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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2005-03-31

仕事も信心も逃げるな


 この日、私は23歳。ちょうど現在のヤング男子部の諸君と同じ世代である。

 師が、固く、深く、青年を信じてくださったように、私も青年の勝利を信じる。

 21世紀の広宣流布の全権は、諸君の双肩にかかっているからだ。

 ゆえに青年よ! 一日一日がすべて、一つ一つの戦いがすべて、自身を磨き、鍛え、大指導者となるための訓練と知ってほしいのだ。

 わが師は、仕事がいい加減な青年を、絶対に信用されなかった。

 青年部員の大半は、零細企に勤め、から晩まで汗にまみれる毎日であった。

 それでも早に出勤したり、夜中に職場に戻って働くなどして、必死に学会活動の時間をこじ開けた。仕事も、信も、逃げなかった。

 その真剣な姿に、上司も、同僚も、やがて信頼を寄せてくれるようになった。

 会合に向かう時は、開始時刻が迫ると、「遅れてなるものか!」と、誰もが自然に駆け足になった。

 遅れた分だけ、学会の怒濤の前進から外れ、師匠との呼吸がずれてしまうようにじていたからだ。

 いかに大変であっても、要領よく楽をしたいとは、誰もわなかった。

 それは、この一度しかない青春時代を、偉大なる師匠と共に、広宣流布の使命に生き抜けることを、最高の誇りとしていたからだ。


【「随筆 新・人間革命」 聖教新聞 2002-07-19】


「この日」とは男子部結成記日。昭和26年(1951年)73日である。沛然(はいぜん)たる豪雨の中、180の部員が師の下(もと)に集った。


 青年部を卒したばかりのある先輩に私は尋ねた。「青年部を卒して残っているものは何ですか?」と。その先輩は、一呼吸置いて答えた。「“何とかしよう”と頑張ったことが、今になって生きていることをつくづく実する。例えば、牙会の任務があるんだけど、どうしても仕事で抜けられない。そんな時、“何とかしよう”って頑張るじゃない? 何とかできたこともあれば、どうにもならなかったこともあったけど(笑)。だけど、その“何とかしよう”と頑張ったものが残ってるんだよね」と。


 これが、目に見えない戦いである。「仕事で参加できないとってたんですが、真剣に祈ったら、今日来ることができました」なあんてのは新入会のメンバーのレベルの話だろう。まして、不況になれば、仕事という理由に皆が理解を示すようになる。仕事を隠れ蓑(みの)にしている幹部も多いんじゃないか?


 御みやづかいを法華経とをぼしめせ、「一切世間の冶生産は皆実相と相違背せず」とは此れなり、かへすがへす御文のこそをもいやられ候へ(1295頁)


「仕事を御本尊え」との御指南。ということは、仕事をおざなりにしていれば、御本尊不敬に当たるということ。こりゃ、大変だ(笑)。随分と謗法を犯している男子部も多いんじゃないか?


 会合へ走って駆けつけている男子部こそ、学会の本命である。そのひた向きさ、真剣さ、求道が、いつの日か必ずや大いなる力となり、福運となって開花することは間違いない。

2005-03-30

師子王の如く正義を叫べ


 妙法こそ、諸経のなかの比類なき「師子王」である。「師子王」である妙法を持(たも)つ私どもは、次から次へと襲いかかってくる、現実の荒れ狂った「百獣」の姿にも、一つも恐れる必要はないし、いささかも動ずることもないのである。

 更にいえば、真摯(しんし)な広布の実践に励む私どもの真剣な叫びこそ、まさに百獣を従える王者の師子吼に通ずるものであろう。その威風は、いかなる邪悪の風をも吹き払い、世界に、社会に、正義と真実の清風を吹き込まずにはおかない。師子王の如く法の正義を堂々と叫び、訴えきっていくところに、広布の大道はいやまして開けゆくことを知らねばならない。


【第11回全国青年部幹部会 1989-01-06 創価文化会館


 大聖人は御書の中で「師子王」という言葉を、21ページにわたって記されている。いくつか挙げてみよう。


 悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失はん時は師子王の如くなるをもてる者必ずになるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜むの強盛なるべしおごれる者は強敵に値(おう)ておそるる出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池(むねっち)の蓮の中に小身と成て隠れしが如し(957頁)


 譬へば定木(じょうぎ)の曲りを削り師子王の剛弱を嫌わずして大力を出すがごとし(992頁)


 師子王は前三後一と申してありの子を取らんとするにも又たけきものを取らんとする時もいきをひを出す事はただをなじき事なり、日蓮守護たる処の御本尊をしたため参らせ候事も師子王にをとるべからず、経に云く「師子奮迅之力」とは是なり(1124頁)


 各各師子王のを取り出していかに人をどすともをづる事なかれ、師子王は百獣にをぢず師子の子又かくのごとし、彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼(はう)るなり(1190頁)


 此の経文は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし空飛ぶ者の王たり鷲のごとし(1310頁)


 譬えば一の師子に百子あり彼の百子諸の禽獣に犯さるるに一の師子王吼(ほゆ)れば百子力を得て諸の禽獣皆頭七分にわる、法華経師子王の如し一切の獣の頂きとす(1316頁)


 願くは我が弟子等は師子王の子となりて群に笑わるる事なかれ、過去遠遠劫より已来(このかた)日蓮がごとく身命をすてて強敵の科(とが)を顕せ師子は値いがたかるべし、国主の責めなををそろしいわうや閻のせめをや、日本国のせめは水のごとしぬるるををそるる事なかれ、閻のせめは火のごとし裸にして入るとをもへ、大涅槃経の文の法を信じて今度生死をはなるる人のすこしのゆるなるをすすめむがために疫病をのあたへ給うはげますなりすすむるなり(1589頁)


 ライオンが初めて日本に来たのは、慶応2年(1866年)の正という。大聖人がこれほど書かれているところをみれば、鎌倉時代では既に、ライオンという動物は人口に膾炙(かいしゃ)していたのだろう。


 ライオンの詳しい生態は今でもわからないようだ。少し前に見たテレビ番組によれば、獲物を狩るのはメスの仕事で、オスはグループを守ることに専する。まるで、学会の婦人部と壮年部のようだ(笑)。また、ライオンは足が遅いため、必ず団体戦で狩りを行う。オスはある程度大きくなると、グループから追い出される。狩りに馴染んでいない子供達は、飢え死にするケースも多いようだ。


 師子に師弟の義あり――


 御義口伝に云く師子吼とはの説なり説法とは法華別しては南無妙法蓮華経なり、師とは師匠授くる所の妙法子とは弟子受くる所の妙法吼とは師弟共に唱うる所の音(おんじょう)なり作とはおこすと読むなり、末法にして南無妙法蓮華経を作すなり(748頁)


 これは勧持品にある「作師子吼」の御義を口伝されたもの。「師弟共に唱うる所の音」とは、勤行唱題であり、法正義即学会正義を叫ぶである。叫びとは、抑えても抑えても、抑え切れずに魂からほとばしる何かである。叫びにも当然、十界がある。我々の師子吼は菩薩界・界の叫びだ。


 蚊の鳴くような師子吼は存在しない。様々な住宅事情はあるだろうが、を何度も潰すほどの題目を唱えなければ、の壁は破れない。皆の前で立派な決を述べるのは後回しにして、南無妙法蓮華経を叫びに叫んで参りたい。

2005-03-29

カルロス・シマ理事長(ペルー)


 その我が門下の門出に、私はつたないが真の一首を贈った。

「いつの日か 君を讃えん 時ありと 今日のペルーに 命をささげば」

 ――“明日”ではない、“今日”である。今日という日に命をささげてペルーの友のために戦おうと。そうすれば、いつの日か君を讃える時が来るに違いないとのであった。そして、今、その時が来た。

“只今臨終”の一法実践の精髄がある。“いつかやろう”ではなく、“今、戦う”、これが真実の信の行動である。


【第11回全国青年部幹部会 1989-01-06 創価文化会館


 ビデオ『アンデスを越えて――ペルーの創価家族たち』を通しての指導。舞台となっているのはタウカ村。首都リマから約630kmに位置し、車で往復36時間かかる。断崖絶壁を見下ろすタウカ村の標高は3366m。富士山の頂上と400mしか違わない。村の人口は、400世帯、2000人。電気はまだ通じてない。


 シマ理事長を迎えた座談会には50が集まった。だが、御本尊を受持しているのは、わずか2世帯。ペルーでは、勤行ができるようになるまで、御本尊の下付は認められない。


 ここで、タウカ村の一粒種となったナルシサ・デ・ラ・クルースさん(57歳)という婦人を紹介。

  • ナルシサさんは、9人もの幼子を抱えながら、夫に先立たれた。生計の道は、一枚の畑のみ。加えて、少女の頃から耐えい頭痛に悩まされていた。
  • して、持病が解消。
  • 学校に十分行かせてもらえなかったナルシサさんは、読み書きができず、経本が読めなかった。そのため、自分が折伏した人から、読み方を教えてもらった。
  • 6年越しで勤行を覚え、御本尊を受持できるようになった頃には、一枚だった畑は、22枚に増え、最近では、リマに2軒のアパートを持つなど、福運に包まれた境涯になっている。
  • 小さな村中に聞こえる村役場のスピーカーを通して、散々、悪口を言われたことも一度や二度ではなかった。だが、彼女は、どんな役人や村人の前でも、法の正義を言い切った。
  • ナルシサさんは、どんなに誹謗中傷されても、懸命に村のために尽くした。植林の中となって活躍し、村の共有財産を横取りしようとした横暴な役人とも戦った。
  • 今では、信してない若き村長までが、ナルシサさんのことを「村一番の協力者」と信頼を寄せている。村長の母親も入会。

 シマさんが、ペルーへと旅立ったのは34歳の時。学生時代に腎臓疾患(ネフローゼ)となり、医師からも二十数歳まで持てば、といわれた身体であった。ペルーに赴任して以来、ジョギングを続け、身体を鍛えながら、友の激励に奔走した。どんなことでも気さくに相談にのり、どんなところでも直ぐに飛んでゆき、どんな時でもいばらないし、怒らない。シマさんにペルーの同志は絶大な信頼を寄せている。


 ペルー広布先駆の父・故キシモト理事長は語った。「ペルー創価学会にとって、最大最高の福運は、先生がシマさんのような人をペルーに送って下さったことです」と。


 先生の下(もと)から出発して16年。誰よりも弟子の労を知る師匠は、シマさんを最大に讃えた。スピーチで紹介されたということは、永遠にを残したということでもある。


 世界190ヶ国にまで広がった陣列は、民衆の激闘によって綴られた歴史そのものである。

2005-03-28

声は生命


“自身の(おもい)をにあらはす事ありされば(こころ)がとあらはるは色法より色をあらはす”(469頁)

 は生命である。人のの琴線にふれるような話をする人がいる。それは、言葉以外に、多くの薀蓄(うんちく)のあるがあるからだ。その言葉には、余韻をじさせるものがある。

 話には必ずホシがなければならぬ。話は言葉という形式によって表現されるから化儀である。その化儀を通して、言葉の奥にあるその人のなり、理を知ることができる。すなわち、それが化法である。形式的に言葉を並べたような指導であってはならない。人のを打ち、えぐるものがなくてはならない。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 は見えないので法、は五で知覚できるので色法。色不二であるが故に、が現れる。


私がビデオを見る際、日本語吹き替え版を嫌うのは、このためである。


 嫌なとは、どういった種類のものであろうか? がさつな、ぞんざいな、取り繕(つくろ)った、媚(こ)びた、威張った、卑屈な、か弱い、ハッキリしない、冷たい、澄ました、おどおどした、暗い……。書いている内にが暗くなってきた(笑)。


 では、気分を変えて、好ましい


 朗らかな、豊かな、自然な、落ち着いた、温かい、響く、通る、ハッキリした、透き通った、明るい、誠実な、真剣な、優しい、爽やかな、親しみのある……。


 竹内敏晴氏が代表作『ことばが劈(ひら)かれるとき』(ちくま文庫)で、現代人はが出なくなっていると指摘している。建物がコンクリートで造られるようになった背景もあるが、最大の原因は、現代人の身体が歪んでいるところにあるという。竹内氏がいう「が出ている状態」とは、交通事故に遭いそうな子供に向かって「危ない!」と叫んでいる状態。と身体が一致して、対象に向かっていなければ、が出ているとはいえない。


 今時のミュージシャンは、その大半が泣きみたいになっている。薄気味悪くて仕方がない。


 私の個人的な研究によれば、笑いに人柄が出る。笑いは絶対に誤化すことができない。嫌らしい笑いに、境涯の低さが如実に現れる。裏表のある人物も、笑いでわかる。


 会合などで、必要以上に大きいを出す人は、虚勢を張っている場合が多い。自信のなさの裏返しだ。先日行われた座談会で、80代半ばの婦人部が活動報告をした。事前に2時間の唱題をして臨んだそうだ。そのハツラツとしたは、実に清々(すがすが)しく、が洗われるような銘を受けた。


 と共に、話し方も重要だ。間の取り方、メリハリのつけ方、内容の組み立てなど。こうしたことは、知の次元というよりは、聞き手に対する配慮ができるかどうかだとう。


 そして一番大事なことは、「今、信している」ことに対する激と動に満ちているかどうかである。聞く人をして電させるほどの大情が人のを動かす。言葉にを託して、対話の大波を起こして参りたい。

2005-03-27

絢爛たる歴史を綴れ


 秋谷会長を中に、このように若き青年が集い、諸君と共に「青年世紀の年」第2年を生き生きと迎えることができ、私は本当に嬉しい。

 私はすでに、諸君を信じ、諸君に頼み、諸君に広宣流布と学会の未来を託す以外にない年齢である。ゆえに私は、本年も全力を挙げて後進の育成のため、完璧なる万年への広宣流布の基盤建設のために走り、この1年は、10年分にも匹敵する歴史を刻んでいきたいとっている。

 これは決して言葉のみで言っているのではない。口先だけの言葉は、何もに響かないし、何も変革することはできない。その味で、どうか諸君も、大聖人の門下であるならば、また私と共に戦おうとに決めたお一人お一人であるならば、同じ1年であっても、最高に充実した青春を送り、最大に自己を発揮しゆく歴史をつくっていただきたい。そして、最高に生きがいのある、価値ある日々の、自分自身の軌跡を絢爛(けんらん)と綴っていただきたい。


【第11回全国青年部幹部会 1989-01-06 創価文化会館


 阿部日顕による第二次宗門問題が起こる丁度、2年前の指導。これが、昭和最後の指導となった。


 日本が揺れ、世界が揺れた激動の年。翌17日、昭和天皇が逝去。平成の幕が開いた。41日から消費税導入がスタート。バブル経済により不動産価格が高騰の極みに。その陰で、リクルート事件が発覚し、連続少女殺害事件の犯人が逮捕。723日に行われた参議院選挙では、旧社会党に風が吹き、与野党逆転1969万票を獲得した勢いに乗って、土井たか子委員長が「山は動いた」と気を吐いた。


 中国では63日に天安門事件が。学生による民主化運動に対し、中国当局が武力制圧する模様が映像で世界に配信された。そして、119日、東西を分断してきたドイツ・ベルリンの壁が28年という歳を経て崩壊した。


 いずれも、ついこの間のようにじる出来事だ。21世紀に至るわずか10年の間に、時代を賑わす寵児(ちょうじ)が現れては消え去り、金融機関不良債権にのた打ち回り、合併を繰り返した。大手企のいくつかは倒産し、下請け・孫受け企は塵芥(ちりあくた)のように吹き飛ばされて、中小企経営者は自らの命を手に掛けた。サラリーマン終身雇用も完膚なきまでに破壊され、日本の安全神話も完全に崩壊した。


 政治家や企家が次々と舵取りを誤った激動の時代にあって、創価学会は隆々たる発展を続けた。しかも、この間に、宗門問題が起こり、信教の自由を封じ込めようとする策謀の嵐が国会内で吹き荒れたのだ。全く、奇蹟としか言いようがない。師弟不二の魂は、20世紀の完全勝利を勝ち取った。


 この指導がなされた当時、私は25歳。前年の9に地区リーダーとなっていた。身震いするほどの激をもって走り抜き、2世帯の弘教となって結実した。4から、創価班の本山担当の一員となり、11には初めてメイン会場に参加できた。いずれも、忘れ得ぬ歴史である。

2005-03-26

紙一枚無駄にするな


 伸一は、開館式の前夜、地元の幹部と、会館をくまなく見て回った。納戸(なんど)も開けて、点検しながら、整理整頓の大切さを語った。

「細かいことまでチェックしているようで申し訳ないが、実は小事が大事なんです。火事や事故というのは、すべて小さなことから起こっている。幹部は、そうした細かいことに気を使っていくことが、結果的に、会員を、同志を守ることになる」

 さらに、ここに勤務することになる職員に言った。

会館の調度品や備品も大切に扱ってください。皆が仕事で使う鉛筆一本にいたるまで、その財源を担ってくれているのは学会員であり、同志の尊い浄財です。だから、紙一枚にしても無駄なことをしてはならない。

 私も、そういう気持ちで、封筒一つ、無駄にはしていません。たとえば、私あてに出された書類の封筒があれば、そのあてを消して、再利用するようにしています。その精神が職員の伝統です」

 会員世帯の増加にともなって、学会の職員の数も次第に増えつつあった。それだけに、伸一は、会員に奉仕する職員の精神を、一人ひとりに徹して伝えようとしていた。


【『新・人間革命』第5巻 「勝利」 1999-06-06発行】


 この指導を、各会館のコピー機に貼り付けておくことを望む。無駄なコピーをしているのは中堅幹部と相場が決まっている。レジュメ聖教新聞のコピーが大半だろう。いずれも不要だ。


 企も一流になればなるほど、コストダウン、CO2削減のために、ありとあらゆる努力をしている。CO2削減とは、具体的にはゴミを減らすことである。「自分の物じゃないから」と社員が無駄を繰り返す会社は二流だ。雇われ根サラリーマンが、会社の績の足を引っ張っている。


 物を大切にしない人は、他人のも軽んじる傾向が強い。


 小事が大事だ。事故や病気なども必ず前兆がある。一昨年、北海道苫小牧市の出光興産北海道製油所で火災が起こった。様々な原因が考えられたがその中に、「ベテラン社員のリストラや、安全管理要員の削減によって、事故の予兆を見逃したのではないか」という指摘があった。


 目を配り、を配ることを配慮と申す。学会は人の命や宿命を預かっている組織なのだという責任があれば、小さな変化を見逃すことはない。


「これぐらいは」という油断が全ての歯車を狂わせる。好い加減な甘えが信をも崩してゆく。創価とは価値創造の異なれば、無駄の多い生活は謗法となる。さしたる決もない活動は、無駄の最たるものだ。動いた分だけ価値を生み、勝利の結果につなげるのが“小事に徹するリーダー”だ。

2005-03-25

“生きた言葉”の交流を


“魂なき情報”が、いわば洪水のごとく流されているのが現代社会である。そうであればあるほど、肉による“生きた言葉”の交流が、どれほど社会を健全に支えていくか。私どもの「座談会」の義の一つもそこにある。


江東・墨田・荒川区青年部各部合同の集い 1988-12-25 江東文化会館


 西武グループによる、有価証券報告書の虚偽記載問題が発覚するや否や、マスメディアは一斉に堤社長を叩き始めた。記者は、世界一の富豪を讃えたペンで、今度は暴君振りを書き立てた。テレビは、ありとあらゆる下劣な話題探しに狂奔した。


 ライブドアの堀江社長が、毎日のようにテレビに登場している。ニュース番組で大々的に取り上げておきながら、「劇場的買収劇」などと報じてみせる。自分達で演出しているにも関わらずだ。堀江社長には、失礼極まりない質問が浴びせられ、堀江氏の片言隻語を集めるだけ集めてイジメは続く。あのやり取りを見ると一目瞭然だが、ジャーナリズムは虚である。大体、この時点で、ニッポン放送の社員に「今のお気持ちを聞かせて下さい」なんて質問するのがおかしい。「いやあ、面白くなりそうですね」などと言えるはずがないのだから。


 山折哲雄氏が、毎日新聞の『「オウム」後を考える』というテーマ投稿で興味深いことを書いていた(夕刊 2005-03-14付/「報恩抄」でも紹介した)。


 ところがそれらの事件や犯罪にふれて、われわれがいつも当たり前のように持ちだす応急策が、理的な動機探し、社会的な影響談義、そして病理的な人格障害診断、という三種の還元ゲームである。最後の段階になって、犯人は少年院や刑務所に送られて一件落着。人もそれで何となく納得し、以後社会の関もしだいに薄れていく。オウムの場合も、凶悪事件の場合も変わりがない。要するに、事件を分析したり解釈したりするための理学、社会学、精神医学による三種還元の手続きが終了して、幕が降りる。そのくり返しだった。


 人間は残酷な事件に興奮する質がある。そこに訴えるようにして、メディアは殊更、拡大し、誇大化して報道する。極端に露出された情報によって、善悪の覚がどんどん麻痺してゆく。


“魂なき情報”の最たるものが、学会を誹謗・中傷するデマ記事だ。5W1Hを欠き、「元幹部」、「学会ウォッチャー」なる得体の知れぬ人物の発言を登場させ、下劣な印象づけを狙う内容が殆どだ。


 学会の世界には、“生きた言葉”による魂の交流がある。


 私にとって、座談会は“ライブ”だ。全体をプロデュースし、MC(司会)を務め、参加者に勇気と希望と歓喜を与えゆく究極のエンタテイメントと化している(笑)。


 式次第を忠実にこなし、皆が順番に話すだけの会合を、私は座談会とは呼ばない。参加者一人ひとりとのやり取りがあって、初めて座談会となるのだ。それなりの運営ができるようになるには、3年ほどかかる。立派な座談会をするには、10年ほど要す。盛り上げるコツを言葉で表現するのはしい。参加者との呼吸としか言いようがないからだ。


 私は座談会が好きで好きでたまらない(笑)。座談会の申し子といってよい。に1回じゃ、物足りないよ。

2005-03-24

「日禅授与本尊の模写」は日顕の持論(下)


【『フェイク』第588号 2005-03-24


「日禅授与本尊の模写」は日顕の持論(上)の続き》


妙」に非され窮地に立つ日顕


御本尊を鑑定できたのは当時の教学部長だ


「天に向かって唾(つばき)す」の譬え通り、ドジ新聞「妙」が「大御本尊は日禅授与本尊の模写」について反論や弁解をすればする程、日顕を非して窮地に追い込む皮肉な結果になっている。


 何故なら「(大御本尊は)日禅授与の本尊の題目と花押を模写し」と発言した張本人は、日顕に他ならないからだ。その日顕の発言を正確に書き留めたのが「メモ」の異を持っていた河辺慈篤(故人)であった。


 このことは、日顕自らが平成11年79日付の宗務院通達の中で「それらの(注・大御本尊に関する外部からの)疑について河辺師に対して説明」したものと認めている。


 また、河辺自身も同10日付の通達で「両御本尊(大御本尊と日禅授与本尊)の関係に対する妄説が生じる可能と、その場合の破折について話を(日顕から)伺ったもの」とはっきり認めていた。

「A面談」のAとは、阿部信雄であることを日顕も、河辺も否定したことはない。


 しかも、この「河辺メモ」には「日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との鑑定者の発言までも記録されている。

 模写とは、紙幅の曼荼羅をもとに板本尊を謹刻する際、当時の「かごぬき」という技法で、紙幅の曼荼羅の上に薄紙をおき、首題と花押を上から筆で紙幅の文字の輪郭をなぞっていく。そうして正確に写し取った薄紙を板の上に張り、彫刻するのである。

 この際、輪郭をとる時の筆の墨が薄紙を抜けて下の紙幅の曼荼羅にうつってしまうことがある。それを「模写の形跡が残っている」と、鑑定者は言っているのだ。


 となると、鑑定者は当時、御宝蔵に格護されていた日禅授与の本尊の「模写の形跡」まで発見できる程、間近で現物を拝することができた人物ということになる。

 そんな者は宗外はもちろん、宗内にもほとんどいない。 


 更に「妙」(316日付)は「今日、日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御本尊について写真撮影や鑑定調査を許していない」「軽々にを測る(研究する)対象とすることは、上慢・不敬に陥る畏れがある」とも書いている。


 かつて「妙」は、後の正信会僧・大黒喜道に濡れ衣を着せて鑑定者にデッチ上げようとした。だが、昭和53年2当時は教師の補任も受けていない所化小僧の大黒では「種々方法の筆跡鑑定」や「比較鑑定」をすることは立

場上、到底、不可能である。


 それが出来た坊主は日禅授与本尊のカラー写真を所持していて「宗内で御本尊鑑定の第一人者」を自認していた当時の教学部長・日顕以外にないことは火を見るより明らかだ!


 昨年の夏期講習会第9期(725日)でも日顕は自分が御本尊鑑定の権威であると自慢して「私どもは一目見れば一目瞭然、大聖人の御真筆か否かは判ります。そういう偽物が日本中にたくさんあるのです」等と得々と語っていた。


 この発言は日顕が鑑定して「大御本尊は偽物」と断定した事実を記した「河辺メモ」の正確さを強く印象づけるものであった。


妙」が言う「莫迦者、上慢・不敬」とは日顕の事だ!

人生の喜び


 人生や生活には様々な喜びがあろう。ラーメンを食べて「ああ、おいしい」(笑い)とうのも喜びだし、また、恋人とのデートがこのうえない喜びの瞬間だと(大笑い)じる人もいよう。更に、職場の役職が上がった、立派な家を建てた等々、それなりの喜びがある。

 しかし、こうした喜びがいかにはかなく、長続きしないものであるかは皆さまもよくご存じの通りである。また、財産や地位、誉などは、突き詰めれば、自分の外面を飾る“衣服”や“装飾品”にすぎない。

 結論として、信に励み、の境界を得ることこそ、崩れざる真実の喜びである。そして、そのの境界に立脚してこそ、甚深の「智」がわき、限りない「慈悲」のを持っていくことができる。そこに人生の「歓喜」がある。


【第10回全国青年部幹部会 1988-12-10 創価文化会館


 境界と境涯は同じ味。生命論の場合は境界と書き、人生論・人間論に即して境涯と表す、と私は理解している。


 幸福である状態を「喜び」とすれば、十界論では天界から上の四聖となる。天界の喜びは長続きしない。聞界・縁覚界の喜びは、天界よりは長続きするが、エゴイズムに傾きがち。菩薩界の喜びは、人を救う喜び。界の喜びは、永遠そのもの。


 ところがどっこい、「♪わかっちゃいるけど、やめられない」というのが人間の(さが)。人の欲望の対象となる嗜好は、年齢と共に移り変わる。よく言われるのは、「異→飲食→鉱物」という変遷。鉱物とは宝石。宝石は、自分が死んだ後も残るから、永遠への憧れとも考えられる。


 人間は欲望に生きる動物ともいえる。だが、欲望の充足だけが幸福とはいえない。結局、「何のために生きるのか?」という命題は、「何をもって人生の喜びとするか?」という問題になろう。


 世間の法にも重をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎(なげ)きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑ(餌)にばかされて釣(つり)をのむ鳥は木にすむ木のひき(低)き事をおじて木の上枝(ほつえ)にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の法なんどには捨る事し故にになる人もなかるべし。(956頁)


 仕事をし過ぎて過労死する人がいる。会社が社会的な問題を起こすと、自ら命を絶つ人もいる。悪い男に騙(だま)されて人生を棒に振る女もいる。幸福というの「餌(えさ)」に引っ掛かる姿は、鳥や魚と異ならない。まして、飽食の現代社会にあっては、至るところに「餌」が転がっている。


 我が生命のを薫発し、強靭な生命力を発揮しながら、人々の生命を揺り動かすところに真実の喜びがある。これを折伏づける。

四条金吾釈迦仏供養事


 日蓮をたすけんと志す人人・少少ありといへども或はざしうすし・或はざしは・あつけれども身がうご(合期)せず(1149頁)


【建治2年715日 55歳御作】


 様々な姿の弟子がいる。志は厚くても実践なき弟子を口舌の徒とづく。大聖人の厳しき瞳には、四条金吾の姿が頼もしく映っていた。竜の口の法難に同行し、追い腹を切ろうとしたその姿は、師と共に生き、師と共に死んでゆかんとする師弟不二の魂だ。この御聖訓は、四条金吾に対して人材育成を促されているようにも読める。

四条金吾殿御返事


 此の法門につきし人あまた候いしかども・をほやけ(公)わたくし(私)の大・度度重なり候いしかば一年・二年こそつき候いしが後後には皆或はをち或はかへり矢をいる、或は身はをちねどもをち或はは・をちねども身はをちぬ。(1180頁)


【弘安元年915日 57歳御作】


 最近、口癖になっている御文。大が起こると、「皆或はをち或はかへり矢をいる」と。人間の弱さ、デタラメさ、だらしのなさが恐ろしい。辛うじて残った弟子といえば、動いてはいるものの歓喜を失い、あるいは信があっても行動が伴わなくなる。役職があるにも関わらず、その責任を果たさない人は、「身はをちねどもをち」に該当する。毎日が、堕落・惰との戦いである。2010年のその後をう。

土籠御書


 法華経を余人のよみ候は口ばかり・ことばばかりは・よめどもはよまず・はよめども身によまず、色二法共にあそばされたるこそ貴く候へ(1213頁)



【文永8年10 50歳御作 与日朗


 佐渡流罪と時を同じくして、囚(とら)われの身となった弟子もいた。受を称賛された日朗だが、大聖人滅後に日興上人を裏切った。大聖人門下として生涯を全うすることのしさを知ることができる。若き日の誓いを見失えば、その瞬間から退転という奈落に堕ちてゆく。

2005-03-23

「日禅授与本尊の模写」は日顕の持論(上)


【『フェイク』第587号 2005-03-23】


妙」が日顕を「莫迦者」と罵倒


御本尊を鑑定した日顕は「上慢・不敬坊主」


 日顕宗のドジ新聞「妙」(316日付)が日顕の「大御本尊偽物発言」を蒸し返して、またも墓穴を掘っている。同紙は「大御本尊は日禅授与本尊の模写」との日顕の持論について稚論を述べ、あろうことか、大御本尊を鑑定した日顕を「莫迦(ばか)者」「上慢・不敬」と罵倒する結果になっているから滑稽の極みだ。


 そもそも「大御本尊は日禅授与本尊の模写」と言い出したのは法華講・妙観講らが「御法主上人猊下」と仰いでいるニセ法主の日顕自身である。その事実を宗内で知らない者はいない。

 それは、テープレコーダー並みに正確と言われる「河辺メモ」に克

明に記されている。「河辺メモ」の問題箇所は次の通り。


「S53.2.7、A面談 帝国H

 一、戒旦之御本尊之件

   戒旦の御本尊のは偽物である。種々方法の筆跡鑑定の結果解った。

  (字画判定)

   多分は法道院から奉納した日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、

   その他は時師か有師の頃の筆だ。

   日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」

 日顕は宗務院教学部長の要職にあった昭和53年27日、東京帝国ホテルで河辺慈篤と面談し、戒壇の大御本尊の真贋(しんがん)について論じたのだ。


 この大謗法発言は日顕が教学部長の立場を利用し、日禅授与の御本尊と戒壇の大御本尊とを鑑定にかけていたことを物語っている。その核部分である「種々方法の筆跡鑑定の結果解った。(字画判定)」との記述からして、日顕が当時、自分なりの手を尽くしたつもりで「偽物」と断定したことは言い逃れようのない事実である。


 しかも、日顕は鑑定の結果、判明したとして戒壇の大御本尊の首題の「南無妙法蓮華経」と「花押」(「日蓮」の署の上に書いてある一種のサイン)は、日禅授与の御本尊の首題と花押を模写したもので、その他の部分は、大石寺6世・日時上人や9世・日有上人の時代の筆跡になっており、その証拠に日禅授与の御本尊には、模写された時の痕跡が残っている、とまで語っていたのである。


 これは単なる個人的な大御本尊への疑といった次元ではなく、御本尊研究の第一人者気取りで日顕自身が「偽作説」を唱えていた動かぬ証拠である。


 身延派など他の日蓮宗系の坊主ならいざ知らず、大石寺の歴代法主の中で日顕のように戒壇の大御本尊を「偽物」と断じた者は日顕以外には一人もいない。


妙」は日顕が大御本尊と日禅授与本尊を比較鑑定した事実を百も承知の上で、次のように書いている。

「日禅授与本尊を原本として模写したものなどと論するのは、まさに馬を指して鹿と言い張る莫迦者である」

「今日、日蓮正宗富士大石寺においては、本門戒壇の大御本尊をはじめ全ての御本尊について写真撮影や鑑定調査を許していない。

 それは釈尊の頭頂を上から見ようとして果たせなかった者の話が示唆するように、信仰する者にとって、軽々にを測る(研究する)対象とすることは、上慢・不敬に陥る畏れがあるからである」と。


 これは明らかに日顕への攻撃である。(つづく)

広宣流布の総仕上げは壮年の手で


 最近、非常に痛ましい飛行機の墜落事故が続いております。亡くなった方々は本当にお気の毒であり、私はいつも題目を送っております。専門家によりますと、飛行機事故の70%は着陸の際の事故であるといいます。

 師が会長になられてから今日まで約15年たっており、師が亡くなられてから8年になろうとしています。この間の学会の戦いは、大変、自画自賛の言い方になりますが、青年部出身の幹部ならびに青年部の最高幹部の戦いが、絶対過半数を占めているといっても、決して過言ではないとうのです。異体同でありますから、当然、四者一体になって戦い、今日を築いてきたといえますが、しかし、戦いの矢面に立って、また学会を推進してきた原動力は、青年部ならびに青年部出身の最高幹部であります。しかし、これからは壮年がしっかりしなければなりません。着陸の場合、すなわち広宣流布の総仕上げに入った場合は、壮年部の戦いが重要です。青年部はエンジンの役割りを果たしておりますが、着陸の場合にはあまりエンジンをかけないのが普通です。したがって、あとは壮年部の経験、年功、分別をもって総仕上げをする、すなわち安全着陸をしていくのが、私は当然正しい方程式ではないかといます。


【壮年部結成式 1966-03-05 学会本部広間】


「先生、そうはいきません。最後まで男子部で成し遂げてみせます!」――この指導を初めて読んだ二十歳(はたち)の頃、私はで誓った(笑)。周囲に元気な壮年部は一人もいなかった。そんなのは、伝説上の動物とえた(笑)。広布の電信柱にしか見えなかった。


 その私も遂に壮年部となった。青年部時代から、四者に目を配って戦っていたこともあり、ギャップは全くじなかった。受け持ち範囲の広さが変わっただけだ。350分の1に。だからといって、私が力の出し惜しみをするわけがない。現場で培われた闘争の吹きは、最前線にいるほど発揮されるのだ。


 壮年部が結成された時、先生は38歳。不議にも、先生の人生の歩みと重なるようにして“壮年”というが現れた。


 確かに、飛行機が着陸する際、馬力は不要だ。川だって、上流は水しぶきを上げて、清冽な流れがほとばしっているが、海が近くなるほど流れはゆったりしたものとなり、川幅も広くなる。水も澱(よど)んでくるが、海に入った途端、全く違う世界が開ける。


「経験、年功、分別」と指摘されているが、あくまでも力の裏づけがなくてはならない。経験とは、広布一筋に歩み抜いてきた信の歴史であり、年功とは、人生の労を知悉(ちしつ)することであり、分別とは、法即社会の実践によって養われた判断力のことであろう。


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【壮年部結成を記して会長が贈った巻頭言「妙法の将」が朗読された】


 社会が成熟する方向へ大きく変化する時、若者に対する厳しさが失われる。学生運動が華々しく繰り広げられていた1968年(昭和43年)頃、学会の組織はタテ線からヨコ線(ブロック制)に変わった。部隊長は総B長になった。また、バブル崩壊後、子ギャルが台頭。未成年者による犯罪や、少女の売春などに歯止めがかけられなくなった。1990年(平成2年)に第二次宗門問題が起こり、青年部の訓練からは、更に厳しさが奪われた。


 これが、私の個人的な時代考察だ。


 社会が成熟すると、自由な選択肢が増える。するってえと、必ず楽な選択をする者が現れる。フリーターやニートなどがその典型。厳しいことや、嫌なことを避ける風潮が極端に強くなってゆく。「3K」=きつい、汚い、危険な仕事を忌み嫌うようになったのも、バブルの前後だったと記憶する。


 しかし、社会の構造がどのように変わろうとも、人間の宿命は変わらない。透徹した信は、必ず厳しい訓練を求める。広布の総仕上げを託された壮年部は、青春時代の訓練をい起こし、自分に対して厳しい課題を課してゆきたい。

宗門も「罰」と認識していた


 日恭が焼死した時、当時の宗門はと明言した。


 焼死した日恭法主の後を受け、一時、管長代務者をつとめた能化の中島日彰が大火からわずか3ヶ後に、東京・妙光寺で語った話の最後で、


「金口嫡々の法主上人が此くの如き御最後を御遂げになったと云ふことは僧俗共に深く考へなければならぬことで、是は大聖人大慈の御誡であります」としている。


 大聖人からの誡めであるという認識に明瞭に立っている。


「宗報」に掲載された、当時の大僧都・渋田慈旭も、


「宗門全体に対する御でなくてなんであろう、今こそ宗門僧俗一同の責任に於て深く総懺悔をしなくてはならぬ。(中略)宗門も中古以来神天上の法門などすっかり棚に上げて自然と世間の風潮になじんで軟弱化して来た事、特に戦争中は軍の一色に塗り潰されて官憲の手前大事な国家諫暁等は勿論、真の布教は封ぜられ結局時局便乗で進むより外は実際に手も足も出なかった。大聖人の弟子として何と情けない事か」(「宗報」昭和23年6号)と、「宗門全体に対する御」であることを明確にしている。


餅】

2005-03-22

厳しき現実に勝て


 現実は常に厳しい。ある場合は、両親の面倒をみなければならない。また、妻子を抱えて社会の荒波を生きていかねばならない場合もあろう。それは、きれいごとを言って済むようなものではない。“今日を、明日を、どうするのか”というような熾烈(しれつ)な日々を勝ち抜いていかねばならないのが現実だ。

 そのためにも若き諸君は、何かに浮かれ、夢ばかりを追い、淡い安逸と享楽に酔っているような人生を歩んではならない。

人々があるいは遊んでいる時にも、妙法という確かなる法則の上に立ち、三世にわたる幸福の土台を営々と築いていっていただきたい。そのための「今日」であり、「明日」であることを強く申し上げておきたい。


【第10回全国青年部幹部会 1988-12-10 創価文化会館


 動物に時間の概はないとされている。つまり、過去を振り返って反省し、未来に向かって目標を立てることができない。ま、“反省する猿”は時々見るけどね(笑)。


 人間だけが“死を自覚できる”のも、このあたりに所以(ゆえん)があるのだろう。動物にあるのは“今”だけだ。だから、夢や希望を持ってない人や、目標のない人は畜生界といえる。借金取りに責め立てられる人や、腹ペコの時を像すれば納得できよう。


 典に説かれる「雪山(せっせん)の寒鳥」や、イソップ童話の「アリとキリギリス」(原作は「アリとセミ」)が示しているのは、「今さえよければいいという刹那的な人生の愚かさ」だ。


「今さえよければ」という考えは、「自分さえよければ」といういと必ずセットになっている。別売りされることはない。「未来はどうなるかわからないのだから、今さえよければいい」のである。刹那主義・享楽主義・怠惰主義は、自ら未来を閉ざすことによって始まる。


 一寸先は闇である。宿命の嵐が吹き荒れた時、人間は木の葉のように翻弄される。寒鳥やキリギリスは、安閑と歌なんぞ歌えなくなる。避けられない労と直面した時、人は二つの選択肢を強いられる。能動的な姿勢で労を乗り越えてゆくか、受け身となって時間が経過するのを待つか、である。労して大きくなる人物と、小さくなる人物がいるのはこのため。


 夫れ賢人は安きに居て危きを歎(なげ)き佞人(ねいじん)は危きに居て安きを歎く(969頁)


 賢人は、平時にあって危機管理を怠ることなく、愚者は危地にあって平時を懐かしむ。生きるごとに後悔が深まってゆくのが佞人だ。


 後悔先にたたず(1048頁)


 地獄おそるべし炎を以て家とす、餓鬼悲むべし飢渇にうへて子を食ふ、修羅は闘諍なり畜生は残害とて互に殺しあふ、紅蓮(ぐれん)地獄と申すはくれなゐのはちすとよむ、其の故は余りに寒につめられてこごむ間せなかわれて肉の出でたるが紅の蓮に似たるなり、況(いわん)や大紅蓮をや、かかる悪所にゆけば王位将軍も物ならず獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず、此の時は争(いかで)か利我慢偏執有るべきや。(1439頁)


 あな恐ろし。厳しい御指南は、「何が何でも、民衆を救ってみせる!」という大聖人の慈悲に支えられている。人間関係に関する悩みの大半は、「利我慢偏執」によるものだ。正論の裏側に欲望が隠されている場合があまりにも多い。


 先生と会った時に、背筋を真っ直ぐに伸ばし、眼を逸(そ)らすことのない自分自身でありたい。

2005-03-21

広布の全責任を担って立て


「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」――これこそ、戸田先生の永遠の叫びであったし、今も変わらぬ万国共通の法則である。

 新しき世紀――21世紀の幕開けは近い。ゆえに私には、諸君こそ最も大切な存在であり、諸君に後事の一切を託し、お願いするしかないとっている。

 この一年も、青年部の成長と活躍は、大変に目覚しかった。からご労さま、ありがとう、と申し上げる。とともに、広布の未来にとってまことに重要な節目となる来年、再来年も、秋谷会長を中に、「青年部が全責任を担っての活躍を」と、強く訴えておきたい。

 草創期にあっても、一切を企画・推進し、先頭に立って境を開き、広布の原動力となったのは、私ども青年部であった。この誉れの伝統を、確かに諸君は引き継いでもらいたい。

 そして、雨が降っても、雪が降っても、嵐となっても、着実に一歩一歩、進んでいくことだ。どんなに小さな歩みであっても、常に前進を忘れなければ、やがて輝かしい進展が未来に待っているからだ。


【第10回全国青年部幹部会 1988-12-10 創価文化会館


 青年部は参謀たれ!――これが学会の伝統的な指導である。だが、私の周囲にそんな青年部は見当たらない(笑)。


 2010年、「創立80周年」の命運を決する本年、いち早く“壮男合金”のレールを敷いておかないと取り返しがつかなくなる。私は来から着手の予定。生きの好い男子部と学生部2による自然発生的な人材グループを結成する。私が先生や先輩から学んできたことを全て伝え、彼等からも何か学び取ってゆきたい。


 青年部はしっかりと座談会に参加せよ。それ以外、望むものなし。

月刊ペン事件名誉毀損罪で当時最高額の罰金刑



裁判史上で最も悪辣異例のデマ事件


デマによる謀略の共通点


1. 学会が発展する時期を狙う

2. 騒ぐのは同じ顔ぶれ(日顕一派 山崎正友

3. 正体を暴かれ裁判でも断罪

原田●前回、語り合ったように、学会は本年も、全ての裁判で完全勝利だ。デマとウソによる卑劣な謀略は、全て大失敗だ。


秋谷●こうやって見てくると、ウソ・デマには共通点がある。まず、ウソ・デマを流す時期に共通点がある。学会が発展する時、または公明党が躍進する時期を狙ってくる。


青木●悪の本質は「嫉妬」と「欲望」だからだ。学会の前進が妬ましい。陰謀を道具にして儲けたい。「いい目」を見たい。それでデマ捏造する。垂れ流す。騒ぐ。


谷川●それにまた、ウソ・デマを言いふらす輩も決まっている。「いつも同じ顔ぶれ」だ。


弓谷●確かに学会へのウソ・デマの火元をたどると、いつも同じだ。日顕一派。山崎正友。ないしは、その手下、亜流だ。


秋谷●そして、やがて正体を見抜かれる。裁判でも断罪される。これも同じだ(大笑い)。


デマ捏造の背景


八尋●だいたいデマ、作り話というものは「いつ」「どこで」「だれが」が全てインチキだ。一歩踏み込んで事実を確認すると、全部、曖昧だ。ハッキリしない。明らかにウソがある。当然、裁判所も「デッチあげ」と判断する。


谷川●あの「月刊ペン事件」を見れば一目瞭然じゃないか。


原田●「いつ」「どこで」「だれが」が全部インチキ。背景にも政治的惑があった。ハッキリしている。


八尋●第一に政治的背景だ。1974年(昭和49年)、東西冷戦の溝が深まる一方のなか、池田先生は歴史的な初訪中、初訪ソを断行された。


秋谷●多くの識者からも絶讃された。断固たる、先見の行動だった。


青木●さらに、その年の暮れには、学会と日本共産党の間に、いわゆる「創共協定」が結ばれた。


原田●これも「宗教と共産主義の共存」という文明史的、画期的な協定だった。


谷川●これらが、もともと学会の発展を妬んでいた「月刊ペン」編集長・隈部大蔵(くまべ だいぞう)にとって“デマの引き金”になったんだ。


原田●隈部というのは、得体の知れない宗教団体の幹部だった。


八尋●裁判の判決にも、明確にある。「被告人(=隈部)は、昭和50年8ころ、当時表面化した創価学会と日本共産党との間のいわゆる創共協定に対し、教義上の立場から疑問をつのらせ『月刊ペン』誌に創価学会批判記事の掲載を企画」と認定している。


原田●しかもデマ事件のあった昭和51年は、年末に衆議院の任期満了を控えていた。公明党の躍進が注目されていた。隈部は、その時期を狙って、デマを流したんだ。


秋谷●明確に「選挙狙い」のデマだった。


弓谷●第二にデマを騒いだ連中の素だ。


原田●隈部は「我こそは法華経研究の第一人者だ」と自認し、学会の発展に嫉妬していたことが分かっている。


杉山●「福島泰照」「隅田洋」などのペンネームを使って、このペン事件の前にも学会中傷の本を何冊も出していた。正体、素は明らかだ。


谷川●そして特徴の第3に、当然だが、裁判で「デマ」と明確に決着がついている。


デマは許さぬ!


杉山●「月刊ペン事件」は昭和58年610日に東京地裁、翌59年718日に東京高裁が隈部に対し「金20万円」の有罪判決を下した。当時、誉毀損の金刑としては最高額だった。


原田●マスコミ関係者がデマ記事で「刑事裁判」を受けて、逮捕され、有罪になった。滅多にない事件だった。


弓谷●その通りです。出版関係者がデマによる誉毀損の刑事事件で逮捕、起訴され、有罪になったケースは、きわめて稀だ。


杉山●そうなんだ。今7日に、ある休刊中の刊誌の記事をめぐる誉毀損訴訟の判決が最高裁で確定した。元編集長と元編集部員が「刑事裁判で有罪」になったんだ。


弓谷●この判決を伝えたニュースにも、こうあった。「雑誌記事を巡り、刑事責任が問われたのは、1976年の雑誌『月刊ペン』事件以来」と、わざわざ「月刊ペン事件」にふれて報道していた。


八尋●こういう類いのデマ事件で、刑事事件となったのは、実に約30年ぶりだった。あの「月刊ペン事件」が、日本の裁判史上でも、いかに悪辣で異例だったか。「月刊ペン事件」について語り残しておくことは、日本の誉毀損事件の歴史そのものを語ることにもなる。


青木●とにかくウソ・デマで中傷することは絶対に許されない。学会としても、厳格、厳重に対処する。場合によっては当然、法的措置を講じることを、改めて明言しておく。


秋谷●法的に厳しく対処してきたからこそ、これまでの裁判でも学会の正義が明確になってきたんだ。


弓谷●214日には、週刊誌が事実無根のデマ記事を掲載した事件の裁判で、学会側全面勝利の和解が成立した。週刊誌が学会に公式に謝罪し、謝罪広告を掲載した。


「画期的な判決」


杉山●悪辣千万なデマといえば、あの「狂言訴訟事件」。北海道・函館の狂言夫婦が学会を陥れるために、デマをデッチあげた事件だ。


原田●これもまた背後には、日顕一派がいた。恐喝事件を起こした山崎正友もいた。それもハッキリしている。


杉山●このデマ事件も大失敗した。平成13年6、最高裁は「100万件に1件しか例がない」と言われる「訴権の濫用」でウソつき夫婦の訴えを却下した。


谷川●「訴権」とは「国民が訴訟を起こす権利」のことだ。日本国民なら誰だって持っている権利だ。また、最大に尊重されなければならない権利だ。「濫用」とは「みだりに用いる」という味だ。つまり、国民として当然の権利すらも認められないほど悪辣で、事実無根のデマだったということになる。


八尋●裁判の判決では狂言夫婦がデッチあげた“事件なるもの”に対して、一つひとつ徹底して検証した。そのうえで「事実的根拠を欠く」「極めて不自然かつ不合理」「およそあり得ない」「極めて不合理であり、納得させられるところはなく、およそ信用に乏しい」等々、すべてをバッサリと切り捨てた。裁判所が“完全に事実無根である”と認定したんだ。


谷川●その上で裁判を起こした目的をも、鋭く、厳しく見破った。判決は「このまま本件の審理を続けることは被告(=学会側)にとって酷であるばかりでなく、かえって原告(=狂言夫婦側)の不当な企てに裁判所が加担する結果になりかねない」とまで断じ切っている。


原田●“このままだと裁判所までウソつき夫婦の仲間にされてしまう”という、裁判所の怒りだな。


弓谷●今年1に『誉毀損裁判』(浜辺陽一郎著、平凡社)という本が出た。この本も「狂言訴訟」事件に注目していた。


杉山●その通りだ。「『狂言訴訟』だとして、珍しく訴えが『却下』という門前払いとされた有な事例である」「ただ単に記事が真実ではないというだけではなく、そういう主張をして裁判を起こすこと自体を認めないとして門前払いにした点が画期的なものであった」「公にそこまで認定されるのは極めて珍しく、週刊誌もそんな記事を載せるのかと人々を驚かせた事件でもあった」と。


時の総理も謝罪


青木●このデマ事件に関わった政治家たちも、のちに続々と謝罪した。当時の橋本総理大臣も、このデマを機関紙で騒いだことで学会と誉会長に2度謝罪した。


原田●当時の自民党幹事長も謝罪した。


谷川●この夫婦は、そもそも大勢の会員などから詐欺まがいの手口で借金を繰り返し、踏み倒していた。それが原因で学会の役職も解任された。函館には多数の被害者がいる。被害者の会まで結成されているほどだ。


八尋●裁判に訴えられて、これまで確定しているだけでも、被害総額は7000万円を超える。


秋谷●誰が見ても、正体は明らかだ。


原田●だいたい、この狂言夫婦の女房は、自分たちの悪事がバレて学会の役職を解任された当時に、学会本部に“詫び状”まで送ってきていたんだよ。


八尋●その通りだ。当時、池田誉会長、夫人宛に、何通もの手紙を出している。これは学会側の弁護団が明確に確認している。


杉山●「御配をかけて真に申しわけございません」「本当に申しわけございません。何卒お許し下さい」「申しわけなさで一杯でございます。どうかお許し下さい」などと書いていた。


原田●「私が浅はかで悪かったのです」「どうか、いたらない、悪い私ですが学会において下さい」等々と、自分の非をハッキリ認めてもいた。


谷川●“詫び状”まで書きながら、デマをデッチあげる。そのうえ狂言で訴える。どう見たって「普通」じゃないし「まとも」じゃない。


八尋●ともかく「月刊ペン事件」にしても「狂言訴訟」にしても、日本の裁判史上、類いまれなる悪辣なデマ事件だった。また、政治的謀略事件だった。よく、おわかりのこととう。


谷川●デマ事件のカラクリが暴かれる過程で、日顕一派や山崎正友の一味がチョロチョロ動き回っていたことも判明した。その結果、山崎など、一段と誰からも相手にされなくなってしまった(笑い)。


原田●当時、山崎に利用された編集社の幹部も呆れて言っていた。「取材もせず(山崎の)原稿を載せたということは、よくなかったことは分かっています」「誉会長及び関係者の皆さまにお詫びします」とハッキリ謝った。


谷川●また他の週刊誌の幹部も「極悪ペテン師の山崎正友にだまされた」と明言して、「学会の勝ちです」とハッキリ認めていたほどだ。


八尋●結果として、日本の一部マスコミの呆れた実態、捏造体質が社会に知れ渡った。そうしたデマ報道に人権を蹂躙された、他の多くの被害者の人たちも、学会に謝している。


秋谷●学会は今年も法廷で連続勝利だ。当然、今後とも卑劣なウソ・デマには、厳しく対処していく。「デマを許さない社会をつくるために一緒に戦いたい」と、多くの人々もまた敢然と立ち上がりはじめている。


聖教新聞 2005-03-21付】

持妙法華問答抄


 譬えば高き岸の下に人ありて登ることあたはざらんに又岸の上に人ありて縄をおろして此の縄にとりつかば我れ岸の上に引き登さんと云はんに引く人の力を疑い縄の弱からん事をあやぶみて手を納めて是をとらざらんが如し争か岸の上に登る事をうべき、若し其の詞(ことば)に随ひて手をのべ是をとらへば即ち登る事をうべし、唯我一人能為救護のの御力を疑い以信得入の法華経の教への縄をあやぶみて決定無有疑の妙法を唱へ奉らざらんは力及ばず菩提の岸に登る事かるべし、不信の者は堕在泥梨(だざいないり)の根元なり、されば経には「疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」と説かれたり(464頁)《※「繩」は「縄」とした》


【弘長3年 42歳御作】(※建治2年、弘安3年説もあり)


 泥梨は地獄のことだから、堕在泥梨は、堕地獄・入阿鼻獄と同様の味か。「岸の上の人」は、「縄」は妙法を示す。芥川竜之介の『蜘蛛の糸』を起させる内容。依法不依人を知らぬ人々は、貧乏人と病人が説く法を信じようとはしなかった。虚坦懐にを澄ませ、を開いた人々は信をとった。先輩を侮って、幹部としての連絡・報告を怠る人も、この御文に当てはまるとう。特に婦人部の場合、情がもつれやすいので要注

2005-03-20

知識と知恵


 知識は、単に頭の中で描いた概に属するものである。ポンプであれば、現実に水をくみ上げるポンプそのものではなく、その概・設計図に当たる。それに対し知恵は、いかに現実に水をくみ上げ、活用していくかということに通ずる。人間の情や実、更には志、生き方にも関わるものである。

 人間は誰しも幸福を願って生きる。しかし、頭の中に、いかに多くの概・知識が蓄積されても、それが即幸福ではない。幸福は、具体的な実践によって獲得され、我が生命で実するものであり、単純な観ではないからだ。それに対し、知恵は、様々な認識や概を手段とし、行動へと昇華しながら、現実に幸の道を歩み、幸福を実現しゆく生命の力である。


【西ドイツ・ボン大学教育学研究所所長 ガイスラー教授と会談 1988-11-23 東京聖教新聞社】


 知識は理、知恵は事ともいえるし、知識は迹門、知恵は本門ともいえよう。設計図と建物の関係に例えるとわかりやすい。


 経済学者が必ずしも金持ちとは限らない(笑)。「親孝行をせよ」と教える教師が、孝行子かどうかは別問題(笑)。


 水の上に右足を差し出す。そして、その足が沈む前に左足を出す。更に左足が沈む前に右足を出す――するってえと、水の上も歩けることになる。これを観論とは申すなり。


 世間で考えられている幸福の定理は何だろう? 「自分らしく生きること」、「自分の可能を発揮すること」、「後悔しないよう、全力で頑張ること」などが挙げられよう。これに異論を挟むつもりはないが、どうも抽象的過ぎてピンと来ない。程度の低い道徳のようにじてしまう。


「自分」とは何なのか? 「可能」の内容は? などと考え出すと、たちどころに行き詰まってしまうのではないだろうか。だが、実際は、そんなことを考えている余裕すらない。テレビのリモコン操作や、携帯メールの入力で忙しいのだ。


 知識は知恵に入る門である。その知識すら深まらなくなった昨今、大人達は、子供に知識を詰め込むことにした。学校に“知る喜び”はない。生活の伴わない知識は、子供にとってストレスと化した。豊富な知識と、貧しい情が小さな身体に同居している。


 我々学会員は、絶対的幸福になる道理は知り得た。あとは行躰(ぎょうたい)即信によって、妙法の当体と自己を開きゆく実践をするのみである。実践を欠いた言葉は空しい。真剣勝負で悩める一人と正面から向かい合った時、自(おの)ずと知恵は発揮される。




 本日、交流座談会。神奈川から来られた方の体験談が実に素晴らしかった。全国副婦人部長が入るも、携帯電話に応じて中座。呆れ果てた。私の御書講義は50点。前回よりも5点高いのは、10分で終わったから(笑)。全員発言ができなかったため、拠点の外にて参加者全員にを掛ける。

2005-03-19

ボケやすいタイプとボケにくいタイプ


ドクター部による視点


ボケやすいタイプ

 1. 自分中が強く、頑迷で人の見などを傾けようとしない人。

 2. 神経質で、いつもイライラ。気短(きみじか)で、自分のにそわないと怒鳴ったりする人。

 3. 趣味ももたず、遊びの余裕もなく、仕事一徹できたような人。

 4. 物欲が強く、何事もカネやモノと考える、人間不信の人。

 5. 一見、同調があるように見えても、ただ調子を合わせているだけであって、の底からは人の輪に溶け込めず、友達もできない人。

 6. 情緒や情に乏しい人。たとえば、喜びもなければ動もない、笑いもなければ、ユーモアを解することもないような人。


ボケにくいタイプ

 1. 新聞や本などをよく読み、常に頭を使っている人。

 2. 物事にくよくよしない人。

 3. 書き物をしたり、対話が好きな人。

 4. 利己的でなく世話好きな人。

 5. 喜びや情などの豊かな人。

 6. 自分なりの生きがいをもち、向上の強い人。


【第11回本部幹部会 1988-11-30 創価文化会館


 高齢者とは65歳以上の人を指し、人口比の7%を超えると「高齢化社会」、14%を超えると「高齢社会」、25%を超えると「超高齢社会」という。日本においては、2004年12現在で、高齢者が2500万人を突破し、既に20%の割合を占めている。予では、2013年に3000万人を超え、ピークを迎えるのは2043年で、3647万人となる。全人口の3人に1人が高齢者となる時代は、直ぐそこまで来ている。超高齢社会となるのは2014年


 これは余談になるが、日本の場合、少子化が更なる問題を生んでいる。高齢化社会から高齢社会となるまでの期間は、フランス:115年、スウェーデン:85年、イギリス:47年、ドイツ:40年。これに対して日本の場合、わずか24年。


 年をとると身体機能が低下してくる。以前はできたことが、できなくなる。物忘れも激しくなる。こうしたことから抑鬱症状が現れる人も多い。成住壊空(じょうじゅうえくう)・生老病死が生命本然のリズムだから、まあ、しようがない。


 そこで大切になってくるのは、“第三の人生”をどう生きるかという点である。池田先生がこのテーマを本格的に取り上げたのは1998年。編まれた対談は後日、『「第三の人生」を語る 高齢社会を考える』(聖教新聞社)として発刊された。毎日新聞でも、1997年に「長命社会を生きる」と題した連載記事が掲載され、大きな反響があった。


 人間が「老い」や「病(やまい)」を忌避(きひ)するのは、迫り来る「死」を実せざるを得ないからだろう。死体の写真を見て、目が釘づけとなるなるのも、“モノと化した肉体”に対する恐怖の為せる(わざ)であると私は考える。


 老化現象や痴呆には、あたかも、自分が自分でなくなっていくような悲哀がある。戸田先生は、「どんなに若くて美しい娘さんでも、数十年も経てば、梅干し婆さんになってしまう」(趣)との比喩をもって諸行無常を説明された。これが現実である。


 その厳しい現実を受け入れ、上手に付き合ってゆくしかない。豊かな人生を送る方途は、第三の人生をどう過ごすかで決まる。男であれば、サラリーマンという鎧(よろい)を脱いで、何が残っているのか? その時になって、人生の目的と、人間とが厳しく問われる。


 ボケやすいタイプの内容が面白いのは、四悪趣の斬新な説明になっているところだ。妙とは、「開く」義であり、「蘇生」の義であり、「具足・円満」の義である。これらの義を日々示すことができなければ、信即生活とはいえない。

2005-03-18

広布最前線で責任を果たせ


 戸田先生が第二代会長に就任された昭和26年5――。当時、23歳の私は、蒲田支部の大森地区委員の任命を受けた。現在でいえば地区部長の立場にあたる。

 私も、本日参加の皆さま方と同じように、地区、支部の第一線の役職を務めてきた。戸田先生は、将来のために私を決して甘やかさず、すぐには高い役職に任命されなかった。同僚の役職がどんどん上がっても、私はいつも地味な部署で戦っていた。

 当時、戸田先生の事は危機に陥っており、大変な額の負債もあった。私はその先生の事を支えに支えながら、一方で懸命に時間を生み出して弘法(ぐほう)に走った。

 当時、私は日記に次のように記している。「(戸田)先生、必ず吾が地区も前進させます」「吾が大森地区が配でならぬ。地区が完璧になるよう、御本尊に祈る」「吾が地区も頑張らねばならぬ。……自分が頑張ることだ。自分が責任を持つことだ」と。

 私には“戸田先生の構を何としても実現したい”との一しかなかった。たとえどんなに小さな組織であっても、自分の担当した地域に全魂を注ぎ、広布の城を完璧に構築していくことだ。千里の道も一歩からである。現実の足元から広布は進むのだ――こう決して私は戦った。

「地道」であっても、強い「責任」をもって「必死」の取り組みができる人は、どこへ行っても勝利の道を開くことができる。反対にそれができない人は、何をやっても中途半端になる。私は広布のために、どんなに地味で小さなことでも全力でやりきり、勝ち抜いてきたつもりである。「信」の精髄、また「師弟」の強い絆といっても、こうした地道な努力と戦いなくして絶対にあり得ないからである。

 この精神は、その後の文京支部、男子第一部隊長の時代においても、また、関西や山口の法戦においても、全く同じであった。どこにあっても私は命懸けで戦いきった。その歩みにはいささかの悔いもない。

 どこまでも広宣流布のために、戸田先生と「師弟一体」の戦いであった。“ここで勝てば、戸田先生に安していただけるだろう”“ここに手を打っておけば、学会員が守られるだろう”――。私は常にそのことを考えながら、今日まで広布前進の先頭に立って勝利の指揮をとってきた。これからも全く変わらぬ覚悟で、皆さまとともに歩んでいく所存である。


【第11回本部幹部会 1988-11-30 創価文化会館


 自分が小さくじる時がある。特に若い内は組織に後輩もなく、激励されっ放しとなるため、何とはなしに、「俺は、1500万分の1の存在なのか?」という不安が頭をもたげることがある(笑)。組織をよりよく変えようと頑張っても、歯が立たないとなると、自分の役職が低いためだと錯覚を起こす人物もいる。本当は、本人の力不足に過ぎない(笑)。また往々にして、正義に燃えるあまり、やり方が稚拙になってるケースが多い。


 幹部としての基本的なスタイルは、地区リーダーの時に決まる。これが、私の持論だ。部長や本部長になった途端、突然変わるようなことはない。変わる人がいたら、そりゃ、妖怪人間だ(笑)。


 まず、道は大きく二つに分かれる。随自意グループと随他意グループ。言われたから動く、教わってないから知らない、四者の中でもお客さん状態、後輩の面倒をみれない、行きずらい家を避ける等々、これが随他意グループ(笑)。地区で率先して会合を持ち、誰も来なかったとしても、一人、深々と地区の発展を祈るのが随自意のリーダーだ。しかし、このような地区リーダーは、現在、絶滅種となりつつあるようだ(笑)。天然記物かもね。


 地区リーダーになると、勤行の導師を務める機会がある。後ろに連なるメンバーが一人でもいれば、リーダーとしての責任が芽生える。その自覚に燃えて、力不足の自分に歯ぎしりをしながらも、火の玉となって地区を駆け巡る地区リーダーは、確かな成長の足跡(そくせき)を残している。


青年部時代の闘争」で紹介したことは、その大半が、班長(現在のニューリーダー)、地区リーダー時代に考えついたことだ。


 真剣に戦っている男子部幹部であれば、壮年・婦人をも納得させるだけの力がある。後輩の前だけで偉そうな顔をしているのに限って、四者が揃う支部や地区の会合に顔も出してない。


 今から10年ほど前に、担当幹部は地区に入る旨、本部より徹底された。それまでは、幹部が渡り鳥のように、あちこちの組織に入っていた。役職を隠れ蓑(みの)にして、全く動いてない幹部も多かった。現場に入ってない幹部は信用できない。覚が狂っているからだ。


 いつくままに何点か挙げておくので、随自意地区リーダーの目安としてもらいたい。

  • 勤行・唱題の励行。
  • 聖教新聞の熟読。
  • 座談会の推進。
  • 弘教の先駆を示す。
  • 毎日、部長と連係を取る。
  • 週に一度は地区部長宅を訪ねる。
  • 各ブロック長・白ゆり長との連係。
  • 徹底した家庭訪問に何度かは、幹部を伴って行う。
  • に一度は、本部長以上の先輩に指導を受ける。
  • 部活動者会には、必ず後輩を率いて参加。

同志を見舞う


 昨日、上京してから一緒に戦い続けてきた同志を見舞う。交通事故で、頚椎(けいつい)骨折。一命は取り留めたものの、大きな障害が残ったと既に聞いていた。リハビリに挑むも、掌(てのひら)が全く動かず、車椅子を動かすのがやっとという状況。年齢は私と一緒。


 病室に入るなり、「いやあ、悪い、悪い、来るのが遅くなっちまって。何だよ、元気そうじゃねえか! ○○、生きてりゃいいんだよ。生きてりゃ、どうにでもなるから!」と、でかいで言うと、彼の傍にいた掃除のおばさんが笑いを上げた。


 1時間ほど語り合った。私の毒蝮三太夫(どくまむしさんだゆう)並みの毒舌に、彼は頬を緩めた。「車椅子に座っていると、立っている人間から、見下ろされるから、嫌だろう?」「そうなんだよね」――。


 彼の表情は本当にスッキリとしていた。一皮剥(む)けたような、さっぱりとした風貌に変わっていた。「事故に遭った直後は、身体が動かず、口も利けず、発狂しそうになった。しがみつくようにして、題目を唱えるしかなかった。俺、みんなを何度も裏切ってきたから、そのだとってるんですよ」と彼は語った。「色んな考えがあって構わないとうが、俺は、そうはわないね。因果ってえのあ、そんな単純なものじゃないとうよ。また、自分で決めつけてしまえば、それ以上、信は深まらなくなる。人生を振り返って、『あの時、交通事故に遭って、本当によかった』ってなりゃ、勝ちだろうよ」と私は答えた。「『まあ、こんな姿になってしまって。何て可哀なんでしょう』なあんて言われるようじゃ駄目だぜ」とも言っておいた。


 私の態度は、彼が元気な頃と寸分も変わらぬものだった。別れ際に、動かぬ手を無理矢理開いて握手をした。病院を出て車に乗り込むと、それまでで流し続けていた涙が、溢れ出そうになった。私はぐっと堪(こら)えた。傷は何の役にも立たないことを知っているからだ。こうして、新たな共戦が始まった。

2005-03-16

深夜の電話


 私どもはどこまでも「常識豊かに」進まねばならない。

 しかし、ある場合には、幹部である私どもを頼って緊急の電話が夜遅く入ることもあるにちがいない。本人にとっては切実な相談かもしれない。その指導いかんで人生の明暗が分かれてしまう場合すらある。

 それを、相手のも考えず、非常識だと決めつけて、おざなりにすませてしまうようでは、無慈悲であり、指導者としての責任を捨てることになってしまう。

 リーダーは、大切な子のために尽くしきっていくことが、自身の道修行となることも更に銘記していただきたい。


【第4回全国婦人部幹部会 1988-11-24 創価文化会館


平凡な生活の現実に信仰の証が」の続きの指導。


 電話をかけることを嫌うお年寄りがいる。一般紙の投書などで定期的に見られる見の一つ。その理由は、「相手が何をしているかわからないから」。つまり、相手が忙しいかもしれないので、迷惑になることを恐れるというわけだ。こういう奥床しい方々は手紙を好むようだ。


 そう考えると、電話は暴力的だ。こっちが何をしていようと、無理矢理、受話器を取らされるのだから。時折、「今、よろしいですか?」と尋ねられることもあるが、そんな礼儀正しい人は稀(まれ)だ。


 用事があるから電話をするわけだが、せめて、相手に対する配慮は怠らないようにしたいものだ。


 その一方で、配慮を期待することはあきらめて(笑)、い切った対応をしている人々も目立つ。ある時間になると電話機の音が鳴らないように設定したり、帰宅しているのに携帯電話にしか出ない人もいる。


 もう一つ文句を書いておこう(笑)。面識がない幹部の携帯に電話をすると、必ずといっていいほど返ってくることがない。これは、区長以上から副会長までに顕著。留守電の設定をしてない幹部も多い。こうなると、現場をなめてるとしかえないね。危機がなさ過ぎる。


 こういった様々な電話の対応の仕方から、相手の人間が伺える。


 高校生の頃、こんなことがあった。深夜の2:00前後だったとう。私は試験勉強をしていた。突然、1階の玄関のドアポストから、「オーーーイッ、オーーーイ」というがした。私の部屋は玄関の真上だから、かなり大きなだった。すっ飛んでゆくと、私の父親の支部のブロック長さんだった。「遅くに悪いねー。支部長、いる?」。そりゃ、いるだろう、こんな時間だもの! といながら、「ちょっと待って下さいね」と私は答えた。熟睡中の父に、「お父さん、Tさんが来てるよ!」と呼びかけるや否や、「今直ぐ行くから、上がって待ってもらえ」と答えた。父は、30秒ほどで着替えてきて、「悪いねー、待たせちゃって」と事も無げに言った。


 このブロック長さんは、普段から酔っ払っているような話し方をする人で、少し頭がゆっくりしていた。変わった方だったが、憎めない格で誰からも愛されていた。


 私はこのことから、何時であろうとも家に来る人があれば、きちんと対応することを学んだ。私が深夜の電話を拒否することはないし、眠たげなで受話器を取ることも、絶対にない。

相対的幸福


 確かに、何十年か前に比べれば、日本ははるかに裕福となった。しかし、それで国民は本当に幸せとなっただろうか。

 おいしい物を食べる。それは幸せかもしれない。だが、それで糖尿病になってしまえば(笑い)、かえって不幸である。たとえ、健康であったとしても、事故にあってしまえば、何にもならない。また、一見、何不自由なく暮らし、幸せそうに見える人でも、子供のことなどで人知れぬ悩みを抱えている場合もある。

 今、流行の未公開株でも手に入れて(爆笑)、たとえ、一時的に大金を得たとしても、やがて深い悲哀を味わうこともあろう。

 幸福は、いくら追いかけても、限りなく彼方へ逃げていく。かりに、この手につかんだように見えても、あたかも霧のように消え去ってしまう。それが、この無常の世の真実ではなかろうか。

 御書には「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」(788頁)と仰せである。

歓喜の中の大歓喜とは、我が生命のうちに築き上げた金剛の境涯である。大宇宙を貫く常住不滅の法に則った妙法の世界にのみ、永遠の幸福はある。


【第4回全国婦人部幹部会 1988-11-24 創価文化会館


 実にわかりやすい例えをもって、相対的幸福と絶対的幸福を教えられている。


 凡夫は往々にして天界の幸福を望みがち(笑)。


 或時は天上に生れて五衰をうく(474頁)


「天人は五衰をうく」とも言う。五衰とは、死ぬ時に迫り来る五つの衰え。つまり、天界の喜びとは、その場限りのもので、三世にわたる幸福境涯を獲得できないことを示している。その瞬間は喜びに浸(ひた)っているが、実は、生命を損耗しているような状態なのだ。


 遊園地に行けば誰もが楽しいいをする。しかし、帰る時は、ぐったりと疲れている。相対的な幸福ってえのあ、まあ、こんなものだ(笑)。永続がないところに特徴がある。


 随喜品二箇の大事

  第一妙法蓮華経随喜功徳の事

 御義口伝に云く随とは事理に随順するを云うなり喜とは自他共に喜ぶ事なり、事とは五百麈点の事顕本に随順するなり理とは理顕本に随うなり所詮寿量品の内証に随順するを随とは云うなり、然るに自他共に智と慈悲と有るを喜とは云うなり所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身に成るを喜とは云うなり、然る間随とは法に約し喜とは人に約するなり、人とは五百塵点の古たる釈尊法とは寿量品の南無妙法蓮華経なり、是に随い喜ぶを随喜とは云うなり惣じて随とは信の異なり云云、唯信の事を随と云うなりされば二巻には随順此経非己智分と説かれたり云云(761頁)


 これが絶対的幸福。一人だけの大歓喜は存在しない。共に戦い、共に勝つ中にのみ、確かな幸福が存在する。そう考えると、妙法を根本とした師匠と同志の存在が、どれほどありがたいかが理解できる。


 人生の幸福は与えられるものではなくして、自ら進み出て勝ち取るものである。「生命の内実こそ信心の果報」で紹介した三木清の言葉を現実に味わえるのは我々学会員だけであろう。


 今日は、3.16。この日の司会を行ったのは、若き池田先生であった。

2005-03-14

平凡な生活の現実に信仰の証が


 お一人お一人が大切な一生である。かけがえのない使命の人生である。非常識や、つまらない不注で、自身も周囲も不幸に巻き込むようなことが決してあってはならないと、重ねて申し上げておきたい。

「無事故」「健康」「安穏」――この最も平凡に見える生活の現実にこそ、信仰の証がある。

 高邁(こうまい)な理論も大切である。社会への壮大な運動も大切である。大勢が集まっての指導・激励も当然、必要である。しかし、それらの一切は何のためにあるのか。

 それは所詮、各人・各家庭の「幸福な生活」のためである。今日という二度とない一日の「安穏」と「成長」のためである。

 身近な生活を離れて信はない。そして、過去といい未来といっても、この“今”という現実の姿にこそ法はある。

 ゆえに一日一日を生き生きと、丁寧に生きていただきたい。自分のため、一家のため、同志のために、大切な今日という一日を生命力満々と開始し、見事に仕上げていっていただきたい。


【第4回全国婦人部幹部会 1988-11-24 創価文化会館


 指導の内容が途中で変わるため、後半は別ページ(「深夜の電話」)とする。


 信とは生活法なり――これによって学会は、700年間にわたって既成教の中に埋没していた日蓮法を、現代に脈々と蘇生させた。それまでは、葬儀法要の際しか必要とされてなかったのだ。学会は、日蓮法の実践によって、生命力を湧現し、生活を一新させ、人生に豊かな変化を与えた。


 天晴れぬれば地明かなり法華を識(し)る者は世法を得(う)可きか(254頁)


 法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり(992頁)


 信即生活、法即社会である。池田先生は更に、“人間革命”という概を示し、世界に通用する人間主義の王道を拓かれた。広宣流布の本因は、どこまでいっても一人の人間革命に尽きる。


 一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し(564頁)


 先生は、その手本の一人となって、偉大なる人間革命の巨歩(きょほ)をしるされている。


 功徳とは六根清浄(しょうじょう)の果報なり(762頁)


“生活”とは“生命活動”の謂い。であるならば、清らかで逞しくなった生命は、生活に革命を起こし、朗らかな波動となって周囲の人々に伝わってゆく。言葉ではなく姿が、理論ではなく生命の躍動が、雄弁に物語る。


 仕事に憂いがあったり、生活に配事があると、人は力を発揮できない。いくら、組織で動いても駄目。それは、信と生活がバラバラになっているからだ。日中はボォーーーッとしながら、夜になると眼を爛々(らんらん)と輝かせる“狼男”みたいな男子部は、いやしないか?(笑)かような者を、生活破壊型信づく。広布のテロリストと言ってもよし(笑)。先生が、平和提言で示された「過激主義」がこれに当たる。


 連続勝利とは小さくいえば、朝に勝ち、昼に勝ち、夜に勝つことだ。生活の中で小さな勝利をし続けることが、人生の幸福に直結する。


 戸田先生は、「、家を出る時は、『戦いに行ってきます!』と言うべきだ」とまで仰せになっていた。これこそ、信即生活の姿勢を示した言葉であろう。


 また別の見方をすれば、組織目標が、一人ひとりの人生と密接に結びついていなければ、これまた信即生活ではない。家庭指導の手をくまなく伸ばし、各人の生活状況を掌握した上で、自転と公転のギアをがっちりと噛ませるところに、リーダーの仕事がある。


 いずれにせよ、ゴムマリがはねるように生き生きとした生活を送る人が、信即生活の人だ。

東京革命へ 大勝利の船出


わが不屈の 江東の友に贈る


 一冊の御書が

 ここに ある

 それは

 牧口初代会長が 常に

 拝された御書である


 その御書を 開けば

開目抄」の一節に

 先生の自筆で 強く

 朱線が引かれている


 それは

「我並びに我が弟子

 諸ありとも 疑うなくば

 自然に界にいたるべし


 天の加護なき事を 疑はざれ

 現世の安穏ならざる事を

 なげかざれ

 我が弟子に 夕(ちょうせき)教へしかども

 疑いを をこして 皆すてけん」


 大聖人門下の

 永遠の信の明鏡(めいきょう)が

 ここに 厳然と光る


 この御聖訓を

 私も 皆さまも 拝した

 共々に 創価の同志として

 幾多のも乗り越え 勝った

 その尊(たっと)き方々こそ

 わが地涌の江東の友よ!


 昭和五十四年の五五日

 会長勇退の直後

 神奈川文化会館

 私は 指揮を執った


 信に 引退はない

 広宣流布に 勇退はない


 私は 猛然と走った

 次の法戦に 立ち上がった


 その神奈川の

 東の同志と

 向島の同志が

 馳せ参じた


 私は嬉しかった

 幹部よりも 一会員が

 どれほど立派であり

 偉大な信をしているかを

 深く 私は知った


 法師の顔をした畜生が

 いかに権威ぶっても

 まことの信仰者は恐れない

 大聖人のと 一体であるからだ

 恫喝(どうかつ)など 戯言(たわごと)である

 これが 創価魂である


 昭和五十五年

 三の二十五日に

 初めて 私は

 江東文化会館に 馳せ参じた


 一人でも 二人でもいい

 私は 江東の同志に会い

 手を取り 肩を抱きかかえて

 共戦を 誓い合いたかった


 やがて を弾ませ

 頬(ほお)を紅(あか)くして 駆けつけた友で

 会館は いっぱいになった


 この いじらしい庶民を

 護らずして

 何のための指導者か!

 この 気高きの使いに

 尽くさずして

 何のための法か!


 私は この無

 広布の英雄たち

 一人一人と 握手した


 その手には

 決があった

 涙があった

 闘争があった


 私は嬉しかった

 これなら

 再びの大法戦ができると

 激した


 このもなき英雄たちと

 語ることが

 最も大切であることを

 私は 知った


 その歳の暮れから

 毎年 十二には

 江東家族との語らいが

 新たな伝統となった


 ゆえに一年ごとに

 江東は 磐石となる

 大東京の骨格となった


 誉れ高き 江東男子部よ

 弘教 日本一の栄光は

 この昭和五十五年に始まり

 なんと 九年連続の偉となる


 学会の 続くなか

 厳然と戦い

 断固として勝った 江東

 その誉ある連勝の軌跡は

 永遠に 語り草になるだろう


 が襲いかかるほどに

 江東の信は 強くなる

 が 競い起こるほどに

 江東の団結は 強くなる


 民衆運動の先頭に立つ 江東

 大衆運動の先頭に立つ 江東


 その下町の

 誉を欲せず

 財宝を欲せず

 ひたすらに

 広宣流布に 挑戦しゆく生命

 それほど強いものはない

 尊いものはない

 かなうものはない


 江東は 美事(みごと)に

 広布の土台を 磐石にした


 江東の青年は

 自ら鍛えることを 知っていた

 折伏に 座談会

 教学に 個人指導に


 ゆえに

 自発能動の 江東の陣列は強い


 師走の集いが 十年目を迎えた

 平成元年の十二二十六日

 私は贈った

「法戦の

  

   日本第一と

  江東家族の

   大旗(たいき)は 勝利と」


 東には 荒川が流れ

 西には 隅田の流れあり

 南に広がる 東京湾

 無数の堀が めぐる

 美しき水の都 江東


 初代 牧口会長も

 この 江東の新天地に

 幾たびとなく

 足を運ばれた


 昭和十八年の六

 国家主義に迎合し

 学会も 隷従せよと 迫る

 卑劣なる 宗門の画策を

 牧口先生は 厳然と退けた


「今こそ

 国家諌暁の時ではないか!

 何を恐れるのか!」


 押し寄せる弾圧にも

 悠然たる先生は

 江東の草創の婦人部に

 微笑みながら 約しておられた

「今度は 是非

 あなたの地元にも 行くよ」


 それは

 先生の 投獄と殉教のために

 実現し得なかった

 しかし

 不二の弟子たる

 戸田先生によって

 果たされた


 昭和二十六年の五三日

 戸田会長の 推戴式の席上

 わが江東

 東支部が 誕生した

東」の

 戸田先生の 命である


 師である戸田は

 江東の弟子たちに 叫んだ

「信とは 確信なり

 いかなること ありとも

 信強き者には

 誰人も かなわぬ」と


 この信の利剣を

 恐れなく 振るえ!

 法華経兵法

 自在に用いよ!


 若き日より 私も

 江東の大地を駆けめぐった

 あの地 あの友 あの家

 江東は いずこも懐かしい


 海抜ゼロメートルの江東

 台風や津波の被害は 数知れず

 関東大震災に 町は壊滅

 東京大空襲では

 最大の犠牲を 強いられた


 その悲劇の歴史を

 断じて 転換するのだ

 この国土世間を

 必ず 三変土田して

 安穏にして 天人(てんにん)が充満する

 楽土を 構築するのだ


 私は 深く 祈りに祈った

 真剣に 走りに走った


 御聖訓にいわく

「力あらば 一文一句なりとも

 かたらせ給うべし」

 また いわく

「一句をも 人にかたらん人は

 如来の使(つかい)と 見えたり」


 されば

 人間としての外交

 縦横無尽に 展開せよ!

 勇んで

 人と会い 人と語り

 友情を 結べ!

 それが 広宣流布につながるからだ


 えば

 昭和三十九年の六

 高等部が発足したのも

 江東である


 明るく にぎやかな江東

 真の民衆の指導者たる

 二十一世紀のリーダーが

 限りなく 続きゆく

 人材と人材の 大河となった


 牧口先生が 繰り返し拝された

開目抄」には 更に仰せである


「つた(拙)なき者のならひは

 約束せし事を まことの時は

 わするるなるべし」


 信仰は一生である

 人生の最期の審判を

 堂々と 勝ち越え

 三世にして 永遠なる栄冠を

 飾りゆくためにある


 だからこそ

 川のごとく 弛(たゆ)まず

 川のごとくに 快活に

 川のごとく 悠々と

 流れを停めることなく

 岸辺を潤しながら

 前へ 前へと進みゆくのだ!


「約束せし事を」

「まことの時」

 江東の弟子たちは

 この御金言を 深く刻み

 師弟不二の道を 強く貫け!


 畜生のごとき

 知らずの反逆者は

 笑い飛ばせ!

 永遠に仲間に入れるな!


 進まざるは 退転

 戦わざるは 敗北


 敗北者のは 灰色

 必ず 嫉妬に狂う

 勝利者のは 晴天

 常に 天の曲が舞う


 法は勝負であり

 ゆえに 人生は

 断じて 勝たねばならぬ


 私が大好きな 江東の同志(とも)よ!

 大東京革命へ

 愉快に また朗らかに

 断固たる信

 指揮を 執れ!


 そして 共々に

 二十一世紀の(あした)に

 一人も もれなく

 胸を張り

 幸福の長者となりて

 勝利の人生と

 広布の 栄光の暁鐘を

 この地より 打ち鳴らしゆけ!


1997-06-25】


 これが、我が青春の全てである。この一詩によって、師のの深さを知り、誓いは更に堅固なものとなった。


 私の本地は江東男子部だ。現在、八王子の壮年部だが、それは外用(げゆう)の辺に過ぎない(笑)。どこに住もうが、いくつになろうが江東男子部なのだ。ハッキリ言って、どうしようもない。江東男子部としての焔(ほのお)が、生命の中で赫々と燃え盛っているのだ。


 この長編詩が発表された当時、東京各区の長編詩が詠まれた。だが、「弟子」と呼びかけられたのは初めてのことだったと記憶する。しかも、27ヶ所にわたって「江東」の文字が記されている。更に、牧口先生が約束された婦人は、私の分区にいた方だった。


 私にとって、江東男子部という呼びは、単なる地や所属を指すものではなくして、既に弟子の位を表すものと化している。下町の地に、我が身を叩きつけるようにして戦い抜いた16年間によって、池田門下生としての覚悟が決まった。


 私は江東男子部として今世を生き抜き、江東男子部として死んでゆくのだ。

2005-03-12

“市民派”は口先だけ


“市民派”の実態


萩本●第2総東京の多摩地域は、市民の入れ替わりが激しい。小金井市は、とくに、その傾向が強い。


萩谷●「一年に市民の1割が移転する」とも言われる。


今鷹●大変な数字ですね。


萩谷●地方選と地方選の間の4年間で、有権者も大きく変わる。


萩本●だから選挙でも「一発狙い」「一発屋」「一旗組」が多い。自称“市民派”がゴロゴロいる。選挙の時期になると、聞き地のいい、できもしない空手形ばかり乱発する。


萩谷●そして、あとで問題を起こすのも多い。


小谷●さっそく小金井市でも“市民派”が騒動を起こしているよ。


萩谷●何でも、駅前の再開発をめぐって、それまで何年も「反対」していた“市民派”が、突然「賛成」に回ったというんだな。


萩本●そういう無節操を平気でやるんだ。要するに選挙狙いだ。票目当てでコロコロ変わる。全て自分の手柄にしようとする。魂胆が見え透いている。


今鷹●こういう議員は、いくら増えても、街は良くならない。社会も変わらない。


小谷●どこかの「ハイエナ政党」と一緒だ(笑い)。だから住民も激怒している。バカバカしい限りだ。


萩谷●だいたい多摩地域の“市民派”といえば不祥事だらけだ。全国的にも大問題になったじゃないか。


小谷●その通りだ。平成12年9には、東京21区選出の代議士が「秘書の給与のネコババ」で逮捕、辞職。「懲役1年6」で服役した。


萩谷●この代議士の元秘書も逮捕。「覚せい剤所持」で現行犯逮捕された(同年11)。


田代●有、有


小谷●八王子選出の代議士の公設第1秘書も「覚せい剤所持」で現行犯逮捕(平成13年3)だ。


萩本●市議会議員にも悪いやつがいた。平成12年4には、国分寺市の市議が、知人女の写真を勝手にホームページに掲載して誉毀損容疑で逮捕された。


萩谷●みんな“市民派”と乗っていた連中ばかりだ。


小谷●最近も、小金井市の“市民派”議員に国保税の悪質な滞納事件が発覚した。


萩谷●しかも、議会で要請されても、何の釈明もしない。最後までシラを切り通そうとした。


萩本●これが“市民派”の実態だよ。恐ろしい限りだ。騙(だま)されたら大変だ。


狂気の革新市政


今鷹●こんなに事件が続くと「これは個々の議員の問題だ」なんて、とても言えませんね。「体質」の問題という以外にない。


田代●さすがに多くの市民が気づきはじめています。私の友人も言っています。「“市民派”は口先だけ。何もやらない。何もやれない。実現力、政治力がない。もう呆れた」と怒っていました。


今鷹●そういうを、あちこちで聞きますね。


秋谷●それに小金井市は、いわゆる“革新市政”にコリゴリした地域じゃないか。


萩本●その通りです。もう30年近く前の話だ。


萩谷●結論から言えば、革新とはばかりで実態は党利党略。組合の勢力を強くしたいから、とにかく市の職員を増やす。その結果、人件費が半端じゃない。他市の平均と比べて、30億円も多く使っていた。アッという間に、市の財政が完全に破綻してしまった。


小谷●国から巨額の借金までして、市の職員の退職金を払っていた。全部、結局、市民にしわ寄せがいった。


萩谷●僕の先輩で長いこと小金井市に住んでいる人も言っていた。「悪夢の時代だった。あれで“革新市政”とやらの化けの皮が完全に剥がれた。あんな狂気じみた政治だけは、絶対に許しちゃいけない」と真剣に語っていた。


賢明な判断を


萩本●政治は実績と行動だ。「口先だけ」「イメージ頼み」の政治屋には、とくに要注だ。


秋谷●とにかく選挙は大事だ。有権者の判断次第で将来に天地雲泥の差が出てくる。


田代●結局、損をするのは有権者です。私たち市民が賢明に見極め、判断していく以外にありませんね。


萩本●小金井の選挙も、いよいよ2週間後に迫った。公明党の議員は、支持者の死にものぐるいの激闘に、必ず、必ず応えてほしい。「東京完勝」の突破口を、断じて開いてもらいたい。


聖教新聞 2005-03-12付】

2005-03-10

報恩抄


【293-329頁】


背景

  • 建治2年(1276)721日 55歳御作
  • 与浄顕坊、義浄坊
  • 於身延
  • 真蹟:身延にあったが、明治8年の火災で焼失。


  • 安房国(あわのくに)の清澄寺で学んだ際の師匠・道善房が死去(316日)。その知らせを受けて、報の誠を示された御書。
  • 5日後の726日に浄顕房に宛てて書かれた「報恩抄送文」(330頁)では、「報恩抄」を嵩(かさ)が森で二、三度、、道善房の墓前で一度読むよう指示。
  • 御書全集で37ページ、3万1435文字という膨大な量。

断簡


 本化妙宗連盟のサイトに、以下の記事あり――


 今日、残存しているものは、

 1.山梨県中巨摩郡櫛形町市之瀬 妙了寺

 2.東京都大田区池上本町 本門寺

 3.高知県高知市筆山町 要法寺

 4.京都市上京区寺町広小路 本禅寺

 の4ヶ所です。

 第一の妙了寺の真蹟は「二行断片」で、本書の10頁、第四章第一節の中の『べき、若又をそれをなして(欠落)一切経の勝劣むなしかるべし』の一文で、乾師当時すでに紛失していたものです。

 第二の本門寺の真蹟は最も大量で「二紙二十七行」あり本書の12頁、第四章第二節の『況滅度後と申して』より、13頁の第二節第一項の『十流ありしかども一流をもて』までであります。乾師当時、身延に在ったものです。

 第三の要法寺の真蹟は「一行断片」で、おかしなことに他の御真蹟の小片と貼り合せて掛軸にしてあります。本書の45頁の第三章第二節から第三節にかけて『なり、金剛頂経を』『ふる、『其徳善無畏のごとし』この人の功徳』『いかにして地獄には』の33字です。

「六行断片」第四の本禅寺の真蹟は本書の66頁で『馬鳴竜樹菩第二章第一節第一項の薩等は佛滅後六百年』より『如来一代の肝は』までの御文章です。


道善房関連御書


 此の諸経諸論諸宗の失を弁うる事は虚空蔵菩薩の御利生本師道善御房の御なるべし。亀魚すらを報ずる事あり何に況や人倫をや、此のを報ぜんが為に清澄山に於て法を弘め道善御房を導き奉らんと欲す(888頁)


 今既に日蓮師のを報ず定めて神納受し給はんか、各各此の由を道善房に申し聞かせ給ふべし、仮令強言なれども人をたすくれば実語・語なるべし、設ひ・語なれども人を損ずるは妄語強言なり、当世学匠等の法門は・語実語と人人は食したれども皆強言妄語なり、の本たる法華経に背く故なるべし、日蓮申す者は無間地獄に堕つべし禅宗真言宗も又謬の宗なりなんど申し候は強言とは食すとも実語・語なるべし、例せば此の道善御房の法華経を迎へ釈迦を造らせ給う事は日蓮が強言より起る、日本国の一切衆生も亦復是くの如し、当世此の十余年已前は一向者にて候いしが十人が一二人は一向に南無妙法蓮華経と唱へ二三人は両方になり、又一向申す人も疑をなす故に中に法華経を信じ又釈迦を書き造り奉る、是れ亦日蓮が強言より起る、譬えば栴檀は伊蘭より生じ蓮華は泥より出でたり而るには無間地獄に堕つると申せば当世牛馬の如くなる智者どもが日蓮が法門を仮染にも毀るは糞犬が師子王をほへ癡猿が帝釈を笑ふに似たり。(900頁)


【「善無畏三蔵抄」 文永7年 与義浄房浄顕房】




【佐渡流罪のその日にあって尚、道善房へを配られる】


 九十二日に御勘気を蒙て今年十十日佐渡の国へまかり候なり、本より学文し候し事は教をきはめてになりある人をもたすけんとふ、になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそにはなり候らめとをしはからる、既に経文のごとく悪口罵詈刀杖瓦礫数数見擯出と説かれてかかるめに値い候こそ法華経をよむにて候らめと、いよいよ信もおこり後生もたのもしく候、死して候はば必ず各各をもたすけたてまつるべし、天竺に師子尊者と申せし人は檀弥羅王に頚をはねられ提婆菩薩外道につきころさる、漢土に竺の道生と申せし人は蘇山と申す所へながさる、法道三蔵は面にかなやきをやかれて江南と申す所へながされき、是れ皆法華経のとく法のゆへなり、日蓮は日本国東夷東条安房の国海辺の旃陀羅が子なり、いたづらにくちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金をかふるにあらずや、各各なげかせ給うべからず、道善の御房にもかう申しきかせまいらせ給うべし、領家の尼御前へも御ふみと存じ候へども先かかる身のふみなればなつかしやとおぼさざるらんと申しぬると便宜あらば各各御物語り申させ給い候へ。(891頁)


【「佐渡御勘気抄」 文永8年1010日】




【※報恩抄から2年後に著された御書】


 其の後なに事もうちたへ申し承わらず候、さては建治の比故道善房聖人のために二札かきつかはし奉り候を嵩が森にてよませ給いて候よし悦び入つて候、たとへば根ふかきときんば枝葉かれず、源に水あれば流かはかず、火はたきぎかくればたへぬ、草木は大地なくして生長する事あるべからず、日蓮法華経の行者となつて善悪につけて日蓮日蓮房とうたはるる此の御さながら故師匠道善房の故にあらずや、日蓮は草木の如く師匠は大地の如し、彼の地涌の菩薩の上首四人にてまします、一上行乃至四安立行菩薩云云、末法には上行出世し給はば安立行菩薩も出現せさせ給うべきか、さればいねは華果成就すれども必ず米の精大地にをさまる、故にひつぢおひいでて二度華果成就するなり、日蓮法華経を弘むる功徳は必ず道善房の身に帰すべしあらたうとたうと、よき弟子をもつときんば師弟果にいたりあしき弟子をたくはひぬれば師弟地獄にをつといへり、師弟相違せばなに事も成べからず委くは又又申すべく候、常にかたりあわせて出離生死して同霊山浄土にてうなづきかたり給へ、経に云く「衆に三毒有ることを示し又邪見の相を現ず我が弟子是くの如く方便して衆生を度す」云云。


【「華果成就御書」 弘安元年4 57歳御作 与浄顕房義浄房 於身延】




 故道善御房は師匠にておはしまししかども法華経の故に地頭におそれ給いて中には不便とおぼしつらめども外にはかたきのやうににくみ給いぬ、後にはすこし信じ給いたるやうにきこへしかども臨終にはいかにやおはしけむおぼつかなし地獄まではよもおはせじ又生死をはなるる事はあるべしともおぼへず中有にやただよひましますらむとなげかし、貴辺は地頭のいかりし時義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめして生死をはなれさせ給うべし。(373頁)


【「本尊問答抄」 弘安元年9 57歳御作 与浄顕房日仲 於身延】


・報


 これらの言葉が記されている御書のページ数は以下の通り――

  • :14ページ/報:13ページ/:174ページ

【不知であるが故に二乗は成できなかった】


 聖賢の二類は孝の家よりいでたり何に況や法を学せん人知なかるべしや、弟子は必ず四をしつて知をいたすべし、其の上舎利弗迦葉等の二乗は二百五十戒三千の威儀持整して味浄無漏の三静慮阿含経をきわめ三界の見を尽せり知の人の手本なるべし、然るを不知の人なりと世尊定め給ぬ、其の故は父母の家を出て出家の身となるは必ず父母をすくはんがためなり、二乗は自身は解脱とをもえども利他の行かけぬ設い分分の利他ありといえども父母等を永不成の道に入るればかへりて不知の者となる。(192頁)


293頁1行目


 夫れ老は塚をあとにせず白亀(はくき)は毛宝がをほう(報)ず畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや、されば古(いにし)への賢者予譲(よじょう)といゐし者は剣をのみて智伯(ちはく)がにあてこう(弘)演と申せし臣下は腹をさ(割)ひて衛の懿公(いこう)が肝を入れたり、いかにいわうや教をならはん者父母師匠国をわするべしや(293頁)


2005年3座談会拝読御書】




白亀は毛宝がをほうず

 毛宝は中国・南北時代の晋(しん)の武将。ある時、捕らえられていた白い亀を買い取って川へ戻してやった。後に毛宝が敵に追われた時、成長した白亀がこれを助けて、を報じたという。


予譲

 中国・戦国時代の晋の忠義の士。主君・智伯が襄子(じょうし)に滅ぼされたので、仇を討とうとしたが果たせず、そのため襄子の衣を刺した後、自ら剣に伏して自害した。このことを大聖人は「剣をのみて」と表現されている。


こう演

 =弘演。中国・春秋時代の衛(えい)の懿公(いこう)忠臣。殺された主君の肝が放置されているのを恥辱とし、自ら腹を割いて主君の肝を治めたといわれる。

  • 畜生界と人界を示し、更に「教をならはん者」を挙げ、不知を戒められている。
  • 道善房は、地頭の東条景信を恐れて、大聖人の教えを信じることができなかった。つまり、世知に長けた老獪な人物であったと像される。それでも、大聖人は折に触れて道善房に対する報を尽くされている。ここに、広大なる「日蓮が慈悲」(329頁)をずる。
  • 義理という覚は、長い間、貧困に喘いでいた庶民の報を示すものであったにちがいない。それが、豊かな時代となり、形式に堕した途端、儀礼へと変質し、逆に負担を強いるものとなった。
  • を知り、じ、に報いる人生には、常に謝がある。報の人は、周囲の人々に光を発しながら、豊かな人生を送ることができる。不知の者は、貧しいが故に、寂しく孤独な人生とならざるを得ない。
  • 「不知の者は横死有(あり)と見えぬ」(1147頁)
  • 「忘は人間が犯すことのできる最大の犯罪である」 南米開放の父 シモン・ボリバル
  • 現代社会は、を忘れた社会となりつつある。親が子を虐待し、子が親を殺し、少年はミニバイクにまたがって引ったくりを繰り返し、少女は春をひさいで小遣いを稼ぐ。親と子、教師と生徒の間はズタズタになり、主従の関係を支えているのは、しがない々のサラリーのみ。を仇で返すような人間ばかりが目につく。こんな世の中で、まともな子供が育つはずもない。不知の連鎖に歯止めをかけることができるのは、最早、我々創価学会員だけである。
  • 菩薩が行動を起こすのは、じるから。
  • 二乗は不知ゆえに成を嫌われた。知らずの人間は、自分の力を過信する増上慢である。
  • してない人がいるからこそ、法を説ける。未活動のメンバーがいればこそ、家庭指導をして福運を積むことが可能となる。
  • 我々が信できたのは、行き着くところ、初代・二代・三代会長のおかげである。牧口先生獄死戸田先生も、獄中で身体を痛めつけられ58歳でお亡くなりになった。そして、池田先生はありとあらゆる迫害を乗り越えて、77歳になった現在も尚、世界広布の指揮を執って下さっている。
  • 日々、御本尊の前に端座し、報謝のが込み上げてくるかどうか。ここに我々の報の実践がある。
  • ある学会に弓を引いたのが日顕一派である。供養に次ぐ供養を受けておきながら、池田先生の首を後ろから斬りつけるような真似をした。世界1500万信徒の真を土足で踏みにじったわけである。これを黙って見過ごすようなことがあれば、不知の謗りを免れることはできない。を強くじる人ほど、怒りに燃えているはずだ。
  • 山折哲雄氏が興味深いことを書いていた。地下鉄サリン事件から10年が経ち、『「オウム」後を考える』と題した記事(毎日新聞 夕刊 2005-03-14付)。昨今の凶悪犯罪の多発は、オウム真理教事件と「同じ根っこから発生した同血の双子ではないかとい返すようになった」。「同じ根っことは何か。人間の悪、ということだ」。「けれどもどうだろう。今日、それらの残忍な犯罪や事件にふれて、この悪のテーマを正面にすえて論じようとする態度がほとんどみあたらないのではないか」。そして、応急策として持ち出される、「理的動機探し」、「社会的な影響談義」、「病理的な人格障害診断」を「三種のゲーム」と痛烈に皮肉っている。
  • 「悪のテーマを正面にすえ」られないのは、善の価値が失われているからだ。悪と戦う中にしか善なるものは存在しない。極悪を責める人のみが極善の人である。
  • 極悪を打倒し抜く祈りと対話の実践によって、報恩抄の研鑚が完結する。
  • 「先生に応えてゆこう!」と言葉でいうのは簡単である。黙々と報に徹する人こそ、真の学会っ子だ。

2005-03-09

自分一個のために信仰している人に、魔は起こらない


 学会は、これまで諸にあい、ことごとく乗り越えてきた。そこに真の大聖人門下の証も栄光もある。

 牧口先生は、常々「悪人の敵となりうる勇者でなければ、善人の友となりえぬ」と言われていた。悪と戦う勇気がなければ、自分もまた悪に通じてしまう。

 更に「自分一個のために信仰している人には、決しては起こらない」「(しかし)敢然と大悪を敵として戦っているような者であれば、三障四魔紛然として競い起こるのが当たり前であり、起こるが故に行者といわれるのである」(趣)と。

 これが御聖訓を拝しての牧口先生の確信であり、覚悟であられた。牧口先生は、この言葉の通りに、国家神道と結びついた軍部権力の弾圧と戦い抜かれた。

 そして、創立の日から、ちょうど14年後の1944年(昭和19年)1118日、厳寒の獄中で、殉教の生涯を終えられた。時に73歳――。

 ここに、崇高なる「創立の一」が、永遠に崩れざる「誉れ」として刻印されたのである。

 この「創立の一」に、第二代戸田先生は、ただ一人続かれた。第三代の私は、この戸田先生の弟子の道をまっしぐらに貫いてきた。師弟という無二の軌道を微塵もゆるがせにせず走り抜いた。ゆえに私には何の悔いもない。そして、何の恐れもない。

 この初代から二代、三代と続く忍の系譜にこそ、不滅の学会精神が脈動している。


【11.18創立記勤行会 1988-11-18 創価文化会館


 馬鹿の知恵は後から出ると言われる。この指導を読んだのは、2座談会で「兄弟抄」の講義をした直後のこと。信のリズムが遅れている証拠だ。参ったね、ホントに。


 牧口先生は、法華経の“信者”、“行者”、“学者”がいると鋭く指摘。信者・学者には三障四魔なく、迫害もない。だが、日蓮大聖人は法華経の行者であられた。その広宣流布の信に連なるために、創価学会が立ち上がった。牧口先生は、「進んでを駆り出せ!」と叫ばれた。


 いたずらに世間との摩擦を起こす必要はない。しかし、必要以上に摩擦を恐れる人物に、社会を変革しゆく気概はない。まして、牧口先生が生きたのは、軍国主義で言論統制されていた時代である。官憲が立ち合って監視する座談会場で、堂々と法正義を語る姿は師子吼そのものであった。


 というのは、信に応じて現れる。いつまでも、己煩悩に負けているような人は、確固たる成長がない。いつしか、負け癖がつき、身口意の三業によって、“負ける自分”が常態となる。かような人物に限って、会合では一丁前に戦っているような顔をしてみせるのだ。こういうのを、エセ学会員づける(笑)。


 弱い自分に勝てるようになると、今度は他人の悩みを引き受けるようになる。自然とそういうコースに入る。更に、段々と複雑な問題と関わり合うことになる。自分が直接、手をつけられない状況も出てくる。そこが第二の関門である。ここを乗り越えられれば、幹部として及第点。私の経験から言えば、30歳までに、この段階をクリアしておかなければ長期戦になってしまう。信年数・役職は全く関係ない。


 総区の男子部幹部会で、若手メンバーの育成を目的に何かやろうということになった。総区男子部長の下(もと)で私が責任者となり推進。この時、私は30歳。20ほどの若手メンバーの中に、社会人サッカーチームに所属する男子部が二人いた。まだ、Jリーグがない頃で、二人とも長崎県の国見高校出身だった。サッカーに無知な私が、「ヘエ、じゃあ、サッカー巧いんだな」と言うや否や、サッカー好きの若手から、「小野さん、彼等ぐらいになると、巧いとか下手とかそういうレベルじゃないんです!」とたしなめられた。


 当初、総区男子部長は宗門問題に関する研究発表を目論んでいたが、私がそれをぶち壊した(笑)。私は若手の見を尊重することにした。その結果、一世を風靡していたロベルト・バッジョの劇を行うことになった。限られた練習時間の中で、私は今まで知らなかった若手メンバーの育成に全力を注いだ。この時、サッカー選手の二人とやり取りして驚かされた。彼等は、私が学会の組織で12年かけて身につけてきたことを、サッカーから学んでいた。異なる分野であっても、“戦う”ことの現実は同じなのだ。私はそのことから、彼等がどれほど厳しい世界に身を置いているかが、直ぐに理解できた。


 その一人である立石(たていし)君は現在、大分トリニータでコーチを務めている。創大出身の彼は、既に何度か聖教新聞でも紹介されている。


 どんな世界でも、戦ってゆけば困が現れる。ましてや、生命という次元で戦う我々には、更に熾烈な障が競うことは必定である。池田門下を乗るのであれば、「忍の系譜」に連なる日々の闘争でありたい。


付記


 そうそう、ウッカリしてた。この会合は大成功に終わった。事前に送ったメッセージに対して、何と、ロベルト・バッジョから返事まできた。取り次いで下さった国際部の方も、「考えられない」と驚いていた。メッセージは、情熱の塊(かたまり)と化した私が、い入れたっぷりに書いたものだった(笑)。私は何にも増して、世界的なスーパースターが、見知らぬ日本の同志のために激励を惜しまぬ行動に嘆した。あのバッジョ氏の直筆サインが、若手メンバーの成長の証のように見えてならなかった。


 2005-03-14

2005-03-08

何のための会合革命か


 総県長会議で秋谷会長から再度、会合革命の確認があった。これが地区に下りた時点で変質してしまっている。昨夜行われた地区活動者会では、「1時間という時間に束縛され、早口でまくし立てるようなことがないように。伝えるべきことは、きちんと伝えてほしい」という切り文になってた(笑)。これを紹介した地区婦人部長は、20:50に至るまで一人で話し続け、挙げ句の果てには「終了後、婦人部は残って下さい」と言い出す始末。近日中に私から注する予定である。


 どんなに打ち出しが多かったとしても、30分以上話し続ける幹部は馬鹿である。それ自体が頭の悪い証拠であり、参加者のことを少しも考えてない証拠だ。力のあるリーダーは必ずやり取りを交える。一人ひとりと、やり取りをすることによって、戦う動機を打ち込んでゆくからだ。


 会合革命の真は、幹部革命にある。幹部の雇われ根による伝達主義が、会員をしめていることに気づくのが先決だ。学会の全ての会合は、新入会のメンバーや友人が参加できる内容にすべきだ。

2005-03-07

「野に咲く花のように」


香峯子抄』(主婦の友社)や先生の随筆で紹介された「野に咲く花のように」は、既に販売されてない模様(後日、再びCDが発売)。そこで、ネットで見つけた情報を紹介する。この曲は、ダ・カーポが歌ったもので、山下清(画家)を主人公にしたドラマ「裸の大将」(1983年:フジテレビ)の主題歌として作られたもの。


 恋さんの「徒然草」ダ・カーポの歌がダウンロードできる。左列の「恋にメールする」の頭の▼をクリックすればオッケー。私は「連続再生」で聴きまくっている。


 更に各地域の民音の責任者に、ダ・カーポのコンサートをリクエストすることを提案しておく。生で聴きたいねえ。


※先ほど寄せられた情報によれば、現在、リバイバル版の作成に着手しているとのこと。販売される日も遠くないものとわれる→コロムビアミュージックエンタテイメントより発売された。

生命の力用は時空を超える


「生命」の力用(りきゆう)とは、まことに不議である。強靭な「精神」は、時を超え、空間を超えて、響き、伝わっていく。目に見えるようなの“流れ”があるわけではない。だが、「」から「」へ、透徹した一は確かに流れ、継承されていく。


【11.18創立記勤行会 1988-11-18 創価文化会館


 これ血脈なり。血脈とは、時代や環境を超えて、人間の魂と魂とが深く共鳴することの謂(い)いであると信ずる。そして、ここに眷属の妙もある。


 獄死された牧口先生の一は、戸田先生池田先生の大闘争によって、190ヶ国にまで広がった。学会員乗るのであれば、どこにあろうとも、初代・二代・三代会長の眷属である誇りに燃えていなくてはならない。


 王地に生れたれば身をば随えられたてまつるやうなりともをば随えられたてまつるべからず(287頁)


 これは、三度目の国主諌暁の際に、大聖人が平左衛門尉に向かって放った言葉。戦時中、時の法主が立ち会う中で坊主どもは、神札を受けることを学会に勧めた。牧口先生は、「承服いたしかねます」と言下に拒否。この瞬間、大聖人の生命の力用は、坊主どもではなく、牧口先生に流れ通った。創価学会仏勅和合僧となった歴史的瞬間である。


 また、人類や人権のために戦った人々の言葉が、我々の胸を打ってやまないのも、同じく“生命の力用”といえよう。


 強靭なる一は、広範な人々を動かす。


 青年部時代、結果がふるわない幹部とやり取りしていると、「一が足りませんでした」という幹部が時々いた。「足りないんだったら、足せ! 大体な、コショーや調味料じゃあるまいし、足りたとか足りないという問題ではないだろう。おかしな日本語を使うな! 一は、強いか弱いかだ。弱い一正当化するな! その言葉で、既に次の敗因をつくっているのだ」と私は言った。かような弱い幹部を、“羊千匹グループ”と命しておこう。


 最後の池田門下生である我々の課題は、師弟直結の信を築くことにある。先生のを知り、先生の祈りをじ、先生の一に連なることが我々の責務である。


 先日、行われた本部幹部会を先生は風邪のため欠席された。私は考えざるを得なかった。「いつの日か、これが当たり前になる時が訪れるのだ」と。その時にいち早く立ち上がって、多くの会員を励まし抜く人が本物の弟子である。そして、妙法を信じ、広布をじるの強い人のみが、本物の学会幹部だ。

守護国家論


 兵者を打つ刻(きざみ)に弱兵を先んずれば強敵倍(ますます)力を得るが如し(37頁)


 戦いにおいて弱い兵を先に出せば、敵は勢いづく。法然の「選択集(せんちゃくしゅう)」を破折するために、「浄土決疑抄」、「弾選択」、「摧邪輪(さいじゃりん)」などの書が、他宗の高僧によって著された。しかし、中途半端な破折であったがために、かえって悪法をはびこらせてしまった。そのことを兵法に例えて糾弾された御文。幹部が手をこまねいている姿勢も同様。力ある者が率先垂範を示すのが学会の伝統だ。組織で、事件・事故・トラブル・病気などがあった場合も同じ。広宣流布の険路は、代々の会長の陣頭指揮によって拓かれたきたことを忘れまい。最前線をひた走る幹部だけが、まともな幹部だ。

滝泉寺申状


 奸人(かんじん)(ちょう)に在れば賢者進まず(851頁)


 悪者が政府にいれば賢人は活躍できない、との。これは、にあっても野(や)にあっても共通の方程式。「奸」は悪いをもつこと。悪だくらみを奸計といい、悪がしこい人物を奸佞(かんねい)の徒と呼ぶ。大辞林によると、「奸」の前方一致で26の熟語がヒット(左列)するが、いずれも悪い味の言葉。御書では4ヶ所使われている。学会の役職を担いながら、デタラメな幹部、不真面目な幹部、一生懸命でない幹部、力のない幹部、愚かな幹部、不勉強な幹部、動かない幹部、皆の見を聞かない幹部は、いずれも奸人であると断じておく。「」は学会本部とも、各地域の執行部とも読める。

2005-03-06

イズムの功罪


 そこで、最も留すべきは、“イズムの功罪”ということであります。

 およそ(広義の)イデオロギーというものは、“イズム”としての属を有しており、人々の考えや行動を一定の方向へと導く規範としてのはたらきをもつ。つまり、“功”の側面を否定することはできない。

 と同時に、それは、知らず知らずのうちに、人間の自由な考、判断をひとつことに縛りつける拘束の側面を有しており、それが高ずると、“イズム”が人間に君臨するという逆倒を招いてしまう。“罪”の側面であり、“イズム”はこの方向に傾きがちな慣を内蔵しています。

 過激主義、教条主義とは、この側面が著しくバランスを欠いて肥大化したものといってよく、その結果、自殺、他殺を問わず死が美化、正当化されたり、人間の命など、まさに“鴻毛(こうもう)の軽き”にまで貶(おとし)められてしまう。イデオロギーの世紀であった前世紀が、空前の殺戮の世紀でもあった所以(ゆえん)であります。

 それに対し、私の強調する人間主義とは、主義という言葉はつきますが、“イズム”の慣とは、ほとんど対蹠(たいしょ)的であります。人間主義の最大の特徴は、“イズム”のような規範、それも外的規範としてはたらくのではなく、あくまで、人間精神の自由で内発的な発動、主体的な判断を第一義とする点にあります。


【「世紀の空へ 人間主義の旗」第30回SGIの日記提言/聖教新聞 2005-01-26付】


“イズムの功罪”とは夏目漱石の言葉。この平和提言が発表されたのは、イラク暫定国民議会選挙の直前だった。先生の言葉は、大義のためとあらば武力の行使を辞さない全ての国家・グループ・人々に向けられている。


 あらゆるイデオロギーにイズムの功罪がつきまとう。“人間を従”とした瞬間から、主義やは変貌する。大義の美の下(もと)に人々は抑圧され、イデオロギーは足枷(あしかせ)となる。


 日顕宗は“宗教のための人間”を法華講員に強(し)いて、今、滅びつつある。一方、“人間のための宗教”を標榜した創価学会は世界から称賛され、隆々と発展している。


 日蓮法を人間の手に取り戻した我々に問われるのは、「社会から必要とされる宗教のあり方」だ。


 根ふかければ枝さかへ源遠ければ流長し(1180頁)


 個人にあっては信の深化が、組織にあっては幹部の成長が不可欠だ。そこに澱(よど)みが生じると、イズムの悪しき面が台頭する。


 人間は千差万別の顔を持つ。一人ひとりの違いを無視して、イデオロギーをもって矯正するような姿勢があれば、それは、纏足(てんそく)みたいなものだろう。更に、纏足の手法と目的を知れば、問題は一層、鮮明になる。


 昔の訓練は、大リーグボール養成ギプス型だった(笑)。針金をグルグル巻きにされた盆栽さながらだった。それでも、育ち、伸びゆく力があった。しかし、バブルの崩壊と、日顕による宗門問題によって時代は変わった。その先取りとして、創価ルネサンスという一大宗教運動が興ったのだ。


 我々が学んだことは、悪しき権威に対しては厳然と「ノー!」を突きつけ、徹底して一人を守る人間主義だった。我が組織に、自由な随自意の連帯をどこまで築くことができるか――これが今後、最大の課題となろう。


 西武グループの堤氏が連日、さらし者にされている。世界一の大富豪を嫉んだ情が、そのまま攻撃に転じたようながある。こうした村八分、あるいは女狩りさながらの視線は、更なる獲物を求めて、犯罪歴のある人間を冷たく見つめている。そして、今尚、家に帰ることのできないハンセン氏病患者が多数、存在する。


「創は易く、守成はし」――今更ながら、歴代会長への謝のを強くする。

2005-03-05

創価の母の頭に 幸福の花の冠を!/雨にも風にも 断じて負けるな


 あるのことである。

 どこかで聴いたように懐かしく、それでいて初めて聴くように新鮮な響きの歌を、妻が口ずさんでいた。


♪野に咲く花のように

      風に吹かれて

 野に咲く花のように

  人をさわやかにして……


「それは、何の歌だい?」

 私は尋ねた。

「あら、有な歌ですよ」

ダ・カーポ」という美しいハーモニーのご夫妻が歌わている「野に咲く花のように」(作詞・杉山政美、作曲・小林亜星)であった。

 妻は、微笑みを浮かべて、続きを歌ってくれた


♪野に咲く花のように

      雨にうたれて

 野に咲く花のように

 人をなごやかにして……


「いい歌だね。いじらしい庶民のが歌われているね」

 私の胸には、様々な連が広がっていった。


「野に咲く花」――歌詞では、具体的な花の前はあげられていない。

 それが、またいいのだろう。

 母子草(ははこぐさ)、春蘭(しゅんらん)、スミレ、菜の花、百合(ゆり)、秋桜(コスモス)……。

 人それぞれに、また住む土地それぞれに「野に咲く花」の多彩なイメージがある。

 北国の野山は、いまだ深雪に覆われている。その雪がようやくとけ出し、山麓にフキノトウや福寿草が顔をのぞかせると、「ああ春が来た!」と躍らせる友も多い。

 越前(えちぜん)スイセンは、日本海の荒波に臨む急斜面にも根を張り、烈風に耐え抜いて、開花の時を待つ。

「原爆で数十年は草木も生えない」といわれた広島、長崎の焦土に、いち早く花を咲かせて、人びとを勇気づけたのは夾竹桃(きょうちくとう)である。

 誰でも、自分のの中に、雨にも負けず、風にも負けず、たくましく朗らかに咲く「野の花」をもっているのではないだろうか。

 人が見ていようが、見ていまいが、「野の花」は、根を下ろしたその場所で、茎を伸ばし、葉を広げ、自分らしく可憐な花をつける。

「よくぞ、こんな所で」とするような、目立たぬ路傍に咲いている花もある。

 こうした花々に、私は幾たびとなく、カメラを向けてきた。その人知れぬ努力に、そっと拍手を送るいで、シャッターを切るのであった。


「野に咲く花――まるで、婦人部の歌だね」

 私が言うと、妻は深く頷いて、こう話してくれた

「ええ、目黒区の婦人部の方が、お手紙で教えてくださったんですよ」

 聞けば、その女は、わが関西創価学園の誉れある第一期生ではないか。

 彼女は、病気のお子さんを抱え、懸命に頑張ってきた。

 祈って祈って、戦って戦って、ほっとつく暇もない日々のなかで、この歌を知り、口ずさんできたのだという。


♪……時にはつらい人生も

 雨のちくもりで また晴れる

 そんな時こそ 野の花の

 けなげなを 知るのです


「けなげな」とは、「勇気」といえようか。人生は、一つ一つが戦いである。途中に何があろうと、必ず、幸福の花を咲かせゆく戦いだ。

 日本中、世界中、あの地でも、この国でも、健気に奮闘されている婦人部、女子部の尊き勝利の栄冠を、妻は、いつも目を潤(うる)ませて讃えながら、私に語り聞かせてくれる。


 以前、関西の兵庫で、少年時代に読んだ一詩を紹介したことがある。


 踏まれても

 踏まれても

 なお咲く

 タンポポの笑顔かな


 ここには、いかにしき日にあっても、なお明るい笑顔を忘れず、たくましく生き抜く庶民の姿がある。

 タンポポは、なぜ、踏まれても、踏まれても、負けないのだろうか。

 強さの秘密は、地中深くに伸ばした根っこだ。長いものだと、なんと地下1メートル以上にもなるという。

 人間も同じであろう。悪戦闘を耐え抜き、自身の人生の根っこを、何ものにも揺るがぬ深さまで張った人が、まことの勝利者だ。

「おお、勝利はうつくしい花です」

 文豪シラーが、あのジャンヌ・ダルクを描いた『オルレアンの乙女』の一節である。


 去る212日で、小説『新・人間革命』の連載が通算3000回を重ねた。

 この小説のヒロインもまた、庶民の女たちである。

 遠く異国の地で、望郷のにさいなまれ、海を見ては泣き暮らしていた女もいた。

 その女たちが、尊き使命に目覚め、自身の宿命転換に立ち上がって、世界広宣流布の誇り高きパイオニアへと、雄々しく生まれ変わったのである。

 世界で、そして日本で、創価の女たちは、病、事故、経済、家庭不和……たえまない現実の悩を一つ一つ乗り越えながら、「冬は必ず春となる」(1253頁)との御聖訓通り、勝利の劇を示してこられた。

 今、どれほど福徳に満ちあふれて、人生の総仕上げを飾っておられるか。

 反対に、この妙法流布の尊貴な女たちを愚弄し、しめた傲れる勢力が、跡形もなく消え去っていることは、ご存じの通りだ。

「過去現在の末法法華経の行者を軽賤する 王臣万民始めは 事なきやうにて終(つい)にほろびざるは候はず」(1190頁)

 この峻厳な御金言には、一つの例外もない。

 わが創価の母たちは、地位も財産ももない、いわゆる社会的には全く無の庶民であったといってよい。

 この女たちこそが、今日の偉大な創価学会を築いてくださったのだ!

 この女たちが幸せになるために、法はあるのだ!

 日蓮大聖人は、「法華経は女人成を手本として説かれたのである」(1311頁/趣)と仰せになった。

 一番、労してきた女が、一番、幸福な花々に包まれゆくことこそが、法の大法則であり、現実のと戦いゆく女の晴れ晴れとした「勝利の道」なのだ。


「色あせた

  虚像の人々

   見下ろして

  花咲く 我が道

   悔いなく生きゆけ」


 と詠(うた)った人がいる。

 野の花には、「虚栄」も「高慢」もない。「嫉妬」も「卑屈」もない。

桜梅桃李」の使命のままに生き抜いて、他の花を羨んだり、自らを卑下したりなどしないからだ。自分でなければ咲かせることのできない花を、自分らしく咲かせ切っていく誇りがあるからだ。

 どんなに可憐な野の花も決して、ひ弱ではない。

 弱いように見えて強い。

 風にも、雨にも負けない。

 同じように、「何があっても負けない!」というのが、私たちの合言葉だ。

 私の妻も、青春時代より、常に広宣流布の最前線で戦ってきたことを、最高の誇りとし、誉としている。

 昭和26年の7戸田先生のもと、男女青年部が結成された時、私は男子部の班長であり、妻もまた女子部の班長であった。

 その翌、新たに一人の女子部員が誕生した。この時、彼女の家に御本尊を安置するために訪問したのが、私の妻であった。

 妻の方が年下であったが、信では先輩である。親身に相談に乗り、励まし続けたようだ。その女子部員は大成長し、後に女子部長となり、さらに婦人部の最高幹部を立派に務め上げていった。

 あの歴史的な「二闘争」のさなか、青年部が戸田先生の前で、破邪顕正の研究発表会を行った。

 この時、妻は、女子部を代表して登壇した。

 そして、“戦後、特に新興宗教等がよく論じていた「霊魂論」がいかに誤っているか”を問われて、真剣に破折し、打ち破っていった。

「女子部が教学を根幹に、一段と強くなることこそ、広宣流布の希望の花である」と、戸田先生は笑顔で妻たちを見守っておられた。


アフリカ環境の母」ワンガリ・マータイ博士が、この218日、過密な日程のなか、わざわざ聖教新聞社を訪問してくださった。

「グリーンベルト運動」の創始者で、昨年、ノーベル平和賞を受賞された。「緑の闘士」である。

 創価大学のパン・アフリカン友好会の学生が、ケニアの歌「私たちの大地」で歓迎すると、共にリズムを取って歌う快活な博士であった。


♪…‥私たちの大地は

 女たちの大地

 ここに来て

 一緒に種を蒔(ま)き

 木を育てましょう


 かつて、博士の運動は迫害され、ご自身も幾たびとなく投獄された。過酷な拷問も受けている。

 そのなかで、3人のお子さん方を育て上げながら、貧困と環境破壊の悪循環を断ち切るために、勇敢に信を貫き通してこられた。

 博士が最初に植えられた7本の木は、真っ赤な炎のような花を咲かせる「火焔木(かえんぼく)」であったと伺った。

 一人の女に灯された勇気の炎は、この30年で、10万の人びとのに燃え広がっていった。わずか7本の木から始まった運動も、実に3000万本の広がりとなった。

 SGIが協力して制作した環境映画「静かなる革命」のなかで、博士は言われていた。

「人間は、様々な問題を、地球規模の大きな次元でとらえてしまうと、無力を覚えてしまうものです。しかし、身近なところから行動を起こしていくことで、力を発揮していくことができるのです」

 まさしく、わが婦人部・女子部の「草の根の連帯」に通ずる。

 だからこそ博士も、「人間」と「社会」、そして「自然」と「生命」を大切にする創価のと運動に、からの銘を表しておられた。

 博士は、「希望の哲学」を清々(すがすが)しく語っておられる。

「私たちは、自らの小さな行いが、物事を良い方向に変えていることを知っています。もし、この行いを、何百万倍にもすることができたなら、間違いなく世界を変えることができるのです」

 その通りとう。

「野に咲く花」のスクラムを、一輪また一輪、仲良く、朗らかに咲かせ、広げゆくことだ。そこにこそ、「女の世紀」の偉大な「静かなる革命」は、絢爛(けんらん)と成し遂げられていくからである。


 それは、創価学会が、いまだ小さく、わが師・戸田先生の事も行き詰まり、お金もない、人もいない、全く、どん底の時のことである。

 ふと、先生が、側にあった一輪の花を取り、私の胸にさしてださった。まるで“勲章”のように――。

 私がただ一人、死に物狂いで、師に仕え、戦い、お護りしている日々であった。

 先生は言われた。

労をかけて申し訳ない。大作は、本当によくやってくれているな」

 この“花の勲章”を見て、笑っている人もいた。

 だが私は、これは、「広宣流布の師匠」がくださった「広宣流布の勲章」だ、これ以上の栄誉はないとった。

 貧しきアパートに帰ると、私は、その一輪の花を御宝前に供え、謝の祈りを捧げた。

 現在も、私は胸中に、師の“花の勲章”を着け、あの時と同じ青年ので、戦い形けている。

 その“花の勲章”は今、世界各国からの23の光り輝く勲章に変わっていった。

 法では、「師匠は大地であり、弟子は草木である」(900頁/趣)と説かれる。さらにまた――

「弟子が咲かせた勝利の花は、必ず大地に還(かえ)り、師匠の福徳となる。そして、その師弟の大地から、また新たな勝利の花が咲き香る」という「報の道」を教えられている。

 その通りの人生を歩んできたことが、私と妻の誉れである。

 私ども夫婦の切なる願い。それは、“あまりにも健気(けなげ)な創価の女の皆様方の頭(こうべ)にいかなる宝冠の輝きも及ばぬ「幸福博士の花の冠」を被(かぶ)せて差し上げたい。さらにまた、「絶対勝利の花の冠」を、そして「常楽我浄の花の冠」を贈りたい”という一点である。


“野の花”の歌に始まったの語らい――

「今日もまた、新しい戦いですね」

「そうだ! 一番、大切な庶民の幸福と勝利のために!」

 妻の顔に、にっこり微笑みの花が咲いた。


 野の花も

   春だ 春だと

     立ち上がる


【「随筆 人間世紀の光」70/聖教新聞 2005-03-05】


※尚、S氏より5ヶ所にわたる誤字の指摘をして頂いた。より謝申し上げる。

2005-03-04

「くれた」は禁句


くれた


確認事項:禁句」に書いた通り、「くれた」という表現は禁句である。「くれた」は殆どの場合、随他である。


 人間は言葉に生きる動物である。言葉によっての疎通を図り、言葉でしかものを考えることができないのだから。されば、言葉は命である。が言葉と表れ、言葉がを方向づける。世の中が乱れる時、まず最初に言葉が乱れる。言葉の乱れは、モラルの乱れであり、の乱れともいえよう。


 聖教新聞に「くれた」という表記があり、何度も情を申し立て、聖教職員にも直接伝えてきたが直りそうな見込みは全くない。そこで、記事の中に「くれた」と書かれた場合、ここに列記し、警鐘としたい。




 尚、「」に関しては、投書した方を責めるものではなく、私の図はあくまでも、チェック段階で見逃している聖教職員に対する抗議であることをご了承願いたい。投書された方々は、文章を書くことに関しては素人なので、書き間違いということも十分考えられる。


2005-03-06


2005-03-06付「


 昨日付の投書にあった「近況を語ってくれました」は、未入会の友人への尊敬と謝を表現したもので問題ないとうが、今日付の「今までを開いてくれなかった方が立ち上がり」はまずい。を開かない人が悪者のようになってしまっている。を開く開かないは相手の自由だ。春になって咲かない花があったとしても、太陽や水が「咲いてくれなかった」とは言うまい。更に、我々が足繁く通っているのは、「を開いて下さい」とお願いしているわけではない。相手のを知り、共を呼び起こす対話は、むしろ、こちらから打って出て、相手のに風穴を開ける闘争だ。つまり、相手のを開かせることができたかどうかという、こちら側の問題である。「を開かなかった方」か、「を閉ざしていた方」でいいはずだ。


2005-04


『大白蓮華』の4号。117ページ「読者の広場」。「くれた」の連発。若いメンバーなので、“謙譲”の味も込められているのだろうが、どうも、スッキリしない。誤りとまでは言わないが、信の姿勢をきちっと打ち込んでおくべきだ。また、昨年、折伏した友人が、入会して1年を経過してないにも関わらず、創価班大学校に入ったのも疑問。

創造力こそ幸福の源泉


 そして、「子供達が、の奥底(おうてい)で最も欲しているのは何だとうか」とのSGI会長の問いに、「それは『幸福』である。子供は常に、あふれるばかりの愛情に包まれ、『安』の中にいることを欲している。もちろん、幸福の内容は年とともに変わっていく。“自転車”が幸福の原因となる年齢もあれば、“ボーイ(ガール)フレンド”が幸せの象徴となる年代もある。だが、生涯、変わることのない『幸せ』の源泉とは何か。それが『創造力』なのである」と強調。

「現代は、確かに数限りない『モノ』や『情報』があふれている。だが、そのためにかえって、子供達は、自分で考え、工夫し、作り出していく力を失いつつある。モノも情報も“与えられる”ことに慣れ、自ら『創造』し、『発見』することができなくなった。そこには、本当の喜びも幸せもない。

 大人になっても状況は同じである。いかなる分野であれ、価値ある仕事は、みずみずしい『創造』から生まれる。『創造』の泉が枯れてしまえば、そこには、何の進歩もないし、喜びもない。絶えず、自身を向上させ、新たな発を現実のものとしていく豊かな『創造力』こそ、生涯にわたる『幸せのカギ』にほかならない」と語った。


【ブライアン・ワイルドスミス氏 1988-11-08 東京聖教新聞社】


 ワイルドスミス氏は世界的な童話画家。キーピングやバーニンガムと並んで英国絵本の黄金期を築いた一人である。代表作の一つである『マザーグース』は1964年に出版されて以来、世界中の親子に愛され続けている。池田先生の童話の絵も8作品を手がけている。日本でも人気が高く、静岡県伊東市の伊豆高原には、「ワイルドスミス美術館」がある。


 対談が行われた当時、私が担当していた高等部のメンバーと学び合ったことも懐かしい。


 ワイルドスミス氏の言葉は、相対的幸福と絶対的幸福を示唆している。絵画を通して、世界中の子供と向き合っている氏ならではの言葉が光彩を放つ。


 子供は本来、あらゆるものをおもちゃにし得る存在だった。だが、欲しがってもいない玩具を与えられれば、子供の能力を閉ざす結果になりかねない。


 悲しいことに、東京では本当に外で遊ぶ子供の姿を見なくなった。を掛けようものなら、逃げ出されてしまう現実もある。


 昔の子供は、木登りをして、身体が鍛えられ、年長者が幼い子に手を貸し、普段はお目にかかれない眺望を手に入れた。かくれんぼや缶ケリで、ルールを守ることを学び、「夕焼け小焼け」を歌いながら家路についた。いわば、学校と家庭とは別の子供だけのコミュニティがあった。


 核家族化と少子化が子供社会を失わせた。進学・就職のために故郷を離れ、マイホームを建てた途端、単身赴任を命ぜられ、家族すらバラバラにされている社会の現状だ。学校から戻ってきた子供を迎えるお母さんの姿も、どんどん少なくなってきている。いつ、イジメられるかわからない学校生活はストレスまみれだろう。その子供を家で待っているのは、一方的にしゃべり続けるテレビか、物言わぬおもちゃである。そして、一つく暇もなく、管理されたスケジュールによって、疲れた足を引きずりながら塾に向かう。その姿は、残が日常化した企戦士さながら。


 更に今の子供社会は、携帯電話やゲームソフトによって、“持たざる者が不幸”というの貧しさを露呈している。


 知育玩具の開発に携わる福崎毅氏はこう語る。「人は物を作って発達してきたのに、今は消費するだけで創造がない。それが、子供をおかしくしている。理屈を教えるより、創造する喜びを教えないと」。


 ワイルドスミス氏は「創造力こそ幸福の源泉」と力強く語っている。創造とは、新しい価値を生み出すことである。祈りをもって、人生の目標に挑む学会員の人生は創造そのものだ。偉大なる人間革命は、創造の極致といっていいだろう。春三、新しい生命力を発揮しながら、会う人ごとに新たな価値を与えゆく対話を展開して参りたい。

2005-03-03

納得は確信を与え、独断は不安と不信を与える


“納得”――いかなる場合でも、これこそが力である。納得は確信を与え、独断は不安と不信を与える。納得はの交流を生み、押しつけは互いのを遮断させる。納得すれば、人は自ら行動を起こし、工夫を始める。たとえ正しいことでも、納得できない限り、やる気も出ないし、能力も十分に発揮できない。

また、指導者が安易に方針を変えることは、厳しく戒めるべきである。


文京・北・板橋区記合同支部長会(東京) 1988-11-11 創価文化会館


 言うべきことを言い切るのがリーダーの責務であるが、相手が納得しなければ無味だ。納得させることが、慈悲に通じる。


 相手を少しでも見下ろすようながあれば、それは対話ではない。自分の言い分を述べることに終始すれば、人は必ずを閉ざす。


 折伏にあって私が最も掛けているのは、「一緒に人生・生命について考えよう」という姿勢である。一方的にものを教えるような態度をとれば、聞き手が受け身になってしまうからだ。「この人から、自分も学んでゆこう」という謙虚さがあって、一対一の平等な関係が生まれる。対話は互いを触発し合い、高め合う共同作だ。


 組織にあっても同様である。打ち出しを徹底する際など、「上から言われたから、伝えているだけ」というような事務的な姿勢があれば、絶対に士気は高まらない。そもそも、発表する幹部が納得してないのだから(笑)。「組織で決めたことに従え」というのは、人間を無気力にし、隷属させる“イズムの罪”だ。


 執行会議で青年部が見を言おうものなら、ホリエモン状態になってしまう地域も、まだまだあることだろう(笑)。


「そうだ! やろう!」と一人ひとりが納得して全軍が立ち上がれば、予もできない力が発揮できる。何はともあれ、我が組織から形式を一掃しよう。

2005-03-02

社会から必要とされる宗教のあり方


 博士は更に、「宗教が社会にとって価値ある存在であり続けるためには、その宗教が持っている本質的な部分(教義・精神)の掘り下げとともに、時代の動向(時代)を鋭く見抜き、その時代に最も適した形で教えを説き、展開していく努力が要求される。

 時代はどんどん変化していくがゆえに、それができない宗教は形式化し、社会にとって無味で、かえって邪な存在になってしまう」と述べられている。

 宗教運動についての鋭い分析であり、私たちの広布への活動にあっても、しなければならない識見であるといえよう。


【第9回全国青年部幹部会 1988-10-29 創価文化会館


 こう語ったのは、デイル・M・ベセル博士(米国インターナショナル大学アジア・太平洋センター教授)。牧口先生についての研究もされている。ここで紹介した発言の前に、次のように語られている。


 宗教は本来、社会を活化し、新しい価値創造の活動を支える役割を持つべきであると私はっている。

 しかし、現実は、宗教は社会の新しい発展を促進するどころか、それを妨げる反動的な勢力となってきた。

 現代において、宗教本来の使命を果たしている宗教団体は極めてまれであり、そのまれな宗教運動が創価学会の運動です。私が創価学会を評価する最も大きな理由はそこにある。


 学会を称賛しながらも、更なる期待を寄せられている。


 つまり、“出来上がって”しまえば終わりということだ。完成してしまえば、後は滅びる運命にある。ここに“無上道”という卓抜したが求められよう。現実に即していえば、“進まざるは退転”ということである。


 ベセル博士の見は警鐘の余韻をはらんで厳しい。の深化と、時代や社会への対応力を欠いた途端、宗教は形骸化するとの指摘。


 今は、偉大な師匠がいるからいい。だが、その後を一体、誰が引き継いでいくのか――。挙手を求めたい(笑)。


 いつも、ありきたりな話をしている幹部は、ベセル博士から、「邪な存在」との烙印を押されてしまうだろう。創価とは価値創造の異である。そうであれば、常に清新な吹きをもって、全く新しい視点から御書を講じ、スピーチを咀嚼してゆく義務と責任が、幹部に求められる。


 これは頭のよしあしによって左右されるものではない。信が浅いか深いかという問題だ。


“変化への対応”とは、時を知り、民衆の機根を知ることである。そうはいっても、所詮、一人のの変化を知ることに尽きる。つまり内外にわたって、万人を受け入れることのできる組織になっているかどうか。そして、あらゆる悩みに対応できるリーダーがいるかどうか。


 ベセル博士が投げかけているのは、「あなたの地区はどうですか?」という問いかけに他ならない。


 日日につより給へすこしもたゆむあらばたよりをうべし(1190頁)

2005-03-01

人の心を知る同苦の指導者たれ


 一見、何も労などないように明るく生きている人もいる。だが、の底には、人知れぬ悲しみや失を抱いている場合が、あまりにも多い。そうした人々の悩を、どこまで理解し、我がの“重荷”“痛み”として同していけるか。ここに民衆と共に語り、歩みゆく指導者として深さ、大きさが凝縮しているといえまいか。


【第9回全国青年部幹部会 1988-10-29 創価文化会館


人生の現実」と重なる指導。私が好きな山本周五郎の短篇小説の本領もここにある。


 人情の機微よりも、もっと深い何か。他者へのが同となった時、生命と生命は触れ合って一つになる。


 同とは、深き人生を歩んだ人のみが知る世界だ。そうであればこそ、リーダーの境涯によって、同できるレベルも異なる。また、単なる過去の経験や、知識だけでは同することができない。例えば、病気を克服した体験があっても、当時のしみを忘れている人もいる。同できる境涯の人とは、たとえ、何年経とうが、何十年経とうが、妙法と同志への謝を失わない人である。


 私のように20年も訓練を受けると、ある程度のレベルの話ができるようになる。個人指導にしても、大体のパターンがわかるし、何にも増して、先生の膨大な指導が“知識”として蓄積されている。会合で皆を笑わせることだって、さほどしくはないし、打ち出しを発表する際の動機づけも容易にできる。これを“策”とは申すなり(笑)。策は信に非ず。祈りなく、成長なく、闘争なき活動を“組織で泳ぐ”というのだ。口先だけの指導・激励なんかで、同できるはずがない。


 今、現実に戦っているかどうかがリーダーの最大の課題である。闘争を失った途端、「身はをちねどもをち」(1181頁)てゆくことを忘れまい。


 指導者に求められる力とは、同できる力であり、祈る力であり、悩める人を救う力に他ならない。


 日蓮が弟子檀那別の才覚無益なり(803頁)




 今日付の新聞に東京荒川の記事あり。旧第6総合本部の同志として、一方(ひとかた)ならぬ世話になった人の前が二つ。際立った光を放って私の目に飛び込んできた。