけれども、つぎのようないが起こった。愚かな凡夫は自ら老いてゆく者で、また老いるのを免れえないのに、他人が老衰したのを見て、考え込んでは、悩み、恥じ、嫌悪している。われもまた老いゆく者で、老いるのを免れえないのに、他人が老衰したのを見ては、悩み、恥じ、嫌悪するであろう。――このことは自分にはふさわしくない、とって。

 私がこのように考察したとき、青年時における青年の気はまったく消え失せてしまった」

「愚かな凡夫は自ら病む者で、また病いを免れえないのに、他人が病んでいるのを見て、考え込んでは、悩み、恥じ、嫌悪している。われもまた病む者で、病いを免れえないのに、他人が病んでいるのを見ては、悩み、恥じ、嫌悪するであろう。――このことは自分にはふさわしくない、とって。

 私がこのように考察したとき、健康時における健康の気はまったく消え失せてしまった」

「愚かな凡夫は自ら死ぬ者で、また死を免れえないのに、他人が死ぬのを見て、考え紺では、悩み、恥じ、嫌悪している。われもまた死ぬ者で、死を免れえないのに、他人が死ぬのを見ては、悩み、恥じ、嫌悪するであろう。――このことは自分にはふさわしくない、とって。

 私がこのように考察したとき、生存時における生存の気はまったく消え失せてしまった」

 こういう反省が若き釈尊に起こったと伝えられています。(中略)

 原始教における教者は、今いったこのような反省は、三つのおごりを表現しているものだと考えました。おごりたかぶるということは、普通は高位高官の偉い人、お金があり、力がある人、そういう人がおごりを持っているとわれていますが、そうではない。実は人間そのものに根ざしている。

 世間では、おごりたかぶっている人を非します。しかし実は非している人もおごりを持っている。それは何か。まず若さのおごり、自分は若いというおごりです。あの人は老いているけれど、自分は若い、元気だとう。さらに健康のおごりというのがあります。あの人は病気で悩んでいるが、自分はまだ元気だ。そううとき、そこにおごりがひそんでいる。

 では病気で元気もなく年老いている人にはおごりがないかというと、そうではない。まだ自分は生きているというおごりがある。おごりというものは、人間にとって本質的なものなのですね。と同時にそれは完全には実現されないから、空虚なものです。ところが空虚なものであるという反省が人々にない。だからおごりたかぶっているがゆえに、若さを無益に費してしまう。若い時をむだに過ごす。さらに健康であるというおごりがあるために、自分の健康を無駄にしてしまうのですね。さらに、自分はまだ生きているというおごりがあるために、生きているうちにすべきことを怠ってしまう。

 こういうおごりが人間を支配し、人間にとって本質的であるということを、釈尊は若いときに既に気づいていた。そこでそれ以上の、それを超えた何ものかを求めるべきである。そうしたよりよきもの、真の楽しみを見出したい。それはまだ見出されないでいるから、それを見出そう。そう願っていたのです。


【『ブッダ入門』中村元春秋社、1991年)】

ブッダ入門