Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2004-05-29

信心で勝て


 敗れた原因についてとやかくいうのは、に負けた姿である。負けたことを信の糧にしていきなさい。悲しんでいればが喜ぶだけだ。元気に立ち上がりなさい。選挙で負けても、信で勝てばよいのだ。


【『前進』1967-05号】


「勝った時に負ける原因をつくる。負けた時に勝つ原因をつくることもできる」と戸田先生


 敗れた時に、次の敗因をつくってしまえば、連敗のリズムができる。戦いの総括が必要なのは当然だが、過ぎ去った過去の分析をするよりも、“負けた一”を引っくり返すことが先決だ。


 設ひいかなるわづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし(1088頁)


 法戦が迫ってきた今、日々、どれだけの勝因を積み上げているかが問われている。完全決着を目指す我々に敗北は断じて許されない。


「勝ってまた勝つのが法」と先生の指導。

2004-05-28

人間の中へ


 今、社会は、すさんだ、悪多き、目的もなく使命も持たぬ人々が多い。しかし、断固として我々は、「喜んで試練を受けよう」との決をもって、そうした人間の中へ、人間の中へと、勇敢に突入してまいりましょう!

 学会に臆病者はいらない。自分勝手な見方をする、自己中の輩もいらない。 縁に紛動される、疑い深き気地なしもいらない。正々堂々たる法戦を、正々堂々たる人生を、正々堂々と、学会で生き抜いてまいりましょう!

 我々の「本門」ともいうべき21世紀。旭日を浴びながら、その黄金の舞台に躍り上がって、偉大なる「わが人生の歴史」を綴ってまいりましょう!


SGI春季研修会 1998-04-21】


 できることなら、試練は避けたい。これが人情だろう。誰も、好きこのんで大変な目には遭いたがらない。だが、先生は「喜んで」と仰せだ。試練が大いなる目的に直結していると自覚すれば、誰もが勇気を発揮できる。


 人は皆、固有の価値観を持っている。学会員であってもこれは変わらない。十人十色というが、ものの見方は、それこそ千差万別だ。ある出来事をどう受け止めるかも同様。


 これを法では境涯と説く。人は皆、自分の境涯に映る世界に住んでいるといえる。同じ世界に住んでいながら、幸福じる人もいれば、不幸を嘆く人もいるのは、そのためだ。


 自分がじたことに固執してしまうと、世界は歪んで見える。それは、“自分”というフィルターを通した世界なのだから当然だ。


 桜梅桃李と説かれる個は、我が境涯に束縛された状態を指し示すものではない。自分の今の境涯を客観的に見つめ、そこにとどまることなく、境涯を打破する生き方に目覚めた時に、花の薫りの如く立ち現れる生命の光だ。


 個は我見ではない。


 ここに、万人にとって普遍の理が求められる所以がある。具体的には、個人幸福と、平和で平等な社会の実現といえよう。


 では、個人幸福とは何か? それは人格の完成だ。なにがどうなれば人格は完成するのか?


 平和で平等な社会とは何か? そこで見の相違が出てくるのは、政治の世界を見れば一目瞭然。


 こうしたことを本気で考えれば考えるほど、人は絶望の闇にとりつかれる。


 だが、我々はその答えを知っている。一生成広宣流布だ。これこそ、人類最極の理である。


 信弱く、決浅き輩は、何かあると必ずブレる。法が中ではなく、自分中の生き方であるが故に。彼等の見というのは、不信が根本になっているので、どんなに偉そうなことを言ったところで、“信なき言論煙の如し”である。


 師匠との誓いによって結合した、真実の学会同志は、全てを笑い飛ばし、悠々たる祈りによって、大確信の対話を繰り広げる。

2004-05-26

苦悩が扉を開く


 私の好きなアルゼンチンの詩人の教育者アルマフエルテの詩にこうある。


悩は

 弱い者にとっては

 閉ざされる扉であり

 強い者にとっては

 開かれゆく扉である」


 悩は、弱い人間にとっては、前途を阻む。しかし、強い人間にとっては、悩さえも、前途を洋々と開くきっかけとなる。すべては、自分自身ので決まる。決で決まる。「こそ大切なれ」である。


【第24回創価大学、第12回創価女子短期大学式 1998-03-18】


 悩によって、その人物の底が知れる。問題があると、「大変だ、大変だ!」と大騒ぎをし、なぜかしら、一生懸命、問題を分析するような人もいる。一方、「大変なのは、“大きく変わる”チャンスだ!」と変毒為薬の実践を直ちに起こす人もいる。


 さしずめ、前者は水たまりのような底の浅い人物であり、後者は「百尺下の水の心」(吉川英治著『宮本武蔵』)を知る人物といえよう。水たまりは、そよ風が吹いただけでも波立ってしまう。


 人生は問題だらけと言っても過言ではあるまい。年がら年中、試験をしているようなものだろう。その度に、我々は選択を強いられるわけだ。人生とは選択の異でもある。


 問題というのは、正しい答えがあるとわかっていれば、それなりに懸命に考える。13手詰めの詰め将棋などを像すれば理解できるだろう。しかしながら、人生の問題というのは実に多種多様だ。答えが一つであるとも限らない。それどころか、答えがないとあきらめてしまうケースもある。


 だから、世間では、大きな社会問題があると、ひたすら分析するにとどまり、答えを示すことが殆どない。進むべき方向すらわからないものだから、問題がなぜ問題であるかを長々と説明することに終始している。挙げ句の果てには、問題を誰かのせいにして、ケロッとしているのがマスコミの面々であろう。


 人生の問題というのは、押しなべて同じ質をはらんでいる。それは、「あなたはここで、どう振る舞うのか?」ということだ。答えは二つしかない。傍観者となって時間の経過を待つか、人生の主体者となって直ちに行動を起こすか、である。


 どのような問であろうと、必ず解決してみせる者の異が、創価学会員であると信ずる。悩を解決できることを信じ、悩を解決できる自分であることを信ずるのが、地涌の菩薩だ。


 本日、行われた分区地区部長会にて、私が書いた「今こそ信頼回復のチャンス!?」の一部が紹介された。会合終了後に、敬愛してやまないY副会長から、「本当に動しました。私もあちこちで使わせてもらってます。大した内容です」と褒められる。私はニコリともしないで、「もっともっと現場でしっかりと戦ってゆきます」と決を述べた。

2004-05-25

読みにくい世論


 世論が読みにくい状況が続いている。イラク問題、年金法案、北鮮拉致問題、イラク人質事件等々、どれをとっても、一筋縄ではいかない有り様だ。風薫る5月というものの、クルクルと変わる風向きは、安易な予断を許さない。


 ただ、以下の共同通信の緊急電話調査を見る限りでは、国民はマスコミの情報を鵜呑みにしているわけではなく、絶妙なバランス覚を堅持していることがわかる。


 今は、風向きを予測している場合ではない。自ら風を起こす時である。


 私は小泉首相の訪記者会見ラジオで聴いた。5人の子供達が帰ってくると知り、快哉を挙げた。ところが、これに冷や水をぶっ掛けたのは、拉致被害家族の怒りの声だった。


拉致問題解決せず83% 68%は日会談評価


 共同通信社が23、24両日に実施した全国緊急電話世論調査の結果、小泉純一郎首相が北鮮を再訪問、金正日総書記と会談したことを受け、日本人拉致問題について「解決したとわない」と答えた人が83.9%に上った。再訪について「評価する」は68.4%となったが、2002年9月の初訪直後の調査に比べ17.8ポイント低い。

 内閣支持率は54.9%で、15、16両日の前回調査に比べ1.1ポイントの微増にとどまった。不支持率は31.5%で4.1ポイント減。

 安否不明者10人について再調査するとした日両政府の取り組み姿勢についても「十分だ」が8.6%だったのに対し「十分だとはわない」が88.0%となるなど、首相訪を全体として評価しながらも、拉致問題などについての厳しい見方が浮き彫りになった。

 日会談について「評価しない」は30.7%だった。首相が日首脳会談で示した北鮮に対する食糧援助と医薬品の提供については「容認できる」が18.4%にとどまったのに対し、「容認できない」が約2倍の35.5%に上った。


【共同通信 2004-05-24


年金法案を見送ったらどうなるか


 1.毎年1兆円の損失(20歳以上の人が1000円払うことになる)

 2.5年待ったら制度の破たん(団塊世代が60歳になる前じゃないとアウト)

 3.先送りは負担増(負担が増えても議論をすべきなのか)


【だから年金改革法案は見送れません】そもそも、まともな対案を出した政党はなし。真剣ではない証拠。


民主党が主張する年金制度の「一元化」を行ったらどうなるか


 1.無理に一元化すると負担増(国民年金で500万の所得なら現在の4倍払う)

 2.年金制度をさらに混乱させる(破たん寸前の制度を安定させて改革すべき)

 3.中小企の所得の把握がしい(商店などの所得調査がひんぱんに必要)


 だから【一元化には議論が必要】ということで民主の見も聞いて3党合を示した。


以上、「嘘つきの悲劇」より。

勇気ある行動


 臆病者の溜めは、希望を奪う。しかし、一人の勇気ある行動は、万人を勇者へと変える。


【『新・人間革命』第15巻 「開花」 聖教新聞 2004-05-14付】


 メールマガジンの発行順序を誤ってしまった。ナンバリングが前後してしまうがご勘弁願いたい。


 世界ジャンボリーに参加していた6000ボーイスカウト大石寺に避した。この時、イギリス隊の少年達が、自分たちのテントが水浸しになりながらも、他の国のメンバーを先に避させ、最後の最後まで奮闘した姿を讃えた一節。


『前進』を読んでた世代の方であれば、よく知っている有なエピソード。ジェントルマンの宗主国で育った少年にはジョンブル魂が脈打っていた。


 溜めは、科学的に見ても毒があるという。人間の溜めを水溶液に溶かしてマウスに注射をすると死んでしまうそうだ。に溜められているのは、やるせなさ・失望・倦怠・あきらめ等であろう。何とはなしに、酸度が物凄く高そうな気がする。溜めは、煙草の副流煙のように周囲の人々を害する。


 勇気は行動とセットになっている。バラ売りされることは決してない。の中だけの勇気は、勇気とは呼ばない。それはただの観論だ。


 一人の勇気ある行動は、人をして崇高な気持ちにさせる。人間に対する信頼を高める。自分の可能に気づかせてくれる。自分のわがままをあぶり出し、進むべき正しい方向を指し示してくれる。


 勇気を発揮する機会は、三度の飯より少ないだろう。なぜなら、勇気は、いざという時にしか示せないからだ。大変な時、迷った時、負けそうになった時こそ、勇気が試される。


 我々は地涌の菩薩だ。菩薩から勇気を取ってしまえば、クリープのないコーヒーどころか、コーヒーのないクリープみたいなものだ。ポケットのないドラえもんと言ってもよし。


 ガンジーは言った。「革命はカタツムリのスピードで進む」と。そうであれば、革命の実像は小さな勇気の積み重ねに依らねばならない。そして、勇気は出せば出すほど強固な質となる。


 小さな問題で動揺し、目的を見失っている人々の目を醒ますような勇気を発揮する大確信のリーダーでありたい。

2004-05-24

どんな不利な条件の中でも勝ってみせるのが本当の勇者


 どんな不利な条件の中でも勝ってみせるのが、本当の勇者です。言いわけは弱者のものだ。“法は勝負”だから、信を通しながら、しかも現実には勝たねばならない。


【「青年とのつれづれの語らい」1 1991-08】


「青年とのつれづれの語らい」が掲載されたのは、日顕による宗門問題が惹起(じゃっき)してから、約半年後のこと。普段は新聞に載らない“生”の指導を直接、伺っているような動を覚えたものだ。


 リラックスした口調から放たれる鋭い一言一言は、智そのものであり、創価帝王学であった。いずれの指導も忘れいもので、何かある度にい出される指針がいくつもある。


 振り返ってみれば、学会の歴史は、“法勝負”を決せんがために、悪戦闘しながら開拓してきたものだ。学会にとって有利だったことはいまだかつてなかった。環境が整い、条件がよかったことなど過去に一度もなかったのだ。だが、それでも、連戦連勝の奇蹟の歴史を築いてきた。


 その原動力は、信に他ならなかった。より具体的に言えば、師弟直結した同志の団結によって勝ち抜いてきたのだ。

 周の武王は800人で、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)の70万騎に勝った。不利といえば、これほど不利な戦いはなかった。どうして勝てたのか?


 異体同なれば万事を成し同体異なれば諸事叶う事なし(1463頁)


 勝利の要諦は異体同だ。広宣流布に燃えるが同じであれば、人数の多寡(たか)すら問題ではない。


 華々しい決は要らない。自分を飾る言葉も不要だ。師匠が望んでいるのは、「現実の勝利」だけなのだ。ここにのみ、後継の証もある。

今こそ信頼回復のチャンス!


【小野不一(東京都) 「波紋」/公明新聞 2004-05-24付】


 年金保険料未納問題が世間を騒がせている中、公明党でも、党3役を始めとする13の一時期未納・未加入期間があったこと明らかとなった。


 当初、私は驚きを隠せなかった。裏切られたいもした。だが、党として、所属する国会議員の調査結果を公表した潔さを評価する友人の声も聞かれた。


 確かに、故・悪による未納・未加入ではないにしても、年金制度改革を推進してきた党としての責任は重い。年金問題に対する国民の関の高さを考えると、「年金の未納・未加入期間がある議員に、年金制度改革を論じて欲しくない」との情が噴出するのも致し方ないだろう。


 ただ、この論理がまかり通るのであれば、「一度でも交通違反をしたことのある議員は、道路交通関連法案について論じてほしくない」ということになりかねない。しかし、果たしてそうだろうか。私は、そうはわない。


 何よりもまず今回の結果を厳しく受け止め、猛省を促した上で、公明党に言っておきたい。私は公明党の支持者である。だから、今回の問題に関しても、甘んじて情を引き受ける覚悟である。口幅ったい言い方をすれば、私は公明党を“育てる側”にいると自負している。


 私達は、日本のよりよい政治の実現を目指す同志だ。信用を失った今こそ、信頼回復のチャンスと捉えたい。私は今まで以上に、公明党に期待し、公明党を信じ、公明党と一緒に闘い続けてゆきたい。


【※現場で使ってね(ハートマーク)】

2004-05-22

三障四魔と宿命転換


 道路がすいていれば、自動車も運転しやすい。しかし、運転技術は向上しない。信も同じである。三障四魔が競ってこなければ、宿命の転換はできない。


【『指導メモ』1966-06-01発行】


 近頃は、道路にちょっとばかりの物があるだけで、大騒ぎする面々が多いようだ(笑)。よっぽど運転技術に自信がないとみえる。小さな障害物を発見するや否や、極端に信のスピードを落とし、自分の技術は不問に付して、「邪だ、邪だ!」と声高に叫んでみせる。これが、“アンチ公明学会員”の実態ではなかろうか。


 それなりの技術と力量を持ったドライバーであれば、悪路や険路であるほど、が燃えてくるものだ。それはあたかも、サーファーが高い波を望むのと一緒だろう。これが煩悩即菩提の原理である。


正義の味方”と聞いて、我々の次にい浮かぶのは(笑)、ウルトラマンや仮面ライダーであろうか。世代によっては赤胴鈴之助とか月光仮面という方もいることだろう。もちろん、ガンダムでも構わない。


 ウルトラマンが野良犬と戦うことがあるだろうか? 地球の平和を守るために遠い星からやってきたウルトラマンが非行少年をやっつけようと頑張ることがあるだろうか? あるわけがない。なぜなら、ウルトラマンが持っている力は、そんな小さなことのために発揮すべき質ではないからだ。


 これは、F1ドライバーが、小学生が乗る自転車と競争することがないのと同じぐらい自明の話だろう。


 ところが、公明党に関しては、そうはいかない学会員が一部にいるようだ。この面々の特徴は、【自分の境涯を問題視しない】という共通項がある。


 或は身はをちねどもをち或ははをちねども身はをちぬ(1181頁)


 この連中は、「身はをちねどもをち」た面々だ。辛うじて学会員であるという「身」は堕ちてない。だが、完全に「が堕ちて」しまっている。一番恐ろしいのは、本人にその自覚が全く欠如していることだ。「堕ちた」にしがみついて、一生懸命に自己正当化を図る。そして、「堕ちた」を基準にして、組織を批判することで、自分を高みに置こうと頑張る。


 彼等の本質は、口に平和を唱えながら、彼等にとっての広宣流布が、公明党の政策変更に過ぎない部分に顕著である。彼等にとっての問題は公明党だけなのだ。その後のことは全く何一つ考えてない。


 彼等は、道路に置かれた障害物を問題視するだけで、目的地が決まってないドライバーそのものだ。余りにもスピードが遅いので、時折、歩行者が同乗するが、これも同じくゴールを見失った人々に過ぎない。


 広宣流布という目的地が明確な池田門下生は、どれほど障害物があろうとも、自分がどこを目指し、どこに向かっているかを失することはないのだ。目的地に向かって少しでも前進しているかどうかが最大の問題であって、それ以外の問題は些事に過ぎない。


 三障四魔に紛動される彼等の宿命転換は、進むわけがない。

2004-05-19

沖縄県議選での妨害


 沖縄では66日の県議選を目前に控え、以下のような汚い手を使っている連中がいる。夜陰に乗じて、コソコソとドブネズミのように動いているのだろう。奴等はお天道様の下では活動できないのだ。沖縄の同志の労をうと、涙を禁じ得ない。しかし、それでも戦いである以上は負けるわけにはいかない。沖縄健児の大勝利を真剣に祈る。


 神崎武法代表らに国民年金保険料の未納期間があった公明党が、沖縄県内の街頭で掲示しているポスターに、「年金未納」と記した紙が多数張られていることが19日、分かった。


f:id:sokaodo:20070513060026p:image


 両党県本部は「何者かが組織的に紙を張って、参院選を妨害しようとしている」として、公選法違反か器物損壌の疑いで告訴、告発の準備を進めている。


 ポスターは、12に行う街頭演説を告知するもので、浜四津敏子参院議員と稲嶺恵一・沖縄県知事の前と写真が掲載されている。神崎代表が自身を含む国会議員13人の未納を公表した翌日の13日ごろから那覇市で張り紙が見つかり、14、15日は市内全域に広がったという。


 浜四津氏は参院選に比例代表で立候補を予定。稲嶺知事は一昨年の知事選で、自民公明党などの推薦で再選された。知事は1973年に一時、未加入期間があったことを明らかにしている。


東京新聞 2004-05-19付夕刊】

「青茂れる桜井の大楠公」


【作詞:落合直文】


 青葉茂れる桜井の

 里のわたりの夕まぐれ

 木の下陰に駒とめて

 世の行く末をつくづくと

 忍ぶ鎧の袖の上に

 散るは涙かはた露か


 正成涙を打ち払い

 我子正行呼び寄せて

 父は兵庫に赴かん

 彼方の浦にて討死せん

 いましはここ迄来れども

 とくとく帰れ故郷へ


 父上いかにのたもうも

 見捨てまつりてわれ一人

 いかで帰らん帰られん

 此正行は年こそは

 未だ若けれ諸共に

 御供仕えん死出の旅


 いましをここより帰さんは

 わが私の為ならず

 己れ討死為さんには

 世は尊氏の儘ならん

 早く生い立ち大君に

 仕えまつれよ国の為

 仕えまつれよ国の為


【注】「青葉茂れる桜井の」(大楠公)の歌詞は、正式には上のとおりですが、学会のなかでは慣習的に2番の「いまし」は「汝(なんじ)」、「来れ(きつれ)」は「来れ(きたれ)」、4番の「いまし」は「汝(なんじ)」、「わが私(わたくし)の」は「われ私(わたくし)の」と歌われています。 「へいへいのホームページ」より。


「父上いかにのたもうも」のくだりになると、戸田先生は激越し、「そんな目では駄目だ、俺の目を見ろ!」と叫ばれたエピソードはあまりにも有。我等は「正行(まさつら)」となって仇を討つのみ。

魅力ある人間王者に


 ある人は言っていた。「近年の学会に対する迫害も、狂気のごとくであった」と。私も、襲いかかる嵐と怒涛のなかで、広宣流布師匠である戸田先生を厳然とお守りした。

 これは私の最高の誉れであり、永遠不滅の歴史である。

 皆さまもまた、「あの人がいれば、いくら風のざわめきがあったとしても、雄渾(ゆうこん)なる勇気がわいてくる」と我が同志からわれる存在であっていただきたい。そして、広布の組織で光るとともに、その福徳の光で社会を大きく包み、照らしていく「魅力ある人間王者」となっていただきたい。


九州沖縄合同会議 1998-03-03 沖縄研修道場


 あの剛毅な戸田先生が借金取りを前に土下座をされたことがあったという。池田先生が22歳前後の頃である。給料は遅配。社員は次々と去り、池田先生はコートもないまま冬を過ごした。先生はコートを質に入れ、戸田先生の誕生日プレゼントのお酒を求めた。


 土下座する師匠を皆が見て見ぬ振りをした。「恥ずかしい」とった浅き弟子もいたに違いない。若き池田先生は握り拳に力を込めてで誓った。「この師匠を必ずや日本一の、否、世界一の師匠にしてみせる!」と。


 池田先生は一人、阿修羅となって戦い抜いた。全身全霊を傾けて師匠を守り切った。うように学会活動ができなくても、不平不満一つこぼさなかった。そして、遂に事上の借財を全て清算し、戸田先生は第2代会長に推戴される。


 池田先生は実に、入会してからわずか3〜4年後のことである。


 その厳粛なる“冬の歴史”から見れば、未納問題など「風のざわめき」と言えるだろう。


 学会の発展は、ある面から見ると、代々の会長の人間的魅力によって成し遂げられたと言ってよい。信仰の光によって自体顕照された人格が、民衆のをつかんで放さなかった。庶民は馬鹿ではない。庶民は嘘を鋭く見抜く。その庶民からの圧倒的な支持があったが故に、創価学会は世界188ヶ国にまで広がり、後継者が陸続と育ちゆく磐石な組織となった。


 どんなに深い闇があったとしても、一つの灯台があれば希望の光を送ることができる。砂漠のような社会であっても、一つの花が開けば瑞々しい香気を放つ。


 あとは、自分がそうなるのか、それとも、そのような人物が現れるのを、指をくわえて待っているのか、ということになる。


 昨日の本部幹部会衛星中継にて、どんよりとした空気は一掃された。先生の一の凄まじさをい知らされた。


 それに応じるかのように、アメリカSGI芸術部による歌と演奏、スパニッシュ・ダンスが披露された。就中(なかんずく)、同志のを打ったのは、アンジェラ・オリベラさんのダンスだった(詳細は聖教新聞 2004-05-19付)。


 体力の消耗が激しく30代半ばまでが花とされるスパニッシュ・ダンス。アンジェラさんは既に63歳。それでいて、少女のような可憐さと、20代の華やかさが輝きわたっていた。慢関節リウマチを乗り越え、逝去されたご主人のいを胸に抱いて踊る姿には、万人が涙を禁じ得ない何かがあった。アメリカ芸術部が中となって創設された「平和のための芸術家委員会(ICAP)」から、先生・奥様を顕彰する際にも、ひざまずいて賞状を差し出し、手を合わせて謝を捧げられていた。まるで、天使が舞い降りたかの如き美しさだった。


 先生は、お礼にと「大楠公」をピアノ演奏。劇的な本幹となった。


 スピーチの最中、先生は、何度も何度も「やろう!」と場内に呼び掛けられる。「勝利して万歳で集おう!」とも。

2004-05-17

社会保険庁が個人情報漏らす


 坂口厚労相は16日、奈良市で開かれた講演会で、国会議員の国民年金未加入・保険料未納問題で、「(社会保険庁が)個人情報を外部に流したことになり、責任は重大。確認して厳然と処分し、責任を明確化したい」と述べ、情報流出の調査や関係者の処分を行う考えを明らかにした。


 坂口厚労相は、問題の発端となった女優の江角マキコさんの未加入問題について「(社会保険庁は)『あなた払ってませんよ』と江角さんに先に言わないといけないのに、先にマスコミに流れた」とし、「国会議員の中にも、本人が知らない間に情報がマスコミに流れた人がいる」とした。


 未加入・未納問題の原因の一つに1986年の基礎年金一元化などの制度変更をあげ、「議員に言ってあげないといけないのに、役所の手抜かりでしなかった。配慮が足りなかった。間違いが起こらないような態勢にしたい」と述べた。


※当然だ。社会保険庁目黒社会保険事務所の相談室付係長が国家公務員でありながら、赤旗号外を配布し、逮捕された事件があったぐらいだから、個人情報を流す職員がいても不議ではない。


【「嘘つきの悲劇」より】

大いなる苦難なくして大いなる人生はない


 なき人生などあり得ない。大いなるなくして、大いなる人生もない。順調だけの歩みで、後世に残る不滅の事を成し遂げた人は一人もいない。

 偉大なる仕事をなす人には、人一倍、大きな悩があり労がある。それは避けられない人生の鉄則である。

 ゆえに必要なのは、逆境をも財産と変えていける不屈の魂である。そして、何があろうとも、自ら決めた使命の場で、“本物”を徹底して追及しゆく揺るぎなき信である。


【第2回全国青年部幹部会 1988-03-12 創価文化会館


 師の指導の受け止め方に二通りあり。


 一つは、指導を真っ直ぐに受け止め、師の言葉に託された精神を求める人。もう一つは、“自分の言いたいこと”を述べるために、師の指導を利用する人。後者は、自分の見を権威づけるために、師の言葉を“引用”しているだけに過ぎない。学会員でありながら、公明党批判を展開している連中の全ては、これに当てはまる。


 安易な批判や、情に振り回されるようなことがあれば、それは“膝を屈した”姿であり、縁に紛動されていると言わざるを得ない。


「偉大なる仕事をなす人」は「大いなる」を引き受けることができる人である。


 未納問題がややこしいのは、明らかな悪事ではないことに起因しているとわれる。何となくスッキリしないモヤモヤした情を引きずっている人が多い。我々は、反逆者には強いが(笑)、中途半端な問題には弱いようだ。要は、明らかな痛みではなく、“かゆみ”に近い覚のような気がする。


 第五の巻に云く「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競い起る」(1087頁)


紛然として」とは、誤解している方が多いが、「猛然として」という味ではなく、「紛(まぎ)らわしい」形で競い起こってくるとの御指南。今回の問題がまさに当てはまる。


 大聖人は更に続けて、


 乃至随う可らず畏(おそ)る可らず之に随えば将(まさ)に人をして悪道に向わしむ之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云、此の釈は日蓮が身に当るのみならず門家の明鏡なり謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ(同頁)


 今、公明党批判をする者は、紛らわしい姿で現れたに随ってしまっていることを自覚せよ。「未来の資糧とせよ」との仰せを軽々しく考えてはいけない。


 何度でも書くが、我々は同志である。


 ある時は、理実現のために瞳を輝かせながら、またある時は、握り拳に力を込めながら、そしてある時は、一筋の涙を流しながら、師の下(もと)で、広布実現を誓い合った同志ではないか。


 折りしも、『新・人間革命』「開花」の章では、世界ジャンボリーに参加していた6000人のボーイスカウトが、総本山大石寺に避する模様が描かれている。この章では、一貫して地域広布のあり方を先生は教えて下さっている。そして、予だにしなかったことが起きた場合に、どう振る舞うのか――そこに人間の光があり、広宣流布のリーダーの本領が発揮されることを教えて下さっている。


 現実から目を背けなければ、先生の人生は既に“晩年”といっていいだろう。釈尊でいえば、法華経本門を説いていた時に当る。師匠が、生命力を振り絞るようにして全魂の指揮を執って下さっているこの時に、を微塵でも揺らすような弟子がいるとすれば、これほど嘆かわしいことはない。


 今、この時に、雄叫(おたけ)びを挙げて、猛然と闘争し抜く青年こそ、本物の池田門下生であり、革命児である。

評価できる政府の改革案


支え手減少を巧みに調整 積立金活用し負担軽減


【元社会保障制度審議会委員、元日本経済新聞論説委員・阿部恂氏】


 今回の年金改革について、不勉強なマスコミが「改革先送り」「数字合わせ」などと悪口を書いていますが、私はとても良い改革案だとっています。改革の中を担った公明党の皆さんは疑を抱くのでなく、「良い改革案だ」と、胸を張って言っていただきたいといます。



 年金は、老後の所得について国が国民に約束した契約です。この約束のもとで年金を頼りに生活するお年寄りが多数存在するわけですから、突然に給付を大幅にカットするというような激変を伴う改革はできません。改革は、ゆっくり少しずつ進めていかないといけません。


 今回の改革のポイントは、急速に進む少子高齢化の中で、減少していく支え手の負担が過重にならないように給付の伸びを抑えることです。そこで今回の改革では、給付の伸びを自動的に調整する「マクロ経済スライド」という仕組みを新たに盛り込みました。


 これは、年金額を算定する際に賃金や物価の伸び率から、働き手の減少や平均余命の延び(スライド調整率、当面平均年0.9%程度)を差し引くことで給付の伸びを抑える仕組みです。例えば新規の年金額を算定する場合は、賃金が2%上がっていても、年金額は0.9%を引いた1.1%分だけの上乗せとさせていただくのです。こうした、年金の支え手が減少する影響を、給付の抑制に巧みに反映させる仕組みです。


 実際、現行の給付水準を維持すると、2025年の厚生年金の支出合計は年間約53兆円に上ると試算されていますが、この調整方式を導入した場合は46兆円と、約7兆円が抑制されます。年金は巨大な制度ですから、今から調整していけば、少しの変化でも長い間でかなりの額を抑えることができるのです。



 少子高齢化は、日本だけでなく、先進諸国に共通する課題です。各国とも“年金の危機”ともいえるこの問題をどう乗り越えるかという、いわば改革の「国際レース」を展開していると言っていいでしょう。


 スウェーデンやドイツは「高齢化」に重点を置き、平均余命の延びの影響を考慮した改革を進めています。これに対し、日本は「少子化」に重点を置いて、支え手の減少の影響を吸収する「マクロ経済スライド」の導入でレースに乗り込んだといえます。現在は、スウェーデンの改革がやや先行し、日本とドイツが続き、半歩遅れでイギリス、さらにフランスが追い、イタリアは下位に甘んじている、といった状況でしょう。


 私は、このレースにおいて日本の改革は、少なくとも決勝までは勝ち進んだ、というじを持っています。案外、他の国が日本の方式を参考にする時代がくるかもしれないとっています。



 給付と負担の水準については、まず給付はさまざまな議論を経て、厚生年金では受給開始時には、現役世代の平均手取り収入の50%以上(モデル世帯)は確保しましょうということに決まりました。保険料率は、その給付を確保するためにどうするかを議論して、今後徐々に引き上げて2017年には18.3%(労使で折半)で固定することになったわけです。


 欧州諸国では既に、保険料は20%前後となっていますが、日本では20年後、30年後でも18.3%で抑えることができた。これは、140兆円を超える年金積立金を取り崩して将来の給付に充てるという主張が盛り込まれたから可能になったといえます。



 民主党も、年金改革でいろんな主張をしています。例えば、全国民に共通の最低保障年金を創設し、財源は年金目的消費税3%の増税で賄うという主張がありました。しかし、3%では到底賄いきれるものではありません。また、「最低の生活を保障するのだから税でやる」と言いますが、所得保障と生活保障は違うわけで、おかしな形で税を年金に入れると、「第二の生活保護」になってしまう恐れもあります。


 また、国民年金を含めた年金の一元化を主張していますが、自営者の所得をどう正確に把握するかなど、現実は容易なことではありません。



 それに比べ、政府案は、現役世代の所得に比べて50%以上の給付を保障し、保険料には上限を設定した。財源も国庫負担割合の2分の1への引き上げに道筋をつけるとともに、積立金の取り崩しで少子高齢化の波を乗り切る。給付水準を自動的に調整する仕組みも盛り込まれているのです。


 中途半端とか改革先送りとか言いますが、そんなことは決してありません。ガラガラポンと、新しい制度にしなければ改革といえない、というのは誤りであり、マスコミの悪いクセです。


【都本部 2004-05-17/公明新聞 2004-05-19付】

不満


 不満があったとしても

  矛盾があったとしても

   それをただ黙々と

    結果として解決していくのが

     真の前衛

  獅子の仕事に不平はない

   広宣流布は獅子の作


【『友へ贈る』 1978-05発行】


 前衛とは、前方の部隊のことである。つまり、最前線で敵と戦う位置にいる人だ。バレーボールを像するとわかりやすいだろう。


 不平不満を見として述べるのは構わない。ただ、言うべき場所を弁えるべきだろう。この程度の節度すら保てないような人は、自由と放縦を履き違えているのだ。


 好き勝手なことを言って、多数決に持って行きたがる人物も時折、見掛けるが、これもどうかとう。こういう人物は、民主主義=多数決だとい込んでる節が見受けられる。


 私は20数年以上にわたって、休みなく活動してきたが、いまだかつて多数決で物事を決めた現場を見たことがない。それどころか、多数決を戒められたことが何度かあった。


 小説『人間革命』で、青年部が何かを多数決で決めたことがあった。これを戸田先生が耳にした時、「青年部も、随分と惰弱になったな」と言われるシーンがある。


 法による民主主義の考え方は、日興遺戒置文にこう示されている。


一、時の貫首為りと雖も法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事(1618頁)


一、衆議為りと雖も法に相違有らば貫首之を摧(くじ)く可き事(同頁)


 西洋の教育を受けてきていると、中々理解しいとう。だが、下の御文に関して言えば、登山の場合を考えると納得できる。


 度の高い山になると、パーティーを組んで登る。エベレストなどの8000m級ともなると、山頂を極めることができる人数は限られる。こうした場合、コース取りや、進むか退くか、といった判断を求められた時、多数決は採用しない。リーダーが全てを決め、全員がそれに従う。これがルールとなっている。これは、多数決で決めて、その選択が失敗すると混乱を招くからである。更に、力や経験がある人と、そうではない人が同じ1票となることを避けるため。飛行機や船などでも同じやり方のようだ。


 猛々しい批判を繰り返す連中が、どこか稚拙にじてしまうのは、登山に例えれば、多数決で進路を決めて、それが失敗だったとわかるや否や、「だから、あの時、別ルートを取るべきだと言ったじゃないか!」「今後は、君等の見は聞くに値しない」などとケチをつける少数派の姿と変わりがないからだろう。


 こういう面々が、公明党に無謬(むびゅう)を求めるのは、依存の裏返しであり、単なる甘えであると断じておく。


 物事の捉え方に主観と客観があるが、依正不二の原理とは、徹底して主観に生きることによって、客観世界をも変えゆく方程式であると確信する。自分の生きざまや、自分の信を論じることなくして、周囲の環境を嘆くところに、彼等の信の弱さが露呈している。


 我々「真の前衛」は、少々の陣列の乱れなどに介することもなく、堂々と戦って参りたい。


 今、一頭の獅子となって、猛獣のような生命力を発揮しているリーダーが何人いるか。同志が抱く不安にを痛めながらも、晴れやかな表情で、進むべき方向を示している人が何人いるか。


 法主が悩乱する事態をくぐり抜けて来た我々である。今更、何を恐れる必要があろう。


 地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云(231頁)


 公明批判を繰り返す愚か者どもの、「現在の因」をう。厳しき「未来の果」があることは歴然。


 世論は、未納議員に対する情が昂(たか)ぶり、納付手続きの問題と、法案の中身をゴチャゴチャにしている昨今。マスコミはただ掻き回して騒ぐだけ。

2004-05-16

人に左右されるな


 何をするにも、まず自分が立ち上がることだ。人を頼んではいけない。人がこうだというのに左右されるのは随他の精神である。青年には随自意の精神が大事である。

 人はどうあろうとも、学会伝統の精神はこうであるべきだ、と主張し実践していくのが信である。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 各地で開催されている会合で、12日に明らかとなった公明党議員による年金未納・未払い問題の説明が行われている。地域によっては、怒りの余り罵や怒号が飛び交った地域もあったと聞く。


 ここ数日間にわたって、私は私の責任から、やむにやまれぬいで、様々ないと決を綴ってきた。実はその間、聖教紙上に今回の問題に対するメッセージが掲載されてないことに、憤懣やる方ない情を抱いていた。


「真っ先に紙上座談会で取り上げて、会員の不安を払拭すべきではないのか?」「社説とまではいかないにせよ、せめて『字の言』などで、再びの団結を鼓舞すべきではないのか?」「年老いた上層部が何と言おうと、『私に書かせて下さい!』と、ペンを握る若手記者はいないのか?」等々。


 だが、私はこの指導を拝して、自分の姿勢が間違っていたことに気づいた。私の姿勢は、未納議員に怒りの矛先を向ける学会員と何ら変わりがない。聖教新聞ではない。自分だ。未納議員でもない。自分である。


 先生は「わが友に贈る」で、明確な指針を示して下さっている。


 我らの大願は

 広宣流布!

 我らの団結は

 異体同

 悠然と進め!


聖教新聞 2004-05-14付】


「強盛の信 弥弥(いよいよ)

 悦びをなすべし」

 信仰は無限の希望。

 強く楽しく

 すべてを勝ち越えよ!


聖教新聞 2004-05-15付】


 青年よ

 あらゆる風波(ふうは)を

 勝利の力に!

 智と勇気で

 大胆に攻勢を!


聖教新聞 2004-05-16付】


 師弟の道を歩んでいると自負するのであれば、どれほど困な状況であろうと、師匠が放つ一言のメッセージがあれば、十分戦ってゆけるはずだ。


 未納議員は敵なのか? 断じて、そんなことはない。味方であり、同志である。そこを履き違えて、“小さな正義”にしがみついてはいけない。我等が目指す目標は「1000万」である。この実現こそが大問題であって、それ以外は枝葉末節の問題と言い切っておきたい。


 先生が教えて下さった内村鑑三の言葉を記しておく。


 内村鑑三は、「日本人は浅い」と嘆いた。

「日本人は浅い民である。彼らは、喜ぶにも浅い。怒(いか)るにも浅い」

「彼らは『深く静かに怒る』ことができない。まことに彼らは、『永久に深遠(しんえん)に怒る』ことが、いかに正しく崇高なことかをさえ知らない。ゆえに、彼らの反対は恐ろしくない。彼らが怒った時には、怒らしておけば、それでよいのである。電気ウナギが貯めている電気を放散すれば、そのあとは無害になるように、日本人は怒るだけ怒れば、その後は平静の人となるのである」

「これは実に嘆かわしいことである」

「この浅く小さな国民からは『偉大』と呼ぶべきものは、起こってこない」

「(深く怒らない者には、大詩人の)ダンテも、ミルトンも、ワーズワースも、わからない」

大正13年410日『聖書之研究』から。表記等は、わかりやすく現代文に改めた)


 この言葉を引用され、次のように指導されている。


 深く、徹底的に怒らなければ、「変革」はありえない。日本に「新世紀」は来ない。権力によって牙を抜かれ、飼いならされた家畜のような民衆であってはならない。そして法の目から見るとき、「敵」と戦えない人間は「敵」なのである。


【2度全国総県長会議へのメッセージ 1998-02-04 創価文化会館


 戦うべき相手を誤るな。

2004-05-15

有徳王の実践


 今、打ち出しを待つような幹部がいるとすれば、それは臆病者だ。ましてや、次の本部幹部会衛星中継を待ち望むような惰弱な姿勢であってはいけない。


 今こそ、「一人立つ精神」と「随自意」の信が求められる。言われてから、のこのこと動くような幹部は官僚だ。自らの発と真剣と誠実で勝負すべきだ。


 私の胸中には、有徳王の姿が去来する。


 爾(そ)の時に多く破戒の比丘有り是の説を作(な)すを聞きて皆悪を生じ刀杖を執持し是の法師を逼(せ)む、是の時の国王けて有徳と曰う是の事を聞き已(おわ)つて護法の為の故に即便(すなわ)ち説法者の所に往至して是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す、爾の時に説法者厄害を免ることを得たり王爾の時に於て身に刀剣鉾槊(むさく)の瘡(きず)を被り体に完(まった)き処は芥子(けし)の如き許(ばか)りも無し、爾の時に覚徳尋(つ)いで王を讃(ほ)めて言く、善きかな善きかな王今真に是れ正法を護る者なり当来の世に此の身当(まさ)に無量の法器と為るべし(28頁)


 覚徳比丘が刀剣を持った敵に囲まれ、を受ける。それを聞いた有徳王は直ちに駆け付け、身体を張って護る。「極めて共に戦闘す」とは師弟共戦以外の何物でもない。覚徳比丘はを逃れる。戦闘が幕を下ろした時、有徳王の身体は無数の傷で血まみれになっていた。


 戸田先生をお守りした池田先生を彷彿(ほうふつ)とさせる御文である。


 有徳王は打ち出しを待ってはいなかった。電光石火で行動した。傷つくことを恐れずに。そして、この一事によって、有徳王の身は「無量の法器」となることを約束されたのだ。


 生命力を満々と漲(みなぎ)らせ、風を起こそう!

2004-05-14

攻守


 不安をじると守りになる。今は、不安を転じて危機を持つべき時だ。摂折二門というのは、攻守を示したものと考えることもできよう。


 今は、攻める時だ。


 今日一日で、大きなニュースが駆け巡った。小泉首相年金未加入時期が判明。菅代表が失脚した民主党は、小沢党首で一致。522日には、小泉首相の北鮮訪問が予定されている等々。


 先ほど、ブロック座談会を終えてきた。公明党の年金未納問題について語ること1時間。集いし10の方々に深く楔(くさび)を打ち込む。毅然として、障を断ち切ってみせるという姿勢で臨んだ。皆、笑顔。皆、決座談会であった。我がブロックは守り切った。


 疲労困憊(こんぱい)――。しかし、充実に満つ。


創価1000万」という歴史が築かれようとしている。いつの日か、先生は『新・人間革命』に書いて下さることだろう。その筋書きを、我々が今作っていることをしっかりと自覚したい。


すぐに立て」の指導を拝す。何度も何度も。


「“過去に一度でも年金を支払っていなかったことがある議員は、年金法案を語る資格はない”という論理がまかり通るのであれば、“過去に一度でも交通違反をしたことのある議員は、交通法規法案について語る資格はない”ということになる」という指摘もある。


 尚、未納問題については、以下のサイトが詳しい。

  • 嘘つきの悲劇 【現在閉鎖】

 同サイトのex氏は社会保険庁の責任をこう指摘している。


 通常、国民年金への滞納を起こした場合、督促状が届く。しかし、国会議員は特権でこの督促状から除外されているというのである。国会議員には督促状が届かない。

 これは社会保険庁の未納者に対する徴収方法にも問題があるようだ。(中略)

 国民年金の未納者でも以下は訪問徴収から除外されている。

 医者、弁護士、政治家暴力団とその関係者。


 閣僚になった時期の未納が目立っているが、これは、大臣になった場合、身分が「議員」から「国家公務員」となってしまうため。

「自分」中心ではなく「法」が中心


 言ってみれば、修行の完成に向かって、どこまでも、どこまでも自己に挑戦していく――その真面目謙虚な精進行のなかに、自然の内に自分自身をコントロールできる徳が備わってくると説いたのが、この経文である。

 道修行は「法」が中である。「自分」が中ではない。「法」が師である。わがままな自分の「」を師としてはならない。

 この信の肝要を見失わせる最も恐ろしい障害の一つが「慢」である。

 慢の人はが定まらない。落ち着きなく常に縁に紛動されては、あちらこちらとが揺れ動いている。ゆえに、すぐ「威張る」「疑いの」「見栄の」「逃避の」等々が出てきて、ぐるぐると振り回されている。

 まさに“を師”とした状態である。振り回されたあげく、最後は退転のコースに入ってしまうことがあまりにも多い。

 慢の人の根底には、自己の才知や学歴・社会的地位、また自分流の考え方等への自負と執着が多々ある。信と全く関係のないそうした小事にとらわれて、根本の信を失うことは愚かである。また誤りである。

 経文にあったように、人間の「」とはある味で、“凶暴な象”のようなものである。その荒れ狂う動物的な自己中をどう律し、どう正しき「法」に則ってコントロールし、開花させていくか。ここに「信」の必要なゆえんがある。また、正しき方向を指し示す信の「指導」と、信の「組織」の重要がある。

 これまでの退転者・反逆者は皆、自らの悪を“師”とし、正しき指導にもを傾けられなくなってしまった。信とは、この「悪との戦い」である。中でも、自らの「慢との戦い」である。とくに幹部の皆さまは、この一点を改めてよくよく銘記していただきたい。


【第2回本部幹部会 1988-03-04 創価文化会館


 六波羅蜜経の巻第七にある「の師とはなるともを師とせざれ」(892/1025/1088頁)についての指導。


 公明党議員の年金未納問題でを揺らす面々は、この指導を丹に拝すべきだろう。


 以下、動揺する人々の疑問を定してみた(笑)。




Q1「信じていた議員に裏切られた」

公明党議員に対する過度の期待は、依存につながりかねない。多少、議員に裏切られても大丈夫。御本尊は裏切らないから。


Q2「自分のやってきたことが無駄になった」「自分の信用をも失った」

我々の闘争は単なる政治活動の次元ではない。広宣流布の闘争であることを深く自覚すべきだ。今こそ、支援団体としての責任を全うすべき時ではないのか? 本来であれば、議員が直接、叱責を受けるべきことだ。しかし、私は甘んじて、公明党への情を引き受けよう。なぜなら、私は党を育てる立場にいるからだ。

マンの真価は、売り上げを伸ばすことではなく、クレーム処理で発揮されると言われる。一つ一つの積み重ねが、信用につながるのは当然だが、信用を失った時こそ、信頼回復のチャンスでもある。要は、誠が試されているのだ。

また、自分の人間で勝負していれば、信用を失うことはないはずだ。


Q3「未納者は、候補として出すな」

じゃあ、誰を出せばいいの? 年金さえ払っていれば、誰でもいいの? “候補者はこうあるべきだ”との理は堅持すべきこととう。だが、一つの失敗があったからといって、何を言っても構わないとい込むのはい上がりではないか? 年金未納は、確かにまずいことだが、犯罪ではない。エラー(過失)を責め立てる気にはなれない。


Q4「1000万の戦いに水を差した」

そりゃ、あなたの問題よ。そううのであれば、やめればいい。


Q5「今後の対話は具体的にどうすればいいのでしょうか?」

俺の眼を見ろ、何も言うな。「未納は、イカンザキ!」と10回叫ぶ。




 昨夜の会合にて、質疑応答あり。未納議員を責め立てるも出た。この言葉のどこに師弟の精神があるというのだ!


 同じ信仰を持つ同志である。未納議員がどれほどしんでいるか容易に像がつくではないか。ましてや、今回の参院選候補の2に至っては、斬って済むものなら、腹を斬りたい境だろう。


 今、問われているのは、「創価1000万」の誓いが本物かどうかという一点である。


“電光石火”の週末にできるかどうかが勝負である。躊躇している場合ではない。


 大白牛車に打乗つて権門をかつぱと破りかしこへおしかけここへおしよせ(502頁)


 権門(ごんもん)とは、今の迷いであり、不安であり、不信である。大白牛車(だいびゃくごしゃ)とは、超デラックスなスーパーカーえばよし。これは御本尊を示す。今こそ、怒涛の題目を唱えに唱え抜き、私は軽自動車で友の下(もと)へ走る。


「我が青年部が、本門の弟子達が、いよいよ“1000万”の決定打を放つであろう!」という師の眼差しをじてならない。

2004-05-13

若き日の闘争に学ぶ 「大阪の戦い」


妬みの勢力の陰謀


 5月15日の朝、大阪支部の会員6人が、暴行容疑、傷害容疑で、大阪府警に逮捕された。


 その日の一般紙は、「暴力で信者獲得 6逮捕状 創価学会員関西本部」と社会面にトップ記事で報道。顔写真まで掲載した新聞もあった。


 しかし、報道のような暴力沙汰など微塵もなかった。まさしく、学会の前進を妬む勢力の陰謀であった。学会を弾圧する手がかりをつかもうという権力側の図がそこにはあった。


 興味本位のマスコミの報道。事実とは逆の無責任な学会批判の記事が、事実を知らされていない市民に誤った認識を与えたのである。


「全身を耳にしてあらゆる情報をもとめ、子細に検討して早急に対応策を立てねば……」(小説『人間革命』)。


 誉会長は深夜、関西本部の御本尊に唱題。夜が白々と明けるころ、誉会長は模造紙を広げ、一気に筆で書き下ろした――「電光石火」。そして、矢継ぎ早に手を打っていった。


「電光石火」


●証言(栗原明子さん=当時、女子部部隊長)


「暴力宗教 創価学会――6人逮捕」との記事が顔写真入りで掲載されました。


 その時の先生の行動が忘れられません。先生は関西本部の畳に大きな紙を置き、すごい勢いで「電光石火」と筆で書かれたのです。


 それを見ていた私たちは、「いよいよ権力のとの闘いが始まる」といました。皆、使命に燃えていました。「幸せになるための信」ですが、「悪と戦う信に立とう」と。「功徳を受ける」というより、「先生とともに戦おう」と。


「反転攻勢――攻めて、攻めて、攻めまくる」。そういう言葉の「電光石火」だと私たちは奮い立ったのです。


「世間で暴力宗教といわれたら、こう言うのです」と、先生は具体的な戦い方を教えてくださいました。「『嘘か本当か、私たちの座談会に来て見てください』と言うのです」と。


 その反転攻勢の戦いが、未曽有の金字を築く戦いにつながったんです。


怖じ気づいているのは君です


 真実をねじ曲げた学会批判の記事に、動揺する新入会者もいた。


 早朝の御書講義のあと、誉会長は各地域の首脳幹部に聞いた。「どうですか」と。「非常に影響があります。やめる人が出てきました」。


 次の幹部に聞いた。「やっぱり影響があります」。また次の幹部に聞いた。「だいぶ、怖じ気づいています」と。


 その時であった。「何を言っているのですか。怖じ気づいているのは、あなたです!」。誉会長の凛とした声が響いた。


 誉会長は最後に、もう一人に聞いた。「配ございません!」。その答えを聞いて誉会長は言った。「そうです。『日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず』(1282頁)。電光石火、対処していくのです」。


【『大白蓮華2003-03月号】


《スイング・ウィザード氏の投稿》

逆境に挑戦


 所詮、“やりやすい”という世界では、改革も進歩もあるはずがない。“やりにくい”、“やりずらくてしようがない”ことがいっぱいある。だから革命をしていくんだ。逆境に挑戦するんだ――こういう決で強く生きる人が尊いのである。


【『創価学会指導集』 1976年発行】


 大事な時なので、メールマガジンに先行して書いておきたい。


 今こそ、信を奮い起こして、と見抜き、打ち破っていく時である。本格的な闘争の段階に入ったことを、むしろ喜び合いたい。


 此の法門を申すには必ず出来(しゅったい)すべし競はずは正法と知るべからず(1087頁)


 しをのひるとみつと月の出づるといると夏と秋と冬と春とのさかひには必ず相違する事あり凡夫のになる又かくのごとし、必ず三障四魔と申す障(さわり)いできたれば賢者はよろこび愚者は退くこれなり(1091頁)


 御義口伝に云く妙法蓮華経を安楽に行ぜむ事末法に於て今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに来(きた)るを以て安楽と得(こころう)可きなり(750頁)


 誰もが怒り頭であるとう。ましてや、私のように短気な面々は、「神崎をこの手に掛けてやりたい!」とを荒げていてもおかしくない。だが、今、公明党を批判するのは一番、簡単だ。その安易な発言が団結を乱し、狂わせてゆく。


 私は、こんなことぐらいでを揺らすような“誓い”を立てた覚えはない。動揺しているメンバーがいるとすれば、それは決が浅かった証拠に他ならない。


 我が創価学会の歴史は、誰もが不可能とえる状況の中で、逆境を打ち破って築かれてきた。その先頭を走り抜いてきたのが池田先生である。


 さあ今こそ、先生の後に続く時だ。真の池田門下生となる絶好のチャンスである。勇んで後輩と語り、友の下(もと)へ走る時だ。


 配して下さる友人も多いことだろう。私はからお詫びをし、怒りを露(あら)わにし、「未納はイカンザキ!」と叫ぶことだろう。率直な語らいを掛けて参りたい。信用を落とした今こそ、今まで以上に強い信頼を勝ち取る好機と捉えたい。


“毒を変じて薬と為す”ことができるかどうかは、ひとえに我々の信にかかっている。


 今に始めざる御志言(ことば)を以て宣べがたし何(いず)れの日を期してか対面を遂げ中の朦朧(もうろう)を申し披(ひらかん)や(987頁)


 胸襟を開いて“中のモヤモヤしたもの”を語りに語り抜いてゆこう。動いた分だけ風は起こる。全軍が瞬時に行動を起こせば、逆風も恐れるに足らぬ。


「わかっているようでわかってないこと」に関連指導を寄せて頂いた。謝に堪えない。

2004-05-12

すぐに立て


 なんという不屈さか!

 生きねばならなかった。勝たねばならなかった。人間、なせばならぬことならば、「そのうち始めよう」などと考えること自体、すでに後(おく)れをとっている。すぐに立て! 今、一歩を始めよ!


【「SGI会長の地球紀行 我がふるさとは世界」第21回 関東/育つ力 伸びゆく力 聖教新聞 2004-05-09付】


 師匠の大号令である。この呼びかけに応じることのできる歓喜は計り知れない。やるべきことを明日に延ばすな。今日、できることを無限に開拓せよ、との呼吸だ。


 闘争のゴールと定めた日が、自分の命日だと考えれば、今日の動きは明確に異なってくるはずだ。なさねばならぬことも自ずから見えてくることだろう。誰かのためではなく、組織のためでもなく、自分の人生を光り輝かせるために、懸命に生きることが重要なのだ。


 こうなれば、いかなる無駄も空転も許されない。人生とは価値の異であるならば、無駄や空転が死を早める。


 皆が頑張っていることは、誰よりも先生がご存じであろう。それでも、「立て!」と叫ばれる先生のう。


 自分の100%を出し切って、顔色が変わるような勢いでやっているのか? 誰よりも厳しいところで戦っているといえるのか? 胸を張って「必ず勝ちます!」と言える今日の闘争であったのか?


 まだまだ、どこかに余裕がある。日曜日はあと8回しかない。一を変えて御本尊に向かうのみ。


 ハワイで2000人の大総会(聖教新聞 2004-05-11付)。全活動家の3分の2が集う大結集。5.3までの1ヶ月間で成し遂げた折伏は、目標の300世帯を大きく上回り、実に350世帯を成し遂げたという。私が知る17歳の乙女も厳然と結果を出した。


 世界の同志も真剣だ。また、世界の同志が、「1000万」の闘争に参加できることを羨望の眼差しで見つめているであろう。


 今日は、大聖人が伊豆へ流罪された日。弘長元年5月12日。大聖人は数えで御年、39歳。現在の男子部の最年長のメンバーとほぼ同い年。

わかっているようでわかってないこと


 何事であれ、物事を正しく把握し、究明しようとする深き探求が大切である。特にリーダーには不可欠の要件といってよい。

 私達の周りには、“わかっているようでわかってない”ことが外と多いものだ。(中略)

 中でも最も恐ろしいのは、信が“わかっているようでわかってない”ことである。

 たとえ一時は、御本尊の功徳に歓喜し、確信をつかんだようにえても、時とともに惰に流され、純粋な信を失っていく。また、幹部として活躍しているようにみえても、いつの間にか、「慢」と「邪」を起こし、清らかな信の世界である学会を見下し、威張り散らすようになる。こうした姿こそ、まさに信が“わかっているようで”、全然“わかってない”者なのである。


【第2回本部幹部会 1988-03-04 創価文化会館


 物事を曖昧にしてはいけないとの指導。


 どの幹部もそれなりに戦ってきたからこそ、現在の役職に就いている。これは間違いない。だが、現在も戦っているかどうかは別問題。


 社会も大きく変わり、組織が大きくなるにつれ、降格人事は原則的になくなった。これが、遺物のような幹部の温床となってしまっている現実は確かにあろう。しかし、そんな見方をしているだけでは、自分の闘争の的すら見失ってしまう。


 結局、自分がどうか、である。周囲のメンバーがうように動かない――そんないがある幹部は要注だ。役職が重荷となっている人も同様である。


 答えはこの指導に明確だ。「功徳に歓喜し」た姿と、「確信」と、「純粋な信」で引っ張ってゆけばいいだけの話だ。それなくしては、一切が“策”となる。


 役職によって自分が輝いているのか、それとも、自分が役職を光らせているのか――昔、よく先輩から教えられた指導である。


 今日、公明党議員による年金の未納・未加入が発覚。神崎代表以下、13。問題は問題として厳正なる処分を望むが、我が信の闘争におけるの所為と見極めたい。どんな逆風があろうと、状況が悪くなろうと、師匠との誓いを果たしてみせるとも新た。昭和31年大阪参院選の最中、空前絶後の1万1111世帯折伏を成し遂げた際には、逮捕者が出たことをい出す。


 大風吹けば求羅は倍増するなり(1136頁)


 伊豆流罪の日に障が競い起こるのも、また深い味があることを確信する。今こそ、「すぐに立て」の指導を深く拝すべきだ。

2004-05-10

「増上慢」と「我見」が破和合僧の因


 人間社会で、一番、「協調」を壊し、一番、「目的」を破壊していくものは何か。

 それは「増上慢」であり「我見」である。傲り高ぶった慢であり、自分に固執した、いわば自分勝手な考えである。

 この増上慢と我見は、厳格に戒めていかねばならない。

 人の見を聞かず、「異体同」を踏みにじることは、人びとを不快にし、「広宣流布」という目的観を崩してしまう、法上、極悪の行為であるからだ。


【「随筆 人間世紀の光」29 我らが本陣 新宿聖教新聞 2004-05-08付】


 先ほど、婦人部幹部と電話で話し込んでいた。気がつくと2時間ほども経っていた。壮年部の現状を伝えると共に、婦人部の状況を尋ねた。まあ、どっちもどっちってじで、結構大変なようだった。


 今時の婦人部幹部は泥をかぶることを避けるらしい。自分の見も言わないようである。上位役職の幹部であってもハッキリとした見は控え、「上に聞いておきます」と答えのが多いんだってさ。つまり、右も左も腰抜け揃い(笑)。


 闘争の第2期ともいうべき時期に当たり、先生は実に厳しい指導をされている。増上慢とは「自分はこれでいい」という勝手ない上がりであり、我見とは「自分の考えが正しい」というわがままない込みである。


 もう少し具体的に言えば、増上慢とは指導を求めない人であり、皆の見にを傾けない人であろう。我見の人は簡単。勤行唱題が皆と合わない人である。我見の人は自分勝手な判断で、組織の呼吸を軽視する人だ。


 大雑把にいえば、唱題しないのが増上慢、御書やスピーチの研鑚なき者は我見といえよう。


 自分の生命から、増上慢と我見を叩き出す決も新た。


【※指導は、NON氏の投稿より】

2004-05-09

耳を傾ける姿勢に人格が表れる


 ある味で、人の話にを傾ける姿勢に、その人の「人格」が表れるといってよい。私も多くの人の姿を見てきたが、話を熱に聞こうとするする人、ふとした一言を胸中に刻み、大切にしている人は、温かな深き境涯の人である。反対に、人の話を受け入れる余裕のない狭量の人は、往々にして人間も浅はかであり、やはり成長が止まっている人である。真の言葉も、いかに大事な話も、すべて硬いのカラで、はね返してしまうからだ。


【第2回本部幹部会 1988-03-04 創価文化会館


 私が以前、住んでいた地域に“伝説の本部長(壮年)”がいた。私が住み始めた頃、その方は既に引っ越していなかった。伝説だけが残っていた。


 この本部長のお宅では19:00前になると、個人指導を受ける人々の行列ができたという。


 私は、婦人部幹部にその理由を尋ねた。


「だってね、どんな話をしても、本気で聞いてくれたもの」。


 我々が生きるこの世界は、得道の国と説かれる。「聖」や「聡」の字には、「」の文字がある。目は閉じることができる。だが、は常に世界に対して開かれている。は、五の中で最も発達しており、母胎にいる時から機能しだし、死にゆく瞬間の最後まで働くという。


 聞く姿勢には3パターンがあるとわれる。まず、「聞いてない」(笑)。次に「で聞いている」。そして、「で受け止める」。「で聞いている」人は、常に自分の見を押し付けるようなやり取りになりがち。「で受け止める」ことのできる人物は、言葉の背景にまでいを馳せ、話し手の存在を尊重する。


 最も聞きにくい話は、自分に対する注と反対見であろう。これを聞けるかどうかで、前進の人か、後退の人かが分かれる。


 現存する釈尊典は、その全てが、弟子によって如是我聞されたものである。師匠の指南を、弟子が生命で受け止めたからこそ、釈尊のは後世に伝えられた。


 今日は「母の日」。我が地区で、ご家族のいない婦人部の方々にカーネーションを1本ずつ配ってきた。女らしい笑顔が眩しかった。

2004-05-08

広宣流布の永遠の都


「波浪は障害にあうごとに、その頑固の度を増す」

 この若き日からの座右の銘を、私は筆で認(したた)め、新宿文化会館に贈った。

 この文化会館を初訪問したのは、落成間もない昭和53年の328日である。第一次宗門事件の烈風が吹き荒れた渦中であった。

「この広布のから、新宿が勝ち戦の波を!」と、私は祈り願ったのである。

 いついかなる時も、新宿の友は変わらなかった。

 常に勇敢であり、常に雄々しかった。絶対に信じられる師弟と同志が、新宿には光っていたのだ。

「犬どもが吠えている。それは我々が馬に乗って進んでいる証拠だ!」

私が対談している、アルゼンチンの人権運動家エスキベル博士が贈ってくださった箴言である。

 我らは、正義の師子が、嘘八百の言論の暴力に勝利する時代を築いている。

 我らがも惜しまず正義を叫び抜けば、必ず時代は変えていけるのだ!

 御義口伝には、「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大風の吹くが如くなり」(742頁)と説かれている。

 妙法の大風を起こせ!

 正義の大風を起こせ!

 新宿の同志は、私と共に幾多のを乗り越え、本部を厳然と護ってくださった。なかんずく、健気な婦人部の皆様が来る日も来る日も、どれほど真剣に祈り抜き、祈り切ってくださったことか。

「困が増せば増すほど獅子のような勇猛をふるいおこす――これが私の主義です」とは、米国の哲人エマソンが、深い動をもって書き留めた、無の一女の信であった。まさに、この通りの新宿婦人部の祈りであり、行動であった。

 激しい攻防戦の中で、労した分だけ、いよいよ新宿は強くなった! 堂々たる勝者となり、長者となったのだ!


【「随筆 人間世紀の光」29/聖教新聞 2004-05-08付】


《※指導は、NON氏の投稿によるもの》

2004-05-07

江東男子部


 誉れ高き 江東男子部よ

 弘教 日本一の栄光は

 この昭和五十五年に始まり

 なんと 九年連続の偉となる


 学会の 続くなか

 厳然と戦い

 断固として勝った 江東

 その誉ある連勝の軌跡は

 永遠に 語り草になるだろう


【長編詩「わが不屈の 江東の友に贈る/東京革命へ 大勝利の船出1997-06-25】


 この言葉こそ、我が青春、最高・最大の誉れであり勲章である。付け加えることは何もない。

2004-05-06

弟子であること自体が幸福


 未来、生涯、いかなるが打ち続くとも、此の師に学んだ栄誉を、私は最高、最大の、幸福とする。


【『若き日の日記(上)』 1951-01-07(昭和26年)】


 私の中で最も光り輝き、黄金の重みを持つ指導。私の生涯において、この一文を失することは断じてないだろう。


 先生は23歳になったばかり。前日の1月6日には師弟の儀式あり。戸田先生より後事の一切を託されり。


 地獄のような日々をくぐり抜け、遂に最悪の事態となった時である。


 この指導については多くを語る必要なし。多くを語れば嘘になるから。


 烈風すさぶ中でしか、師弟は不二たり得ない。甘い考えをかなぐり捨てて、黙々と闘争するのみ。

本部幹部会


 何事も、同じことを繰り返していると飽きもくるし、よどみも生まれる。ゆえに大事な会合であればあるほど一回一回を新鮮に、有義に行っていくべきであろう。(中略)

 本部幹部会は、前回から学会本部で開催されている。これまでは全国各地で順次行われてきたが、広布の活動にあっては、常に往復、循環がなくてはならない。今は分散した力を結集し、再び原点に立ち戻ることが大事である。ゆえに今度は、全国の代表幹部が、本部に集い合い、秋谷会長を中に「」を一つにして、広布の「正道」を進んでいく――この活動のリズムが最も重要であることを知っていただきたい。


【第1回本部幹部会 1988-01-20 創価文化会館


 第1回全国青年部幹部会(1988-01-09)に引き続き、歴史的なターニングポイント(転換点)となった会合である。会長勇退?から9年を経て、本格的な反転攻勢の闘争がここに開始された。


 全国青年部幹部会が開催されるまでは、全国男子部幹部会として各地で開催されていた。


 こうして本部直結、師弟直結の布陣が敷かれた。生気なことを言わせてもらえば、先生は、全く新しい創価学会をつくり直そうとされたようにえてならない。


 最前線においては、第20回本部幹部会1989-08-17 長野研修道場)から、スピーチ学習のリズムが開始された。


 第二次宗門問題に至る2年間で、先生の指導を直接拝することができるようになった。この間になされた指導の数々は、“幹部革命”ともいえる激しさを伴ったものだった。全学会員が新時代の到来を確信したものだ。


 ある先輩は笑いながら語った。「これからは、幹部受の時代だ」。


 先生は自由の風を送りながら、“権威に負けてはならない”と何度も何度も繰り返された。


 本日の会合にて、東京・新宿区に対して書かれた、未発表の随筆を教えて頂く。全幹部から増上慢と我見を叩き出そうという先生の凄まじい一だ。厳格な指導は、“何としても勝たせてあげたい”との慈愛に支えられている。真剣勝負の厳しさを教えて頂き、襟を正して帰宅。

2004-05-04

指導者の条件


 指導者としての第一の条件は、絶対の信に立つことである。どんな障が競おうと、本尊流布のため、大御本尊の功徳を言い切ってゆくのが、根本の使命だと自覚することである。


 第二に責任である。幹部は学会員から愛し、親切に、暖かく擁護してゆく責任がある。また、絶対に幸福を得させる責任がある。信を破ろうとする働きに対しては、指一本ささせないという後輩をう愛情が、責任を深めるのである。無責任は無慈悲の現れといえよう。


 第三に包容力である。後輩の境遇や立場をよく理解してあげ、どんな人でも信を確立させて幸福にしきってゆこうと、柔和忍辱(にゅうわにんにく)の衣を着し指導してゆくことである。


 第四に公平でなければならない。自己の情や情実に動かされてはいけない。正論であれば耳を傾けて、間違った見や情論には、たとえ先輩の言であろうと、厳然と戒める厳正公平さがなければならない。

お世辞を使う者を大事にしたり、重宝(ちょうほう)な人間だけを重んじてはならない。“小才”と“嘘”と“要領”を見抜けないようでは、大将ではない。どれほど学会い、広宣流布のために陰に陽に働いているかを、見極めることができれば上将である。そこから、人を生かす適材適所の人材登用ができるのである。


 第五に自信がなくてはいけない。その自信の中には、決・勇気・果断が含まれる。全員を守り、張り合いを持たせ、楽しく前進させきってみせる自信がなくてはいけない。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 この指導を知ったのは22歳の時。日常的に行われる種々の指導の中から、全般に通じる大切な内容を含むものについては、その都度、「指導メモ」として聖教紙上に掲載されてきた。戸田先生が逝去されてから、「学会は空中分解するだろう」との世評が巻き起こった。この低俗な“信なき言論”を打ち破る激闘の間(かん)になされてきた指導の数々である。


 簡にして要を得た言葉が赫々(かっかく)と指導者像を照らす。いかなる位置にあろうとも、この指導にかなう自分を築いてゆく日々の修行が求められよう。


 決戦の時に当たり、口先だけで指揮を執っている幹部がいれば、それは謗法であると断じたい。

2004-05-03

『若きウェルテルの悩み』


 いかなる時代にあっても、この小説(ゲーテ著『若きウェルテルの悩み』)で描かれた「人生の悩」や「隠された不満」「生の倦怠(けんたい)」がある。また、「人間関係の摩擦」や「社会制度との葛藤」がある。特に青年時代は、が純粋であるだけに、それらの悩は強く、深い。(中略)

 だが、人生の悩に引きずられたり、負けてはならない。それでは前途に不幸の道が待っているだけである。自分自身に勝ち、乗り越えていく以外にない。

 また、因習と権威と悪しき環境にあって、庶民の一人ひとりが力を持つ以外に真の幸福の勝利はない。更に、庶民の一人ひとりが知恵を持たなければならない。聡明でなければ、いつの時代にあっても邪知の人々に翻弄されてしまうからである。

 その一人ひとりに真の力と、真の知恵を与えてくれるのは、正しき信仰の力である。その偉大なる運動こそを広宣流布運動と、一次元から、私はみたい。


【1.15「成人の日」記 東京・新宿、練馬合同総会 1988-01-15 創価文化会館


「人生の悩」「隠された不満」「生の倦怠」は五陰世間、「人間関係の摩擦」は衆生世間、「社会制度との葛藤」は国土世間にまつわる悩とも読める。小説に対して述べられた言葉ではあるが、万人に共通するテーマである。煩悩が様々な形で現れ、複雑に絡み合い、不幸という絵巻を作り出すのだ。


 民主主義は、ともすると衆愚となりかねない危険を常にはらんでいる。大衆は扇動されやすく、迎合しやすい。“民が主(あるじ)である世の中”はいまだ現実のものとはなっていない。政治にせよ、経済にせよ、大衆が利用され、使い捨てにされているのが現実だろう。海外においても同様で、民主主義という言葉はあるが、その実態は弱肉強食という畜生界の論理がまかり通る世界である。


 真の民主主義は、民衆の可能を最大限に開きゆく宗教に依らねばならない。それを可能にする唯一の教えが日蓮法である。我々の運動のみが、“衆賢”の民主主義を実現する。


 先生は、『新・人間革命』「開花」の章で、鎌倉祭りと三崎カーニバルを通して、地域友好のあり方を教えて下さっている。“創価学会の小野”と、我が地域で何人に知らしめることができるか。これが戦いだ。

2004-05-02

政治と宗教の距離感


 一昨年より今に至るまで、イラク問題にまつわる諸問題がメディアを賑わしている。公明党系の政治板でもご多分に漏れずこの問題は扱われている。特に昨年末からの自衛隊イラク派遣に関する一部学会員の行動がネット学会員の間に波紋を広げたことは記憶に新しい。


 彼らの行動には以下のような特徴があった。


 1.政治的問題にも関わらず、学会を安直に適用した。

 2.イラク問題に関する公明党の政策およびそれを追認する創価学会を糾弾し、学会の師弟論まで持ち出し、自らが正統な学会の継承者(または真の池田門下生?)であると主張した。


 当然ながら、大方の学会員の反発を食らい、彼らの目論見は破綻した。1の問題は、政治次元の問題に、宗教次元の絶対を持ち込もうとしたことに問題がある。戦争に対する学会の態度は不変であるが、政治の世界においては融通の利かない主義・主張は危険である。宗教的絶対によって選択肢を狭めることでいたずらに日本国を危険にさらしたり、経済的不利を蒙らせては、与党としての適格を疑わせ、共産党と同じ万年野党に堕することは火を見るよりも明らかである。


 2の問題は、元々筋違いな議論を無理押しするために池田SGI会長を持ち出したことである。師匠の権威を盾に自らの主義主張を通そうとしたが、むしろ、同じ師弟論によってまともな学会員から反撃を食らうことになった(「まとも」とは私の主観である)。議論が必要以上に過熱したこともここに原因がある。


 元々、自衛隊イラク派遣の問題は法律論的に議論されていたのであるが、一部学会員には「政治と宗教の距離」がないのではないかとじさせられることがある。その距離を無くさせるものは何であるのか。今回の議論では、私自身も、政教分離(ダブルスタンダード)論と政教一致論の間を行ったり来たりして、結局、王冥合論に落ち着くのだが、その内実を言語化するのはしい。言い換えると、理と現実の間を行ったり来たりしていて、その中間は何て付けるべきなのかということである。半現実、半理か。とにかく矛盾を抱えたまま彷徨(さすら)っているじである。


 彷徨(さすら)う中で考えたことは、理主義べったりの一部学会員にも現実主義べったりの大方の日本人にも「政治(現実)と宗教(理)の距離」などないということである。しかし、学会活動家には、この距離というものは必要なのではないか。また、識的にしろ無識的にしろ、この覚は学会活動によって養われているとう。だから、一部学会員の理主義的、原理主義的行動に強烈な違和じたのではないか。


 現実を無視した理主義と現状追認の現実主義が「政治と宗教の距離」を無くさせ、「理の実現」を妨げている。20世紀の前半は、前者のようなイデオロギーが席巻し、21世紀初頭の現代は、後者のようなシニカルリアリズムが蔓延している。もはや希望は創価学会と行動にしかないと勝手に確信する。イラクの問題も根本的には学会員が行って日蓮法を流布するしか解決しないのだと考えるのが、まともな学会員だとう(「まとも」とは私の主観である)。


【fやん】