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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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1994-04-24

聞き書き4.24


 昭和54年3――

 当時、副会長だった福島源次郎が九州の地で宗門を批判。

猊下に対し、誰もお慕いして近寄ろうとしない。猊下が通っても、どこのオジサンだ、という程度の覚しかない」

「葬式に赤いスポーツカーで来る坊主がいる」

「カツラをかぶってスナックに出入りしている坊主がいる」等々。

 大牟田発言である。


 昭和52年「仏教史観を語る」と題した池田先生の講演を、宗門が一方的に問題視。正信会の悪侶どもが学会批判を昂然と開始。更には週刊誌をも巻き込んで、昭和53年になると、連日、学会を誹謗する記事が全国に満ち溢れた。


 そうした逆風に次ぐ逆風の中、池田先生は誠に誠を重ねられて、僧俗和合のための指揮を執られたのである。御聖訓に照らし、学会には一点の誤りもないにも関わらず、折れるところは全て折れ、退けるところは全て退き、下げる必要のない頭をも先生は下げたのであった。


 一切は広宣流布のためであり、学会員を守るためであり、僧俗和合のためであった。


 その先生のご労を木っ端微塵にぶち壊したのが、福島源次郎の大牟田発言であった。この知らずのデタラメな弟子の、安易にして不用な発言が、宗門内の地下にくすぶる嫉妬の炎を爆発させたのだった。

「今こそ池田大作を亡き者にしよう!」

「そして、骨抜きとなった学会を宗門の手で支配しよう!」

 全宗門がこぞってその牙を剥き出しにした。その有り様は小さな傷口に薄汚れた爪を突っ込んで、力まかせに引き裂くようなやり方だった。宗門のどす黒い本が露呈した。


 それでも先生は耐えた。全学会員のために――。


 手足を縛られた勇者にビンタをくらわせるように宗門は言い放った。

「会長を辞めれば水に流してやる」と――。


 4の6〜7日、総本山大石寺において、お虫払い大法要が行われた。東京を発つ前に、同行を予定していた婦人部最高幹部に先生は言った。

「婦人部は来なくていいよ。嫌ないをするのは私一人でいい」と。


 全国統一地方選を大勝利で終え、新宿文化会館で県長会が行われた。全国から嬉々として師の下(もと)に集ったこの会合は、大歓喜の内に始まり終わることを誰一人疑う者はいなかった。

「今日は会長交代だよ」

 無造作に言われた先生の一言で、会場は水を打ったような静けさに一変した。全幹部が、一瞬、何がどうなったのかわからなくなった。

「今、先生は何とおっしゃったのだろう?」

 誰もが聞き間違いだとった。しかし、そうではなかった。

「次の会長は北条さんだよ」

 皆、初めて事態を呑み込んだ。

「だけど、何も変わらないんだよ!」

 いつもと変わらぬ先生の姿がそこにあった。


 場内のあちこちですすり泣くが漏れた。その光景を慈しまれ、師は弟子に向かって言った。

「泣くやつがあるか。大が来たんだ。これほどの喜びはないじゃないか」


 会合終了後、エレベーターの前で、先生は参加者全員と握手し、激励された。


 その後、会長勇退記者会見のため、先生は聖教新聞社に向かわれた。新宿文化会館5階よりエレベーターに乗った先生は、その扉が閉じる寸前に言った。

「もう、ドラマは終わってしまったよ――」

 そして1階で止まるなり続けて言われた。

「さあ! 新しい時代の幕開けだよ!」

 エレベーターの扉は無限の空間に向かって開かれた。

 そこから傷だらけで、血まみれになっても尚、戦うことをやめぬ、真実の戸田門下生の壮絶な死闘が開始された。


 こうして昭和54年424日、一切の泥をかぶって、先生は第三代会長を勇退された。

 これで全てが収まるはずであった。しかし、宗門は更に広げに広げた傷口に、今度は手を突っ込んで腸(はらわた)まで引き摺り出そうとした。

「会長を辞めたのだから、大きな会合での指導はするな」と。

「会長を辞めたのだから、聖教新聞にも出すな」と。

「学会から師弟論を外せ」と。

「会長を辞めたのだから、“先生”と呼ばせるな」と。

 これらの条件をピストルを突きつけるように学会に言い渡した。

 事ここに至って弱きをおどし、強きをおそれる畜生さながらの宗門の姿が明らかとなった。だが既に遅過ぎた。もう取り返しがつかなかった。


 暗雲が垂れ込めたまま巡り来た53日。記式典が行われる創価大学中央体育館へ向かう参加者の足取りは重かった。


 会合に先立って司会より注事項が申し渡された。

「本日の会合に池田誉会長が出席されますが、一切、拍手はなさらないようお願いいたします。また、『先生』と呼ばないよう、よろしくお願いいたします」


 先生は式典の途中より入場。そして、途中にて退場された。

 壇上の半分の席を埋めた僧侶達は、勝ち誇ったような顔つきで、去りゆく先生の後ろ姿が見えなくなるまで見下ろしていたという。

 中央体育館からの長い渡り廊下を歩かれる先生。そこに会場に入れずにたたずんでいる婦人部がいた。先生の姿を目に留めるや否や、婦人は駆け寄った。 誰が何と言おうと、また、何人たりとも侵(おか)すことのできない大情が言葉となってほとばしり出た。

「先生ぇーーーっ!」

 無の一婦人の魂の叫びであった。

 先生は抱きかかえるように激励され、側近幹部に向かって言った。

「この婦人を誰が激励するんだ! 誰が守るんだ!」

「私はどのような立場になろうとも、この婦人を一生涯守っていくよ!」


 この痛恨の53日早、牧口竹林にて先生は記された。

「内外の策動により 我 清水のにて 勇退に臨む  大作」


 更に55日、神奈川文化にて「正義」と大書の揮毫を。脇には「われ一人正義の旗持つ也 大作」と記された。

 後日、四国のメンバーが、先生のいらっしゃる神奈川文化に到着。一人ひとりと握手をして歓迎される先生。その模様が翌日の聖教新聞一面トップのニュースに。しかし、掲載された写真には、先生の右腕のヒジから先しか写っていなかった。


 学会本部にあっては会長室には入られず、管理者室で仕事をされていた。


 そうした嵐の荒れ狂う中、泰然自若として先生は語った。

「私は広布の戦人(いくさびと)だから、少しも変わらないよ。天を相手に戦うよ」

 そしてまたある時はこう仰せになった。

「だけど私は強いよ。戸田先生の弟子だもの」


 宗門からの条件を全て呑み、ギリギリの状況の中で戦いを起される。

「じゃあ、一緒に勤行をしよう。日蓮正宗の信徒だもの。勤行は文句ないだろう」

 こうして始まったのが自由勤行会だった。


 また、全国各地の支部証を書いて下さり、先生はまるっきり見えないところにありながら、全会員に追い風を送って下さった。どこへ行くにも先生は、硯(すずり)と筆を持ち歩かれ、実にその数は一万数千枚にもわたった。


 後年、振り返られて先生は言われた。


 しゃべるなと言われても、書くことができる。書くなと言われれば、音楽を弾いてでも激励できる。(中略)どんな立場になろうと、私は私である。どんな圧迫があろうとも、私は愛する学会員のために働き続ける。それが、この十数年間の私の決であり、戦いであった。


【第20回婦人部幹部会、江戸川・葛飾・足立文化音楽祭 1991-12-14 東京戸田記講堂】


 全国各地の会館で自由勤行会を開き、ピアノを弾いて学会員を励ます先生。その音色は「私は大丈夫だよ。何があっても変わらないよ。私と皆さんの間を切ろうとしても切ることはできないよ!」と語りかけているようだった。


 偉大なる指導者の民衆厳護の戦いは既に前年の昭和53年に始まっていた。

 316日には女子部歌「青春桜」。

 630日、学生部歌「広布に走れ」。

 73日、男子部歌「友よ起て」。

 81日、高等部歌「正義の走者」。

 これらの歌を次々と先生が作って下さったのである。

 全国各地の歌も発表して下さり、81日には「ああ、激の同志あり」が。この年だけで数十曲の学会歌が作られる。どんなことがあろうとも、これらの歌を高らかに希望の前進を! とのご境であったとわれてならない。


 勇退後、開始された功労者宅訪問は、数年間でその数600件を上回った。


『青年よ二十一世紀の広布の山を登れ』で、先生はそのの内の一端を披瀝された。


 いかなる

 権威 権力をもって迫害されても

 一人の人間として

 どこまでを乗り越えられるか

 その姿を示しゆくところに

 人間革命の実証があるとの

 信に殉じて生きてきた


 絶対に

 卑怯者にはなりたくなかった

 また なってはならない

 裏切り者であってはならない

 それは

 いかに正義ぶった

 論調を展開しようとも

 もはや 野干になりさがった

 言々であることを知悉しているからだ


 ある会合に先立ち、中幹部が森田理事長に要請した。「第一次宗門問題の話をして下さい」と。理事長は言下に拒否した。「そんな話はできない! あの時はやられたんだ。我々は何もできなかったんだ!」


 文字通り、たった一人からの大闘争であった。全く光が見えない位置からのスタートだった。しかし、先生の一には広々とした世界広布の緑野が描かれていた。その先生の一が今や現実の姿となって現われている。いかなる不可能をも可能にする人間革命の余りにも熾烈なドラマであった。これこそ、どのような時代になろうとも絶対に忘れてはならない創価の魂である。


【※1994年424日に書いたもの】