Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2003-08-24

やさしくない教学


 来る97日、任用試験が行われる。新入会のメンバーや、既に何度か受けている方もいることだろう。教学は決してやさしくない。だからこそ、そこに挑戦してゆく青年は美しい。


 信仰を支えているのは体験と哲学(教学)に他ならない。これはスポーツや音楽の世界でも同様だろう。ルール(あるいは法則)や作戦などを知らねば一流にはなれない。


「私は体験があるから大丈夫」とい込んでいる人もいるかもしれない。確かに何らかの体験があれば、それに応じて確信が深まるものだ。しかし、自分が今まで体験したことのない事態に遭遇したらどうなるのか? 一人の人間の限られた時間で体験できることは、それほど多くはない。


 戦前、創価学会が弾圧を受け、その際、20の最高幹部が当局に逮捕された。国家権力の迫害に屈しなかったのは初代会長・牧口常三郎先生と、二代会長・戸田城聖先生のお二方だけであった。戸田先生は幹部でありながら退転した原因を「教学がなかったからだ」とされ、出獄後、学会の再建を法華経講義から開始された。これが真実の歴史である。それ以来、座談会と教学が学会の伝統であり、「剣豪の修行」の如き研鑚こそ、青年部の誉れとなっている。


 大聖人は「行学の二道をはげみ候べし」(1361頁)と仰せだ。ともすると肉体派が目立つ男子部の中で、教学を軽んずる風潮が散見される。結果さえ出せばよいといったも時折、聞かれる。振り返ると、教学部長が退転した事実を見て、教学への不信が蔓延したこともあった。


 だが、そうではない。体験だけの話では普遍が欠ける。教学という哲理があって、初めて万人を納得させることができるのだ。


 法はどこにあるのか? 経典の中にあるのか、はたまた、伽藍(がらん)や会館、あるいは、壇の中にあるのか? 大聖人はこう仰せだ。


「行学たへなば法はあるべからず」(1361頁)と。


 絶えることのない行学のなかに法はある。


 灼熱の夏を迎える。同じ汗をかくのであれば、偉大なる実践と研鑚によって崇高なる汗を流そう。

2003-08-06

組織をおかしくする方法


 皆さん、夏季友好週間をいかがお過ごしでしょうか? 早目の晩酌に余がない壮年部の方や、汗だくになったやや太めの身体を茶の間に横たえて、英気を養う婦人部の方、あるいは、友人と山や海へと、浮かれながら走る青年部の皆さんもいらっしゃることでしょう(笑)。


 いずれにしても、何の束縛もない休日にこそ、その人の人生の過ごし方が端的に現れるといってよい。吾が輩はというと「読書と索の暇(いとま)」を作るべく余がない。


 そこで「組織をおかしくする方法」について索してみた。


 リーダーが担う使命の眼目は、人を育てることにある。組織の画竜点睛(がりょうてんせい)は人材育成に尽きる。これを見失ったリーダーのいるところ、たちどころに組織の歯車は狂ってゆく。微妙な呼吸のズレが戦いにブレーキをかけることは決して珍しくない。


 後輩が現実に目覚しい成長を遂げていなければ、リーダーが権威主義であり、官僚主義となっている証拠である。かといって、自分が成長してないことを先輩のせいにするのはお門違い。「人は変われど、我は変わらじ」を勘違いして、全く成長しない男子部もたまにいる。


 幹部が利に走ると“悪しき成果主義”がはびこる。時折、被害は友人にまで至るケースがある。


 地区活動者会に行くと、普段から鬼のような顔をした地区婦人部長が、大神のような顔でじっと見つめ「新聞啓蒙は?」と一言。翌週からは、壮年・男子の参加者がぐっと減ったりする。弱いメンバーは「新聞、新聞って、俺は新聞屋じゃねえんだよ!」などと怒りをあらわにするが、地区婦人部長の前では借りてきた猫状態。


 幹部による“悪しき成果主義”への対抗手段として“安易な反成果主義”というのがある。「そんなに数、数って言うことないじゃありませんか!」なんてね。「私達は数字のために戦っているんですか?」とも。東京の下町あたりだと、「そうよ。決まってるじゃない!」とあっさり反撃されたりする。自分の弱さを正当化する見は情に支配されたものであって、そこに広布の志は微塵も見られない。


 数だけの戦いは不毛だ。疲れしか残らない。数の出ない戦いは、既に戦いとは呼べないだろう。だからこそ、中道というバランスが求められる。


 幹部は自ら範を示し、「共に戦おう!」と士気を鼓舞してゆくことだ。人は気にじて動く。言葉で動かそうとした途端、組織に雲がかかる。


 絶妙なる連係と、世界一の団結で進むのが、創価の王道だ。