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2002-11-01

第62世鈴木日恭の悲惨な最期


 昭和18年6創価教育学会の牧口常三郎会長、戸田外理事長(のち改めて聖)らは、大石寺大奥対面所で日蓮正宗第62世貫首・鈴木日恭、同第59世貫首・堀日亨立会いの下で、庶務部長・渡辺慈海より、

「『神札』を一応は受けるように会員に命ずるようにしてはどうか」(『戸田城聖全集』第1巻所収「創価学会の歴史と確信」より一部抜粋)

 と申し渡された。創価教育学会側は峻拒した。628日、牧口会長は改めて登山し、鈴木日恭に対し、

「『神札甘受』は過ちである」

 と戒める。ところが、それに対する宗門の仕打ちは、「登山停止」の処分であった。

 76日、牧口会長、戸田理事長らが逮捕された。逮捕後、宗門はさらに「信徒除処分」を下し、我が身の保全を図った。


 昭和20年617日午後10時30分頃、大石寺大奥対面所北側の廊下を隔てた部屋より出火。紅蓮の炎は大奥対面所並びに管長室にすぐさま燃え移り、さしたる消火活動もできないうちに大書院を焼き、六壺、客殿をなめ尽くした。炎がおさまったのは翌午前4時頃だという。


 この大石寺の火災により、鈴木日恭は焼死した。所化として当時、現場にいた河辺慈篤に私は、鈴木日恭の死の真相を聞いたことがある。

日恭上人が亡くなられた時は、どんな様子だったんですか?」


 河辺からはいもよらぬ言葉が発せられた。

「ありゃー、2回、焼いたんじゃ」


 河辺は、火災がおさまった後、鈴木日恭の姿が見当たらないので、必死になって探し灰燼の中から発見したと話した。河辺によれば、発見された鈴木日恭の遺体は凄惨を極めており、大奥の大釜の中に太った身体がずっぽりとはまり、はらわたが生焼けとなり、上半身黒焦げだったという。河辺の目撃談を私は東京・新橋の第一ホテルで聞いた。河辺はこの時、出火の原因についても言及し、

「ともにいた所化の増田壌允が自分のところに来て、『今、押入れの中で煙草吸ってて、ボヤを出しそうになった』と言ったので、『ちゃんと始末したか』と聞いたら、『小便かけて火は消した』と答えたので安して寝ていたところ、1時間くらいして火事になった」

 と述べた。河辺の分析では、布団の綿についた火は消えにくいので「小便」くらいでは消えなかったのだろう、ということだった。


 さて、余談になるが、「日蓮正宗布教会」(代表・細井精道)が発行した『惡書「板本尊偽作論」を粉砕す』(前出)には、次のようなことが書かれている。


「先づ其の出火から言えば、大石寺大奥の管長居室は二階建の座敷であつて、其の三間程距てた所に応接室の對面所という建物があつた。世界大戰も漸く苛烈になつて來て、陸軍では鮮の人達を 悉く兵隊として、全国の各地に宿泊せしめて居たが、大石寺も其の宿舎となつた為め数百鮮人の兵隊が大石寺の客殿から書院に宿泊して居つた。そして此れを訓練する將校が二十数も對面所に宿泊していたのである。

丁度静岡市空襲の晩に此れ等の兵隊がガソリンを撒布して、將校室となつていた其の對面所の裏側の羽目に火を付けたのである。其の為め火は一瞬にして建物の全部に燃え上つたのである。其れが為めに將校は身の廻りの者(ママ)を持つて僅か三尺の縁側の外に逃げるのが漸くであつたのである。火はやはり殆ど同時に管長室に燃え上つたのである。侍僧は階下に寝ていたが、反対側の窓を破つて、之れまた漸く逃れたのである。此時には一山の者が駆けつけたが、最早や、手の施し樣もなかつたのであつて、忽ちのうちに二階建は焼失して了つたのである。一同は其れよりも延焼を防ぐべく努力したが、遂に客殿、書院、土蔵を灰燼に帰せしめたのである」


 このように、同書は大石寺の出火の原因を鮮兵農耕隊になすりつけ、それも放火によるとした。これは、まったく許すことのできない捏造である。


 捏造のボロは出るもので、静岡空襲があったのは619日深夜から20日にかけてであり、大石寺に大火があったのは、同17日夜から18日未明にかけてである。日時が違っている。


 鈴木日恭の死の様子についても、

「皆んな上人が戦場の如き大石寺に於て兵火の発するのを見て、遂に力の及ばざるを御考えなされて、寧ろ自決なされたと拝せられる。えば一宗の管長とし立正安国の御聖訓を体して、国家の隆昌を祈り、国民の安泰を願い、日々夜々一宗を督励し祈願をこめ給いしに、遂に敗戦を眼前に控え、既に力及ばず、老躰を焼いて国家の罪障を滅せんにはしかずとして、自決の道を選ばれたと拝せられる」


 と同書には記述されているが、これもまったくのウソ。この時、所化として大石寺にいた河辺が私に話したのが真実である。私が河辺から鈴木日恭の焼死について聞いた時は、後藤隆一〈元(財)東洋哲学研究所所長〉も同席していた。


『暁闇』断簡14 法滅尽の時