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2004-12-02

ホモ・ルーデンス


 人間とはどのような存在なのだろうか? その定義を試みた哲人もまた多い。パスカルは言った。「人間は考える葦である」(『パンセ』)。それにしては私の周囲にものを深く考える人間が少ないのは一体どうしたことか? 「学会男子部は考えない葦である」などというつもりは更々ないが、「臭い足」が多いのは事実である。


 以下、いつくままに列挙してみよう。

  • 「人間は政治的な生き物」アリストテレス(『政治学』)
  • 「社会的な動物」セネカ
  • ホモ・サピエンス/考する動物」リンネ
  • 「ホモ・ファーベル/道具を使用する人」ベルグソン
  • 「ホモ・ルーデンス/遊ぶ動物」ホイジンガ
  • 「ホモ・エコノミックス/経済人」
  • 「ホモ・デメンス/錯乱する人」ローレンツ
  • 「ホモ・レリギオス/宗教的動物」
  • 「人間は定義できない存在である」サルトル
  • 「不可解なもの、それは人間である」トルストイ

 様々な発がありながら、いずれも自分の中に当てはまる部分があるのが何とも面白い。しかしながら、「これだ!」というのも見当らない。私自身が信仰者であるため、「ホモ・レリギオス/宗教的動物」に加担したい気持ちがあるのは当然としてもだ。


 先生も以前、クレアモント・マッケナ大学での講演(『新しき統合原理を求めて』1993-01-29)でこの点に触れている。


 人間の全体、全人――こうした言葉が私たちの像力の中で、生き生きとしたイメージを結ばなくなって、すでに久しくなりました。

 ホモ・サピエンス(英知人)、ホモ・エコノミクス(経済人)、ホモ・ファーベル(工作人)、ホモ・ルーデンス(遊戯人)等の言葉の総称が全人ともいえますが、それだけでは定義を羅列しているようで、いささか策に乏しい。味が浅くなってしまうでしょう。


 個人的には、ホイジンガの著書にもなっている「ホモ・ルーデンス(遊戯人)」に深い興味を覚える。「遊び人」と訳したら大変なところ(笑)。それじゃあ「遠山の金さん」になりかねない。


「遊び」には、“遊び半分”などというマイナスイメージが強いが、自動車のハンドルの遊びや、ボルトの遊びという使われ方もある。ここで用いられている味は必要な余裕との味だろう。


 法華経では我々の住むこの世界が本来「衆生所遊楽(しゅじょうしょゆうらく/衆生の遊楽する所なり)」であると説かれている。


 また、以下の御聖訓もある。


 いかなる処にて遊びたはふるともつつがあるべからず遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし(1124頁)


 自主・自立・自由が遊びの条件であるとするなら、宿命という鉄鎖を断ち切る自行化他道修行こそ、真の遊びと言い得るかも知れない。


 人間は誰しもが宿命という荷を背負って生まれてくる。それを避けることのできる人は一人もいない。だが、同じ重さの荷物であっても、幼い子供が持つのと、相撲取りが持つのとでは全く様相が異なる。満々たる生命力があれば、荷物の重さなど気にすることなく、周りの景色を楽しみながら人生行路を旅することが可能だ。あるいは、人生の荒波を楽しむサーファーと言ってもよい。小さな波では、サーフィンの醍醐味を知ることはできない。


 ユゴーは語っている。


 大洋よりも壮大なながめ、それは空である。空よりも大きなながめ、それは人間の魂の内部である。(『レ・ミゼラブル』)


 学会活動を楽しめる人は、人生を楽しんでゆける人だ。その人こそ、本物の「ホモ・ルーデンス」である。だからといって、“金さん”というあだをつけるのは、また別の話である。

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