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2003-05-20

ドキュメント 「尾道丸」救助した「だんぴあ丸」


奇跡の救出劇が「プロジェクトX」で放映


 520日(2003年)に、NHKテレビ番組「プロジェクトX」で、1980年(昭和55年)1230日、千葉県・野島崎沖・東南東約1500kmの太平洋を舞台にした救出劇が放映される予定。この奇跡の救出活動の指揮をとったのが、当時「だんぴあ丸」の船長で波涛会の尾崎哲夫さん(69歳)である。大阪・泉南市在住。副支部長。(当時は壮年部副B長。47歳。長崎県出身)


 当時、海事故が相次ぎ、「低気圧の墓場」と恐れられていた野島崎沖。荒れ狂う嵐の中、船首が折れた大型貨物船「尾道丸」はまさに沈没寸前だった。その危急に接し、近くを航行中の大型貨物船「だんぴあ丸」が現場急行。二重遭の危険を顧みず、44時間に及ぶ必死の救助活動の結果、尾道丸の乗組員29人全員を救出した。


 瞬間風速25m以上の暴風雨が吹き荒れる中、「死の恐怖」と戦い続けた3日間、尾崎さんは、「私には御本尊がある」と題目を唱え、ひたすら救出のチャンスを待った。そして冷静沈着な救出活動を敢行。後日、海の専門家たちから、「国民的顕彰」「まさに神(かみわざ)」「日本のみならず世界の船乗りの鏡」と絶賛された救出活動を成し遂げたのは、信仰で培った“忍耐”と“勇気”であった。


 この後、尾崎さんに民間の海救助活動としては初の総理大臣表彰が贈られている(1981年9)。また、救出された「尾道丸」船長の北浜亮さんは、尾崎さんの紹介で1982年に入会。


 この救出劇は、池田先生からも「聖教新聞で紹介してみては」との提案があり、1981年(昭和56年)426日付で実に3ページ、ドキュメント「『尾道丸』を救出した『だんぴあ丸』――“の海域”で死闘44時間」として紙面を飾った。


 今回、NHK取材班は、この聖教新聞掲載の「ドキュメント」を参考に、同番組を製作した。現役船長を退いた尾崎さんは現在、学会活動、地域のボランティア活動で活躍している。




1981年(昭和56年)426日付聖教新聞で3面にわたって掲載された】


の海域”で死闘44時間


海の男54人の友情と忍耐の勝利


 冬の海は吠えていた。鋭い牙をむいて吠えていた。1980年も終わろうとする1230日。“の海域”と海の男達から恐れられている千葉県・野島崎東南東約1000kmの太平洋上は、異常に発達した低気圧の通過で瞬間風速25m以上の暴風雨が吹き荒れていた。すでにこの冬、2隻の大型船が、この海域で飲み込まれ、消を断った。例年にない大シケ。たけり狂う荒海を航行していた「尾道丸」(33833総t)はついに船首部を食いちぎられ、沈没の危機にさらされた。近くを航行中の「だんぴあ丸」(50451総t)が、SOSをキャッチ。すぐさま針路を転進、マストよりはるかに高い波を越え、遭現場に急行した。“ほえる海域”で迫りくる死の恐怖と戦うこと3日。「だんぴあ丸」は、尾道丸の乗組員(29人)全員を無事救出することに成功した。これは“わが国海史上まれにみる快挙”“国民的顕彰に値する”と高く評価され、そのち密な救助方法は「世界の海運界にとって教科書にもなる」と称賛のが尽きない。この「だんぴあ丸」の船長が尾崎哲夫さん(47)=大阪府泉南市、阪和支部、壮年部副B長=であった。これは“の海”で44時間、生死を賭した海の男達が展開した未曽有の海救出のドキュメントである。(北野原良生記者)


29人全員奇跡の生還


だんぴあ丸/尾崎船長(壮年部副B長)中に見事な救出作


「入港12に延期だ」


“飲み込まれてたまるか!″――ほえる“の海”にあって、キバをむき出す海と真っ向から戦いながら大型鉱石専用船「だんぴあ丸」は航行していた。

第一中史汽船所属、乗組員25人、50451総t。全長250m、幅39m、南米のチリから鉄鉱石88810tを積んで一路、茨県・鹿島港を目指していた。予定だと暮れのドン詰まり1231日に入港できるはずだった。

 ところが1223日ころから向かい風が強く吹き始め、うねりが高くなり、しだいに船速は落ちていた。30日になると20mに達する西風が吹き、高層ビルが幾重にも倒れかかってくるように大波が、ウオーター・ハンマーといわれるぐらいの、ものすこい力で船体に打ち込んできた。

「うーん、これじゃ無理だな。局長、入港予定を延ばそう。12日夜だ。至急、電報を打ってくれ」――ブリッジから荒海をながめていた尾崎船長は、電文にしたためて渡辺通信長に渡した。

 1980年の暮れといえば、西高東低の完全な冬型の気圧配置でシベリアの大寒気団が南下、北陸、東北を中に大雪を降らせていた。この大寒気団を日本列島に強く呼び寄せた低気圧が“の海”で急激な発達をみせながら縦横無尽に暴れまわっていたのである。

 このため2前の28日午前8時、ユーゴスラビアの貨物船「ドナウ号」(14712総t)が、野島崎東方約1200kmの洋上で第一船倉浸水の無線連絡を最後に行方不明、翌29日午前11時ごろ、インドネシアの貨物船「ガルサ・ティーア号」(3139総t)が沈没、18人は救助されたが、6人の行方不明者を出していた。いずれも三角波のキバにやられたのか――。

「だんぴあ丸」には、こうした海状況が刻々と伝わっていた。

 きのうは人の上、きょうはわが身の上――一瞬の油断も許されない海象状況。入港予定の延期が乗組員に伝わった船内には一段と引き締まった架張が漂った。「このぶんだと“紅白歌合戦”が見られるな」。つい先程まで交わされていた和やかな会話はどこかへ行ってしまっていた。

 船乗りにとって海は友達だ。が、凶暴な敵にもなる。180度、豹変する海の恐ろしさ――。

“夏は実に波も静かでいい所なんだがなあ”。船長室の窓から荒れ狂う海をながめる尾崎船長の脳裏にそんないがよぎる。

 51年、船長として遠洋航海に初出航して以来、この“の海”は3通過していた。だが3回とも夏場、世界的にうての荒海になる冬場は今回が初めてだった。

“大波”が襲う間隔がさらに短くなるようなら、い切ってスピードダウンを図らねば……とった。


「SOSだ、転進せよ」


 この矢先だった。ドアがあいてがした。

キャプテン、近くでSOSいます」。の主は野田二等通信士だった。視線を窓外に向けたまま「冗談じゃないよ。SOSたいのはこっちだよ」ととっさに尾崎船長は答えた。

 この荒天下、すでに大型船が2隻、遭している。冬の“の海”は初体験だ。たけり狂う海をどう無事に航行しきるか、高速輸送という役目柄、う回は許されない。

 急激な発達を続ける低気圧の中を突っ切るしかない。他船の航行安全など考え及ぶ状況でなかった。

「そうですか」

 船長室を出て行こうとする二通士の背に、あわてた格好で尾崎船長は呼びかけた。

「ちょっと待ってくれ。ポジション(位置)は……」

 そう言ったかとうと、すでに二通士が手にしていた通信メモを取り、ブリッジに駆け上がっていた。

 尾崎船長の戦いが始まった。

「局長、方探で方位を確認してくれ」

「セコンドオフィサー(二等航海士)、レーダーをみてくれ、入るかもしれん」

 無線室に電話を入れる。

 エンジンコントロールルームにも指示した。「SOSいる。ただちに救助に向かう。(エンジン)回転をできるかぎり上げてくれ」。チラリと腕時計を見た。13時09分――。

「200度の方向です」と通信長から。「200度、56km付近がチラチラします」と植村二等航海士から、相次いで返答が入る。乗組員の行動も機敏だ。

「了解。その距離ならVHF(超短波無線電話)が入るはすだな」

 船長は自らスイッチを入れた。叫んだ。

「尾道丸、尾道丸、こちらだんぴあ丸。度ありましたら応答願います」

 直ちに応答があった。

「こちら尾道丸、度良好です。どうぞ……」

 さっそく発航港、到着港、積み荷、数量、船長、乗組員数……問い合わせる。尾道丸は33833総t、乗組員29人。石炭52000tを積載して香川県の坂出港へ航行中、遭したことが判明した。

「こちら尾道丸、一番ハッチと二番ハッチの間が折れて船首が上下しています」

「沈没の恐れは」

「船首がついてますから、まだ大丈夫だといますが、油断できません」

「了解しました。6半ころには近くに行けるといます」

 無線室は、保安庁への連絡、尾道丸からの電報依頼などでてんてこ舞いとなった。渡辺通信長は緊迫した面持ちで二通士を指揮してテキパキと処理していく。海上一の大確信で筋という55歳の、脂の乗りきった通信長の行動に、尾崎船長は全幅の信頼を寄せていた。

まもなくである。

「船首が切れた。すぐ退船する」という通信メモが、船長の手元に届いた。

ドドーン。相変わらず船体を大きく揺さぶる音がする。まるで高層ビルのような、海そのものの塊みたいな“青波”が、急行する「だんぴあ丸」に襲いかかる。

 船首は完全に海中に突っ込み、船首楼の周囲から真っ青な海水が滝のようにウインドラスめがけて流れてぶつかりあう。瞬間、真っ白なしぶきと変わってマストより高く舞い上がったかとうと、今度はスコールのように船橋楼をたたきつけた。

 尾崎船長は、当直甲板手からメモを取り上げると、ブリッジに上がった。


「私には御本尊がある!」


「船首折れた、救助頼む」


「こちら、だんぴあ丸、度いかがですか」

「尾道丸、船首が切れました。退船準備を始めます。至急救助を頼みます」。悲痛ながとぎれがちに届く。“ここが肝だ”船長ははやるを抑えた。

 死の恐怖を前にして、人間は正常な判断、行動は不可能に近い。この非常緊急事態において一人でも暴走者が出て勝手にボートをおろしたりすれば、それにつられて遭船内にはパニック状態が起こることは明白だ。大シケの洋上ならボートで脱出しても海のもくずとなるだけだ。

「尾道丸、こちらだんぴあ丸。積荷の石炭は浸水率は小さいから、船首が切れてもすぐには沈みません。落ち着いて行動してください」尾崎船長はゆっくりと、自ら落ち着いた口調ではっきりと呼びかけた。

 しのび寄る“死”。尾道丸の乗組員の恐怖はつのるばかりだろう。まして司厨部や機関室の人達の恐怖は計りしれない。船の状態が皆目わからない。船長が沈まないから安しろ、といっても決して素直に納得できる精神状態ではない。懸命に両船の交信に聞きをたてているはすだ。

 尾崎船長は交信をゆっくり進め、何よりも乗組員の胸中にうずまく恐怖を取り除くことに全魂を傾けた。

「トリム(船首尾の釣り合い)はどうですか」「傾きは」「ボットムサイド・タンクは」「ショルダー・タンクは」……船の様子を一つ一つ祈るようないでたずねていった。

 ったより落ち着いた口ぶりで要領の良い報告が戻ってきた。尾崎船長は内ホッと胸をなでおろした。「本船はできる限り早く急行します」

 いつしか“の海域”は真っ暗い夜のとばりに包まれていた。いぜん風速は20m。弱まる気配はない。青波が、右舷から打ち込み、ハッチを越えてわがもの顔に暴れて左舷へと落下していく。そのたびに船は大きくローリング(横揺れ)した。

「尾道丸の灯が見えます」。当直甲板手から連絡が入った。

 18時36分。だんぴあ丸は尾道丸から10kmの地点に近づいた。双眼鏡はハッキリと、暗闇の向こうに、デッキライトに照らし出された船体をとらえた。

 だが、救助活動に入るまでにはまだ一日半の時をまたなければならなかった。


救出成功へ全魂


風速25m、マストより高い激浪の中で


「退船」「夜明け待ちを!」


「見たところトリムはないようだね」

「イーブンキール(船首尾が水平のこと)でヒール(傾き)もありません」

「急迫した危険はないようだ」

 巨大船の閃光灯は暗闇の中で緑色の弱々しい光を放っている。デッキとブリッジに、オレンジ色の救命胴衣を着けた人影が視野に入る。船首が、斧(おの)で断ち切ったようにぽっかりともぎとられ、激浪に洗われている。

「ひどいもんだねえ」

「夜だし、この波じゃでとても救助作には入れませんね」

 一歩誤ると二重遭の危険が十分あった。一航士と話していた尾崎船長は尾道丸に伝えた。

「本船はいつでも救肋作ができる態勢で待機しています。とにかく夜明けを待つ方がいいといます。いかがでしょうか」

「はい、夜明けを待ちます。よろしくお願いします」

 SOSを受信して以来、尾崎船長は、必ず全員無事救出する覚悟であった。この覚悟は、船長として当たり前といえば、当たり前かもしれない。だが、一歩誤れば、全乗組員の生命を危険にさらすのみならず、失ってしまう最悪の結果を招きかねないのだ。

「決断する時、船長は孤独」だという。いざという時、これが最善策かどうか、全くわからない。しかし一瞬の逡巡(しゅんじゅん)も後退も許されない。最善であると確信して、後は全魂を傾注して責務を全うしていくしかなかった。

 そのためにもつね日ごろから真剣に唱題に励み“生命の尊厳”を説く法を実践していける自身を鍛えていかなければならないとっている。

 尾崎船長は47年に入信していた。航海中も、自宅にいる時も、晩の軌行・唱題は真剣であった。

 航海を何度も重ねていくと多くの経験を積み、知識が豊かになる。だが、海は二度と同じ顔を見せてはくれない。刻々、変わるのが海の表情であり、気なのだ。いざという事態に遭遇した場合、的確な判断、決断を下すことにおいて、過去のすべての経験や知識をフルに生かしつつ、試練を切り開いていく力とするには、何が必要か。尾崎さんは、一つ一つの試練を越えるほどに、ことに当たって微塵も動ぜす、しかも機敏に、的確に行動していく人間を培っていくためには正しい信仰が必要だ、という確信を深めていた。

 全員救出は成功すると決めてかかった尾崎船長の覚悟の奥には、確固とした生命の尊厳を説ききった正しい信仰があった。

 だんぴあ丸は、尾道丸を並行に通過して東へ転進、北に向けて機関を停止した。両船の距離は約6km。

「キャプテン。エンジンはいつでも自由に使える状態にしてありますから」

いつのまにか平川文治機関長が傍らに立って柔和な笑みを送っていた。

荒天の下、救出チャンスを持つ緊張した長い夜が始まった……。

 夜が明けた。大みそかの31日――。

 前夜は一睡もしていない。時折、船内を一巡しては、船長室で唱題に励んだ。

 ブリッジのすぐ下にある船長室は、ベッド・ルームと居間からなる。

 ベッド・ルームの居間側の壁に御厨子を御安置してあった。その下方に高さ1mの物置台がある。ベッドとその台の間、約1m半のところに正座して尾崎船長は救出成功を祈り続けた。


「今までにない題目だ」


 青波が襲うたびに、船体が大きく傾く。船横に向いて正座しているので上体が前のめりになったり、後方に倒れかかったりした。ベッドと物置台が上体を支える役目を果たした。揺れ動く船長室だが、尾崎さんの“覚悟”は揺るぎなかった。

 いな、唱題を続けるほどに、ますます不動のものとなっていった。

「キャプテン、題目ですよ。今までにない題目、あげましょう」

 前夜、赤尾末春操機長が尾崎船長の肩をたたいて励ました。赤尾操機長も学会員だった(兵庫・塩屋支部、副B長)。信して15年。尾崎船長より7年長い。船乗り30年のベテラン操機長も、遭船の救助は初めてだった。

「私達には御本尊様がある。絶対に成功しますよ」

 何度も何度も激励の言葉をかけてくれた操機長の確信に満ちた笑顔が、唱題する船長の脳裏に浮かぶ。“赤尾さんも祈っている”そううと強かった。

 第一中央汽船の船員の中で波涛会員は、尾崎船長と赤尾操機長の2人だけ。その2人がはからずもだんぴあ丸に乗船していたのである。

 6時00分。前日とまったく変わらず、海は大シケだった。1時間に1〜2度の間隔で、空が真っ暗になりバケツをひっくり返したようなスコールが両船をめがけてくる。風速計はときに25m以上を示す。針は計器が壊れるかとわれるほど激しく振れた。

「チョッサー(一航士)、風力、風向は変わりはないか」

「ありません」

「波の上がり方は」

「変わりません」

 ブリッジで船長の問いかけに一航士は計器を見ながら答える。

「これじゃ、きょうの救助活動は無理だな」

「そうですね」と相づちを打つ一航士。

 そこへ司厨長が入ってきた。

「キャプテン、昼の食事、どうしましょうか」。救助活動に入り尾道丸の乗組員が、移乗した時のことをたずねているのだ。

「(救助は)できないから必要ない」。キッパリと答えた。

 尾崎さんのハラは決まっていた。だが、船長の指揮権は救助者と被救助者の関係にあっても相手の船へは及ばない。したがってもし死の恐怖に耐えきれず、シケの中を尾道丸の乗組員が退船してきたなら、制止するわけにはいかず救出活動に入らなければならなかった。そうなると、この大シケの中だ、両船の乗組員の中から犠牲者は必ず出る。それはなるべく避けたかった。

「こちら、だんぴあ丸船室です。本船には燃料も食料もたっぷりあります。何日でも待てます。沈没のおそれがなければもうしばらく待ってはいかがでしょうか。一人の犠牲者も出したくありません」

「了解しました。それでも12時が限界です。近づいたら救命索発射器を撃ち合ったらどうでしょうか」悲痛ないがこもるだ。

 付近の海面に黒い帯状の模様が肉眼でもはっきり見えた。船首部の切損開口部に激しく打ち込む巨大な波浪で、浸水をからくも防いでいる石炭が流出している。次々とバルクヘッドが破られ、タテ方向の亀裂が走った場合は、危険だ。またたくまに船は沈没の一途をたどってしまう。

「検討してみます」

 尾崎船長は答えた。


「救命索は危ないな」


 刻一刻、迫り来る死。尾道丸の乗組員は、昨夜は一睡もしていない。眠れるわけがない。恐怖、焦燥がつのるばかりだ。そういをはせると尾崎船長は“慎重にならなければいかんゾ”と、自己に強く言い聞かせていた。

「ラインの長さは360m、水平距離は250mです。ですから、救命索を生かすには両船が200m以内の距離に近づく必要があるわけです。しかし、これは、こんなに荒れた海上じゃ、非常に危険極まりないことだといます」

 救命索発射器の説明書をもってきて説明する平野一航士の言葉にいちいちうなずきながら、尾崎船長は聞いていた。

 聞き終わるとVHFの受話器を取った。「尾道丸、私はトラック島の近くで風力5の中で、漁船を救助したことがあります。その時の方法でやります。貴船は安全に退船することだけを考えてください。あとは責任をもって全員無事に救出します」

 強い口調には、どこまでも死の恐怖を取り除こうとする力がこもっていた。

 7時16分。両船の間隔は6kmのまま。波浪は衰えない。あわよくば両船もろとも飲み尽くさんと虎視たんたんとねらっている。

 い切って救出に入るか、じっくり待つか――船長としての正場が近づく。ブリッジの窓の向こうに激浪をもろにかぶる尾道丸をながめる尾崎船長の目は鋭い。

 植村薫二等航海士が、レーダーをのぞいて得た尾道丸との正確な距離や方位を書いたメモをもってきた。

「キャプテン」

 間近にきて呼ばれて初めて気づいた。

「ありがとう」と、二航士に向けるひとみは笑っていた。メモを受けとり再び 窓外に向けた顔にはもう笑みは消えていた。

 とにかくキャプテンは辛抱強く持つなあ、焦った素振りはサラサラない。同船するのは3回目だが、こんなに沈着したキャプテンの姿は初めてだな……そんないでジロリと見返しながら二航士は出ようとした。

 出合いがしら、平川機関長とバッタリ会った。

「おい、あんまり船長の顔色を見るなよ。船長は全員助けたいとって、じっと時機をみてるんだ。無言の圧力をかけたらいけん」

 機関長は仲間と会うごとに、こう注していた。57歳のベテラン機関長には船長のが手にとるようにわかっていた。右手には、今回の乗船が最後になるからと、子さんから無理に持たされたカメラがぶらさがっていた。

「キャプテン。さきほどブリッジで尾道丸をこのカメラに納めてきましたよ。それにしてもこんな具合でカメラが役立つとわね」自慢げに語る機関長の姿に、尾崎船長の緊張がほぐれた。


「青波だ」「もう一日待て!」


 9時15分。だんぴあ丸は、接近を試みた。

 それまで尾道丸の周囲を巡りながら、遭船の様子、シケの模様を見つめる船長の頭の中は、最良の救助対策はないものか――激しく回転していた。

 両船間の距離がわずか500mになった。その時だ。例の青波が、さらえるものは何でもさらっていくぞといった勢いで右舷からはい上がりハッチを越えて左舷へ突進していった。船体は大きくローリングした。

 大きく傾いた、だんぴあ丸を見た。その瞬間、尾道丸の乗組員は、改めて青波の恐ろしさをい起こしたにちがいない。

 それは、海上生活者ならよく知っていることだ。救助の手を差しのべた船が、遭者を引き揚げ中、船を襲う青波にたたかれて、二重の犠牲を払った事件はよくある。また、大の男が青波にはじきとばされて、わずか10cmの甲板とパイプとのすき間にミンチのごとく押し込められて亡くなった話もある。

「これではボートは転覆する恐れがあるし、無理です。もう1日、待ちましょう」――直ちにVHFを通じて連格をしてきた。

“これこそ諸天の加護だ。青波が諸天の加護でなくてなんだろう!”――尾崎船長は、瞬間、の底からそうわないではいられなかった。

 なぜなら、鉄ののような大型船も、この時ばかりは板子一枚下は地獄である。恐怖ので一夜を過ごした尾道丸の人達がもう一晩、荒れ狂う海上で、沈没の危機にある船の中で過ごすことができるわけはないだろう。退船してくれば、大シケの中、必ず犠牲者が出る。救助する自船の乗組員の中からも必ず出る。最悪のケースだ。それをあの青波が止めてくれたのだ。

 同時に、青波は、なんとか救助を急ごう、シケの中でも最良の方法はないかと、いつしか焦りかけていた自分を「まだまだ持て! 落ちつくんだよ、船長!」と、叱りとばしてくれたようにえた。

御本尊に守られてるゾ”――どこからともなくふつふつと謝のがわいてきた。

「尾道丸、貴船はあくまでも安全に退船することだけを考えてください。一人の犠牲者も出したくありません。こちらも万全の態勢で準備をすすめております。安してください」

 荒天は続く。だが、この時、これで絶対に全員救出はできたゾ、という確信が五体にみなぎってくるのを尾崎船長は覚えた。


粘り強くチャンス待つ


「風はゆるむゾ、必ず」


“あすあたり、必ず凪(なぎ)がゆるむ計算になるな”――。

 尾崎船長はブリッジでここ3日間、送られてきた天気図を熱に見比べていた。 天気図は航海中、6時間毎にファクシミリで届いていた。

 冬季の北半球の気象は極を取り巻く上層の等圧線に4つの気圧の谷がある。1日の進行速度は経度で約15度。1週間ごとに気圧の谷がやってくる。陸でいえば三寒四温のような変化だ。したがって4日以上強い季節風が続くことはほとんどない。必ずゆるむときがくる。31日は吹き始めて4日目にあたっていた。気圧が西の方から上がってきているのを、船長は見逃さなかった。

 船橋で、両船の離れ具合、気象状況、相手の船の変化などを確認すると、後は当直者に任せて尾崎船長は船長室におりていった。そのまま室内に入ると御本尊の前に座り真剣に唱題を始めた。

 その夜、大井司厨長が部屋にやってきた。

「キャプテン、いよいよあすは元日ですね。二重のお祝いだ。正料理は数物ですから普通の皿では出せません。盛り付けは任せていただけますか」

「ええ、よろしくお願いします」

 目を輝かせて帰っていく司厨長を見送りながら、尾崎船長は決めた。

「元日の祝杯を共にあげる準備ができております。無事を祈っております」。これを移乗開始の合図の言葉にしよう、と。

 尾道丸の乗組員の希望と余裕に包まれた笑顔が、船長の脳裏に浮かんだ。“題目だ、とにかく題目だ”こう自分に言い聞かせた。


一糸乱れぬ完璧な態勢


「不議だ、不議だ」


 11日、午前4時。

 シケもようやく静まりかけた。夜明け前の海を、尾崎船長はブリッジからながめている。

 船乗りになって30年。それを記して伸ばしたヒゲが“ベテラン船長”の風格をかもしだしていた。

 この30年、一度も経験したことのないこの2日間の時の流れをい返していた。

睡眠した時間はどれだけあったか。皆無に等しい。今、ウトウトと1時間ばかり眠りについたくらいだ。人間の限界をはるかに越えた“極限状態”にあった。

 しかし自分をはじめ、皆が、どこまでも冷静に、沈着に事に処すことができ、すべでがスムーズに運んでいる。自らのこれまでの航海の体験や蓄積した知識をはるかに超えた力が働いている。

「不議だ」

「不議だな」

ポツリつぶやくと尾崎さんは船内を一巡しに出かけた。傍らにいた平野一航士は、そのつぶやきの味がわからず、けげんそうに船長の後ろ姿を見やった。

 厨房部はすでに正料理の準備に追われていた。

 再びブリッジに戻ると一航士と最終の打ち合わせをした。

「ポートは止めて、ライフラフト(膨張式救命いかだ)を3隻で脱出する。それもロープでつないでもらうよう、尾道丸に伝えてください」

「わかりました」

 一航士はさっそく尾道丸に無線を入れた。

「尾道丸、船長は起きておられますか」

「まだ休んでおられます」

 両船のやりとりを聞きながら、尾崎船長は、安した。――船長が寝られたようすだから、全員、休がとれたはずだ。これなら、きょうの救出活動は大丈夫だ。あとは天候のみ……。

 波は穏やかになったかにみえた。が“の海”はそうたやすくは引き下がらず、最後の抵抗を試みるのであった。

 救出方法はすでに30日の夜、決めていた。

 ミーティングは、一航士と一機士、一航士と通信長、司厨長と甲板長と操磯長……というふうに個々に研究し打ち合わせていく。それらを一航士がまとめて船長にもってきた。


「“神”ですよ、あれは」


 熱な討議の結果、(1)救命艇は船体と艇の間に体がはさまれる恐れがあるので使わず、ライフラフトを3隻使う(2)3個のラフトを風下舷の海面に投下、展張後、ロープで連結(3)だんぴあ丸の方は尾道丸の風下舷に接近し、舷側にライフネットをたらす(4)ロープの中央に輪を作り、尾道丸の人達が自力でネットをはいあがると同時に、だんぴあ丸の人達が甲板上でロープの両端を引き、上るのを助ける。

 このほか、船内の人員配置、救助態勢も組み立てられ、司厨部では救助後の、遭者のための風呂、部屋割り、供食の仕方も決められていた。

「パンツとシャツや日用品の寄付をしてください」と、寺西三航士が通路にダンボール箱を2個用した。1日で、下着類や日用品が箱からあふれていた。

 後に、このだんぴあ丸の用周到さに対し、海救肋について研究している日本海技協会の斉藤吉平調査部長は、その模様を聞いて舌を巻いた一人だ。

「とにかく完ぺきですね。船長の判断力といい、救助役務の分担と準備の良さ、そして両船間はもとよりライフラフトと本船間、船橋と甲板上の現場間の、完ぺきな通信連絡、そして救助後の準備、何もかも、あの世界中で一番シケている冬の“の海”で冷静に行われたとは、今でも信じられないくらいです。まさに“神”ですよ。常日ごろの船長を中とした人間的なつながり、チームワークががっちりとできあがっていたからだといます。この救助方法は、日本のみならず世界の船乗りの鏡です」

 5時半。

「今から準備して2時間後に退船します。よろしくお願いします」

「了解しました。こちらもそれに合わせて準備します」

 尾道丸から連絡が入った。平野一航士がそれを受けた。そこへ大野甲板長がブリッジに上がってきた。

「救助のために必要な品物は大丈夫ですか」

「はい、ライフネット1枚、ライフボールが2個、トランシーバーは3台……」

「それぞれの置き場所は明確になってますね」

「はい、大丈夫です」

 2人で最終的な打ち合わせ。

 6時。だんぴあ丸の乗組員は全員、起床した。

 6時半。「準備完了。ライフラフトを投下します」尾道丸から連絡が入る。両船の距離は約600m。救命索発射器は使わない。

「一号艇投下」

「二号艇投下」

「三号艇投下」

 と続いた後「乗艇を始めます」。

 尾崎船長は用した言葉で答えた。

「元日の祝杯を共にあげる準備ができております。無事を祈ります」

 一号艇乗艇が完了したころ、スコールがやってきた。風速計は17m。ヒヤリとする瞬間だ。が、まもなく「全員、乗艇完了」の連絡。だんぴあ丸の甲板上で救命胴衣を身にまとい待ち構える16人の顔に安堵(あんど)の色がさした。


「スコールよ、来るな」


 10人、10人、9人と分乗した3隻のライフラフトは、ロープで連結されて風船のようにふくらんで海上に浮かんでいる。オールを使って尾道丸から離れようとするが、うにまかせない。ライフラフトは風向き、波の流れに左右される。約3mのうねりがあるためオールでは自由に方向はとれないのだ。

 やっと離れた。が、なんと待機するだんぴあ丸とは逆方向に流されている。海上の模様から尾道丸から風下に待機していたのがウラ目に出た。海の男と“の海”との知恵比べである。

 急きょ、救助船は一回転して待機場所を、3隻のライフラフトの流れてくる方向にとった。両船の距離はやはり約600m。

 もう乗艇開始後2時間を経ようとしていた。もたもたしているとスコールが襲う。スコールの間隔は約2時間という。これは太平洋上の掟(おきて)だ。

 万一、ライフラフトがスコールに飲み込まれたら、万事休す。

“スコールよ、来るな!”――54人の男達のは一つだった。ここで失敗すれば、九仞(じん)の功を一簣(いっき)にかく。

 やっとロープで連結されたライフラフトが待ち構えるだんぴあ丸の左舷に到着した。左舷に打ちつける波はない。が、上下の波の振幅は約3m。人の背丈の倍ぐらいある。波の上をエレベーターのように上下に浮き沈みしているライフラフトから、それも波が一番上に上がったところで、左舷にたらされたライフネットに飛び移るわけだ。

 タイミングがはずれるとザブンと海水をかぶってしまう。いつしか間囲にサメが不気味に群がっていた。船から排出される汚物をかいで近寄ってきたのだ。

 ともかく順番にライフネットを一人一人はいあがってくる。それを甲板から引っぱる。

「落ち着けよ」「もう少しだ」合図マンの甲板手の激励の言葉がとぶ。

 強引に引き揚げるのでデッキの上で引っぱる人の腕は棒のようになってしまった。動きのにぶい人が出れば、すぐだれかが代わって引っぱった。交代でテキパキと無駄のない作で遭者がデッキに次々とたどりついた。

「早く風呂だ! 案内してやってくれ」――甲板手の、生き生きしたが甲板に響いた。


「二航士、方向を鹿島へ」


 果たしてスコールがやってきた。ゴーッという音とともに。

の海”の最後のあがきにもえた。

 再び風速計は17mを示した。残る2号艇から一人また一人ライフネットへ移るところだった。

「スコールが通り過ぎるまで待ったらどうか」。ブリッジから尾崎船長は、甲板上でトランシーバーをにあて現場で指揮する一航士に聞く。

「やれます。続けてやらせてください」。勢いに乗っているときは事故は起きない。

「よし、了解!」

 幸い、尾道丸の方では年配者から先に上らせていた。残っている人は若い。激しいシャワーの中をネットを上ってくる。

ついに29人、全員が甲板に上り切った。ブリッジの時計が8時45分を示している。

「ありがとうこざいました」

 尾道丸の北浜船長が、目に涙をいっぱいためて甲板上に出てきた尾崎船長に抱きついた。

「一人でも犠牲者を出していたら、私は生きてはあがれませんでした」

 胸の中でつぶやく北浜船長。28人の乗組員を守るため迫りくる死の恐怖と戦い抜いた男の、像を絶する労が、尾崎船長には同じ船長としてわかるような気がした。

 人は、海の男にロマンを求めるかもしれない。しかし、船乗りにとって結果がすべてであり、それはいいしれぬ厳しさを、突きつけられている。どんなに努力し、研究し、労を尽くしたとしても、結果が失敗であれば、それは即、死を味するのだ。こうした例は枚挙にいとまがない。

 今度の“奇跡に近い救出”も、人は、たまたまよい条件が重なって結果が良かったのでは、というかもしれない。

 しかし、どこまでも船乗りは結果がすべてなのだ。

“助かった”という事実こそが最も尊く最高の賛辞が送られるべきだろう。

“よくぞ、お互いに辛抱強く耐えぬくことができましたね”そんないが込みあげてきた。尾崎船長の目にも涙があふれた。抱き合う二人の両腕にグッと力がこもった。

「セコンドオフィサー、方向を鹿島に向けてくれ。コース、290度」

 尾崎船長は、船長室に戻り、会社に喜びの電報を打った。柱時計は9時15分を指していた。

 SOSを受信してから44時間と6分。すさまじい死闘だった。だが、ついに54人の海の男達は勝ったのだ。彼らの友情と忍耐と団結の前に、ほえ続けた“の海”は屈服したのである。


船上で涙あふれる新年会


「おトソの味忘れられない」


 午前10時。船上にだんぴあ丸と尾道丸の乗組員が勢ぞろいした。動と激の新年会が始まった。

 司会の渡辺通信長のが弾んでいる。

 日焼けしたとの顔にも会の笑みがこぼれていた。

 尾崎船長はあいさつした。

1981年、おめでとうございます。もし一人でも犠牲者を出していれば、元日をこうして祝うことはできなかったでありましょう。八という字は日本では古来、末広がりとして喜ばれる数字です。

 81年は、日本人船員に吉となる年であるといます。希望に満ちた年、1981年を明るく元気に頑張りましょう」

 続いて通信長が、届いたばかりの海上保安庁警備救部長からの電報を読んだ。

「尾道丸の救助に対しては、悪条件にもかかわらず沈着、冷静、的確な救助活動により乗組員全員を救助されました。それは船長以下乗組員一同の崇高な同僚愛と高度な技術のたまものであり、その功積を高く評価し、謝のを表します」

 読み終わると、大拍手が起こった。

 乾杯の盃を交わした。

「助けてもらっただけでもうれしかった。それなのに、25人分しか用していなかったはずの正料理を、分かち合っで、私達のためにも新年会を開いてくださって、何といっていいのやら……このおトソの味は生涯忘れられません」

 北浜船長はをつまらせた。同じく尾道丸・山根厚志二等機関士も「この新年式のほかにも、着替えの衣類をはじめ、日用品やコーヒー、飲み物などまで提供していただいて謝のしようもありません」と激の面持ち。「お風呂からあがって、軟らかく乾いた服を着ることがこんなに気持ちがいいものだとは、知りませんでした」と乗組員のだれもがいった。

 おトソを、グイと飲みほした尾道丸の乗組員の目からまた新しい涙があふれた。

 和やかな歓談が続く。

 自分達のもともと着ていた服が乾くと、尾道丸の人達は、真の衣類をきれいに洗たくして返した。海の男達の麗しい友情と生きる喜びを満載しながら、だんぴあ丸はひたすら新春の太平洋を一路、鹿島港に急いだ。


の海域”とは


この冬、大型船2隻が行方不明……

 千葉県・野島崎東方約300kmから5000kmの北緯30度から35度付近の太平洋上は「の海域」と呼ばれる。気象庁海上気象課の話では北太平洋は「低気圧の墓場」と呼ばれ、冬場は台風並みの大シケが続くうての荒海になるという。

 44年15日、大型鉱石専用船「ぼりばあ丸」(33800総t)が船体を真っ二つに折って沈没、31人が死亡。45年29日には「かりふぉるにあ丸」(340000総t)がやはり船体を折って沈没、5人が死亡した。このほか、大型船が次々とナゾの沈没を起こしており、バミューダ(米東海岸)沖の“ナゾの三角海域”と並んで野島崎沖は“の海域”として海の男から恐れられている。

 今冬季は例年にない大シケで、昨年1228日、ユーゴスラビアの貨物船「ドナウ号」(14712総t)が、翌年12日、ギリシャの貨物船「アンティパロス号」(13862総t)が、相次いで行方不明、海上保安庁が捜索したが浮遊物すら発見できない。

 いったいこの冬、の海で何が起こったのか。こうした中で「尾道丸」が沈没を免れたことは、現代科学の力が及ばない大自然のミステリー解明へ、大きな手掛かりが得られるのではないかとの期待がもたれていた。しかし、乗組員全員救出後、日本に向かい、えい航中、惜しくも沈没、関係者をがっかりさせた。

 さる46日、リベリアの大型鉱石船「マルコナ・トレーダー号」(39600総t)が野島崎沖において船首に大穴をあけながら、千葉県君津市の岸壁に到着。

の海域”の“生き証人”として今、関係者の間から熱い視線を浴びている。

 の海を通る北太平洋航路は日本と北米大陸を結ぶ重要な貿易ルート。それだけに“なぜここで遭が多いのか”――一日も早いナゾの解明へ関係各方面の関は高まっている。


“国民的顕彰”に値する


【元東京商船大学長・浅井栄資氏の話】


「今回の尾崎船長はじめ、だんぴあ丸の乗組員の方々の、29人全員の救出という功績はまさに国民的顕彰に値するものであります。

 かつてアメリカの大型船がベーリング海峡で遭した時、ちょうど通りかかった日本船が救助にあたったことがあります。結局、3人しか救出できなかった。その時、アメリカのとった態度はどうか。米大統領みずから救出にあたった日本船に謝を込めて表彰の記品を贈ったのです。また、の海で『かりふぉるにあ丸』が沈没した時、ニュージーランドのオーテアロー号が救助に当たったが、22人を救助したが、残ながら5人の犠牲者を出してしまいました。それでも勇気ある人命救助の行動に対してイギリスは、女王からの勲章をその船の船長に贈ってたたえています。

 このようにすべての海洋国は、海救助活動に対し、その誉を顕彰する制度がありますが、日本も人命尊重、船の安全を守るためにもそういう制度があった方がいいと願っています。今回のだんぴあ丸の活躍を契機に海洋国・日本としての識が、全国的に高まっていくことを期待しています」


取材余話


○……尼崎さんは、救出成功の因をこう言う。「大シケの中で丸2日間、じっと待ち続けることのつらさを本当に知った。忍耐ですね。あそこまでよくぞ耐えられたものだなと、自分でもビックリしてるんです」――。

 荒れ狂う海にただよう破損船。いつ沈没するかもわからない。だが、いま脱出させれば結局は、海のもくずだ――この時の忍耐はまさに最大の勇気であり、力であろう。尾崎さんは、これこそ信仰で学び、培ったものだとも言った。忍耐できる人のみが人生に勝利できる。忍耐できることそれ自体に、すでに勝利が含まれている。このことを、尾崎さんが今回示した行動は、如実に証明している。

 関係者の間でも「全員を無事救出するという固い信で最後までよくじっと時機を待っていたものだ。さらに相手船のの動揺を察知し、ことこまかに気を配って激励している。並の人間じゃできないことだ」(全日本海員組合安全福祉局安全・法対部副部長・山元浩一氏)というが出るほどだ。

 尾道丸の乗組員も尾崎船長の指示を落ちついて受け止め、しのびよる死の恐怖に2昼夜も耐え抜いたことは、立派であり、見逃してはなるまい。


取材余話 その二


○……「今回の航海で1年分の題目をあげたようにいます」と尾崎さんは笑った。救助活動中、終始、口の中で題目を唱えた。「すると不議とが落ちついできて、打つ手、打つ手がピタッとうまくいった。こんなことは初めて。まさに極限状況の中で御本尊様の力を痛しないわけにはいきませんでした」と言い切った。

 尾崎さんは長崎県の生まれ。17歳の時、船乗りの第一歩を踏んだ。すでに船乗りだった4歳上の兄の影響で、昭和26年、佐賀県唐津の海員学校を出ると第一汽船KKに入社。見習甲板員から出発した。

 32年、海技専門学院の甲種二等航海士科に1年間在籍、免許を取得。さらに36年4、甲種一等航海士に。41年、海技大学校本科を卒して翌年、32歳の時、甲種船長の免許を取得した努力家であり、労人である。

 この間、生命の法則、宇宙の法則を完全に説き明かした法にひかれて入信(47年)。生命の尊厳を貫く固い信で、今回の貴重な体験を積んだが、さらに自己を鍛えて尊い人命をあずかる職務を全うしていきたいと静かに語った。


取材余話 その三


 尾崎さんは、高3長女を頭に2男2女の父。妻の文子さん(41)は大B担当員で活躍する。一家はまさに学会家族である。

 文子さんが夫の“歴史的な快挙”知ったのは、だんぴあ丸が鹿島港に入った16日。1230日は、モチつき、31日は正料理の準備に追われていて「全然、知りませんでした」。

「事故があった」と電話で第一。「えっ、父ちゃんの船が?」とビックリ。「いや、(遭船を)救助して29人全員を助けたんや」という夫の淡々としたに、2度ビックリしたという。

 その遭船救助活動が“の海”と船乗りから恐れられている洋上で、それも暴風雨の中で行われたことを知って「わず受話器を落としかけました。もうから御本尊様の力を痛しないわけにはいきませんでした」。

 また文子さんは、題目ノートをつづっている。51年10から始めた。その前に夫は船長として遠洋航海へ初出航している。重責を担う夫の無事航海を深くに期していた。題目ノートをみせてもらうと、今年11日、つまり、無事救出が完了した日に、文子さんの唱題は600万遍達していた――。

 夫人・文子さんの体験


【放映日翌日、泉州総県の婦人部幹部会で体験発表】


  • 私の入会は昭和41年。当時、主人が船乗りであったため、不安な生活が続き、ノイローゼになったことが入会動機です。
  • 私が入会したことを知った主人は、言論問題が起こっていた当時などは、藤原弘達の本や、週刊誌に載っている学会批判の記事を私に見せながら、猛烈に反対しました。
  • 入会後、子供にアトピーやチック症状の宿が次々と、出てきました。しかし、退転したらもっと不幸になると、歯を食いしばって、先輩について折伏に走りました。
  • その後、子供たちの症状も収まりました。
  • その頃、主人は、たまたま海上生活から、仕事の関係で、3年間、大阪勤務となり、陸上生活となりました。そのときに、住んでいた金剛団地で、自治会の副会長をすることになりました。担当は、盆踊り。櫓(やぐら)の設営やら、人集め、スポンサー探しなど、大変な担当です。いざ、櫓を組むとなりました。当時、金剛団地で自治会を仕切っていた共産党関係の役員は、こんな時、誰も手伝ってくれません。そのときに、文句一つ言わず、てきぱきと手伝ってくれたのが、学会男子部のメンバーです。手伝ってくれた人全員が、学会男子部。その姿にを打たれ、昭和47年、ついに主人も入会しました。
  • 危険な船上生活を続けていた関係で、信仰の必要はもともと痛していた主人ですから、入信してからは、船長室に壇・御本尊を御安置し、信に励むようになりました。
  • 昭和53年、泉州文化が落成した折、池田先生が来館してくださいました。会館落成の特別財務に頑張り、当日を迎えた私は、配達員の代表として会合に参加させていただきました。その時、運営誘導にあたっていた創価班の手違いで、何と先生と幹部の代表との記撮影に入らせていただくことができました。
  • そして、ずっとつけていた題目ノートが600万遍を数えて迎えた昭和55年の暮れ。あの海事故が起こったのです。
  • 題目ノートとともに、歩んできた私の人生ですが、今回、番組が放映されたこの5で、40回目の100万遍、4000万遍となりました。
  • 番組の最後で、主人と一緒に桜の並木道を歩くシーンを見て、信してきて本当によかったとの底からいました。

の海に勝て!』尾崎哲夫(潮出版社、2003年)


魔の海に勝て!


DVD


プロジェクトX 挑戦者たち 第VII期 嵐の海のSOS 運命の舵を切れ