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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2001-12-28

国連の活動を積極的に支援


 ――世界平和の実現のためには、民衆次元での対話の促進とともに、国連の役割が焦点となってきます。21世紀の国連は、どうあるべきとわれますか。 


誉会長●さまざまな限界や制約があるにせよ、国連が戦後の半世紀を通じて、世界の大多数の国が参加する“対話の場”となってきたことの味は、実に大きい。

 未来の人類のためにも、国連を大事にすべきです。

「対話」と「協調」を軸とするソフトパワーにこそ、21世紀の国連が歩むべき大道はある。紛争防止にしても、軍事力による解決ではなく、予防重視で取り組んでいくことが求められます。 

 また、国連強化の要は、NGO非政府組織)をはじめとする民衆パワーとの連携にあります。 

 SGI創価学会インタナショナル)は、これまで一貫して国運支援を続けてきましたが、今後とも国連の活動をさまざまな角度から支えていきたいといます。 

 日本も、安保理の常任理事国入りばかりに固執するのではなく、環境や人間開発など、大きな役割を果たせる分野はたくさんあるのですから、そうした得分野でリーダーシップを発揮することが望ましいのではないでしょうか。 

 紛争解決の分野では先ほど述べたように、「予防外交」など紛争を激化させないための事前の措置に力を注ぐべきでしょう。それが、国連憲章や日本国憲法の精神に適う道だといます。


【「平和の世紀」の大道 21世紀の世界と日本を見つめて 第3回/聖教新聞 2001-12-28】

2001-12-21

『臨死体験』立花隆


【※他サイトに書いたもの】


科学万能主義による視野狭窄を露呈 1


 まどろっこしい本である。臨死体験への純粋な興味がある人は読まない方がいいだろう。私自身、上巻の前半で何度挫けそうになったかわからない。何らかの死生観を持っている人であれ、参考になる体験が数多く紹介されている。だが、立花が展開する論旨は“我が田に水を引く”強引さが丸見えで、実に鼻持ちならない。『宇宙からの帰還』(中公文庫)の頃と比べると、老獪(ろうかい)な印象が強い。


 週刊現代で連載されていた「同時代を撃つ!」で【少年の顔写真公開を一方的に批判した言論人たちは決定的に間違っている(1997年710日号)】と主張してからというもの、私の中で立花の評価は一気に下落した。それまでの文章から窺えなかった彼の根を見たいがしたものだ。


 そんな私が本書を手にしたのは、臨死体験に興味があったということと、死後の世界を語る人々の話を立花がどのように受け止めているかを確認したかったことによる。


 まず、構成が狡(ずる)賢い。何も知らない人であれば、かなりの確立で立花の主張に洗脳されるだろう。大部分は、臨死体験に必ず伴う体外離脱幽体離脱と同/立花はこの訳語が“幽体”というワケのわからないものがあるという前提があることを指摘し、体外離脱が適訳としている)をどう解釈するかということが連綿と綴られている。これには「脳内現象説」と「現実体験説」との二説があり、この間を行ったり来たりしながら、一応、科学的な態度というポーズをとりながら、巧みに自説へと誘導しているのである。



 テレビの討論番組でも頻繁に用いられる手だが、見や主張というのは最後に語られたものが強い印象を残す。番組それ自体は一見、平等な議論を放映しているように演出されているが、きちんと政治的な図が反映されているのである。どんなに立派な見があったとしても、最後にその見への批判が盛り込まれれば、視聴者の印象はどうしたって批判的な見へと傾いてしまう。


 それと全く同じ手口が本書で使われている。つまり、立花が支持する「脳内現象説」の例が必ず後で紹介されるようになっているのだ。また、「現実体験説」の件(くだり)には、必ずといってよいほど非科学的なものを嘲笑う形容が盛り込まれている。


 それをそのままストレートに書くのであれば、また立花も可愛げがあるのだが、彼は如何に自分が科学的態度でこの問題にアプローチしているかを見せつけたくてしようがないと見える。


 彼の主張は、余りにも科学や識にこだわり過ぎ、死を狭い枠で捉えることに汲々としている。また、結論的には両説とも、説明しきれない課題があり、死を解明するには程遠い現実が紹介され、自分は死ぬのが怖くなくなったという持論で締め括られている。つまり、私に言わせればこの本は何も書いてないに等しいのだ。読了できたのはひとえに、ここで紹介されていた体験や、臨死体験を研究する学者たちの視点が面白かったからに他ならない。立花の見なんぞは、読むだけ痛という代物であり、最後の最後まで無視したことを記しておく。


 老獪(ろうかい)極まりない手法はジャーナリズムの邪道であり、自説に固執する様が既に老人の仲間入りを果たしたことを見事に証明している。立花隆、既に過去の人物である。


科学万能主義による視野狭窄を露呈 2


 この本を批判するために別の本まで読む羽目となってしまった。これから書くので何とも言えないが、あと数回続くかも知れないことをお断りしておく。


 体外離脱の体験はいずれも面白いのだが、信憑となると随分と危ういものも含まれているそうだ。また、本人は体外離脱した算になっているが、から情報が入ることも考えられるという。


 学者というのは客観的な観察法を訓練されているので、それなりに信用度が高いようだ。そこで精神医学の父C・G・ユングの体験が紹介されている。ユングが筋梗塞に続いて足を骨折した際の出来事である。


 私は宇宙の高みに登っているとっていた。はるか下には、青い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野のなかに地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らし青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻(いぶし)銀のような濃緑の斑点をつけていた。(上巻51p)


 一度でも地球の写真を見たことがあれば、それが記憶に刻印されて錯覚を覚えたという反論もあろう。だが、「地球は青かった」とガガーリンが言ったのは、ユングの体験から16年後のことなのだ。ユングが見たという光景は、1500kmの高さからしか見ることのできないものだった。


 死に至る時、財産や地位などは何の役にも立たない。全てを毟(むし)り取られて鍋に入れられようとしている鳥みたいなものだろう。臨死体験ではそうした自覚が強烈に喚起されるようだ。生前の一切の虚飾をはぎ取った後に残るものは何か? 最後の最後、ギリギリのところで残されるものは何か? これこそ“私”であるとユングは語る。確かにそうだろう。人は生きてきたようにしか死ねないのだから。世間はごまかせても自分を偽ることはできない。どこぞにいるかわからない神様に嘘をついたとしても、自分だけは騙(だま)せない。自分の生きてきた足跡が、純粋極まりない実となって生命に焼き付けられるのだろう。


 上巻の前半は臨死体験について好的な記述が目立つ。ケネス・リングが「臨死体験の説明原理は、臨死体験のすべての様相を一挙にきれいに証明できるものでなければならない(上巻133p)」としているのに対して、立花は「前提そのものがおかしい(上巻134p)」と反論する。「世のいかなる現象であれ、現象というものは、単一の原因で起きるものもあれば、複数の原因が複合して起きるものもある。後者に対して、単一の説明原理を求めても、無理というものである(上巻134p)」と。ここではこれほど真っ当なことを書いておきながら立花は後半で自家撞着に陥る。ケネス・リングがいみじくも科学の役割を教えてくれる。科学とは説明原理なのだ。変化の様相を捉えることが科学の使命であり、そこに落とし穴もある。つまり、説明できないものは全て否定するという科学絶対主義に陥り易いということだ。科学はHow(いかに)に応じ、宗教はWhy(なぜ)に答えると言われる所以(ゆえん)はここにあるのだろう。


 次に挙げるのはフィンランドのラウニ・リーナ・ルーカネン・キルデ医学博士。この人物も体外離脱経験者である。


「エネルギー体と肉体との関係は、運転手と車の関係にたとえられるのが一番いいんじゃないかといます。車から降りても運転手は生きているわけです。この関係において医学は何をしえいるかというと、事故が起きたりしたときの救急活動をするわけですが、事故現場にかけつけても、運転手のことはほったらかしてでもっぱら車の手入れをしているだけなのです」(上巻166p)


 この考え方はなかなか巧みであると私なんぞはうのだが、立花はどうしても“識”に引き摺られた考を捨て切れない。識が全てであるという錯覚が、果てしない生命の広がりを脳の中に閉じ込めようとする始末だ。


 私が臨死体験に興味を持つのは、体験後の人々の人生観が決定的に変化するところだ。様々なアンケートが紹介されているが、「他人を助けたいという気持ちが増加した」「スピリチュアルなことに対するが増した」「宗教的情が増加した」「生命の尊厳が激増した」(ケネス・リングの調査による/234p)などという共通した内容が、平和に直結しているようにえてならないのだ。


 人間が健康な状態にあるときの日常的な目覚めた識があると、それにおおい隠されていて見えない現実が、そのような(臨死体験の)状況下ではじめて見えてくるということがあるのではないかということです。それはちょうど夜になると空に星が光っているのが見えてくるようなものです(376p)


 ケネス・リングの答えに立花はこう反論する。


「しかし、その比喩が成立するためには、肉体が死んでも何らかの認識能力がなければ存続すると考えなければなりません」(376p)


 私は、死を学ぶことは生をより輝かせることに通じていると考える。一度限りの人生をどのように完結させるのか。それこそが人間として最も重要なテーマであり、それを追求する生き方こそが万人の生をかけがえのないものにしてゆくのではないか。


 立花を見ていると、“脳”という牢獄に拘束された要素還元主義者に見えて仕方がない。


科学万能主義による視野狭窄を露呈 3


 目の前に蟻がいたとしよう。6本の脚(あし)を懸命に動かしながら、蟻は前進している。これを人差し指で潰す。指を裏返せば、体液をにじませた蟻の死骸がピクリともせず貼りついている。先ほどまで活発に動いていた蟻の生命は消失したのであろうか? 蟻に脳みそがあるのか、識があるのかは知らないが、蟻は間違いなく生きていたのである。蟻を動かしめていたものの根源は生命に他ならない。あったはずの生命は果たして消えたのだろうか? 消えたとする科学的な証明は可能なのだろうか?


 下巻冒頭で、臨死体験が本格的に研究される端緒を開いた『かいま見た死後の世界(評論社)』の著者レイモンド・ムーディへのインタビューが掲載されている。


 この中で面白いのは、ムーディ博士から「『あなたは知識欲中毒ですね』といわれて、『全くその通りです』(下巻18p)」と立花が答えたことを得々と紹介している部分だ。立花は知識欲を満たすために本書を著したに違いない。結論部分がそれを示して余りある。取り上げられた内容が生と死に関することであるにも関わらず尻すぼみの印象を拭えないのは、脳味噌の表面をツルリと撫でた程度の結論しか導き出せなかったことが大きい。


 エリザベス・キューブラー=ロスと双璧を為すムーディ博士本人は「科学的には(現実体験説と脳内現象説の)どっちとも決着がつけられない問題だといます(下巻31p)」と語る。また、“死後の世界”という表現が好ましくないとして「この世とあの世とは時間的にも空間的にもわかれているのではなく、実はつながっているのではないか。いやもっといえば、同じ世界なのではないか。同じ世界なのに見え方がちがっているのではないかとうのです(下巻56p)」と答えている。氏の眼、恐るべし。


 付け加えておくと、ムーディ・インタビューでの立花の質問は実に不躾(ぶしつけ)で小生気な印象が拭えない。身体ごと体当たりして教えを請うようなところは微塵もなく、自分の見に沿う答えを引き出そうと悪戦闘しているようにも見える。立花のスタンスが顕著になっているのは確かだ。


 こんな素晴らしい内容のインタビューの直後に立花は、またしても下世話なテーマを取り上げる。さしずめ振り出しに戻るといったところ。臨死体験の多くが育った国や時代の文化からの影響を強く受けている(米国人はキリスト出会い、日本人は三途の川を見る、等々)ことを挙げ、「文化の数だけ死後の世界も実在するという説は、やはりかなりご都合主義的なつじつまあわせの説ではないだろうか(下巻119p)」と、自分の考え方に執着すること甚だしい。まずもって文章表現に可愛げがない。これは私に言わせれば全く逆の話で、「死生観」こそが文化や世界観を支えているのだ。


 これに答えるインド国立衛生神経科学研究所のサトワン・パスリチャ博士もお見事。二つの文化で異なる体験が起こるのは言語の限界であるとした上で「わたしたちが聞いている体験談は、本人が言語化できないといっているものを無理に言語化してもらったものなのです。だから、本当の体験それ自体と言語表現された体験との間には、かなり大きな落差があるだろうとうのです。ある訳のわからない体験を言語表現しようとするとき、言語化以前にまずそれは何なのかという解釈を加えます。その解釈それ自体が文化の与えるフレームワークの中でなされるわけです。そして、言語化するときには、自国語のヴォキャブラリーのフレームワークの中に入れなければなりません。この二つのプロセスで生まれてくる誤差が、体験のちがいとなってあらわれている可能も強いのです(下巻120p)」と卓見を披露している。


 この後も、脳との関係を“覚遮断”などの実験例を示したり、側頭葉のシルヴィウス溝を刺激すると臨死体験とほぼ同様の覚を得られるなどと説明される。また視覚のメカニズムに至るまでが解説されている。この章の小見出しに「『見えないもの』は見えるか(下巻398p)」とある。つまり、臨死体験者が見るはずのないものを見たとする経験によって、現実体験説の裏付けとしようという実験が紹介されている。結果はどちらとも言いいものだった。タイトルが面白くじられたこともあって印象に残ったのだが、逆説的に捉えれば、見えるということは見えないということでもある。別に謎掛けをしているわけではない。見えるということは見えるものの後ろを隠してしまうということだ。この本を読んでいる最中に、なかなか見つからないライターを煙草の箱の下から発見した時にそう実した。


 見えるはずのないものが見えたとする体験をどう解釈するか。立花は三つの立場を列挙する。第一は錯覚である。第二はそのような事実は認めた上で、科学的な説明理論が発見されてないものの、いつの日か説明できるだろうと問題を棚上げにする。第三はありのままを受け容れること。立花自身は第二の説だとしている(下巻413p)。


 そして立花は本音を吐露している。


 もともとそのような世界観(魂の存在を肯定する立場)を持っていた人には、それは受け入れやすいロジックかもしれないが、そうでない人にとっては、それはいわば世界観を大転換して、これまでの考えの対極にあるものを丸呑みにするに等しいことだから、なかなかふんぎりがつかないだろう。(下巻413p)


 この臆病さこそが本書の最大の敗因であろう。つまり、新しい価値観を受け容れるだけの勇気を持ち合わせていなかったことが立花の最大の不幸であったということだ。


 そうして立花の結論はこうだ。


 臨死体験の取材にとりかかったはじめのころは、私はどちらが正しいのか早く知りたいと真剣にっていた。それというのも、私自身死というものにかなり大きな恐怖を抱いていたからである(下巻425p)」。それが取材を重ねてゆく内に「いつの間にか私も死ぬのが恐くなくなってしまったのである(同頁)」。そして、「生きてる間に、死について、いくらい悩んでもどうにもならないのに、いつまでもあれこれい悩みつづけているのは愚かなことである。生きてる間は生きることについてい悩むべきである。(下巻427p)


 と締め括られている。


 これが868ページも読んでもらった読者に対して放つ言葉であろうか? 小馬鹿にするのも大概にしておけと怒鳴りたくなるのは私だけではあるまい。何たる無気力、何たる弱気、何たる無責任だろう。こんな人物が生の味を見出すことができるはずもない。初老の物書きが様々な取材を重ねた挙げ句、自分の価値観を肯定することのみに執着した結果、全く何の変化も及ぼすことがなかった、というのが本書に書かれた全てである。


★以降は、私の死生観を示して、立花氏への批判としたい。あと2回書く予定。


科学万能主義による視野狭窄を露呈 4


 前回の原稿を読み直して、ふと妙案をいついた。脳が無い生き物がいるではないか。ネットで調べたところ虫にはあるようだ。


 だが、植物にはないだろう。あったらゴメンなさい。いくら何でもないよなー、という前提にしておく。ミトコンドリアにも無さそうだな。まあ、植物だけでも充分だろう。脳が無くったって生きてるではないか。以上を持って、脳内現象説への勝利宣言とする。お粗末でした。


 生と死は補完し合う関係であるというのが私の考えである。例えば死の無い世界があったとしたら、果たしてどのような状態になるだろうか。この際だから都合の好いように考えることとしよう。極めて健康な状態で、若々しいまま永久に生きる世界である。まずもって完璧な無気力の世界となることは疑う余地がない。努力なんぞは見向きもされないようになり、頑張るという言葉は味を失うだろう。ということはだ、死そのものが、人間にとっては慈悲のリズムであるということである。つまり、死という区切りがあることによって、生はかけがえのないものになるということだ。


 立花の『臨死体験』を読みながら、胸がムカムカしてきた私は、V・E・フランクルの『死と愛 実存分析入門』(みすず書房)を手に取った。この中に「死の味」と題した部分が33ページに亘って書かれている。フランクルはアウシュヴィッツ強制収容所を経験した精神医学者で、代表作は『夜と霧(みすず書房)』。文字通りの地獄を生き延びた人物であるが故に、死を自覚することに関しては常人の及ばぬところであろう。


「死が全生涯の味を疑問にするということ、すなわち死は結局すべてを無にするから、すべては結局無義である、といかにしばしば主張されたことだろうか。しかし死は実際に生命のを破壊しうるであろうか、そうではなくて反対である(75p)」とし、その結果「あらゆる行為を無限に延期することができる(同頁)」と喝破している。


 フランクルは生と死を統合的に捉える。


 死は本来生命に属していることではないだろうか(78p)


 運命は死と同様に何らかの形で生命に属しているのである。(88p)


 そして個という幸福の要素が協同体によって生まれるものであるとした上で


 運命の味は存するのであり、死と同様に生命に味を与えるのである。各人はそのいわば排他的な運命空間の内部において他の人にとって代わることはできないのである。この彼の独自は彼の運命の形成に対する彼の責任を構成するのである。(中略)その独自の運命をもちつつ各個人はいわば全宇宙の中で一人そこにいるのである。(88p)


 と論じている。


 死が生を照らし、運命が生に光を注ぐというのだ。


 運命は大地のように人間に属している。人間は重力によって大地にしばりつけられるが、しかしそれなくしては歩行は不可能なのである。われわれは、われわれが立っている大地に対するのと同様に、運命に対さねばならず、われわれの自由に対する跳躍台としなければならないのである。(中略)たしかに人間は自由ではあるが、しかしそれはいわば真空の空間の中に自由にただよっているのではなくて、多くの誓約の真只中における自由なのである。(89p)


 確かにそうだろう。まさしくその通りだろう。立花などに見られる小手先だけの趣味的教養などは吹っ飛んでしまうような力強いである。


 私がうには、死とは眠りに就いている状態のようなものだろう。これじゃあ、あっさりし過ぎかしら? 眠りを“小さな死”としよう。なぜ眠るのか? そこに布団があるからだ。いや、失礼。それは活力を取り戻すためである。眠っている時は何もじないだろうか? そんなことはない。悪夢にうなされる状態もあれば、薔薇色の夢に包まれることだってあるだろう。死ぬことが大変なのは、どんなにしんでいたとしても起こしてやることができないところである。


 古来、人類は不老不死に憧れ、科学技術の進んだ現在では、死後の肉体や脳を冷凍保存する人々まで出てきた。死後の生命は存在するのかという問題は、ある味で宇宙探検以上の価値があろう。なぜなら、それによって人類の生き方を一変することができるかも知れないからである。死後の生命=迷信的・非科学的と考える向きも多いだろうが、これ自体、証明されてないという点では迷信に過ぎないのである。


 近年になってDNAの研究が盛んになっているが、DNAの中に生命を閉じ込めてしまうような本末転倒が見られる。DNAをつくったのは生命それ自体であり、DNAから生命が生まれたわけではないのだ。立花の論調には一貫してこのような倒錯が散見される。よもや、ベートーヴェンの『歓喜』を聴いた時の脳波を調べることによって、『歓喜』のメロディーが作れるとっているわけではあるまい。


 また、人間に良が備わっていること自体が、死後の生命を実として知っている証左といえないだろうか。死ねば終わりとするならなば、見つからなければ何をしでかしても構わないという論理になる。しかしながら、人間がそれを許さない。善とは生の永遠を自覚することによって生まれる人間本来の英知なのかも知れない。


学万能主義による視野狭窄を露呈 5


 初めに発行が遅れた言いわけをしておく。原稿を書こうかとっていたところ、掲示板にて赤マント氏からの逆襲を受けてしまった。あたふたと応戦している内に、色々と考えざるを得なくなってしまったのだ。ってなわけで失礼つかまつり候。尚、掲示板でのやり取りを付録として掲載しておく。


 私には昔から妙な趣味がある。安手のボールペンや100円ライターをもらったり、拾ったり、奪ったりするのが好きで、これらを完全に使い切ることに執を燃やすことを常としている。たった今も火のつかなくなったライターを供養したところである。彼等は生き物ではないかも知れないが、それぞれの目的を持ってこの世に誕生したわけであるから、使命を全うさせてやりたいという、ささやかな手助けをすることによって、密やかな満足を覚える。使い切った瞬間、「よくやった! ご労さん!」と満腔のを表してゴミ箱に捨てる。合掌――。


「人間が人間として生きなかったということぐらい、恥ずかしいことはありますまい。の木はの木としてのびていきます。ライオンは一生ライオンのを失いません。しかるに人間が人間らしく生きなかったということは、金銭登録器のような生活しかしなかったということは、人間としてこれ以上の恥辱はないといます。〈銀行員だった父・義平の遺書〉(『真実一路』山本有三:新潮文庫)」


 これも忘れい一節である。この世にあるもの全てが何か役目を持っている。無目的なものは何一つないといっていいだろう。また、人生の充実も何らかの目的を果たした時にじることが殆どである。太陽やも、花や木も、虫や動物もあるべきところに収まっている。大自然の摂理は古来より調和のリズムを奏でている。


 では、人間が生まれた目的は何であろうか? あなたがあなたとして生まれきた目的は何なのであろうか? これを追求し、今世(こんぜ)で見事に果たし切った時に、人は尊厳ある死を迎えることができるのではないだろうか。昨今、見受けられる、「みっともない無様(ぶざま)な死に方だけはしたくない」なんて論調の尊厳死論に、私は真っ向から異を唱えるものだ。


 家であり数学者でもあったパスカル(1623-1662)は、死後の生命があるかどうかが理では判じいことを前提とした上で賭けの理論で説明している(『パンセ』)。人が「死後の生命がある」方に賭けて生き、死んだとする。その結果、賭けに負けた(死後の生命が存在しなかった)としても「あなたは何も損をしないではないか」とパスカルは言う。一方、「死後の生命がない」方に賭けて生き、死んだとする。それでもし、死後の生命が実在していたら、もう取り返しがつかない。後の祭りである。こう冷静に考えれば、死後の生命を信じる方に賭けることは、極めて合理的な選択であり、理的な人であれば、これ以外の選択肢はないという論理である。


 立花の論証は識に傾き過ぎるキライがあると書いてきた。日常生活においては識を中とした生命活動となる。深層理学の発達によって、識下に広大な領域があることが判明しつつある。ところが既に、今から3000年以上も前に説かれた法では唯識論(あるいは九識論)というのが説かれており、生命の限りない可能が具体的にされている。


 五

―――

―――――

末那識(自我

―――――――

阿頼耶識

―――――――――

阿摩羅識(根本浄識)

―――――――――――


 とまあ、図にするとこうなる(作るのに結構、労した)。


 識とは、対象を認めその異同を知り、分別するの作用のこと。一般的には末那識(まなしき)あたりまでなら像もつくだろう。この下にある阿頼耶識(あらやしき)とは生死を超えた(ごう)の世界である。カッとなって刺してしまった、などという黒い衝動の世界もこの部分に当てはまる。所謂(いわゆる)、深層理学が説いているのは大半がこの部分である。そして最後の部分が最も広大な領域である。開かれた三角形となっているのは、この部分は大宇宙と等しい大きさの領域であるからだ。ここに至ると、生命は自分以外の全ての生命とつながってて一体となる。それ故、他人を傷つけることは、そのまま自分を傷つけることになるのである。


 法では、生命は無始無終にして永遠の存在であると説かれている。生死(しょうじ)生死と繰り返し、自らが為してきた(ごう)が現在の一瞬に凝縮されているという。死後の生命は宇宙に溶け込み、次なる縁によって何らかの生命体となるまで厳然と存在するという立場をとる。この考え方に正当があるのは、元々、地球上には生命体が無かったにも関わらず、タンパク質が誕生し、遂には人間に至っていることを踏まえれば、それほど突拍子もない考えとは言えないだろう。無から有は生じない。何か要素があるから目に見える結果が生じるのだ。


 生命の奥深くで自分を自分たらしめているのは阿頼耶識、阿摩羅識に他ならない。この部分が三世永遠に引き継がれてゆくのである。死して尚、消失しない領域といってよい。


 イギリスの生物学者ルパート・シェルドレイクが、記憶と脳の関係を、テレビの画像や音と受信機に喩えている。例えば、テレビで動した場面を見たとしよう。その画面を翌日、テレビの中に探しても決して見つかりはしない。つまり、は脳を媒介にして働くとしても、脳そのものではないということだ。生命とは電波のようなものかも知れない。目には見えないが、互いに邪になることもなく厳然と存在している。きちんと電波が受信されて映っている状態が、私達の生命活動であり、「私のチャンネル」が「我が人生」といっていいだろう。


 死ねば終わりとする考から生まれるのは、今さえよければ構わないとの刹那主義である。死を忘れた文明が欲望を野放しにしてしまったのが現実である。


 阿頼耶識、阿摩羅識という第八、九識の実体は見えない。しかし、生命流とでもづける他ない生命の核が大宇宙と永遠を貫いているのだ。生を受けてからの瞬間瞬間に亘る自らの行為は、塵も残さず生命に刻印される。これによって死して尚、千差万別の境涯が決まってしまうのだ。臨死体験が私達に教えてくれるのは、永遠の存在である生命が、人間のわずかな一生で軌道修正できるというメッセージであろう。彼等の生き方が大きく変化するのがその証拠といってよい。


臨死体験〈上〉 臨死体験〈下〉