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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2004-09-16

魔と戦う人が偉大


 本日、私がとくに申し上げたいことは、「謗法」や広布を妨げる「」と戦うことを絶対に忘れてはならないということである。

「曽谷殿御返事」には、次のように仰せである。

謗法を責めずして成を願はば火の中に水と求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなし・はかなし」(1056頁)――謗法を責めないでいて成を願うことは、火の中に水を求め、水の中に火を尋ねるようなものである。はかないことである。はかないことである――。

 謗法との戦いなくして、成はありえないとの厳然たる御聖訓である。

また、「秋元御書」には「常に禁(いま)しめて言く何なる持戒・智高くして御坐(おわ)して一切経並に法華経を進退せる人なりとも法華経の敵を見て責め罵(の)り国主にも申さず人を恐れて黙止するならば必ず無間大に堕つべし」(1077頁)――常には戒めて言われている。どんなに戒律を持(たも)ち、智が高くて一切経と法華経を自在に解する人であっても、法華経の敵を見ておきながら、責め、罵り、国主にも言わず、人を恐れて黙っているならば、必ず無間大に堕ちるであろう――と仰せである。

 社会的にいかに立派に見える人であっても、また自分は著人である、地位や学歴がある、教学力がある等といっても、謗法と戦うがなければ成はない。

 正法を信奉する学会にあって、「破和合僧」の工作をしたり、自分の地位を守るために組織を利用し、広宣流布と私どもの信を妨げようとする人間に対しては、厳として戒め、厳として祈り、戦っていかねばならない。遠慮したり、怖がったり、恐れたりしては絶対にならない。かりに、今まで先輩であったとしても、「謗法」はどこまでも「謗法」である。

 大聖人は「・日日につより給え・すこしもたゆむあらばたよりをうべし」(1190頁)――々、日々に、信を強めていきなさい。少しでもたゆむがあればがそれを縁にして、襲ってくるであろう――と仰せである。

「信」は「」との戦いである。信が弱まれば必ず「」は勢いを増す。ひいては信を破られてしまう。外から襲いくると戦うことは、そのまま自身の内なるとの戦いなのである。それなくして広布の前進も自身の一生成もない。

」との戦いを失った信は、結局、観論に陥ってしまうし、御聖訓通りの道修行とはいえない。

 妙法の世界にあって、誉れの人、偉大な人とは誰か。それは信強き人である。勇猛のと戦う人である。 成は立場や格好で決まるものではない。信が強いか弱いか、広宣流布への一が深いか浅いかで決まる。ここに法の厳しき因果律がある。

 私は、これまであらゆる障と真っ向から戦ってきた。一歩も退(ひ)かなかった。それが大聖人の教義であるし、戸田第二代会長の信と行動でもあった。

 ともあれ「」を恐れずに、厳然と戦ってきたがゆえに、今日の大発展と大功徳がある。これからは、幹部や青年部は、私がいるからという安易な考えであっては断じてならない。隆々たる発展を遂げる大法の前進の中で、いつしか、「謗法」や「」と、どこまでも戦い抜く精神が薄らいでいくようなことがあっては絶対にならないと申し上げたい。

 ともかく、信は「臆病」であってはならない。また、他人まかせであってはならない。幹部でありながら、「障」と戦っていくことを避け、周囲の評価を気にして要領よく生きていこうとするのであれば、もはや信とはいえない。

 皆が団結し、強盛な祈りに立てば、少しぐらい幹部や先輩が退転しても、そんな低次元のことは何も恐れる必要もない。朗らかに堂々と戦っていけば、御聖訓に照らし、勝敗の結果は全部明白となるからである。指導者である皆さま方は、いかなることがあっても、自らの「祈り」と「責任」において、真正面から取り組み、勝利への道を切り開いていく、師子王のごとき信でなければならないと強く申し上げておきたい。


【第4回本部幹部会 1988-04-22 創価文化会館


 僧・日顕による宗門問題が勃発する2年8ヶ前の指導である。


 この頃から学会では、電話回線を使用した音の同時中継を行った【記憶があやふやなため、情報募集中!】。先生のを主要会館で聴けるようになり、私はこれこそ、虚空会の儀式であると勝手に合点したものだ(笑)。


 先生の指導が直接、組織の末端に届くようになり、全学会員が信と学会精神の王道を学んだ。この時期がなかったならば、ペテン師・山友とつるんだ日顕の謀略も成功したかもしれない。


 1988年(昭和63年)は、先生がご自身の手で、全く新しい創価学会をつくり上げようとされた時であると、私は確信している。