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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2004-03-15

曖昧な姿勢を戒めよ


 指導者が曖昧な態度であり、裏表があった場合には、言々句々も曖昧になり濁ってしまう。

 堂々と正義の論戦を展開し、きちっとなにごとも言い切っていける青年らしい、男らしい態度――これが指導者として大事なのです。


【在京・男子部班長記撮影 1968-02-09 信濃町・東京文化会館


 戦ってないと語尾が不明瞭になる。決してるんだか、してないんだか、どうも理解にしむことがある。


 注してるんだか、激励してるんだかわかりにくいのもありますな。


「――かな」「――といます」「取り敢えず――」等々、これらの言葉はできるだけ使いたくないものだ。


 座談会で、青年部が「頑張りたいといます」と言うのを聞くと、私はすかさず「ってるだけなのか?」と合いの手を入れる(笑)。殆どの場合、「エー、頑張ります」と訂正する。


 言(ことば)と云うはいを響かしてを顕すを云うなり(565頁)


 自身の(おもい)をにあらはす事ありされば(こころ)がとあらはるは色法より色をあらはす、又を聞いてを知る色法が法を顕すなり(469頁)


 法界三千を秘妙とは云うなり秘とはきびしきなり三千羅列なり是より外に不議之無し(714頁)


されば、言葉は命である。ハッキリと明瞭な言葉で話し合いができない関係は不幸だ。リーダーがなきを傾けてゆくことは当然だが、何でも語り合える雰囲気をつくろうとを砕いてゆくことが鉄則。


 夕刻、宝寿会の婦人に会う。「昼の会合に出席して本当によかった」と語る笑顔が眩しかった。

「私は輸送班の先駆者」


 私もかつては、青年部にあって一青年部員の時代もありました。また班長の時代もありました。当時は隊長がありませんもので部隊幹部をいたしました。そして部隊長もしました。輸送班もやりました。私は輸送班の先駆者であります。


【5度男子部幹部会 1963-05-06 台東体育館】


 輸送班とはご存じのように創価班の前身である。昔は、輸送を担当して、そのまま本山の任務に当たったという。この凄まじさが理解できるのは、私ぐらいの世代までだろう。


 昭和51年(1976)112日、一枚のメモ用紙に先生が書かれた――「創価班大学校」と。第一次宗門問題の暗雲が垂れ込める中、新時代の闘将を育成すべく創価班は結成された。当初、「池田班」との構もあったと聞く。創価班こそ、先生の直系であり、親衛隊である。


 第1回総会は翌昭和52年(1977年)16日。この日は、奇しくも戸田先生から若き先生が後事の一切を託された日でもあった(昭和26年)。


 宗門が問題視した「仏教史観を語る」の講演が昭和52年125日に行われたことを鑑みると、創価班がどれほど重要な使命を持つかは歴然としている。


 私は9期生。16年間にわたって黄金の訓練を受け抜いてきた。本山担当に2年、本部担当は9年ついた。振り返ってみると、厳しい訓練こそが今の自分を形成していることに気づかされる。


 近頃の創価班はどうも覇気がない。言われたから立ってます、ってじのが多いですな。「革命的警戒」なあんてえのあ、もう死語かね?


 特に目立つのは手を組んでいる姿だ。これは駄目。とっさの転倒事故の際に直ぐ手が出るようにということと、不の暴漢に襲われた際、直ちに反撃するというのがその理由。


 会合運営もエラーが多過ぎる。


 男子部諸君よ、壮男合金だけは、どんなことがあっても回避願いたい。

周到な準備


 助走の勢いが跳躍の力を決定づけるように、広宣流布の活動の勝敗も、いかに周到に準備を進めたかによって、決まってしまうといってよい。ジャンプへと踏み切る“決戦の瞬間”には、既に勝負は、ほぼ決まっているものだ。


【『新・人間革命』第2巻/「民衆の旗」 1998-08-24発行】


 先生の歴史に残る大闘争はいずれもこの方程式で勝利されている。札幌・夏の陣、昭和31年の大阪参院選では、現地入りされた時に「今回の戦いは勝ったよ!」との勝利宣言から開始されている。


 一に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり(790頁)


 謀(はかりごと)を帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり(183頁)


因果倶時であれば、最初の一で勝敗は決する。要は、本物の決ができるかどうかにかかっている。油断なく、臆病を排して、決然とした勢いで立ち上がり、緻密な戦略を練り、着実な行動を繰り返す中に勝利はある。


 明日は、3.16広宣流布記の日。100日後には、参院選の公示日となる。

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