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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2004-03-29

創造的生命


 私の胸にあふれてやまぬ“創造”という言葉の実とは、自己の全存在をかけて、悔いなき仕事を続けた時の自己拡大の生命の勝ちどきであり、汗と涙の結晶作以外のなにものでもありません。“創造的生命”とは、そうした人生行動のたゆみなき錬磨のなかに浮かび上がる、生命のダイナミズムであろうかとうのであります。

 そこには嵐もあろう。雨も強かろう。一時的な敗北の姿もあるかもしれない。しかし“創造的生命”は、それで敗退し去ることは決してない。やがて己の胸中にかかるであろう、爽やかな虹を知っているからであります。甘えや安逸には創造はあり得ない。愚痴や逃避は惰弱な一の反映であり、生命本然の創造の方向を腐食させてしまうだけであります。創造の戦いを断した生命の落ち行く先は、万物の“生”を破壊し尽くす奈落の底にほかなりません。

 諸君は、断じて新たなる“生”を建設する行為を、一瞬だにも止めてはならない。創造は、きしむような重い生命の扉を開く、もっとも峻烈な戦いそのものであり、もっとも至な作であるかもしれない。極言すれば、宇宙の神秘な扉を開くよりも、汝自身の生命の門戸を開くことの方が、より困な作、活動であります。

 しかし、そこに人間としての証(あかし)がある。いな、生あるものとしての真実の生きがいがあり、生き方がある。“生”を創造する歓喜を知らぬ人生ほど、寂しくはかないものはない。生物学的に直立し、理と知を発現しえたことのみが、人間であることの証明にはならない。創造的生命こそ、人間の人間たるゆえんであるといますけれども、諸君、いかがでしょうか。

 新たなる“生”を創り出す激闘の中にこそ、はじめて理を導く輝ける英知も、宇宙真理まで貫き通す直観智の光も、襲いくる邪悪に挑戦する強靭な正義と志力も、悩める者の痛みを引き受ける、限りない情も、そして宇宙本源の生命から湧き出す慈愛のエネルギーと融和して、人々の生命を歓喜のリズムに染めなしつつ脈打ってやまないものがあるからであります。

 逆境への挑戦を通して開かれた、ありとあらゆる生命の宝を磨き抜くにつれて、人間は初めて真の人間至高の道を歩みゆくことができる、と私は確信するのであります。ゆえに、現代から未来にかけて“創造的生命”の持ち主こそが、歴史の流れの先端に立つことは疑いないと私はう。この“創造的生命”の開花を、私はヒューマン・レボリューション、すなわち「人間革命」と呼びたい。これこそ諸君の今日の、そして、生涯かけての課題なのであります。


創価大学第4回入学式 1974-04-18 創価大学体育館】


 先生は、37日から413日までの約40日間にわたって北米・中南米を訪問。この日は帰国してから5日目で、時差などによる身体の変調を抱えての講演となった。冒頭では「そのため話に飛躍があるかもしれません。また、聞きづらい点があるかもしれませんが、ご了承ください」とわざわざ断られている。


 疲労をも超越しゆくあふれんばかりの生命力は、創大生への信頼と期待に支えられているような気がしてならない。ほとばしる言葉の勢いは、先生の枯れることなき生命の泉から生まれる。


 ともすると、「創造」という言葉は、縁覚界を中とした芸術の世界にしかないような錯覚を覚えがちである。その芸術の世界にあってすら、生涯にわたって「創造」の軌跡を描くことはしい。現代にあっては、いくばくかの財産を手にした途端、落ちぶれてゆく芸術家も数多い。


 先生は結論として、絶えざる生命の変革作こそが「創造」であると教えられている。「一年の決」でも紹介した牧口先生座右の銘「日に新た、日に日に新た、また日に新たなり」(『大学』)が蘇る。我が生命を鍛え、眠れる力を発揮する中に「創造」がある。人生という与えられた時間の中で、齢(よわい)を重ねるごとに「私」という新たな作品をつくりゆくことが究極の「創造」である。ノミを振るう手を止めてしまえば、それは過去の作品になってしまう。


 新しい自分が、新しい勝利を手中にする。時折りしも「創価1000万」の大闘争である。いまだかつて成し遂げたことのない目標に向かって進むのみ。人生、最高、最大の「創造」に挑みたい。


 今日、ある幹部と話す。こらえ切れない悩みを、こらえ切らなければならぬ段階に入る。今はしい。いつの日か楽しく振り返る時が訪れることを信ずる。

2004-03-22

社会の動きに鋭敏であれ


 創価学会は当然、宗教団体でありますが、もう一歩深くいえば、単なる宗教儀式を行なうための宗教団体であってはならない。あくまでも日蓮大聖人哲学をもって、人々の不幸を解決し、現代社会を救うための宗教団体である。すなわち、宗教の理を社会に開くことにその実践の理と使命がある。この故に、在家すなわち一般社会人による宗教団体という形をとっているのであります。

 創価学会員であるならば、現実社会の動き、問題に対して常に鋭敏でなくてはならない。そしてその底流にある人々の悩、社会の矛盾を、法哲理によって、いかに解決していくかという索と実践がなくてはならない。


【第27回関西幹部会 1970-09-01 東大阪市中央体育館】


 観世音菩薩とは“世音を観ずる”ところに前の謂われがある。


 社会が動きゆく中で民衆はどのようなを発しているのか。さざめくような笑いなのか、辛に喘ぐ呻(うめ)きなのか。賑やかな話しなのか、孤独な泣きなのか――。また、そのが一部の人から発せられたものなのか、大衆を代弁するものなのか。


 鶴見祐輔著『ナポレオン』(潮文庫)では、ナポレオンが幾度となく大地にを当てて民衆のを聞く場面が印象的だった。


 昨日付の公明新聞の投書に、テレビ社会の陥穽(かんせい)を衝(つ)いたものがあった。テレビというのは人を受け身にさせる。ラジオであれば、聴きながら何か作ができるが、ブラウン菅は人をかしずかせる。そして最も恐ろしいのは、像力と索を阻まれてしまうことだ。社会に与える影響力を踏まえると、誤報も多いといわざるを得ない。


 それ故、現実の対話こそが“民の”を知る最高の実践である。一人でも多くの人々と友情を結び、真摯な対話をし抜いていった時、時代の実相が見えてくる。


 真剣にを傾ける。誠実にを澄ませる。それでこそ、“なき”をすくい上げることができる。


 先日御物語の事について彼の人の方へ相尋ね候いし処仰せ候いしが如く少しもちがはず候いき、これにつけてもいよいよはげまして法華経功徳を得給うべし、師曠(しこう)が離婁(りろう)が眼のやうに聞見させ給へ(1448頁)


 師曠は中国の春秋時代(紀元前770〜403年)の頃、晋の平公(へいこう)につかえた音楽家。彼が楽(がく)を奏でると、鶴が舞いはじめ、白雲が楽の音に呼び寄せられる、とまで人々に称えられた人だった。


 晋の国で大きな鐘が鋳造された。平公が民にこれを聞かせると、皆、一様に激する。しかし、師曠はわずかな鐘の音の狂いを聞き逃すことはなかった。師曠は平公に鋳直すことを進言するが聞き入れられない。師曠は忠義の限りを尽くして、更なる進言をする。「後世の笑いものになってもいいのか?」とまで言った。平公が鐘の専門家を招いてこれを検証。確かにほんのわずかだが、鐘の音に狂いがあった。


師曠(しこう)が」のように、わずかな音の狂いも聞き逃すことのないよう、真剣に教えを聞いてゆきなさいとの御指南を実践すれば、その反動で振り子が揺れるかの如く、“民の”にを傾けざるを得なくなるのは当然だ。

人材育成なくば権威主義


 第2の10年の大きな課題は、人材の育成と教学の振興にある。第1の10年間が量の増大であったとするならば、第2の10年は、質(内容)をあらゆる点で向上させてゆく10年でなくてはなりません。

 その核となるのが座談会であり、そこでは、まず第一に人材の育成をしてかなければならない。若々しい優秀な人、また、社会的に立派な人を見つけて応援する一方、多くの人々を教育し、有為な人材に育て上げることが大切です。人材を見つけ、育てられないような人は、本当の指導者とはいえない。

 指導者、先輩、幹部というものは、後世のために何人の人材をつくるか、見つけるか――活動の原点はその一点にしぼられます。そうでなければ、単なる権威主義に終わってしまう。反対に、人材を見つけ、伸ばしてゆけば、今度はその人と一緒に楽しみながら進んでいけるのです。

 座談会のもう一つの焦点は、教学の振興である。人材の育成と教学の振興――この二つの活動は、いずれも地道で華々しくはない。しかし、将来のための大基盤をつくっていることを確信していただきたいといます。

 第2の10年の新しい骨格づくりとして、本格的に一つの道に地道な努力を積み重ねてゆく人、専してゆく人、これを称して、信の、学会の本格派と命できるのです。

 これを忘れたならば、どんなに立派な文化祭をやろうが、華々しい活動をしようが、花火のごとくはかないものとなってしまうでしょう。

 幹部は、教学はもちろん、ありとあらゆる問題について誰よりも勉強し、力を身につけてもらいたい。現代は激動の時代であり、いつまでも古い考え方に固執していれば、必ず時代に取り残されてしまう。人々をリードすることはできません。

 世に出た人は、相当の労をし、努力をし、激戦を繰り返し、それで社会に頭角を現しているのです。したがって、信があるから、といった安易な考え方の人がいれば、それは大きな誤りといえましょう。そこには、慢があり、傲慢さがあるということを銘記していただきたい。

 これからのリーダーシップはどうあるべきか、社会問題、国際情勢、文明論等々、あらゆる面で勉強し、索し、見方、考え方を養ってゆくことが必要です。不勉強は指導者として失格である、といっても過言ではない。それぐらい自分に厳しくしなければならない時代に入っているのです。


【第131回 10本部幹部会 1970-10-26 東京日本武道館


 肝に銘じている指導の一つ。


 要は自分が育つ以外にない。真剣に祈り、必死になって行動すれば、後輩は必ず育つものだ。具体的には、会うことと、連れて歩くこと。


 私が男子部の部長に任命されたのは、“超”がつくほど悲惨な隣の部だった。何をやっても結果が出ない。部大会では、前にビールが整然と並び、支部長・婦人部長を招いておきながら、勤行を終えると早速、呑み会が始まるような有り様だった。曲者(くせもの)だらけで、とてもじゃないが27歳の私の手に負える状況ではなかった。


 任命になる半年ほど前に、本部長から「小野、あそこの部に行ってみないか?」と何気なく言われた。すかさず「それは、私に退転しろということですか?」と聞き返した。「色々、考えているんだが本気だぞ」「『行け』って言われりゃ、エジプトだって行きますよ」。私は表情を引き締めた。


 半年後にその人事が現実のものとなって動き出した。カードを受け取った際に「部長を必ず守りますから!」と私は言った。「エ、お前、何言ってんの? 部長人事だぞ」と言われて、頭が真っ白になった。


 発表直後、今までいた部の面々に語った。「これは、佐渡流罪である」と。


 引き継ぎの時、前任の部長から言われた。「君じゃ、無理だよ。潰れるのは時間の問題だろうな」。


 新部結成に集ったのは新任の副部長を入れて、わずか3。2人の地区幹部は風呂上がりと見え、洗いざらしの頭に短パンで登場。にこやかな顔で注をすると、帰ろうとする始末。


 初陣は青年幹の結集だった。一人で3地区を駆けずり回り、最終的に23の確約が取れたが、蓋(ふた)を開けてみたら15の結集だった。最後の連れ出しで誰一人つかまえることができず、副部長と二人で会館へ向かった。間もなく着こうとした時、副部長がボソリと言った。「大体、新任の部長になった途端、いきなり大結集なんてできるはずがないよ」。


 会館に着くなり、総区男と出くわした。「どうだった?」「負けました……」。歯ぎしりしながら下駄箱の陰で私は泣いた。


「百万の 味方作らん 誓う今日」と私は深夜に認(したた)めた。


 自分のペースになるまで9ヶ時間を要した。2年3ヶ間務めたが、何度か傑出した成果を出すこともできた。の大きさと威勢のよさだけで突っ走ってきた自分のやり方が全く通用しない組織だった。そうであればこそ、私自身が革命せざるを得なかった。あれほどやりにくかった組織もなかったし、あれほど勉強になった組織もなかった。


 青年幹の借りは、3年後の7、本部長の時に返した。個人的なことではあるが――と前置きをし、この日の悔しさを部幹部に語った。5部で116の結集を勝ち取り、総区1位に輝いた。この記録はいまだに破られていない。更に光栄なことに、本部長を代表してメイン会場に出席することができた。

2004-03-21

円陣はダメ


 座談会場には、小さくても、やはり机ぐらいはあった方がよい。円陣で座談会をという見もあるが、全体をリードしていくためには、中をはっきりしておいた方がいい。だからといって、中者は決して権威ぶったり、堅い雰囲気をつくってはなりません。あくまでも全体を温かく包容し、威厳の中にも親しみやすく、何でも話せる雰囲気をつくっていただきたい。


【「創価学会座談会」/1968-01から1969-4までの月例本部幹部会の指導を中として、まとめたもの】


 これも大事な指導である。教えてもらわないと、こうしたことは中々わからない。


 時折、男子部の部活動者会などで丸くなる場合がある。人数がさほど多くないことから、全員の顔が見えるようにという配慮からであろう。だが、これは好ましくない。


 勤行唱題が虚空会であれば、学会の会合は霊山会(りょうぜんえ)であるというのが私の確信だ。法座であれば、中者が全参加者と一対一で勝負し、激励するのが正しいあり方だろう。当然ではあるが、生命の次元では皆、平等だ。しかし、責任において横並びとなれば、人材育成の機会すら失ってしまうことだろう。


 中者が会合に臨み、生命と生命との綱引きを自覚しているかどうかである。どのようなメンバーが来ようとも、元気づけ、勇気づけて帰してみせる、という自信と覚悟がなくてはならないとう。これは、会合の大小には関係ない。家庭指導も全く同様で、学会活動の一切は、折伏精神によって推進されている。

2004-03-18

究極の勝利


 私は究極の勝利のために、戦い抜いた。

 その前途には、人生最良の日々があることを、気高く見つめていた。

 憂鬱や絶望などの、愚の骨頂の人生は、生きなかった。

 の底から真実に生き抜いた私には、深き勝利と栄光の確信があった。

 安逸な日々など、一日たりともなかった。

 至高の喜び、決の喜びの精神を、生き抜いてきたのだ。

 そして、一切の冤罪(えんざい)に学会は勝った。私は断じて勝った。勝ちに勝った。


【「随筆 人間世紀の光」16 「如説修行の誉れ」 聖教新聞 2004-03-16付】


 100日闘争のスタートに当たり、先生が楔を打ち込まれた指導といってよい。自分にとっての「究極の勝利」とは何であるのかを深く索し、明確にする必要あり。


 最初に勝利宣言あり。これが先生の執られる指揮の方程式か。それにしても、ここに綴られている言葉の何という重み。人の一とは、これほどまでに深い位置に達することができるのか。


 私もそれなりの歴史は築いてきたつもりだ。だが、今までやってきたことの繰り返しであっては、新たな歴史を開くことはできない。全く新たな気と決をもって、いまだかつて成し遂げたことのない目標に向かって、新たな行動を起こさねばならぬ。


 闘争の火蓋(ひぶた)は切って落とされた。別人の如き形相で戦うのみ。


 昨年暮れに転入してきた男子部が明日、引っ越す。夫人と子の入会を勝ち取った共戦は、我が人生の歴史の一コマともなった。一家の福運と健康と栄光を祈し、御本尊を取り外す。儀式の中にも魂の交流あり。

2004-03-17

キャンプファイヤー


「『水滸会』で、このようにキャンプファイヤーを囲んで野外研修を行うのは、戸田先生以来の伝統です。それには、深い味があります。

先生は、この燃える薪(たきぎ)は私たちの生命(いのち)であり、信の炎であると言われていた。つまり、私たちが生命を燃やし、信の炎を燃やし続けてこそ、社会に希望と蘇生の平和の光を送れることを、先生は、教えようとされたんです」


【『新・人間革命』第2巻 「錬磨」の章/1998-08-24発行】


 昭和35年(1960年)730〜31日に犬吠崎(いぬぼうさき)で行われた水滸会の野外研修での指導。


 小林副会長が聖教記者として随行されており、一度、お話を伺ったことがある。先生は夜中に何度も笛を吹き、「集合っ!」と大きなを出されたそうだ。この章を読むと、直ちに理解できるが、多くの水滸会メンバーは遠足気分で集まり、戸田先生との誓いはどこかに置き忘れ、地元メンバーには居丈高な対応をした。


 先日、ある会合で篠原参議の指導を伺った。


「私もこの時、参加していた。先生はキャンプファイヤーを前に、『我々の信が燃え続けてゆけば、いつの日か、世界の民衆も必ずや集い来る』と指導された」


 そして、篠原参議は、以下のアイトマートフ氏の言葉を引用され、先生の宣言が実際のものとなったと驚きを込めて語った。わかりやすくするため、前後の文章も引用しておく。(原文に点が打たれた箇所は【 】にした)


 家なき言葉は存在しない。人間はみな言葉の家であり、言葉の支配者である。


 若いころ私はキルギスの村の老人たちを見て、よく驚いたものである。老人たちは話し相手がいない、胸の内を打ち明ける相手がいない、と言って嘆いていた。『周りに人がいっぱいいるのに、話し相手がいない、とはどういうことだろう?』と私には不議だった。しかし今なら私にも老人たちの気持ちが分かる。それはなくてはならぬ話し相手に対する渇望である。


 それは次のようなものであった。それぞれ長い旅を続けていた二人の旅人が偶然に出会った場面を像してほしい。二人ともすでに疲れ果てていた。人生の旅は長く辛いものだからである。少なからざるイバラが身をもをも傷だらけにしていた。のどの渇きが辛い。それ以上に飢えが耐えい。いや、生理的な飢えのことではない。それならばささいな物で満たすことができる。私が言っているのは、生の味づけを求める精神的な飢えである。


 ……そしてある時、私たちは道で出会った。私は用事があって歩いていた。すでに日が暮れかかるころ、私は道端の焚き火を前にしてゆったりと座っている人に会った。それが池田大作氏だった。


 私たちの話し合いは夜が明けるまで続いた。私はこの出会いを自分なりに、池田氏との【炉端会談】、と呼んでいる。


 私たちの対談が深遠で、空しからざるものとなることを望む。池田氏の焚き火の火は明るくて、空しくはないものである。その火は遠くから見える。その火は、おそらく暗闇の中で疲れ果て、人間のを渇望している旅人にとって喜ばしい知らせであり、希望である。


池田大作全集 (15)

2004-03-15

曖昧な姿勢を戒めよ


 指導者が曖昧な態度であり、裏表があった場合には、言々句々も曖昧になり濁ってしまう。

 堂々と正義の論戦を展開し、きちっとなにごとも言い切っていける青年らしい、男らしい態度――これが指導者として大事なのです。


【在京・男子部班長記撮影 1968-02-09 信濃町・東京文化会館


 戦ってないと語尾が不明瞭になる。決してるんだか、してないんだか、どうも理解にしむことがある。


 注してるんだか、激励してるんだかわかりにくいのもありますな。


「――かな」「――といます」「取り敢えず――」等々、これらの言葉はできるだけ使いたくないものだ。


 座談会で、青年部が「頑張りたいといます」と言うのを聞くと、私はすかさず「ってるだけなのか?」と合いの手を入れる(笑)。殆どの場合、「エー、頑張ります」と訂正する。


 言(ことば)と云うはいを響かしてを顕すを云うなり(565頁)


 自身の(おもい)をにあらはす事ありされば(こころ)がとあらはるは色法より色をあらはす、又を聞いてを知る色法が法を顕すなり(469頁)


 法界三千を秘妙とは云うなり秘とはきびしきなり三千羅列なり是より外に不議之無し(714頁)


されば、言葉は命である。ハッキリと明瞭な言葉で話し合いができない関係は不幸だ。リーダーがなきを傾けてゆくことは当然だが、何でも語り合える雰囲気をつくろうとを砕いてゆくことが鉄則。


 夕刻、宝寿会の婦人に会う。「昼の会合に出席して本当によかった」と語る笑顔が眩しかった。

「私は輸送班の先駆者」


 私もかつては、青年部にあって一青年部員の時代もありました。また班長の時代もありました。当時は隊長がありませんもので部隊幹部をいたしました。そして部隊長もしました。輸送班もやりました。私は輸送班の先駆者であります。


【5度男子部幹部会 1963-05-06 台東体育館】


 輸送班とはご存じのように創価班の前身である。昔は、輸送を担当して、そのまま本山の任務に当たったという。この凄まじさが理解できるのは、私ぐらいの世代までだろう。


 昭和51年(1976)112日、一枚のメモ用紙に先生が書かれた――「創価班大学校」と。第一次宗門問題の暗雲が垂れ込める中、新時代の闘将を育成すべく創価班は結成された。当初、「池田班」との構もあったと聞く。創価班こそ、先生の直系であり、親衛隊である。


 第1回総会は翌昭和52年(1977年)16日。この日は、奇しくも戸田先生から若き先生が後事の一切を託された日でもあった(昭和26年)。


 宗門が問題視した「仏教史観を語る」の講演が昭和52年125日に行われたことを鑑みると、創価班がどれほど重要な使命を持つかは歴然としている。


 私は9期生。16年間にわたって黄金の訓練を受け抜いてきた。本山担当に2年、本部担当は9年ついた。振り返ってみると、厳しい訓練こそが今の自分を形成していることに気づかされる。


 近頃の創価班はどうも覇気がない。言われたから立ってます、ってじのが多いですな。「革命的警戒」なあんてえのあ、もう死語かね?


 特に目立つのは手を組んでいる姿だ。これは駄目。とっさの転倒事故の際に直ぐ手が出るようにということと、不の暴漢に襲われた際、直ちに反撃するというのがその理由。


 会合運営もエラーが多過ぎる。


 男子部諸君よ、壮男合金だけは、どんなことがあっても回避願いたい。

周到な準備


 助走の勢いが跳躍の力を決定づけるように、広宣流布の活動の勝敗も、いかに周到に準備を進めたかによって、決まってしまうといってよい。ジャンプへと踏み切る“決戦の瞬間”には、既に勝負は、ほぼ決まっているものだ。


【『新・人間革命』第2巻/「民衆の旗」 1998-08-24発行】


 先生の歴史に残る大闘争はいずれもこの方程式で勝利されている。札幌・夏の陣、昭和31年の大阪参院選では、現地入りされた時に「今回の戦いは勝ったよ!」との勝利宣言から開始されている。


 一に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり(790頁)


 謀(はかりごと)を帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり(183頁)


因果倶時であれば、最初の一で勝敗は決する。要は、本物の決ができるかどうかにかかっている。油断なく、臆病を排して、決然とした勢いで立ち上がり、緻密な戦略を練り、着実な行動を繰り返す中に勝利はある。


 明日は、3.16広宣流布記の日。100日後には、参院選の公示日となる。

2004-03-12

峻厳なる信心なければ広布の組織にあらず


 社会一般においても、出来上がった組織の上にあぐらをかき、惰情に流れ、安逸をむさぼって、過去の創成期のしみを忘れた時に、その組織力が崩れゆくのは、歴史が明確に物語っているところである。

 学会も社会の一つである。学会という社会も複雑になればなるほど、源泉は峻厳なる信を第一としなければならない。

 組織があっても、そのなかに厳しい道修行の精神、求道精神がなければ、広宣流布の使命を果たすことはできない。

 全大衆に太陽のように燦々(さんさん)と輝く御本尊様の功徳力を知らしむるためには、信をしている一人ひとりが、常に歓喜にあふれ、信の峻厳さにみなぎっていなければならない。


【※当時、総務/「今後7年の戦い」 1959-08-01】


 表面的な活動をしていても、内実は人によって大いに異なる。


 随分昔になるが、ある創価班大学校生の家庭訪問をした際のこと。「君はどうして創価班大学校を志したのか?」と尋ねた。20歳前後のそのメンバーは、返答に窮しながらも「エーーーットォ、取り敢えず、暇だからです」と言った。あまりにも率直な答えが返ってきたので、わず吹き出してしまった。このメンバー、会合などでは華々しく活躍していたが、やがて姿が見えなくなった。


 私は地が悪い格なので、よく学会2世のメンバーに、「どうして、信しているのだ?」と訊いて、直ぐに返事がないと、「親がやってるから、やってるだけなんじゃないか?」と言った。


 時折、「小野さんは、どうして信しているんですか?」と質問してくるのもいた。私はすかさず「面白いからだ」と答えた。「本当は、『それが、正しいからだ』と言いたいところだが、俺の場合は違う。面白いからやってるだけだ。他人の人生に関わって、よりよき人生への変化を与えることができるなんて、これほど面白いことはないし、これほど凄い人生はない」と語った。すると、たまにだが、立て続けに、「じゃあ、面白くなくなったら、どうするんですか?」と言ってくるのもいた。「直ぐ、やめるよ」。これが本音である。


 囲碁や将棋だって、まあ、3年ぐらいやっていると飽きてくるものだ。同じことを10年以上やり続けることは珍しい。ところが、こと学会に限っては、10年やっても、20年やっても飽きることがない。それどころか、ますます深みにはまってくる(笑)。


 道修行とは何か? 人の面倒をみることだ。求道精神とは何か? 先輩に指導を求め抜いてゆく行動だ。


 学会の役職とは、成を保障するものではない。位だけあっても、人の面倒をみてない者はリーダーの資格がない。成長してない人、退転する者、これらに共通するのは、自分よりも大変な方々と同し、一緒になって戦う実践が欠けていることだ。


「我一人あらば、我が地域は磐石なり!」と言い切れるようになるまで、怒涛の道修行にいそしみたい。

2004-03-09

罰と功徳を自覚できる教学を


 もう一つは、日蓮大聖人様の法に通達していくことが大事だ。青年訓に「行学に励み御書を肝に染め、大聖人の法に通達して迷いなく……」とあるが、ある学会人は、みんな御書を肝に染めていく義務があるとう。戸田先生が牢獄の中で読まれたのも経文であり、御書であった。そして、同時に題目を唱えきられたのである。

 教学も、戸田先生の学会の創成期の精神にかえらなければならない。今の教学は教育的、事務的傾向に流れがちになっているが、先生の、信を根本とした教学、信のほとばしった教学を続けていくことをモットーにしなければならぬ。

 それには「源遠ければ流ながし」(329頁)「一人立て、二人は立たん、三人はまた続くであろう」(「国士訓」)と言われた先生の原理を実行し、まず、自覚した教学部員が一人立てば、その後をみんなが続くのだ。

 御書講義にあたっても、来た人が激し、より信を深め、折伏に励む推進となっていかねばならぬ。功徳をはっきり自覚できる教学を、教えていかなくてはならぬ。


【「今後7年の戦い」 ※当時、総務 1959-08-01】


『会長講演集』というのが最も古い先生の指導集である。全13巻。10巻までがエンジ色で、それ以降が緑色のもの。3巻と4巻が会長就任前の指導となる。


 若い頃、手当たり次第に学会出版物を読破し、御書の全編読破も2度行った。その際に痛したのだが、大した体験も持たずに勉強ばかりしていると、自然と小賢(こざか)しい考えの虜(とりこ)となってゆく。御書なども訓詁注釈にとらわれ、能書きを垂れている内にわけがわからなくなったりした。知識が広がるのは大いなる喜びではあるが、他人にそれをひけらかす時、どこか白けたムードになるものだ。


 御書の御文が自分の生活や生命とどのように関わっているのか。生活から遊離した法は学問でしかない。学んだ分だけ信が深まってゆく教学のあり方こそ理だろう。


 先生の指導はどこまでも信即生活のリズムに貫かれている上に、わかりやすい言葉で教えられている。


 戸田先生の没後から一年。31歳であられた若き先生は、学会の命運を担う存在として孤軍奮闘されていた。そうした背景を像すると、短い指導にも厳粛ないを禁じ得ない。


 明日、310日は東京大空襲があった日。して世界の平和を祈してゆきたい。

2004-03-07

時間革命


 人はよくひまがないというが、ひまがないのではなく、にゆとりがないのである。仕事に流され、環境に支配されたりしたのでは、自己の成長を忘れた姿といえまいか。


【『私はこうう』 1969-05-03発行】


時間がない」と嘆くものの、忙しいようでありながら、さっぱり成長しないのが凡夫の常。就中(なかんずく)、リーダーにとっては、生命力を充電する唱題行と、指導力をつけるための研鑚が不可欠だ。


 若き先生の歴史的な闘争では、どんなに激しい戦であっても、皆でレコードにを傾け、俳句を作り、歌を歌うなど、絶妙なタイミングで緩急の変化をつけられていた。張り詰めた弦(いと)は切れやすい。緊張と緩和があって、人は大いなる飛躍を遂げる。


 折からの不況で時間的に大変な方も多いことだろう。私も経験があるが、時間がないのは実に大変である。本当に仕事が忙しくなってくると、組織のことを考えないようになってゆく。時折、会合に参加しても、久し振りに出た実が伴わない。祈ること、考えることの大半が仕事のことになってしまうのだ。こうなると、既に自分の人生を歩んでいるとは言いく、完全に仕事をこなすだけの生活になる。原点を見失うと、人はどこまでも流されてゆく。


 一本の電話が大事だ。15分の唱題でも生命は瑞々しくなる。


 仕事が多忙を極めても、座談会本部幹部会衛星中継だけは死守したい。学会から離れて、自分の幸福などあり得ないのだから。

2004-03-06

境涯によって世界は変わる


 世界がどう見えるか。また人生がどのようにじられるか。それは、ひとえに一人ひとりの境涯世界によって決まる。


【第1回和歌山県記総会 1988-03-24 関西研修道場】


 よく覚えている指導の一つ。本部新館へ行った際、佐藤武彦副会長がこの指導を引用して激励してくれた。先生の指導を読むことについては、人後に落ちないつもりであったが、全く記憶に残っていなかった。聞いた瞬間にハッとし、帰宅してから調べると、最新の指導だった。虚を突かれたような、はたまたの穴を指し示されたような地になった。


 自分を取り巻く環境は様々な色に変化する。薔薇色に包まれてボーーーッとしていると、いつの間にやら灰色が忍び寄ってくることもある。嵐に翻弄されるような時もあれば、朝の光に照らされるような時もある。


 若い時分は、理に燃えているが故に、ともすると不平不満の奴隷になるケースが多い。自分が懸命になればなるほど、歯がゆいいに駆られがちだ。職場においても、組織においても同様だろう。


 法では、生命を一三千の当体と説く。一瞬の生命に三千種類の可能があり、三世間が異なる故に、人の数だけその可能が存在する。


 周囲への文句が頭をもたげてきたその時こそ、自身の壁が見えてきた位置でもある。理的ではないからこそ、今、自分がここにいるのだ。こう確信して、人生のあらゆる舞台で優と輝きたい。

人事を過つことは、組織をころすこと


「君たちもよく憶えておきなさい。組織といっても、人が大事なのです。組織活動というものは、着実に進まなければ味がない。着実ということは、保守的であってもいけないし、さりとて、急進的であっても駄目です。しかし、物事の全体を捉えて真に着実に推進できる人というのは、めったにいないのです。いまの大阪は、見たとおりどちらかに偏った人が多い。だが、組織は着実に運営しなければならない。そこで、将軍学ともいうべきものの一つが、ここに必要となってくる。人事を過(あやま)つことは、組織をころすことです。君たちが、地区部長として地区をよくみた時、こまった班などにその実例をいくらでもみているではないか。指導者の価値は、その人事で決まるといってよいくらいだ。それほど大事なのです」


【小説『人間革命』第10巻/「脈動」 1978-11-18発行】


 戸田先生の指導である。戸田先生は組織を司る者は「人事と金にせよ」と繰り返し教えられた。


 人事は、「人の事」と書く。自分に関係がなくとも気になる人物も多い。「どうして私が……」とか、「何であの人が……」などとを揺らすケースも見受ける。


 人事を推進する側は、発表の時に、皆がから賛同の拍手を寄せるようでなくてはならないだろう。


 特に本部長以上の役職を担う場合、よりよき人事が組めるかどうかが死活問題となる。自分がやりやすいような人事を組んだとしたら、最前線の団結は必ず狂ってゆく。


 青年部の人事の場合は以下の順序となる。


 1. 人事案の検討。

 2. 壮年・婦人への根回し。

 3. 本人への打診。

 4. カード提出。

 5. 面接。

 6. 人事発表。


 こんなことすら知らない幹部が最近では目につくようになってきた。特に壮婦への根回しを怠ると、後々、情を招く結果となる。よく聞かれる声としては、「男子部では頑張っているのはわかるが、地区活動者会にも出ないようなメンバーを地区副リーダーにするのはどうか?」といった内容が多い。こういう見が出るのは、日常の四者の活動で、きちんと連絡を取り合ってないところに原因がある。つまり、男子部と四者において二面のある活動をしているのだ。


 また、人間というのは、どうしても自分と似たタイプの人を人材と目する傾向がある。それ故、衆知を集めて真剣に協議してゆく姿勢が必要だ。更に、例えば副部長の人事に、部長が絡むことはないが、発表直前に教えてあげて、力を合わせて戦ってゆくように激励する配慮も欠かせない。


 正役職をとんとん拍子で上がってゆくと、こうした配慮に欠けがちである。年長幹部や、副役職の者がしっかりと見してゆくことも大切だ。私が青年部だった頃は、OBにまでお伺いを立てたものだ。


 更に、人事を発表前に軽々しく漏らすような人物は絶対に信用してはいけない。こういう人物は、他人のプライバシーなどを平気で噂話にするような連中である。組織の団結を乱す傾向を厳しく戒めておく必要がある。人事が漏れたとすれば、それは事故と一緒だ。


 いずれにせよ、いかなる人事が組まれようが、中者にを合わせ、戦ってゆく人に功徳が薫る。長い人生の間には、自分の後輩が上位役職となることもあるだろう。その時こそ、の底から決して、団結の要となってゆくことだ。自分が人間として成長できる最大のチャンスと捉えることができれば、その一が新たな波動を生む。自分の役職に微塵でも不本いを抱いているとすれば、それは単なる利に過ぎない。既に信のリーダーである資格を失った哀れな境涯と知ろう。

2004-03-03

戸田先生の獄中の悟達


 私が申し上げたいのは34回も「……に非ず」が、徹底した「限定の超克」であり「無限の開示」であったということです。あらゆる角度からの「限定」を超克しぬいたところに浮かび上がるホーリスティック(全包括的)な生命観――それは総長のおっしゃる「無限」ということと、きわめて親近し、二重写しになってくるのです。


【『文明と教育の未来を語る 第16回』サドーヴニチィ(モスクワ大学総長)対談 創価新報 2004-03-03付】


「34回の非ず」とは、戸田先生が獄中で呻吟(しんぎん)するような的格闘をされた無量義経の一文。


 以下に全てを挙げてみる。


 其の身は有に非ず 亦た無に非ず 因に非ず縁に非ず 自他に非ず

 方に非ず円に非ず 短長に非ず  出に非ず没に非ず 生滅に非ず

 造に非ず起に非ず 為作に非ず  坐に非ず臥に非ず 行住に非ず

 動に非ず転に非ず 閑静に非ず  進に非ず退に非ず 安危に非ず

 是に非ず非に非ず 得失に非ず  彼に非ず此に非ず 去来に非ず

 青に非ず黄に非ず 赤白に非ず  紅に非ず紫に非ず 種種の色に非ず


「其の身」とは“の身”である。――ではない、という叙述が続くのだから、まるでなぞなぞみたいなものだ。戸田先生は何度宅下げしても戻ってくる白文の法華経と取り組む決をする。何度か読み返したところで、この無量義経の文が理解できるまで祈り、索される。戦時中の獄につながれて8ヶ月が経とうとしていた冬のことである。満足な食糧もなく、身体を痛めつけられ、文字通り最悪の状況下で、戸田先生は精神闘争を貫かれた。「とは何なのだ? あるものでもなく、実体のないものでもない。丸くもなく、短くもなく、長くもない……。わからない。わかりそうで、わからない。だが、どうしても知りたい……。釈尊が説こうとした“”とは何なのだろう――」。


 朝の光を浴びて、戸田先生は端座し、しわがれてはいたが豊かな声で妙法を唱えていた。何とも状しい充実と満足が五体を包んでいた。ふと気づくと、戸田先生は虚空に在った。と、眩(まばゆ)いばかりの光に包まれた。「!」。「とは生命なんだ!」「『有に非ず 無に非ず……』そうだ! 生命のことなんだ!」。


 これが一度目の悟達であった。二度目の悟達は11月中旬に「霊山一会儼然未散(りょうぜんいちえげんねんみさん)」の御文を身読され、「我、地涌の菩薩なり」との確信をつかまれる。牧口先生が逝去された時期と不議に一致している。


 戸田先生の悟達は、法華経を釈尊が説法した時と同じ体温に戻す歴史的な壮挙であった。


「限定の超克」が「無限の開示」であったという先生の指摘は、身体が震えてくるほどの鋭さをはらんでいる。壁の向こうに無限が在る。この悟達が成し遂げられたのが、人間の全てを否定される獄中であったことに動を禁じ得ない。万人が不自由であると考える場所で、戸田先生は、自由自在の境涯を獲得された。ここに創価法の原点がある。人類が救われた日と言っても言い過ぎにはならないだろう。


 今日は「法」の日――。

2004-03-02

「心」が「心」に響き、「生命」が「生命」を動かす


」が「」に響き、「生命」が「生命」を動かす。この感応が、信の世界にとって、どれほど大切であることか。

 指導者は謙虚に自身の生命と人格を磨きゆかなければ、「の世界」「生命の世界」である学会のあり方を大きく誤ってしまう。


【和歌山広布35周年開幕記研修会 1988-03-23 関西研修道場】


 学会は感応道交の世界だ。じ、生命で応える関係である。師匠感応して、弟子が決起する世界だ。


『指導メモ』にはこうある――


 後輩が“行ってきます”と出発する時、“よし、しっかりやれ”と境地冥合することが大切だ。そうでないと後輩は張り合いをなくす。激励の一言でを破るのである。


 境地冥合感応妙である。


 自他の幸福に向かって勇んで前進してなければ、生命が澱(よど)んでくる。しっかりと題目があがってないと、大事なことを見落としたり、判断を誤るようになる。広宣流布の世界に身を投じていないと、どうしても我が身一身の幸福しか考えなくなる。


 打てども打てども響かぬ太鼓は、いずれ捨てられる運命となろう。


 しんでいる人、決している人、迷っている人、陰で黙々と戦っている人、こういう人々を見逃してはならない。間髪を入れず反応してあげれば、それだけで団結は強靭なものとなる。

2004-03-01

「内外」考


 さて、「内と外」について考えてみました。


「内外」という考え方があるから、そこに「敵と味方」という発が芽生えてくるのも自然でしょう。


「内外」という考え方はいつからできたのか。これは、人が共同体として生活を開始してからだといます。共同体の最小単位は家族です。そこから、隣近所、学校、職場、親族・友人、地域・社会、宗教・民族・国家などへ広がっていきます。


 なぜ、人は共同体を形成するようになったのか? 生産の向上もありますが、本質的には、生命に危険を及ぼすものから守るためですね。それは、自然の脅威であったり、外敵であったり、得体の知れない他の共同体でもあるわけです。要するに、一人では生きていけないからでしょう。


 目に見えない「境界線」の本質もそこにあるといます。生命を守るために、危険を避けるためにあるのだといます。


 しかし既に指摘されているように、そうした幼児期のままの精神では、いつまでも敵と味方の峻別・選択に終始してしまいますね。また、好悪の情にとらわれたままになってしまいます。


 人は、何のために文化を創り上げてきたのでしょうか。文化とは、英語でCulture(カルチャー)です。その語源は、ラテン語の「Cultivare=耕(たがや)す」という味です。そこで、池田先生は、真の文化とは「を耕すことである」と言われました。


 の交流、文化と文化の交流があってこそ、差異を克服し、エゴを克服していく原動力になっていきます。交流とは、まず相手にいをはせていくことから始めなければならないといます。他者への暖かいまなざしですね。一対一の対話も、の交流があってこそです。


 慈悲の哲学が求められる所以(ゆえん)ですね。生命を脅かす敵(これは争いばかりではありません)を見抜くことは大事ですが、境界という予防線をに張り巡らせることは、鎖国になってしまう。


 そこで再度、内と外ですが、共同体の中だけで暮らしていると内にしか目が向きません。その短所が、俗に言う世間体でしょう。共同体の崩壊が言われ出して久しいですが、世間を気にする社会であることは、いまだ変わりがありません。しかし、自分が識している共同体から一歩出てしまえば、旅の恥はかき捨て同然です。島国根なのか、日本人はどうしても内向きですね。さらに、境界を設けたがる。そうした弊害を、垣根を取り除くためにも外に目を向けることが大切ですね。他者への眼差しであり、働きかけです。の交流が欠かせません。


 学会内においては、座談会に会合に参加しているから大丈夫と、の交流を忘れてしまえば単なる集まりにしかなりません。


【恋】 http://jiyunobosatu.org/


【「創価学会ML」の投稿より転載】

「どう見えるか」ではなく「どうあるか」


 聞も利も、真実の前にははかない。人に「どう見えるか」ではない。自分が「どうあるか」である。仮に他人はごまかせたとしても、自分はごまかせない。自分自身が納得できない生き方をして、本物の人生を送れるはずがない。


【第2回全国青年部幹部会 1988-03-12 創価文化会館


 有な指導である。妙の照覧を確信すれば、自分を売り込む必要などないはずだ。ところが、たまに、みみっちい者がいて、自分がどれほど頑張っているかを一生懸命、力説する浅ましい姿をさらけ出す。唱題を1時間以上やると、しゃべらずにはいられない男子部とか、やたら役職を誇示する愚かな幹部なども同様(笑)。


 昭和24年から25年にかけて、戸田先生池田先生にとって最大のの時であった。若き先生はうように学会活動ができず、組織では陰口を叩く先輩もいたという。さしずめ、竜年光あたりだろう。


 世間で何を言われようが、自身の幸福とは関係ない。組織においても同じだ。婦人部の口に戸は立てられない。


 御本尊と先生の前に晴朗なで立つことができれば、それでよし。同志を誹謗し、あらぬ噂に興じるような連中には、必ずや厳が下る。


 組織や個人の状況を尋ねると、必ず言いわけしてくるようなのも時折、見かける。きっと、死んだ後も閻大王の前で言いわけするのだろう。


「自分がどうあるか」これが人生を主体的に生きる者の態度であろう。信とは、自分と御本尊の関係で決まる。組織で社内営をするようなのは、信が弱い証拠だ。「どう見えるか」というのは世間に媚びた生きざまに他ならない。下らないパフォーマンスは不要だ。幹部にタレント根は要らない。