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2004-12-31

島原の乱にみる裏切り


 では、なぜ彼は卑怯にも同志を裏切ったのか――。

 農民を中とした一揆軍のなかで彼は異質の存在であった。いわば“エリート”であり、経済的にも恵まれていた。土のにおいのない、民衆の悩とは別世界の人間であった。ここに一つの問題がある。

社会的地位を持つ、いわゆるエリートとか、インテリなどは、要領がよく、口がうまくて、愚直なまでの「誠実さ」に欠ける場合が多い。特に日本では、そうした傾向が強いようだ。しかし、本物の深き人生は、大誠実なくして築けるものではない。

 これまで退転し、同志を裏切っていった卑劣な人間たちもまた、一応は社会的地位があり、組織的立場も高く、自分は“エリート”だとうぬぼれていた。

 しかし本来、学会特権階級はない。つくってもならない。学会はどこまでも、頑固なまでに純粋な“信”を貫く庶民と庶民との団結が根本である。その美しき世界を守り、広げてゆくことこそ諸君の使命である。


【第1回未来部総会 1988-08-07 長野研修道場


島原の乱」を通して、先生は史観を養うよう強調。歴史の表には書かれていない権力者の図を見抜き、民衆の涙まですくい取る内容となっている。


 成り上がり大だった倉重政が島原藩を治めるようになるや、領民は重税を課せられた。その後、時の将軍・徳川家光より、キリシタン対策が甘いとの叱責を受けた。これによって徹底的な弾圧が始まる。


 拷問は、水責め・火あぶり・烙印・指詰め・穴つるし・硫黄(いおう)責め・針さし責め・竹鋸挽(たけのこび)きなど、手段の限りを尽くした。最後は、「山入り」ということで、雲仙地獄の熱湯の中へ投げ込まれた。犠牲となった人々は100人を超えた。


 藩の財政がしくなるにつれ、更なる重税が農民に押しつけられた。子供が生まれると人頭税。死者を埋葬すれば穴銭。囲炉裏(いろり)を作っても、窓を作っても税が課せられた。ナスの木1本にも、実をいくつという具合であった。それが納められなければ、妻子を人質にとられた。また、水牢に入れたり、「みの踊り」という拷問にあった。身体にみのを巻き、火を放つ。のた打ち回る姿を「みの踊り」とづけた。


 勝家に代が変わると、更なる苛政が行われた。


 唐津藩の天草地方も過酷さという点では島原と変わりがなかった。1637年、民衆の屈した膝が地面にのめり込むような事件が起きた。30俵の米が納めきれない大百姓・与三右衛門の嫁が、として川の流れにつくった水牢に閉じ込められた。家族の申し出も空しく、6日間、嫁は水漬けにされた。臨を迎えていた嫁は水牢の中で出産。しみ悶(もだ)えながら死んでいった。これによって、農民達の怒りが爆発。島原の乱の発端となった。


 この歴史を「キリシタン一揆」であると見る場合もある。だが、当時、囚われの身となっていたポルトガル人の記録が残っており、これによると、この叛乱はキリシタンが宗教的な立場から起こしたものではなく、過酷な圧政に耐えかねた農民による抵抗運動だった。そして、領主であった倉氏が、叛乱によって面目を失い、後の処を恐れたために「キリシタンの一揆である」と喧伝(けんでん)したのだという。


 つまり、“幕府が禁止している宗教を取り締まる”ことを理由にすれば、民衆に対してどんなに残虐なことをしても、当然のこととして正当化することができる。そう考えた領主や代官らの支配者は、自分たちの民衆に対する過酷な政治をごまかすために、“宗教者による反逆”という形に位置づけたという見方である。


 農民は蜂起した。当時の文献によれば、島原領内の人口2万7671人の内、一揆に参加した人数は2万3888人で、全人口の86%に上っている。原に篭したのは老若男女を含めて3万7000人。


 年が明けた寛永15年(1638年)、幕府軍は総攻撃を仕掛ける。この時、功を焦った総指揮官・板倉重昌が戦死。この死を悼(いた)んだ板倉一族を代表して、板倉勝澄(かつずみ)が、追善のために建立寄進したのが、富士大石寺の五重である。死後100年が経過していた。


「老いと若さ」に書いた通り、島原の乱は37000人全員の死をもって終わった。直ちに1万869人の首が斬られた。だが、たった一人だけ生き延びた男がいた。山田右衛門作(えもさく)という南蛮絵師である。島原の乱にあっては大将格として参加している。


 女や幼い子供に至るまでが殺害されることを知りながらも、島原の民の団結が乱れることはなかった。たった一人の壮年だけが退転した。この歴史的事実を指摘して、上記の指導がなされている。尚、山田右衛門作については、昭和41年(1966年)に総本山大客殿で行われた第21回夏期講習会(壮年部)でも、触れられている。


 学会に迷惑をかけ、純粋なる和合僧組織にいられなくなったのは、ことごとく大幹部であり、本部職員であった。自分の権勢強化を目的とし、組織に政治を持ち込む人物が少なからず存在する。信のカケラもないこれらの手合いは、広布推進というリズムの中で必ず淘汰されてゆく。学会が仏勅の団体であれば、ごまかしやインチキは絶対に通用しない。


「自分は特別だ」といういが微塵でもあれば危ない。それは単なる錯覚だ。特別だとい込んだ途端、周囲の人々を見下す視線となる。さしたる闘争もせずに自分を高みにおいて、民衆を睥睨(へいげい)したのが日顕宗であったことをい出すべきだ。


 天草四郎は実に16歳で指揮を執り、立ち上がった。戸田先生は、あまりにも犠牲者が多過ぎたことにを痛め、「もう少し何とかならなかったのか」と語っておられたという。そして、「長生きし、人生経験を多く積んでいくことも、指導者として大切なことである」とリーダーの進むべき道を示された。


 天草四郎を中とした農民の団結にを馳せつつ、降りしきる雪の中「創価完勝の年」が終わる。


 明後日は、先生が喜寿を迎える。これにまさる喜びはない。

2004-12-30

スマトラ沖大地震


 去る26日に起きたインドネシア・スマトラ島沖の地震と津波の被害が甚大の一途をたどっている。29日、AP通信によれば、死者の数は77000人に至った。国際赤十字は死亡者数が今後、10万人を超える可能があると警告している。


 一日も早い復興と、亡くなられた多くの方々のご冥福を祈りたい。


 大聖人の在世にあっては、正嘉(しょうか)の大地震があった。世が混迷し、災害が起こる根本原因は、の混乱にあると喝破された大聖人は、「立正安国論」を著した。「旅客来りて嘆いて曰く――」(17頁)と。そして今、地震で亡くなった10万人の方々のご家族の嘆きのが聞こえてくる。


 前相已(すで)に顕れぬ去(いぬる)正嘉の大地震前代未聞の大端なり神世十二人王九十代と滅後二千二百余年未曽有の大瑞なり(955頁)


 大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき、迦葉尊者にあらずともまいをもまいぬべし、舎利弗にあらねども立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしにはをどりてこそいで給いしか、普賢菩薩の来るには大地を六種にうごかせり(1300頁)


 世界の悲惨を救うのが我々の使命だ。そうであれば、東洋広布の瑞相と確信したい。明年126日に発表される平和提言が待ち遠しい。


 今日は、母の誕生日。

老いと若さ


 いかなる誉、社会的地位の人よりも、若い諸君の方が、千倍も万倍も、いな無限の可能を秘めている。ゆえに諸君は、最高の財宝である「若さ」を大切にしていただきたい。

 また、世間では「若さ」をうまく利用しようとする人も多い。その最たるものが、青年を手段にし、犠牲にしていく「戦争」である。諸君は、そうした世の指導者のズルさを鋭く見抜き、絶対に惑わされてはならない。

 武蔵は、老体でありながら若い兵士と一緒になって、城の石垣を登っていった。剣豪・武蔵からすれば、まことに気の毒な姿といわざるを得ない。どんなに偉い人間であっても、“老い”には、いかんともしがたい惨めな側面が出てくる。

 いわんや臨終の時はもっと厳しい、人生の総決算となる。その味で若き日の信は、「老」と「死」を豊かに荘厳し、悔いのない人生とするための自身の練磨であることも知らねばならない。


【第1回未来部総会 1988-08-07 長野研修道場】


島原の乱」を通してのスピーチで、マスターしておかなければならない指導の一つ。

 島原の乱は寛永14年1025日(1637年1211日)に勃発。4ヵ後の寛永15年228日(1638年412日)終結。一人残らず処刑され、実にその数は37000人に上ったという。


 この鎮圧軍に宮本武蔵がいた。当時、50代半ばというから既に晩年の頃。江戸初期にあって最大の一揆とされる歴史の1ページで、若き天草四郎と剣豪・武蔵が擦れ違った。


 原城に篭城(ろうじょう)した島原の民を攻撃する際、城壁から落とされた石が自分の脛(すね)に当たり、立てなくなった様を嘆いている武蔵の手紙が残されている。29歳で佐々木小次郎を倒した武蔵も、寄る年波には勝てなかった。


「老醜」という言葉があるが、これ自体、美しく老いることのしさを物語っている。“老”の隣には“病”が居合わせ、“死”に直結している。“老”は“生”を失いつつある証拠であり、滅びゆく恐怖をはらんでいる。その昔、老人は尊重され、敬の対象だった。だが、文字や印刷技術の発達によって、知識は万人のものとなった。一個人の経験など取るに足らぬものとして、老人は軽んじられる存在へ追いやられた。挙げ句の果てには、3世代家族が珍しくなると、年に数度しか会うことのないおじいちゃんやおばあちゃんは、孫にとって汚くて醜い存在でしかなくなった。


 だが、果たしてそれは真実であろうか? 私はそうはわない。孫から汚いと言われて、自分は汚いのだと自覚し、邪者扱いされて、自分は邪者であると認めた瞬間から、年寄りはどうでもいい位置に自分を追い込んでしまったのではないか。それが証拠に、先生を見よ。何歳になろうとも堂々と構え、多くの青年のをつかんで離さず、誰からも求められているではないか。この姿こそ、無上道を現している。


 この指導は実に厳しい。老いに「惨めな側面」が現れるのは、いかんともしい人生の現実だ。しかし、それに勝てずして、荘厳な死を迎えることは不可能だ。


 多宝会・宝寿会の方々が生き生きと活躍している組織は、磐石な広布後継の体制ができていると言えよう。少しでも寂しいいをさせてるとすれば、組織の力が十全に発揮することはない。


 たとえ、介護三昧になろうとも、“生”ある限り使命があると私は確信する。多様なライフスタイルがあることを踏まえつつ、どんな立場の人であろうとも必要とされる存在になってこそ総体革命は成就される。

2004-12-28

昨日までの功績に酔う者は退歩


 昨日までの

 功績に酔う者は

 退歩と知れ

 指導者は常に

 未来に生きよ


【『日々の指針』 1974-12-16発行】


 これも有な指導。創価帝王学であり、ここに本因妙(ほんにんみょう)の魂がある。


 本因妙とは、天台大師が法華玄義巻七で説いた本門の十妙の第一。になる根本の因が、議しい境界であるが故に「妙」という。法華経寿量品第十六においては、「我れ本(もと)、菩薩の道(どう)を行じて成ぜし所の寿命、今猶(なお)未だ尽きず」の文が本因妙を示す。


 そう言われてもチンプンカンプンだという方も多いことだろう(笑)。法華経本門に至り、地涌の菩薩の登場によって、釈尊は始成正覚の立場を打ち破り、久遠元初を現す。五百塵点劫という気の遠くなるような過去を示すことによって、生命の永遠を説き示した。


【以下、我見を交えながらいつくままに書く故、間違いがあればご指摘願いたい(笑)】


 というように、釈迦法のベクトルは常に過去に向かっている。釈尊は三十二相八十種好という立派な姿を現じて、「どうやって、こんな立派なになったかを教えて進ぜよう」というスタイルになっている。これが本果妙。だから像はおしなべて金ピカ(笑)。


 一方、日蓮法は、生命の界を因果倶時で涌現せしめる下種法である。界の生命力をもって九界を自由自在に遊戯(ゆうげ)する。


 つまり本果妙が、という山頂を目指して進む姿であれば、本因妙の場合、山頂からヘリコプターで下方に広がる世界に躍り出るような方向の違いがある。これを従因至果と従果向因という。日蓮法は後者。


 だから、「自分がもっと成長してから、折伏に取り組みます」というのは本果妙となってしまう。また、活動報告などで、たまに見受けられるが、「自分はこれだけ凄い結果を出した」という内容にとどまり、御本尊や先生、はたまた同志に対する謝が欠けていれば、これまた本果妙の姿勢と言わざるを得ない。昔から、「大きな会合で活動報告した後が一番危ない」と言われるのもそのためで、いつしか、“凄い御本尊”から“凄い自分”へと変質し、過去の功績に酔い痴れた瞬間から、慢という落とし穴にはまってしまうのだ。


 教弥(いよい)よ実なれば位弥よ下れり(339頁)


 この御文は、教えが真実であればあるほど、位の低い者(二乗・悪人・女人・畜生)をも救っていけるとのであるが、敷衍(ふえん)すれば、信が深まるほど人間が謙虚になってゆくとも受け止められる。「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」といったところ。


 大きな結果を出した時ほど、人は油断しがちだ。一ついている内に、の虜(とりこ)となってしまっている。役職が上がらなくなった途端、信に精彩を欠き、翳(かげ)りが見え出す人もいる。法は無上道である。成と広布に死ぬまでゴールはない。


 今、聖教紙上に連載されている『新・人間革命』では、正本堂建立の歴史が記されている。700年来にわたって日蓮門下が待ち望んだ本門の戒壇が、現実のものとなったのだ。この時、先生は44歳。男としては最も壮健な年齢だが、「30歳まで持たないだろう」と言われたお身体のことや、会長という激務に挺身して12年を経ていることを踏まえれば、この時点で第一線から退かれたとしても全くおかしくなかった。これは今だから言えることだ。ましてや、2年前の昭和45年(1970年)には言論問題があり、体調を崩されているのだから。


 だが、現実はどうだったか? その答えは、正本堂が落成してから、わずか20日後の112日に開催された第35回本部総会での講演にある。「21世紀開く精神の復興運動を」と題した講演で、先生は実に23世紀までの大いなる展望を語られたのだ。私はこの講演をレコードで初めて聴いた時、度肝を抜かれた。その内容もさることながら、正本堂が完成した直後という“時”に畏怖(いふ)のを覚えた。微塵の油断も安もない先生の姿にの底から動し、あまりにも厳粛な師弟の道をった。


 この講演を知って以来、“連続勝利”、“常勝”という言葉を軽々しく使えなくなった。

2004-12-27

見識


 見識は独立せる自由人の基本条件であります。私どもはそれを法に求めました。そればかりではありません。見識はこの社会の複雑な機構のなかを生き抜いていく、責任遂行上の負担能力の基礎でもあります。それは、他人の利害とも大きく関わっていく必然を持つものであります。

 ことさら堅しく、しく考える必要もありませんが、未来の時代に生き、未来の社会にこれから進む諸君は、自分なりに堂々とした見識を養っていただきたいのであります。

 信の見識は深く、職の見識は独特に、社交の見識は広く、学識は正確に、余技の取得は豊かにと得ていくならば、まずまず堅実ではなかろうか、と考えるものであります。自分の個にマッチした方向と仕方で、存分に見識を伸ばしてください。

 誰が見ても非常識と良識の差は歴然たるものがあります。環境の混乱に引き込まれて埋没し去るか、また環境のみを恨み批判してしむか。その反対に、環境と前向きに調和して自分を建設していくか。学会健児は残らず後者であっていただきたい、と私は諸君の見識を祈るものであります。


【第21回男子部総会 1973-02-18 東京・日大講堂】


 広布第二章で訓練を受けた方であれば、誰もが知る有な指導。特に、「信の見識は深く、職の見識は独特に、社交の見識は広く、学識は正確に、余技の取得は豊かに」の部分は暗記の必要あり。


 前半部分はしい言い回しとなっているが、広布第二章にあって先生は一貫して、法の哲学的展開を指向されている。相呼応するように世界各国の識者から対談の申し込みがあったことは、歴史が示す事実である。


 生命と宇宙を貫く法を知った以上、卓越した見識を示さずして、多くの人々からの共を得ることはできない。個人や社会、はたまた世界が抱える困な課題に対して、根本的解決への方途を提示し、相手の目を開かせ、そこに希望を映し出すことが求められる。


 同じ物事を見ても、見る人や見る位置によって、全く違う表情が見えてくるものだ。人は不幸に喘ぎ、悩に覆われると、往々にして部分観にとらわれる。「私が悩んでいるのは、あの人のせいだ」などと不幸の原因を環境のせいにしがちだ。その視界を開き、幸福への段階を示したのが五重の相対であろう。


 二乗、悪人、女、畜生というあらゆる差別を乗り越えて、万人が幸福になる道を指し示したことによって、法は全民衆に開かれた世界宗教となったのだ。西洋の宗教は、差別を取り払うことができなかったが故に、的な行き詰まりを避けられなかった。


 今日は、先生が総講頭を罷免(ひめん)された日。僧・日顕が後ろから斬りかかった日であり、その黒い嫉妬が明らかとなった日である。


 若い頃から遊蕩三昧の限りを尽くした日顕は、海外布教にあってすら深夜の街を徘徊して、トラブルを起こしていた。この下劣な法主の見識は、誰もが唖然とするほどの低レベルで、「ベートーベンの第九を合唱するのは謗法」と言い掛かりをつけてきた。癖にも及ばぬたわ言は、世界中から物笑いとなった。


 あの日から14年。除歴に怯えながら余生を過ごす日顕は、自らの生命の火に焼かれ、列車の下で軋(きし)むレールや、常に火を当てられる鍋底みたいな境涯となっていることだろう。


 極悪との闘争にケリをつけ、更なる連戦連勝の歴史を築いて参りたい。


 首都東京は、本日付の指導より闘争開始。

2004-12-25

夭逝


 さて、夏休みに入ると毎年のように、若き大切な友が、交通事故で亡くなったという報告を受けることがある。我が子を亡くした父母の嘆きは、いかばかりであろうか。また私どもにとっても、若い大切な子を亡くし、後継の逸材を失った悲しみは、深く大きい。そうした悲報に接するたびに、私は深く御本尊に祈り、追善の題目を送らせていただいている。(中略)

 二人とも、かねがね私が、次代を担いゆく俊逸として、から期待し、未来を楽しみにしていた友であった。常々、家庭の状況などにもを傾け、その成長の姿を我が喜びとしていた。それだけに、訃報に接した時には、“未来に輝く「金の星」をなくした”と、しばし悲嘆に暮れざるを得なかった。

 しかし、生命は永遠である。妙法の世界に育った彼らが、来世に元気に活躍しゆくことは間違いないし、今世の早逝(そうせい)も、より深き使命を果たしゆくための死去であったと、私は確信する。

 そうしたいを込め、二人の死去に際しては、それぞれ真の「詩」や「和歌」を贈らせていただいた。

 井上君には「若き君 なに故 父はは残して旅ゆくか それは王者となりて 迎え来るためなるか」と。

また森下君には「あまりにも 凛々しき姿の 君なれば 三世の旅路は 父はは守れや」

 ともかく私は、若き大切な友が逝去すると、泣けてならない。そのような事故がないように、私はいつも祈る毎日である。


【第1回未来部総会 1988-08-07 長野研修道場】


 今世よりも大きな使命が待っているが故に、一足先に来世へ旅立つ――この指導に救われたことは一度や二度ではない。


 青年部時代にあって、私ほど後輩の死に立ち会った人はいないだろう。総合病院の救急救命センターへ足を運んだことは1年間で10数回に及んだ。いつしか、ロビーの光景が見慣れたものとなっていることに気づき、愕然とした覚えがある。


 早過ぎる死に多くの同志が胸を震わせて哭(な)いた。だが、死すその瞬間まで地涌の菩薩として使命を果たし切った同志は、いくつものドラマをつくり、数多くの人々に勇気と希望を与えた。学会正義を厳然と示した彼等の表情は死して尚、光り輝いていた。


 人生の幸不幸は、その時間的長さで決まるものではない。70年生きても色褪せた人生がある。短くとも光芒を放つ一生もある。いかに短命であっても偉大な何かを残した人生は、可もなく不可もない一生の100倍の充実がある。ましてや、妙法を確固として持(たも)ち、不退転の信を貫いたのだ。その生命のエネルギーは、死すら障害とはなり得ず、自由自在の境涯となって次なる使命の天地へと旅立ったのだ。


 彼等の生きざまは、我々に生命尊厳を教え、今日一日を懸命に生きよと伝え、次の広布を頼まんとのメッセージを託している。


 悲しくとも涙すまい。口に妙法を唱うる時、彼等とは通じるのだから。広布拡大の実践に身を徹しゆく時、彼等は共にいるのだから。


 三世永遠の同志として、我等の共戦は続く。

「創価スピリット」満一年


 早いもので、「創価スピリット」を発行するようになってから、ちょうど一年を迎えた。この指導で満1年を迎えたことが、不議にじられてならない。PC版が現在274部で、携帯版は191部である。購読して下さっている方々により御礼を申し上げたい。本日で270号を発行したので、丸3ヶ以上も休んだことになる。こうした実践を通しても、先生の執筆活動の凄まじさを痛させられる。


 私の小さな営みに触発され、恋さん宮本さんが、サイトやblogを立ち上げたことが、何にも増して嬉しいことであった。


 書く労は書いた人にしかわからない。だからこそ、師弟不二の闘争の一つとして、駄文を認(したた)めているのである。


創立80周年」にも書いたことだが、2010年までを師弟共戦の最終段階と自覚したい。戸田先生は会長として指揮を執られたのは、わずか7年であった。そして、池田先生は実に、44年にわたって指揮を執り続けておられる。まして、戸田先生の時代とは比較にならないほど、学会の存在は世界規模となり、多角的な平和・文化・教育運動を展開している。その労をえば、我々はいつまでも師匠に甘えるわけにはいかない。自立した弟子として、いかなる戦野にあろうとも、広宣流布の旗を打ち立て、弟子の力量を満天下に示して参りたい。


 では、皆さん、よいお年を。そして、更なる闘争を(笑)。

2004-12-24

権力との闘争


 戸田先生はある時、学会の将来を見通して次のように言われた。

「政治の権力、宗教の権力の谷間に学会はある。これらが腐敗すると、両者から利用され、圧迫され、奴隷のごとく使われる恐れがあるから、重々注しなさい。信の団結で代々の会長を守りながら前進していくように」と。(中略)

 その上で戸田先生はこう結論された。

「しかし、南無妙法蓮華経という宇宙の法則にかなうものは何もない。強盛な信にかなうものはないのである」と。


【第7回本部幹部会 1988-07-26 創価文化会館


 戸田先生眼(けいがん)は、学会の将来をも予見されていた。何と偉大なことだろう。


 学会に対し、非中傷の限りを尽くした自民党議員の多くは、公式に謝罪し、悔いを述べている。誰が何を信じようと自由なはずだ。その権利を蹂躙(じゅうりん)し、政治という舞台で散々に踏みつけた。我等の師匠を、国会へ参考人招致し、見世物にしようとたくらんだことは、生涯忘れるわけにはいかない。最終的には、秋谷会長が国会で堂々たる正論を叫んだ。


 その自民党が、明るい時間公明党本部を訪ね、政権入りを頼み込んできた。そして今、我が公明党は与党の一員として、困な時代の中で、国政の舵(かじ)を握っているのである。これを勝利と呼ばずして何と言おう。


 日顕宗との闘争は丸14年となる。裁判では負け続け、法主の責任まで最高裁で断罪された。人材不足は深刻と見え、元犯罪者を担ぎ上げるしか能がない。挙げ句の果てには、無知な法華講員を使って、学会員のおこぼれを脱会させようと頑張っている。


 最早、ゴミ同然の宗教団体にまで堕ちてしまった。大聖人の精神などどこにもない。だが、ゴミはしっかりと最後まで片づけなくてはならん、というのが我々の境だ。


 学会は全てに勝った。我等の勢いはとどまるところを知らない。

ブロック唱題会


 昨夜、我が地区の学生部の友人に御守り御本尊の授与。隣の支部の学生部が、前日に入会決をした友人を連れてきたので、ガッチリ折伏をしておいた。私が、彼の生命の傾向に触れると、目を大きく見開き、「実は、そうなんです!」と驚いていた。帰宅後、応援して下さった幹部の方々にお礼の電話。紹介者の学生部にも、今後のための楔(くさび)を打ち込んでおく。


 水曜日に今年最後のブロック唱題会。37回を数えるに至った。毎回、御書を拝読し、「立正安国論」、「開目抄」、「観心本尊抄」を読み終え、「撰時抄」も残すところ数ページとなった。やはり、持続は力である。わずか、3〜4の集いだが、白ゆり長は、「小野さんの講義が毎回、本当に楽しみなんです」と言って下さった。通解程度の話をしているだけだが、互いのが通っていればこそ、そんな風にじて下さったのだろう。


 最前線で戦っている偉大な同志は、を注げば敏に応じる。どんなに小さなことであっても、きちっと通じている。それを痛する一年だった。胸の内から謝のが次々と溢(あふ)れてならない。私は生涯、この人々の味方でありたい。

2004-12-23

苦難の時こそ強靭な一念を発揮せよ


 いかに全てが整っていても、「」が惰弱であり、気地がなければ偉大な仕事は成しえない。いわんや絶対の幸福境涯の確立などできるはずもない。

の時こそ、どれだけ強靭な「一」「一」を発揮して道修行を貫き通すか。信の要諦はここにある。

 皆さま方は大聖人門下として、妙法流布に生きゆく使命を自ら願ってきた広布の指導者である。広宣の途上に起こりくるや、「煩(わずら)わしさ」を決して避けてはならない。

 それらと戦っていくところに道修行があり、宿命転換の道がある。そして、一つまた一つとの坂を勇んで越えていってこそ、広布の前途は洋々と開ける。反対に、要領のよい、口先ばかりの人は、結局、自分がしむことになる。

 いずれにしても、決定(けつじょう)した一の人は、「」の働きが強く起これば起こるほど、広布への戦いの勢いをいや増し、生命力も強く“元気”になる。これこそ、信の痛快な「醍醐味」であり、その強靭な一に生命の最高峰がある。


【第7回本部幹部会 1988-07-26 創価文化会館


「煩わしさを避けるな」との指導。日常とは些事の集積に他ならず、人生とは小事の積み重ねといえるかもしれない。人生を左右する重大なる選択を強いられるのは、四度ぐらいというのが私の持論だ。


 今は、ある面では「全てが整って」いる時代だ。何もしなくとも、組織があるのだから。自分で組織を作ったという人は極めて少ないだろう。草創期をえば、一地区すら作ってない人々が殆どだろう。昔は、自分が折伏し、道なき道を切り開いて組織をつくり上げた。


 では、与えた立場から問いを出してみよう。あなたは、今現在、何人の会員の状況を掌握しているだろうか? 何人の会員のフルネームを言え、家族構成を知り、仕事や家族の状況から、いかなる悩みを抱え、どのような目標を掲げて戦っているかを知っているだろうか? 将は、たとえ1000人だろうが、10000人だろうが全てを掌握しているものだ。


 末端にいる人々は、煩わしさを避けない。文句一つ言わずに、幹部の話にじっとを傾けている。


 今、組織に蔓延しているのは“打ち出し主義”、“組織主義”、“事務主義”である。まるで、重たい荷物を次々と手渡すかのような様相を呈している。で、ブロック長・白ゆり長が振り向いたら誰もいなくて、荷物を持ったまま潰れてしまったり、ヒイヒイと悲鳴を上げている状況があまりにも多い。


 先日も地区討議が行われたが、上で用した書類を埋めるためのやり取りに終始した。10人ほどのメンバーが集まりながら、殆どの方が一言も話すことなく散会した。


 いまだに傲慢な幹部がいる。私は怒りをもって、断固として戦っている。やり過ぎて、注されるほどやっている。だからこそ私の元には、言うに言えない悩みが寄せられる。一度(ひとたび)、聞いた以上は、全力を挙げて責任を全うしてみせる、私は常にそういう決に満ちている。何も知らない幹部は、成果だけを見て喜んでいる。だが、その陰の労を知る人は少ない。


 組織が人間の集まりである以上、問題があるのは当然だ。だが、そこで、問題を解決しようとする方向に進むのか、あるいは、問題を等閑に付して、無言の行を貫くかで道は分かれる。


 私は、私がいる以上は断じて皆に嫌ないをさせたくない。だからこそ、どんなに小さな問題で、煩わしいことであっても、ゆるがせにしない。

2004-12-19

大石寺遺骨不法投棄事件


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【大石寺ではゴミ袋や米袋に入れられた大量の遺骨が放置されていた】

日興上人と五老僧


 日興上人は、師敵対の五老僧らの変節の姿を一面では嘆かれつつ、胸中では悠然と見下ろしておられた。そして、今日の世界広布の「時」を、はるかに遠望されていた。

 私どもは門下として、この偉大なる御境界を深く、また真摯に拝していかねばならない。この日興上人の御確信を仰いで、私も世界の広布に走った。御書の翻訳も厳たる軌道に乗りつつある。

 そして今、いかなる不議な約束であろうか、まさにこの時に、はるか世界の各地から、使命の若人たちが一時に集いきたった。日興上人の仰せを、そのまま実現するため、世界の広宣流布のために立ち上がった青年リーダーたちである。私は、その輝くばかりの凛々しき姿を最大にたたえたい。

 ご承知の通り、五老僧は権力の迫害を恐れ「天台沙門」と称した。天台宗の権威のカゲに隠れ、「私は天台の弟子です」と乗ることで、圧迫を避けようとしたのである。

 それは大聖人門下としての「誇り」を捨て去り、泥にまみれさせる背信であった。権力への卑屈な迎合による自らの「保身」である。退転者のこの本質は、いつの世も変わらない。

 大聖人の法は悪しき権威・権力と、真っ向から戦う民衆の宗教である。にもかかわらず、世間の権威にすり寄り、権力にこびへつらい、ただ見ばえと格好の良い方へと、信を捨て転身していく。その根底は卑しく、臆病な「保身」以外の何ものでもない。要するに、権威に弱い自らのに負けただけの話である。

 そうした“格好主義”の権威主義的な体質は、彼らの行動のいたるところに表れている。大聖人の御書の扱いにおいてもそうだった。

 五老僧は、天台宗の漢籍(漢文で書かれた書籍)を重視した。現代でいえば、殊更に“横文字”を重んじたり、しい哲学書を、わかりにくいがゆえにありがたかったり(大笑い)する態度に通じよう。

 そして、彼らは最も大切な師・大聖人の御書を見くだし、バカにしていった。特に大聖人が在家の門下のために、わかりやすい「かな文字」で書かれた御手紙に対する軽視と蔑視は、まことにはなはだしいものであった。

 彼らは、大聖人御直筆の御書をあろうことか、すき返して新しい紙にしたり、焼き捨てさえした。もしも後世に残すのならば、漢文に書きかえよとも主張した。

 何という増上慢であろうか。彼らの根底には、大ある師をも侮るがあった。御本に親しく教えを受けながら、その偉大さが彼らには全くわかっていなかった。哀れというほかない。

 次元は異なるが、かつて戸田先生の指導が、あまりにもやさしく、かみくだいて説かれているゆえに軽く見た人間もいた。五老僧らの慢に通じる姿であろう。

 そうした中、日興上人ただ御一人が、大聖人の御法門を完璧に令法久住せねばならないという大責任のもとに、懸命に御書の収集と筆写、保全に当たられた。また門下に御書を講じ、大聖人の正義を伝えきっていかれた。

 その日興上人の赤誠をも、五老僧らは「先師の恥辱を顕す」(1604頁)、すなわち“かな文字の御書を残すのは、大聖人の恥を顕すようなものだ”と誹謗する始末であった。

 まことに根底の「一」の狂いは恐ろしい。はじめは目に見えない、わずかな一の狂いが、やがて常軌を逸した振る舞いとなって、表面にあらわれてくる――。

 大聖人は「よくわかるように」「に入るように」と、庶民を抱きかかえられながら、かな文字を使い、わかりやすい言葉で大法を説き、残してくださった。

 その師匠の大慈大悲の御五老僧は踏みにじった。浅はかというには、あまりにも醜い根である。日興上人は彼らに巣食った「民衆への蔑視」を、また、その裏返しにほかならない「権力へのへつらい」のを厳然と破折しておられる。

民衆を守り、正法を守るためには、謗法とは一片の妥協も許されない。どこまでも、厳格な上にも厳格に処していかねばならない。

 それが日興上人の御精神であるし、学会精神である。要領よく妥協した方が、ある味で“利口”に見える場合も多い。しかし、信は信である。臆病なる妥協は、信の死を味する。

「民衆蔑視」と「権威へのこびへつらい」――五老僧を師敵対の転落の道に追いやったのは、他の誰でもない、彼ら自身であった。総じて、いかなるもっともらしい理由をつけようとも、退転は本人自身に原因がある。本人が悪いのである。

 にもかかわらず、自分の行き詰まりや不幸を、他人のせいにして、人をうらみ、憎んでいくのも退転者の常である。

 また、仮に退転や反逆の姿を現していなくとも、組織上の立場や、様々な権威を利用し、庶民を蔑視して、いばり、横暴に君臨していく――そうした行為そのものが、すでに五老僧に通じる「悪」であることを鋭く見抜かねばならない。そして芽の内に摘み取っておかねばならない。

 そうでなければ、いつしか組織の中でガン細胞のように広がり、その結果、本当に真面目(まじめ)で、純真な庶民がしんでしまう。指導者として、それは絶対に許すわけにはいかない。

 組織の拡大とともに、どの宗教もたどってきたであろう、こうした宿命的ともいうべき悪しき傾向に対し、私は身を挺して戦っているつもりである。

現存する大聖人の御書の御正本(しょうほん)には「ふりがな」がつけられている場合がある。その多くは日興上人が、門下が拝読しやすいようにと、御自ら筆を入れてくださったものである。

 五老僧と何と大きな違いであろうか。日興上人は大聖人の御を御とされ、世界の民衆のために、正しく、厳として大法を護持してくださった。

 そして「民衆のために『かな文字』で書かれた御書が、やがて必ず世界中の言葉に翻訳される。その時を見よ!」と大宣言しておられる。

 まさに今、「その時」が来たわけである。

 ともあれ、どこまでも民衆を愛し、「民衆の大地」に根ざしていく――これ以外に正しき広宣流布の大道はない。この大道こそが、大聖人の仰せである「一閻浮提の流布」へと真っ直ぐに通じている。

 かつて学会は「貧乏人と病人の集まり」と侮蔑された。しかし、実はそうした最もしんでいる“庶民の中の庶民”の海に飛び込み、傲慢な権威からの侮蔑を受けきって、民衆と共に走り抜いてきたからこそ、今日の世界的な、壮大な発展がある。

その歩みはまた、お一人お一人の人生の凱歌の歴史でもある。


【第7回本部幹部会 1988-07-26 創価文化会館


 この師ありて、大聖人の精神が現代に脈々と蘇ったことを、しみじみとずる。


 開目抄に云く、


 濁世の悪比丘はの方便随宜の所説の法を知らず悪口し顰蹙(ひんしゅく)し数数(しばしば)擯出(ひんずい)せられん(224頁)


 この「数数見擯出(さくさくけんひんずい)」という法華経の文は、開目抄だけでも3ヶ所にわたって書かれている。大聖人は伊豆と佐渡へ二度、流罪された。池田先生は二度にわたって日蓮正宗からを受けた。「少少のはかずしらず」(200頁)という状況だったことことは容易に像がつく。


 創価ルネサンスは、現代における大乗精神の復興であり、民衆が主役となる時代を開く運動であった。民衆という大地を離れた・運動は必ず衰退してゆく。民衆のを知り、民衆のを高め、民衆を蘇生させてゆくのが我等の闘争だ。民衆からの支持を失ったリーダーは、所詮、権威主義の虜(とりこ)であり、民衆を踏み台にして自分の地位を上げることに余がないのだ。


 だから、自分の見も言わず、じっと我慢しているような姿勢は、創価の精神ではない。波風を立てないことが団結だとったら大間違いだ。互いに腹蔵なく話し合って、時にぶつかり合い、誤解を乗り越えるまで話し合うのが本来の姿であろう。


 幹部におべっかを使う者、幹部がいると態度が変わる者は信用ならない。掌(てのひら)を返すようにコロコロとを変えるような手合いが、いざという時に後輩を守れるはずがない。


 五老僧の歴史はあまりにも重い。大聖人の側近中の側近ともいえる6の内、5人が信を全うできなかったのだから。実に17%という確率だ。


 先生は今、次の1000年をにらんで指導して下さっている。その指導をわかったような気になってたり、自分勝手に考えたりするようなことがあれば、五老僧になりかねないことを肝に銘じておきたい。

2004-12-17

人間王者の外交


 戸田先生は「水滸会」など折々に、私たち青年部に対して、人間王者の外交のあり方を語ってくださった。

「どんな人とも、真っ向から、わたりあえる人間になれ!」

「どんな立場の人に会っても、学会の正義を堂々と語れ!」と。

 戸田先生から法の真髄を学び、指導者論の要諦を教わった「不二の弟子」の私である。

「さあ、来い! 私は創価学会だ!」――この気で望む。大誠実を尽くす。宝の友情を結びながら、人生の劇をつづってきた。(中略)

 どうか、勇気を持ち、誇りを持って、どんな立場の人に対しても、創価の正義を、人間主義の哲学を、堂々と語りぬいていただきたい。


【関東最高協議会 聖教新聞 2003-08-23付】


 ひとたび、学会の看板を掲げたからには、一歩もひいてはならない。途中で看板を降ろすようなのは弟子とは言えない。


「さあ、来い……」とは、これから襲ってくるであろう数々の迫害に屈しない決と、全責任は自分が担うという気迫の現れとう。決だけでは行動が鈍り、責任がなければ大誠実を尽くすこともできない。


 ただ、論破することだけではなく、堂々と正義を叫ばなければならない。立場を利用しただけでは「宝の友情」は結べない。日々の活動においても、決と責任を忘れずに臨んでまいりたい。


【宮本】 http://www.doblog.com/weblog/myblog/30152

2004-12-15

創立80周年


 私も幾たびとなくお会いした、ヨーロッパ統合の父クーデンホーフ=カレルギー伯爵の響きあるが、忘れることができない。

「人生は闘争であり、また、いつまでも闘争であるべきである」

 創立80周年へ!

 西暦2010年へ!

 今、新出発の号砲は、高らかに鳴り響いた。

「八」とは「開く義」である。創立80周年を刻む2010年の尾根を堂々と勝ち越えた時、広宣流布の眺望は、一段と限りなく開けゆくのであろう。

時の流れほど、大きな力はない。20世紀は、1910年代に世界大戦が勃発し、「戦争の世紀」となった。

 21世紀も、最初の10年が勝負だ。「人間主義の世紀」を築けるか、否か。その分水嶺が2010年である。

 今、各地で、新進気鋭の人材が続々と登用されている。

 いずれの人事も、創立80周年への大切な布陣である。

 学会は、命令や肩書きで人を動かしていく組織ではない。幹部であればあるほど、最前線の会員に奉仕していく、尊き組織である。

 徹底して「一人」を大切にしてきたから、学会は未曽有の大発展を遂げてきたのだ。


【「随筆 人間世紀の光」46 創立80周年へ創価の上げ潮/聖教新聞 2004-09-03付】


 タイミングを逸すると折角の指導も役に立たなくなるので、メールマガジンに先行して紹介する。


 各組織で今年を締め括る討議が行われるが、その前にこの指導をしっかりと研鑚して臨みたい。


 教を弘めん人は必ず時を知るべし(439頁)


 今がいかなる“時”なのか。これを見失えば、全軍を勝利に導くこともできないし、師匠との呼吸も乱れてしまう。学会総体としては、明年の創立75周年から、2010年の創立80周年が中期的な山となる。いたずらに悲壮を煽るつもりはないが、この期間を師弟共戦の最終段階と自覚しておきたい。


 分水嶺とは分水界の山脈のこと。雨が異なった方向に流れる境界が山脈に多いことから分水嶺と呼称される。つまり、日本でいえば、国土上に存在する太平洋と日本海を分かつ稜線を指す。


 先生がおっしゃっていることは、21世紀の命運を決定づける天下分け目の時が2010年であるということだ。


 世紀を決する段階に当たり、先生が教えられているのは、会長勇退後の先生ご自身の闘争である。それは、功労者宅の訪問だった。


 私は、昭和54年4に会長を辞任した直後から、功労者の家々を訪ねていった。

 第一に、会員へ「謝」のを伝えたかったのである。

 会長を退く直前、お会いした中国のトウ潁超(とうえいちょう)先生は、私の辞任に異を唱えられた。

人民の支持がある限り、辞めてはいけません」

 強くに残る言葉だった。

 若くして第三代の会長になった私を、全国、全世界の同志が、から強く支えてくださった。

 新しき、道なき道を開いた功労者の労は、並大抵ではなかった。折伏に歩いても、罵詈雑言を浴びた。言葉の飛礫(つぶて)だけでなく、水や塩も襲ってきた。

水道の元栓を止められ、村の共同の水道が使えない目にあった人もいる。

 だが、御聖訓の通りの、ありとあらゆる中傷非、そして迫害のなか、わが同志は、決して広宣流布の旗を下ろさなかった。

 この方々を護らずして、誰を護るのか!

 この方々を讃えずして、誰を讃えるのか!

 本当ならば、尊い子である全学会員のお宅を、私は一軒一軒、訪問したかった。

 せめて、その代表として、私は功労者のお宅を訪ねていったのである。

 ご高齢な方も多い。お元気なうちに自宅を訪ね、ゆっくりと懇談することが、私の夢であった。


 第二に、学会の「再生」である。

 私の会長辞任の背景には、私と会員の間を裂く、陰険なる離間工作があった。

 これこそ、浅ましき卑怯な反逆者と坊主どもの結託であり、黒い卑しき学会乗っ取りの陰謀であったのである。

 頼るべき我が最高幹部の連中も動揺が激しく、我が本陣は、怪物たちの行動によって変えられようとしていった。

 しかし、最前線の会員と私のの絆は、厳然と結ばれていた。

 私は、「第一線に行こう!」と、強く決をした。

 組織の最前線こそ、広宣流布を最大に強固な陣列にせしむる、最も重要な砦(じょうさい)であると、私は深く決していたのである。

 うろたえた最高幹部よりも、第一線の戦場で戦い抜いている、あの強靭な魂の勇士たちとの語らいが最も大切であると、私はひそかにっていた。

 御聖訓には、「をば奪功徳者といふ」(470頁)と仰せである。

 また、「の習いは善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶ」(981頁)とも説かれている。

 すなわち、とは、功徳を奪い、にならんとする正しい人をば、しめ、傷つけ、善を打ち倒さんとする。

 だからこそ、私は、この邪悪にして、強力なる悪の者たちと、真正面から戦う決をした。

「各各我が弟子となのらん人人は一人もをく(臆)しをもはるべからず」(910頁)と、日蓮大聖人が断言なされている通りだ。

 これが、真実の広宣流布の未来を開く正義の行動であり、大道であるからだ。

 断固として、私は立ち上がった。そして戦った。見事に正義と勇気の大使命の本陣を、私は護ったのだ。

 傷も多かった。あらゆる中傷批判を浴びた。しかし、私は尊き創価学会を護ったのだ。

 この誇り高き魂は、広布の大功績を、諸天善神が、十方菩薩が永遠に讃嘆してくれることを、深く確信している。

 いかなる卑劣なの大攻撃にも絶対に揺るがぬ、大善の連帯を!尊き民衆の正義のスクラムを!

 そして、使命と使命の鉄の団結を、私は新しく創り始めた。

 そのために私は、最も基本的である家庭訪問に走った。最も根本である個人指導に奔走した。

 いわゆる目に見えぬ土台の部分から、創価学会が使命とする「広宣流布」の重要な組織を、再び命の限り築き上げていったのである。


 第三に、わが正義の魂を燃やした、真剣勝負の「反撃」であった。

 当時、学会の首脳たちは、坊主どもの撹乱に怯え、常に宗門に監視されているような空気となってしまった。

 私も、自由に会合に出られない状況となった。

 そして、私に対する宗門の攻撃も一段と卑劣になってきた。聖教新聞には、ほとんど行動を報道されることもなくなっていた。

 私の記事が載らず、会員の方々は本当に寂しがっていた。多くの電話があった。多くの手紙が来た。

 ただ黙ったまま、動きもしないで、情勢が変わるわけもない。まことの時は、いつになっても来ないであろう。

 増上慢の限りを尽くす宗門に対し、腑抜けになった幹部らの不甲斐なさにあきれて、私は一人、強い決で、反撃に出た。

 会合に出られないなら、一軒一軒の家を回るのだ!

 一度に大勢と会えないなら、一人ひとりとの出会いを積み重ねていくのだ!

 これが、私の断固たる決であった。闘魂の炎であった。


 長野県に在住する、古くからの功労者宅を訪問した時のことである。

 ちょうど今から25年前の、昭和54年の825日であった。当時も、あの地この地で、忘冷酷な坊主どもは、健気(けなげ)な学会員をしめ抜いていた。

 この指導のために訪問した家は、江戸初期から続く旧家であるという。

 小雨が降る午後、番傘を手に、表で待ってくださっていたご主人に案内され、重厚な門をくぐった。

 母屋(おもや)には、およそ350年の歴史がある。簡素な座敷は、質実な江戸の暮らしを偲(しの)ばせるものがあった。黒光りする柱や、牡丹が彫られた欄間(らんま)に風格があった。

 この母屋を舞台にした民話を教えていただいた。

 ある冬の夜――。

 溜め池に落ちて凍えるキツネを、庄屋の彦左衛門が親切に救い、山へ返した。

 翌、立派なキジが庄屋の家の縁側に。

 雪の上に残る足跡で、庄屋はキツネが返しに来たことを知った。

「キツネの返し」という民話である。

 庄屋の彦左衛門が、このお宅の先祖に当たるそうだ。

 素朴な筋書きだが、身振り手振りを交えて懸命に語るご主人のには、切々と胸に迫るものがあった。

」の大切さを伝え抜くは、「忘」を許さぬでもあった。

たとえ動物とはいえ、「」を忘れなかった行動は、幾百年も、親から子へ、子から孫へと伝承されてきた。

 報の行動こそ、民衆に必ず支持されるのである。

 スペインの作家セルバンテスは、「忘は傲慢の産物にして、世に知られたる大罪の一つなり」と綴っている。

 会長辞任の前後から、人間の裏切りや二面を嫌というほど、私は見てきた。

 平気で大ある学会を裏切る不知の輩を、私はどれだけ目の当たりにしてきたことであろうか。

「才能ある畜生」は、まさに畜生にも劣る存在であった。

 シェークスピア劇の、ある登場人物は憤(いきどお)った。

「ああ、知らずの形をとって現れるときの

 人間ほど恐ろしい化け物はない!」

 人間の偉さとは、地位や学歴ではない。いかに「」の大切さをじて行動するかで決まる。報こそ、人間の生き方の根本である。

 深き義ある、そのを説いているのが、法である。

」の重さを知る人ほど、知らずの悪を許せるはずがない。ゆえに、真の報の人とは、不知の悪を打倒する闘争の人となるのだ。

私にとっての会員への返しとは、学会を裏切った輩から、健気な会員を断固守り抜く闘争であった。

 その戦いによって、「善の中の善」である創価学会の正しさは、明確に証明されるにちがいないと信じた。

 我らの信仰による、真の報の物語こそ、人間の真髄として、永遠に民衆の模範となり、軌道となり、謝をもって語り継がれていくことは間違いないと確信していた。


 私の功労者への訪問は続いた。

 その家の後継者や、小さいお孫さんとも親しく語り合った。一家一族を永遠に幸福の軌道に乗せることが、私の願いであり、祈りであったからだ。母親の信が立派な家庭は、どこも後継者がしっかりと育ち、栄えていた。

 全国を転戦しながら、移動の途中に、会員の家や店があれば、寄らせていただいた。

 山口県の中堅幹部のお宅では、関西の幹部に「3.16」の義を後世に留める話をした。

 大分空港に降り、坊主たちの苛めと戦い、しんできた方がいると知って、直ちにその場に向かったこともある。

 200軒目は、文京支部で共に戦った田中正一さんのお宅であった。

 300軒目は、神奈川の功労者で、ご一家のお母さんが病に伏したことを知り、お見舞いに伺った。

 500軒目は、坊主の迫害に耐え抜いた愛媛の勇者の家であった。昭和60年の寒い2のことである。

 その後も、全国各地、また世界を回るなかで、寸暇を惜しんで、広宣流布の尊き同志のお宅を訪問させていただいている。

 一軒また一軒と数が増えるにつれ、自分の家族も増えるようないであった。

労して個人指導、家庭指導に歩けば、その分だけ、人間としての厚みがまし、豊かな境涯になれるものだ。


 やはり、一軒また一軒と家庭まで足を運び、語り合わなければ、その人のしみも、その人の本当の悩みもわからない。すなわち、その人の人生と使命と未来への希望を与えることはできない。

「信即生活」である。その人の生活がわからなければ、信もわからない。

 人前では明るく振舞っても、人知れぬ悩みを抱えた会員も多くいた。いや、悩みのない人などいない。

 きめ細かい生活指導こそ、不屈の信の確立につながることを痛する一日一日であった。

 会長辞任の直後、地道な家庭訪問からの闘争を開始し、今や学会の民衆のスクラムは、世界をも結ぶまでになった。

 一人を味方にできない人は、世界を味方にできない。

 一つの家庭の幸福に尽くせない人は、人類の幸福に貢献できない。

「良き交友ほど優れた味方はない」と、古代インドの大詩人ティルバッルバルは言った。本当にその通りだ。

 桂冠詩人である私には、胸を赫々と光らせてくれる言であった。

 我らは、断じて一生涯、いな永久に、善と正義の連帯を広げ抜いていくのだ。戦うのだ。生き抜くのだ。

 一対一の対話――これこそ最も確かで崩れぬ、平和と幸福の人間の連帯を築く方途であるからだ。

 ここに、学会が永遠に栄え伸びゆく生命線があることを決して忘れてはならない。

創大利用


 各種グループや、創大サークルのOBによる組織利用にも要注。なんだかんだと理由をつけながら、それを決めているのは、一部のメンバーであることが多い。少しでも不明な点があれば、断固、拒否すべきだ。実際にトラブルも起こっている。


 先日、こんな相談を受けた。創大のあるサークル出身者に対する寄付金の要請があり、どうしたものかという内容だった。私は言下に「賛同する必要なし」と答えた。音頭をとっているのは某分区の婦人部長だった。このサークルの卒生は数百人に及ぶ。案内状の切手代などは一体、誰が負担しているのだろう? 折からの不況で、必死の生活闘争をしている方も少なくない。資金繰りで悪戦闘している自営者だっているだろうし、子供の進学や、親の病気などで不の出費が嵩(かさ)んでいる方もいるだろう。件(くだん)の婦人部長に、この程度の像力もないことが明らかだ。

2004-12-14

異体同心が信心の組織


 紙で作った体裁の組織など

  なんの役にもたたない

 異体を同とした

  信の組織こそ

   永遠に崩れない

    われらの和合僧


【『友へ贈る』 1978-05発行】


『友へ贈る』(1978年)と『若き友へ贈る』(1971年)はいずれも、書籍の扉などに書かれた先生の言葉を編んだもの。短文でありながら、要(よう)の重みがあり、凄まじいばかりの勢いと詩が絶妙なメッセージを形成している。


 この指針は、私の先輩の書籍に記されたもの。一度、見せて頂いたことがある。私は既にこの言葉を記憶していたので、こんな身近にいる先輩にまで、先生の激励の手がゆき渡っていることに、底驚いた。


 紙で作った組織とは、人事書類や簿で作られた組織。力のない幹部が中者となると、かような組織ができ上がる。広布の世界における“力”とは、信力・行力に他ならない。経験や教学力、企画運営ができるかどうかは二の次だ。後輩を守り、後輩を成長させ、後輩の宿命転換をさせられるだけの信が、中者にあるかどうかが最重要となる。


 具体的な振る舞いとしては、後輩の話にを傾け、楽を共にしているかどうかである。打ち出しだけの一方通行で、報告だけを求めるような幹部がいれば、民衆のは離れてゆくことだろう。事務的なやり取りで人のを動かせるはずがないのだ。


「和」はなごむ、やわらぐと読み、「合」はあう、あわせる。「僧」とはリーダーの謂い。学会員地涌の菩薩であるが故に、全員が僧である。戸田先生は亡くなる直前に、「学会は雰囲気を大事にしてゆけ。雰囲気を壊す者は叩き出せ!(趣)」と指導された。集い合った時に、ホッとする雰囲気がある組織は立派な和合僧といえよう。ただしそれは、単なる世法的な味での仲がいいという味合いではない。


 組織である以上、目標や打ち出しがあるのは当然だ。打ち出しというのは最大公約数であって、それによって組織が動脈硬化を起こしているとすれば本末転倒だ。我が組織の宿命転換をにらんで、打ち出しを利用しながら、断固たる結果を目指すのが本物のリーダーである。


 地区や支部、本部や分区などという組織の単位は違っても、原理・方程式は全く同じだ。特にしておきたいことは、本部長と支部長のやり取りが、そのまま現場に反映することだ。

2004-12-13

求道心に功徳が薫る


 信の世界は、積極的に求道精神をもって実践した時には、功徳を受け向上してゆく。反対に受け身の場合には、なんとなく圧迫や抵抗をじて、激がなくなり、功徳も受けられず惰に流されてしまう。

 全て自分のためであると確信して、活動してゆく積極が真実の道修行である。

 根本的には、御本尊を持(たも)ったということが、最高の積極である。釈尊時代の迦葉(かしょう)、阿難でさえ、を恐れて末法に出現できなかった。信した以上、消極的だからと悩む必要はない。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 世間とは世界と同法上では差別の義と説かれる。ここでいう差別とは“人種差別”などの味ではなく、本質的な差異・相違のこと。


 信している人としてない人の違いは何か? 人によって様々な見があろう。私の場合、信してない期間が生後4ヶと極めて短かったため、記憶が定かではないが、まあ大体の像はつく(ニヤリ)。


 信してない人の幸福とは、世間に認められることであろう。顔やスタイルの美醜に始まり、仕事の成功、地位、誉、財産、仲睦まじそうな家族、互いの見栄を認め合う友人達、とでもいったところか。こういう人は、自分の外側にあるもので我が身を飾ることが幸福だと勘違いしていて、ともすると、数多くの宝石を身にまとっている薄気味悪い婆さんのようになりがちだ。その眼差しは常に外へ外へと向かい、自分自身を深いところから見つめ直す作が全くない。


 翻って我々学会員はどうか? まあ、学会員ったって色々いるからねえ(笑)。決定的な違いは、我々は功徳の世界に生きてることである。人生や生活の中で、生命に功徳じては謝を捧げ、を自覚しては生き方を見つめ直し、再び決を深くする。日常の些事(さじ)からも人生を省察し、一事ある時は、今こそ使命を果たさんと自分の限界を打ち破り、新たな生命の大地を開拓する。日常の小さな営みは社会の改革に直結し、人間と人間の絆を深めゆく語らいは、互いの人生をよりよい方向へと誘(いざな)う。ま、いいことずくめってこった(笑)。


 そうであれば、いたずらに自分を卑下する学会員は信が弱いと言わざるを得ない。他人と比較して落ち込んだり、浮かれたりするような視線は、真っ直ぐに御本尊を見つめることができないだろう。衆生を見る時、役職やキャリアは考慮されないことを知るべきだ。釈尊の十大弟子も、決して序列を示したものではなく、それぞれの弟子が自分の個を開花しきった姿を現したものであろう。


 然る間(みな)を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一に納めたる功徳善根なりと信を取るべきなり(383頁)


 前にシキミを捧げ、線香を焚(た)いても功徳がある。学会活動は妙法を讃嘆し、宣揚する儀式であるから、会合で拍手をしただけでも功徳があるのは当然だ。会館のトイレでスリッパを並べても功徳があるし、後から来た人のために前へ詰めただけでも功徳がある。会合に遅れそうになって、駆け足なんぞで行った暁にはどれほどの功徳があるか計り知れない。これは冗談でも何でもないよ(笑)。


 ところが現実には、選(え)り好みをしたり、消極が顕著になる場面があったりする(笑)。最近、目につくのは、会場の正面真ん中に座ることを避け、やたらと壁際に座ろうとする人が多いことだ。まるで何か隠し事でもあるのか、とにかく中者や幹部の視線を避けようと頑張ってらっしゃる(笑)。こうした行為に悪はなかったとしても、消極が消極を呼び、全軍の呼吸を乱す結果となりかねない。大聖人は、功徳善根は「我が一に納めたる」と仰せだ。他人の顔色を窺っている内は、功徳の実は乏しくなるのが当然だ。


 小さな勇気が積極を築く。一度、勇気を出してしまえば、同じことがわけもなくできるようになるものだ。何はともあれ、信の世界における遠慮は不要だ。

2004-12-11

天台門下は邪義の跳梁を黙止


 華厳宗真言宗も、かつての法相宗と同じく、時の権力に取り入り、力を伸ばした。とともに、いずれも天台の精緻な法門を巧妙に盗み取り、法義を構築し、理論武装していった。

 これに対し天台の末学たちは、まことに浅はかというべきか、なすすべもなく、黙って悪法の栄えを許していた。

 ひとたび「正法」「正師」が後退してしまえば、そのスキにつけこんで、「悪法」「悪師」が際限なく増長し、はびこっていく。これが、いつの世も変わらぬ現実である。

 この鉄則から目をそらし、天台門下は邪義の跳梁を黙止した。

それは、もはや「門下」のにも値しない、はかない“敗者”の姿である。深き鍛錬なき人ほど、時とともに世間に迎合し、時流に押し流されていく。若き日に、信の鍛えを怠ってはならないと、私がいつも申し上げる理由がここにある。


【第2回神奈川県支部長会 1988-07-19 神奈川文化会館


 あらゆる哲学宗教が人間の幸福を目指す以上、人々の生きる姿勢を正しいものへと引き上げ、古き因習や悪しき権力と対峙(たいじ)するのは当然だ。それ故、権力への迎合はの死を味する。


 悪を放置すれば謗法与同になる。聖教新聞紙上座談会にケチをつけてる学会員に限って、敵との攻防戦を避け、世法に流され、自分勝手な美学に酔い痴れているものだ。猛々しいほどの破折精神なくして、大善の証明はあり得ない。牧口先生は叫ばれた。「不善は悪である」と。「可もなく不可もなくは不可である」と。「羊千匹よりも師子一匹」と。「悪人の敵となり得る勇者でなければ、善人の友とはなり得ぬ」と。


 信が堕落してくると、利害と打算で動くようになる。優先されるのは自分の評価であり、わずらわしい問題を避け、地道な闘争をしなくなる。“の死”が一切の判断を狂わせ、どのような演技をしようとその濁った瞳は、民衆によって鋭く見破られてゆくことだろう。


 法を壊乱(えらん)するは法の中の怨なり慈無くして詐(いつわ)り親しむは即ち是れ彼が怨なり彼が為に悪を除くは即ち彼が親なり(139頁)


 互いを注し合えない関係から法は破られてゆく(「親しみより破るべし」を参照のこと)。「これぐらいは」という油断から、団結が破られ、退転者を生み出すのだ。どのような時代になろうとも、「信は厳しく、活動は楽しく」という鉄則を見失ってはならないだろう。

誹謗中傷の本質


 現在の学会に対する様々な誹謗も、その本質は、あの時代からいささかも変わっていない。そこには、正しい認識もなければ、真の批判もない。ただ、恣(しい)的な曲解と偏見、そして悪と嫉妬があるのみである。

 新しい運動には、必ず反動が起きるのは歴史の常である。反動が大きいということは、社会にそれだけ強い影響を与えている証左ともいえよう。かつて社会を賑わした数々の新興宗教も、今では、非・悪口(あっこう)はおろか、話題にすらのぼらなくなっているものも多い。所詮、何の変革の力も持たないものは、相手にもされないものだ。


【第7回本部幹部会 1988-07-26 創価文化会館


 昨日、あるメンバーから、大白蓮華12号に掲載されている先生の「開目抄講義」に関する質問を受けた。「世間の疑(うたがい)」と「自の疑」について。


 世間の疑いというのは、往々にして底が浅いものだ。組織がどうの、公明党がどうの、といった話題が大半。低俗な週刊誌に至っては更なる下劣な情報に終始しているのが事実。


 既に学会は、日本において無視できないほどの勢力となった。存在そのものによって動執生疑を起こしているといっても過言ではない。少しずつではあるが、学会に対するまともな言論も見られるようになりつつある。


 学会は、社会や人を映す鏡であり、学会に対する見方が、その人の人生観を如実に現している。学会の悪口を言ってはばからない人物の大半は、自分は過去に迷惑を被(こうむ)っていると口角泡を飛ばすのみで、他者の善を慮(おもんぱか)るの余裕すらない。聞くを持たず、を閉ざした自分自身にすら気づいてないのが殆どだろう。


 インターネットは、人々の考や情が純粋な形で表出しやすいツールだ。学会を誹謗するサイトのどこを見ても、が晴朗になることはない。いたずらに人々の黒い情を刺激し、反を煽っては、狭い世界で称讃されて悦に入っている馬鹿者だらけだ。


 この指導を拝すと、学会の社会変革の波が津々浦々にまで広がっていることを強く実する。作用があれば、反作用が伴うのは、科学の世界においても普遍の原理だ。


 我々は断固たる態度で、頭(こうべ)を上げて、広宣流布という一点をはった睨(にら)みながら、堂々たる歩みを貫く。

指導部


 昔、指導部というのがあった。今は四者というが、昔は五者といってた。年を取り、第一線を退いた印象が強かったが、“広布の赤十字”として、組織の隅々にまで個人指導の手が及んでいた。


 指導部がなくなったのは、確か平成元年頃だろう。この時、役職が事実上、下がった方々も多かった。過去に地区部長をしていた方が地区幹事となり、支部婦人部長をしていた方が支部副婦人部長になってしまった。きっと、どこの地区にもこうした方がいるとう。


 この方々は、下手な正役職の幹部よりも、はるかに力がある。だが、力を発揮できる役割が与えられていないのが現実だ。私の近所にも、広布第2章で地区部長として戦い抜いた方がいて、様々なことを教わっている。役職は私の方が上だが、信の大先輩として尊敬し、指導を仰いでいる。こうしたやり取りの中に、真の後継の道があると確信しているからだ。


 以下に紹介するのは先日、この方から伺った話――


 地区部長会でのことだった。会合の途中で3人の地区部長が遅れて駆けつけた。座るや否や、大きなで題目三唱をした。瞬時に、担当で入っていた古参の副会長から厳しい叱責が飛んだ。


「何なんだ! 会合に遅れてくるのは構わない。しかし、大事な話をしている時に、大きなを出して、会合を妨げるとはどういう料簡(りょうけん)なんだ? 会合の邪をするのは破和合僧だ。信のあるフリをするな!」

「自然との対話」写真展を鑑賞


“生命”の輝きに


 創価学会の友人に誘われ、みちのく池田記墓地公園で開催された「自然との対話――池田大作写真展」を鑑賞しました。


 ロビーに入り、写真を見たとたん、動と激に包まれました。私の大好きな桜が、満開の花を咲かせて迎えてくれたのです。それは、単に一枚の写真ではありませんでした。


 素晴らしい色彩の作品すべてに“生命”が吹き込まれ、花も木も山も、そして雲までが生き生きと輝いています。


 3ヶほど前、ちょっとしたはずみで腰を痛めてしまったのですが、気がつくと腰痛など、どこかへ吹き飛んでしまい、写真に釘づけになってしまいました。


“こういう撮り方もあるのか!”。自然に対する見方が、180度、変わりました。これほどの動は、65年の人生で初めてといっていいかもしれません。


 早速、地元の友達にも教えなければとい、翌日、一緒に再び写真展を訪れました。何度も海外旅行をしている友人も、から動してくれました。


 会場のみちのく池田記墓地公園は広々としていて、手入れも行き届いており、本当にさわやかな気持ちでした。緑の芽のふくらむ春に、また訪れたいといます。誘ってくれた学会の友人には、謝の気持ちでいっぱいです。


【「」 宮県本吉町 三浦教子(主婦 65歳)/聖教新聞 2004-12-11付】

2004-12-10

学生部からの質問


 昨夜、東京で3位の弘教成果を出している学生部の部長から電話があった。個人折伏も3世帯達成しているメンバーだ。電話では何度か話しているが、直接、会ったことは二度しかなかった。


「ちょっとお訊きしたいことがあるんですが――」。詳細は書けないが、組織と人材育成のあり方に関する質問だった。若き求道のが、眩(まぶ)しいほど光っていた。

なぜ天台門下が邪義を破折できなかったか


 大聖人の御文を受けて、第26世日寛上人は「なぜ天台門下が邪義を破折できなかったか」について、『文段(もんだん)』で簡潔明瞭にまとめておられる。つまり「初めには智薄きが故に、次に権威を恐るるが故に」(『日寛上人文段集』360p)と。

 天台宗が歩んだこの歴史の教訓を、皆さま方、特に青年部の諸君は、胸に刻みつけていただきたい。

 いかに巧妙に仕組まれた策謀や邪義をも、鋭く見破っていく「智」、そして、いかなる権威をも恐れずに、堂々と正義を叫びきっていく「勇気」――この二つを兼ね備えてこそ本物といえる。

 もし、後継の門下に「智」と「勇気」がなければ、もはや法戦には勝てない。また「信」は「智」の源泉である。浅き信には、浅き智しか備わらない。深き信があってこそ、深き智も限りなく湧いてくる。ゆえに若き諸君は、何よりも信の利剣を磨いてもらいたい。


【第2回神奈川県支部長会 1988-07-19 神奈川文化会館


 忘れられない指導の一つ。


 神奈川文化会館と立川文化会館は、会長勇退直後に先生が指揮を執られた場所であり、魂魄がとどめられている国土世間。


 歴史の厳しき実相を何度も何度も教えられる師匠の叫びに、当時の青年部は決を固めたものの、大の予は全くなかった。ただ、権威を打ち破る指導が多かったために、「幹部や議員がなんぼのもんじゃ!」というムードは現場に蔓延してた(笑)。


 この指導は以下の御文を引かれてなされたもの。


 而るを天台は御覧なかりしかば天台の末学等は智の薄きかのゆへにさもやとおもう、又太宗は賢王なり玄奘(げんじょう)の御帰依あさからず、いうべき事ありしかどもいつもの事なれば時の威をおそれて申す人なし(301頁)


 中国天台宗も、日本の天台宗も、わずか第三代にして急速に転落の坂を転げ落ちていった。会長勇退の際にも、「時流には逆らえません」と発言した馬鹿者がいた。


 智と勇気を兼ね備えてなければ邪義は打ち破れない。わかりやすくいえば、気づいていても、言えなかったり、行動できなければ、現状は変わらない。逆に、どれほど実践があったとしても、嘘を見抜けないと、全軍が暴走してしまう。智は眼であり、勇気は足にも例えられようか。


 本部幹部会を始めとする同時中継・衛星中継によって、我々は師弟直結の信に目覚めた。先生に呼吸を合わせたが故に、連続勝利を勝ち取り、その中で信の利剣を磨いてきた。だからこそ、坊主の叛逆にも微動だにしなかったのだ。


 師匠の偉大さは、現実に世界中で証明されている。あとは、弟子の側の問題だ。「師匠は偉大であったが、弟子はそうではなかった」などと、後世の歴史家に書かれるようなことがあってはならない。

「オレオレ」改め「振り込め詐欺」 警察庁が総称変更


手口多様化に対応、捜査体制も強化へ


「オレオレ詐欺」などの総称を「振り込め詐欺」にします――。手口の多様化を踏まえて、オレオレ詐欺の称変更を検討していた警察庁は9日、銀行口座に現金を振り込ませる詐欺について「振り込め詐欺」と総称することを決めた。漆間巌警察庁長官が同日の会見で明らかにした。

 銀行口座に現金を振り込ませる手口については、オレオレ詐欺以外にも、架空請求目や融資保証金目の詐欺があり、漆間長官は「口座に振り込ませる形態の詐欺を防止するという観点から、『振り込め詐欺』と総称することで、『すぐに振り込まない』『一人で振り込まない』といった注点を国民に訴えていきたい」と話した。

 一方、振り込まれた現金の約9割が首都圏で引き出されている実態を踏まえ、警察庁では今後、地方で被害が発生した際に備え、道府県警から捜査員を首都圏に派遣し、基礎捜査をはじめとした捜査体制の強化を図る。13日には「身近な知能犯罪緊急対策チーム」を庁内に設置し、全国の捜査情報の集約や分析をより強力に推進していく。


【産経新聞 2004-12-10】

2004-12-09

試験に挑戦する心が教学


 教学をしていかなければならないということは、これは日蓮大聖人様の弟子として当然の使命であり、義務でありますゆえに、一生懸命、真面目(まじめ)にやっていただきたい。しかし、たとえ、真面目(まじめ)に一生懸命に教学の道に励んだとしても、得手、不得手もあります。境遇もあります。

 したがって、試験を受けて、その人が講師、助教授になれなくても、私は結構であるといます。「試験を受けよう」「勉強しきっていこう」「大聖人様の仰せどおりに実践していこう」という、そのが教学です。信です。したがって、教授になり、助教授になり、講師に、やすやすとなったからといって、それをハナにかけるような婦人部の幹部があったとしたならば、増上慢です。また、教学部員になれなかったとしても、その人が立派な幹部である場合もあります。


【10度婦人部幹部会 1962-10-11 台東体育館】


「教学が大切であることはわかる。しかし、だからといって試験があるのはおかしいんじゃないか?」。私の父の元を訪れた新入会の壮年がこう語った。「フム、なるほど。何となく聞いていると、いかにも筋が通っているようにじるが、どうも引っ掛かるな」と二十歳(はたち)の私はった。


 一度、引っ掛かった疑問を私が手放すことはない。折あるごとにこの問題を考えてきた。正論のようでありながら、スッキリしないのは、結局、最後に試験を否定していることに起因している。試験でなくてもそうだが、どんなに正しくても否定的な見は、周囲に寒々とした印象を与え、皆の士気を鼓舞することはない。


 大体、試験がなかったら、勉強する人はいなくなってしまうだろう(笑)。また極端に考えれば、教学試験がないと、北海道と九州では教義が異なるケースも出てくるかもしれない。だから、我見を排すためにも教学試験は必要であろう。


 受験までは合格を目指すのが当然だ。この段階で「合否はともかく――」などと語る人物は、戦わずして敗北を認めたも同然だ。試験である以上、合否があるのは当然だ。だが、いたずらに合否にとらわれる人物は、縁に紛動されていて浅ましい。


 教学試験の本当の勝負はどこにあるか? それは、試験の後も学び続けているかどうかの一点にある。合格したとしても、御書を開くことがなくなれば、それは敗北だ。


 私は今回、男子部からも見捨てられていた鬱病の青年と一緒に勉強してきた。あろうことか、私は一番最初にメガトン級のプレッシャーをかけた。毎週、二人で忌憚なく語らい、鬱(うつ)のしさも教えてもらった。私は過去に8の鬱病メンバーをみてきたが、彼が語る悩は、家族にすら言えないもので、誰かと比較できる質のものではなかった。道ゆく人の視線に恐怖を抱く彼にとっては、家を出て私の元へ来ることですら戦いだった。だが、彼は毎週やってきた。そして、見事、合格を勝ち取った。私達は抱き合って喜んだ。


 今から10年以上前に、の聞こえない男子部と任用試験に挑んだことがある。私にとっては、この方の合格以来の、忘れ得ぬ教学試験のドラマとなった。

2004-12-08

求道心篤き海外の同志


 私は学会本部で、お会いしたブラジルの青年たちにこう語った。

「今、日本の青年部のなかで、法のため、広布のために、自らお金をため、自発的にブラジルへと弘教・指導に出かける青年が、いったい何人いるだろうか。仮に、そう考えると、諸君たちの行動が、どれほど尊いことか。その信を、私はから賛嘆する」と。

 信の「」がどうかである。これが一切の根本の基準となる。格好でもない。立場でもない。その味において、私どもはこの求道の青年たちを最大にたたえ、尊敬し、また真摯(しんし)に学んでいくべきであると私はう。


【第2回神奈川県支部長会 1988-07-19 神奈川文化会館


 衛星中継で海外からのメンバーが紹介されるや否や、私は懸命に拍手をする。来日までの労を像しながら、せめてものいで掌(たなごころ)を合わせるような気持ちで、顔よりも高い位置で拍手する。


 私は北海道から、会合に参加するために上京したことが2度ある。19歳の時と、20歳の時のこと。東京に住むようになってからは、家庭訪問で仙台へ行ったことがあるし、御本尊御安置のために四国へ行ったこともある。海外から来日するメンバーの労は、この100倍以上かもしれない。ある面で全てを犠牲にし、ただ先生を求めて空を渡り、海を越えてやって来るのだ。その一には、堂々たる草創の吹きが満ちている。

 

 道のとをきにざしのあらわるるにや(1223頁)


 これは、釈尊の十大弟子の一人であった目連が、過去世において千里の道をものともしないで法を聴聞したがゆえに、天眼第一の果報を得たことを示され、乙御前の母を讃嘆した御文。この御聖訓を誰よりも深く味わうことができるのは海外の同志であろう。


 学会で最も偉い人は誰か? それは信強盛な人である。そして、広宣流布を現実に開拓した人である。役職や信年数は全く関係ない。自分の方が先輩であっても、朗らかに妙法の凄さを語る後輩に接した時、額(ぬか)づき、ひれ伏すようないに駆られた経験を何度もしている。これが本物の雄弁だ。


 役職の差は、受け持ち人数の違いであって、担当範囲が異なるだけに過ぎない。そうであればこそ、役職で自分を卑下したり、役職だけで大物振るのはおかしなことだ。


 我(わが)弟子等の中にも信薄淡(うす)き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ず可し其の時我を恨む可からず(537頁)


 お互いが確かなる信を築くための組織であらねばなるまい。

2004-12-07

創価班:確認事項


 既に書いた通り、身体の前や後ろで手を組むのは駄目。体重を片足に掛けるのも駄目である。咄嗟(とっさ)の対応が遅れるため。




 場外任務(門より外側)の場合、ネームプレートは着用しない。敵に前を覚えられてしまうため。




 任務の際は、ネクタイピンやカフスボタンは付けない。暴漢ともみ合いになった際、相手を傷つける凶器となってしまうケースがあるため。




 駐車場での誘導は行わないのが原則。創価班が誘導して、車をぶつけた学会員が訴訟を起こしたことがある。この場合、100パーセント運転手の自己責任となるが、相手が嫌ないをするのは当然である。たとえ、運転技術が未熟であったとしてもだ。ぶつけそうになっているのに黙っていることはないとうが、特殊なケースを除いては誘導すべきでない。




 また、交通量が多い道路に駐車場が隣接している場合は、駐車場の入り口で車を止めてはならない。一旦、駐車場に入れてから対応する。

正本堂:覚え書き


1960-01-01


 日本人なれば、元にあたっていおこすものは、旭日に輝く富士山でありますが、その富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命であり、本誌大白蓮華の使命であることを忘れてはならないといます。


日達上人『大白蓮華昭和35年1号】


1965-09-12


 このこと(正本堂建立)は、大聖人の御遺命にしてまた我々門下最大の願である戒壇建立、広宣流布の弥々事実の上に於て成就されることなのであります。


日達上人「院達」】


1966-05-03


(「三大秘法抄」を引いて)広宣流布の時とは、まさに今日、創価学会の出現により、又その大指導者たる会長池田先生が身をもって示される、法主上人猊下と宗門に対する不惜身命の御守護をもって、いよいよ、その時が到来した事をだんじてはばからぬものでございます。


日顕「本部総会」】


1967-11


 宗祖大聖人の御遺命である正法広布事戒壇建立は、御本懐成就より 680数年を経て、現御法主日達上人と法守護の頭梁総講頭池田先生により 、始めてその実現の大光明を顕わさんとしている。


日顕『大日蓮』11号】


1968-01


 此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本も、教化の儀式も定まり、 王冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります。


日達上人『大白蓮華』1号】


1972-03-26


 当然大石寺正本堂が広宣流布の時に 三秘抄、一期弘法抄の戒壇となる。


日顕「宗門の公式見解」】


1972-04-28


《※「国立戒壇」に固執する妙信講(現在の顕正会)の疑を晴らす目的があった》


 日達、この時に当って正本堂義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。

 正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の義を含む現時における事の戒壇なり。

 即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり。但し、現時にあっては未だ謗法の徒多きが故に、安置の本門戒壇の大御本尊はこれを公開せず、須弥壇は蔵の形式をもって荘厳し奉るなり。

 然れども八百万信徒の護惜建立は、未来において更に広布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし。

 宗門の緇素よろしく此の義を体し、僧俗一致和衷協力して落成慶讃に全力を注ぎ、もってその万全を期せられんことを。


日達上人「訓諭」】


1972-10-11


 今後、この正本堂において、永久にこの戒壇の御本尊様の御開扉をして 信徒皆様の即身成仏、現当二世の大願を祈願し、世界平和の祈願の大殿堂とする ことに決定した次第でございます。


日達上人「大御本尊御遷座大法要」】


1973-10-12


 此の大御本尊正本堂は永久に守護し奉る建築物である。

 池田先生は、日蓮正宗と、その総本山大石寺の外護を以って任じられている 。依って、正本堂池田先生の姿でもある。(中略)大聖人は「阿房さながら 宝、宝さながら阿房」と仰せになっている。此の言葉を借用敷衍(ふえん)すれば、 「池田大作さながら正本堂正本堂さながら池田大作」ともいえる。池田先生に 二陣三陣の信徒は皆『さながら正本堂』でなければならないとう。その覚悟が 本門戒壇の大御本尊の守護を事行に修行することになる。


日達上人】


1982-10-08


 さらに、正本堂が世界の人々の真の懺悔滅罪の大堂であり、大聖人の御が世界中に広宣流布していくところの堂として十年前に建立せられたのであるということの義を改めてはっきりと知る必要があるのであります。


日顕「恵妙寺客殿新築落慶入法要」】


1982-10-12


 正本堂は世界の民衆が懺悔滅罪する戒法の根本道場であり、また今日の世界広布の時機に最も適する称と実体を具える殿堂であります。世間において 様々に論ぜられている恒久の世界平和の確立と人類の幸福の顕現も、ここに真の 原点が存するといわなければなりません。

 日達上人が、大御本尊安置のこの大殿堂を正本堂づけられたのは、大聖人、日興上人以来の血脈を通して、大変に深い義を熟慮されたからに他なりません。


日顕正本堂建立10周年記総登山」】


1984-04-06


 大御本尊を安置する広布の根本となる堂宇すなわち正本堂こそ、本門の戒壇 であります。


日顕「御虫払い法要」】


1990-10-13


 正本堂は未曽有の広布進展の義を含む本門事の戒壇なり。


日顕「大石寺開創七百年法要の慶讃文」】


2003-12-19


日顕は)平成3年(1991年)39日、自語相違を承知の上で、上記の宗門公式見解における正本堂義付け(1972年428日の日達の訓諭)を改定変更ないし撤回している。


【静岡地裁の判決文】

2004-12-06

正本堂建立


 日蓮法は、人間主義の世界宗教である――山本伸一のあいさつには、その強い確信がみなぎっていた。

 彼の話に、場内からは大拍手が沸き起こった。

 完工式では、最後に伸一から、設計、施工にあたった各社の代表に謝状と記品が贈られた。

 彼は、できることならば、建設作に携わった方々を、一人ひとり抱きかかえ、から御礼を言いたいいであった。

 正本堂の建設が始まってからというもの、作に励む人たちのことが、伸一の頭から離れることはなかった。

 日々、彼は、全員の無事を祈って題目を送り続けてきた。

 厳寒の日や炎暑の日など、よく側近の幹部に、今日は何人の人が作にあたっているかを調べてもらった。そして、靴下やシャツなどを手配し、贈ることもあった。

また、伸一自身、何度となく、建設現場に足を運んだ。応対してくれた人や、黙々と作に励んでいる人に、記メダルなどを贈呈したこともあった。

 汗だらけになって、セメントを運ぶ人がいる。鉄骨を担ぐ人がいる。高い鉄柱の上でボルトを締める人がいる。作場に水を撒く人がいる……。

 その人たちこそが、世紀の大殿堂たる正本堂建設の大功労者なのだ。

 ある時、建設現場を訪れた伸一は言った。

「作に励む皆さんの姿から、永遠に残る不滅の正本堂を建設しようという気が、ひしひしと伝わってまいります。

 工事の無事故、大成功を、毎日、御祈しております。本当にありがとうございます」

そして、深く、深く、頭を下げた。

 伸一は、各社の代表に連なる、多くの作従事者のことを考え、合掌するいで謝状と記品を手渡していった。

 人は、建物の荘厳さには嘆する。しかし、供養や労作など、陰で精魂を尽くし、それをつくり出した人に、目を向けようとはしない。だが、その人こそが尊いのだ。

 そして、その労に眼を凝らし、を砕くことから、人間主義の行動が始まるのだ。

 ――正本堂の建立寄進の発表から8年5ヶ、ここに、本門の戒壇となる大殿堂が、晴れて完成したのである。


【『新・人間革命』「羽ばたき」47 (2942) 聖教新聞 2004-12-03付】



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【設計者・横山公男氏によるスケッチ】


 中国の俚諺(りげん)に“飲水源”とある。水を飲む時に、井戸を掘った人の労を忘れてはならいとの。花を愛(め)でる人は多いが、根にいを馳せる人は少ない。


 世界に誇る宗教建築の大殿堂を実際に造ったのは建築作員であった。この先生の現場覚は今でも全く衰えることがない。むしろ、年々、研ぎ澄まされてゆくようで、ともすると最前線にいる我々よりも、先生の方が現場をよくご存じである。この一事からも、先生がどこに身を置いて戦っているかが十分理解できよう。


 口にするのはある程度、容易だ。だが、現実の振る舞いの中で、現場の方々の労をねぎらい、謝を示すことはしい。こうした先生の一挙手一投足から、学会に理解を示すようになった人々も多数、現れたにちがいない。


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【妙壇大屋根・中央リングのジャッキダウン/予を上回る好成果を収め、建築界にも大きな反響を与えた 1971-06-17】


 先生は、深きこそ人間主義であると教えて下さっている。学会が人間主義の教団であるならば、学会幹部は、誰よりも人間を知り、人間を愛し、人間に信頼を寄せる人であるべきだ。


 昭和47年(1972年)1012日、本門の戒壇である正本堂は遂にその威容を、富士の裾野に現した。9末日までに集まった真からの供養は355億円に達した。その内訳は以下の通り――

 御供養に参加した学会員の数は実に、777万7642に上った。


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【内陣に用された御開扉のスイッチを押す池田先生


 現代の法華経の行者による真の結晶は、老醜無慙(むざん)な僧によって破壊し尽くされた。かくも悪逆非道な大罪によって、日顕一派は与同罪を免れることは絶対にない。宗門の大半の坊主は、日顕の余生が短く、除歴になることが明らかなために沈黙を決め込んでいる。それでも厳然たる結果が待っていることだろう。


 既に、正本堂を知らない世代が、現在の青年部となっている。広布史を学ばずして後継たり得ないことをしっかりと自覚してもらいたい。また、先輩である我々は、学会の真実の歴史を、後輩に打ち込んでおかなければならない。


 正本堂という建物は破壊されても、我々の志は永遠である。

2004-12-05

神経質な青年になるな


 ともあれ、大なり小なり労のない人生はない。労を避けたり、から逃げるような弱々しい生き方であっては、人生に勝てない。諸君は、気の弱い、臆病な、神経質な青年であってもらいたくない。よい味での「煮ても焼いても食えない」というか(爆笑)、“しぶとい”“骨太い”たくましい青年に、指導者に育っていただきたい。


【第6回全国青年部幹部会 1988-07-10 群馬・渋川平和会館


 青年は未完成だ。未完成なんだから、少々、はみ出す程度の元気があって然るべきだ。様々な経験をしてゆくと、人は自(おの)ずと人格円満になる。だから、今から円満である必要はない(笑)。ともかく、「失敗を恐れるな、傷つくことを避けるな」と言っておきたい。


 今時は、小ぢんまりとまとまって、利口げな顔つきをした青年部が多いが、もっともっと、ぶつかり合って、本物の団結を築いてゆくべきだ。先輩に恵まれてない人も多いことだろう。だが、結局、それで損をするのは自分なのだ。それ故、どんないをしても、よき先輩を見つけることが青年部時代の勝因となる。何でも語れる先輩がいるなら、体当たりで指導を求めてゆくべきだ。


 育っている人は必ず、よき先輩についている。本人に力があるかないかよりも、先輩に恵まれているかどうかで、信の成長は決まる。


 さればになるみちは善知識にはすぎず、わが智なにかせん(1468頁)

新手の電話詐欺


巧妙な誘いに油断は禁物


 地区の協議会や座談会などで、巧妙になっている「電話詐欺」についての注を何度か伺いました。人ごとのようにっていましたが、まさか、我が身に降りかかってくるとは……。


 それは、先末の土曜日の午後。自宅には私だけで、普段より少し早い夕食の支度中でした。


「ミセス・カネコですか」と中年で、外国人らしい女から、たどたどしい日本語で電話がありました。私には、ドイツに嫁いだ友人がおり、その人かとい、「ハイ」と答えると、相手はいきなり、「創価大学の分校があるシカゴとサンフランシスコに、英語を習いに行きませんか」と言うのです。


 さらに、「一週間の宿泊代と飛行機代が70万。授料と食事などを含めると合計120万です」と。


「70万」と聞いた時、「あっ! これは、協議会で聞いていた詐欺だな」と直。しばらく、相づちを打ちながら注深くを傾けました。


SGI創価学会インタナショナル)から頼まれて、内密に電話している。人数に制限があり、早く申し込んだ方がいい。私のそばに、申し込んだ80歳の婦人がいる」と言って、その人と、電話を変わったのです。


 相手は、若々しいで一言、「一緒に行きませんか」と。とても80歳とはえませんでした。


 最初の女が再び電話に出て、しつこく誘うので、わざと「送金する振り込み用紙を送りなさい」と言いました。


 すると「直接、代金を取りに行くので住所を教えて欲しい」と言うのです。「何日、何時にくるの」と問うと、「わからない」と。


 そして、私が何度も聞き返すので焦ったのか、怒鳴るように英語でまくし立てたのです。その発音は、日本語的でした。外国人を装った詐欺だともいました。


 私は10代後半から10数年間、府中にあった米軍キャンプで購買の仕事をしました。毎日、アメリカ人を相手の仕事で英会話を少し習得。


 それだけに、発音の違いぐらいは理解できました。そこで私も、若い頃をい出し、「授を受ける時間がない。お金もない」と、英語で突っぱねてやりました。すると相手は電話を切ったのです。


 用のため、この出来事を婦人部の幹部に報告。先日は、警察署に届けました。


 今回の体験を通し、人のが乱れている時代だけに、「油断大敵」とを引き締めました。


【東京都調布市 金子好子(主婦)77歳)/「」 聖教新聞 2004-12-05付】


 この他にも、「財務の振込先が変わりました。至急、ご入金をお願いします」という詐欺も出ている。各組織で、徹底願いたい。犠牲者を出してしまえば負けである。この記事をコピー、転送しまくって下され。


 いずれにせよ、学会員をターゲットにしている以上、簿が漏れているのは間違いない。簿や書類をコピーした際、原稿を忘れることがないよう呼び掛けることも必要だ。

2004-12-04

最大の苦境に学会発展の因が


 戸田先生は、戦後の学会再建のさなか、ご自身の事の挫折から、最大の境に陥られたことがある。

 多くの人が先生のもとを去っていった。非の嵐のなかで、私は「先生、私がおります。ご安ください」と申し上げた。そして先生のもとで全魂を込めて戦った。

 その渦中で先生は私に何度となくいわれた。

「大作、法は勝負だ。男らしく命のある限り、戦い切ってみようよ。生命は永遠だ。その証拠が、必ずなにかの形で今世に現れるだろう」と。この先生の言葉はまさしく、「撰時抄」の「身命もおしまず修行して此の度法をみよ」(291頁)との御精神に通じる、胸奥からの叫びであった。

 また、先生の弟子である私のにも、いささかの“愚痴”も“不満”もなかった。

 戸田先生の会長就任以降の、学会の発展は奇蹟ともいうべきものであった。

 戸田先生の願であり、当時、誰人も像しえなかった75万世帯の達成も、その淵源は、最も学会が大変なこの時にあったのである。また、私の代での世界的発展の“因”も、実はこの時に既につくられたと、私は確信している。

 同じ方程式の上から、諸君も将来の大成のための“種子”を、現在の鍛錬、労の中で自身にしっかりと植えておいていただきたい。


【第6回全国青年部幹部会 1988-07-10 群馬・渋川平和会館


 先生は何度も何度も、現在の学会発展の本因がこの時期にあったことを語っている。昭和25〜26年(1950-1951年)のこと。先生は当時、24歳。鮮戦争やレッドパージで国は騒然としていた。


 昭和26年16日には、万が一を覚悟された戸田先生が、後事の一切を23歳の池田青年に託す。


 戸田先生衷(くちゅう)と呻吟(しんぎん)をえば、小説『人間革命』第5巻に書かれているのは、最低限度の事実のみであって、その行間には震えおののくほどのがあったことは言うまでもない。


 私が、先生から激励を受ける度に頭をよぎるのは、釈尊衆生の機根に応じて爾前権経を説いた姿である。少々の結果を出した程度で、軽々しく師弟不二を口にし、後継を自称する。そんな浅はかな弟子の機根に応じて、師匠が激励されるようなことがあってはならないだろう。


 後継を乗るのであれば、学会のを一人で引き受ける覚悟が求められる。

炭労2004年11月19日解散 ヤマの闘いに終止符



 草創期にあって学会しめ抜いた炭労が消滅した。炭労問題から実に47年目。


 過去現在の末法法華経の行者を軽賎(きょうせん)する王臣万民始めは事なきやうにて終(つい)にほろびざるは候はず(1190頁)

フランス公立校内でイスラム教徒の女子生徒にスカーフ着用を禁じる法案

 昨夜のNHKニュースで初めて知った次第。学校を退学させられ、将来を滅茶茶にさせられた学生がどんどん出ている。その一方で、スカーフを取ることを余儀なくされた女子学生は、精神的な辱(はずかし)めを受けている。日本人でいえば、着物の裾(すそ)をまくり上げて、ケツを出しているような境なのだろう。


 学会セクトと認定するような政治が、舵取りを誤るのは歴然。キリストが説いた“自由”は、女子学生のスカーフ一枚も許してくれないようだ。

2004-12-03

生命の内実こそ信心の果報


 釈尊にあっても、また天台にあっても、は絶えなかった。いわんや大聖人は、それとは比較にならない大の連続であられた。しかし、そのただなかに御本としての大果報を示された――。私どもの信の上での本当の果報も、社会的地位や誉、また財産などの外面の姿のみではわからない。その人自身の生命の内実がどうか、つまり、境涯そのものにある。


【第6回全国青年部幹部会 1988-07-10 群馬・渋川平和会館


 見栄(みば)えのいい手柄や功績が実証ではないとの指導。社会で生きている以上、そこで成功したいと望むのは人の常。だが、功成り、を遂げることが人生の目的と化すと、そこには必ず卑屈の影がつきまとう。


 金に価値を見出す人は、優秀な競走馬に生まれた方がいいだろう。贅沢と楽を望む人は、金持ちの家の飼い犬になった方がよし。


 生命の外側にあるもので人生を飾ろうとするのは、欲望に翻弄された生き方だ。


 若しを観ぜざれば無量の行となると判ぜり(383頁)


 美貌ゆえ、嫉まれる人もいる。財産があるからこそ不幸になる人生もある。高級車を手に入れて、交通事故に遭うこともある。新築の家で、シックハウス症候群になることもあれば、火事になることもある。


 不治の病にしむ富豪と、素寒貧だが健康な青年とを較べれば、どちらが幸せであろうか?


 常識的に考えると、大聖人ほど不遇な人生を送った人物はいない。に次ぐの連続。犯罪者の烙印を押され、何度となく罪を押し着せられた。冤罪などという概すらない時代にあっては恐怖に震える瞳で、アナーキストやテロリストのように見つめられていたことだろう。


 現代に生きる我々が、歴史を超えて先人から学ぶのは何であろう? それは、人間に秘められた無限の可能であり、いかなる困をも超克しゆく不屈の精神に他ならない。


 困のない人生が幸福なのではない。また、困が人生の不幸を決めるのでもない。困を避け、困に敗れるところに不幸が生まれるのだ。


 そう考えると、大聖人の巨大な姿が歴史に浮かび上がってくる。幸福は境涯に宿る。


 以下に三木清箴言を紹介しておく。幸福味を知る一助にされたい。


 愛するもののために死んだ故に彼等は幸福であったのではなく、反対に、彼等は幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。日常の小さな仕事から、喜んで自分を犠牲にするというに至るまで、あらゆる事柄において、幸福は力である。徳が力であるということは幸福の何よりもよく示すところである。


 幸福は人格である。ひとが外套(がいとう)を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困と闘うのである。幸福を武器として闘う者のみが斃(たお)れてもなお幸福である。


 機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人ではない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。


人生論ノート (新潮文庫)

2004-12-02

生命の正しき軌道


 列車にも軌道がある。軌道を外れたら大惨事となる。ロケットにも軌道がある。少しでもそれると宇宙をさまようほかない。

 目には見えないが、空を渡る鳥にも飛ぶ軌道があり、魚にも泳ぐ軌道がある。星々にも厳たる運行の道がある。

 生命にも正しき「軌道」がある。この軌道に完全に則(のっと)っていくための妙法の信仰である。

 この確たる軌道から外れてしまったならば、永遠に悩の境涯にさまよう以外にない。逆に軌道に合致した人は、我が信の一のままに縦横無尽に、自在の人生を闊歩していくことができる。


【第6回全国青年部幹部会 1988-07-10 群馬・渋川平和会館


 生命の軌道は妙法のリズムに支えられている。そこに全生命を傾けて南無できるかどうかで成が決定される。


 学会組織は人を束縛する――こんな馬鹿げたことを平然と言ってのける頓珍漢がたまにいる。大体、こういう手合いに限って、自分のわがままな格に束縛されているのが殆どだ。組織にどうのこうのとケチをつける前に、下劣な人間を省みるのが先というもの。


 学会ほど自由な組織はない。どのぐらい自由かというと、活動しない自由が認められている(笑)。その上、勤行しない自由まである。ま、何もしないのが自由だとってるのは、戸田先生が仰せの“ダラ漢”に含まれよう。


 現代の和合僧である学会の組織につかなければ、成はかなわない。


 壮年部入りしてからというもの、最前線の同志の方々と話し合うと、青年部時代には聞こえてこなかった話題も多かった。その中で最もリクエストが多いのは、“幹部の人間革命”に尽きる。多くの学会員の視線が外に対してではなく、内側に偏ることを私は懸したが、現場を無視することはできない。


 私の場合、相手が幹部であろうと、ずけずけものを言う方なので全く気づかなかったのだが、末端幹部が抱えているストレスは大変なものがある。結局、怨嫉してるだけの話なんだが、一昔前みたいに、「あの幹部にはついていけない」、「あの人なんか大っ嫌い」といったストレートな質ではなく、一段階前の症候群的要素が強い。その分、ご本人は怨嫉の自覚が弱くなっているから、結局、指導を受ける段階にまで至らない。情や問題は、そのまま放置自転車みたいに捨て置かれる。


 今時は、注もできない幹部が多いから、更なる悪循環となりやすい。


 ここで簡単なテストをしてみよう(ニヤリ)。「あなたに対して、反対見を言う人を大切にしてますか?」


「チッ、自分にとってはあの野郎だな。あいつは、俺のも知らないクセしやがって、何でもかんでもケチをつけやがる。目障りでしようがない」なあんてってる人は、危険度100%(笑)。「反対見が出る組織は発展する。反対見を言う人を大事にしなさい(趣)」とは戸田先生の指導である。だが今、現実には、反対見を言う人は煙たがられ、問題視される傾向がある。まともな見交換をする前に、反対見を封じ込めるケースすらある。こうした権威主義組織主義に屈したまま、いくら祈ったところで空しい結果しか得られない。


 人間革命の軌道は、社会と組織の中で揉(も)まれる中にしかない、というのが私の持論だ。多くの学会員から見て、本部職員などが惰弱に見えるのは、社会の荒波を知らないようにじられるからだ。だが、現実には労しながら、職場で戦う職員もいるのだ。


 もっとわかりやすく言えば、どれだけ嫌ないをしてきたかってこと。誤解され、中傷され、裏切られ、騙(だま)され、そして、傷つき、反省し、自分を深い次元で見つめ直す作こそ人間革命の王道だ。


 中途半端な決で、曖昧な信で成できるとすれば、成バーゲンセールだ(笑)。そんなものは、ありっこない。

ホモ・ルーデンス


 人間とはどのような存在なのだろうか? その定義を試みた哲人もまた多い。パスカルは言った。「人間は考える葦である」(『パンセ』)。それにしては私の周囲にものを深く考える人間が少ないのは一体どうしたことか? 「学会男子部は考えない葦である」などというつもりは更々ないが、「臭い足」が多いのは事実である。


 以下、いつくままに列挙してみよう。

  • 「人間は政治的な生き物」アリストテレス(『政治学』)
  • 「社会的な動物」セネカ
  • ホモ・サピエンス/考する動物」リンネ
  • 「ホモ・ファーベル/道具を使用する人」ベルグソン
  • 「ホモ・ルーデンス/遊ぶ動物」ホイジンガ
  • 「ホモ・エコノミックス/経済人」
  • 「ホモ・デメンス/錯乱する人」ローレンツ
  • 「ホモ・レリギオス/宗教的動物」
  • 「人間は定義できない存在である」サルトル
  • 「不可解なもの、それは人間である」トルストイ

 様々な発がありながら、いずれも自分の中に当てはまる部分があるのが何とも面白い。しかしながら、「これだ!」というのも見当らない。私自身が信仰者であるため、「ホモ・レリギオス/宗教的動物」に加担したい気持ちがあるのは当然としてもだ。


 先生も以前、クレアモント・マッケナ大学での講演(『新しき統合原理を求めて』1993-01-29)でこの点に触れている。


 人間の全体、全人――こうした言葉が私たちの像力の中で、生き生きとしたイメージを結ばなくなって、すでに久しくなりました。

 ホモ・サピエンス(英知人)、ホモ・エコノミクス(経済人)、ホモ・ファーベル(工作人)、ホモ・ルーデンス(遊戯人)等の言葉の総称が全人ともいえますが、それだけでは定義を羅列しているようで、いささか策に乏しい。味が浅くなってしまうでしょう。


 個人的には、ホイジンガの著書にもなっている「ホモ・ルーデンス(遊戯人)」に深い興味を覚える。「遊び人」と訳したら大変なところ(笑)。それじゃあ「遠山の金さん」になりかねない。


「遊び」には、“遊び半分”などというマイナスイメージが強いが、自動車のハンドルの遊びや、ボルトの遊びという使われ方もある。ここで用いられている味は必要な余裕との味だろう。


 法華経では我々の住むこの世界が本来「衆生所遊楽(しゅじょうしょゆうらく/衆生の遊楽する所なり)」であると説かれている。


 また、以下の御聖訓もある。


 いかなる処にて遊びたはふるともつつがあるべからず遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし(1124頁)


 自主・自立・自由が遊びの条件であるとするなら、宿命という鉄鎖を断ち切る自行化他道修行こそ、真の遊びと言い得るかも知れない。


 人間は誰しもが宿命という荷を背負って生まれてくる。それを避けることのできる人は一人もいない。だが、同じ重さの荷物であっても、幼い子供が持つのと、相撲取りが持つのとでは全く様相が異なる。満々たる生命力があれば、荷物の重さなど気にすることなく、周りの景色を楽しみながら人生行路を旅することが可能だ。あるいは、人生の荒波を楽しむサーファーと言ってもよい。小さな波では、サーフィンの醍醐味を知ることはできない。


 ユゴーは語っている。


 大洋よりも壮大なながめ、それは空である。空よりも大きなながめ、それは人間の魂の内部である。(『レ・ミゼラブル』)


 学会活動を楽しめる人は、人生を楽しんでゆける人だ。その人こそ、本物の「ホモ・ルーデンス」である。だからといって、“金さん”というあだをつけるのは、また別の話である。

2004-12-01

有り難きこと


 現在では謝のを表す「ありがとう」という言葉の語源は、ご存じの通り「有りし」。「有ることがしい」「滅多にない」という味。


 御書にも数多く「有りき」と出ている。一眼の亀が浮木の穴に入る喩えなどはその象徴ともいえようか。


 真言等の邪法邪師を捨てて日蓮が弟子となり給うらん有りき事なり(1342頁)


 宗教が混沌とする時代にあって、日蓮門下となったことを大聖人はから愛(め)でられている。ここには「僧が上で俗は下」などといった日顕宗特有の位階の論理は微塵も見られない。今世で師となり弟子となったのは「過去の宿縁」(1338頁)であり、「不議なる契約なるか」(1361頁)とまで仰せになっている。


 人生は誰と出会うかで決まる。人間の関わり合いを拒絶する社会には、孤独地獄の陰がくっきりと映し出されている。師と巡り会えた人は幸福である。なかんずく、信仰という世界で偉大な師匠を持つことができた我々は至福といってよいだろう。


 日々、師匠と共に、正義と幸福と平和の軌道を歩めることを当たり前とった瞬間から、信の堕落が始まる。謝と決がなくなった途端、信は濁ってくる。


 師と出会った現実の「有りさ」を深く自覚しながら、今日一日、どこまで「師弟共戦」ができたかを厳しく確認する毎日でありたい。

信心のチェック法


 人間の覚器官で情報量が最も多いのは目だそうな。色・形・遠近を一瞬にして判別するのだから、それも当然か。他の覚器官の数百倍もの情報量を得ることができる。俗に「百聞は一見に如(し)かず」と言われる通り。


 しかしその一方で、T・ノーレットランダーシュによれば、五から入る情報量は毎秒1100万ビットもありながら、識が処理できる量は40ビットだそうだ。多くの場合はその半分程度。


 自分の目で見たとしても、錯覚という場合もある。


 リトマス紙というのがある。紙を水溶液に浸して、酸かアルカリかを調べるもの。青色のリトマス紙が赤くなると酸で、赤色のリトマス紙が青くなるとアルカリということになる。


 目で見たところでわからなくても、かようなチェック法もあるのだ。


 その昔、「リンゴをかじると歯茎(はぐき)から血が出ませんか?」という歯磨き粉のコマーシャルがあった。出血があれば膿漏(のうろう)の可能があるというもの。わかりやすいこのコマーシャルは一世を風靡(ふうび)し、多くの消費者の購買欲に火をつけた。


 信というのは目に見えない。役職が上になればなるほど、信がありそうな気もするが、某教学部長や、某顧問弁護士、あるいは某副会長や某議員の方々がその幻を見事に打ち破ってくれた。合掌――。


 リンゴをかじって勤行をすれば一目瞭然ともなれば便利だろうが、そんなわけにもゆくまい。


 いくつか考えてみた。

  • されると怨嫉してませんか?
  • 会合に5分遅れても平気じゃありませんか?
  • 聖教新聞を読んでも、動忘れてませんか?
  • 「希望者!」と呼び掛けられて、周囲を見渡してませんか?
  • 組織目標を決める時、誰がやるのか曖昧にしてませんか?
  • 会館で、幹部につかまらないような動きをしてませんか?
  • 勤行もしないで、長時間の活動に励んでませんか?

 ほほう。結構あるもんですな。


 しかし、これらをもって他人を測ろうとするのは誤りである。人は関係ないのだ。信とは、御本尊と自分、先生と自分の間の問題なのだから。自分が定めた目標に向かって、歯をくしばりながら、誰が見ようが見まいが、黙々と進んでゆくのが正しい姿だ。華々しい決は要らない。人前で大言壮語する必要もない。冥(みょう)の照覧あるを信じて、やるべきことを断固としてやるまでだ。


 たった一人になったとしても、我が陣営の勝利を自分の手でもぎ取ってくる覚悟の人がいれば戦いは勝利を収める。


 大聖人は蒙古が日本を攻めてこようとする時に、宿屋入道へしたためられている。


 日本国の中には日蓮一人当に彼の西戎(さいじゅう)を調伏するの人たる可しと兼て之を知り論文に之を勘う(169頁)


 国家が揺れに揺れ、世界が戦乱に突入せんとしているその時に、大確信の言論戦を展開された。地位も誉もない大聖人が、「日本を救う方途を知っているのはこの私だ!」と叫びに叫び抜かれている。迷いが生じると、その間隙(かんげき)にがつけ入る。世界が激動する今こそ、創価の大確信で怒涛の如き対話を展開し抜いて参りたい。

一念の不思議


 一とは、今この瞬間の生命を指す。の文字が、今+となっている通り。


 地観経に「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(231頁)と説かれているように、過去遠々劫(おんのんごう)に亘ってどのような行為(過去の因)をしてきたかは、現在の一瞬の生命に凝縮されている。また、先の見えない将来であっても、今現在の生きざま(現在の因)を見れば、おのずと読めるものだ。


 一は三千世間に展開される。3000種類ものチャンネルがあり、可能がある。


 最近、興味深いテレビ番組を見た。


 一つは熱血教師を20年以上に亘って撮影し続けたドキュメンタリー落ちこぼれ生徒を一手に引き受ける高校が北海道余市にある。ここを卒したヤンキーが、何とこの高校の教師となる。キッカケは、高校時代の担任の先生の一言だった。大学時代、交通事故に遭い全ての内臓が破裂。瀕死の状態となり医師もあきらめ掛けていた。そんな彼を見舞ったのが高校時代の担任の女教師であった。女教師がベッドの傍らで彼の元で言った。「絶対に生きて! あなたは私の夢なのよ!」。この一言が彼を黄泉路(よみじ)から引き返させた。


 教師となった彼が始めての卒生を送り出す。この高校に5年間通った生徒が生徒会長として動的な答辞を読み上げた。カメラマンがこの生徒に語りかけた。「将来、教師になるつもりはないの?」「絶対なりませんよ。だって、こんな生気な生徒を相手にしたくないですよ!」。笑いながらそう答えた。


 卒後、この生徒は帰郷し大学に通う。ある夜のこと、彼はバイクで転倒。頭部を強打し、識不明の重体となる。頭蓋骨陥没、脳挫傷、そして拍停止。医師が生存の可能は少ないと告げた。万が一助かったとしても、視力を始めとする覚機能に障害が残る、と。


 担任だった教師が、千羽鶴と寄せ書きを持って見舞う。「俺だ、わかるか?」とを掛けた瞬間、識不明の患者の右目が開いた。傷だらけの顔がほんの少し微笑んだ。医師は信じられない光景にショックを受け、凍り付いていた。


 この大学生は奇蹟の生還を勝ち取り、現在、教員を目指し、勉学にいそしんでいる。


 もう一つの番組もドキュメンタリーである。こちらもいくつかの家族を10年近くに亘って撮影し続けたフィルムだった。


 エリートサラリーマンが鬱病になって退社。警備会社の職に就くが、家族との会話を全くしなくなった。数年後、離婚。母親は就職し、長女は大学で福祉を学びながら、スナックでアルバイト。次女は居酒屋で働いていた。


 家族が家にいる時間帯が全くバラバラとなる。母親は元々料理が上手であったが、手もつけられずに捨てることが我慢できなくなり料理をやめる。それからは、出来合いのものを買ってきて食卓に並べた。


 母親は非常に中途半端な姿勢で、次女が外泊をした時も、まんじりともせずに眠ることなく帰宅を待つが、帰ってきても注すらしない。次女は家庭内で疎外されているようにい込み、ある日、家出する。次女は言う。「なんか、別れたお父さんと同じ状態になっちゃった」。


 携帯電話も全くつながらない。母親が言った。「全部、私が悪いんです」。次女が家出をしてから1週間が経った。母親はある決を持って、食事の支度に取り組む。自ら再び料理をしだした。帰宅した長女が驚いた。「どうしたの? 何やってるの?」。母親は黙々と帰らぬ次女の分も作った。


 それから数日後、次女が戻ってきた。丁度、食事の支度をしている時だった。母親は何も言わなかった。家族3人で食卓を囲むのは実に半年振りのことだった。3人の顔が笑ってた。


 いずれの番組にも、人の一の不議さをじてならなかった。気持ちだけでもない。いだけでもない。を決めてある行動を起こした時に、環境は劇的な変化を遂げる。


 我々は信仰者である。宿命という鉄鎖に束縛された生命を解き放つために、勤行・唱題をしている。どうせ祈るなら、一を変えて祈りたい。目的と課題を明確ににらみながら、キリキリと引き絞られた弓のような力のこもった唱題をしたい。そうすれば、解き放たれた矢の如き行動となるのは必然だ。

女の一生


 ヴィヴィアン・リーという女優をご存じだろうか? 映画『風と共に去りぬ』のデビューで一世を風靡した大女優だ。彼女に関する興味深い記事を読んだ。


 ヴィヴィアン・リーは美しいだけではなかった。

 生き生きとしてユーモアに富み、立ち居振る舞いの優雅さは類がないほどだった。大変な読書家でインテリ、友人たちには細やかな遣いを常に忘れず手紙を書き、それに情熱的だった。


【「美しく強く」田中弘子/公明新聞 2003-05-11】


 これを読み、女房殿に冷たい一瞥(いちべつ)を投げかけ、歯ぎしりしている壮年・男子部の方も多いことだろう。せめて、爪の垢(あか)を通信販売してはもらえないだろうか、とかなわぬ夢を抱いているやも知れぬ。『風と共に去りぬ』に挑んだのは25歳の時。ウエストは43cmだったという。奥方の胴回りを見て、奈落の底へ落ちることなかれ(笑)。


 同記事によると「『才能を必要としないほど美しく、あんなに美しい必要がないほど才能が際立ち……』とニューヨーク・タイムズを嘆せしめた」というのだから凄い。


 1940年、ローレンス・オリヴィエと結ばれたヴィヴィアン・リーは女が望む全てを手中にしたかに見えた。しかし、彼女の不遇はここから始まる。夫との才能の落差に悩み、発作を起こすようになる。その後、「肺結核にも冒され、その治療が症状を更に悪くした。発作が始まると卑猥(ひわい)な言葉を口走り、色情狂のごとく荒れ狂う別人となる」(同記事)。


 やはり、人生は長い目で見なければわからないものだ。人は一生を通してみなければ幸不幸も計りい。


『女の一生』と題した文学作品がいくつかあるが、洋の東西を問わず女の不遇を描いたものが多い。モーパッサンの作品は夫に裏切られ、没落してゆく女の話だし、山本有三のは未婚の母物語。共通するのは社会における男女不平等と、恋愛情に身を任せた挙げ句の誤算といったところか。


 典でも女五障三従の身と説かれている。五障とは、女梵天王、帝釈天王、転輪聖王、になれないという。三従とは、幼い時は親に従い、嫁(か)しては夫に従い、夫亡き後は子に従うというもので、ともすると主体に欠ける女の傾向を説いたものと考えられる。


 戦後、強くなったものはストッキングと女だなんて言われてから久しいが、それは表面的な話に過ぎない。


 こうした女像を革命すべく出現したのが我が創価の婦人部・女子部の皆さんである。表面的な美しさや、移ろい易い世評などに動かされることなく、日夜、悩める人々のために尊い汗を流す生き方こそが美しい。


 我が婦人部が多忙を極めると、食卓を冷凍食品が飾り、家がホコリっぽくなり、家族に向けられる言葉遣いも荒々しくなることもあるだろう。だが、妻帯者諸氏よ、そんな夫人を“創価のヴィヴィアン”と称えてゆこうではないか。


扉を開いたひと―美しいほど強情に自分を生きた51人