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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2003-09-13

便利さが功徳を奪う


 ここにアップしている文章をどのように利用して頂いても一向に構わないのだが、できれるだけ慎重な姿勢でお願いしたいとう。これは他サイトについても同様だが、特に古い指導に関しては取り扱いに注が必要。会合などでネット情報を紹介する場合は、事前に先輩の見を聞いておくべきだ。


 というわけで本題に入るが、安易なコピーは戒め合いたい。


7.5Hz怪文書騒動に思う」にあるように間違った情報が安易なコピーによって組織に氾濫(はんらん)すれば、与同罪を受けてしまうからだ。


 考えるとつくづく便利な時代になったものだ。書類はコピーやファクシミリで簡単且つ正確に渡すことができるし、携帯電話やパソコンなどによって、離れた位置からでも報告を入れることが出来るようになった。


 しかし、便利さが功徳を奪っているのも、また確かだろう。昔は、報告となると拠点まで走る姿があった。今はどうだろうか――。


 草創の大先輩を見よ。東京にあっては隣接する県まで自転車をこぎ、たった一人のために激励の手を差し延べていた。自分自身が貧乏と病気に喘(あえ)いでいるにも関わらずだ。


「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」(329頁)である。楽な修行などあり得ないし、成への近道など存在しない。記録に挑むスポーツ選手や、自立した生活を目指すリハビリ患者が、楽をしようするだろうか? ましてや、一生成という無上道を歩む我々である。


 世界の同志は、あらゆる困を乗り越えて道を切り開いている。会館まで数日間を要する地域にいる方々も多いことだろう。そうした環境下で、御書を研鑚し、スピーチを学び、弘教に汗する同志の存在を忘れてはならない。SGI総会に集ったメンバーの眩しい笑顔の裏には、数えきれない悩と呻吟(しんぎん)があることを知らねばならない。

2003-09-12

信不全


 心不全ならぬ信不全について(笑)。


 臓のポンプ機能が低下し、全身に十分な血液が送り込めなくなる状態が不全。動脈硬化による梗塞などもそうだが、身体というのは絶妙なる連係で生命が保たれている。


 では、信不全について考えよう。


 法は凡夫の成を説いたものである。つまり、一人の人間における絶対的幸福境涯を獲得することが修行の目的となる。修行には自行と化他行がある。自分が幸福を目指すと共に、友をも幸福に導かねばならない。


 時折、組織を煙たがる者も見受けられるが、善知識の集いなくして成はかなわない。信の道場ともいうべき組織につかずして、成を目指す途上で、自分の位置を確認することはしい。また、一人よがりの考え方が我見の方向へ傾くまで、さほど時間を必要としない。


 夫れ木をうえ候には大風吹き候へどもつよきすけをかひぬればたう(倒)れず、本より生いて候木なれども根の弱きはたうれぬ、甲斐無き者なれどもたすくる者強ければたうれず、すこし健(けなげ)の者も独(ひとり)なれば悪しきみちにはたうれぬ(1468頁)


 この御聖訓こそ、広宣流布組織の必要を説かれたものと確信する。


 社会も組織であり、人体もまた組織である。一人だけで生きている人間など存在しない。「他人から干渉されたくない」などというのは、他人との関わり合いをわずらわしくうあまり、現実逃避しているだけだ。関わり合いを避けて通れないのが人の世の常であろう。


 組織においては連係が生命線である。絶えざる連係があって身体が自由に動くのと同じだ。果たして、あなたは先輩とどの程度のペースで連係をとっているだろうか? 毎日、とっている人もいるだろうし、中には会合の連絡を待つだけの人もいるだろう。


 法華経随自意で説かれた法である。先輩からの連絡を待っているだけの人は随他意といってよい。言われて動いている人は、突っつかれてよろける程度の動きにしかならない。慣の法則だけで動いている人は、いつか必ず止まる。また、後輩からの報告だけを待つ先輩も同様。


 闘争が激しくなればなるほど連係が不可欠だ。運動をした後の臓が激しく動くのと同じように。一日に何度もやり取りするぐらいで当たり前だ。「今日は、特に報告することはありません。何かありますか?」と先輩に電話を入れるぐらいになれば、訓練が深まっている証拠。


 先輩との連係を取らずして、平気な顔をしている人は、既に“痺(しび)れた足”状態といってよい。痛みすらじないようになっているから極めて危険だ。そのまま放っておくと腐ってしまいかねない。


 動いてはいるが疲れる一方だ――こういう方は御本尊との連係が欠けている。御飯を食べずして動いているようなものだろう。


 いずれにしても、「これぐらいはいいだろう」という油断が、信不全に陥る最大の要因である。小さな変化を見落とすことなく完璧な連係で勝ち戦をものにしてゆきたい。

2003-09-06

家庭指導が苦手なあなたへ


「家庭指導で何を話せばいいのか、わからないんですが……」という質問をたまに受ける。折伏労している若手のメンバーに多い。殆どが以下のようなやり取りとなる――


「君はどうして部員さんの家を訪ねるんだ?」

「会合の連絡です」

「会合の連絡が目的で家庭訪問しているんだ?」

「はい」(日顕問題以前であれば、ここで気合いが入ってる)

「会合の連絡だけであれば、電話で済ませた方が価値的だよね?」

「ええ、まあ……」

「会合の連絡だけなら伝書鳩でもできるよね?」

「……」(既に俯〈うつむ〉いている。あるいは極度の緊張状態に陥っている)

「それじゃあ、会合がなければ後輩の家を訪ねないってわけだ」

「いえ、そういうわけじゃないんですが……」

「じゃあ、一体全体どういうわけなんだ?」

「部員さんの近況とかを聞きに……」

「そうだ! それは大事だ。さすがだな!」


 まあ、この後も延々と続くのだが省略しよう。


 先生はこの夏、数々の指導をして下さった。その殆どが幹部として、また信仰者としての基本に触れたものだった。一貫しているのは「官僚主義への戒め」である。ともすると、官僚主義と聞いた途端、本部職員や大幹部を連する人も多いが、決してそうではない。


 会合があるから組織を回る――これでは官僚主義だ。こういう人物には、後輩が結集要員としか映ってないのだろう。サラリーマンを蝕む奴隷根と何ら変わりがない。


 家庭指導の目的は、「相手に会う」ところにある。それ以外に目的があってはならないだろう。だから、「会いたいから足を運ぶ」というのが正しい家庭指導の姿勢だ。若き日に、ほのかな恋を抱いたあの娘(こ)に会いたい! といういに匹敵するぐらいが望ましい。もう、から晩まで後輩のことを考えて、帰宅するなり、すっ飛んでゆく先輩が理だ。これを「毎時作是」という。


 大勢の後輩を預かっている立場であれば、中には手な人もいるだろう。ちょっと足を伸ばせば訪問できるにも関わらず、「あ、そろそろ会合の時間だ」とか、「この間、行ったばっかりだからいいや」とかね。これではいけない。手な人、話しにくい人こそが、あなたの善知識なのだから。組織の正しい回り方は、手な人優先のコースである。


 家庭指導が楽しくなってきたら、幹部として一人前である。どんなに役職が高く、会合で叫んでいたとしても、家庭指導を避けるようなのは腰抜けだ。携帯メールで連絡を済ませている幹部は、功徳を得られる修行を放棄しているも同然だ。


 第一次宗門問題以降、身動きが取れなくなっていた先生は、功労者宅の家庭訪問を開始された。その数は、数年間で600件を上回った。現在の世界広布の上げ潮は、先生が一対一の対話で切り開いてきたことを、絶対に忘れてはならない。


「何を話せばいいのかわからない」――そんな後輩がいたとすれば、全部、先輩の責任である。連れて歩いてないから、そんなことになるのだ。手本を示さずして後輩が育つはずもない。せっかく、尊い行動をしながら、わざわざ成長できないようなリズムを作ってしまっていることに、先輩がいち早く気づくべきだろう。


 光を浴びながら、ひた向きに歩く後ろ姿を、御本尊がじっと見ている。