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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2003-03-29

「人間ゲーテを語る」


【中根みえ子 東京都北区 主婦(67歳)】


 桜の所で有な王子・飛鳥山公園のほど近くに、「東京ゲーテ記館」(財団法人)があります。東洋におけるゲーテの普及の拠点として、文献の収集や情報を提供。ゲーテに関する資料は22万点で、世界一といわれています。


 先日、創価大学で行われた池田先生の特別文化講座は「人間ゲーテを語る」がテーマでした。とても分かりやすい内容で、聖教新聞に掲載された記事をゲーテ記館の方々にも読んでもらいたいと届けたところ、“ゲーテの研究資料として厳密な内容分析の上、詳細な目録カードを作成し、絶対基本文献として大切に保存します”とお礼の返事が届きました。


 近くにありながら、遠い存在だった記館が身近になりました。先生にから謝するとともに、更に友好を広げていきます。


【「声」/聖教新聞 2003-03-29付】

2003-03-17

変身


 都会では外で遊んでいる子供達の姿が消えて久しい。めだかをすくったり、トンポを追いかけることもあまりないかも知れない。


 幼い頃、見るもおぞましい毛虫が色鮮やかな蝶に羽化するありさまを見て衝撃を受けたものだ。

 話は変わるが、私が幼少の頃の“正義の味方”といえば、ウルトラマンや仮面ライダーだった。共通するキーワードは「変身」。小学生の時分は、級友達と「へんしんっ! トォオオオーーーッ!」と30cmほど飛び上がっただけで、力を得たような錯覚を覚えた。


 人は常に変化を求めてやまない。「変身」に動するのがその証左だろう。


 そうかといって安易な変身では満足できないのもまた確か。中高年の女が厚い化粧を施したところで動する人は少ない(ただし、学会婦人部を除く)。最近のうら若い女達の、ガングロとかいうやつや、光る鼻くそと見まがうばかりの鼻ピアスなんてのも変身願望の現われなのかも。


 一時期流行したコスチュームプレイなんぞは、手っ取り早い変身の最たるものであろう。これらいずれもが外面的な変身に過ぎない。


 一方、悪く変身するのは容易なことで、これまたするこができない。近所の高校生がグレたとかね(笑)。人の信用を裏切るのもそう。これは変身じゃなくって変わり身。


 誰もが小さい時に、『醜いアヒルの子』を読んで、何がしかの希望を抱いたこともあっただろう。生命の本然(ほんねん)にはよりよき変化を志向するリズムが隠されている。


 我々が目指す変身は内面的な変革であり、信の一の変革に尽きる。これを人間革命とづける。


 日日につより給へすこしもたゆむあらばたよりをうべし(1190頁)


 日々、々、年々に信を強くしてゆきなさい、との大聖人の御指南である。少しでも、「これでいいだろう」「もう大丈夫だろう」「取り敢えずは……」などと油断した瞬間から、生命はに巣食われていることを自覚したい。


 一に億劫(おくごう)の辛労を尽(つく)せば本来無作の三身に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり(790頁)


 億劫(おくごう)とは長大な時間を指す。「劫(こう)」とは四千里四方の大を芥子(けし)で満たし、100年に一度、一粒を取って、取り尽くしてもなお劫は尽きないとされる時間のこと。これの一億倍だから像を絶する時間である。一とは今この瞬間の我が生命のこと。今日という一日に永遠を刻み込むような真剣勝負の姿勢があれば、瞬間瞬間、の生命が湧き立ってくる。億劫という言葉は現代にあっては、「おっくう」と読まれる。「おっくう」な一であっては、変身は望めない。成長できない因を積んでいることになってしまう。


 何(いか)なる世の乱れにも各各をば法華経十羅刹助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり(1132頁)


 不可能を可能にせんとの強盛な一が勝利を呼ぶ。今がどんなにしかったとしても、我々は大聖人の慈悲を仰ぎ、日蓮門下となった以上は、戦って、戦って、戦い抜いてゆく以外にない。生命を錬磨しゆく大闘争の暁(あかつき)には、見違えるような姿の同志と同志とが肩を組んで、勝利の雄叫(おたけ)びを挙げていることだろう。

2003-03-16

諸天善神を恨む


 車のタイヤを悪戯(いたずら)された。それも、立て続けに2本ずつだ。いずれも、ナイフでタイヤが裂かれていた。「諸天善神の野郎は一体何をしてやがるんだ」などと恨み言を胸で呟いたものの、タイヤは元通りになるはずもない。


 次に浮かんだのは、情け容赦のない仕返しをすることだった。昔、タイヤにチョークを当てると、ポケットベルが鳴るってのがありましたな。そのような器具を用意して、犯人をふんづかまえ、嫌というほどいたぶってやるのだ。私はしばしの間、残酷な想像に浸(ひた)った。これは内外相対でいうところの外道的な考え方になるので、まあ本質的な解決にはならない。


 そこで御本尊に尋ねてみた。昂(たか)ぶる感情のせいか、はっきりとした答えはもらえなかった。諸天善神が携帯電話でつかまれば、さほど問題はないのだが……。


 罰の可能性は最初から否定した。思い当たる節はそれなりにあったが、罰ではない実感があった。要は「護られてない」という現実をどう受け止めるかという問題だ。漫然とした祈り、中途半端な活動、曖昧にしている闘争の的、等々。諸天善神の元気がなかったとすれば、それは我が信心に原因があるのだ。


 信仰とは他力を恃(たの)む依存心ではない。一人立ち上がって、宿命との闘争に敢然と挑む生きざまをいうのだ。


 摩訶止観第八に云く弘決第八に云く「必ず心の固きに仮つて神の守り則ち強し」云云、神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候、法華経はよきつるぎなれどもつかう人によりて物をきり候か(1186頁)


 この御文の直前には、「敵というのは忘れさせて狙うものだから、今後は、遠出をされる場合は、いい馬に乗りなさい」と大聖人は四条金吾に指示されている。馬とは現代でいえば、車に当たるだろう。


 信心さえ固ければ必ず神の守りあり、との大確信に胸を打たれる。妙法の利剣は如何なるものでも斬れるはずだ。だが、心の弱い臆病な人間であれば、羊羹(ようかん)や豆腐しか斬れないかも知れない。


 戦いが激しくなればなるほどの勢いも強くなる。小さな出来事ではあったが、次なる闘争の準備はこれで万全となった。

2003-03-15

宿命と運命


 法の特徴は“宿命”を説くところにある。キリスト教を初めとする天地創造神の場合は“運命”を説く。運命というのは神様が勝手に与えてくれる試練で、迷惑この上ない。宿命とは三世にわたる生命自体が積み重ねてきた果によるもの。つまり、全部自分持ち。こうなると神様に文句をつけるわけにもいかない。


 宿命は様々な形をもって襲いかかる。病気・経済人間関係と、人生のどこで現れるか知れない。「宿はかりがたし」(958頁)と大聖人も仰せだ。であればこそ、日常の道修行が大切となってくる。


「残ですが、あと3ヶの命です」――医師からそう告げられたら、あなたは残された3ヶ間をどのように過ごすだろうか? その答えこそが、あなたの人生観とはいえないだろうか。そこに、宿命と向かい合った時の姿勢が如実に現れる。


 何か(大いなる悩みが)あったら頑張るという人を時折、見受ける。これを「待ち型信」という。まず、無理ですな。宿命をなめているとしか言いようがない。「''未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ''」(231頁)である。過去といい、未来といっても、所詮、今しかない。今この瞬間、我が生命が戦う方向に向かっているか否かである。その連続闘争の中にしか宿命転換はない。


 現実に宿命と必死のいで戦っている方もいるだろう。周囲の人々から中々理解してもらえない場合だってあるに違いない。だが、それでも戦い抜いてゆくしかない。宿命転換とは自分一人の闘争だからだ。学会における訓練の目的もここに帰着する。


 宿命を打開しゆく強靭なる生命力を発揮する方途はどこにあるか? それは、妙法を高らかに唱え抜き、悩める人々のために汗まみれとなって働く以外にない。学会活動の全てが宿命転換に直結していることを強く自覚し合いたいものである。


 先生は、「生命鍛錬の場が、大です。最もしんでいる時が、最も深まる時です」(『大白蓮華』3号「御書の世界」)と指導されている。


 今が「深まる時」と自覚できれば、宿命は使命へと昇華される。


 更に、「大願に立脚した透徹した境涯から見れば、宿の有無は本質的な問題ではない。仮にいかなるや宿があっても、大願の生命はすべてを大きく飲み込んでいくからです」(同) とも。広布に生き抜くと誓いを新たにした瞬間、生命は三悪道から菩薩界へと劇的な変化を遂げる。


「『常の因果』をも包み込む、いわば『大いなる因果』が存在する。その『大いなる因果』こそ成の因果です。それが法華経の因果であり、妙法の因果です」(同)


 宿命を呪うのか、願兼於業(がんけんおごう)と捉えるのか。道がそこで分かれる。


 譬(たと)えば頭(こうべ)をふればかみゆるぐはたらけば身うごく、大風吹けば草木しづかならず大地うごけば大海さはがし、教主釈尊をうごかし奉ればゆるがぬ草木やあるべきさわがぬ水やあるべき(1187頁)


 御本尊を揺り動かすほどの生命力を湧き立たせながら、春三、師弟共戦の大波を起こして参りたい。

2003-03-13

電話は最高の外交


 電話は最高の外交である。電話にしても、貫禄をもって、音豊かに、また、革命の吹きに満ちて、常に先駆をきっていくのだという気込みが大切である。


【『前進』1966-04号】


 これは本部職員に対する指導である。だが、全学会員する指導であると信ずるが故に掲載しておく。


 この勢い、この自覚、この襟度。その奥底(おうてい)にあるのは、どこまでも相手を大切にするであろう。


事をなす」(400/414/708頁)である。境涯はに表れる。はっきりしない話し方、すっきりしない、不明瞭な言葉遣いではいけない。


 私の父が支部長をしていた頃は、まだ、子機などがなかった時代であったが、風呂に入っていても電話が来れば、直ちに上がっていた。私は知らず知らずの内に「周公旦は浴する時は三度にぎり食する時は三度吐給う」(362頁)《周公旦(『史記』などにも描かれ、司馬遷が理の人物としたことで有)は客人が来れば、風呂に入っていたとしても三度髪を握って直ちに出迎え、食事をしている際は、口にした食べ物を三度吐き出して、待たせることはなかった》の御文を学んでいた。


 最近では、家にいても電話に出ず、携帯電話に掛かってきてから着信番号を見て、おっとり刀で出るようなのもいる。


 昔の幹部は、たとえ深夜で寝ていたとしても、直ちに受話器を取ったものだ。