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1993-08-19

日恭が無惨な焼死をして後世に恥を残すこととなったのは日恭が本質的には悪人、愚人、誹謗正法の人であったからだ


『地涌』選集 第687号1993-08-19】


 人の死にざまはいろいろある。病死もあれば横死もあり、刑死もあれば獄死もある。みずから命を断つ自殺もある。同じ病死であっても、悶の死もあれば安穏な死もある。頓死(とんし)、急死もあれば、衰死(すいし)もある。横死とひと口に言っても、焼死、溺死、水死、凍死、餓死、轢死(れきし)、斬死(ざんし)、事故死など枚挙に暇(いとま)がない。


 死の義から見れば、諫死(かんし)、憤死(ふんし)、殉死、殉教、徒死(犬死に)、甘死(かんし)、慙死(ざんし)などに分別することができる。同じ一個の人間の死であっても、死の義は千差万別だ。


 いずれにしても高等動物たる人間は、死期、死所、死にざまを選び、自己の満足できる死に方をしたいとっている。とりわけ法を信ずる人は、生涯を広宣流布に捧げ、臨終にあっては余なく唱題し、見事な死を遂げたいと願っている。


 まさに臨終こそ、信仰者にとって一生の総仕上げといえる。


 一つの生を終え、新たな生の始めとなる死は、永遠なる生命の結節点であり、見えざる来世を予見させるものでもある。それだけに、人間の死は人々に多大なる衝撃を与える。生物的には同じ死でありながら、死がさまざまな呼称で呼ばれる理由の一つは、このあたりにもありそうだ。


 それにつけても竈に嵌まり込み、逃げるに逃げられず、上半身黒焦げ下半身生焼けの大石寺第62世日恭の死に様は、抜きん出て衝撃的である。


 提婆達多は、釈迦の弟子となりながら退転し、破和合僧、出身血、殺阿羅漢などの三逆罪を犯し、釈迦および釈迦教団を迫害した。この提婆達多は、生きながら阿鼻獄に堕ちたという。


 日蓮大聖人曰く、


 悪人は提婆に・かたらいしなり、されば厚さ十六万八千由旬・其の下に金剛の風輪ある大地すでにわれて生身に無間大に堕ちにき(法華経題目抄)


【通解】悪人は提婆達多の下にかたらうこととなったのである。その結果、厚さ十六万八千由旬もあり、その下には、最も堅い金剛の風輪さえある堅固な大地が割れて、提婆は生きながら無間大に堕ちた。

 

 提婆達多が身は既に五尺の人身なりわづかに三逆罪に及びしかば大地破れて地獄に入りぬ」(法蓮抄)


【通解】提婆達多の身は五尺の人身であるが、わずかに三逆罪を犯して、大地が破れて地獄に堕ちてしまった。

 

 この提婆達多の死にざまに比して、日恭の死はいかがなものであろうか。


 日恭の死は、提婆に勝るとも劣らぬ無惨さ汚さである。この現証の厳しさは、日蓮大聖人の門流に属し大石寺貫首という責任ある立場にありながら、みずから数々の謗法を犯し法を壊乱し、真の子を迫害したことによる罪の深さ重さの故であろう。


 中国の僧・善導が柳の木より身を投げ、その後14日間しみぬいて死んだこと、天台宗に真言の邪義を入れた慈覚の首と身が別の所にあること、同じく天台宗の明雲座主が木曽義仲に首を刎ねられたこと、などは故なきことではない。


 日蓮大聖人が、御聖訓の随所で仰せのとおりである。これらと日恭の死とは同類である。


 日恭は、生前にあっては大石寺貫首として日蓮正宗の“法主”の地位にあり、それなりの栄誉をものにした。だが日恭の死は無様にして恥を後世に残すこととなった。


 日蓮大聖人曰く、


 生の法の定例・聖賢の御繁盛の花なり死の後の恥辱は悪人・愚人・誹謗正法の人招くわざわいなり、所謂大慢ばら門・須利等なり(慈覚大師事)


【通解】生きているあいだのは、法の定例であり、聖人・賢人の御繁盛を表す花ともいうべきであるが、死後に受ける恥辱は、悪人や愚人、とりわけ正法を誹謗した人が招くところの禍であって、ちょうどインドにおける大慢婆羅門や須利などと同じである。

 

 日恭の死がなにを味するかは、御本日蓮大聖人の御聖訓を拝するほど明々白々となってくるのである。


 では、本紙『地涌』はなぜ日恭焼死の法上の味を執拗に追及するのであろうか。その作を精緻におこなうことは、法主本論、“不二の尊体”論など日顕宗が依り処としている謬見を、結果的に破すことになる。


 だがこの「仏勅」シリーズにおいて、日恭の死にざまを云々することは、その目的のためではない。


 日恭が焼死した昭和20年617日は、他国侵逼である第二次世界大戦の最終局面にあり、直後の73日には戸田城聖創価学会第二代会長が出獄し、815日には終戦となっている。


 その後、出獄した戸田会長の死身弘法の戦いによって、日蓮大聖人の法は謗法の国・日本に弘まり、大法弘通の時を迎えるに至った。


 振り返って見れば、他国侵逼たる第二次世界大戦は、正法興隆にいたる道程の始まりであった。この他国侵逼の下にあっては、もう一つの直視すべき死があった。牧口常三郎創価学会初代会長の死である。


 法上深い義を有する他国侵逼の下における、牧口会長の獄死、日恭の焼死。この二つの死を対比し、法上の義を問い、死の価値を究めることは、おのずから両者がそれぞれ統率した創価学会(当時、創価教育学会)と日蓮正宗という二つの団体が、他国侵逼という時代相において、どのような義、価値をとどめたかを評価することにつながる。


 そのことは、創価学会法上における本質的な存在義に迫ることともなる。さらには日蓮正宗の当代“法主”が僣聖増上慢と化し、なぜ宗団挙げて子を迫害するまでに狂乱してしまったか、その歴史的理由も定かとなってくるのである。