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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2000-11-15

現代版:雪山童子物語


 果てのない深い闇に変化が生じた。きらめく星々の光が淡くなり、徐々にではあるが確実に青い色が、一年中溶けることのない雪に覆われた大地と凍てつく空を染めていた。天と地を分かつ鋭角の線が描かれたかとうと、どこまでも続く山脈(やまなみ)がを吹き返す。冴え冴えとした青色は甘えや妥協を断じて許さぬ厳しさを湛(たた)えていた。すると、一瞬にして青い色が溶け出した。昨日と同じようでありながら、全く違う太陽が劇的に姿を現した。新しい朝の誕生だ。


 小高い丘に一つの影が浮かんだ。高きを目指し、強靭なる志を満々と漲(みなぎ)らせる太陽が少年の眉目を照らす。その後ろには巨大な影が宇宙にまで延びていた。生きるものを拒否する厳寒の世界。神々しいばかりの虚無に打撃を与えるのは、光の粒子と少年が吐く白い。静寂を震わせるのは、少年の確かな鼓動と瑞々しい血液の循環。


 人々がまだ眠りについているこの時間が少年は好きだった。燃え盛る星が放つ光を浴びながら、彼は太陽と語る。

「孤独な宇宙の中で、あなたはどうしてそんなに輝く存在になれたのでしょう? あなたがそこにいるだけで人々は安し、温もりを覚える」


 少年はある時には悩みを打ち明け、またある時には決を語り、一日を出発した。

「あなたを照らすような人間になりたい!」

 少年から放たれた純粋無垢な波動が太陽を微かに揺らした。



歴史年表には載っていない遥か往古の時代。場所はヒマラヤ山脈。数千年に亘って語り継がれる物語――。



 丸太を組み合わせて作られた粗末な家に戻ると、部屋の中は既に暖められ、おいしそうな匂いが少年の小鼻をヒクヒクと動かした。

「お前は、いつも早いな」

 老父が嗄(しわが)れた声を掛けた。

「ウン、お天道様と朝の御挨拶さ」

 病弱な身体には不釣合いな弾んだ声が応じる。

 老父の目が細くなる。

 少年は動物の毛皮が敷かれた床に腰を下ろすや否や質問をした。

「爺ちゃん、どうして人間は死ぬんだい?」

「あらあら、また始まったよ」

 朝餉(あさげ)の支度をする母親が呆れ顔。

「そうさな――」

 老父は柔和な瞳で少年を見つめる。

「死ぬ時ってしいのかな? 病気で死ぬのと老衰じゃ何かが違うんだろう? 若くして亡くなる人はどうなのかな? 大体、人間ってどうして生きているんだろう……」

「そう、慌てなさんな。わしはもう年じゃから、そんな一遍には答えられんぞ。飯を食いながら、ゆるりと話し合おう」

「わしにも確かなことはわからん。じゃが、誰人たりとも死は免れない。これは人生最大の問題と言える。100年後には部族の誰一人生き残っちゃおるまい」

言葉を切ると老父は汁を美味そうに啜(すす)った。

「さ、お前も熱い内に食べなさい」


 年の頃は10歳ぐらいであろうか。普通の子よりも少し痩せ気味の少年は不議な瞳を持っていた。虹色をしたその瞳は少年の情によって様々な色に変化した。生と死の底を貫く真理を探ろうと懸命な彼の眼は深海の青と蒼穹(そうきゅう)の青に勝るとも劣らぬ色を発していた。


「死は決して恐れるものではない。そうかといって、見くびるわけにもいかない。死とは起こしてやることのできない眠りのようなものではないかのう――。お前は眠りに就いている時は何もじないか?」

「そんなことはないよ。だって夢を見るからね」

「どんな?」

「そりゃあ色々あるさ。楽しい夢もあれば、悲しい夢もあるよ」

「そうじゃろう。死もまた同じじゃ。安らかなのもあれば、のた打ち回るようなのもある。だが、どんなにしくっても起こしてやることはできない。さすれば死は孤独な世界に違いない。その人が生きてきた足跡が1ミリの狂いもなく、おまけも割り引きもなく清算されるのじゃ。悪を為してきた者はしい報いを受け、善を施した者は安楽を受ける――」



 地球上で空に最も近いこの村にも春が訪れた。所々には岩場が見え、少ないながらも植物が群生している。山を下ってゆくと樹々の枝には青々とした若芽が顔を出していた。そよぐ風が首の辺りを優しく撫でる。少年の背丈は少し伸び、脳細胞の動きはいや増して活発。沈黙考する時の瞳の青色は深みを増し、情熱の赤に転じると血潮よりも赫々(かっかく)と燃える色となり、友達と遊ぶ時は調和の緑と輝いた。


 彼は中空にピタリと静止しているかに見える眩し過ぎる太陽に眼を細めた。

「日は陽にして生、月は陰にして死を象徴しているのか――。生と死は河の流れのように流転して止(とど)まることを知らない。不議だ。実に不議だ! わかりたい。僕はどうしても真理を知りたい!」

 この問いが寝ても醒めても少年の頭から離れない。というよりも彼は既にこの問いを生きていたといった方が相応(ふさわ)しい。



 充実した毎日を過ごしながらも、少年の焼けつくような求道のは満たされなかった。これを知らずして、生きたと言えるのか? 否、否、否! それでは酔生夢死も同然の一生ではないのか? 少年は石に爪立てる決で大いなる命題と対峙していた。



 一歩一歩下るごとに空気は暖かくじられ、行き交う人の数も増して行った。買い出しに向かう少年の脚はしなやかな筋肉によって規則正しく前へ運ばれる。いつもだと浮き立つような昂奮が少年を支配するのだが今日は違う。色鮮やかな民俗衣装をまとった旅人と行き交っても少年の瞳は中空をはったと睨(にら)み、少し暗い青色のまま。舞い降りる枯れ葉。ぎょっと立ちすくむ少年。

「この葉っぱは春に生まれ、秋には死を迎えている。だけど、再び春になれば、新しい葉が生まれる。樹木が生きているからだろうけど……。でも、丸裸になった枝のどこを切っても葉っぱらしいものはない。ああ、わかりそうで、わからない――」



 必要なものを手に入れ少年は帰路へつく。ずんずんと進む足が力強く山々を踏みしめる。古(いにしえ)に、この山々を隆起させた力が乗り移ったかのようだ。いつしか道行く人の姿はなくなっていた。所々には溶けることのない雪。時折、吹きつける風が冷たい刃物のように少年の紅い頬を切りつける。左手には断崖、右手には遥かなる山並みと蒼い宇宙。


「森羅万象は常に変化する。宇宙は生滅のリズムを奏でる(諸行無常 是生滅法/しょぎょうむじょう ぜしょうめっぽう)」


 落雷に撃たれたように少年の身体が硬直した。止まる、高鳴る鼓動、逆流する血液。沸騰する激情が瞬時に瞳を赤々と染め、数秒後には、いまだかつて見たことのない青が支配した。満ち潮さながらの涙がこの世のものとはえぬ青に更なる演出を施す。貫く歓び、打ちのめす動、無限の余韻。

「それです!」

 を吹き返した少年の叫び声は全山の木々を震わせた。遍在する湖には完璧な円形をした波紋が同時に生じた。

 振り向く少年の前に現れたのは2メートルはあろうかという化け物さながらの大男。動物の皮をつぎはぎにした衣服はボロボロで、悪臭をぷんぷんと漂わせている。少年をはったと睨(にら)み据える目は濁りに濁っている。不精髭に覆われた頬。真理とは到底、程遠い存在であった。

「ヘッヘッヘッ……」

 下卑た笑い声を漏らした口元には涎(よだれ)が滴り、茶色く変色した歯が少し見えた。

 少年は矢のように男の前へ走りゆくと跪(ひざまず)いた。

「今の半偈(半分の偈文)を唱えたのは、あなたですね! 残りの半分を教えて下さい!」

 大男は脇の下をボリボリと掻いた。

「そうだなあ――」

 その図体には似合いもしない高い声がかすれて出た。声色には貧しいが滲み出ていた。だが、少年にはどのような姿であれ、真理を説く人間がいるということが最重要だった。

「腹が減った」

「は?」

「俺様は腹が減っているのだ。肉が喰いてえなあ」

「肉ですか! 少し猶予を下されば直ちにお持ちいたしましょう!」

「駄目だ! 今直ぐ食べたいのだ!」

「今日は買い出しに来たので弓矢を持っておりません。肉を買うお金も持っていないのです」

「ケッケッケッ。肉はあるじゃねえか」

「え?」

「俺は人肉でも大丈夫なんだよ。さしずめ、お前さんの肉なんぞは、なかなか美味そうだな。内臓は不味くて喰えたものではないが、肉はそれなりの味なんだよ」

「この私の肉をですか!」

「嫌なら別に構わんよ。だが、これっきりだな」

大男は踵(きびす)を返そうとした。

「お待ち下さい! あたら命を惜しんで長生きをしようとは私はいません。生と死の真理を知らずしては禽獣に等しい人生と笑われましょう。よし、こんな肉体でよければ歓んで差し上げましょう! いつかは土となる我が骨肉です。真理を悟れば、無上の人生となりましょう」

 大人びた少年の横顔に迷いはなかった。

「そうかい。そりゃ結構な掛けだ。お前の身体は子山羊よりも美味そうだ」

 少年の瞳には求道の青き焔(ほのお)が燃え盛った。

「お願いします!」

 大男はうっすらと目をつぶり、打って変わって朗々とした音声(おんじょう)で残り半偈を唱えた。


「生死に執着するを離れれば 永久不変の安楽となる(生滅滅巳 寂滅為楽/しょうめつめっち じゃくめついらく)」


 少年は握り拳を天高く突き上げ、雄叫びを上げる。

「ウォオオオーーーーー!」

 歓喜が身体をブルブルと震わせる。

「そうだ。そうだ。そうだった! 答えは私の中にあったのだ!」


 余韻に浸る少年がふと暗い表情をつくった。

「これを一人でも多くの人に伝えなくては――」

「少し時間を下さい」

「てめえ、まさか逃げるつもりじゃあるめえな」

「違います」

 と言うや否や少年は走った。尖った石を探し当てると、今聞いた一偈を樹の幹に刻んだ。更に大きな岩にも刻みつける。いくつか刻印すると少年の爪は剥がれかかり、白い手には深紅の鮮血。それでも少年の手は止まらない。多くの人々のためにじる痛は、まさしく彼の望むところであった。

「よし! いつの日か誰かがこの道を通った時に必ず目に触れるだろう。そして、その人が世界中に真理の言葉を広めてくれるに違いない」

 大きく一つくと 少年は

「お待たせしました」

 と言うなり、断崖を攀(よ)じ登り始めた。大男が豆粒ほどに見える高さに辿りついた。

「短かったけど永遠に等しい人生だったな。これで我が人生の一章は終焉(しゅうえん)を告げる。しかし、真理を悟った私は大地に根をおろす樹木となったのだ。一枚の葉っぱとしての劇は幕を閉じる。だが、永遠の魂は再び春を迎えることだろう」

 今一度、少年は一偈を唱えた。眼(まなこ)の色が溢れるような金色(こんじき)に輝いた。それは、いつもの朝の太陽が現れる瞬間を彷彿(ほうふつ)とさせる劇的な変化だった。面を上げると変わらぬ太陽がそこにいた。金色の瞳が放った光の速度は秒速30万キロメートルを上回り、瞬時にして陽光を押し返す。中空に一羽の鳥が羽ばたいた。その時、紛れもなく太陽の表面に鳥の影がクッキリと映し出された。神々しいばかりの微笑を太陽にさらして少年は低いが確かな声でこう言った。

「されど悔いなし」

 少年は身を投げた――。

 ヒマラヤを渡る鳥のように自由となった少年は大地に叩き付けられるまでの刹那(せつな)、数千回の生死(しょうじ)を体験した。あらゆる立場となって生まれた彼は、いつの世も自立した魂を持ち、邪悪と戦い、人々のために身を粉にして働いた。



 大男の姿は消えていた。そこに金色の羽が静かに舞い降りた。



 少年は後世、インドの釈迦族に王子として生まれる。ブッダとなる因を積んでいた修行の物語。彼が死の直前に説いたとされる涅槃経の挿話である。


 少年のを雪山童子(せっせんどうじ)という――


【了】