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2004-12-31

島原の乱にみる裏切り


 では、なぜ彼は卑怯にも同志を裏切ったのか――。

 農民を中とした一揆軍のなかで彼は異質の存在であった。いわば“エリート”であり、経済的にも恵まれていた。土のにおいのない、民衆の悩とは別世界の人間であった。ここに一つの問題がある。

社会的地位を持つ、いわゆるエリートとか、インテリなどは、要領がよく、口がうまくて、愚直なまでの「誠実さ」に欠ける場合が多い。特に日本では、そうした傾向が強いようだ。しかし、本物の深き人生は、大誠実なくして築けるものではない。

 これまで退転し、同志を裏切っていった卑劣な人間たちもまた、一応は社会的地位があり、組織的立場も高く、自分は“エリート”だとうぬぼれていた。

 しかし本来、学会特権階級はない。つくってもならない。学会はどこまでも、頑固なまでに純粋な“信”を貫く庶民と庶民との団結が根本である。その美しき世界を守り、広げてゆくことこそ諸君の使命である。


【第1回未来部総会 1988-08-07 長野研修道場


島原の乱」を通して、先生は史観を養うよう強調。歴史の表には書かれていない権力者の図を見抜き、民衆の涙まですくい取る内容となっている。


 成り上がり大だった倉重政が島原藩を治めるようになるや、領民は重税を課せられた。その後、時の将軍・徳川家光より、キリシタン対策が甘いとの叱責を受けた。これによって徹底的な弾圧が始まる。


 拷問は、水責め・火あぶり・烙印・指詰め・穴つるし・硫黄(いおう)責め・針さし責め・竹鋸挽(たけのこび)きなど、手段の限りを尽くした。最後は、「山入り」ということで、雲仙地獄の熱湯の中へ投げ込まれた。犠牲となった人々は100人を超えた。


 藩の財政がしくなるにつれ、更なる重税が農民に押しつけられた。子供が生まれると人頭税。死者を埋葬すれば穴銭。囲炉裏(いろり)を作っても、窓を作っても税が課せられた。ナスの木1本にも、実をいくつという具合であった。それが納められなければ、妻子を人質にとられた。また、水牢に入れたり、「みの踊り」という拷問にあった。身体にみのを巻き、火を放つ。のた打ち回る姿を「みの踊り」とづけた。


 勝家に代が変わると、更なる苛政が行われた。


 唐津藩の天草地方も過酷さという点では島原と変わりがなかった。1637年、民衆の屈した膝が地面にのめり込むような事件が起きた。30俵の米が納めきれない大百姓・与三右衛門の嫁が、として川の流れにつくった水牢に閉じ込められた。家族の申し出も空しく、6日間、嫁は水漬けにされた。臨を迎えていた嫁は水牢の中で出産。しみ悶(もだ)えながら死んでいった。これによって、農民達の怒りが爆発。島原の乱の発端となった。


 この歴史を「キリシタン一揆」であると見る場合もある。だが、当時、囚われの身となっていたポルトガル人の記録が残っており、これによると、この叛乱はキリシタンが宗教的な立場から起こしたものではなく、過酷な圧政に耐えかねた農民による抵抗運動だった。そして、領主であった倉氏が、叛乱によって面目を失い、後の処を恐れたために「キリシタンの一揆である」と喧伝(けんでん)したのだという。


 つまり、“幕府が禁止している宗教を取り締まる”ことを理由にすれば、民衆に対してどんなに残虐なことをしても、当然のこととして正当化することができる。そう考えた領主や代官らの支配者は、自分たちの民衆に対する過酷な政治をごまかすために、“宗教者による反逆”という形に位置づけたという見方である。


 農民は蜂起した。当時の文献によれば、島原領内の人口2万7671人の内、一揆に参加した人数は2万3888人で、全人口の86%に上っている。原に篭したのは老若男女を含めて3万7000人。


 年が明けた寛永15年(1638年)、幕府軍は総攻撃を仕掛ける。この時、功を焦った総指揮官・板倉重昌が戦死。この死を悼(いた)んだ板倉一族を代表して、板倉勝澄(かつずみ)が、追善のために建立寄進したのが、富士大石寺の五重である。死後100年が経過していた。


「老いと若さ」に書いた通り、島原の乱は37000人全員の死をもって終わった。直ちに1万869人の首が斬られた。だが、たった一人だけ生き延びた男がいた。山田右衛門作(えもさく)という南蛮絵師である。島原の乱にあっては大将格として参加している。


 女や幼い子供に至るまでが殺害されることを知りながらも、島原の民の団結が乱れることはなかった。たった一人の壮年だけが退転した。この歴史的事実を指摘して、上記の指導がなされている。尚、山田右衛門作については、昭和41年(1966年)に総本山大客殿で行われた第21回夏期講習会(壮年部)でも、触れられている。


 学会に迷惑をかけ、純粋なる和合僧組織にいられなくなったのは、ことごとく大幹部であり、本部職員であった。自分の権勢強化を目的とし、組織に政治を持ち込む人物が少なからず存在する。信のカケラもないこれらの手合いは、広布推進というリズムの中で必ず淘汰されてゆく。学会が仏勅の団体であれば、ごまかしやインチキは絶対に通用しない。


「自分は特別だ」といういが微塵でもあれば危ない。それは単なる錯覚だ。特別だとい込んだ途端、周囲の人々を見下す視線となる。さしたる闘争もせずに自分を高みにおいて、民衆を睥睨(へいげい)したのが日顕宗であったことをい出すべきだ。


 天草四郎は実に16歳で指揮を執り、立ち上がった。戸田先生は、あまりにも犠牲者が多過ぎたことにを痛め、「もう少し何とかならなかったのか」と語っておられたという。そして、「長生きし、人生経験を多く積んでいくことも、指導者として大切なことである」とリーダーの進むべき道を示された。


 天草四郎を中とした農民の団結にを馳せつつ、降りしきる雪の中「創価完勝の年」が終わる。


 明後日は、先生が喜寿を迎える。これにまさる喜びはない。

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