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2004-02-29

スケジュール闘争


 例えば今月の予定・スケジュールが決まる。それをただ手帳に書いているだけなら、自分の一の中に入っていかない。なすべきことを全部、自分の一の中に入れていくことです。入れていけば、それが祈りとなっていく。一三千で、勝利の方向へ、勝利の方向へと全宇宙が回転していく。

 自分の魂の中、一の中に、「広宣流布」を入れていくのです。一切の「我が同志」を入れていくのです。広宣流布を祈り、創価学会の繁栄を祈り、我が同志の幸福を祈り、行動するのです。それが広宣流布の大闘士です。


【『法華経の智』第4巻 1998-12-08発行】


 一とは、一+今+であるから、今この瞬間の生命を指す。一瞬の生命の奥底(おうてい)に何があるのか。何に支えられているのか。どこに向かっているのか。


 俗諺(ぞくげん)では「肚(はら)に入れる」「肝に据える」などというが、法は色不二であるが故に、もっと深い次元となる。


 自分の手帳はいかなる状態になっているであろうか? 真っ先に私的な用事を書き加え、後から学会の会合を書いているようなことはないだろうか? スケジュールの書き方に、人生の優先順位が如実に現れる。


 宗教五綱においては“時”が最も重要な要素となる。だからこそ、スケジュールが大事だ。今が如何なる時であるかを見誤ってしまえば計画は頓挫する。一生成が人生の目的であるならば、無計画に人生を送ることなど許されないはずだ。


 戸田先生に仕えていた若き先生は、師のスケジュールは完璧に知悉(ちしつ)されていたと窺う。戸田先生が眼鏡を額にせり上げて、手帳に目を凝らした瞬間、「先生、その日は、何時からは――、何時からは――のご予定になっております」と進言された。精密機械のような先生の振る舞いに「大作は凄いなあ」と戸田先生嘆された。


 一に広宣流布を入れる、との教えは本因妙そのものである。広布に邁進する中で、徐々に一を鍛え上げるのではなくして、まず最初にを決める。「これをやるぞ!」「断じて成し遂げてみせる!」という最初の一が、その後の行動を決定する。因果倶時で、その時、既に勝利の結果が確定される。


「奴隷根」や「雇われ根」が微塵でもあれば、最早、地涌の菩薩とはいえない。ともすると惰弱になるを戒めながら、強靭なる一で闘争に臨みたい。


 私の目下の最大のスケジュールは、明年の1月2日である。この日、先生は喜寿をお迎えになるが、どのような勝利をもって、喜寿のお祝いとするかが、頭から離れない。

2004-02-28

後継と後続は異なる


“後継”と“後続”とは異なる。後方の安全地帯に身を置き、開拓の労も知らず、ただ後に続く“後続の人”に、“後継”の責任を果たすことなどできようはずがない。“後継の人”とは、勝利の旗を打ち立てる“先駆の人”でなければならない。


【『新・人間革命 第2巻』 「先駆」 1998-08-24発行】


 金魚の糞みたいに、ただ後ろにくっついてりゃいいってもんじゃない。糸が針の後を辿るように、民衆のを縫い合わせてゆくのが理だ。


 最近では、「後続」組の中に、公明党の悪口ばっかり言って、調子に乗ってるようなのもいる(笑)。


 自ら戦いを起こし、勝利の旗を打ち立てて、初めて真の「後継」たり得る。でき上がった組織の上にあぐらをかくのではなくして、自らのほとばしる信と人間で、人々を組織してゆく。我が地域に人間愛を吹き込む運動が広宣流布だ。


 昨日、オウム真理教の麻原に東京地裁が死刑判決を下した。東京牧口記会館と国際友好会館で、二度にわたって先生の暗殺を企てた人物でもある。私はそもそも死刑制度には反対だが、判決が厳然たるであることを確信する。創価1000万という大いなる目標に向かう中で、正邪が一つ一つ明らかになってゆくのが実に不議だ。

2004-02-27

人間こそ一切の目的


 おお 人間!

 これこそが一切の目的

 すべては人間のための手段だ

 人間を見下した政治は

 暴虐な権力となり

 人間を忘れた制度は

 無情なくびきと化す

 人間を離れた文化は

 虚飾の徒花(あだばな)となり果て

 人間を見失った教育は

 冷徹な機械を作るに過ぎない


ペレストロイカの父――偉大なるゴルバチョフソ連大統領に捧ぐ「誇り高き魂の詩」1991-04-18】


 昨日、ある婦人部から、“数字”に関する質問を受けた。どこの組織でもよくにする内容で、有り体に言えば、成果主義への批判だ。青年部を卒し、壮年部となった途端、やたらに入ってくるようになった話題である。


 組織である以上、目標が必要だ。目標なき闘争は、バーのない走り高跳びのようなものだ。見を言ってる方々はこれをも否定しているわけではない。要は、総区や本部などの目標押しつけるなという話だ。そりゃそうだろう。地区やブロックになれば、戦力に格差があるのだから。


 押しつけられた目標は人間を受け身にする。ノルマは主体を奪い去る。それは、「人間を見失った数字」といえよう。


 数字は、個々のドラマをも無味なものに変質させる。そこでは、易々と達成された「1」も、必死の格闘の果てに勝ち取った「1」も横並びとなる。


 例えば、10世帯の折伏ができたとしよう。中者は、全ての現場の状況を語ることができるだろうか? あるいは、入決止まりのメンバー全員を知っているだろうか? 聖教新聞の啓蒙が100部推進できたとしよう。長は、断られた人々のいを知る努力をしているだろうか?


 数字の分だけ、ドラマを作らずして、「今生人界の出」(467頁)となるはずがない。数字の分だけ人間革命、数字の分だけ組織強化、数字の分だけ幸福の前進がなくてはならない。全て、長の一で決まる。


 人間が主役の組織であれば、会員の幸福こそが、組織全体の目標となるべきだ。

青年部に全てを託す時代が到来


 若き諸君と語り合うことは、私の無上の喜びである。そして、私の最高の幸福でもある。いよいよ、諸君との対話が重要であり、青年達に、ありのままの一切を語り、託してゆく時代が到来したと私はっている。

 広宣流布の未来も、全て諸君にお願いする以外にない。学会の未来もまた、諸君に託す以外にない。

 新しい生命の力が、新しい世紀を開き、素晴らしい次の時代を創ってゆく。これが自然の法理である。

 その味で、諸君と語り合い、「信」という尊極(そんごく)の世界で、魂の交流を期していけることに、私は、何ものにも代えがたい、尊くして厳粛ないを禁じ得ない。


【第1回全国青年部幹部会 1988-01-09 創価文化会館


 歴史的な会合である。昭和63年のこと。第1回本部幹部会(120日)に先駆けて学会本部にて開催された。それ以前もスピーチはされていたが、本部直結の大きな流れを再構築されたのは、会長勇退以来といってよい。


 青年に対して、これほど深いいを抱いている指導者がいずこにあろうか。師匠自らが弟子に敬を払い、「厳粛ないを禁じ得ない」とまで仰せになっている。法華経迹門から本門に至るほどのターニングポイントであると、当時、実したものだ。


 軽々しいことは書きたくないが、昭和54年424日に学会は宗門に額(ぬか)づいた。先生はここから新しい学会をつくろうとされたようにう。

2004-02-26

真の指導者


 所詮 真の指導者とは

  自分をしめぬいて

   振る舞いゆく異かもしれない


【『友へ贈る』 1978-05発行】


 像力だけでは書けない文章だ。厳しき現実から滴(したた)り落ちた汗の一滴をわせる言葉だ。


 人生とは選択の連続に他ならない。時々刻々に選択を迫られ、何をどのような基準で選んだかによって、人生の色取りは変わる。楽な道を選ぶのか、大変な方向へ挑むのか。易(やす)きに流されるのか、困の坂を昇るのか――。


 先生が歩んできた道をう。どれほどの孤独に耐え、どれほどの葛藤があったことか。エベレストの山頂の如き、険しい世界と像する。生きとし生けるものを拒絶するほどの領域。寒さと、酸素の薄さ、陽光のいたずらによる雪崩(なだれ)。だが、そこからしか見えない絶景が広がる。地球上で最も厳しき世界は、最も高い位置から地球を見下ろせる場所でもある。


 30歳まで生きられないと医師から告げられた身体を引き摺り、現在、76歳。日蓮法を世界に宣揚しながらも、いまだに戸田門下生としての誠を貫かれている。


 この師の後に続くを誓ったからには、この指導を実践し、この指導に生きる我が人生でなくてはならない。

2004-02-25

如実知見


 だれのせいでもない

 結局 自分なのだと

 自覚したときが

 如実知見である

 人間革命の第一歩は

 そこから始まることを

 忘れまい


【『日々の指針』 1974-12-16発行】


 私が小学校の時分、母は支部婦人部長(正確には総B)をしていた。悩んだ挙げ句、泣きながら電話をかけてくるおばさんがいたりして、「幹部にだけはなるもんじゃないな」と子供ながらったものだ。


 指導を受けに来る方々も多かった。母は、「うん、うん、そう。大変だったね」と相槌を打ちながら、じっと話を聞いていた。母が出す結論は毎回同じで、違った試しがない。最後に必ずこう言うのだ。「だけどね、全部、あんたが悪いんだよ!」。その言葉に込められた味を知るべくもない私は、「幹部の話は簡単でいいなあ」とい込んでいた。「小学生の俺にだって言えるぜ」ぐらいに考えていた。


 人間が情の動物である以上、人間関係の悩みは一生涯続くのだろう。多くの場合、他人による自分への関わり方を問題視する内容となっている。母が放った一言は、悩みに振り回される自分を見つめ直し、積極的に自分の方からもう一歩、深く関わっていくことを教えていたのだろう。


 周囲の環境を恨んでも何も変わらない。他人を問題視する姿勢は、自身の人間革命の放棄にもつながりかねない。自分の人生は自分で開く。自分の幸福は自分で勝ち取る。これが法の精神であり、この精神のあるところ、行き詰まることはない。


 一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする。


【小説『人間革命』第1巻】


 愚図愚図言ってる暇があったら、先生の後に続こう!

2004-02-24

小説『人間革命』:関連指導


1959-08-11


8月11日


 遅く帰宅。種々、惟(しい)――。

一、七回忌か、十三回忌かに、法悟空をもって、約十余巻にわたる『人間革命』を著す決をする。


 幼少のころ、新聞記者になることを決する。これ「聖教新聞」の発刊で満足。少年のころ、文学者を決する。これ『人間革命』の著述にして、満足するか。資料等の準備を考。


【『若き日の日記』(下)】


1965-09-19


 私は、小説『人間革命』の第2巻を書くために、今いろいろと準備をしております。先日、多少時間がありましたので、執筆の参考として何冊かの本を読みました。その中の1冊は、吉川英治の『宮本武蔵』です。吉川英治の宮本武蔵観、また、その文体を通して、何か得たいと考えて、少年の頃読んだのを引き出して読み返し、今度は3回目の読了です。根底は、宮本武蔵も、吉川英治氏も信をしていない。小説の根底にあるのは、小乗教的なものの考え方であります。


【関西本部幹部会 1965-09-19 布施体育館】


1966-11-27


 最後に、小説『人間革命』の連載を毎日、頭を痛めながら執筆しております。これからも創価学会の歴史、理、精神、あり方、反省等を、この小説の中に網羅してゆく決であります。したがって皆さん方は、真実の創価学会の幹部として、内外共に、さすがは立派な理をもっている、立派な行為である、納得できる指導であるといわれるためにも、小説『人間革命』を咀嚼し、自分のものにしていっていただきたいのであります。


【第79回本部幹部会 1966-11-27 大田体育館】




 小説『人間革命』によって、私は、何十年先、何百年先までの規範をきちっと示しておきたいのです。それを全部読みきって頂きたい。

【『池田会長講演集 第1巻』】




 小説『人間革命』を私との対話の場だとって下さい。

【『池田会長講演集 第2巻』】


1969-08


 どんなことがあろうとも『人間革命』だけは書き残しておく。これがなければ、後世に学会精神が残っていかない。それでは、今まで何のために一生懸命やってきたかわからない。

そのためにも大変ではあるが『人間革命』を書いて伝えていきたい。


1969-08


『人間革命』をしっかり読みなさい。一切の指導が含まれている。誰人に指導を受けるよりもよい。『人間革命』から大きな指導を受けているとっていきなさい。誰のためでもない。自分のためです。全部、自分のものになっていくのです。


1969-05


 この本の構は、10年も前から練っていました。その中で、いったい、どれだけの戸田先生の偉大な人格、績を伝えることができるか、激務のさなか、全力を尽くしました。

なにぶんにも、私にとっては最初の小説のこと、第1巻を書いたときは、その後、しばらく新聞やテレビも見られないほど疲れました。




 夜中にパッと起き、い浮かんだことをメモするときがしばしばあります。




『人間革命』で毎日、お会いしましょう。呼吸を合わせていくことが異体同になるのです。


1969-07


『人間革命』は、私が血と汗と涙で書いたものです。自分で書いているから大変なのです。


【※年月しか入ってないものは、『前進』に掲載されていたもの】




(以下はある副会長から聞いた内容)

 連載中は、全国の会館に先生用の原稿用紙が置かれていた。一時期は、原稿用紙を見ただけで吐き気を催されるほどの状況だったと伺っている。


1988-10-09


 アイトマートフ氏は『外国文学』誌の編集長を務めていることもあって、SGI会長の著作のロシア語訳を進めていきたいと提案。特に、小説『人間革命』について、「同書は、人類にとって記碑ともなる作品だとう。各国語に翻訳して、世界に発表していく必要がある」と述べた。

ソ連の文学者・アイトマートフ氏と会談 1988-10-09 聖教新聞社】


1992-08-30


 実は、今日、北海道文化(会館)を出る前、(小説)『人間革命』(第12巻)の「寂光」の章を書き上げました。戸田先生のご逝去と葬儀を描いた章です。

その原稿を聖教新聞社に渡して、それから、この戸田墓苑に来て、先生にご報告したんです。私は、きちっと「師弟の儀式」を踏んでいるんです。

なぜ札幌で書いたか。それは牧口先生にも、戸田先生にも、そして私にもゆかりの深い札幌だからです。全部、義があるんです。

記録として「人間革命 第十二巻 寂光の章終了 北海道 札幌そして厚田墓苑に 1992年8月30日 大作」としたためて、代表として高間副会長にお渡しします。

師の故郷――厚田での語らい 1992-08-30 厚田・戸田講堂】





 昭和39(1964)年12月2日、沖縄の地で筆を起こされた小説『人間革命』が12巻となって完成。28年は法華経二十八品に通ずるか。昭和29年(1954)、戸田先生に随行されて、厚田村を初めて訪問された時から構が始まる。


 第二次宗門問題勃発直後、長らく中断されていた第11巻の連載が再び開始された。先生から発表されたあの瞬間の動・謝・歓喜を生涯忘れることはない。


 先生と同時代を呼吸しながら、『人間革命』を学べることが、どれほど凄いことか。時に巡り会い、人に出会うことが人生の至福といえよう。後世の学会員は、焼けつくようないで、我々を羨望することだろう。

2004-02-23

長編の古典を読め


 戸田先生は厳しかった。「青年部員が、興味本位の低級な雑誌ばかり読んでいるようでは深き法は会得できない。またすべての事象を深く正しく見抜くこともできない。長編の古典を読め。歴史を学べ」と、よく叱られたものである。また「その根幹である御書を常に拝するように」と厳しく叱責された。これではじめて指導者に育っていくものだと、いつも厳しかった。


【伊豆広布40周年記代表幹部会 1987-11-23 伊東平和会館


「興味本位」というのは、覚や情に支えられているから、本能に支配された生命状態である場合が多い。


 この指導は何度も先生が紹介されているが、初めて読んだ時、戸田先生の大きさに頭(こうべ)を垂れた。学校教育でも、これぐらい骨太の指導がなされれば、子供達の未来も激変するに違いない。


 長編の古典で比較的読みやすい作品としては以下のものがある。

 などがある。

2004-02-22

真実を堂々と叫べ


 正義を証明するために、真実を叫ぶ時は堂々と叫びきっていく人が大事である。信の世界で、逡巡や遠慮があってはならない。言うべきことをきちっと言わないと、いつかその曖昧さが皆に複雑を残してしまう。そこには、必ずといってよいほど、の蠢動(しゅんどう)の“巣”をつくってしまうからである。


創価班・長会合同総会 1987-11-02 東京会館


 妥協した分だけ、組織は腐ってゆくという先生の指摘である。これがわかる人は、責任の重さを知る人だけだ。中途半端なリーダーには窺い知れない世界の話である。


“言い切る”とよく言う。言って切ってゆくことが正しいあり方だ。言って切れない場合は、まだまだ甘い。真剣を抜かなければ切ることはできない。


“これぐらい”という油断が、蟻の一穴となってゆく。


 なはて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終(つい)に湛(たた)へたる水のたまらざるが如し、謗法不信のあかをとり信のなはてをかたむべきなり(1308頁)


 どのような時代になろうとも、信だけは厳しい姿勢で臨まなければならない。本当の功徳を知る人物であれば、常に、謗法与同を恐れることだろう。役職でもなく、年齢でもなく、キャリアでもない。信からほとばしる責任で一切は決まる。


 もしも、腫れ物にさわるような人が組織にいれば、その人の周囲には、予もできないような澱(よど)みが生ずる。ほんのわずかな癌細胞が、一気に増えて人体を蝕むように組織を汚染する。膿(うみ)は小さな内に、信の利剣で切るべきだ。信強きリーダーは、やむにやまれぬいから、速やかな行動をとる。利害や損得情が働けば、遠慮が頭をもたげる。信が根本であれば、迷いなくスパッと勝負できる。


 今日は、古谷さんの命日。共戦の歴史を振り返り、今再び、彼の分まで広布に邁進することを誓う。偉大な友であった。謙虚な同志であった。水の如き信の池田門下生であった。彼が逝ったその日から、共戦は再び開始された。1997年222日、午後9時20分――晧々(こうこう)と輝くあのを、生涯、忘れることはないだろう。

2004-02-20

人間関係の悩み


【問い】自分の組織の中で、ある人間とウマが合わなくて悩んでいます。


【指導】結局は信、題目が根本であろう。信でみた場合は、自分が悪いのか、それとも相手が悪いのかということがわかってくる。そこが他の世界と違う。大らかに、人間豊かに、自分も反省し、人をも見ていくことができる。つまり、界から九界を見下ろすことができる。題目をから満足できるまであげることだ。今日から100万遍の題目を決してはどうだ? 私と約束しよう。


【『前進』1967-06月号】


 組織が人の集まりである以上、人間関係の悩みは大なり小なり必ずあるものだ。また、そうした葛藤を乗り越えなければ、真の団結は築けない。波風が立たない状態が幸福だとったら、大間違い(笑)。波風に耐え、波風に挑み、波風をくぐり抜けるところに充実と満足がある。


 人材育成は、よく芋洗いに例えられる。ぶつかり合って、互いがきれいになってゆく、と。


 私が地区リーダーの頃、こんな指導をされたことがある――


「組織の中で出会う人は、その大半が自分の友人にはいないタイプだ。友達というのは、ウマが合うから付き合う。つまり、似た者同士しか集まらないものだ。しかし、学会の組織は違う。どちらかというとウマが合わない人の方が多いかも知れない。だからこそ、人間革命ができる。様々な人々を受け容れることのできるリーダーになってゆくことができる」


 見のぶつかり合いはあって当然だ。喧嘩になる場合もあるかも知れない。だが、その時の情を引き摺ってしまうと、単なる怨嫉になる。それ故、「界から九界を見下ろす」という実践が不可欠。先生は生命論の上から具体的なアドバイスをされている。畜生界や修羅界の生命に支配されれば、自分の負けであり、和合僧の団結を乱すの存在となることを知ろう。


 ウマが合わない原因は、大抵の場合、自分の方に原因があるものだ。“どうしても気に入らない何か”は、自分の境涯に起因している。境涯が低いから、小さな段差が気になる。天空の高みから見下ろせば、なだらかな世界が広がっている。

2004-02-18

真の勇者


 真の勇者は、臆病なくらい細かいことに気を配っていく。いわば、“臆病の勇者”である。

 よく全体に真剣さがなくなったとか、何となく空気がゆるんできたといながら何の歯止めもかけられず手をこまねいていることがある。きわめて危険な兆候というほかない。

 その時こそ空気を一変させる指導者の一が大事である。いざという時、指導者にはつけ入る敵や障害を跳ね返すピンと張った表面張力のごとき緊張と前進への気迫が大事であると私は常々っている。


【『私の人間学』(上) 1988-08-24発行】


 油断をしないのが第一と頭では分かっていても、中々できない。常日頃の活動の中で鍛えて行く以外にない。


 驕(おご)ることなく、如何なる時もは緊張を維持していきたい。それが、「打てば響く」組織、人につながる。


【宮本】 http://www.doblog.com/weblog/myblog/30152

司会者の一念


 司会者は、ひとたび会合に臨んだら、そこが戦場であると思え。本有常住の寂光土に変えていく決意に燃えてゆくべきだ。講演の途中で、たとえ失敗しようが、または会場がザワザワしようが、司会者は場内の空気をピシッとさせるだけの決心を持つべきだし、その責任と力がなければならない。戦場と思って、集まってきた人の呼吸を合わせ、盛り上がる雰囲気をつくった場合は勝ちであり、そうさせきれなかった場合は負けである。全て勝負である。そのリーダーが司会者だ。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


“これぞ司会!”という指導だ。この決と覚悟なき者は「会合を司(つかさど)る」資格がない。合間合間で式次第を棒読みするのが司会だなどとったら大間違いだ。


 今から20年ほど前までは、「会合は司会で決まる。男子部が率先して司会をやってゆくのだ」という指導がどこの地域にもあった。そして、「その理が、若き先生の小樽問答の司会である」とも。


 近頃では、若い幹部が行っているせいか、本部幹部会の司会も下手クソだ。声に迫力がなく、早口だったりする。


 逆に、これが総区や分区単位の会合だと、いかにも司会が得そうなのがいて、妙な発言を盛り込んで自分に注目を集めようとするのもいる。


 司会の言葉は重要だ。私が二十歳(はたち)の頃、地区協議会の司会をした際の話である。「それでは、地区部長から一言あります」と言った。その瞬間、支部長から気合いを入れられた。「地区の中者である地区部長に対して『一言』などという言い方があるか!」と。叱られたのは、単なる言い回しなどではなくして、地区全体が地区部長を軽んじていた姿勢そのものだった。20年経った今でも忘れられない指導である。


 座談会の司会の場合、根回しが大事だ。話が長くなりそうな方、研究発表するメンバーなどに、きちんと時間を守らせることが重要。また、座談会のホシは全員発言にある故、担当幹部の持ち時間に気を使って端折(はしょ)ることはない。


 私が10代から掛けてきたことは、全員発言の際に「地区部長ではなく私の方を見て全員が話すようになれば、司会者としての勝利」というものだった。実現するまでに3年かかった。コツは相槌とキャッチボールの対話に尽きる。中には話したがらない方もいる。だが、こういう方のを開かせ、一言でも法座で発言させ、功徳が出る方向に引っ張ってゆくことが正しい。


 近所の寄り合いみたいな座談会があったとすれば、全て司会の責任である。様々な悩みを抱えている方も多いだろう。その人々に「来てよかった!」と歓喜を与え、「また、来よう!」と決を促すのが司会の使命である。

2004-02-17

宣伝の時代


 現代は「宣伝の時代」である。どんなによいものであっても、宣伝していかなければ、現実に広く価値を生み出すことはできない。

 だからこそ、私たちは、人間主義、文化主義、平和主義の希望のメッセージを一段と力強く発信してまいりたい。


【関東最高協議会 聖教新聞 2003-08-23付】


「組織の充実は聖教購読の推進にある」との埼玉の戦いを紹介されて、その義を述べられている。


 組織においては充実を図り、そして毎日の先生からの激励・指導の手紙を手にする。過去に多忙を理由に一時期活動から遠ざかっていた時期もあったが、それでも、聖教新聞を読んでいたから、何度も救われた。


 昨今、活字文化の危機が叫ばれているが、聖教新聞の使命は益々重要になってきているとう。新聞に限らず、読むことが、教養を身につけ、人格者たる人間になるために必須。今年の戦いで、どれだけの人々が聖教新聞を読むことになるだろうか。自分も億万分の一でも、先生にお応えしたい。


【宮本】 http://www.doblog.com/weblog/myblog/30152

 諸宗教の足跡


 古来、こうした支えの次元を追及したのが宗教であります。だが、多くのそれらの試みが、自己の完成と他への慈愛――この二つが一体化し得なかったということであります。すなわち、自己完成に偏れば利己主義に陥り、逆に他への慈愛に走っては、自己犠牲から自己欺瞞に堕落してしまう。このジレンマの繰り返しが、諸宗教の歩んだ足跡であるといってもよいでしょう。


【教育部夏期講習会 1975-08-12 東京創価大学体育館】


 簡にして要を得た言葉が、あらゆる宗教の陥穽(かんせい)を突き、命脈を絶つほどの鋭さをはらんでいる。


 自己完成を志向しない宗教は存在しないだろう。だが、そこに執着してしまえば、どうしても利己主義になってしまう。その究極が小乗教といえるだろう。そもそも、250や500もの戒律を実践するには、普通の仕事などできるはずがない。それが可能なのは、小乗教の行者がエリートであり、特権階級だったからだ。彼等は、ありとあらゆる欲望を断つことを目的とした。挙げ句の果てには、一切の欲望を発する色をも滅した(灰身滅智/けしんめっち)。


 そりゃそうだろう。「欲望を断ちたい」というのも欲望なんだから(笑)。二乗は最後の最後まで成を嫌われた衆生である。自己完成に傾くあまり、社会から遊離し、閉ざされた人間を指弾したものとわれる。


 一方、他者へ尽くすために自分を犠牲にする教えも多い。厳格なキリスト教などの生活は人間離れしている。嗜好品はもちろんのこと、の営みや、食事なども厳しく制限されている。こうなると、ありとあらゆる楽しみを奪うことが目的のようにさえみえる。修道女などの相は、決して人間の豊かな表情とはいえないだろう。どこか、パサパサ、カサカサしていて木石を像させる。


 数多くの市民運動ボランティアが行き詰まるのも、「自己犠牲から自己欺瞞に堕落してしまう」ことに起因している。自己満足だけで満たされなくなった瞬間、どんな善行であろうとも、それは人間に痛をもたらす。


 この中道をゆくのが日蓮法である。自行に偏せず、化他に傾かず、相互の修行が相俟(ま)って人間革命即世界平和が実現される。ここに“創価”の謂われもあろう。

2004-02-16

文京支部


 昭和28年(1953年)428日――

「やる気のある者は来なさい」

 5地区34班の36の幹部が揃った。

「大勢はいらない。36傑の勇士がいれば、必ず立派に戦える」


【「文京支部時代の池田先生」/『前進』1967-03号】


f:id:sokaodo:20061007131157j:image


 前年の昭和27年(1952年)1池田先生は蒲田支部支部幹事となる。翌2には、201世帯の折伏を達成し、戸田先生の願であられた75万世帯達成へ、大きく弾みをつけた。当時のA級支部の折伏世帯数が、100世帯を越える程であったことを踏まえると圧倒的な成果といってよい。これが“伝統の2”の淵源となる。文京派遣されたのは、その一年後のこと。実に25歳という若さであった。


 36が集ったものの、題目三唱が合わず何度もやり直しをする。戦いは呼吸を合わせるところから開始された。


 36という数は決して多いものではない。男子部であれば一本部で集めることは十分、可能な人数である。壮年なら支部で集まるところもあるだろう。その人数が団結した時、核爆発のような力を発揮した。


「大勢はいらない」との一言は、あくまでも少数精鋭であり、核となる幹部の呼吸さえ揃えば、長の一によって闘争は無限に広がってゆくことを示されている。当時を振り返る方々は、皆が皆、「あれほど厳しく信を教わったこともなかったし、あれほど楽しい闘争もなかった」と口を揃える。


 それが単なるい出などではなく、日本一の歴史を残すところに先生の偉大さがある。

価値論の淵源


『価値論』が『創価教育学体系 第2巻』に収められていることを、今回、初めて知った。「価値論」という言葉が、それ以前に使用されていたのかどうかが、気になり、「牧口常三郎戸田城聖とその時代」の運営をされている、てんてんさんに掲示板で質問した。貴重なことを教えて頂いたので、以下に転載しておく。




 価値論研究特集のある東洋哲学研究所の『東洋学術研究』(25巻・第2号 1986-11)を取り出して、ざっと目を通してピックアップしてみました。ご参考まで。


価値論を自覚しはじめたのは比較的近い時代


「価値についての牧口の索は、おそらく大正期の半ば頃から始まったものとわれる。というのは、彼は、自分が価値の問題について関をもったのは左右田喜一郎の『経済哲学の諸問題』を読んでからである、と書いているからである」(1)


 ということですから、それ以前の著作にはまずないとわれます。


「教育学に価値論が重要なことその第一巻から既に強調されている」


「独特の価値概が既にはっきりしていたわけではないようにわれる」(7)


当時の学界の潮流


「その頃、日本の哲学界では新カント派の哲学が主流で、価値論がその中問題の一つであり、(中略)、彼(左右田)が価値論の中的な論者であった」(2)


「この当時の日本の哲学界には、ヴィンデルバントやリッケルトなどドイツ新カント派の価値哲学の影響が強く、長年ドイツに留学してリッケルトに師事してきた左右田喜一郎の価値哲学が一世を風びしていた。明治26年に北海道師範学校を卒生して小学校の教師となった牧口常三郎が」、約40年間にわたる教師生活の体験を生かして新しい教育学説を樹立しようとするにあたって、その理論の根拠を価値哲学に求め、新カント派の経済哲学者として有であった左右田喜一郎の著書を第一にあげているのも、この当時の学界情勢からみれば当然の経過であったといえよう。」(5)


牧口が価値論に取り組んだ理由


「知識を獲得する鍵を子どもにつかませることが大切であるとして、それは何のためか。子どもが人生を幸福に生きるためである。教育の目的は子どもを幸福に生きる人間に形成することである。そして、幸福に生きるとは価値を創造することである。教育がこれまで効果を十分に挙げなかったのは、教育の目的が明確でなかったからである。いいかえれば、価値が確立していなかったからである。牧口はこのように考えて、価値論に取り組んだとわれる。そして、その背景には、知育徳育、体育に教育を分ける考え方への、彼の長い教育実践に根ざした批判があったと考えられる」(3)


変化を続けた牧口の価値論


「今日、教育が行き詰まっているのは、教育において価値観が明確でないからである。牧口はそう考えて、自ら価値論と取り組んで、教育学体系の中にその価値論を据えた。そのためには、さまざま哲学とも格闘しなければならなかった。だから、彼の価値論のなかには、索の深まりにつれて自分の概を訂正している箇所が少なくない」(4)


「左右田喜一郎の価値哲学にしても、(略)前期の価値概と(略)後期に提唱する「文化価値」や「極限概」の哲学との間には相当な距離がある。/牧口常三郎の価値論の場合にも、「創価教育学体系」の理論的支柱として真理とは区別された「価値の創造」を強調した前期の価値論と日蓮正宗に帰依して宗教的確信を基礎とする後期の価値論との間には相当の変化が見られる」(6)


 前期後期というのは、教育指導原理→生活指導原理という流れです。


 どの時点から価値論という言葉を使うようになったかという問いの立て方は、価値論成立の(というか未完の価値論の)ダイナミズムを見失わせる可能があるかもしれないとった次第です。


(1)「創価教育学の基本原理としての価値論」竹内良知 5p

(2) 同 6p

(3) 同 7p

(4) 同

(5) 左右田哲学と牧口価値論 関順也 19p

(6) 同 20p

(7) 同 28p

2004-02-15

生涯にわたる決意を


 君が

 叫んだ決

 一生涯 忘れるな!


【「後継の君たちへ」 高校新報 2004-01-28付】


 高校新報にも先生は指針を連載して下さっている。男女の地区リーダー以上は、高・中・小の文化新聞を購読すべし。「希望」の指導にもある通り、青年期の理に生涯生き抜いた人が幸福の人である。


 一つの道に徹して生きた人は美しい。先日、NHKの「にんげんドキュメント」で、京料理の革命児と呼ばれた丸田明彦氏が取り上げられていた。


 ALS(筋委縮側索硬化症/理論物理学者のホーキング博士もこの病気)に冒されながらも、弟子の育成に全力をあげるドラマが描かれていた。筋肉が衰えてゆくために、言葉も満足に話せない。ゆっくりと一語一語を発し、弟子達はそれを真剣に耳を傾け、ある時は書き写す。


 日に日に肉体は衰えても、衰えない何かがある。身体が障害に束縛されていても、料理人魂は自由自在に飛翔する。


 時に叱咤し、時に絶賛を惜しまない師匠は、真剣勝負そのものである。


 あの魂の輝きは、料理人として打ち込んできた(ごう)そのものだ。「料理で生きてゆこう」と決してから、来る日も来る日も修行に明け暮れた一は、病によってすら萎(な)えることがない。


 映像の力はやはり凄い。文字にするのがもどかしくなってくる。


 世間にあってすらこうである。広布に生きる我々は、それ以上に志を研ぎ澄ませてゆかねばならない。

2004-02-14

連係


 自分が聞いて、大事だとったことは、常に語り合い、連絡し合っていかなければ、学会の前進はない。全幹部にその呼吸ができれば、学会は更に強い。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 初めて読んだその日から、私の金科玉条となった指導。が動いたら直ちに同志と連係をとっているようでなければならない。


 私が育った北海道は、東京と陸続きではないことから、常に本部との距離じている。第3回世界平和文化祭があった頃、ある幹部は、「ここで真剣に戦っておかないと、世界広布が達成した暁に、北海道は“ソビエト創価学会”にされてしまう恐れがある」とユーモアを交えて話していた。


 またある幹部は、「ロマンを抱いて戦おう。行き詰まったら、夜空の月を見上げよ。この月を、東京にいらっしゃる先生もご覧になっているであろう、と気持ちを強く持て!」と指導していた。東京の天気が曇りであったとしても(笑)、北海健児はこのような気で戦った。


 本部から遠いという識が強いが故に、求道もそれに比例して強い。私が住んでいたのは札幌だったが、先生が函館に来たというだけで、同じ大地を踏みしめている事実に欣喜雀躍したものだ。


 また、会合で先生の指導を聞けば、吹雪であってもそのまま後輩の家を訪ね、歓喜と動を分かち合った。


 形式を排し、求道の連係で動く瑞々しい組織をつくりたい。

2004-02-13

無冠こそ青年の魂


 無冠

  これが青年の 勇気であり

    批判であり 変革の

   最大の誇りと

     信条でなくてはなるまい


【『友へ贈る』 1978-05発行】


 初めて読んだのは、二十歳(はたち)の頃か。当時はよく理解できなかった。社会で実証を示して、多少なりとも功成りを遂げた方がよいのではないか? ともった。因(ちな)みに、「弱冠」というのは20歳を指す言葉である。失礼、余計な薀蓄(うんちく)でした(笑)。


 再び目にしたのは20代半ばと記憶する。確か「創価新報」だった。その時、初めて理解できた。地位や誉があると、どうしてもそれに固執してしまうのが人間の常だ。一旦それを手にすると、人は保守的になってしまいがちだ。世間にあっては、自分の地位を守るために汲々としている人物も多い。


 無冠であれば失うものは何もない。失敗を恐れぬ「勇気」。捨て身で繰り広げることのできる「批判」。自分は“人間である”、“民衆である”との「誇り」と「信条」。如何なる冠(かんむり)がなくとも、“自分は自分である”という姿勢を貫くのが青年だ。つまらぬ見栄をかなぐり捨てて、一直線に戦うのが学会健児である。

2004-02-12

不善は悪


 不善は悪であり、不悪は善である。いずれもその最小限ではあるが、そうであることに変わりはない。

 このように、不善を善と考え、悪と違うとい、法律に触れさえしなければ構わぬと誤解するところに現代の病根があり、独善・偽善の主義が横行する原因と理由がある。


【『牧口先生指導要言』辻武寿編】


 短期集中で行ってきた「価値論」の最終回。牧口先生は、折伏する際、「よいことをしないのと、悪いことをするのは同じか違うか?」と切り出されたという。その結論がこの指導だ。「よいことをしないのは悪」なのだ。同様の論理で、「可もなく不可もないのは不可」ということになる。もっとわかりやすくいえば、「いてもいなくても構わない人は、いなくていい」となってしまう。


 こんな例えも挙げられている。「線路に石が置いてある。それを見ながら放置しておけば、列車は転覆してしまう。いいこと(石をよける行為)をしないのは悪である」と。つまり、与同罪


 バブルという花が咲いた頃、大人達は一見、元気そうに見えた。不動産はどんどん高騰し、会社は気前のいい金額でサラリーマンに応えていた。アブクが弾けるやいなや、社会は急速に青ざめた表情を見せた。大人達は元気だったわけではなく、浮かれていただけだった。サラリーマンはリストラの大波に飲まれ、中小企の社長達は首を括った。景気が低迷し、将来に対する不安がのしかかってくると、脱力・無力の奴隷となった。子供達は他人を傷つけることに罪悪すら覚えず、まだ幼い春をひさいでは高級ブランドのバッグを買い漁(あさ)る。家族に対してすら帰属識を持てず、居場所を失った少年少女は、重力にすら逆らえないように力なく路上に座り込む。


 これが「不善は悪である」というを知らずに生きてきたツケであろう。「悪いことさえしなければよし」としてきた大人の無責任が、子供達を闇の中へ放り込んでしまったのだ。


 牧口先生の『価値論』は、今こそ社会に光明を放つ。そして、創価法が世界を照らす。

2004-02-11

小善と大善


 小善に安んじて大善に背けば大悪となり、小悪でも大悪に反対すれば大善となる。


【『牧口先生指導要言』辻武寿編】


 非常に数学的な概である。1×(−100)=−100である。そして、(−1)

×(−100)=100ということだ。


 聖教紙上座談会などの言葉づかいの悪さは、大悪に対抗する小悪といえよう。これを問題視する学会員は価値論を知らぬ人物と言われてもやむなし。


 世の中の悪しき連鎖は、「小善に安んじて大善に背」く人々が多過ぎることに起因している。羊のような小善人が何千万人集おうが、社会を革命することはできない。広宣流布は、師子である大善の革命児によってしか成し遂げられない。


 現在の極悪は日顕と山友であり、極悪タッグを支援している『週刊新潮』を始めとする低俗週刊誌である。これを徹底的に攻撃し、批判することが極善となる。

2004-02-10

美利善


 損得にとらわれて、善悪を無視するのは悪である。好き嫌いの一時的、刹那的であるのに対して、利害・損得は永久的であるように、利害の個人的であるのに比べれば、善悪は全体的であるからである。


【『牧口先生指導要言』辻武寿編】


 価値論その二。「好き嫌いにとらわれて損得を忘れるのは愚かである」ことは学会員でなくとも理解できよう。しかし、「損得にとらわれて、善悪を無視するのは悪である」ことを理解できる人は少ないのではないか? この価値観が社会の常識となれば、多くの社会問題は瞬時に解決するだろう。


 価値は関係によって生じる、というのが牧口先生である。善悪の価値は対社会との関係だ。そして、善にも大中小のレベルがある。たとえ、自分が不利益を被(こうむ)ろうとも、善なる行為によって、自分以外の多くの人々が利益を享受できる。されば、大善に生きよ! 願わくは、極大善に生きよ! というのが牧口先生のメッセージであった。


 世の中というのは利害で動いている。これを善で動くようにするのが、我等の広宣流布運動である。

2004-02-09

好き嫌い


 好き嫌いにとらわれて利害を忘れるのは愚かである。いわんや善悪を忘れては尚更である。

損を好み、得を嫌う人間はいないはずだが、遠見のできないためにその弊に陥る者が実際生活にはたくさんある。

各種の生活問題を漫然たる情によって処理しようとし、無理とは知りながら、負けることを厭(いと)うあまり、わがままを通して後悔するなどはそれである。


【『牧口先生指導要言』辻武寿編】


 牧口先生の価値論を何号か続ける。価値論は『創価教育学体系 第2巻』に収められている。牧口先生は、カントの“真・善・美”に対して「“真理”は認識の対象であって価値ではない」と批判。“美・利・善”という独自の哲学を打ち立てた。


 上記指導はその代表的なもの。美・利・善の位置は、三角形を三つに分け、上から順に美・利・善となる。これは優先順位などではなくして、幸福の度合いである。


 寝坊は誰しも好むところであるが、これを楽しんで学校や仕事に遅刻をしていては損をする。好き嫌いというのが美の価値基準。情的・覚的な価値である。嫌いだから殴る、なんてやっていたら、たちまち留置所送りとなろう。


「好きだから結婚する」という考え方は、「嫌いだから離婚する」という価値観と表裏をなしている。


 牧口先生は、価値論によって善の価値を追求した結果、日蓮法と巡り会う。トルストイなどが晩年に教の入り口に達したことをえば、牧口先生がどれほど偉大な使命をお持ちであったか明らか。


 葬式教に埋没し、大聖人の精神を完全に見失った日蓮正宗は、牧口先生によって、再び正統な流れとなって蘇る。

2004-02-08

リーダーの責任


 われわれはいかなる時でも

 講義

 指導

 演説

 企画

 文をもって

 人々をリードしていくべきだ


【『日々の指針』 1974-12-16発行】


 強烈な指導だ。初めて読んだのは22歳の時。


『日々の指針』は、先生が毎朝、本部で黒板に書かれていた指導。現在、聖教新聞に掲載されている「わが友に贈る」と同じ方程式。


」の字に込められているのは、権威主義・形式主義に対する破折だ。人々に歓喜と動を与えることが、リーダーに課せられた責任だ。


 若い頃は理と現実の波間に揺れ、多くの葛藤があるものだ。ある時は希望に燃え、ある場合には不平を充満させる季節でもある。座談会での研究発表にしても、一朝一夕に上手くゆくものではない。悪戦闘する中で、「こうありたい」という切実な願望にしがみつきながら挑戦してゆく内に、自分らしい花を咲かせることができる。


 上手にやってのけようとっている内は駄目だ(笑)。それは単なるパフォーマンスだ。踊りだ、そんなものは。


 リーダーの眼目はただ一つ。それは、人のを知る労を惜しまないことに尽きる。そのために祈り、そのために行動し抜き、そのために対話を重ねてゆくのだ。時には身悶(もだ)えするようなこともある。浅い同志から誤解される場合もある。落胆の憂き目に喘ぐ日もある。そののハードルを超えた分だけ、本物のリーダーに近づいてゆく。


 刀剣は、元々10kg以上ある鉄を火に入れ、叩きに叩いて1kg余りになるという。


 きたはぬかねはさかんなる火に入るればとくとけ候、冰(こおり)をゆ(湯)に入るがごとし、剣なんどは大火に入るれども暫くはとけず是きたへる故なり、まへにかう申すはきたうなるべし(1169頁)


 伝統の2月、厳寒の中で自分を鍛えたい。


 創価学会インタナショナルが、世界187ヶ国となる。本部幹部会にて先生より発表される。


 また青木理事長から、多宝会・宝寿会のメンバーに関しては、寒い中、無理な参加をさせてはならない旨、通達あり。参加のがあれば、参加にせよと。

2004-02-06

誠実な振る舞い


 町で“今日は創価学会の池田さんの話があるらしい。寄席(よせ)や講談より面白いぞ”と話している人がいました。会合中に“いいねえ、池田さんは。どこから見ても絵になる”とつぶやく未入会の方もいました。

 指導会で、先生がある和歌を引用し上(かみ)の句を言ったところでつかえてしまわれました。すると場内から下(しも)の句を言った人がいました。先生は会合終了後、壇上から真っすぐその方へ歩みより、「ありがとうございました」と深々と礼をされたのです。その人は未入会でした。そしてこの先生の姿に銘してその場で入会を決したのです。これには本当に驚きました。(杉山芳男さん・当時ブロック長)


葛飾総ブロック長時代のエピソード 『大白蓮華2004-02号】


 若き先生の雄弁振りを物語ってあまりあるエピソード。この時、先生実に29歳――。誠実なる青年の振る舞いに、人生観を変える人あり。それは策でもなく、パフォーマンスでもなく、ありのままの人間の発露であった。何と劇的な場面だろう。


 幹部であれば一度、自分の話を録音してみるといいだろう。再び聞く気になるかどうか。聞くに堪(た)えないような話であれば、後輩に痛を与えているということになろう。雄弁を支える最大の要素は、真剣と智と勇気だ。責任と希望と覇気だ。何をどう話したところで、信の決なき弁舌は空しい。


 教主釈尊出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ(1174頁)


 この御聖訓の味が、の底から納得できる。


 久遠とははたらかさずつくろわずもとの侭(まま)と云う義なり、無作の三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相(さんじゅうにそう)八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住なれば本の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云(759頁)


 この御文が胸に迫ってくる。

2004-02-05

自由を語る資格


 自分のしたことの後始末ができなかったり、他の人に迷惑をかけても平気でいる人は、自由について語る資格はない。


【『未来をひらく君たちへ 少年少女との対話』1972-09発行(金の星社)】


 これは少年部向けの書籍に書かれた指導。厳しい内容は、対等な視線から発せられたものだ。実にわかりやすい言葉で、「自由」の本義を教えている。


 小学生は、まだ自我が固まってないせいもあって、情が剥(む)き出しになる場合が多い。だが逆に、自我が固まってない分、どの方向にも伸びてゆける可能をはらんでいる。それ故、何気ない大人の一言が、真っ白いにくっきりと痕(あと)を残すことも多い。


 私の世代だと多くの方々は小学校に上がると、自動的に五座三座の勤行をやらされた。初めの内は面白半分で、やがて痛が訪れ、遂にはあきらめの境地に至る(笑)。


 私が初信の功徳を実したのは、忘れもしない小学校2年生の時だった。5年生にもなると、少年部員会に友人を連れ出し、自宅に呼んでは勤行までさせていた。その当時の部員会は、5〜6年生によって自主的に運営され、導師や司会なども少年部が行っていた。そういや、担当の婦人部が中になって地区単位で開催されたこともあった。


 小学校6年の時の部員会で、婦人部のおばさんから「来は、あなたの誕生日ね。お母さんに、『御書をプレゼントして』って頼んでごらん」と言われた。まだ小学生だから、御書を欲しいとはってなかったが、言われるままに頼んでみたところ買ってくれた。その日に、開目抄の「我並びに我が弟子――」の御文に朱線を引いたことが懐かしい。


 以来、御書全編は二度、読破しているが、朱線だらけとなってしまい、少々後悔している。「旃陀羅が子なり」(891頁)をもじって「線だらけの御書なり」と言ったりしている(笑)。

2004-02-04

草の根を分けても


 草の根を分けても全国の会員一人ひとりを激励したい。


【『前進』1969-05月号】


『前進』とは、昔の『研修シリーズ』である。といっても、『研修シリーズ』が無くなった現在だと、若い方はわからないかも知れない。幹部用の小冊子である。『前進』には「革命の源泉」という連載があり、先生の折々の指導が掲載されていた。その衣鉢(いはつ)を継いでいるのが、現在の大白蓮華の企画シリーズである。当然ではあるが、私の世代で『前進』を知る人は少ない。私の場合、たまたま5〜6年分が家にあったので、それらを貪るように読破した。21歳ぐらいのことと記憶する。


 この指導は、確か、先生が全国各地の代表と記撮影をされてる頃だとう。詳細は既に『新・人間革命』に書かれている通り。後にも先にもこれだけの規模の記撮影をされたことはない。この時の写真を今でも宝物にされている方々は多い。い出を語る時、必ず「会長先生が――」と語るところに特徴がある。


 学会が750万世帯を目指して驀進(ばくしん)する真っ直中で、戦う学会員一人ひとりを激励せずにはおくものか! との気魄(きはく)が、「草の根を分けても」の一言に象徴されている。門下を乗るのであれば、先生と同じで、我が支部、我が地区、我がブロックを駆け巡るべきだろう。

2004-02-03

今日


 もう少し話し合おう。今日という日は、もう永遠に、尽未来際にないのだ。


【『前進』1967-11月号】


 これほど慈愛の深い言葉を私は知らない。一瞬たりとも手を抜くことなく、十全に生命を生かそうとする言葉は、神々(こうごう)しくさえある。上から見下ろすような視線は全くない。


 一日の命は三千界*1の財(たから)にもすぎて候なり(986頁)


 御聖訓は知っていても実することは、あまりなかったりする(笑)。凡夫ってえのあ、全く情けないもんだ。しかし、実が乏しかったとしても、学会活動によって広宣流布に連なる我等の行動は、この御文を証明するものだ。


 ともすると、己に負けて「今日の会合は最悪だった」「民衆を愚弄するような内容だった」「あの副会長の話からは信のカケラもじ取れない」なあんてぬかすことがある。私の場合、これがまた多いんだ(笑)。だが、それは依存の現れに他ならない。


 一瞬の出会いに魂を注がれる先生。全生命を傾注すればこそ、その出会いは生涯を決するものとなる。何気ない一言であっても、そこに込められたが相手の生命を包み、揺り動かす。


 戦い、祈る中で、師匠いを馳せ、万分の一でも知ろうとする努力なくして、師弟共戦はない。


 それにつけても、あさからん事は後悔あるべし(1083頁)

*1:三千大千世界?のこと。

2004-02-02

人生の態度を正せ


 諸君の世代、年代にひとたび身につけた人生の態度というものは、一生を貫いていくものです。たとえ些細(ささい)なことであっても、それをいい加減にしていってはならない。そこに、その人の人生の縮図があるからであります。


【第1回中等部総会 1970-08-17 総本山大石寺大講堂】


 少年から大人へと変わろうとする季節になると、“崩す”ような態度が往々にして見受けられる。学生服であれば、詰襟のホックやボタンを外すような真似が、どこかルール破りの雰囲気があって、「もう、子供じゃねえんだよ」というメッセージを放つ。禁じられている煙草やアルコール、異などに興味深くなるのも、同じ姿勢からだろう。


 親に反抗したり、小馬鹿にしてみせる態度をとるのも、精一杯の背伸びかも知れぬ。


 中学1年の時、クラスでアンケートが行われた。まだ若い担任の先生が、生徒のを理解する目的で実施したようにわれた。設問の一つに「あなたが尊敬する人物は?」というのがあった。私は迷うことなく「池田大作」と書いた。余った時間でアンケート用紙を見直した。私は先生のを消し、「四条金吾」と書き直した。「担任とはいえ、池田大作は知っていても、四条金吾は知るまい。後で尋ねてくるようなことがあれば、とっぷりと説明して進ぜよう」という狙いが込められていた(笑)。絵本や漫画によって私は四条金吾を知っていて、直情径行で男らしい生きざまに強い共を覚えていた。全くひねた中学生だ。


 その当時、喧嘩っぱやいこともあって、不良と呼ばれるような連中とも親しかったが、私は一線を画していた。何度か誘惑もされたが、「俺は違うぞ」という気概だけは失わなかった。


 こうしたことは親の影響ではなかったようにう。座談会や、少年部員会などで「育とう正義の人に!」と教えられたことが、私ののある場所にきっちりと収まっていた。それ故、私は弱い者いじめをしたことがない。どちらかというと、そういう連中に積極的に関わっていったものである。ただ、弱い者いじめをする奴等は徹底的に懲らしめた。


 まだまだ幼いあの頃の私の価値観を決定づけたのは何だったのだろう。ともすると親に反抗しがちな季節にあって、学会のおじさんやおばさん、あるいは担当者の方々に対し、「この人の言うことなら信じられる」――そんな信頼があったに違いない。こうした信頼関係が人生の横道に逸(そ)れる歯止めとなる。逆に、中学生の時分の些細なわがままや甘えが人生の転落に直結する場合もある。


 今日は節分日蓮法では鬼ですら諸天善神と変わるが故に、「鬼は外」とは申さず。「福は内、福は内」と豆を放るのがならわし。

2004-02-01

変化


 北国の厳寒に凝結した、“氷の輝き”ともいうべき「氷柱(つらら)」から、ある日、ある時、滴(したた)り落ちる「一滴の水」があります。

 氷柱(つらら)は、一度には溶けません。しかし、その最初の一滴が、春の訪れを告げるのであります。


【モスクワ・国際大学 「誉博士号」授章式 1994-05-19】


 1985年にソ連共産党書記長となったゴルバチョフが推進したペレストロイカ。与えられた自由は、経済の混乱を招き、民族紛争に火をつけた。その挙げ句、1991年にソ連は崩壊した。それから2年半を経過した頃の受賞である。


 須弥山の北方を欝単越(うったんのつ)という。ここは本来、無世界とされ、法とは縁のない国土である。それ自体が、宗教を阿片と考える共産主義の台頭を予言していたのかも知れない。いずれにせよ、「そこに人間がいるから」という信で、最も大変な地にいち早く手を入れた先見に驚嘆せざるを得ない。


「一葉散って、天下の秋を知る」という。


 御書には、「一をもつて万を察せよ庭戸を出でずして天下をしるとはこれなり」(295頁)と。


 厳しさを伴ってはいたが、ソ連には間違いなく雪解けの“春”が訪れた。それは、ペレストロイカという政策によって生じた変化であったが、より本源的にはゴ大統領の人格に負うところ大だったとわれる。


 受賞式では、先生の詩的な表現に大きく頷いた人もいたことだろう。そして、「最初の一滴」となる“ロシア創価学会”が誕生した。