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1993-07-17

日恭の焼死は覚悟の死であったと宗門は横死を美化するが客殿や大書院が焼ける前に自決を選んだ日恭はあわて者か


『地涌』選集 第681号 1993-07-17】


 昭和20年9、妙光寺を訪れた日蓮正宗管長代務者・中島廣政は、彼岸会の説法の席で、昭和20年617日の客殿などを焼いた大石寺の火事の原因について、「一所化の失火」であることを認めており、このときの説法の内容は記録に残されている。


 そのほか、当時の大石寺の状況にくわしい僧らも、懐古談の中に、「小僧の失火」と記している者もいる。なかには火を出した小僧のとして、「増田壌允」のをあげている者もいる。


 これらのことから、出火の原因が所化の失火であることは、火事直後の大石寺内においては定まった説であったことがうかがえる。事実、当時、大石寺にいたある僧侶は、「所化によるタバコの火の不始末」であったと明言している。


 ところが、大石寺はいつの頃からか、この大火は日本軍将校に不満を持った鮮兵が、将校宿舎となっていた対面所に放火したことにより発生したと言いはじめた。内部の者による失火では体裁が悪いと考え、大火の責任を、なかば強制的に連行されてきた鮮兵に転嫁しようとしたのである。


 このデマのもととなったのは、日蓮宗の坊主である安永弁哲が著した『板本尊偽作論』を破折するため、日蓮正宗側が出版した「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」である。この本の編集・発行者は「日蓮正宗布教会」、取扱所は「大日蓮編集室」で、昭和31年930日に発行された。


 この日蓮正宗の公式的な見解がまったくのウソであったため、以後、大火の責任が「鮮兵」になすりつけられることとなったのである。


「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」には、次のように出火の状況が書かれている。


 先づ其の出火から言えば、大石寺大奥の管長居室は二階建の座敷であつて、其の三間程距てた所に応接室の對面所という建物があつた。世界大戰も漸く苛烈になつて來て、陸軍では鮮の人達を悉く兵隊として、全国の各地に宿泊せしめて居たが、大石寺も其の宿舎となつた為め数百鮮人の兵隊が大石寺の客殿から書院に宿泊して居つた。そして此れを訓練する將校が二十数も對面所に宿泊していたのである。丁度静岡市空襲の晩に此れ等の兵隊がガソリンを撒布して、將校室となつていた其の對面所の裏側の羽目に火を付けたのである。其の為め火は一瞬にして建物の全部に燃え上つたのである。其れが為めに將校は身の廻りの者を持つて僅か三尺の縁側の外に逃げるのが漸くであつたのである。火はやはり殆ど同時に管長室に燃え上つたのである。侍僧は階下に寝ていたが、反対側の窓を破つて、之れまた漸く逃れたのである。此時には一山の者が駆けつけたが、最早や、手の施し樣もなかつたのであつて、忽ちのうちに二階建は焼失して了つたのである。一同は其れよりも延焼を防ぐべく努力したが、遂に客殿、書院、土蔵を灰燼に帰せしめたのである。


 以上の「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」の記事には、随所にウソの記述が散見されるのであるが、並んで建っている対面所と大奥が、たちまちのうちに火に包まれたという文章全体のトーンは正しいとわれる。


 管長代務者の中島廣政も、先の妙光寺における彼岸会で、「出火の場所は御居間(2階)の階下に隣る押入で三尺の廊下を隔てた對面所には農耕隊の將校が寝て居たのでありますが火の廻はりが急なため身を以て逃れ軍服を取出す遑〈いとま〉さへなく」(※〈 〉内、筆者加筆)と話したことが記録されている。


 また日本軍将校が軍服のみならず、軍人の魂ともいえる軍刀を焼失したと懐古談に記している者もいる。これらのことからして、対面所とそれに隣接した大奥が、ほぼ同時に火に包まれたことは像にくない。


 管長代務者・中島が「御居間」と話しているのは、大奥2階の管長室のことであろうとわれる。出火は、日恭の寝ていたすぐ下の方であったのだ。これでは日恭が逃げることができなかったのは無理からぬこと。


 しかも日恭は、巨体(一説には100kgを超えていたと言われている)で、疝気と足腰が弱っていたため歩行困であったという。また、この焼死をする昭和20年617日の9日前に日恭に会った信徒は、


「昭和二十年五東京大空襲の時大久保の家が焼失し、その年の六八日登山して上人にお目通りを願つたとき御短冊の寓を御伺いしたら上人はいや別に味はないいついて書いて上げたのだと仰せられおがお惡かつたので質問を書いてお目にかけ御答を仰いだ。お目通りするなり『国諫のことか』と仰せられた。

 それ程当時は国諫が宗内の問題になつていた。それは御遷化九日前のことである」(『唯信唯行』より一部抜粋)


 と、当時、日恭が聞こえなくなっていたことを記述している。火の廻りが速く、巨体の上に持病で歩行困、そしてが聞こえなかったため、日恭は焼死したのである。


 宗門の出した「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」には、

「皆んな上人が戦場の如き大石寺に於て兵火の発するのを見て、遂に力の及ばざるを御考えなされて、寧ろ自決なされたと拝せられる。えば一宗の管長とし立正安国の御聖訓を体して、国家の隆昌を祈り、国民の安泰を願い、日々夜々一宗を督励し祈願をこめ給いしに、遂に敗戦を眼前に控え、既*に力及ばず、老躰を焼いて国家の罪障を滅せんにはしかずとして、自決の道を選ばれたと拝せられる」

 と書かれているが、これは日恭の死を美化しているだけのことである。日恭はただ逃げ遅れて死に、それも竈(かまど)に嵌まり込み上半身は黒焦げとなり下半身と腹わたのみが残ったのである。


 そもそも日恭が死んだのは、大奥である。先号の『地涌』第680号に大坊建物配置図を掲載しておいたのでそれを参考にしてもらいたいが、対面所と大奥はほぼ同時に焼け始め、その後、火は大書院から客殿へと延焼していった。


 17日午後10時半頃に出火し、翌4時頃まで約5時間半にわたり、燃えつづけたのである。日恭が焼け死んだときは、まだ対面所と大奥が燃えているだけで、日恭が死をいつめるほどの段階ではない。


 大奥から逃げおおせた日恭が、客殿の延焼を見て、客殿の火に身を投じ「自決」したというのならともかく、事実は火事がいくらも広がっていない出火初期に大奥で死んでいたというのだから、日恭はただ単に逃げることができず横死したと判断するのが妥当である。


 もしこの段階で責任をじ「自決」を覚悟したとなれば、日恭は相当なあわて者ということになる。


 もっとも自決するのに竃に入る者などいない。


「惡書『板本尊偽作論』を粉砕す」に書かれている。


 灰燼の中から上人の御遺骸を見出したのであるが、それは御寝所の部屋でなく、御内安置の部屋であり、其の御内の前辺りにうつ伏せになつてをられたとはれる姿勢が拝せられた


 などといった証言は、まったくの作り話。鮮兵が放火したという話と、同じ類いである。


 日蓮大聖人曰く、


 聖人は横死せず(神国王御書


 日恭により、無残な焼死を遂げた。人は“法主”の地位にあるだけでは、聖人ではないのである。

1993-07-16

宗門は日恭焼死の火事の原因が所化の失火だと知りながら朝鮮兵が対面所に放火したことが原因だと嘘をついてきた


『地涌』選集 第680号1993-07-16】


 先号につづき、「妙」(平成5年71日付)が報じた「『地涌からの通信・資料編』を笑う」に反論する。


 昭和20年617日に起きた大石寺の大火により、時の“法主”である大石寺嗣法第62世鈴木日恭は焼死した。その死にざまについて、「『地涌』からの通信・別巻(1)資料編」に書いたのだが、この日恭の死に対する宗内僧侶の反響は、実に大きなものがあった。そのため、当時の状況を知る人々から多くの情報を得ることができた。


 それらの情報を基に総合的に判断すると、火事の原因、規模などは以下のようなものであった。


 まず火事の原因であるが、所化の失火による。大奥に隣接する部屋(対面所の廊下をはさんで北側)の押し入れより出火したもよう。増田壌允という所化が、ローソクを立てて足袋かなにかを乾かしていて、そのうち眠ってしまい火事となったという説と、所化が押し入れに隠れてタバコを吸っていてボヤを出し、いったんは消したが完全に消えておらず、1時間くらい経過してから再び燃え上がり大火となったという説とがある。


 本紙『地涌』は、ある有力情報により後者が真実であろうと判断する。おそらく前者の説は、その当時、火を出した増田がウソをついたものであろう。いずれにしても火事の直後には、所化による失火ということが定説であった。


 それを宗門はいつの頃からか、日本人将校に不満を持つ鮮兵が、将校の宿泊所となっている対面所に放火したと言いはじめた。人道上、許すことのできない、卑怯な差別的な責任の押しつけである。


 宗門は創価学会に対しても、社会に対しても、この偽説を今日まで長年にわたり主張し、鮮の人々に火事の責任を転嫁してきた。


 別ページの大坊建物配置図を見ていただきたい。種々の資料、情報から判断するに、出火場所は大奥と対面所北側の廊下のあいだにあった「奥番部屋」の押し入れであったようだ。出火時刻は、昭和20年617日午後10時30分頃。火は対面所と2階建ての大奥(木造2階建)を、ほぼ同時に焼き、その後、東南に向けて延焼し、大書院を焼き、つづいて六壷、客殿を焼き尽くした。


 約250畳の大書院には神棚が祀られ、200とも300とも伝えられる鮮兵がザコ寝していた。鮮兵はなかば強制的に日本に連れてこられ、大石寺周辺で開墾や農耕に従事させられていた。この鮮兵たちが、大書院のみならず客殿をも宿泊所としていたということも伝えられている。


 いずれにしても、大奥そばの将校宿泊所となっていた対面所を含め、大書院、客殿、厨房などを兵たちがわがもの顔で使い、大奥の一部を除いて、大坊はほぼ兵営と化していたのである。


 僧たちは、兵たちに威圧され肩身の狭いいで生活していた。日恭が大石寺にいなかったのは、病気が表立っての理由とされているが、このような生活環境も、日恭が大石寺より遠のいていた原因の一つであったとえる(筆者注※この頃、日恭は別の所に通常住んでおり、焼死した晩のみたまたま大石寺に泊まった)。


 総本山大石寺のありさまと日恭の行動を合わせ考えるに、日恭には兵に蹂躪されつつある大石寺に残り、体を張ってでも大御本尊様を守ろうとの気迫はさらさらなかったようにえる。おおむね日恭は、軍になされるままであったのだろう。


 なお建物配置図を見てもわかるように、神棚の祀り込まれた大書院は、大奥に隣接する大石寺にとって主要な建物であった。


 また、大御本尊様まします御宝蔵の間近でもあった。大石寺中枢に謗法を祀り込まれてしまっていたのだ。日蓮大聖人は末流のふがいなさを、どれほど嘆かれたことであろうか。


 大石寺を紅蓮の炎で包んだ大火が鎮まったのは、翌18日午前4時頃のことであった。日恭の焼死体が発見されたのは、大奥の焼け跡からであった。これまで本紙『地涌』は、客殿焼け跡より焼死体発見としたが、大奥の奥台所の焼け跡からというのが正しい。


 日恭は当夜、大奥2階に泊まっていたが、火の廻りが早く、当人も巨躯と持病の疝気(漢方で、大小腸・生殖器などの下腹部内臓が痛む病気)のため歩行が不自由であったため逃げ遅れた。


 焼け跡から発見された日恭は、上半身が黒焦げとなり下半身と腹わたが生身のまま残っていた。この火事の犠牲者は、日恭一人のみであった。


妙」(同)は、日恭の無残な死にざまについて書いた「『地涌』からの通信・別巻(1)資料編』の記事は、邪宗日蓮宗の坊主・安永弁哲の書いた『板本尊偽作論』をタネ本にしていると中傷している。


妙」としては、邪宗日蓮宗の坊主のを出すことにより、日恭の無残な死が信憑のないものであるとしたいのであろう。だが「妙」にとって、はなはだ気の毒なことであるが、日恭の死にざまについての有力情報は、日蓮正宗内部よりもたらされているのである。


妙」編集部の諸君は、当時の状況を知る僧や根檀家などからしっかりと取材をするべきである。


 なにしろこの“法主”の無残な死を見つめることは、法の厳しき因果律を学ぶことに通じるのだ。日恭の死をであると厳粛に受け止めることが、弟子として肝要なことなのである。


 当時の管長代務者である中島廣政は、昭和20年9の妙光寺彼岸会で日恭の死について、つぎのような考えられないような不運が重なった結果であると話している。


「書院には300の農耕兵が居りましたが或事情のため消火に協力出来ず、門前にあった消防自動車は故障のため使へず、上井出から來た戰車學校の自動車はガソリンを忘れたため是亦役に立たず、富士宮では消防自動車が大石寺出火と聞き逸早く出動準備を整へたのでありますが、署長不在のため命令を受けられず、空しく時を過し上野署よりの應援要請で馳著けた時は火は既*に客殿に移り、手の下しやうもないと云ふ此上ない悪條件揃ひであって、洵に宿命と申す外はないのであります」


 その上で中島は、日恭の死について、


「然し金口嫡々の法主上人が此くの如き御最期を御遂げになったと云ふことは僧俗共に深く考へなければならぬことで是は大聖人大慈の御誡であります」と素直に受け止め、彼岸会において宗門大衆を前に話している。


 確かにこれほどの不運が重なることも珍しい。まさに以外のなにものでもない。そのうえ、これこそを認識する核部分であるが、竈に嵌まり込み、逃げるに逃げられず上半身黒焦げ、下半身生身の無残な死に方を日恭はしたのである。さすがに当時の宗門中枢も、この不運が重なった結果として総本山大石寺が大火に焼け落ちて“法主”が無残な死を遂げた事実に直面し、かりそめであれ謗法に染まった過去を懺悔していたのである。その歴史的事実に目をつむり、宗門は今日になっても日恭の死を美化し、真実を隠蔽することに腐している。そのような愚かなことはもう止めるべきだ。


 時はすでに“法主”の権威をもって真実を隠蔽することを許さない。道を志す者であれば、事実を事実として認め、法の本質を学ぶべきである。


 なお余談になるが、邪宗日蓮宗の坊主・安永弁哲の書いた『板本尊偽作論』のネタを提供したのは、日蓮正宗の妖僧・小笠原慈聞である。『板本尊偽作論』は、日蓮正宗内の長年にわたる出家同士の確執が、形を変えて表面化したものであるといえる。


 末法において度しきは、法盗っ人たちである。

1993-07-15

大謗法を犯し仏子を迫害した日恭が堕獄の相を現じたのを真実のまま伝えることは仏法の因果律を教えることに通ず


『地涌』選集 第679号1993-07-15】


妙」(平成5年71日付)が、「『地涌からの通信・資料編』を笑う」と題して、大石寺第62世日恭の死にざまについて、事実を隠蔽しようと姑な文を掲載している。


妙」は、『地涌からの通信・資料編』が日恭の死について報じた真実の報道が気にくわないというのである。日恭の無残な死が真実となれば、“法主”を“現代における大聖人様”と崇め、その生きに“信伏随従”することを根本教義とする邪宗日顕宗にとっては、はなはだ不都合なことになる。それだけに日恭の死にまつわる真実を、歴史の奥底に隠しておきたいのである。


 では「『地涌』からの通信・別巻(1)資料編」は、日恭の死についてどのように記述していたであろうか。関連部分を以下に引用する。


 昭和20年617日、大石寺は炎に包まれた。対面所裏より出火した炎は対面所、客殿、六壺、大奥などを焼き尽くした。四時まで燃え盛ったといわれる炎は、第62世日恭の生命を奪った。焼け跡から発見された日恭の焼死体は、法の厳しさを示して余りあるものであった。日恭は、客殿1階部分の、主に従員などが食事をしていた食堂の一角にあった竃(かまど)で発見されたのである。日恭は竃の中に下半身がはまり込み焼け死んでいた。しかも無残なことには、下半身と腹わたは焼けず、生身のままで上半身のみ黒焦げとなって死んでいたのであった。

 日恭は前日、静養先の隠居所からたまたま大石寺に戻り、火事の夜、客殿2階にあった管長室に泊まった。日恭は巨躯(きょく)と病気のために歩行困であった。

 その日恭が火に巻かれ、速やかに逃げることができなかったのは無理からぬことであった。恐らくは火事のため客殿2階の床が焼け落ち、日恭は1階に落ち、識のあるまま竃に嵌まり込み、逃げるに逃げられないまま焼け死んだとわれる。上半身のみ焼け、下半身と腹わたが残った死体が、そのことを物語っている。

 時の法主が本山で無残な焼死をしたことは、法の因果からして当然のことであった。軍部の猛威を前にして恐怖し、御書削除、御観文の改竄、そして神札甘受と大聖人の教えを次々と打ち捨て、その上あろうことか、仏勅の団体である創価学会(当時・創価教育学会)を自己保身の故に見捨てた宗門に、厳が下ったのだ。

(筆者注※日恭は大奥に隣接する「奥台所」の竃にはまり込み焼け死んだと、後に判明した)


 この文について「妙」は、「読むも汚らわしい文章だが、『文は人なり』とはこのことであろう。学会の御歴代を貶(おとし)めんとする体質がにじみ出ているではないか」と、反論の冒頭に書いている。


 まず、を押しておきたいのは、「『地涌』からの通信・別巻(1)資料編」の発行者は、日蓮正宗自由通信同盟の不破優で「学会」ではない。今後ともくれぐれも間違わないよう気をつけてもらいたい。


 では、本論に入る。この文章は、「御歴代を貶めんとする」目的で決して書いたのではない。法の因果律の厳しさを読者に知ってもらおうとしたものである。したがって、この文章それ自体が汚らわしいのではなく、日恭の死が汚らわしいのである。


 この事実を、まず明確に認識する必要がある。竈に嵌まり込み、上半身が焼け焦げ下半身と腹ワタが焼け残った死体について、耽美的な文章をもって表現できる人はいない。


 日蓮大聖人曰く、


「今畏の遺形を観るに漸く加縮小し黒皮隠隠として骨其露なり」等云云、彼の弟子等は死後に地獄の相の顕われたるをしらずして徳をあぐなど・をもへども・かきあらはせる筆は畏が失をかけり、死してありければ身やふやく・つづまり・ちひさく皮はくろし骨あらはなり等云云、人死して後・色の黒きは地獄と定むる事は陀の金言ぞかし(報恩抄


【通解】「今、善無畏の遺体を見ると、次第に体が縮小し、黒皮に覆われて、骨が露われている」等とある。彼の弟子等は、死後に無間地獄に堕ちた相が顕れたことを知らずに、師の徳を宣揚しようとったが、書き著わした文は、善無畏の堕地獄の失を書き残してしまった。死んでしまったので、体が次第に縮まり、小さくなり、皮膚は黒く、骨が露れている等と書いている。人が死んだ後に色が黒いのは、地獄であると定めることは、陀の金言なのである。

 

妙」はこの無残な死を描写された御本の御聖訓についても、「文は人なり」と批判し、文を書いた日蓮大聖人を卑しむというのであろうか。峻厳なる法の因果律を教えるために、御本といえども不成の死について露な真実を伝えられているのである。


 日恭は、戦時下にあって国家権力の猛威を恐れ、戦争翼賛の訓諭、伊勢神宮遥拝の院達、御書の字句を削除、御観文の改竄、神札甘受などの大謗法を犯した。


 さらには、日蓮大聖人の教えどおり謗法厳戒にして折伏弘教に精進していた創価教育学会・牧口常三郎会長らが、昭和18年7に治安維持法違反、不敬罪の容疑で逮捕されるや、同会長らを信徒除にした。それが日恭である。


 日蓮大聖人の弟子、とりわけ“法主”として絶対なしてはならないことを数限りなく犯したのであるから、日恭が厳然たるを蒙って無残な死を遂げたのは法の因果律に照らして、むしろ当然すぎるほど当然なことである。


 したがって、日恭厳然たる死の姿を真実のままに認識することは、法を正しく学ぶうえで非常に重要なことといえる。


“法主”であっても謗法を犯し子を迫害すれば臨終において堕地獄の相を現ずることとなる。すなわち“法主”であろうと謗法を犯し子を迫害すれば成しない。


 繰り返しておくが、日恭の無残な死をそのまま伝えることは、法の厳しき因果律を伝えることである。汚らわしいのは日恭の死であって、その真実を通し法の厳しさを伝える文を、「読むも汚らわしい文章」と誹謗する「妙」の記事は、真実から目を背け、法の因果律をないがしろにする破法の記事であるといえる。


 何よりも大事なことは、真実が露見して困るような死に方を“法主”自身がしないことである。宗内の僧俗は、もし“法主”が法違背した場合は、慈悲をもって“法主”の間違いを正すべきだ。それはとりもなおさず正法正義を守ることとなり、日蓮大聖人の弟子としての責務である。


 以上、まずは「妙」6行分の反論まで。