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2004-09-30

「言葉」は人格の象徴


 ある味で「言葉」は、人格の象徴といえるかもしれない。一言に、その人の教養や人柄が、端的に表れる。やはり諸君は、ピリッとした鋭い表現力を、日頃から身につけておくべきである。これは、特にこれからの指導者として大切なことであると私はう。


【創友会・鳳友会合同総会 1988-05-05 創価大学中央体育館】


 昨日(2004-09-29)、夕刻のニュースで引きこもり女の特集が放映されていた。明るく利発な少女だったが大学受験に失敗。この後、6年間にわたって自分の部屋に引きこもっていた。その間、一言も口を利いていないという。を決した父親がバケツの水を頭にぶちまけ、母親が何度もビンタを食らわせた。母親が馬乗りになるような勢いで娘をつかみ、「謝れ、お父さんに謝れ!」と叫んだ。「すいませんでした……」。6年振りに発せられたか細い言葉に両親は涙した。


 それから、3ヶ間にわたる訓練の模様が映し出された。洗い物を手伝わせると、両手が出てこない。水道を止めるのに30秒ほどもかかってしまう。言葉は、もどかしいほど出てこなかった。それでも、この女は、笑顔を取り戻し、一人で買い物に行けるまでになり、「おはよう」と「ご馳走様でした」は言えるようになったとのこと。


 番組の中で父親がこう呟(つぶや)いた。


だけではつながらない。言葉を交わさないと……」


 それは、引きこもりの我が子と格闘する中でつかみ取った一つの真理だったに違いない。極限状況に追い込まれた生きざまを目(ま)の当たりにした時、人は初めて平凡な人生の幸福に気づく。


 祈っているだけでは何も変わらない。動いて、語るという化他行なくして、生命の連帯は築けない。「事を為す」(400/414/708頁)である。


 人間は、言葉に生きる動物である。「考える葦(あし)」たり得るのも、言葉で考えるからだ。言葉を持たない動物は、本能のままに生きるしかない。人間が言葉を手にした時、それは智そのものであったと像する。そしてまた、人間にとって最上の言葉は、「祈り」と「誓い」であるとう。「願い」じゃないからね(笑)。


 目の前にいる人を見つめない言葉は空虚に舞い上がる。一方的な言葉は、の殻にはね返されてしまう。その人のに届き、響かなければ、本当の言葉とはいえない。


 尚、「言葉が届く」ということに関して必須の書籍は以下の5冊。

2004-09-29

参加が勝利


 本日は、色々、都合のある人もおられたにちがいない。ある人は義理があるからといってきた人もいるだろうし、行っておかないと何と言われるかわからない(爆笑)。それも嫌だし、じゃあ行くか(大笑い)と。それはそれとして、どんな理由があっても「参加」は「勝利」である。参加しない、動かないというのは、人生、「負け」である。いい方向へ少しでも動いた、これが「勝利」である。


【創友会・鳳友会合同総会 1988-05-05 創価大学中央体育館】


 忘れようにも、忘れられない指導。私が初めて聞いた音のみの同時中継である。創価大学の文系校舎だったと記憶する。創大出身の先輩に潜り込ませてもらった。この時、私は折伏を既に4世帯達成していた。戦って駆けつけた誇りに満ちていた。また、何が何でも成長してもらいたい、という先輩のをひしひしとじた。


 昔、レコードで聴いた、懐かしい先生のにした瞬間、何とも状し動が波のように押し寄せてきた。威風あたりを圧するが如き堂々たる指導に底から痺れた。


 学園・創大出身者であれば、どんないをしたとしても馳せ参じるのが当たり前だ。しかし、先生は抱きかかえるようにして、集った一人ひとりに謝を捧げている。古い体質の訓練を受けてきた私からすると、一見、与える立場から仰せになられているようにもじてしまうが、先生の本は、何としてもいい方向へ動かしてみせる! という一に支えられているとう。

座談会を盛り上げるために


 創価学会仏勅の団体であるならば、会合は全て法座である。とはいうものの、現実に目を向けると様々な実態があろう。対策をいつくままに書いておこう。


企画がない


 要は、内容が全くないってこと(笑)。これは簡単である。まず、地区活動者会に手を入れること。週末に地区部長・地区婦人部長と連絡を取り、内容を確認する。そして、きちんと司会を立てる。これだけで、ぐっと改善される。幹部を呼ぶのも有効。座談会だと早い者勝ちとなりやすいが、地区活動者会であれば、入ってもらえる確率も高い。


 短時間でも構わないから、御書やスピーチの研鑚を行ってゆけば、段々、充実していくものだ。


定刻に集まらない


 これで悩んでいる中者は多いだろう。役職がありながら、毎回、平然と遅れてくる人も目立つ。まず、連絡した際に、「間に合うのかどうか」をしっかりと確認する。間に合わない場合は、駆けつける姿勢をきちんと教える。


 壮年の地区部長会や、男子部の部長会などで、本当に揃わないのであれば、い切って遅い時刻にするのも、やむを得ない。短時間でも呼吸を合わせることは可能だ。


地区幹部が動かない


 壮年は動かないのが当たり前だと理解しておこう(笑)。広布の電信柱として、存在するだけでも謝したいものだ。瞋(いか)りは善悪に通じるが、怨嫉にも通じる場合があるので要注(笑)。会員の幸福のための組織であるから、動かない人物に文句を垂れてる暇があったら、動ける人でどんどん運営してゆけばよい。家庭指導の日を設けるなど工夫して。


 他人に対して要求が強いのは、に負けて、生命力が弱くなっている証拠である。

2004-09-28

公平な人事


人事発表をして)「以上のように決めたいといますが、皆さんどうでしょうか」。一斉に拍手がわき起こり、会員の瞳は喜びに満ちあふれた。

「そうです。発表したことと、皆さんの見が合ったことは大変にいいことです。学会人事は公平でなければならない。皆さんが相談しただけでもいけない。また、幹部の見だけでも偏見になる場合があります。両方が一致するということが大事なことです」。


【『前進』1965-12号】


 これを境地冥合と申す。人事が「境」で、受け止め方が「地」。


 近頃では、便利な人物を登用するのが流行っているようだ(ニヤリ)。着実な人材育成ができず、一段飛び二段飛びの極端な兼任役職の目立つ地域もある。


 人事の基本は、格の異なる人を正副で組ませること。異なる見の人がいて、組織は発展するのだから。


 組織人事で決まる。人事をおろそかにしたところは、必ず崩れてゆく。また、人事に不満を抱く人物も、必ず堕ちてゆく。


 草創期にあって、役職は「記別」といわれた。役職の尊い使命を果たせば、成できる。


「身軽法重死身弘法」と経文にある。「法」は役職に当たる。自分の身よりも、役職の方が重い。当然、精神的なプレッシャーにもなる。だからこそ、成長できるし、宿命転換が進むのだ。


 いずれにせよ学会は、自覚の深い人が伸びる世界だ。

2004-09-27

功徳を受けさせる責任


 晴れやかな5.3「創価学会の日」、本当におめでとう。ともどもに、この記の日を祝賀したい。また、婦人部の皆さまに対し、第1回の「創価学会母の日」を、からお祝い申し上げる(大拍手)。

 この一年、私は、皆さまのご健康とご長寿、そして「弘教の道」「人生の道」が事故なく、無限に開いてゆくよう、御本尊に真剣に祈してきた。それは、昭和35年の会長就任以来、少しも変わることがない。いな、近年、いやまして深く、強く、お一人お一人の「栄光」と「幸福」を祈させていただいている。

 広布のため、日夜、弘教に奔走されている皆さま方こそ、無量の功徳を満喫しゆく“幸の王者”であってほしい。胸を張って闊歩(かっぽ)しゆく“人生の勝者”であってほしい。これが、御本日蓮大聖人の御であられると、私は確信する。また、牧口初代会長、戸田第二代会長の悲願であったし、私の切なる願でもある。

 もしも、皆さま方が不幸になれば、それは、広布の指導者である私達の罪となってしまう。それほど、指導者の責任は重い。だからこそ私は、つねに真剣である。

 一瞬たりとも、時間を無駄にはできない。私にとって最も大切なのは、いかなる有人、権勢の人よりも、広宣流布へとひた走る皆さま方にほかならない。


【5.3「創価学会の日」記式典 1988-05-03 創価大学中央体育館】


 法指導者の責任は、かくも重いものか――。


 しかしながら、現実に目を向けると、面倒な人や、煩わしい人は無視する風潮がある。「あの人は放っておいた方がいい」なんてね。


 私が男子部に上がって間もない頃、同じようなを婦人部から聞いたことがある。私は帰宅してから、派遣で隣の支部婦人部長をしていた母にこれを訊ねた。「放っておいて構わないんだったら、組織は必要ない」との答えが間髪入れず返ってきた。


 そりゃそうだ。部分的に無責任になってもいいよ、という指導はにしたことがない(笑)。嫌いな人は避けよ、というのもないわな。


 面倒な人と関わり合うからこそ、自分の人間革命が進む。皆、子である。皆、先生の弟子である。大切でない会員など一人もいない。面倒な人を避けるところに、幹部の弱さがあり、組織の甘さがある。雨漏りしている家は、いつしか柱が腐り、倒壊してゆく。蟻の一穴(いっけつ)が畷(なわて)を破壊してゆく。

時間厳守


 決まった会合時間

 担当は厳守せよ

 それを破って

 民衆に迷惑をかけることは

 師子身中の虫

 敗北の因をつくるからだ


【『日々の指針』 1974-12-16発行】


 これも徹底して実践し、徹底して教えてきた指導。中者が、また幹部が、誰よりも先に駆けつけ、皆を受け入れることが戦いである。大きな単位であれば、玄関でを掛け、小さな単位では、真剣に唱題をして待つ。「先んずる者が人を制する」のだ。


 私が青年部だった頃は、本部長以上になると、会館での会合は1時間前。地域で行われる会合へは30分前に行くのが暗黙のルールとなっていた。暗黙というのは、先輩の姿から学びとって、言われなくてもそのように行動したということ。


 今から10年以上も前の部長会でのこと。総区男が後ろに座っていたある幹部に気合いを入れた。真面目ではあるが、どこか陰の薄い副本部長だった。「どうして、そんな後ろに座っているんだ! 副本部長が、なぜ、部幹部の後ろにいるんだ? 本部幹部なんだから、遅れてきたって、部幹部の前に座り、皆を守るのが役目ではないのか!」。凄まじい剣幕だった。


 先日、ある宝寿会の方からこんな話を伺った。「私は海軍にいたんだが、海軍というのは陸軍と異なって、将校が先頭に立つのだ」と。確かに映画『マスター・アンド・コマンダー』を見ても、士官候補生とわしき少年達が、剣を振りかざして先頭に立って敵船に乗り込んでいた。洋の東西を問わず共通しているのかもしれない。


 民衆を守るべき指導者が、民衆と同じタイミングで戦場に駆けつけることがあっていいはずがない。また、正装に身を包みネクタイを着用してきた後輩を、平服の先輩が迎えるなんてのも問題外だ。


 幹部が幹部としての使命と責務を見失った瞬間から、師子身中の虫となることを肝に銘じておきたい。

世代から世代へと受け継がれる不屈の実践が令法久住


 彼らは、自分達が生きて目的地に到達できるとは期待していなかった。おそらく途中で力尽き、死んでしまうかもしれない。しかし、“中国の民を救おう”“平和な祖国を築こう”。もし自分達が倒れても、命を賭けて悔いないこの革命の理は、必ず未来の青年が受け継いで実現してくれるにちがいないと固く信じていた。

 この信が彼らの強さであった。このいで深く結ばれていたがゆえに、あの言語に絶するの長征をやり遂げ、新中国の建設を成し遂げることができた。

 いわんや世界を舞台にした“広布の長征”は、一つの世代によって実現できるものではない。世代から世代へと、広布の理と確信が受け継がれ、たゆみない不屈の実践が継承されてこそ可能となる。


【第3回全国青年部幹部会 1988-04-29 東京池田記講堂】


 ハリソン・E・ソールズベリーの『長征――語られざる真実』(時事通信社:絶版)を引用された指導。


 や運動というのは、後継者がいなくなった瞬間から死滅する運命を辿る。歴史による淘汰(とうた)は残酷なほどである。100年後に残っている運動は皆無であるに違いない。


 運動には力が要る。広宣流布の運動が開花していった暁には、文化へと飛翔する場面が必ず出てこよう。人類の黄金期がここから始まる。


 草創のを見失った時、革命のスピードは鈍る。「広布の理と確信」とは学会精神そのものである。これを継承し、鍛え上げるにはどうすればいいか?


 答えはただ一つである。誰よりも労するしかない。「なんだ、そんなことか」と言いなさんな(笑)。


 社会で、また組織で、波乱に揉(も)まれ、矛盾と格闘し、壁にぶち当たり、悶にのた打ち回る。しかも、その衷(くちゅう)をも誰一人理解してくれない。そういう状況下にあって、「広布の理と確信」を引っさげて一人立つことのできる人が、本物の後継なのだ。


 これが若き参謀室長の戦いだったのだ。無責任な理事室が表に立ってはいたが、学会の全責任を担って熾烈(しれつ)な闘争をしたのは若き先生だった。同志とて理解する人はおらず、ただ、師匠一人だけが、その闘争を見つめていた。


「広宣流布のために!」口では皆、そう語る。だが、少しばかりの組織の矛盾を知った途端、「納得できない!」「おかしいじゃないか!」「先生の指導と違う!」などと慌てふためく人々のなんと多きことよ(笑)。


 ある幹部と話し、これを痛した次第だ。本物のリーダーとは、真の孤独を知る人の異である。

2004-09-25

信心の功徳


 信功徳とは、生命の境涯を限りなく深め、高めていくことともいえる。


【第3回全国青年部幹部会 1988-04-29 東京池田記講堂】


 功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は六根清浄なり、されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るなり、功は幸と云う事なり又は悪を滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり、法華経の説文の如く修行するを六根清浄と得可きなり云云(762頁)


 一番多いのは、役職が変わらなくなってから数年経つと、全く成長しなくなるタイプ(笑)。そこここにいますな。


 日日につより給へすこしもたゆむあらばたよりをうべし(1190頁)


 御書に背くを謗法とは申すなり。つまりだ、日々、々、年々に信が強くなっていかなければ謗法となるのだ。進まざるは退転である。戦わざるは敗北である。過去にどれほどの栄光があろうとも、信の深化が止まった瞬間から、生命は澱(よど)み始め、退転の坂道を転げ落ちてゆくのだ。


 先生自らが示して下さっている偉大なる人間革命の姿は、人間の境涯がどこまでも拡大してゆけることを教えて下さっている。さればとは、無限の向上であり、挑戦であり、前進し続ける生命の異であろう。


 そのためには、いまだかつてない壁を打ち破り、いまだかつてない山を登攀(とうはん)するしかない。過去に登った山には、充実と満足がない。より高い山頂を目指せば、そこには、経験したことのない悩があり、疲労があり、労がつきまとう。経験したことがない故に臆病の命も出てこよう。だからこそ登り切った時には、納得があり、満足があり、躍動があり、歓喜があるのだ。


「今まで戦ってきた中で、今ほど戦ったことはない」と常に断言できる人生でありたい。

2004-09-24

一口一万円について


 時折、「なぜ一口が一万円なのか?」という疑問のにする。このにも実は数種類あって、「一万円だとしいが、金額を自由にすれば、もっと多くの会員が広布部員になれる」というものと、「一円でも多く、ご供養したい」というものや、はたまた、「金額を決められるのが、ただ単に面白くない」というものがある。


 現在のように銀行の窓口で入金するようになったのは、確か平成になってからのことだ。それまでは、各地域の支部拠点で納金していた。


 広布部員を始める際に、本部として銀行に相談をした結果、「絶対無事故を期すためにも、一口一万円にすべき」という見を採用したのだ。金額が細かくなればなるほど、計算ミスという事故は常につきまとう。ましてや、銀行員でもない素人が行うとなれば、それこそ大変な労に苛まれることだろう。


 知らない方が多いので、敢えて書いておいたが、こういったことは、質問された場合にのみ教えることであって、やたらとどこでも話すようなことではない。

勝利の絆


 この世にて

   師弟に勝る

      ものはなし

  君よ 忘るな

       勝利の絆を


    二〇〇一年十一十八日


【高校新報 2001-11-28付】


 これが生命の仕組みである。人間は、また人生は、師弟という関係の中でしか幸福になれないのだ。これを悟るをという。

2004-09-23

供養の精神


【質問】登山と大講堂のご供養と、どちらを優先すべきでしょうか? 御供養(の期間)は今年一杯で、登山は来年以降もできるので、現在、列車代などを貯め、御供養を優先してますが、これでいいのでしょうか?(趣旨)


戸田先生指導】金のないのに出す必要はないぞ。そんなことで金を出してもろうては、わしは困る。貧乏人からまで金をもらってやるわけにはいかん。だから、そんな大講堂の方への寄付金などは、君はやめ給え。(中略)

 供養というものは、そんなしければやらなきゃいい。楽しんでやるようでなければ供養になりません。(拍手)

 だから、そんなしければ、ご供養なんかやめなさい! これはわしの命令だ! するな! しないでよろしい! 誰のためにするんだ? 自分のためにするんじゃないか。俺のためにしてもらうんじゃない。(拍手)

 やめろ、やめろもう!

 に少しの負担をずる者はご供養はしては相成りません。功徳にならないから。

 から喜んでやるならば、何千万円でもやりなさい。(拍手)


【レコード:御書講義の部No.5『「経王殿御返事」講義』より 1957-07-18 大阪市中之島公会堂】(大阪大会の翌日)


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戸田城聖全集 第2巻 質問会編』に掲載されてないので、レコードの指導をそのまま紹介する。聞き取れる範囲で正確に書き出してみた。私の手元にあるのは、カセットテープだが、表記が間違っていたようだ。指導の年日を探していたところ、「牧口常三郎・戸田城聖とその時代掲示板」にガンゾウ氏が詳細情報を書いていた。偶然とはえないほど、ドンピシャリの絶妙なタイミングだった。ガンゾウ氏に謝したい。この号については、メールマガジンの記載は誤っておりますので、ご注されたし。


 烈々たる気魄(きはく)である。今時、こんな指導をされたら退転する人が続出するだろう(笑)。こういった指導は、時代背景や、会場の雰囲気、指導を受ける人の信状況など、様々な側面を像して受け止める必要がある。「いい指導を教えてもらった。じゃあ、俺は財務をやめた」などとう者がいれば、嘲笑の的となろう。


 何度聴いても厳しい指導だ。しかしである。最後の一言が打って変わった口調で、絶妙なバランス覚を示されている。戸田先生のレコードは確か25枚あったと記憶するが、その中でも特に忘れい指導の一つである。


 お金の使い方は、人それぞれである。人を殺すために支払われる金もあれば、見知らぬ誰かのためになされる募金もある。お気に入りの飲み屋の女の子に貢がれる金もあれば、向学の志やみく、働きながら学費を捻出する学生もあろう。お金の使い方にも十界がある。そうであれば、財務は界に通じる。


 決して無理をする必要はない。見栄を張るのも愚かだ。昔、ある壮年部が、「税金みたいなものだ」と言ったことをにしたことがある。かような人物には、功徳が少ないことを断言しておこう。


 財務の精神は喜捨である。財務を真剣に行っている人は、お金に執着がなくなってくるので、金でが動かされるような人物とはならない。今の世の中には、金のためとあらば、何でもしでかすような連中がうようよしている。そうした大人の背中を見て、幼い少女達は後先を考えずに春をひさいでいるのだ。


 翻って世間は、学会の草創期にあっては、「貧乏人と病人の集まり」と蔑み、今では「宗教団体のクセに金があり過ぎる」などと嫉(ねた)んでみせる。これが世間の本質だ。金がなかったらなかったで、あったらあったで悪く言うのだ。人の財布の配はしないでよろしい、と言っておきたい。


 今、財務ができること、それ自体が功徳であり福運だ。堂々たる財務を推進して参りたい。


 尚、財務に関しては、『新・人間革命 第4巻』「凱旋」の章に詳しく書かれている。地区部長以上の方は必見。

2004-09-22

病魔


 3年前の秋、私は10日間、入院した。はじめてのことである。しかし客観的には、いつ倒れても決して不議ではなかった。入信以来、40年間、また戸田先生の遺志を継いで、30年近く、走りに走ってきたからだ。

“30までしか生きられない”といわれた弱い体で、働きぬいてきた。走りに走ってきた。常に嵐と戦ってきた――。

 入院の件はマスコミ等でも大きく報じられた。あらぬ憶測や、利害や惑がらみの姑な動きも数多くあった。しかし私は、それらのさざ波を達観していた。

 私は、この病は、の大慈悲であると深く実していた。もう一度、一人立って、真の総仕上げを開始すべき“時”を教えてくださったと確信した。

 今こそ、本当のものを語っておこう。後世のためにも、本格的に、あらゆる角度からの指導を、教え、残しきっておこう。そして創価学会の真実を、その偉大なる義と精神を伝えきっておかねばならない――と。

 それまで、学会も磐石にしたし、教えるべきことは教えたとも考えていた。

しかし、この病気を契機として、私はこれまでの10倍、20倍の指導を残そう。10倍、20倍の仕事をしよう、と決した(大拍手)。そして、以前以上に、いやまして真剣に走り始めた。これからも走っていく(大拍手)。

 ともあれ、これから諸君の人生にあっても、大なり小なり、労とは避けられない。 しかし、すべては諸君を大樹へと育てゆくの慈悲と確信してもらいたい。

 そのことを確信し、堂々と一切を乗り越え、あるごとに、いよいよ強く、いよいよたくましく、いよいよ朗らかに人生と広布を開いていく、「信仰王者」として生き抜いてもらいたい。


【第3回全国青年部幹部会 1988-04-29 東京池田記講堂】


 入院されたことは、創価班大学校生となった先輩から、ファミリーレストランで聞いた。今でも鮮明に覚えている。「お前、ここだけの話だぞ。今、創価班で先生のご健康を祈っているんだ。実は、入院されてるそうだ」と。私は唸(うな)った。先生は57歳だった。2年後の59歳となられた時、先生は「完全に学会の宿命を転換したと確信している」(「第2東京新春代表者会議」1987-01-04 創価学会新館)と宣言された。というのは、戸田先生も北条会長も58歳で亡くなられていたからだ。


 普通、高齢になって病気をすると別人のように元気がなくなるものだ。どことなく、個が薄らぎ、静かな佇(たたず)まいとなる人が圧倒的に多い。だが、先生は違う。病気を契機とされて、それまで以上の大闘争を展開されるのだ。年を経るごとに、右肩上がりの急カーブを描いてゆく。常人の千倍、否、万倍の仕事をされ、それでも満足することなく、次なる闘争に立ち向かうその姿は阿修羅の如き様相を呈している。


日日につより給へすこしもたゆむあらばたよりをうべし(1190頁)」との御聖訓そのものであられる。


 人は40代に差し掛かると、何となく倦怠期となり、新しい挑戦をしようとしなくなる。過去の績でよしとした途端、人間の成長は止まる。語る内容は常に過ぎ去った過去の体験を元とし、新たな発見や動が全くなくなってゆく。惰の波に飲まれた人物は、学会のスピードから遅れ、飾りみたいな存在となるのは必然。


 とは、死ぬ瞬間まで前へ前へと進みゆく人の異だ。戦って戦って戦い抜いた生命力こそ、の実体であろう。

生命力旺盛な声で学会を守っていこう


 掃除をしていたところ、昔の記録が出てきた。私の新任抱負(笑)。これがまた、中々いいことを話してるんだ(笑)。1999年の8と記憶する。全国23期生大会が行われた翌日の開催となった。この23期生大会にて、先生より「偉大なる21世紀の指導者である敬愛する創価班の皆様に基本的指針を贈りたい」とのお話があり、新指針「創価班の誇り」が示された。総区の創価班の会合であるにも関わらず、先生より『池田大作全集』を34冊も頂戴した。


 江東男子部は新たな歴史を築くべく、1997年、1998年の折伏全国制覇を成し遂げ、この年、3連覇を目指していた。実は今だから言えるが、会館にバイクで向かった私はクルマにはねられた(笑)。アスファルトの上に投げ出されたが、傷一つなく、バイクを少し損傷した程度で済んだ。警察官立ち会いによる現場検証を15分で無理矢理終わらせ、開会の30分前に会館に辿り着いた。既に到着していた東京委員長に「申しわけありません。実は――」と報告すると、目が点になっていた。




 まず第一点は、「生命力旺盛なで学会を守っていこう」ということであります。会館任務において私達が無事故を勝ち取る具体的な振る舞いは“”であります。どこかスッキリしない、モヤモヤした複雑のあるというのは、自身の壁を破ることができず、弱いに負けている諸法実相であります。そんな雇われ根の、役員の延長みたいな姿勢から事故は生まれてしまいます。ひいては、いつも生命力に満ちた婦人部から配されてしまいます。断じてそんなことがあってはなりません。戦い切った生命から発せられるハツラツとした、爽やかな、誠実なは、悩みを持った会員の方々のの扉を開きゆくでありましょう。


 創価学会の会合というのは、一回一回が“久遠の生命の儀式”であります。その味から申せば、会館の門に入った瞬間から会合が始まるまでが序分といえます。法華経でいえば、無量義経の儀式に当たるのです。会合が正宗分、終了後の打ち合わせから門を出るまでが流通分といえましょう。故に、門を入った瞬間の、生命と生命の感応がどれほど重要になるか計り知れません。


 御書に「自身の(おもい)をにあらはす事ありされば(こころ)がとあらはる」(469頁)とあるように、一切はで決まります。つまりそれは、信の一であります。更に別の御書では、「師子には一切の獣を失ふ」(1393頁)とあります。師子王のによって一切のは断ち切られるとの御指南であります。先生もかつて、「『事をなす』で、というものは、その人の、その瞬間、その場の生命の反響です。ですから、話すにしても、自然に参加者が勇気の湧いてくるような生命の響きがなければなりません」と指導されております。どうか、組織闘争をやり切った“勝利の”で創価学会の絶対無事故を勝ち取って参りたいといますが、いかがでしょうか。


(「創価班の誇り」について)

 8項目の全てに「共に」との言葉が入っています。


 私達の人生・生命を貫いてやまない根本のリズムは、「先生と共に」というただ一点であります。この一点しか存在しない。


 御書には、「法華経の法理を教へん師匠も又習はん弟子も久しからずして法華経の力をもつて倶(とも)にになるべし」(499頁)と説かれております。また別の御書では、「返す返す今に忘れぬ事は頚(くび)切(きら)れんとせし時殿はともして馬の口に付きてなきかなしみ給いしをばいかなる世にか忘れなん、設い殿の罪ふかくして地獄に入り給はば日蓮をいかにになれと釈迦こしらへさせ給うとも用ひまいらせ候べからず同じく地獄なるべし、日蓮と殿と共に地獄に入るならば釈迦法華経地獄にこそをはしまさずらめ」(1173頁)。また経文には、「在在諸の土に常に師と倶(とも)に生ぜん」(1056頁)とあり、重ねて御書には、「師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法吼とは師弟共に唱うる所の音なり」(748頁)。最後に「の一字は日蓮に共(ぐ)する時は宝処に至る可し不共(ふぐ)ならば阿鼻大に堕つ可し云云」(734頁)と。あらゆるところで大聖人は、“師匠と共に”という根本軌道を教えて下さっております。いつ、いずこにあろうとも、「先生と共に戦う創価班」でありたいといますが、皆さんいかがでしょうか。


 自由な時代になればなるほど信の姿勢を正し、訓練に訓練を重ねて、先生の仇を討つ力をつけて参りたい。戸田先生の指導に、「組織は偉大な勇者をつくるか、さもなくば幼稚な愚者をつくる」とありますが、我が創価班はどんなことがあろうとも、偉大な勇者となって参りたい。書記長・各〈区〉委員長と力を合わせて、全国最強の創価班を築いて参ります。20世紀の有終の美を飾るべく、この下半期、全国一になるまで戦い続け、日顕を倒すまで戦い続けることを先生に誓い、新任の挨拶とさせて頂きます。

2004-09-20

世界を動かした偉大なる民間外交 4


「正義と勝利の座談会」第2部 81


江藤●池田先生は、モスクワ大学から誉博士(75年5)、誉教授(12年6)の称号を受けられています。この二つの誉称号を受章した日本人は、池田先生一人だけです。


秋谷●大変な、歴史的な事実です。


杉山●先生は世界中の大学から161もの誉博士、誉教授等の称号を受章されている。その記すべき第1号が、モスクワ大学からの誉博士号でしたね。


江藤●池田先生のリーダーシップによる、世界的な文化・教育交流と平和運動を高く評価して授与されました。授与式の席上、先生は「生涯、この博士号に値する行動を貫きたい。今は、むしろ責任をじる」と厳かに挨拶されました。


杉山●ロシアでは、モスクワ大学のほかにも、ロシアの国際大学(94年5)、極東大学(96年11)、国立高エネルギー物理研究所(98年4)、サンクトペテルブルク大学(00年1)からも誉博士の称号を受章されていますね。


弓谷●先29日には、ロシアの教育分野における最高学術機関である「ロシア教育アカデミー」の在外会員に就任されたばかりです。


江藤●ところで先生が初訪ソされた74年――先生は5〜6に中国、9ソ連、そして12に再び中国と、文字通り東奔西走されています。周来総理との歴史的な会見も、この第2次訪中の時でした。


秋谷●当時、周総理は76歳。コスイギン首相は70歳。先生は46歳の若さだった。


江藤●さらにまた先生は、翌75年1にはアメリカも訪問されています。その際、国連本部を訪問して事務総長と会見したほか、当時のキッシンジャー国務長官等の要人と会談。そして4には中国、5には欧州、そしてソ連を訪問されています。


鈴木●74年5の初訪中から、わずか1年間で、中国を3度、ソ連を2度、さらにアメリカ、欧州を訪問するという、超人的なスケジュールでした。


秋谷● 本当だったら、政治家こそが動き、日本から平和のメッセージを発信し、世界に貢献すべきだ。それを、保身で臆病で人気取りばかり考えているから、やらない。


弓谷●こうした先生の民間外交が、いかに先見であったか。今、世界は、国家対国家、政府対政府という従来の外交の枠組みを超えて、民間団体、非政府機関による活動が重みを増してきている。私の知っている学者も「米中ソに平和の大道を開いた、偉大な民間外交だ。時とともに輝いていますね」と驚嘆していたな。


秋谷●ところが当時、そうした先生の先見と行動を理解できない連中がいた。「宗教者が、なぜ共産主義の中国、ソ連に行くのか」等々、執拗、陰湿な悪の中傷があった。


鈴木●宗門の愚劣な坊主連中も“どうして折伏できない国に行くのか”なんて言ってたな(大笑い)。


秋谷●とにかく視野が狭い。日本の将来を考えないんだ。


鈴木●この74年の年末には、学会と日本共産党との間に「創共協定」が結ばれた。これも「宗教と共産主義の共存」という、文明史的義の上から結ばれたものだった。


秋谷●先生は現実に、共産主義の中国にも、ソ連にも行かれている。日本の共産党と対話するのは、自然の流れだった。するとまた、それを面白くわない勢力が陰湿に妬みはじめた。「学会は共産党と手を結ぶんじゃないか」と邪推し、反発しだした。


杉山●先日も、この座談会で話が出たが、あのデマ記事を書いた「月刊ペン事件」も、こうした政治的な動きの中で起こった謀略のデマ事件だった。


弓谷●時期的にも『月刊ペン』が学会批判のキャンペーンを始めたのは、先生の訪中、訪ソ、そして「創共協定」が表面化した直後でしたね。


秋谷●その通りだ。「月刊ペン事件」の裁判の判決にも、ハッキリ書かれている。


鈴木●「被告人(=『月刊ペン』編集長の隈部大蔵)は、昭和50年8ころ、当時表面化した創価学会と日本共産党との間のいわゆる創共協定に対し、教義上の立場から疑問をつのらせ、『月刊ペン』誌に創価学会批判記事を掲載することを企画し」(東京地裁、昭和58年610日)等とある。


江藤●一目瞭然だ。要するに「嫉妬」と「怨」の輩が仕組んだ、政治的謀略事件、デマ事件だったんだ。


秋谷●それに当時は、学会が支援する公明党も大躍進し、注目を集めていた。その反動も大きくなっていった時代だ。67年には、衆院に進出し、一挙に25議席を獲得。そして70年代後半には、国会議員から地方議員まで、総数3千数百人を数える一大勢力となった。


江藤●とくに公明党では、早くから女の国会議員が活躍していた。しかも衆院では、当時の東京1区から渡部通子議員、3区から多田時子議員など、いわゆる「花形選挙区」から選出され、活躍していた。


鈴木●そうした政治情勢に絡めて騒げば、世間も注目する。騒ぎになる。隈部は、そう踏んだんだ。そこで、ありもしないウソ八百のデマ記事を書き殴ったわけだ。


秋谷●あまりにもひどい事実無根の中傷記事だったので、学会側は、デマを書いた隈部を誉毀損で刑事告訴した。そして隈部は逮捕、勾留された。


弓谷●結局、先日も話に出た通り、隈部は池田誉会長をはじめ学会に「詫び状」まで書いた。「(『月刊ペン』の記事には)事実の確認に手落ちがありいちがいがありました」「行過ぎのあったことに対しては、率直に遺憾のを表明致します」とハッキリと謝罪した。


杉山●そして裁判でも最終的に金20万円の有罪判決が下された。これは当時としては最高額の金刑だった。非常に重い罪だ。


弓谷●この『刊ぺン』の裁判といえば、恐喝事件を起こして窮地に追い込まれた山崎正友が、愚かにも途中から首をつっこんできた。


杉山●山崎も自分が刑務所に入るのを怯えて、ありとあらゆるウソの工作をしてきた。学会を脅してきた。だが、ウソというのは「いつ」「どこで」「誰が見たのか」を追及すると、すぐバレる。山崎のウソはその典型だった。


秋谷●今からえば、山崎が静岡の墓園建設で裏金を握ったり、派手に遊び回ったり、宗門に出入りしたりし始めたのも、ほぼ同じ昭和50年、51年頃からだった。


鈴木●あの頃から、山崎は私生活の乱れがひどくなった。皆が、おかしい、おかしいとっていた。先生からも厳しく注されたが、それをまた一段と逆恨みしていったんだ。


杉山●結局、山崎は悪事に悪事を重ねた揚げ句に、「月刊ペン事件」の卑劣な画策も失敗。そして自分が起こした恐喝事件で懲役3年の実刑判決を受けて服役となった。


秋谷●その後も、学会は「猶多怨嫉」「悪口罵詈」の経文通り、嫉妬と妬みの迫害が続いた。まさに魯迅が「先覚者は、つねに故国に容れられず、また同時代人からも迫害を受ける」と喝破した通りだ。だが、学会は正義と真実であったがゆえに、すべてに勝った。ご存じのように、ますます偉大な発展を続けている。今や世界190ヶ国・地域にまで広がっている。


弓谷●正邪はハッキリした。法は厳しい。刑務所から出てからも、いまだに山崎のほうは地獄だ。いや、いよいよ地獄の奈落の底に沈むばかりじゃないか。


杉山●近年も、自分の汚らわしい不倫事件で断罪されたほか、今13日、14日にも誉毀損事件、プライバシー侵害事件などで断罪。しかも今なお20数件もの裁判を抱えている。文字通りの「裁判地獄」だ。



聖教新聞 2004-09-20付】

2004-09-19

府中総区21世紀総会


 昭和50年(1975年)、池田先生は世界広布の陣頭に立ち、全世界を駆け巡っていらっしゃった。当時、帰国すると必ず本山へ報告に行かれた。

 その折の日顕の無愛な態度。明らかに不機嫌が顔に出ていた。

 長期の旅の疲れもいとわず、報告に来た先生に、ねぎらいの言葉の一つもない。

「何でだろう」とこちらも不愉快千万だったが、恐らくそれ以上に、先生は耐えておられたとう。所詮は怨嫉以外の何ものでもない。


 シアトル以来、日顕にとっては海外は“遊び”そのもの。自分で行きたくてしようがない。その志は天地雲泥であり、広宣流布へのいは片鱗だになく、偉大な先生への真っ黒なヤキモチだけだったのだ。

 日顕は、昭和20年代に本行寺(東京・墨田区)の住職をしていた頃から、学会の発展を妬んでいた。陰では反学会の急先鋒として動き、檀徒作りに狂奔したこともあった。

 昭和27年、学会が宗教法人の認可を取得する際、反対したのも日顕だった。後になって「別の宗教法人を作ることを認めることについては反対である旨を率直に申し上げた」(平成4年828日、教師講習会)などと、公の場で白状している。

 もとより、僧俗の平等、万人の成こそ宗開両祖の本義である。ところが、代々坊主が自慢の日顕権威主義は、“僧が上で信者は下”という徹底した「僧俗差別」だ。

 その日顕の本を誰よりも鋭く見破っておられたのが戸田先生であった。


 先生が「阿部(日顕)は腹黒く、インチキが多い。気をつけよ」と、周囲に注を促されていたのは有な話である。何より日顕自身が、戸田先生から、いわゆる「坊主根」を厳しくたしなめられたと述懐している。

 底地の悪さは陰険で、宗門の教学部長時代も、池田先生や学会の功績を「富士年表」に残すことに異常なまでの抵抗を見せた。それでいて表面上は、揉み手をして平身低頭していた。

 ところが登座するや、豹変して居丈高に法主の権威を振りかざしてきた。

昭和54年7に登座した直後の目通りの折のこと。

 日顕池田先生に対して、開口一番「大体、あんたが偉すぎるんですな」と言い放った。これが法主の行体であろうかと誰もが目とを疑った。

 昭和57年3の関西青年平和文化祭の時もひどかった。文化祭が大成功に終わり、大歓喜の関西の同志を激励中の先生に対し、直ぐに登山せよと、日顕が本山に呼びつけた。

 何事かと予定を急遽変更し、先生と共に私も本山に行った。

 すると、文化祭で青年部が発表した宣言の内容に「大聖人の法を時代精神、世界精神に高める」とあったのを、“もともと大聖人の法は高いのだから、このような表現は不遜だ”と癖をつけてきた。

 だが、それは口実にすぎず、先生が「猊下も喜んでくださった」と言われたのを、どうして「御法主上人」と言わないのかと、顔を鬼のようにして詰問してきたのだ。もう、どうしようもないガキ大将のような男なのである。

 世界中から敬愛される先生とは正反対に、日顕のことなど日本国内でもほとんど知られていない。「自分は誰からも相手にされない」と日顕の妬みはふくらむ一方だ。


 しかし、法主としてふんぞり返っているだけで、勤行もしない、折伏もしない、教学もない日顕が、誰からも敬愛されないのは当たり前だ。

 そして、ついに「C作戦」というドス黒い謀略で、外護の赤誠を尽くし抜いてきた学会を切り捨てたのである。

 なにしろ、嫉妬に狂った男というのは始末に負えない。この時も、私が本山で日顕と話し合おうとしても、“許可しない”と「対話拒否」である。人間としての証である対話すらまともにできない。

 大聖人は「妬みの炎は自らの身を焼く」(1130頁/趣)と仰せである。まさに日顕の姿そのものである。

 嫉妬に狂って仏勅の学会を破壊しようとした日顕の報いはどうか。

 相承詐称の“ニセ法主”の正体が暴かれ、信者数は98パーセントも激減し、登山者もチョボチョボ。更に、裁判でも断罪続きという現である。

「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(1190頁)とある通り、破和合僧という大謗法を犯した日顕は、もはや没落の一途をたどるのみである。


【秋谷会長/聖教新聞 2004-09-19付】

2004-09-18

人生の現実


 まさに凡夫には一寸先は闇である。不幸など自分には関係ないことだ等と断言できる人は、いないであろう。

 平穏無事なら無事で、年齢とともに、むなしさがつのってくる。忙しそうに充実して動いているようであっても、自分を見つめることができず、さびしさ、わびしさから逃げ続けているにすぎない人もいる。

 笑顔の底に悲しみがある。楽しさの後を空虚さが追う。しみ、悩み――それが避けられない人生の現実である。

 しかし、それでも人間は生き続けていかなければならない。では、どう生きるのか。どうしみを真実の歓喜へと変えていけるのか……。

 この万人にとって最大にして根本の課題を解決したのが大聖人の法なのである。


【第3回全国青年部幹部会 1988-04-29 東京池田記講堂】


 暗誦(あんしょう)したくなるほどの詩的な言葉で、厳しい人生の現実が切り取られている。この言葉だけ覚えておけば、十分、折伏できるような気になる。いや、ホントに。やさしい表現に込められた深い内容は、智そのものである。


 本日、ブロック総会を開催。友人4を含め、20を超える参加者。挨拶にて、「ストレスコミュニケーション」について話す。煩悩即菩提に触れることを失したのは致命的なミスだった。新来者の方々は皆、喜び、口々に「また来ます」と言って帰っていった。短時間ではあったがいい会合だった。疲労も地好し。

世界を動かした偉大なる民間外交 3


「正義と勝利の座談会」第2部 80


弓谷●池田先生の第1次訪ソ1974年9)の圧巻が、コスイギン首相との会見ですね。


鈴木●当初、首相との会見は、予定になかったのです。しかし、訪ソ中の先生の平和への行動、友好への信を通して、ソ連側の認識が、みるみるうちに変わっていった。そして急遽、日程の最終日に、首相との会見が実現したのです。


杉山●そうだったんですか。ソ連側も、ずっと見ていたんですね。


江藤●何よりも、コスイギン首相自身の強い要望があったと、後で聞きました。


鈴木●1時間半にもわたる、本当に素晴らしい会見でした。首相が「あなたの根本的なイデオロギーは何ですか」と尋ねる。先生は即座に「平和主義であり、文化主義であり、教育主義です。その根底は人間主義です」。すると首相は「この原則を高く評価します。このを私たちソ連も実現すべきです」と。


秋谷●会見の模様は、私も詳しく聞いている。――ソ連側はコスイギン首相をはじめ、政府と党の首脳が、ズラリと席についている。ところが先生は、終始、泰然、悠然としておられる。ソ連側の質問、問いかけにも電光石火で鮮やかに切り返していかれる。まるで火花を散らすような、やり取りの連続。先生のスピード、頭脳の回転の早さ、当即妙の対話に、ソ連側もわず嘆のを上げていた――と。


鈴木●その通りです。そして先生は、この3ヶ前に訪問した中国の印象を率直に語った。中国で先生は、主にソ連からの核攻撃に備えた、巨大な地下防空壕を視察され、中ソの緊張関係を実された。そこで「中国はソ連の出方を気にしています。ソ連は中国を攻めるつもりがあるのですか」と質(ただ)した。首相は「ソ連は中国を攻撃するつもりも、孤立化させるつもりもありません」。さらに先生は「それを中国の首脳に、そのまま伝えてよろしいですか」と確認。首相から「結構です」と明確な回答を引き出したのです。


江藤●先生は、その3ヶ後の74年12、再度、中国を訪問。コスイギン首相の言葉を直接、中国のトウ小平副首相(当時)に伝えておられます。あの中ソ間の危機の時代にです。


秋谷●コスイギン首相は会見の終わりに、先生に、こう語ったそうだ。“池田会長のおっしゃられたことに厚くお礼を申します。会長が提起した問題を考えていきます。重要な友人の言葉です。どんな障害が生じても会長がいる限り、ソ日の友好は崩れないでしょう。私は会長に会えてよかった”と語っておられた。


弓谷●首相は自宅に戻ってからも令嬢に「今日は非凡で、非常に興味深い日本人に会ってきた。大変複雑な問題に触れながらも、話がすっきりできて、うれしかった」。このように語っていたと、うかがっています。


鈴木●その通りです。先生は第2次訪ソ(75年5)の際もコスイギン首相と再会を果たされました。そして第3次訪ソ(81年5)の折、首相令嬢のグビシャーニ女史とも会見なさっています。首相が亡くなった直後でした。


江藤●グビシャーニ女史は、首相を偲んでの先生の訪問に「嬉しい、大変に嬉しい」とから喜んでおられました。“どれほど父が池田先生を尊敬していたか。どれほど先生に会いたがっていたか。私には、よくわかります”と、涙を浮かべながら語っておられた。そして“家族全員で相談し、父の遺品を、ぜひ先生に、お贈りしたい”と申し出られたのです。


鈴木●それが首相の肖像のあしらわれた、クリスタル製の花びんです。首相が60歳の時に“社会主義労働英雄”として贈られた貴重な品です。


秋谷●大切な記録として、東京牧口記会館(八王子市)に展示されています。


江藤●その後、池田先生は、ソ連、ロシアの時代を通じて計6度にもわたって訪問。歴代首相をはじめ、ゴルバチョフ大統領、モスクワ大学の歴代総長などと対談を重ねてこられています。


秋谷●コワレンコ氏(元ソ連共産党中央委員会国際部副部長)は、こう証言している。

「(池田誉会長は)ソビエト時代の3人の首相、コスイギン、チーホノフ、ルイシコフ氏とも会見をされており、もちろん、3人の歴代首相と対話を行った日本人はいない」と明言している通りだ。


弓谷●特に90年のゴルバチョフ元大統領との会見は、電撃的でした。あの会見で、ソ連の国家元首の史上初めての訪日の向が表明されたのですから。


秋谷●私も日本で、NHKの午後7時のニュースで見た(笑い)。当時、いつゴルバチョフ大統領が訪日するかが、日本でも注目されていた時だった。


鈴木●会見の終了後、重大なニュースなので、先生自ら日本の報道陣への記者会見に臨まれ、その内容を説明されたのです。


江藤●実は、先生と大統領が会見した前々日、当時の桜内義雄衆議院議長が大統領と会見したのです。ところが、北方領土問題で決裂し、大統領の訪日については白紙に戻りかけてしまった。


杉山●その時の模様は、長岡大学教授の中澤孝之氏の著書『ゴルバチョフ池田大作』にも詳しく書かれていますね。


鈴木●中澤教授は、時事通信社のモスクワ支局長などを歴任された方だ。日本でも有数のソ連、ロシア通の方です。


弓谷●中澤教授の本によると、大統領と桜内議長の会見に同行した、当時の駐ソ大使の枝村純郎氏も、頭を抱えたそうだ。「ゴルバチョフは、日本側が領土問題しか取り上げないのであれば、両国政府間で協議されていた訪日は再検討せざるを得ないと言い出した」と枝村氏は述懐している。それほど深刻な事態だった。


鈴木●ところが、その2日後、先生が大統領と初会見された。そして、大統領は「できれば、来年春、桜の咲くころに日本を訪問したい」という向を先生に明かしたのです。大統領が訪日の時期を明言したのは、これが最初のことでした。


秋谷●まさに歴史的なビッグニュースだった。翌日の新聞各紙も1面トップで「ゴ大統領、来春訪日を明言」(読売新聞)、「ソ連大統領、来春訪日を明言」(日新聞)等と大々的に報道した。皆が驚き、また安堵した。


杉山●枝村氏も、当時の境を「予外の朗報」「正直、ほっとしました」と自著などに綴っていますね。


江藤●実は、会見の前日だったといますが、先生と同じ宿舎に泊まっていた桜内議長から、ご挨拶したいという申し出がありました。しかし、先生が議長を訪問し“民間の立場ですけれども、明日、ゴルバチョフ大統領との会見に臨んでまいります”と礼儀を尽くされたのです。


杉山●ああ、そういうことがあったのですか。


弓谷●先生とゴルバチョフ氏は、これまでに8度、会見されています。私も93年、創価大学4年生の時に、創大記講堂で行われた、ゴルバチョフ氏の学位就任の記講演会に参加させていただきました。光栄にも、その際、私からゴルバチョフ氏に「創価友誼之証」を贈呈させていただきました。


江藤●先生とゴルバチョフ氏の対談集である『二十世紀の精神の教訓』も、日本語、ロシア語のほか、ドイツ語フランス語、イタリア語、韓国語中国語の7言語に翻訳・出版され、大反響を呼んでいます。


鈴木●本当に深い友情を結んでおられる。それを妬んで、ゴルバチョフ氏と会うために、あろうことか「学会が数十億円もの金を使っている」などと、デマで中傷したバカな売文屋もいたな。


秋谷●バカバカしい! そんな大金、どこから出せるんだ。もし「金を出した」のなら、税務署が克明に調べている。そもそも学会は、何によらず、お金を出す場合は、宗教法人法、学会規則に則り、責任役員会の議決や所定の手続きをきちんと踏まなければ、できないことになっている。そんなことも知らないのか(笑い)。


弓谷●だいたい「金で買った」と言うんだったら「いつ」「どこで」「誰が」「誰に」「いくら払った」のか。具体的に事実と証拠をハッキリ挙げて書くべきだ。それが何一つ、ないじゃないか。それこそデマの証拠だ。


杉山●当時、学会の広報室が抗議したら、全く何も言わなくなった(笑い)。本当に愚劣だ。


弓谷●だいたい学会には何も取材していない。事実の確認もしない。こんなの、狂気の沙汰だ。日本の恥だ。


江藤●ゴルバチョフ氏も、こういう類のデマには、本当に怒っておられた。失礼千万な話だ。


弓谷●ドイツの詩人ハイネは、こう喝破している。「人間が偉大になればなるほど、中傷の矢に当たりやすくなる。小人には中傷の矢さえ当たらない」まさに日本の嫉妬社会のことじゃないか。



聖教新聞 2004-09-18付】

2004-09-17

日常的自我と真我


 私は以上にあげた御書や経文をよりどころとしまして、古今、哲学界の最大のアポリア問)とされている「自我」というものについて、その断面にふれてみたいといます。

 自我――つまり自身の内奥的・根源的存在は、法華の法門においては常楽我浄の我、あるいは地涌の上行菩薩として、あるいは一三千の一として、というように様々な角度から説き示されているのでありますが、そこへいきつく前に、まず当然の常識として、誰でも自分を内省してみれば、自分が存在していることはすぐわかります。それによって類推してみると、どの他人にも、それぞれ自我があることは認めざるをえないところでありましょう。これは「日常的な自我」の奥に存在しているのであります。

 こういう日常的な自我というものは、他人から無視され、黙殺されると、疎外に満たされ、孤独を味わい、戦場へ駆り立てられたりするような異常事態が突発しますと、ハッと我にかえって、自我は「存在するものは我一人のみ」という、絶対的孤立に支配されてしまうものであります。

 また、こうした日常的な自我は、対人関係・社会関係のなかでは、常に縮小と拡大とを繰り返していきます。利用されたり、しかられたり、いやしめられたり、けなされたり、嫌われたり、せられたりした時は、それらの強度に比例して、自我は縮小するものであります。反対に、ほめられたり、尊重されたり、優遇されたり、賞を与えられたり、愛されたりした時には、自我は拡大していきます。ただし、四悪趣的自我を拡大してしまっては、無慈悲であり「慈無くして詐(いつわ)り親しむは即ち是れ彼が怨なり」となります。こういう事実があるからこそ、正しい倫理では「他人を自分のオルガノン(道具)として利用してはならない」と戒めるのであります。儒教で「己(おのれ)の欲せざるところを人に施すことなかれ」というのも全く同じ見地からの発言であると私はう。

 世の中には、イキが合ったとか、ウマが合うとか、相がいいなどという表現がありますが、これは「互いの自我が結び合った状態」を示しているのでありまして、英語ではこの結び合いを「ラポート」といっております。この「ラポート」は友好の上では極めて大切なこととうのであります。

 これについてある本では「積極的にのベルトをかけようとするには、どんな手を打ったらよいか。その第一歩は、相手への関を示すことである。その示し方は二通りあって、(1)私はあなたを認めている、無視していない(2)あなたについて知っている、この二つである」という味のことをいっております。

 人間の自我は、このとき初めて独我的自己より救い出されて生き生きと拡大し、使命を自覚するにいたるのであります。この局面においては「沈黙は金である」という格言は、むしろ誤りであり、有害であり、理解と親切な会話こそが金となる、と私は申し上げたいのであります。我々は互いに尊重し合い、互いによく知り合い、対話に対話を重ねて異体同の輪を広げつつ、互いに相手の自我を拡大してあげることに努めていこうではありませんか。これが人間連帯の広布の波となっていくのであります。

 ただし、自分で自我を拡大していこうと働くのは、勤行・唱題のとき以外は、エゴイズムに陥る危険があるということも忘れてはならない。相手の自我拡大に努力した人だけが、その果報として、自分の自我が拡大するといえるのであります。

 対話といい、指導といい、折伏といい、全てはこの方程式でなければ、功徳を生まないといます。折伏は折り伏せることではないかと批判される場合がありますけれども、その真義は悪を折ることによって、その奥に隠れていたその人の自我を引き出し、拡大することなのであります。どうか、よくよくこの方程式に徹して、立派な道修行者として、また人間として大成されますことを、私はからお願い申し上げるものでございます。

 さて、以上のような日常的自我は、これは所詮、有漏(うろ)の煩悩を主体とした、表面的な自我といわざるをえない。その奥に、非常事態に直面して、ハッと我にかえった時に現れるような内奥の自我があります。法的にいえば、無漏(むろ)の自我であります。六道に対する四聖自我であります。そして、更にその奥に根本的な自我があります。

 それは、こうした人間の内奥における自我四聖の基盤であり「真我」といってもよい。有漏・無漏に対する「非有漏・非無漏」の自我、あらゆる大哲学者、大家達が魂こめて求め続けたところの自我、これこそ妙法界の自我であり、南無妙法蓮華経の大生命なのであります。

 この尊い真我、つまり真の自我は、九界本因において求めれば「信」以外のなにものでもない。信・唱題の人のみが、この自我を味わうことができ、信を貫いた人のみが、これを体得することができるのであります。界本果において求めれば、御本日蓮大聖人の御境地そのものであります。我々が折伏を行じ、広宣流布を目指すのはなんのためであるか。それは、あらゆる人が、生まれつき本然に自己の究極的自我の発揚・拡大を求めるからであります。それが人間の「生存本能」だからであります。

 広宣流布は仏勅であると、一口に言ってしまえばそれまででありますが、以上のように自我の観察からリサーチ(探求)してみれば、人類全体の生存本能上の先天的な要求であることが明らかである。ただ、それが的確に人類に自覚されていないだけなのであります。

 広宣流布は、明らかに「人類の要求」であります。「広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」(1360頁)との仰せは、以上のような関係を奥底(おうてい)まで見通しておられたがゆえの大聖人のお言葉ではないかと私は確信しているのであります。

 人々は皆、真実の永遠的真如の自我の発揚を求めながら、それぞれに九界の自我のなかに閉じこもっております。その解放は、大御本尊による以外にない。妙法による以外に絶対にありえない。


【第2東京本部幹部会 1973-03-31 創価大学体育館】


 今行われた部別御書講義で、担当幹部が引用した指導。私は瞬時に、グングン引きずりこまれ、「相手の自我拡大に努力した人だけが、その果報として、自分の自我が拡大するといえる」の件(くだり)でハッとした。過去に読んだはずだが、全く記憶になかったからだ。


 巷間に出回っている哲学書を次々とひもといて“自我”を学ぼうとするより、この指導を読んだ方が100倍いいと断言しておこう。


 チト、余談になるが、これは読書に関しても同様だ。私は青年部時代、大体、1年間で100冊以上の読書をしてきたが、優れた書物を1冊読むよりも、一つのスピーチを読んだ方がはるかに充実がある。ところが悲しいことに、それなりの量を読んでないと、こうしたことは中々気づかないのだ。その味で、スピーチの凄まじさを理解するためにも、青年部諸兄は、しっかりと読書に挑戦して欲しい(笑)。


 この指導の一年前に浅間山荘事件が起こっている。これ以降、学生運動は急速にしぼんでいった。そして、1973年1に、ベトナム和平協定が調印される。先生のには、行き場を失った大学生の“自我”に呼びかけるような響きがじられる。


 また、見逃せないことは、この指導の直後(515〜19日)にトインビー博士との2回目の対談が行われていることだ。そのための準備として、自我について考察されていたのかもしれぬ。


 そもそも自我という言葉は、西洋から理学や哲学が輸入された際の言葉だと像する。神対自分という向かい合う関係から生じたのではなかろうか。人権などなかった日本の封建時代に、自我なんぞという発は生まれようがない。しかし、西洋で説かれた自我は、法の九識論に比すれば、せいぜい八職までしか及んでない。


 自我偈に「自我」が含まれているのも不議だ。


 私が私らしく生き、あなたがあなたらしく生きる世界が、広宣流布だ。

世界を動かした偉大なる民間外交 2


「正義と勝利の座談会」第2部 79


杉山●先日、池田先生ソ連初訪問(昭和49年9)について話が出ましたが、当時の模様を、もう少し詳しく教えてほしいというが届いています。


秋谷●大切な歴史です。そこで今回は当時の経緯に詳しい鈴木副会長、江藤副会長に来てもらった。


鈴木、江藤●よろしく、お願いします。


秋谷●実は、ソ連からは、昭和30年代に、学会に招へいの話がありました。池田先生より「青年部の代表が行ってはどうか」とのご提案をいただき、1963昭和38)年9に、当時、青年部長であった私と代表が、学会幹部として初めてソ連に行かせていただいたのです。

 招へい元はソ連の「今日のアジア・アフリカ」編集局で、十日間にわたって、モスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、キエフ(現・ウクライナの首都)、トビリシ(現・グルジアの首都)などを回らせていただいた。

 すでに、そのころから先生は、ソ連との交流にを砕(くだ)かれておられたのです。


杉山●将来を考え、手を打たれたわけですね。


秋谷●そうです。その11年後に先生の訪ソが実現しました。


鈴木●しかし、当時でも日本でソ連といえば「怖い国」「一番嫌いな国」という印象が強かった。

 それだけに手に入る情報も、ほとんどなかった。むしろ“反ソ連”の立場からの資料が多かった。とにかく実情、実態がつかめない。それほど日本とソ連は疎遠でした。


江藤●実は、宗教の指導者が来るというので、ソ連側も、かなり不安だったようです。ソ連側の受け入れ責任者を務めたコワレンコ氏(元ソ連共産党中央委員会国際部副部長)も証言している。

ソ連共産党指導部、共産主義者は、池田先生創価学会代表団のソ連訪間を、はじめ歓迎しなかった」「指導部は、創価学会について正しい情報を持っていなかったからです」と当時の事情を明らかにしている。


弓谷●すると、どういう経緯、契機で、ソ連への訪間が実現したのか。先生の中国訪問については、よく知られていますが、訪ソの歴史は、あまり知りません。

 その点から、お願いします。


鈴木●わかりました。直接の発端は、初訪ソの前年である1973年の127日のことです。

 池田先生は、ソ連科学アカデミー会員のナロチニツキー氏、準会員のキム氏を創価大学に迎えて会談されました。


江藤●ちょうど、そのから、東京の後楽園技場(当時〉で「大シベリア展」が闘催されたんです。シベリアで発掘されたマンモスの完全骨格と剥製(はくせい)が、ソ連国外で初めて公開されるという展示会でした。


杉山●そうでしたね。私は小学生でしたが(笑い)、マスコミでも大変、話題になったのを覚えています。


江藤● 主催は、大シベリア博委員会と毎日新聞社でした。展示の成功のために、池田先生のリーダーシップにより、創価学会としても協力した。

 そのことが機縁となって、先生とナロチニツキー氏、キム氏の会談になったんです。


江藤●この会談でナロチニツキー氏とキム氏から「ぜひ、モスクワにお越しください」と、ここで初めて、訪ソの要請があったのです。


鈴木●ところが、その後、ソ連からは正式な招待状が、すぐには届かない。

 考えてみれば、創価学会は宗教団体。ソ連は共産主義国。しかも先生は、当時、ソ連と敵対関係にあった中国の国連参加、日中国交回復を提言しておられる。

 コワレンコ氏が“ソ連の指導部は学会について正しい情報を持っていなかった”と述懐しているのも、そのあたりのソ連の空気を指して言ったのでしょう。


江藤●結局、翌年(1974年)になって、モスクワ大学の招へいというかたちで、訪ソが決定したのです。


杉山●何から何まで困を極めていたのですね。

 今からは、像もつきません。


鈴木●訪ソは決定したが、さっきも言ったように、我々は正直、不安でした。

 そんな折、池田先生から、私ども随行メンバーに「世界平和のために行くのです。しっかり祈って」と伝言を、いただいたんです。

「世界平和のために」。どれほど先生が、断固たる決でいらっしゃったか。皆が勇気百倍でした。


弓谷●先生は出発の前日の夜には、新宿区の大願寺を訪れられていますね。


秋谷●大願寺は1972年3に、池田先生が発願主となって寄進された寺です。できて間もないころだった。


鈴木●当時の大願寺には、今は池袋の法道院にいる早瀬日如がいた。学会本部のある新宿区の寺ということで、先生が、どんなに大切にし、真を尽くされたか。

ソ連への出発の直前まで、直接、足を運ばれたという一事をしても、よくわかるでしょう。


杉山●そして今、現実にロシアにも妙法を持ったメンバーが、モスクワはじめ各地で喜々として社会の中で活躍している。

 この現実を考えると、どれほどの義があったか、深く実します。


秋谷●池田先生こそ、日蓮大聖人の御遺命通りに法を弘められた大功労者です。本当に全宗門の、全末寺の大人であられた。

 それを日顕は嫉妬に狂い、裏切り、切ってきた。どれほど極悪人か!

 血の通った人間にできることでは、到底ない。


鈴木●池田先生は74年98日午前11時過ぎ、羽田空港からソ連へ出発されました。この日は日曜日でした。

 モスクワのシェレメチェボ空港に第一歩をしるされたのは、同日午後3時12分(日本時間同9時12分)。東京もモスクワも、素晴らしい晴天でした。


秋谷●歴史的な瞬間だった。

 先生は10日間の訪問で、当時のコスイギン首相をはじめ、ノーベル文学賞作家のショーロホフ氏、モスクワ大学のホフロフ総長など、各界のリーダーと次々と会見し、深い友情を結ばれた。冷戦の「鉄の扉」を開いた、まさしく人間外交の真髄だった。


江藤●超過密スケジュールでの行動でした。文化省、教育省、ソ連科学アカデミー、ソ連対外友好文化交流団体連合会等々を訪間。主なものだけでも20数回もの要人との会談、協議を重ねられました。


鈴木●さらに先生は、行く先々で学生と懇談したり、地元の記者のインタビューに応えるなど、それこそ寸刻、寸秒を惜しんで動かれました。

 申しわけないことに、随行メンバーと、ソ連側の担当者が、先生の宿泊される部屋に集まり、深夜まで打ち合わせをさせていただくことが、たびたびでした。先生にも、奥様にも、ずいぶんご迷惑をおかけしてしまいました。


江藤●モスクワ大学と創価大学の交流が決まったのも、この時でした。

 まさに、この初訪ソで、日ソ両国間の文化・学術交流の扉が本格的に開かれたのです。


鈴木●とにかく先生のエネルギッシュな行動に、ソ連の要人たちも驚き、盛大に歓迎してくれました。ソ連の方々が私ども随行メンバーにも、とにかく「食べろ、食べろ」と出してくれる(笑い)。

 おかげで私も、数キロも太ってしまったくらいです(大笑い)。


杉山●モスクワ大学のトローピン教授は、先生の初訪ソを、ロシア革命を描いたジョン・リードの不朽の作『世界をゆるがした十日間』になぞらえていましたね。

「短い滞在だったが、これは“世界を揺るがした十日間”だった」と。


鈴木●ソ連ある方々にとって、それが実だったのでしょう。何しろ日本とソ連の間には、政府間の文化交流の協定すら結ばれていなかった時代です。


江藤●当時、在日ソ連大使館の参事官として、先生の初訪ソに協力してくださった、クズネツォフ氏(元ロシア外務省アジア太平洋局長)も証言しています。

創価学会を母体とした創価大学や民主音楽協会は、わが国との文化・学術交流に積極的に関わり、両国の関係の進展を促してきました」

「そしてそれが、国際関係が緊迫した際に、ソ連・ロシアと日本との衝突を回避する役割を幾度となく果たしたのです」と語っておられる通りです。


秋谷●後で触れるが、これほどの大偉を、日本は「島国根」だから妬んでばかりだった(笑い)。

「木を見て森を見ない」というか。深い哲学も、信もないから、狭量で、偉大な真実が見えない。それが今の世界の中で、経済は注目されるが、本では信頼されない日本の現実の姿になっている。


聖教新聞 2004-09-17付】

2004-09-16

魔と戦う人が偉大


 本日、私がとくに申し上げたいことは、「謗法」や広布を妨げる「」と戦うことを絶対に忘れてはならないということである。

「曽谷殿御返事」には、次のように仰せである。

謗法を責めずして成を願はば火の中に水と求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(1056頁)――謗法を責めないでいて成を願うことは、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるようなものである。はかないことである。はかないことである――。

 謗法との戦いなくして、成はありえないとの厳然たる御聖訓である。

また、「秋元御書」には「常に禁(いま)しめて言く何なる持戒・智高くして御坐(おわ)して一切経並に法華経を進退せる人なりとも法華経の敵を見て責め罵(の)り国主にも申さず人を恐れて黙止するならば必ず無間大に堕つべし」(1077頁)――常には戒めて言われている。どんなに戒律を持(たも)ち、智が高くて一切経と法華経を自在に解する人であっても、法華経の敵を見ておきながら、責め、罵り、国主にも言わず、人を恐れて黙っているならば、必ず無間大に堕ちるであろう――と仰せである。

 社会的にいかに立派に見える人であっても、また自分は著人である、地位や学歴がある、教学力がある等といっても、謗法と戦うがなければ成はない。

 正法を信奉する学会にあって、「破和合僧」の工作をしたり、自分の地位を守るために組織を利用し、広宣流布と私どもの信を妨げようとする人間に対しては、厳として戒め、厳として祈り、戦っていかねばならない。遠慮したり、怖がったり、恐れたりしては絶対にならない。かりに、今まで先輩であったとしても、「謗法」はどこまでも「謗法」である。

 大聖人は「・日日につより給え・すこしもたゆむあらばたよりをうべし」(1190頁)――々、日々に、信を強めていきなさい。少しでもたゆむがあればがそれを縁にして、襲ってくるであろう――と仰せである。

「信」は「」との戦いである。信が弱まれば必ず「」は勢いを増す。ひいては信を破られてしまう。外から襲いくると戦うことは、そのまま自身の内なるとの戦いなのである。それなくして広布の前進も自身の一生成もない。

」との戦いを失った信は、結局、観論に陥ってしまうし、御聖訓通りの道修行とはいえない。

 妙法の世界にあって、誉れの人、偉大な人とは誰か。それは信強き人である。勇猛のと戦う人である。 成は立場や格好で決まるものではない。信が強いか弱いか、広宣流布への一が深いか浅いかで決まる。ここに法の厳しき因果律がある。

 私は、これまであらゆる障と真っ向から戦ってきた。一歩も退(ひ)かなかった。それが大聖人の教義であるし、戸田第二代会長の信と行動でもあった。

 ともあれ「」を恐れずに、厳然と戦ってきたがゆえに、今日の大発展と大功徳がある。これからは、幹部や青年部は、私がいるからという安易な考えであっては断じてならない。隆々たる発展を遂げる大法の前進の中で、いつしか、「謗法」や「」と、どこまでも戦い抜く精神が薄らいでいくようなことがあっては絶対にならないと申し上げたい。

 ともかく、信は「臆病」であってはならない。また、他人まかせであってはならない。幹部でありながら、「障」と戦っていくことを避け、周囲の評価を気にして要領よく生きていこうとするのであれば、もはや信とはいえない。

 皆が団結し、強盛な祈りに立てば、少しぐらい幹部や先輩が退転しても、そんな低次元のことは何も恐れる必要もない。朗らかに堂々と戦っていけば、御聖訓に照らし、勝敗の結果は全部明白となるからである。指導者である皆さま方は、いかなることがあっても、自らの「祈り」と「責任」において、真正面から取り組み、勝利への道を切り開いていく、師子王のごとき信でなければならないと強く申し上げておきたい。


【第4回本部幹部会 1988-04-22 創価文化会館


 僧・日顕による宗門問題が勃発する2年8ヶ前の指導である。


 この頃から学会では、電話回線を使用した音の同時中継を行った【記憶があやふやなため、情報募集中!】。先生のを主要会館で聴けるようになり、私はこれこそ、虚空会の儀式であると勝手に合点したものだ(笑)。


 先生の指導が直接、組織の末端に届くようになり、全学会員が信と学会精神の王道を学んだ。この時期がなかったならば、ペテン師・山友とつるんだ日顕の謀略も成功したかもしれない。


 1988年(昭和63年)は、先生がご自身の手で、全く新しい創価学会をつくり上げようとされた時であると、私は確信している。

2004-09-15

結集に左右されるな


 今日は結成式であり、原島先生をはじめ、柏原先生、辻先生、森田さんと一緒に6時少し前にここに着いたのです。そうすると、田中さんをはじめ、大幹部の人々が、何となく生気がないのです。ははあ、これは結集が遅れているので、会長に申しわけないなと、おこられはしまいかと。こっちの方がよっぽど配です。そのことに対して。

 それで、車を降りて聞いてみたら、その通りなのです。「まだ半分ぐらいしかきておりません」と。いいではありませんか。会長のための結成式でもなければ、大幹部のための結成式でもありません。多忙のために遅れてくる人もあるでしょう。また、来たくなくて来ない人もいるでしょう。ただ、本当に支部が結成されて、喜び勇んで、より以上、功徳を受けようという人が集まれば、それで私はよろしいとうのです。

 講義においても同じ、座談会においてもしかり。全部、法を求める人が功徳を受け、境涯を開いていく。それが創価学会の会合の精神であります。


【大塚・豊島支部結成大会 1960-12-19 世田谷区民会館


 32歳の青年会長の包容力が、老若男女の会員を温かく包み込む。


 先生が言われていることは、形式主義への破折であろう。だからこそ我々は、この指導に甘んじてはいけないとう。常に、戦う陣列をきちっと揃えて、会合に臨みたい。


 結集が悪いからといって、幹部が動揺すれば、参加している人々を軽んずる結果になる。間に合わなかった以上は、少数精鋭主義で、しっかりと楔を打ち込み、次の会合を期すべきだろう。


 いずれにせよ、幹部の力を誇示するために集めるわけではないし、幹部の顔を立てるために会合を開くものでもない。会員中で発してゆけば、行き詰まることは断じてない。

世界を動かした偉大なる民間外交 1


「正義と勝利の座談会」第2部 77


弓谷●今8日、池田先生がロシア、当時はソ連を初訪問されてから30周年を迎えました。


原田●あの池田先生訪ソが、今になってみて、どれほど画期的、歴史的なものであったか。何しろ米ソ冷戦の一番厳しい時代だった。何よりも「核の脅威」が広がっていた。


原●しかし日本から見ると、ソ連は“鉄のカーテンの国”“怖い国”という印象が皆にあった。政治家も日本の将来を考えて本気で行動する人間がいなかった。


秋谷●だからこそ、池田先生は行動された。当時の状況を知る識者は、先生の先見を異口同音に讃えている。


中島●先日の聖教新聞(98日付)でも報じられていたが、当時、在日ソ連大使館の参事官だったクズネツォフ氏も、こう語っていた。「あのしい時期に、あれだけの短期間に、民間レベルで、ソ連と中国の両国首脳と会えるような人物は、日本のみならず、どこを探しても見つからなかったと言えるでしょう」「30年前の池田会長の『第一歩』が、表には見えない『種』となり、『根』となって、両国民のに大きく花開いてきた」と。


野村●まさしく、21世紀を見据えての「平和」と「文化」と「教育」の行動が開始されたわけだ。先生は“中国もソ連も日本の隣国であり、友情を結ばなくては、日本とアジアの平和、安定はない”という強い信だった。


秋谷●何しろ、日本は目先のことしか考えない。「宗教者が、なぜ共産主義の中国、ソ連に行くのか」等々、それはそれは執拗な、また悪の中傷があった。


中島●宗門の愚劣な坊主連中も“どうして折伏できない国に行くのか”なんて言ってたな(大笑い)。


原田●内外ともに無理解の壁。中傷の嵐。どこにも味方はいなかった。その中を先生は、日本のため、世界平和のために敢然と道を開かれたのです。


秋谷●重大な歴史だ。先生の初訪ソの歴史については、また改めて語り合いたいとう。


原●さらにまた、先生が訪ソされた74年の年末には、学会と日本共産党との間に「創共協定」が結ばれた。これも「宗教と共産主義の共存」という、文明史的義の上から結ばれたものだった。


中島●するとまた、それを面白くわない勢力が陰湿に妬みはじめた。「学会は共産党と手を結ぶんじゃないか」と邪推し、反発しだした。


秋谷●実は、あのデマスキャンダルを書いた「月刊ペン事件」も、こうした当時の動きの中で起こったことだ。『月刊ペン』が学会批判のキャンペーンを始めたのは75年。時期的には先生の訪中訪ソ、そして「創共協定」が表面化した直後のことだった。


野村●その通りだ。そのことは「月刊ペン事件」の裁判の判決にも、ハッキリ書かれている。「被告人(=『月刊ペン』編集長の隈部大蔵)は、昭和50年8ころ、当時表面化した創価学会と日本共産党との間のいわゆる創共協定に対し、教義上の立場から疑問をつのらせ、『月刊ペン』誌に創価学会批判記事を掲載することを企画し」(東京地裁、昭和58年610日)等とある。


中島●一目瞭然だ。謀略の舞台裏が、明らかじゃないか。要するに「月刊ペン事件」の本質とは「嫉妬」と「怨」の輩が仕組んだデマ事件、政治的な謀略事件だったということだ。


原●『月刊ペン』というのは、もうとっくに廃刊になったが、右翼絡み、総会屋絡みの三流雑誌だった。どっかを脅したり、因縁をつけては、商売をするという手口だった。それに隈部は「大乗教団」という宗教団体の幹部だった。判決に「教義上の立場から」とあるのは、そのためだ。


秋谷●あまりにも、ひどい事実無根の中傷記事だったので、学会側はデマを書いた隈部を誉毀損で刑事告訴。隈部は逮捕され、勾留されている。


原田●どれほどインチキな作り話だったか。何しろ判決でも“隈部は当時、仲間のライターから「ネタ元の人間も、タレ込んだ人間も、素が怪しい。要注人物だ」「記事は載せないほうがいい」と忠告を受けていた”と明確に認定されているほどだ。


弓谷●その上で判決はデマ記事の作成にあたっては「具体的にも一層の慎重さが必要な状況にあったと考えられる」と結論している。


中島●にもかかわらず隈部はデマ記事を書いた。それほど根深く嫉妬に狂い、金儲けに狂っていたということだ。


弓谷●当然、裁判で隈部は厳しく断罪された。最終的に金20万円の有罪判決が下された。これは当時としては最高額の金刑だ。


原田●しかも隈部は、池田誉会長をはじめ学会に「詫び状」まで書いている。「(『月刊ペン』の記事には)事実の確認に手落ちがありいちがいがありました」「行過ぎのあったことに対しては、率直に遺憾のを表明致します」とハッキリと謝罪している。


原●それだけじゃない。この『刊ぺン』のデマを利用して、学会攻撃を目論んだ、極悪ぺテン師の山崎正友。こいつの謀略も大失敗したことは、ご存じの通りだ。


中島●あんなデマに飛びついたからだ。


野村●何しろ山崎のウソは、作り話ばっかりだから「いつ」「どこで」「誰が見たんだ」と厳しく追及すると、すぐウソとバレる。結局、法廷で山崎らは“ウソをついた”と20回以上も断罪されて、赤っ恥をかいた。


原田●そして山崎は、自分の犯した恐喝事件で懲役3年の実刑判決を受けて服役。商売道具にしていた、弁護士の資格もなくし、完全に社会の落後者となり、今では日顕のところぐらいしか出入りできない(笑い)。


弓谷●それに山崎は、自分の汚らわしい不倫事件まで発覚して、断罪されたほか、今年3には、デマ記事などで2度も断罪され、今なお20数件もの裁判を抱え「裁判地獄」でのたうち回っている。


秋谷●先生の偉大な民間外交への嫉妬に端を発した「月刊ペン事件」だった。結果から見て、あのデマ事件が、いかに政治的な謀略事件だったか。山崎が関わったことで、その真相、内幕が、一段と浮き彫りになったと言える。


原田●法上も「猶多怨嫉」「悪口罵詈」と経文にある通り、偉大な発展をすればするほど、謀略と戦わなければならない。また戦い勝ってこそ偉大な前進がある。


秋谷●先生と会談され、対談集の準備も進められている、アルゼンチンの人権活動家のエスキベル博士(ノーベル平和賞受賞者)は、こう喝破している。“迫害こそ正義の証である”と。事実無根のデマの嵐こそ、真実の「正義の人」である何よりの証

だ。


聖教新聞 2004-09-15付】

2004-09-14

創価ルネサンス覚え書き


 師弟共戦の「創価ルネサンス」の証言を残しておく。「創価クロニクル」も併せて参照されたし。


1990年42日(平成2年)


 総本山にて戸田先生の33回忌法要。私は個人登山で法要後の御開扉に参加。奇しくも、母と二人の伯母が北海道から参加。本山にて落ち合う。


 この日、先生より青年部に歌を頂戴す。


 大法要 仇を討てとの 響きあり

        君らの使命と 瞬時も忘るな


 正木青年部長・谷川男子部長(役職は当時)が本山に呼ばれ、先生より直接、手渡された。この時、私の先輩が随行している。歌に込められた先生のを、図りかねている様子だったとのこと。


 後日、先生から「宗門に戸田先生の33回忌法要をやらせたじゃないか」とのお話あり。広宣流布の基礎を築かれた戸田先生だが、逝去された際、宗門内部においては、「所詮、信徒ではないか」という空気が立ち込めていたという。告別式は池袋・常在寺で執り行われ、宗門を挙げての追善は無かった。


1990年11平成2年)


 私が始めて宗門問題を識したのは、確か11だったと記憶する。この時、ある副会長が隣の地区の座談会に入った。終了後、支部で地区部長会を開催。会合を終え、題目三唱をして振り返るなり副会長は指を差して言った。


「僧侶の写真を部屋に飾るのはおかしくありませんか? 信されてないご親戚などの目には、奇異に映るのではないでしょうか? 先生の写真は当然、あってしかるべきです。先生は我々の師匠なんですから。地区幹部の皆さんだからこそ、本当の話をしました。地区の方々にまで言う必要はありません」


 吃驚(びっくり)した。が、「そう言われてみりゃ、そうだわな」ともった。郷里の母から電話があった際にこの話をした。母は当時、婦人部本部長。「そんな副会長は信がおかしい。御本尊を書写する猊下が間違いを起こすはずがない!」と断言した。


1990年12平成2年)


 20日前後に行われた新年勤行会の役員会でのこと。最後に挨拶した総区長が言った。


「実は今、学会と宗門の水面下でミサイルが飛び交っている。何があろうとも紛動されてはならない」


 わけがわからなかった。


1990年1228日(平成2年)


 29日だったかもしれぬ。総講頭罷免の件が現場に伝えられる。「黒い鉄鎖は断ち切られたのだ」とのメッセージが先生から。


1990年1231日(平成2年)


 23:00、墨田区・本行寺(高野日海住職)にて新年勤行会の役員。日顕が若い時分にいた寺である。誰もが緊迫した面持ちだった。道路を挟んで真向かいにある古刹・常泉寺(藤本栄道総監)では学会青年部の役員を拒否。急遽、法華講青年部が運営。


 年が明けても役員の誰一人、「明けまして、おめでとうございます」と言わなかった。それほど緊張していたし、学会員から新年を寿ぐ機会すら日顕は奪った。役員には、くれぐれも事故のないように、また、絶対にこちらから暴言を吐くような真似はしないよう徹底される。


 私は急遽、先輩と二人で常泉寺に行くよう指示された。「様子を見るだけでよし。但し、何かあったら立ち上がるように」と。副会長が数、男子部の最高幹部もチラホラ見えた。私の目の前で酔漢が殴り合いを始めた。法華講青年部の運営は、マニュアルを教えられていないアルバイト店員より酷いものだった。


 藤本が学会非をするや否や、参加者の後方にいた墨田区副総合長(当時)が立ち上がった。「総監に質問があります!」。その瞬間、怒号が飛び交った。「やめろ!」「やれ!」。説法を途中で止めると法に触れるとのことで、こうした形になったとわれる。藤本からの提案で、終了後、別室にて質問会を行う運びとなった。猛ダッシュで走ってゆくと、既に紺色の背広だらけだった。その大半は怒りに燃えた創価班と牙会だったことだろう。しばらく待つが、男子部幹部より「今日は中止」と告げられ、散会となった。藤本が恐れをなして逃げたのだろう。


 本行寺の高野は、学会批判をせず。


1991年11日(平成3年)


 ファックス通信「地涌からの通信」が発行される。不破優を乗る人物が中となり、学会の会館末寺にファックスを送信。日蓮正宗の宗史が、謗法まみれであることに論及。区幹部会などで紹介されるが、しばらくの間は怪文書扱いだった。どちら側の人物が発信しているかも判明してなかった。


 全体的なムードしては、問題の本質がよく理解できてない会員が多数を占めていた。2ぐらいまでは、末寺に足を運んでいたし、婆も立てていた。例登山会もこの年の6まで、通常通り行われた。大白蓮華の1号で日顕が学会を称賛していたため、法主の側近がおかしくなったのかもしれないという憶測もあった。


1991年3平成3年)


 後戻りできない状況であると自覚したのが、この頃だったとう。

「海外布教の方針変更」、「20億円のプールつき豪邸建設計画」、「添書登山実施の通告」、「正本堂義改竄(かいざん)」等々によって、法主の取り巻きではなく、法主自身がおかしいことに、やっと気づいた。


 なかんずく、正本堂義改竄に、私の中で怒りの焔(ほのお)が猛り狂った。「宗門は、終わったな」と確信した。


1991年46〜7日(平成3年)


 総本山にて、御虫払いの特別任務。「学会員を守り切るのだ!」との指示に皆、武者震い。


 大客殿にて、真翰(しんかん)巻返しの儀式。日顕の相は醜悪極まりないものだった。登場するや否や、「何で、空いてるんだ? 信徒席が空いてるじゃないか! 詰めろ!」と激昂。例年、中央は空けられていることを伝えられたようだったが、釈然としない表情だった。次々と登場した128体の御本尊は、学会を護ろうとして現れてきたようにじてならなかった。途中、御本尊を持ったまま、年老いた僧侶がガクッと転びそうになり、見ているこちらが冷や汗をかくシーンも。


 任務終了後、先生より激励の書籍『人間と文学を語る――ロマン派の詩人ヴィクトル・ユゴーの世界』を全員に頂く。


1991年628日(平成3年)


 日にちはうろ覚えである。いずれにせよ、登山会の歴史に終止符が打たれる2日前だと記憶する。


 本山運営は、18:00に世界青年会館に集合。バスにて一路、富士宮へ向かう。到着後、輸送センターにて引き継ぎ、及び指導会を行う。本山担当の創価班は、折伏の決着をつけて、本山に登るのがその伝統となっていた。


 丑寅勤行は、須弥壇に向かって右側が学会、左側が法華講という座り方になった。「参加者の人数が少なかろうと、学会のスペースを死守せよ」と徹底される。案の定、学会員の参加は極めて少なかった。出仕太鼓が鳴ったが、日顕は出てこない。痺れを切らした学会の壮年いっ切りアクビをして、周囲から笑いが漏れた。日顕は15分も遅れて登場。


 明けて、いよいよ最後の任務である。私が担当していたのは、正本堂前の円融閣。御開扉を受ける方々が整列する場所で、最も激しい任務場所。最後の参加者を正本堂に誘導すると、「全員でバスターミナルへゆき、学会員を見送ろう!」との指示。


 あの光景は終生、忘れることはないだろう。集った創価班全員で、高らかに学会歌を歌い、「創価学会、万歳!」「池田先生、万歳!」の連呼がバスターミナルを揺るがした。騎馬を組んで走り回っている者もいた。千切れるほどに手を振り、笑顔でを掛けた。動き出したバスの中で、そっと白いハンカチを取り出し涙を拭う婦人がいた。


 日顕がやったことは、こういうことなのだ。罪もない一婦人に不安を抱かせ、希望に満ちたはずの登山会で、涙を流させるようなことをしてきたのだ。私はあの婦人の涙を見た時、宗門問題の真実を目の当たりにした。


 後に、時の男子部長は叫んだ。「最早、訓練の時ではない。実戦の時である!」と。あの日、我々創価班は捨て身で会員を守った。それは当たり前のことだったが、戦場に身を置いた者でなければ知り得ない何かがあった。


1991年1128日(平成3年)


 この年の6、私は男子部の部長となった。創価新報を始め、聖教新聞でも日顕宗を糾弾する記事が紙面を賑わした。これに対して、一部会員の間に辟易(へきえき)する雰囲気が出てきた。


 私の部長としての戦いに、「宗門問題の話で笑わせる」という項目が加わった。支部活動者会で話す内容は丸々1ヶをかけて考え抜いた。このため、私の話は常に支部長よりも長くなってしまった。それでも支部長は嫌な顔一つしなかった。


 この日、支部活動者会を終えて帰宅。トイレで腰を下ろすと、なんだかケツがムズムズする。恐る恐る手を延ばしてみると、肛門の片側がはみ出ていた。痔になってしまった。


 翌日、ムズムズするケツを抱えながら仕事をしたが、どんどん痛みが増してくる。2日後には、激痛が走り、あぐらをかくこともできなくなった。挙げ句の果てには、私の傍を人が通るだけで、「アータタタタ!」と『北斗の拳』のケンシロウみたいな悲鳴を上げるようになる始末。


 痔撃退のため1日1時間の唱題に取り組んだ。直ぐに諸天善神が現れた。同じ会社に勤務する婦人部の方が素晴らしいアドバイスをしてくれたのだ。「私も出産して、痔になったんだけど、とにかく清潔にすること。それから、お風呂に入った時に、指で内側に押すといいのよ」と。


 この結果、病院に行くこともなく痔は1週間で完治。あぐらもかけるようになり、安堵のを漏らした。


 実は、私が痔になった1128日、日顕宗創価学会を破門にした。


 12の支部活動者会で私はこの体験を語った。


 痔という漢字は、「やまいだれ」に寺と書く。つまり、宗門問題が起こるまで、宗門(寺)が病んでいることを知らなかったである。だからこそ、創価学会が破門になったその日に、肛門が破門状態となったのだ。しかし、こんな問題は、を入れ替えて本気で1週間も題目をあげれば、乗り越えられる問題である、と。


 もう、爆笑の渦。やんややんやの大喝采。私は創価学会に呼吸の合った自分のお尻に謝した(笑)。

2004-09-13

国立戒壇=国教化にあらず


 国立戒壇の建立は日蓮正宗の願望であり、また会長先生の、創価学会の目的でございます。国立戒壇建立といえば、一般の人々は、国家の特権や国家の圧力をもって戒壇を建立するというように考えがちでございますが、会長先生は、後楽園の総会の席上において「日本国民の一人ひとりが大御本尊様の功徳を納得して、初めて広宣流布ができるのである」といわれました。すなわち日蓮大聖人様の法、大御本尊様の功徳が全民衆にいきわたって、その世論として国立の戒壇ができるということを知らせていかなければならないとうのです。

 国立戒壇建立ということを考えると、即座に一般の人々は日蓮正宗を国教にするのではないか、創価学会の目的は、政界にたくさんの政治家を出して、日蓮正宗を国教にするのだというように見られてまいりました。その時に会長先生は「全くそんな図はない」と仰せられました。創価学会の戦いは、あくまで日本の国の幸せと、東洋、世界の人類救済しかない。国立戒壇建立ということに対しては、あくまで、日蓮大聖人様の至上命令であるが、大聖人様も国教にするとは仰せになっていらっしゃらないといますし、会長先生もそんな図はないとおっしゃる。

 これをしみじみ私どもが考えた時に、国立戒壇ができ上がっても、その国立戒壇は日本一国のものではない。大聖人様の法は一閻浮提総与の大御本尊様である。全世界にわたっての宗教であります。日本の国立戒壇の建立ということは、全世界の国立戒壇に通じていくと、私は信ずるものでございます。そうした場合に、日本の国で日蓮正宗を国教としてしまったならば、はたして、鮮や中国が用いるかどうか、ヨーロッパの民衆が用いるかどうか。


【第7回男子部総会(※当時、参謀室長) 1958-12-07 両国日本大学講堂】


 指導だけアップしようとったが、勘違いする人が出てくると困るので、敢えて付言しておく。


 戸田先生の逝去から8ヶ後の指導である。池田先生は当時30歳。逝去後の指導は一貫して、戸田先生の構を実現せんとの気魄(きはく)に満ち、明快なる指針を全学会員に示されている。


 この指導が「国立戒壇」という言葉が出てくる最も古い指導の一つである。「国立」が「国家による建立」を目指すものでないことは明白だ。国家権力と生涯にわたって戦い抜かれた大聖人の本が、民衆立であったことは言うまでもない。


 最後の指摘は極めて重要。この時、既に先生の視野には“世界”が入っていた証拠である。戸田先生は終生、「東洋広布」を叫ばれた。それを偉大なる弟子が、現実に世界に広めた。


 日蓮大聖人の御遺命である法華本門事の戒壇である正本堂は、800万信徒の赤誠の結晶として1972年(昭和47年)1012日に落成。三大秘法の大御本尊を荘厳すべく、富士の裾野にその威容を現した。


 天日顕がこれを1996年に破壊したことは、人類永劫の歴史に刻印されるであろう大罪の一つだ。


 1990年(平成2年)1227日という年の瀬の押し迫った時期を狙って、あたかも背後から斬りつけるように、池田先生の総講頭を罷免。年が明けた16日に本山で行われた教師指導会では早速、妄説を披露。「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」(昭和47年428日の日達上人「訓諭」)の「たるべき」に触れ、「“推量”の助動詞で予定のである」と正本堂義を改竄(かいざん)。後日、国語学者の権威によって「“当然”を味する助動詞である」と覆された。


 激動の創価ルネサンスの始まりであった。当時、私は男子部の副部長。若き生命に極悪への怒りを克明に刻んだ。後年、解体中の正本堂もこの眼で見てきたが、写真で見るのとは全く異なり、像を絶する惨状だった。

2004-09-12

退転・反逆者の共通点


 各地、各部で新体制がスタートした。新任幹部は最初の3ヶが勝負である。その味からも「幹部の姿勢」について確認したい。

 一つ目に、幹部は絶対に威張ってはいけない。傲慢であってはいけない。

 自分で威張っているとっている人はいない。しかし、こんな人は傍(はた)から見ると威張っていることになる。


 1. 人を大で怒鳴る。すぐに怒(おこ)る。自分の情を自己抑制できない。

 2. 我慢できないで、すぐに切れてしまう。人格として幼稚である。

 3. 人の見が聞けない。“うるさい”と言わないまでも、面倒くさそうな顔をする。すぐ反論して自分の見を通してしまう。「話し合い」ができない。

 4. 話が長い。まるで独演会。その割に内容がない。


 学会は「和合僧」の組織である。皆が自由にものを言える雰囲気が大事である。

特に現場をよく知る婦人部の見は大事にしなければいけない。幹部が調和をとることである。きちんと合議して、皆が納得してこそ、う存分、力を発揮できるのである。

 二つ目は、金銭問題である。再三にわたって注があるように、創価学会は会員の皆様の尊い財務によって支えていただいている。

 すべて広布のためであり、厳格、厳正に行われてきた。この点、幹部はいささかも、おろそかにしてはならない。

 金銭にルーズであったり、不明瞭さ、不透明さのある人間は、最後は信の軌道を踏み外していく。

 そして、三つ目として、男女の関係において、絶対に問題を起こすようなことがあってはならない。

 これまでも問題を起こした反逆者、退転者等、学会に迷惑をかけた輩が出た。極悪ペテン師の山崎正友、また、竜年光、藤原行正、原島嵩等である。我々は正体を、よく知っている。

 池田先生も、その本を見抜かれ、配され、厳しく注もされた。しかし、悔い改めるどころか、逆恨みして退転していった。そして恐喝事件を起こしたり、金銭問題や女問題を起こしたり等々、敗北の人生となった。

 これら大ある学会を裏切った連中には、共通点がある。


 1. 勤行をしない。学会活動を馬鹿にして、活動しない。

 2. 欲が深く、金に汚い。身分不相応に贅沢をする。金のありそうな取り巻きを集め、飲み食い代を払わせる。

 3. に弱く、生活が乱れ、女関係が、だらしない。

 4. どこで何をやっているかわからない。時々、行方不明になる。

 5. 見栄っ張りで、格好をつけ、自分は特別な人間であるとわせる。

 6. 傲慢で誰の言うことも聞かず、陰で幹部を批判する。


 日蓮大聖人は、退転者の傾向として「おくびやう物をぼへず・よくふかく・うたがい多き者」と仰せである。

 知らず、忘、裏切りは人間として極悪であるばかりか、法上も絶対に許されざる不知である。断じて許してはならない。


【各部代表者会議 秋谷会長 2004-08-26】

2004-09-07

新任幹部は新しい心で進め


 下半期の出発である。各方面で新しい人材が躍り出ていく。

 私は新任のリーダーに申し上げたい。

「新しいで進め!」

「もう一度、信の原点に立ち返って、『広布の一兵卒』『創価の志願兵』として戦おう!」

 人ではない。自分が先陣を切ることだ。

 皆さまは、広宣流布の指導者である。同志に希望と勇気を与え、幸福へと導く責任がある。

 真っ先に、悩める友のもとへ駆けつける。一番大変なところへ自分が行く。 そうした大誠実の行動のなかに、人格が光っていくのである。

 またリーダーは、黙っていてはいけない。自分から、どんどん、をかけることだ。

「しばらくですね! 調子はどうですか」

「お身体、気をつけてくださいね」

 温かい言葉。元気が出る言葉。に残る言葉。それを贈っていくのが、法の指導者である。


【関東代表者協議会 2004-08-15 群馬県多宝研修道場


 この指導を紹介したのにはワケがある。MLで、ある地域の壮年が、「幹部に指導を受けたいのだが、自分はブロック幹部なので手続きの仕方がわからない」という話をした。以前、支部幹部に指導を受けた際には、「どうして、地区部長を通さないのだ!」と叱られたという。


 MLで様々な激励を受け、この壮年は〈県〉幹部に電話をして、約束ができた。ところが前日になって、「会合が入ったので、駄目になりました。今はスケジュールが一杯なんで、無理です」と言われたそうだ。


 こんな組織があっていいはずがない。ネットでのやり取りだから、実際はどういう経緯があったのかはわからない。だが、それを差し引いても、指導を受けたい人がいながら、その人を放っておくような組織創価学会といえるのか? こういうデタラメなクソ幹部が組織を崩してゆくのだ。


 私は青年部時代を人情厚い東京の下町で過ごしてきたこともあって、こんな幹部を許すわけにはいかない。下町では、「誰かが大変だ!」となるや否や、直ちにその人の前が徹底され、前に掲げられる。それは、信してない人に対しても同様だ。


 中堅幹部が手に負えないような問題であれば、直ちに別の幹部につなぎ、悩みを解決するためのネットワークが組織に張り巡らされていた。


 だから、かような幹部がいる事実を知ると、今直ぐにでも殴り込みに行ってやりたいほどの怒りに駆られる。


 もしも、同じような組織があったとすれば、福運なき自分をしっかりと見つめ直し、諸天善神を呼び寄せる唱題をひたぶるに唱えるしかない。


 必ずの固きに仮(よ)りて神の守り則ち強し(1220頁)

組織悪と戦え


 私は、入信間もない青年部のころ、悩みがありました。それは、周囲に立派な先輩が少ないということでした。終戦間もないころでありました。

 誠実さも慈愛もなく、ただ威張っているような壮年が多かったのであります。堕落した幹部もいた。陰で戸田先生を裏切っている幹部もいました。青年として、私は許せなかった。権威的で、真剣にやらない上に、後輩を大切にしない先輩が嫌いでありました。

 ある日、戸田先生は私のを見抜かれて、「創価学会が嫌いなのか」と聞かれた。私が「その通りです」と実情を申し上げると、先生は一言、「それならば、大作、お前が本当に好きになれる創価学会をつくればいいではないか」と言われたのであります。

“良い人がいないというならば、君自身が偉くなればよいではないか。君自身が模範になればよいではないか”“鯉が竜に成長するにも、上から落ちて来る滝の圧力に逆らって、登り切ってこそ、竜になれるのだ。やりにくいところで、うんと労してこそ、人間も偉大な人になれるのだ”“先輩など、あてにするな。全部、青年が青年の責任で、理創価学会を建設していけ。それを私は期待しているのだ”そういう先生のでありました。この明快な指針の通りに、私は戦いました。広宣流布の一切の責任を担って、猛然と一人、立ち上がったのであります。

「革命は死なり」の決で、50年間、走り抜きました。そして今、全世界から顕彰される創価学会になりました。牧口先生戸田先生が「世界の偉人」と認められる「証明のドラマ」を綴りました。

 私は今、青年部の皆さんに、この戸田先生の言葉を、そのまま贈りたいのであります。 そして、わが池田門下の君たちが、こぞって猛然と立っていただきたい。

 広宣流布に遠慮はいりません。よき先輩は尊敬しながら、悪い先輩は叱りつけて進めばよいのです。そして婦人部を大切にしながら、傲慢な敵は一人も残さず、屈服するまで責め抜いて、広宣流布の新しいうねりを無限に広げていただきたい。


【全国青年部へのメッセージ/聖教新聞 1998-05-15付】


 これは先生が入会されて間もない頃のエピソードであろう。多分、戸田先生の会社で勤務するようになった21歳の頃と像する。


 不平不満を吐いて終わっているだけの人は、所詮、現状に甘んじているだけだ。そもそも、完璧な組織があれば、そこに自分が存在する味はない。まだまだ、理的でないからこそ、自分が必要とされるのだ。


 組織が大きくなってくると、どうしても人間が小ぢんまりとなる。出来上がった組織に乗っかっただけの役人みたいな幹部も出てくる。組織をつくるという気概がどんどん薄くなる。こうなると、取るに足らないことで文句が出るようになる。偉大なる師匠がいながら、どうしても嫌な幹部に目を奪われる。「自分は納得できない」と言うようになったら、もうおしまいだ。そんな小生気な人物は、広布長征の邪になるだけだ。


 先生は、戸田先生の指導のままに、明けても暮れても折伏折伏という灰色の組織に、“文化”という花を添えた。それが、音楽隊であり、文化祭であり、民音となって結実した。


 参謀室長となってからも、理事室は何一つ理解を示さず、無責任な反対ばかりしていたのが実態だった。


 今は本当に自由な時代となった。やろうとえば何でもできる。これからは、皆が驚くような新機軸や企画を示せない幹部は、どんどん取り残されてゆくことだろう。

2004-09-05

一つの出会いから世界広布が


 一つの出会いから、一つの出会いへ。一つのから、一つのへ。そして数限りない出会い動を生みつつ、妙法もまた世界に広がっている。この「からへ」「人間から人間へ」という方程式を忘れてはならない。文化・宗教が流布しゆく際の真髄がここにある。


【第4回本部幹部会 1988-04-22 創価文化会館


 広宣流布とは、民衆が奏でる叙事詩であり、壮大なドラマである。そして、この革命の舞台にあっては、全員が主役だ。脇役は一人もいない。一人ひとりがかけがえのない存在として光を放つのだ。


 広布を推進する原動力は組織の力ではない。一人ひとりの信力・行力である。組織といっても、所詮、人の集まりだ。そうであれば、人間に光を当てずして、誰が動こうか? 号令や打ち出しで人を動かそうとする幹部は必ず堕ちてゆく。信根本のリーダーは、功徳と人間革命をもって皆を率いてゆく。


 信の世界にあって遠慮は不要だ。遠慮をすれば、した分だけ自分が損をしてゆく。役職ではなく、真の責任が重んぜられる世界なのだから。天草四郎ジャンヌ・ダルクに役職があっただろうか? 熱原の三烈士にしても同様である。革命は、自らの信で立ち上がった一人によって成就されることを忘れてはならない。


 この下半期、いよいよ学会創立80周年を目指しての折伏戦がスタートした。何はともあれ、先生がご健在の時に、一人でも多くの池田門下生をつくることが我々の最重要課題だ。先生の眷属を呼び現してみせる! 全ての友人を先生につないでゆこう! この決で臨みたい。

2004-09-04

オフ会厳禁


 創価系サイトで、「オフ会の注事項」を掲げているところがあるが、愚の骨頂であると明言しておく。


 信指導、また激励は、ラインで行ってゆくべきことである。時折、既に青年部を卒したOBや、異なる組織の先輩に指導を受ける人がいる。妙な人間関係を作り、人を選んで指導を求めるような学会員は、退転の隣にいるといってよし。大体が親分子分のような関係となり、中者に呼吸が合ってないことさえ気づかなくなる。


 ましてや、組織と関係ないネットの世界において、仲良しグループを形成し、具体的に集まるとなれば、これはもう組織組織である。互いの闘争を讃え合う関係から始まって、間もなく組織批判や幹部批判で盛り上がってゆくことだろう。また、独身の男子部などは、下をひた隠しにしながら、下劣なチャンスを窺っているに違いない。


 オフ会を呼びかけるような主催者のサイトは信用するべからず。オフ会にのこのこ出掛けるような人物もまた信用すべからず。

2004-09-03

創立80周年へ 創価の上げ潮


 私も幾たびとなく親しくお会いした、ヨーロッパ統合の父クーデンホーフ=カレルギー伯爵の響きあるが、忘れることができない。

「人生は闘争であり、また、いつまでも闘争であるべきである」

 創立80周年へ!

 西暦2010年へ!

 今、新出発の号砲は、高らかに鳴り響いた!

「八」とは「開く義」である。創立80周年を刻む2010年の尾根を堂々と勝ち越えた時、広宣流布の眺望は、一段と限りなく開けゆくであろう。

 時の流れほど、大きな力はない。20世紀は、1910年代に世界大戦が勃発し、「戦争の世紀」となった。

 21世紀も、最初の10年が勝負だ。「人間主義の世紀」を築けるか、否か。その分水嶺が2010年である。

 今、各地で、新進気鋭の人材が続々と登用されている。

 いずれの人事も、創立80周年への大切な布陣である。

 学会は、命令や肩書で人を動かしていく組織ではない。幹部であればあるほど、最前線の会員に奉仕していく、尊き組織である。

 徹底して「一人」を大切にしてきたから、学会は未曽有の大発展を遂げてきたのだ。


 私は、昭和54年4に会長を辞任した直後から、功労者の家々を訪ねていった。

 第一に、会員へ「謝」のを伝えたかったのである。

 会長を退く直前、お会いした中国のトウ穎超先生は、私の辞任に異を唱えられた。

人民の支持がある限り、辞めてはいけません」

 強くに残る言葉だった。

 若くして第三代の会長になった私を、全国、全世界の同志が、から強く強く支えてくださった。

 新しき、道なき道を開いた功労者の労は、並大抵ではなかった。折伏に歩いても、罵詈雑言を浴びた。言葉の飛礫(つぶて)だけでなく、水や塩も襲ってきた。

 水道の元栓を止められ、村の共同の水道が使えない目にあった人もいる。

 だが、御聖訓通りの、ありとあらゆる中傷非、そして迫害のなか、わが同志は、決して広宣流布の旗を下ろさなかった。

 この方々を護らずして、誰を護るのか! この方々を讃えずして、誰を讃えるのか!

 本当ならば、尊い子である全学会員のお宅を、私は一軒一軒、訪問したかった。

 せめて、その代表として、私は功労者のお宅を訪ねていったのである。

 ご高齢な方も多い。お元気なうちに自宅を訪ね、ゆっくりと懇談することが、私の夢であった。

 第二に、学会の「再生」である。

 私の会長辞任の背景には、私と会員の間を裂く、陰険なる離間工作があった。

 これこそ、浅ましき卑怯な反逆者と坊主どもの結託であり、黒い卑しき学会乗っ取りの陰謀であったのである。

 頼るべき我が最高幹部の連中も動揺が激しく、我が本陣は、怪物たちの行動によって変えられようとしていった。

 しかし、最前線の会員と私のの絆は、厳然と結ばれていた。

 私は、「第一線に行こう!」と、強い決をした。

 組織の最先端こそ、広宣流布を最大に強固な陣列にせしむる、最も重要な塞であると、私は深く決していたのである。

 うろたえた最高幹部よりも、第一線の戦場で戦い抜いている、あの強靱な魂の勇士たちとの語らいが最も大切であると、私はひそかにっていた。

 御聖訓には、「をば奪功徳者といふ」(470頁)と仰せである。

また、「の習いは善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶ」(981頁)とも説かれている。

 すなわち、とは、功徳を奪い、にならんとする正しい人をば、しめ、傷つけ、善を打ち倒さんとする。

 だからこそ、私は、この邪悪にして、強力なる悪の者たちと、真正面から戦う決をした。

「各各我が弟子となのらん人人は一人もをく(臆)しをもはるべからず」(910頁)と、日蓮大聖人が断言なされている通りだ。

 これが、真実の広宣流布の未来を開く正義の行動であり、大道であるからだ。

 断固として、私は立ち上がった。そして戦った。美事に正義と勇気の大使命の本陣を、私は護ったのだ。

 傷も多かった。あらゆる中傷批判を浴びた。しかし、私は、尊き創価学会を護ったのだ。

 この誇り高き魂は、広布の大功績を、諸天善神が、十方菩薩が永遠に讃歎してくれることを、深く確信している。

 いかなる卑劣なの大攻撃にも絶対に揺るがぬ、大善の連帯を! 尊き民衆の正義のスクラムを!

 そして、使命と使命の鉄の団結を、私は新しく創り始めた。

 そのために私は、最も基本である家庭訪問に走った。最も根本である個人指導に奔走した。

 いわゆる目に見えぬ土台の部分から、創価学会が使命とする「広宣流布」の重要な組織を、再び命の限り築き上げていったのである。

 第三に、わが正義の魂を燃やした、真剣勝負の「反撃」であった。

 当時、学会の首脳たちは、坊主どもの攪乱に怯え、常に宗門に監視されているような空気となってしまった。

 私も、自由に会合に出られない状況となった。

 そして、私に対する宗門の攻撃も一段と卑劣になってきた。聖教新聞には、ほとんど行動を報道されることもなくなっていた。

 私の記事が載らず、会員の方々は本当に寂しがっていた。多くの電話があった。多くの手紙が来た。

 ただ黙ったまま、動きもしないで、情勢が変わるわけもない。まことの時は、いつになっても来ないであろう。

 増上慢の限りを尽くす宗門に対し、ふぬけになった幹部らの不甲斐なさにあきれて、私は一人、強い決で、反撃に出た。

 会合に出られないなら、一軒一軒の家を回るのだ!

 一度に大勢と会えないなら、一人一人との出会いを積み重ねていくのだ!

 これが、私の断固たる決であった。闘魂の炎であった。


 長野県に在住する、古くからの功労者宅を訪問した時のことである。

 ちょうど今から25年前の、昭和54年の825日であった。当時も、あの地この地で、忘冷酷な坊主どもは、健気な学会員をしめ抜いていた。

 この指導のために訪問した、家は、江戸初期から続く旧家であるという。

 小雨が降る午後、番傘を手に、表で待ってくださっていたご主人に案内され、重厚な門をくぐった。

 母屋には、およそ350年の歴史がある。簡素な座敷は、質実な江戸の暮らしを偲ばせるものがあった。黒光りする柱や、牡丹が彫られた欄間に風格があった。

 この母屋を舞台にした民話を教えていただいた。

 ある冬の夜――。

 溜め池に落ちて凍えるキツネを、庄屋の彦左衛門が親切に救い、山へ返した。

 翌、立派なキジが庄屋の家の縁側に。

 雪の上に残る足跡で、庄屋はキツネが返しに来たことを知った。

「キツネの返し」という民話である。

庄屋の彦左衛門が、このお宅の先祖に当たるそうだ。

 素朴な筋書きだが、身振り手振りを交えて懸命に語るご主人のには、切々と胸に迫るものがあった。

」の大切さを伝え抜くは、「忘」を許さぬでもあった。

 たとえ動物とはいえ、「」を忘れなかった行動は、幾百年も、親から子へ、子から孫へと伝承されてきた。

 報の行動こそ、民衆に必ず支持されるのである。

 スペインの作家セルバンテスは、「忘は傲慢の産物にして、世に知られたる大罪の一つなり」と綴っている。

 会長辞任の前後から、人間の裏切りや二面を嫌というほど、私は見てきた。

 平気で大ある学会を裏切る不知な輩を、私はどれだけ目の当たりにしてきたことであろうか。

「才能ある畜生」は、まさに畜生にも劣る存在であった。

 シェークスピア劇の、ある登場人物は憤った。

「ああ、知らずの形をとって現われるときの

 人間ほど恐ろしい化け物はない!」

 人間の偉さとは、地位や学歴ではない。いかに「」の大切さをじて行動するかで決まる。報こそ、人間の生き方の根本である。

 深き義ある、そのを説いているのが、法である。

」の重さを知る人ほど、知らずの悪を許せるはずがない。ゆえに、真の報の人とは、不知の悪を打倒する闘争の人となるのだ。

私にとっての会員への返しとは、学会を裏切った輩から、健気な会員を断固守り抜く闘争であった。

 その戦いによって、「善の中の善」である創価学会の正しさは、明確に証明されるにちがいないと信じた。

 我らの信仰による、真の報の物語こそ、人間の真髄として、永遠に民衆の模範となり、軌道となり、謝をもって語り継がれていくことは間違いないと確信していた。


 私の功労者宅への訪問は続いた。

 その家の後継者や、小さいお孫さんとも親しく語り合った。一家一族を永遠に幸福の軌道に乗せることが、私の願いであり、祈りであったからだ。母親の信が立派な家庭は、どこも後継者がしっかりと育ち、栄えていた。

 全国を転戦しながら、移動の途中に、会員の家や店があれば、寄らせていただいた。

 山口県では、離島にも足を運んだ。

 兵庫県の中堅幹部のお宅では、関西の幹部に「3.16」の義を後世に留める話をした。

 大分空巻に降り、坊主たちの苛めと戦い、しんできた方がいると知って、直ちにその場に向かったこともある。

 200軒目は、文京支部で共に戦った田中正一さんのお宅であった。

 300軒目は、神奈川の功労者で、ご一家のお母さんが病に伏したことを知り、お見舞いに伺った。

 500軒目は、坊主の迫害に耐え抜いた愛媛の勇者の家であった。昭和60年の寒い2のことである。

 その後も、全国各地、また世界を回るなかで、寸暇を惜しんで、広宣流布の尊き同志のお宅を訪問させていただいている。

 一軒また一軒と数が増えるにつれ、自分の家族も増えるようないであった。

 労して個人指導、家庭指導に歩けば、その分だけ、人間としての厚みがまし、豊かな境涯になれるものだ。


 やはり、一軒また一軒と家庭まで足を運び、語り合わなければ、その人のしみも、その人の本当の悩みもわからない。すなわち、その人の人生と使命と未来への希望を与えることができない。

「信即生活」である。その人の生活がわからなければ、信もわからない。

人前では明るく振る舞っても、人知れぬ悩みを抱えた会員も多くいた。いや、悩みのない人などいない。

 きめ細かい生活指導こそ、不屈の信の確立につながることを痛する一日一日であった。

 会長辞任の直後、地道な家庭訪問から闘争を開始し、今や学会の民衆のスクラムは、世界をも結ぶまでになった。

 一人を味方にできない人は、世界を味方にできない。

 一つの家庭の幸福に尽くせない人は、人類の幸福に貢献できない。

「良き交友ほど優れた味方はない」と、古代インドの大詩人ティルバッルバルは言った。本当に、その通りだ。

 桂冠詩人である私には、胸を赫々と光らせてくれる言であった。

 我らは、断じて一生涯、いな永久に、善と正義の連帯を広げ抜いていくのだ。戦うのだ。生き抜くのだ。

 一対一の対話――これこそ最も確かで崩れぬ、平和と幸福の人間の連帯を築く方途であるからだ。

 ここに、学会が永遠に栄え伸びゆく生命線があることを決して忘れてはならない。

「第三代を護りに護れ!

 そうすれば、学会は盤石であり、広宣流布への道は永遠に大きく開ける」

 これが、戸田第二代会長の最終的な遺言の重要な一つであった。

 フランスの大文豪ユゴーは言った。

「理に向かって進めばよい。正義と真理に向かって進めばよい」

「よろしく前方へ突進すべきである」と。

 そして、ユゴーは叫んだ。

「反逆者を倒せ!」


【「随筆 人間世紀の光」46/聖教新聞 2004-09-03付】

用心すべきネット社会


 私がインターネットを始めたのは1999年のことである。パソコンを買ったのが1998年で、半年ほどはタイピングの練習に明け暮れた。で、タッチタイピングができるようになった頃、ネットに接続した。


 下劣掲示板における、くそアンチどもの薄汚い書き込みには随分と閉口したが、あの頃はまだ、学会の猛者(もさ)ともいうべき人々が多数、存在していた。


 創価系掲示板が衰退する方程式がある。それは、学会員同士が小競り合いを始め、信の強い人が、相手に不信を抱かせないために身を引くというものだ。その結果、言論勇者達はネットの表舞台から去って行った。今では、クローズドされたスペースで研鑚を行っているグループがいくつもある。


 私がそもそも「創価仏法研鑚掲示板」を開設したのは、日蓮論に異を唱える頓珍漢学会員を呼び込むのが目的だった。それ故、敢えて、「日蓮法」ではなくして「創価法」と謳(うた)ったのだ。


 それからというもの、実に色々な学会員の姿を見てきた。当初、私も様々な創価系掲示板に書き込みをしていた。ただ、あまりにも学会員の愚痴が多く、辟易した。黙ってるわけにもいかないので注をすると、管理人からたしなめられたこともあった。「組織で言えないことを自由に書いてもらうのが、この掲示板の目的だ」と。そんな掲示板は私がいるべき場所ではなかった。


 ネットの危険として「スピード」が挙げられる。例えば、自分に対する誤解や中傷があったとしても、これが手紙であれば、紙を用し、ペンを執るまでに、が冷静になる。だがネットの場合、瞬時に反論が可能となる。ここにネットでのやり取りが激しやすくなる罠があるのだ。


 学会員を乗ってはいるものの、どの程度の信なのかは誰にもわからない。同じ学会員という立場でやり取りしていても、書くことが手な一級の活動家と、文章がそれなりに書ける未活動のメンバーというケースもある。


 ところが文字情報だと、何とはなしに文章の上手い方が説得力があり、信があるように見えてしまうから不議だ。


 近頃では、幹部批判を繰り返す愚かな男子部も目立つ。現実の組織で、堂々と見を述べている人間は絶対にこんな真似はしないはずだ。弱い自分の傾向を見つめようともしないで、組織で溜まったストレスネットで発散する姿は浅ましいにもほどがある。


 数年前には、ある地域での人事内容や、組織で起こった事件の顛末(てんまつ)などを記したサイトもあった。ここは1週間で私が潰した。


 女子部や婦人部に、自分の顔写真を添付して、片っ端から送りつけていた男子部もいた。


 相談メールを装って、この私をたらし込もうと企てた女子部もいた。


 学会員はとにかく人がいいから騙されやすい。のスキを見せれば、自分が傷つく結果となることを戒め合いたい。また、自分の見に対して素早い反応があるために、極度のネット依存となるケースも見受けられる。こうなると自我が極端に肥大化してゆき、生活とはかけ離れた言葉遊びとなってゆく。


 最低限、以下の現実をわきまえておきたい。

  • 学会本部自体がさほどネットに力を注いでいないということ。
  • 活動家は多忙なため、ネットに費やす時間が乏しい、あるいは全くないということ。
  • くそアンチどもの言論には、社会に対する影響力が殆どないこと。
  • 学会員、あるいは元学会員を騙(かた)った日顕宗信徒や共産党員が多数、存在すること。
  • ネット人口においては、現実社会を上回る割合の鬱病・引きこもりがうようよしていること。
  • まともに活動してないネット活動家がいること。

 初者だと、ネットサーフィンをしながら、歯ぎしりするようなことも多いだろう。だが、現実の世界で1mmでも広宣流布を推進する人が、真の学会健児だ。


 ネットは情報交換という程度にしておくべきである。ネットは所詮、ネットに過ぎないからだ。但し、私は過去にメールのみのやり取りで本尊流布を1世帯成し遂げているし、ネットで知り得たかけがえのない同志も数いることを申し添えておく。

2004-09-02

職場への遅刻


 戸田先生は叱った。

 職場にいつも遅れてくる職員がいた。

 あるとき、雷が落ちたごとく、その男に向かって怒鳴った。

「戦場にいつも遅れてくるとは何事だ!

そんな奴は、絶対に偉い人間にはなれない。一生涯、敗北の暗い不幸の人生で終わってしまうぞ!」

 そして、先生は言われた。

早く一番乗りして、人知れず掃除をしたり、職場全体を見渡し、仕事の準備に奔走する賢い人を、絶対に上司は見逃してはならない。その人を守り切るのだ。

 いつか必ず頭角を現し、偉い存在になることは、間違いないからだ」


【「師の指導を語る」3 聖教新聞 2004-08-18付】


 戸田先生と池田青年の邂逅(かいこう)は昭和22年814日。東京・蒲田の三宅ゆたか宅で行われた座談会でのことだった。これに先立つこと530日には、池田青年の長兄・喜一の戦死公報が届いた(昭和20年111日享年29歳。ビルマで戦死)。


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謝と決を即興の詩に託して吟ずる池田青年【内田健一郎画伯】


 爾来、57星霜――。池田先生は前代未聞の世界広布を成し遂げながら、尚、戸田門下生としての誠を貫かれている。813日付から新連載となった「師の指導を語る」は、戸田門下生としての新たな闘争である。


 先生は戸田先生との歴史を、絶対に単なる過去の出来事にしない。三世永遠に亘る師弟の原点として、更なる義を吹き込む。何と崇高な、そして、何と厳粛な生きざまだろう。


 戸田先生の逝去後、北海道に先生が行かれた際のこと。炭労問題で戸田先生が指揮を執っていた旅館へ足を運ばれた。先生は襖(ふすま)の前で、「大作、入ります!」と言われて部屋へ入った。去って去らず。戸田先生の魂は死して尚、巨大な大きさとなって先生の生命の中に脈動している。


 戸田先生は、職場でも、会合でも、一番先んじて駆けつけてきた人を、「今日は、彼が一番星だな」と愛(め)でられていた。そして、いつもいつも職場に真っ先に駆けつけていたその人こそ、若き池田先生であった。「先んずる者が人を制する」。そして、「遅参そのを得ず」である。


 その味では、全国の配達員さんは皆、一番星といえよう。人々がまだ眠りにつく中、雨が降ろうが、雪が降ろうが、日々、同志に先んじて広布の労作に汗を流して下さっている。このことに謝を忘れた人は、広宣流布の軌道から大きく外れてゆくことだろう。


 陰徳の人を見逃さないためには、自分自身が人知れず労する他ない。

2004-09-01

川上幸夫


 それは独立して3年目の山を越えた、昭和59年のこと。長男・直人(なおひと)を交通事故で失いました。高校1年生でした――。


 私はこの道47年の製本屋。中学を卒してこの界へ。入会は20歳の時。幸福学歴ではなく信で決まると聞いたからでした。


 男子部の隊長、輸送班(創価班)として戦いました。悩みは仕事との両立。会社から三度、「明日から来なくていい」と言われました。その都度、決を固めました。「自由に活動できる境涯になろう」と。55年、願の独立。間借りでの厳しい経営でした。


 それを見て直人が言いました。「一緒に働いて二人で家を持とう」。その子がどうして……。信すれば幸せになれると折伏してきたのに。逃げ出したいといました。


 そうした時、私は池田先生の勇姿をい浮かべました。先生は、いついかなる時も微動だにしない。そのお姿に動しました。もっと強く、もっと戦おうと誓いました。徹して活動。アジア、アフリカまで弘教に走りました。そうして10年、悲しみを乗り切った矢先の平成5年。今度は、創価中学・高校・大学と進み、印刷会社に就職したばかりの二男・高志が、悪リンパ腫に冒されました。


 6年間の闘病。その間、高志は創価班、地区リーダーとして活動しました。「絶対負けない」と結婚もし、抗ガン剤を打ちながら戦うことを止めませんでした。


 私たち夫婦は「子を絶対に勝利させる」と真剣に唱題。針のムシロに座っているような緊張の連続でした。先生から何度も激励を頂きました。平成12年1、先生がアメリカのデラウェア大学の誉博士号を受賞された時には、「君と一緒にこの称号を頂くよ」との伝言とともに記の文鎮を頂戴しました。それから一週間後、を引き取りました。


 長男の事故、二男の闘病と、私は20年間、宿命と戦いました。子達に教えられました。人生とは戦い続けることだと。2年前、61歳にして地区部長の任も喜んで受けました。仕事も人生も勝たなければ子の成の証明にはなりません。それまで私は一歩も退(ひ)きません。


 先生は指導されています――「とは戦い続けること」と。私は広布に戦う以外、執着がなくなりました。アメリカ創価大学へ寄付をさせていただきました。「川上高志奨学金」として子のを残していただき光栄です。私は最後の勝利まで戦い続けます。


【『大白蓮華2004-09号/東京文京区(副本部長)】

携帯電話の弊害


 携帯電話使用のマナーがあまりにもなってないので書き残しておく。読まれた方は、組織にて徹底願いたい。


 今から7〜8年前に先生からも注があって、各副会長より、「会合中の携帯電話の使用は禁止」の旨、徹底された。


 これは一般常識の範疇(はんちゅう)であり、こんなことを徹底しなければならないところに、幹部の非常識さが現れていた。臓にペースメーカーを入れてる人が隣にいたら、死んでしまうかもしれないのだ。


 現在、目につくのは、地区などの小単位での会合の際、地区幹部以上の人物が携帯電話を受けたり、掛けたりしている姿だ。また、会館で行うような会合の場合、特に本部長以上の幹部が平然と携帯電話を使用している。


 以前、男子部の後輩と雑談していたところ、こんな話を聞いた。支部活動者会で、婦人部の本部長が話している最中に、かかってきた電話に出たというのである。しかも、その会話は次の通り。「はい。あ、○○ちゃん。お母さんね、今、会合中だから……。うん、うん――」。


 自分の油断を恥じ、直ちに着信音を切るならまだしも、衆目の中で会話に興じるとは不届き千万だ。婦人部はおしゃべり好きだということを踏まえても許しい。時折、衛星中継の最中に、携帯メールをせっせと打っている婦人部幹部も見受ける。


 学会の会合は、全て法座である。どんなに小さな単位であっても、それは同じだ。集った人々に希望を与え、勇気を出さしめ、闘争の吹を与えるのがリーダーの使命だ。


 誰がどんないで駆けつけているかわからない。行こうか行くまいか、迷った挙げ句、勇気を振り絞って参加している人がいるかもしれない。言うに言えない悩みを抱えながら、いつもと変わらぬ表情の方もいるかもしれない。仕事でトラブルがあったり、職場で学会の悪口を言われ、落ち込みながら足を運んだ青年部だっているかもしれないのだ。


 幹部が何気なく携帯電話に出た途端、こうした方々のを踏みにじっていることを自覚してもらいたい。


 学会は、お人好しの方が多いので、「幹部の人も忙しくって大変だな」という程度の覚で見守っている人が多い。携帯電話を持ってない人達も無言で見つめている。そこに、リーダーが甘えてしまっては、堕落した姿を見せたも同然だ。


 私は携帯電話を持つようになってから10年を経過するが、会合中に音を鳴らしたことは、ただの一度もない。その程度の緊張を持って会合に望むのは当たり前ではないのか?


 私の先輩は、「俺は、会館での会合の際は、携帯は運営会議室に置いてくるよ。バイブレーターにしても駄目だ。振動した瞬間、集中力が散漫になるから」と語っていた。


 日興遺戒置文に云く「論議講説等を好み自余を交ゆ可からざる事」(1618頁)と。


「自余(じよ)」とは、通常、我見を示すが、会合中の携帯電話使用もこれに当たると断言しておきたい。論議講説とは広宣流布の打ち合わせであり、会合のことである。


 以前、部活動者会の最中に電話を受けた部長がいた。私は既に壮年部となっていたので、会合終了後に注をした。部長は血相を変えて、「折伏現場の報告だったんです!」と正当化した。「それでも駄目だ」と私は言い切った。同志が集う以上、戦い切って集まるのが当然である。日常的な会合だと、折伏現場が優先される場合も確かにあろう。だからといって、会合に参加してないメンバーに、会合を中断する資格はない。そもそも、本当に大事な連絡であれば、拠点に電話をすればいいのである。


 こんなことは本来であれば書きたくないのだが、現状があまりにも酷いので、書いておこう。


 香港で会食があった。先生も出席されていた。そこで、携帯電話を鳴らした者がいた。先生は一言、「ここは警察じゃないんだよ」と仰せになった。師匠と弟子が魂の交流をしている時に、それよりも優先される緊急事態などあり得ない。


 会合も同様である。地区活動者会だろうと、ブロック唱題会であろうと、我が同志に最敬礼するようながあれば、携帯電話を使うような真似は絶対にできない。草創期にあっては、幼い子供が泣いたり、騒いだりしただけでも、目から火が出るほど叱られたことを忘れてはならないとう。


 会合中の携帯電話の使用は、集った人々の呼吸と団結を乱し、法座を中断させるが故に、これの所為であり、謗法であると断じておく。