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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2003-10-20

忘れまじ10.20


 1996年1020日、初の小選挙区・比例代表並立制の選挙が実施された。当時、衆院公明党は新進党に合流していた。二大政党制への足掛かりとなる選挙の結果は新進党の敗北に終わった。就中(なかんずく)、公明勢力は惨敗といってよかった。


 皆、叫ぶようにして泣いた。悪夢のような日だった。何本もかかってくる電話の向こうでは誰もが泣いていた。


 皆、戦った。小選挙区が今までと同じような戦いで勝てるとはわなかった。死に物狂いで戦った。これ以上は戦えないと誰もがった。だが、負けた――。その衝撃は「我が青年部時代に終止符が打たれた」とじさせるほどだった。


 ある総区の婦人部長が語った。「選挙には負けましたが、我が婦人部は勝ちました。婦人部万歳!」泣きながら壇上で両手を挙げていた。この婦人部長こそ、今回、東京ブロック比例簿2位にいる高木美智代さんである。


 以前、東京都議選において十数票差で落選の憂き目にあった区があった。誰もが勝利を確信していた。皆がそれだけの闘争をしてきた。開票直後、区青年部長は選挙管理委員会に怒鳴り込んだ。「何かの間違いだ! 絶対にそんなはずはない!」。直ちに取り押さえられた。


 翌日の区幹には森田理事長(当時)が入った。区幹部が懇談した際、皆一様に「どうして負けたのでしょうか?」と訊ねた。負ける理由が見つからなかった。皆のを聞き終えた理事長は言った。「票が足りなかったから負けたんだよ」と。


 何と厳しい現実か。甘かった。甘過ぎた。しい戦いをしている内に、戦うことそれ自体に満足してはいなかったか。闘争の目的は勝利であったはずだ。小さな勝利に満足を覚え、最後の勝利を手中にできなかったあの悔しさ。頑張れば勝てるはずだという錯覚。戦っていれば何とかなるとのい込み……。人生の汚点などという生易しいものではない。まるで、墨でも塗りつけられたかのようないに駆られた。


 師匠の期待に応えることができなかったという事実が皆をしめた。集い合っても笑顔は見られなかった。の中を無の嵐が吹き荒れ、ポッカリと穴が空いた。


 あれから7年が経った。あの日のことは一日たりとも忘れたことはない。あの大いなる無と悔恨の穴を埋めるために、私は今日を戦う。

2003-10-02

煩悩即――


 法では、人間が悩する根本原因を煩悩に求める。小乗経においては、たくさんの煩悩を消滅させるために膨大な量の戒律を必要とした。滝に打たれたり、焚(た)いたゴマの上を歩いたりという修行など。


 俗に子煩悩などと言ったり、除夜の鐘が百八つであるのも煩悩を示している。数珠の球の数も百八つ。


 人間の欲望には限りがない。釈尊が説いた法門の数を八万四千とするのも、「八万四千の煩悩を解決する法」という味に由来するという説もある。


 煩悩とは「煩(わずら)い悩む」こと。梵語の“クレーシャ”を訳したもので、語源の味は「汚す」という義。漢訳典では「染汚(ぜんま)」と表わすが味としてはこちらの方が正確。


 昔、彼女が欲しくて、それだけのために長時間の唱題にいそしむ男子部がいた。今も全国各地にいるだろう。それを知った私は直ちに先輩の元へ彼を誘(いざな)った。


「そうか、好きな女子部ができたか」

「ハイ……」

「今、どんな風に祈ってる?」

「相手の女子部の方と結婚できるように祈ってます」

「そうか。でも、どうして結婚したいんだ?」

「そ、そ、それは、彼女と一生涯、広宣流布のために頑張っていきたいとっているからです!」


 その瞬間、先輩の表情が引き締まった。


「違うよ。それは……。ざっくばらんに言わせてもらうが、“男が結婚したい”というのは“やりたい”ってことなんだ(※女の方々、ごめんなさい)。どうだ、違うか?」

「……その通りだといます」

「そうだよな。だから、自分の欲望のために相手を利用するようなことがあってはいけないんだ。わかるよな? 相手をどうこうしたいと考える前に、自分をしっかりと高めてゆく祈りと戦いが必要なんだ。そこが勝負だぞ!」


 鋭い指摘だった。漠然と祈ることが煩悩即菩提ではない。若き男子部諸君、ムラムラしているだけでは煩悩即犯罪となりかねないぞ(笑)。


 ある先輩が私にこう語った――


「闇が深ければ深いほど――暗い」(笑)

「冬は――そのまま氷河期となる」(笑)


 これでは煩悩煩悩だ。


 入楞伽経(にゅうりょうがきょう)という経典には次のような例えがある。


 蚕(かいこ)は自分の吐き出した糸によって自分を縛り挙げ、最後は繭(まゆ)の中で身動きがとれなくなる。これに対して蜘蛛(くも)は自分の吐き出した糸を張り巡らし、その上を自由に駆け巡る。大乗経典は蜘蛛の如し。


 今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは生死の闇を照し晴して涅槃の智火明了なり生死即涅槃と開覚するを照則闇不生とは云うなり、煩悩の薪を焼いて菩提の火現前するなり煩悩即菩提と開覚するを焼則物不生とは云うなり(710頁)


 日蓮法は煩悩を菩提へと止揚することができる大法だ。どうせ燃やすなら、我が身一身の小さな煩悩ではなくして、創価大勝の大煩悩を燃やしてゆきたい。