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2005-04-29

ソクラテス亡き後、弟子プラトンが立ち上がる


 判決後、ソクラテス死刑の執行までに、約1ヶの余裕があった。

 その間、友人や弟子たちの手引きで、確実に亡命できる用が整えられていた。しかし、ソクラテスは申し出を断り、牢にとどまる。

 そして、嘆き悲しむ友人たちをなだめながら、身を清めた後、従容(しょうよう)として毒杯を仰ぎ、死んでいった。いつもと変わらぬ平然たる様子であったという。

 このソクラテスの「死」については、論じるべきことが多くあるが、ともあれ、彼はいかなる理由にせよ、国法を犯すことを潔しとしなかった。不正を正して自らの魂を汚(けが)すよりも、不正を雄々しく受け切っていく道を選んだ。

「不正を受ける者は、不正を働く者よりも幸福である」

「善き人には、生きているときも、死んでからも、悪しきことは一つもない」(『ソクラテスの弁明』田中訳)。これが彼の信であった。

 いかに迫害を受けようとも、迫害する者よりは幸福である。なぜなら、生命を傷つけ汚(けが)しているのは彼らの方だから。そして、生命が強く、清らかでありさえすれば、生きている時も、死後も、くめどもつきぬ本当の幸を味わっていけるのだ――これが、ソクラテスの考えであり、澄み切った境であった。

 こうしてソクラテスは死んだ。「正義の人」は社会の柱である。その柱を自ら倒したアテネは、滅亡への坂道を、更に速度を速めつつ、転がり落ちていった。

 ソクラテス死後61年、プラトンの死後わずか9年にして、マケドニアに平定され、長き栄光の歴史を閉じている。

 さて、ソクラテス死刑の判決後、陪審員たちに言った。

「私を有罪とした諸君よ、諸君に私は予言をしたい」「私の死後直ちに諸君には復讐が、しかも諸君が私を死罪にすることによってもたらした復讐よりも、誓ってはるかに苛烈な復讐がもたらされるだろう」(プラトンソクラテスの弁明』。山本光雄『プラトン』から)。

 彼が言うのは、「もっと若い人々」すなわち彼の弟子たちが、師ソクラテス以上の激しさで、彼らに向かって“真理の戦”を挑み、彼らを追いつめていくであろう。私を倒しても、弟子たちの攻撃から逃げることはできない、という断言である。

 ソクラテスの言葉通り、彼の死後には愛弟子プラトンが遺(のこ)されていた。この時、プラトンは28歳。

 法廷で予言するソクラテスの胸中には、信頼する若きプラトンの英姿が鮮やかに躍動していたにちがいないと私はう。

 彼ならばやってくれるだろう。私のとして、断じて目的を果たしてくれる。ソクラテスはそれを期待し、確信していた。

 信じきれる弟子をもった師は幸せである。牧口先生も、戸田先生がおられるゆえに幸福であられた。戸田先生もまた、私がいるゆえに万事、安しきっておられた。その先生のを私は深く知っているつもりである。

 プラトンにとって、ソクラテスは20歳の時から、足かけ9年仕えた師である。プラトンの20代はソクラテスと共にあったといってよい。

 その死は、あまりにも大きな衝撃であった。プラトン労のあまり、一時は病気に倒れるほどであったという。

 しかし、涙の中から、彼は男らしく立ち上がった。

“師を殺した社会の悪を、自分は永遠に許さない!”

“必ず師の正義を万人に示し、師の真実を証明しきってみせる!”と。

 以後、80歳で死ぬまでの約50年間、プラトンは、ただこの一のままに戦い抜いた。

 元々、プラトン政治家を志していた。当時の有力者の子弟にとって、それが普通の人生コースであった。

 しかし、ソクラテス事件によって、政治と世間の正体を見たプラトンは、潔くその志望をひとまず捨てる。そして、真に正しき政治への追求を始めたのである。

「最も正しき人」を抹殺した悪しき政治権力への絶望と怒り。これが彼の永遠の出発点となった。

 この怒りは一生涯、消えることがなかった。最後までこのことに触れるたび、彼は激高(げっこう)した。身を打ち震わせ、とても冷静ではいられなかった。

 50年間、悪への怒りを燃やし続けたプラトン。その徹底した執は、彼の人生を偉大なる彫像のごとく、見事に結晶させていった。

「政治的生き方」と「哲学的生き方」は、その本質において、真っ向から対立する。

 政治は「弁論術」、すなわち「うまい話」によって「多数」の人を無知のまま、動かそうとする。

 哲学は「対話」によって、「一人ひとり」をから納得させようとする。

 政治は「人にどう見られるか」を気に病(や)む。

 哲学は「自分が実際にどうあるか」にを砕く。

 政治は、青年を「操作」するために、真実から目をそらさせようとする。

 哲学は、青年を「育成」するために、真理に目覚めさせようと努力する。

 こうした対立が続く限り、哲学する「正義の人」は、悪しき政治の権力に、永遠に圧迫される運命にあろう。

 ソクラテス死刑はその象徴であった。

 では、この世に正義を実現することは不可能なのか――。プラトンは遍歴を繰り返しつつ、探求の末にこう結論する。

「正しく真実に哲学する者が政治的支配の地位につくか、現に権力を持っている人々が、真実に哲学するようになるか、いずれかが実現しないかぎりは、人類の不幸はやむことがないだろう」(『国家』)

 有な「哲人政治」の理である。ある味で「立正安国」のにも通ずる結論であった。

「政治的権力と哲学的精神の一体化」――。プラトンにとって、この理を抱き、実現することが、“ソクラテスの予言”の実践となった。

「権力に殺された哲学者」の弟子として、社会を改革し、「哲学が権力をリードする」国をつくろうとしたのである。


【第12回全国青年部幹部会 1989-02-14 創価文化会館


 人間にとって最重要の問題は“死”である。これは、万人が避けることができない問題だ。


 映画やドラマで、殺されそうになるや否や、みっともないまでに命乞いをする場面がよくある。人間の弱さがクローズアップされた時、観客はを飲んで、「自分だったら、どうなるか?」と考えざるを得なくなる。ややあって、「それも致し方ないか」などとの中を臆病風が吹き抜ける。それほど、命は大事なものなのだ。命あっての物種(ものだね)。


 人は、死をも超越した信を目の当たりにした時、崇高なに駆られ、生き方を改めざるを得なくなる。ソクラテス然(しか)り、吉田松陰また然り、である。死して鮮烈に輝きわたる魂は、永遠なるもののために生きる道を赫々と照らす。


 ソクラテスは、プラトンからアリストテレスに引き継がれ、アリストテレスから教育を受けたアレキサンダー大王が、ギリシャ文化とオリエント文化を融合したヘレニズム文化を生んだ。


 我が学会にあっては、牧口先生獄死を経て、慟哭(どうこく)の中から、戸田先生が戦後の焼け野原に一人立ち上がられた。


 戸田先生が常々言われていた「一人の青年が命を捨てれば、広宣流布はできる」との言葉の元もここにあると信ずる。


 我等の師匠は晩年に至っても尚、身体を張って命懸けの大闘争を続けておられる。本気で、広宣流布のために戦う同志であれば、容易に理解できよう。腰掛け程度の信だと、ここがわからない。


 師は、いかなる犠牲を惜しむことなく、命を削るようないで、弟子に信の焔(ほのお)を分け与えようとされている。我々は、しっかりと信の眼を開いて、師の姿を生命に焼き付け、この師に相応(ふさわ)しい弟子であらねばなるまい。

2005-04-28

公明党元委員長の矢野氏が謝罪


『文藝春秋』(93、94年)掲載の手記をめぐって


矢野氏“私の間違いでした”“当時は理的におかしかった”


杉山●関西出身の議員OBといえば、元公明党委員長の矢野絢也氏がいる。その矢野氏が最近、改めて支持者に「深くお詫びいたします」と、お詫びした。


弓谷●僕も西口総関西長、藤原関西長から聞いた。10年以上前のことだけれども、矢野氏は『文藝春秋』(93年10号〜12号、94年5号〜8号)に手記を書いた。この中に、われわれ青年部としては断じて見すごせない間違いが、いくつもあった。


森井●その通りだ。たとえば矢野氏は、これまで“公明党学会は政教一致でも何でもない”と明言してきた。ところが、この手記には“学会と公明党は政教一致といわれても致し方ない部分がある”等とあった。


竹村●なぜだ! 矛盾しているじゃないか。


塩田●結局、この文言が引き金となって、何人もの国会議員が国会で学会を誹謗し、あろうことか「喚問、喚問」と大騒ぎする事態になった。


熊谷●ふざけるな! 完全に宗教弾圧じゃないか。


弓谷●その通りだ。憲法は「信教の自由」「結社の自由」「政治参加の自由」等を明確に保障している。我々は、それに基づいて、正々堂々と国民の権利を行使している。


森井●その、どこが“政教一致”だ。憲法違反の人権侵害じゃないか!


塩田●そもそも「宗教は政治の基盤」だ。「民主主義の柱」だ。世界の偉大な政治家が、明快に結論している。


竹村●かのガンジーは「私の行動は、政治も、その他のすべての行動も、私の宗教から発しているのだ」と叫んだ。


谷中●アメリカの第16代大統領リンカーンも「私は宗教の公然たる敵、または、宗教を嘲笑する者を、公職に推す気には到底なれない」と明言しています。


熊谷●信仰者が政治に、関わることは、まったく正しい。いや、信仰者の、重大な社会的使命であり、義務だ。政治参加を避け、社会から日をそらすなど、真の宗教とは言えない。宗教者の堕落じゃないか。


竹村●それを、何が“政教一致”だ!


弓谷●まったくバカバカしい限りだ。学会と公明党は明確に「政教分離」している。歴代の政府見解も完全に一貫している。


杉山●だいたい矢野氏本人が、そう言ってきたんだろう(笑い)。


手記が引き金に


塩田●非道な喚問要求をしたのは、自民党の下稲葉耕吉参議院議員(当時)だ。平成5年108日、同6年119日、617日の計3回にわたって、国会質問で矢野手記を振りかざして喚問を要求してきた。


熊谷●まさに悪辣きわまる宗教弾圧だった。関西の青年部は絶対に忘れない!


森井●そのほか同6年524日の衆院予算委員会でも、自民党の代議士が同じ手記を使って学会を中傷。


竹村●さらに同7年119日には、衆院の特別委員会で共産党の正森成二議員が、続く同28日にも、同党の橋本敦議員が参院特別委員会で学会を中傷した。


熊谷●そして同年124日の参院特別委員会では、共産党の有働正治議員が、やはり手記を取り上げて攻撃した。


森井●結局、2年余りで、6人もの国会議員が、計8回にわたって宗教弾圧の国会質問を行った。全て矢野手記が原因だった。


弓谷●西口副理事長、藤原副会長によると、今回、矢野氏は、手記の内容と、それが及ぼした影響について「結果的には私の責任です」「ご迷惑をおかけしたのは事実ですから、深く深くお詫び申し上げます」と改めて謝った。


杉山●さらにまた“私の間違いでした”“当時は理的に、おかしかった”と猛省していた、とのことだ


塩田●当然だ。


弓谷●ただし、この手記の内容は、その後、単行本化されたときに、かなり問題個所が修正された。また矢野氏によれば、単行本自体も、すでに絶版になっているという話だ。


熊谷●これまた当然の処置だ。デマを野放しにしておいたら、どんどんウソが広がっていくだけだ。


聖教新聞 2005-04-28付】

ソクラテスの弁明


 さて、ソクラテス裁判の模様は、弟子プラトンの書いた『ソクラテスの弁明』に詳しい。

 しかし、その「弁明」は、通常の自己弁護とは全く違っていた。

 彼は、裁判権をもつ500人(501人の説も)の陪審員と聴衆を前に、堂々と所信を述べる。裁判を、自分に有利に運ぼうとする気配はいささかもなかった。

 まず、投票の結果、わずかの差で「有罪」が決まる。当時の裁判では、次は刑の種類を決める番である。「ソクラテスよ、お前はどんな扱いが自分にふさわしいとうか」。彼らは問うた。

 ここで、ソクラテスがおとなしく有罪を認め、せめて死刑以外の刑にしてほしいと頼めば、それは十分可能であった。

 半数近くが無罪に投票していることからも、そのことは明らかである。

 ところが、ソクラテスは有罪を認めるどころか、「自分にふさわしいのは『最高の国賓的待遇』である」と主張する。

 あまりにも誇りに満ちた態度であった。死刑にされることなど、微塵も恐れていない。

 陪審員たちの証は悪化した。「おとなしく身を屈すれば、手を加えてやるものを……」。これが彼らのだった。

 そして、ソクラテスを「有罪」とした時よりも圧倒的な多数で「死刑」が確定した。

 つまり、始めは「無罪」に、次は一転「死刑」に投票した者が数多くいた計算になる。このように、明確な基準などない、あまりにも情に左右された裁判であった。

 おとなしく妥協していれば、ソクラテスは無事であった。彼も、誰よりそのことは承知していた。

 しかし、彼は信を曲げない。使命の前に生命を投げ出している彼を“おとなしくさせる”ことなど、誰にもできなかった。

 陪審員たちに向かってソクラテスは言い放つ。

 ――諸君が私を死刑にすれば、損害をうけるのは私ではない。諸君のほうである。

 ――私が今、守ろうとするのは、私自身ではない。断じてそうではない。私が守ろうとするのは、むしろ諸君なのだ。

 何という誇り高い態度であろう。これが“被告人”の口から出た言葉だと、誰が信じられるだろうか。彼には自己の重大な使命と立場への崇高なまでの確信があった。

 アテネの市民は、彼らがソクラテスを裁いているつもりだった。しかし、私はう。裁かれていたのは、反対に彼らだったのである。

 彼らがソクラテスを、どう扱うか。本人が言うように「国の宝」として遇するか、それとも「死刑」か。

 この哲学者への態度いかんが、アテネの運命を決定する。

 試されていたのは、市民の方であった。


【第12回全国青年部幹部会 1989-02-14 創価文化会館


 ソクラテスの弁明は、単なる弁解ではなかった。自己正当化することを拒絶し、民の眼(まなこ)を開かしめようと堂々たる主張を貫いた。ソクラテス流の国主諌暁であり、立正安国といえよう。


 いつの世にあっても、賢者を迫害するのは顛倒(てんとう)した社会である。善には悪の烙印(らくいん)が押され、悪の勢力が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)する。


 善と悪とは無始よりの左右の法なり(997頁)


 善なる人は、社会を映し出す鏡の存在である。五濁にまみれた人々は、邪悪な像力を逞しくして、顔を歪めて罵り続ける。だが、それは取りも直さず、批判する人々のどす黒いの現われに他ならない。


 学会員は半世紀も前から、宗教的信条に則って政治に参加してきた。これに恐れをなした政治家どもは、徹底した学会批判を繰り返した。国会で内閣法制局長官が、「学会の政治参加は合憲」と数度にわたって明言したにも関わらず、今でも、“政教一致”と狂ったように噛み付く輩が多い。


 その挙げ句の果てに、政治不信を招き、政治離れを一気に加速させた。自分に投票しないという理由だけで、罪もない人々の政治参加を否定するのだから、当然の帰結といえよう。


 学会に対する理解の輪は、徐々に広がっているといえるが、それでも、まだ満足できる状況とは程遠い。黙っていれば何も変わらない。死を前にして、堂々と正義を叫んだソクラテスの如く、勇気をもって偉大なる言論戦を展開して参りたい。

2005-04-26

閻浮提中御書(師子王御書)

  • 1589頁

背景と大


 本抄は、前後が欠けているため、御執筆の場所も、また、対告衆(たいごうしゅ)も不詳ですが、内容から推察して、日蓮大聖人の身延入山後、弘安元年(1278)の御述作とされている。

「閻浮提中……」の書き出しで始まっているところから「閻浮提中御書」と呼ばれ、別を「師子王御書」ともいう。

 本抄では、閻浮提(全世界)に起こっている災禍の原因は、人々が正法に背いていることにあると、法華経の経文等を引いて示されている。

 特に、法華経を誹謗した真言宗の高僧や、それを用いた国主の受けたの現証を挙げられている。

 後半では、弟子門下に対して、いかなる迫害にも屈せず、不惜身命の信を奮い起こしていくよう励まされている。

 そして、立正安国論予言的中をもって「此れ法華経の御力なり」と述べ、三世を知る聖人としての立場を示されている。


聖教新聞 2005-04-26付】

2005-04-24

ソクラテスの叫び


 ソクラテスは法廷において、いつもと変わらぬ「信」を堂々と主張した。

 彼は「君よ! 君は恥ずかしくないのか」と叫ぶ。

「世にもすぐれた人よ、君は、アテナイという、知力においても武力においても最も評判の高い偉大な国都(ポリス)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことばかりに気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても慮や真実のことは気にかけず、魂(いのち)をできるだけすぐれたものにするということに気もつかわず配もしていないとは」(『ソクラテスの弁明』田中美知太郎訳)

 彼の叫びは、聴き入る人々のの奥底(おうてい)を揺り動かした。それは「真実」の叫びであったからである。

 彼の主張の核は“何よりも魂を大切にせよ。人間にとって魂こそが最も大切である”との一点にあった。

 大聖人は「ただこそ大切なれ」(1192頁)と仰せである。ソクラテスの言葉も法の一分に通じるものがあるとはいえまいか。

 そして、「魂」「生命」という最も根本をおろそかにし、他のつまらないことばかりを大事にしている人々を、彼は「汝自身」を知らない「無知」の人間と呼んだ。

 自らの「無知」をあからさまに指摘された人々は怒った。しかし、ソクラテスは、自らの「信」のままに生き、世間に迎合も屈服もすることなく、「信」によって死んでいくのである。


【第12回全国青年部幹部会 1989-02-14 創価文化会館


 第12回全国青年部幹部会の指導は、後継を乗るのであれば、必ずマスターしておかねばならぬ指導の一つ。


 釈尊と同様、ソクラテス自身が記したものは何一つ存在せず、現代に伝えられているものは全て弟子のプラトンが記したもの。


 ソクラテスの叫びは、吉川英治が裕福な青年に語った言葉と共鳴する。


 君は不幸だ。早くから、おいしいものを食べすぎ、美しいものを見すぎているということは、こんな不幸はない。喜びを喜びとしてじるが薄れていくということは、青年として気の毒なことだ。


【『吉川英治とわたし 復刻版吉川英治全集報』(講談社:絶版)】


 自分の求める幸福が、単なる享楽や虚栄となった時、人は堕落の坂道を転げ落ちる。欲望の囁きに負けた瞬間に、師匠への誓いを裏切ることになる。貪欲なまでに理を追求し、自分を痛めつけるほどの闘争がなければ、人間革命の前進はない。


 地獄おそるべし炎を以て家とす、餓鬼悲むべし飢渇にうへて子を食ふ、修羅は闘諍なり畜生は残害とて互に殺しあふ、紅蓮(ぐれん)地獄と申すはくれなゐのはちすとよむ、其の故は余りに寒に・つめられてこごむ間せなかわれて・肉の出でたるが紅の蓮に似たるなり、況や大紅蓮をや、かかる悪所にゆけば王位・将軍も物ならず・獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず、此の時は争か利・我慢偏執有るべきや(1439頁)


 紅蓮地獄とは八寒地獄の一つ。“紅蓮の炎”という言葉があるため、熱い地獄いきや、さにあらず。あまりの寒さに責められて背中の肉が裂け、あたかも紅色の蓮の花が開いたように見えるところからこのがある。


 死して後、因果の理法に照らし、自己の一生を総括する時、欲望に突き動かされた因は、厳しき果となって裁かれる。


 今日は424日。あの悪夢の如き会長勇退の日から26年が経った。私は、私を含めた全学会員に叫びたい。


 君よ! 君は恥ずかしくないのか!

 いつまで、師匠の激励に甘んじていれば気が済むのだ!

 老いたる師匠に、いつまで陣頭指揮を執らせるのだ!

2005-04-23

デマの語源とスキャンダル


 アテネでも、低劣な人物が社会にはびこった。その代表が民衆扇動家(デマゴゴス)である。「デマゴゴス」とは、デマの語源となった言葉であるが、文字通り、彼らはデマを流しては、有能な人物の失脚を図った。立派な行為を見れば嘲笑し、美しき友情と信頼があれば破壊する。彼らは、こうした悪の行為に躍起となった。そして、人の乱れとスキに乗じて、自分たちの野を実現しようとした。

 彼らが好んで使った悪辣(あくらつ)な手段が、スキャンダル(醜聞)の語源となった「スカンダロン」である。これは、本来、「罠」を味した。

 民衆扇動家は、敵を陥れるために、その「罠」を用いた。しかし、結局それは、民主社会そのものをつまずかせる「罠」となった。

 スキャンダルに必要な力となるのは、イメージの力である。事実とは無関係に低俗なイメージのみを作り上げて、大衆の喜びそうなスキャンダルを捏造(ねつぞう)していく。

 アテネの作家アリストファネスは、ソクラテスを登場させた喜劇『雲』を上演した。そこに描かれたソクラテスは、実際とは似ても似つかぬ、うさん臭い「邪教徒」であり、若者をたぶらかす「詭弁家(ソフィスト)」の親分であった。

寸分も事実を物語らぬ完全な「虚像」。大衆はこの偽りの劇を喜び、歓を送った。

 イメージの力は怖い。上演されたソクラテスの歪んだイメージは、アテネ市民の頭脳に染み込んでしまった。

 ソクラテスへの告訴は、それから24年後。だが、その訴えの理由は、前にも述べたように、劇と同じ“国家の神々を認めず、青年をたぶらかす”であった。この劇上演の影響の大きさを、まざまざと見るいがする。

 アテネ市民が、ソクラテスを攻撃せずにはいられなかった本当の原因とは何であったか。決して「虚像」のみに踊らされたばかりではなかろう。

 むしろ、彼の巨大な「実像」を、無識にせよ、知っていたところに、その真因があったのではないか。妬みの炎は、「ギリシャ第一の知者」という「実像」にこそ燃え盛ったのである。

「嫉妬深い人間は、自ら真実の徳をめざして努力するよりも、人を中傷するのが、相手を凌駕(りょうが)する道だと考える」(プラトン『法律』)の言葉通りであった。


【第12回全国青年部幹部会 1989-02-14 創価文化会館


 デマは、この世に産み落とされた時からスキャンダルと双生児だった。目障(めざわ)りとなれば、どんな手を使っても失脚させようとする連中が垂れ流す嘘と、下劣な風聞を喜ぶ大衆のどす黒い欲望が手を結んだ時、デマは最大限に効果を発揮する。


 まして、メディアが発達した現代において、一片のデマ情報が、ある個人や団体を抹殺するのは極めて容易なことだ。更に最近では、事件の被害者が、報道被害しむケースも多い。以下に紹介するのは、奈良県で起きた幼女殺害事件の被害者の両親による談話――


 私達は娘を失った悲しみ・無さ、小林被告への怒りはもちろんのことですが、事件当初のカメラのフラッシュやヘリコプターの旋回音、新聞記事や投函のあった手紙の内容、取材時の空き缶や煙草のぽい捨てのマナーの悪さ等、私達はマスコミに対する不信を拭(ぬぐ)いさることは出来ません。

 今回初公判が行われますが、私達にとっては一つの節目というよりも起訴され、判決が下されるまでの通過点とっておりますし、事件を風化させない為にも地域・学校をはじめ多くの皆様が安・安全への取り組みを進めており、決して誰も忘れることはありません。

 私達の気持ち、小林被告に対するいはコメントいたしました気持ちと変わっておりません。私達の境をご理解頂き、取材活動を控えて頂ければとっております。

 また、私達は報道機関からの、直接の手紙の投函等に精神的痛を受けております。今後につきましては、奈良県警察本部県民サービス課を通して頂けます様お願い申し上げます。尚、コメントとして取り扱われるのであれば、全文を載せて頂けますようお願い致します。

平成17年411日


【毎日新聞 2005-04-18付夕刊】


 メディア規制法に反対する連中の振る舞いがよく窺える。事件や自殺が起こる度に、個人の情報を散々垂れ流すことに、どれほどの味があるというのか? 企間の買収劇を、自分達で勝手に騒ぎ立てておいて、「世間を騒がせた」と書くことなど飯前だ。一旦、“悪”の烙印を押されるや否や、マスコミは一斉に叩き出す。村八分の論理は、現代社会でも大手を振って歩いている。子供のイジメ問題を論じる前に手をつけないといけないことは山ほどあるだろう。


 創価学会ほどメディアから叩かれた団体はない。しかも、一過のものではなく、数十年の長きにわたってデマを流され続けてきた。その中で、学会は発展に次ぐ発展を勝ち取り、着実に社会で信頼を勝ち取ってきた。それは、どんな時代であろうとも本物の弟子達が、学会の真実を語り、叫び抜いてきたからに他ならない。そして、我等が師匠である池田先生が、その知と人間とによって、世界中の識者から注目され、賞讃されてきたことが大いなる追い風となったことは言うまでもない。


 明治学院大学法学部長の川上和久氏が、こう書いている。


 出版社系週刊誌にはもともと「毒」があり、「牙」がある。それは、ある味で週刊誌に不可欠な要素である。人畜無害な報道ばかりをしていたら、権力批判という役割は果たせないからだ。ただ、現在の週刊誌は、その毒・牙を一般市民に向けてしまうことが多々あって、それはけっして許されるべきではない。一市民にすぎない白山信之氏を情報操作によって人権侵害した『週刊新潮』のやり口を繰り返させてはならない。

 創価学会について週刊誌による情報操作がなされ、多くの人々が誤解を抱いたままであっても、学会員以外にとってはなんの実害もない、とう向きもあるかもしれない。たしあに、信平訴訟にせよ、日本の行方を直接左右するような出来事ではない。

 しかし私は、あのような明らかな虚偽の記事がまかり通ること自体を恐ろしいとう。メディアが平気で嘘を書ける社会は、とりも直さず「人々が情報操作されやすい社会」であるからだ。


【『潮』2005-04号】


 デマは、自由と民主主義にとっての自殺行為だ。デマを流し、デマを鵜呑みにする人々は、他人の権利を侵害することによって、万人の権利を踏みにじっていることを知るべきだ。


 数千年の歴史を経て、ソクラテスは残ったが、民衆扇動家のは見る影もない。人類史の汚点として、わずかな痕跡を残しているだけだ。歴史の風雪に耐えて残るのは真実のみであることを確信する。


 明日は、会長勇退から26年目。

2005-04-16

一般紙も「逃げ遅れて焼死」と報道


 午後十時半ごろ、大坊の対面所裏から出火した火事は、対面所、大奥管長室)、書院、客殿、六壷、米蔵等を全焼し、十八日午前四時前に、ようやく鎮火した。この火事で管長鈴木日恭師(77)は逃げ遅れて焼死。


【毎日新聞 昭和20年619日付】


【卞氏】

2005-04-15

鈴木日恭、焼死の経緯


 聖人は横死せず(神国王御書


 日恭が逃げ遅れた理由は、下腹部の内臓が痛む持病を持ち足腰が弱かったにもかかわらず、大奥の2階住まいを好み、隠尊の堀日亨上人からいくら注されても、一向に1階で生活しようとしなかったためであった。実際、火事の当日、大奥の1階にいた所化は罹災を免れている。


経緯


 1.日恭は当時、が悪くなり、ふだんは白糸の滝近くの上井出地区にある寿命寺(当時の住職・伊藤達道の妻は日恭法主の姪であった)に逗留して、その近くにあった戦車学校の軍医に治療をうけていたのに、この日に限ってわざわざ登山した。


 2.ある有力信徒が登山するとの報があって、無理を押しての登山であったが、その信徒は急用のため来なかった。


 3.上井出から迎えが来たにもかかわらず、この日に限ってそれを断り大奥に泊まった。


 4.当時、大石寺には、なかば強制的に日本に連れてこられ開墾や農耕に従事させられた義勇軍の農工隊が駐留していたが、日本人将校たちはその農工兵たちに脱走の恐れがあるからといって、消火に協力させなかった。


 5.日本人将校たちは農工兵たちが脱走しないように見張りをしていて消火活動しなかった。


 6.大石寺の門前に消防自動車があったが故障のため動かなかった。


 7.上井出から駆けつけた戦車学校の消防自動車はガソリンを忘れたため役に立たなかった。


 8.富士宮の消防署はいち早く出動準備を整えていたがあいにく署長が不在で命令を受けなかった。


昭和23年57日付『宗報』


 一信徒の「客殿建立と燒失した信建立」と題した文であるが、正規の日蓮正宗機関紙に掲載されている。


 日本敗戰は正に我が宗門の敗戰であつた。今を去る昭和廿年大客殿大書院六壺の燒失は、我等僧俗の懈怠謗法罪たる事は遺憾ながら諸賢と共に確認せざるを得ないのである。

 敗戰當時を今茲に回顧して見れば、宗祖の御訓戒に悉く背き、國家諫暁の重責を果たしたとは言へない。

 軍の農耕隊の一團は客殿書院を占領し、我が清浄なる大道場を踏みちらし、殊に燒失の前日悪鬼の住家たる大麻の社殿を書院に祭りこんだ事は、農耕隊錬成團の仕とは云へ、開山日興上人以來未だ見ざる一大汚点である。

 今茲に述べる迄もなく「謗法を見て呵折し駈遺せずんば是佛法の怨なるべし」の宗祖の御訓戒は僧俗一同の身骨に徹してゐるとふ「臆病にては叶ふべからず」の御訓戒を、正法護持にも折伏にも無視するやうな事になれば信の燒失、懈怠謗法となりて客殿書院の大伽藍も亦、一の夢として消える事を覺悟しなければならないのである。


餅】

2005-04-14

青年は“生命の王者”


 青年は“青年である”というだけで、すでに“生命の王者”である。総理大臣や代議士より、また、博士やいかなる富豪より、何百、何千倍もの人生の価値と未来を持つ。

 諸君を見ると、私には希望がわく。勇気が出る。未来が洋々と広がり、明るさをじる。

 私も、青春時代、戸田先生のもとに馳せ参じ、20代の日々を懸命に生きた。悔いなき我が法戦の歴史を、存分に綴ったつもりである。30代も、40代も、そして、50代も懸命に生き、戦い、広宣流布の道をひたすらに前進してきた。そこには、何の悔いもない。

 どうか諸君も、悔いなき青春であっていただきたい。取り返しのつかぬ不幸への堕落の青春を絶対に生きてはならない。諸君のみならず、家族、一族の永遠の繁栄のためにも、この点を強く申し上げておきたい。私も日夜、諸君の人生の充実と栄光を祈している。


【第12回全国青年部幹部会 1989-02-14 創価文化会館


 これほどの期待を青年に寄せる指導者がどこにいよう。戦争となれば、最前線へ送り込まれるのは若い兵士だ。企にあっては、新入社員というのもとに、アゴでこき使われるのが若者だ。政治家にとっては、単なる浮動票に過ぎず、年老いた権力者に利用され続けてきたのが青年ではなかったか。


 私はこの指導を同時中継でにした瞬間、自分の身体に力が漲(みなぎ)ってくることを実した。「どんなお金持ちよりも、何も持たない青年が寒風の中を、タッタッタッと走る姿の方が、どれほど尊いことか」とも言われていた。青年のに埋蔵された黄金を、掘削機で掘り出すような勢いで先生は語られた。


 今振り返ると、先生の指導を拝する度に、信の軌道が修正され、前へ前へと進みゆく勇気と確信を与えて頂いたことに気づく。この師なくして、我が人生はあり得ない。


 最近になって痛するのは、“人生は20代をどう過ごしたかで決まる”ということだ。20代を中途半端に終えた人は、40歳になっても50歳になっても役に立たない。幹部の信・力量は、組織で問題が起こった時に発揮される。力のない幹部ほど、狡猾に責任回避をしようとする。人として持つべき“い”すら失っている。こうした連中に共通しているのは、20代を漫然と過ごし、適当な人事でとんとん拍子に上がってきたことだ。


 一方、20代を懸命に戦い抜いてきた人は、問題と聞く度に、信の焔(ほのお)が燃え上がる。「今こそ、自分が必要とされている時だ!」と立ち上がる。いかなる問題であろうとも、「必ず、解決しみせる!」という自負に満ちている。訓練を受けてきた人物は、平穏そうに見える組織の水面下に潜んでいる問題まで探り当てる。戦えば戦うほど、アンテナは鋭敏になってくるものだ。アンテナが反応するや否や、次々と問題解決のための手を打ち、現状を変革する。こういう人が一人でもいれば、皆が救われる。


 組織を知るとは、人のを知ることである。


 法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入失本故は是なり(1056頁)


 現代の法華経の行者である創価学会員を悩ませる人や問題は、全て「法華経の敵」である。そうであれば、問題を放置して、「見ながら置いてせめずんば」、幹部の無限地獄行きは決定される。


 学会が発展に次ぐ発展を成し遂げてきたのは、「悩んでいる人を、放っておくわけにいかない!」、「困っている人を、見捨てるわけにいかない!」という気があったからだ。


「一人の人を大切に」と口にするのは易しい。真剣勝負で実践する人は少ない。

2005-04-13

金の橋は揺るがない


 中国では反日情が高まり、連日、デモが行われている。時を同じくして広島において、中華全国青年連合会と広島・長崎・沖縄学会青年部が日中青年平和座談会を開催(3日、広島平和記会館)。12日には、「平和と善隣友好に関するアピール」が発表された。中国の35団体、及び、創価学会と日本の24団体が署。日中に架けられた金の橋は揺るがない。次代を担う青年が更に磐石なものとするだろう。

大学の原点は師弟の絆に


 いずれにしても、歴史上、また、世界のいたるところで青年の魂は、ひたすらに師を求め、師と出会った。

 そこには、偉大なる「精神の触発」が生まれ、彼らの生涯の原点になっていった。それのみならず、その「魂の出会い」を“核”として、歴史の新しい舞台を開きゆく巨大な力が、怒涛のごとく広がっていったのである。

 求める弟子と応える師と。この「師弟の絆」にこそ、エマソンのいう「自然の大学」の内実があり、縮図があった。

 学会もまた、法を根本にした、人生の“師弟の大学”“自然の大学”として、青年が戸田先生を囲み、すべてを学びつつ、建設してきた。その基軸は、どこまでも「師弟」という永遠の魂である。その精神が厳として躍動している限り、学会は時代へ、社会へとみずみずしい価値創造の無限の波動を広げていくことができる。

 特に青年部の諸君は、この究極の一点に肉薄し、そこから出発しつつ、勉強に勉強を重ね、自ら鍛えに鍛えて、「次は全て引き受けた」という縦横の活躍をしていっていただきたい。


【記関西支部長会 1989-02-02 関西文化会館


 エマソンの『人間教育論』を引用された指導。


 それぞれ自然の教師のまわりに、みずから設立した自然の大学をもつ青年は幸福である。

 ソクラテスのまわりに集ったアテネの青年たちは幸福であった。プロティノスのまわりに集ったアレクサンドリアの青年たちも、アベラールのまわりに集ったパリの青年たちも、フィヒテあるいはニーブールあるいはゲーテをとりかこんだドイツの青年たちも幸福であった。

 端的に言えば、自然の大学とは、すべての指導的精神の自然の活動領域であったといえる。(市村尚久訳)


 学会は、“校舎なき総合大学”である。民衆が生き生きと集い、生命哲学を学び、自身の人間革命によって、現実の社会を改革している。山奥にこもって、供養だけ掠(かす)め取っている坊主とは、生き方が異なる。立正安国の精神は最早、学会にしかなく、坊主どもは正法を立てずして、我が身を安んじることに汲々としている。


 人間にしか人間を育てることはできない。そして、本物の人物のみが本物の人を育てることができる。ダイヤモンドは、ダイヤモンドでしか磨くことができないように。


 自分を取り巻く様々な人間関係によって人生は決まってしまう。親子、夫婦、友達、職場の上司や部下。恋愛関係ってのもあるな(笑)。これらを端的に示したのが主師親ということになろう。先生は以前、「現代社会は、主師親という関係が断絶された社会となってしまった。つまり、経済的人間関係、教育的人間関係、家庭的人間関係がズタズタにされた側面を否めない(趣)」と指導されている。


 手本やモデルが喪失してしまえば、子供達は進むべき道筋を見出せなくなる。行き場をなくした子供達は、時として衝動に身を任せ、自暴自棄にならざるを得ない。


 人間を高めるような出会いが人生にいくつあるだろうか? 我々は学会にいるから当たり前のようにっている節があるが、これ自体が稀有(けう)なことだ。試しに友人に訊ねてみるといい。


 法華涅槃を信ぜずして一闡提(いっせんだい)と作(な)るは十方の土の如く法華涅槃を信ずるは爪上(そうじょう)の土(ど)の如し・此の経文を見て弥涙押えし(64頁)


 我々創価学会員が法を信ずることができたのは、ひとえに三代会長のおかげである。それを踏まえれば、偉大なる師匠と巡り会うこと自体が「爪上の土」といえよう。


 我が人生の目的は、「偉大なる弟子となる」ことに尽きる。

2005-04-12

会長勇退に至る背景


出来事
1970昭和455山崎正友創価学会顧問弁護士に。
1972昭和473山崎、顧問弁護士として妙信講問題への関与はじまる。
1973昭和486山崎、本山の廃道問題を担当。妙信講問題に続き、宗門への関与深まる。
 9山崎、立正佼成会分断工作に熱をあげ、教団乗っ取りまで目論む。
 10山崎が行っていた立正佼成会分断工作が、学会首脳に発覚。中止の厳命により工作は挫折。謀略的手法への厳重注を受ける。
1974昭和49812日再三にわたる日達上人の説得に応じない妙信講が、講中解散処分に。
 104日妙信講の若手80が学会本部を襲撃。街宣車を門扉に突っ込む。
 12山崎、浜中和道(妙縁寺執事)と急速に接近。酒、麻雀で篭絡(ろうらく)していく。
  山崎、ゴルフ場建設を計画。
1975昭和50 1977年にかけて、山崎が富士大石寺土地問題に従事。
 1山崎より、大石寺所有の土地の払い下げについて日達上人に直接働きかけ、格安での払い下げの内諾を得る。
 314日山崎、ダミー会社を設立。
 46日大石寺役員会において、一ノ竹土地を山崎のダミー会社に売却決定。
 517日山崎、日達上人に1000万円の供養
 616日山崎のダミー会社、大石寺より19万坪の土地を破格値でゴルフ場用地として取得。
 819日静岡県知事が、東部地区ゴルフ場開発許可申請の審査凍結を宣言。このため、山崎のゴルフ場計画は頓挫。急遽、墓苑用地への転用を画策する。
 10山崎、墓苑をめぐる「土地転がし」で4億5千万円の裏金を手中にする。
1976昭和5141日日達上人に1700万円の供養
1978昭和53119日総本山大石寺にて、山崎の謀略文書「ある信者からの手紙」が読み上げられる。
 58日山崎、宗門問題の仲介役の立場を得ることに成功。以後、学会と宗門の間に立ってマッチ・ポンプを展開し、学会追い込みをはかる。

2005-04-11

信心根本に知性豊かであれ


 これからのリーダーは、信を根本に、知豊かであっていただきたい。そうでなければ、多くの人を納得させることはできないし、かえって法を下げてしまう場合もある。

 一切法は法に通じ、法は一切法に開かれていく。ゆえに社会の万般の事象にわたって論じられる力をつけていく努力も必要である。そして、明快に、人のの奥の奥まで、指導の光を届かせる力量を養っていかねばならない。

 そうした指導者が増えれば増えるほど、社会の人々に妙法の偉大さを堂々と示し切っていける時代に入っている。


【記関西支部長会 1989-02-02 関西文化会館


 知とは、諸法から実相を手繰り寄せる作である。氷山の一角から全体を把握する像力であり、全く異なった事象の間に関連を見出す視点であり、物事の本質に鋭くメスを入れる探究である。


 メディア社会は、受け売りの知識が横行する社会だ。世論は図的な質問によって形成され、政治家や学者、あるいはコメンテーターやタレントが、勝手に国民の代弁をする。


 自分の考えを持っているか? その見は、昔読んだ書物に書かれていたことではないのか? その見方は、先日のニュース番組で報じられたものではなかったか?


 言葉に魂を吹き込む営みが対話だ。これを折伏という。


 極端な像をしてみよう。先生が過去になされた指導の全てをデータベース化し、先生ので発するコンピューターがあったとする。果たして、悩みを抱いている人々は、これで解決できるだろうか?


 できるかもね(笑)。でも、そうだとすれば、我々は使命を失うことになるから、全員の地獄行きが決定する(笑)。


 多分、正確な答えを導き出すと、悩みを解決できる人もいるが、解決できない人もいる、ということになろう。


 なぜ、解決できないケースがあるのか? それは、言葉にいが込められていないからだ。共に泣き、共に笑うことができないからだ。言葉に体温が伴い、血が通ってこそ、相手のに響くからだ。


 知を磨くには、まず、自分が興味を寄せていることを徹底的に学ぶことである。学んでゆく内に、どんどんと枝分かれして、更なる興味の対象が発見できる。あらゆる方向へ探究の根を伸ばしてゆけば、知識は天を目指す枝のように体系化されて知と化す。


 池田先生が、世界中の識者から共を勝ち取っているのは、平和提言などで示した英知によるものだ。光り輝く知に吸い寄せられて、直接会った途端、その人間にノックアウトされる(笑)。


 噺家(はなしか)や漫才師は、人を笑わせるのが仕事だ。学会の幹部は、人を歓喜させ、勇気と希望を持たせることが仕事である。それができなければ、幹部としての責任を果たせないので、謗法となってしまう。


【こよみ】

 御書には、「こぞの暦」(555頁)、「去年の暦の如し」(972頁)、「譬へば暦の三百六十日をかんがうるに」(1522頁)、「去年のこよみ」(1556頁)とあることから、暦(こよみ/カレンダー)自体は認知されていたと考えられる。だが、大聖人の手元に暦があったかどうかは不明。日付がない御書には、こうした背景があるようにう。尚、この当時は、「六曜」はなかったようだ。

2005-04-09

役職を名乗らない


 これは、個人的に掛けていること。家庭指導の際、初めて会う方に対して、役職を乗るべきではない。あくまでも一人の人間として接するべきだ。私は、「地元組織の小野と申します」とか、担当になった場合は「今度、こちらの組織で一緒に戦わせて頂くことになりました小野と申します」と挨拶している。会合の新任抱負以外で、私が役職を乗ることはない。


 男子部時代に派遣の部長となり、2年後に外れた。後任の部長と共に挨拶回りをした時のことである。ある部員さんから、「エッ、小野さんって、壮年部じゃなかったんですか?」と言われたことがあった。いくら老けた顔をしているからったって、そりゃねえだろうよ(笑)。


 役職を鼻にかけたり、役職で勝負するような幹部は、力がない証拠だ。

2005-04-08

一隅を照らす


「一隅(いちぐう)を照らす」という言葉がある。皆さん一人ひとりが、それぞれの分野にあって、“一隅を照らしゆく”人材に成長されんことをから願し、記スピーチとさせていただく。


創価大学第3回滝山友光の集い 1989-01-16 創価大学】


 これは、最澄の言葉。出典は「天台法華宗年分学生式(がくしょうしき)=山家(さんげ)学生式」。学園や創大でスピーチされる際、先生は宗教色を殆ど出さない。きちっと政教分離をされている。宗教学校でありながら、日蓮法の教義を教える時間がないことも同様。こうしたことも知らない人が実に多く、創価大学は、学会幹部の養成をしているという誤謬(ごびゅう)があちこちに見られる。


 伝教大師は、「径寸(けいすん)十枚これ国宝に非ず、一隅を照らすこれ則ち国宝なり」と記した。径寸とは財宝のこと。経済的な価値ではなくして、自分の存在する場所を光り輝かせる人を国宝としている。


 自分自身が光らずして、一隅を照らすことはできない。組織で光って、職場ではくすぶっているようなのも駄目(笑)。


 本門の無作三身を談ず此の無作三身とはの上ばかりにて之を云わず、森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明かす処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千のなり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改めずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本主なり云云(784頁)


 これは、無量義経の御義を口伝されたもの。積み重ねてきた身口意の三業を打ち破り、ありのままの自分になることが無作三身であろう。人間革命とは、全くの別人になることではなくして(桜梅桃李の己己の当体を改めずして)、本当の自分になることだ。理とする人格は、今の自分の中にあるのだ。これを内より薫発(くんぱつ)する作が勤行唱題である。


 衆生けがるれば土もけがれ清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土(えど)と云うも土に二の隔(へだて)なし只我等がの善悪によると見えたり、衆生と云うもと云うも亦(また)此くの如し迷う時は衆生とけ悟る時をばけたり、譬えば闇鏡(あんきょう)も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一無明の迷は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法真如の明鏡と成るべし、深く信を発(おこ)して日夜暮に又懈(おこた)らず磨くべし何様(いかよう)にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり(384頁)


 あれもやらなきゃならない、これもやらなきゃいけない、などと忙しさにかまけて御本尊から遠ざかっている男子部はいやしないか?(笑)


 大聖人は「只南無妙法蓮華経」と仰せだ。しいことがあっても、嬉しいことがあっても、辛いことがあっても、「只南無妙法蓮華経」。只の一字には、真っ直ぐに御本尊につながる清らかさがある。


 祈りによって満々たる生命力がみなぎると、生命は外に向かってぐんぐん開いてゆく。今まで気づかなかったことが気づくようになり、見えなかったものが見えるようになる。


 譬へば人のために火をともせば我がまへ(前)あきらかなるがごとし(1598頁)


 今日一日、何人の人に「火を灯(とも)したか?」。信に火をつけて、東京中を駆け巡りたい。

穴埋め人事


 下位役職を兼任させる人事がある。私はこれを穴埋め人事と呼ぶ。


 私がいる地域では、極端な兼任役職が目立つ。副区長兼任の支部長や、副支部長兼任のブロック長など。副本部長兼任の地区婦人部長もいる。こうした現状を、以前、ある副会長に尋ねたことがあった。その時の要旨は以下――


 確かに人がいないという現実はある。しかし、実際は、支部長を兼任している副区長は、その辺の副区長よりも、はるかに元気だ。また、私自身、定年退職した後は、できることなら支部長となって、一つでも多くの理的な支部をつくり上げ、学会に対する返しをしたいと考えている。


 この副会長は本気でそう語っていた。率直に、「立派だな」とった。だが現場じゃ、そうは問屋が卸さない。


 まず、日常の基本的な活動に対応することがしい。報告を受けることに慣れていたことが、“報告をする側”になった覚を鈍らせる。舞台が地区やブロックとなることによって、戸惑う場面も出てくる。それまでは一発勝負だった家庭指導も、同じ地域を回ることによって、メリハリが失われる。連絡を忘れるケースまで出てくる。なすべきことを失する背景には、「どうして、自分がこんなことをしないといけないのか?」という疑があるようにわれる。これは、青年部を卒したメンバーにも共通している。


 下位役職を兼任した場合、それ以前と比較すると失速する人が殆どである。たとえ、自分の守備範囲をしっかりとフォローできたとしても、直ぐ上の中者を見下ろす視線を払拭することができない。相手方も当然、遠慮する。これが問題なのだ。より本質的な原因を考えると、結局、人材育成ができてないことに起因している。


 派遣幹部についても同様だ。他力本願とならざるを得ない組織の現状を如実に示している。


 私が過去に行った派遣人事は、本人に力をつけさせることを目的にしたケースと、壮婦からの信用がなく、地元で上げることができなかったケースの二つ。いずれも上手くいったとは言いい結果となった。


 こうした人事があった場合、その組織にいる人々は、恥ずかしくわなければならない。地元から幹部を輩出すべく、真剣な闘争が求められる。


 もしも、私の下(もと)に上位役職の方を任命する人事があったら、私は断固として拒否するだろう。穴があった方が、まだましだ。

2005-04-07

千里の道を往く第一歩を


 新しく入信し、信の第一歩を踏み出された同志の方々を、から祝福申し上げたい。私は、いつしか、この第一歩が新しき人生の門出であったと、しみじみと回顧される日のくることを期待したい。

 何をなすにあたっても、最初の一歩が肝要である。千里の道も一歩より――である。ともに、その第一歩の中に、千里の道が含まれていることを知らねばならない。一里の道しか予定していない第一歩は、一里を往く決の準備しかしていないであろう。千里の道を往く人の第一歩は、千里を往くにふさわしい決、準備を整えた一歩であるはずだ。永久に崩れぬ絶対の幸福、自他ともにゆるがぬ幸福を満喫しうる理郷の実現、これこそ、われらが、日蓮大聖人の大法を信奉した究極の目標である。それは、一生をかけねばならぬ遠大な旅路である。それゆえにこそ、その第一歩は大切であり、この時に、揺るがぬ信の確証をつかんでいただきたい。


【巻頭言/『大白蓮華1966-11号】


 同じように、紹介者や同志の面々も、新入会のメンバーを千里にわたって激励し、守り抜く決が必要だ。真の広布の成果とは、人が増えているかどうかに尽きる。妙法を唱える人、功徳激する人、広布に邁進する人、弟子の自覚に燃える人――こうした人が増え続けていくところに、リズムが生まれ、勢いがほとばしり、士気が高まる。


 有無実の成果となっては本末転倒だ。幹部の功を満たすことが目的になれば、完全な組織利用である。地道な人材育成をしてゆけば、転入・転出にも左右されない発展を勝ち取っていける。


 私が入会勤行会で挨拶する際、次の御文を必ず引用する。


 飢国(けこく)より来つて忽(たちま)ち大王の膳に遇うが如し(385頁)


 これは牧口先生が新入会の友によく語っておられた言葉。妙法に巡り会ったことは、飢えたる国からやってきて、王様のテーブルについたようなものだ、という味。「今日からは、うんとご馳走を食べる努力をしてもらいたい」と常に話している。


 新たなメンバーが登場すると、組織には地いい緊張が生まれる。普段はだらだらやってる連中の背筋も少し伸びる(笑)。言葉遣いも慎重になる。活動の側面よりも、信の次元での話が増える。こうして、組織に清新な風が吹き込まれる。


 これは、私の持論になるが、組織を変革するには二つの方法しかない。一つは、上に書いた通り、新しいメンバーを増やすことである。もう一つは、人事で手を入れるしかない。本当は、今いる顔ぶれが、皆、成長すれば変わるのだが、これはまずしい。というよりも無理だ(笑)。だって、見たことないもんね。


 折伏にあたって、あまりにも長きにわたって古いスタイルを堅持してきたために、友人がやる気になっているにも関わらず、「試しに」などと言い出す愚か者もいる(笑)。「いつでも、辞められるから」とかね(笑)。そんな、屁っぴり腰じゃ、しょうがないよ。


 本物の池田門下生の陣列を拡大すること。これが、広宣流布であり、令法久住である。


 3日ほど前から、聖教新聞紙上座談会に、本副会長と山中副会長が登場している。お二方は、いずれも元創価班委員長本さんは、玉手箱を開けたのかとうほど、変わってたので吃驚(びっくり)した。歴代委員長の中でも最も雄弁な方だった。山中さんは、男子部時代に個人折伏を25世帯成し遂げている。


 今日付の新聞で、「寒風に 一人立ちたり 創価班」の歌が紹介されている。これによって立川では、冬でも防寒着の着用が禁じられた(笑)。当時、立川の委員長をしていたのはMさん。バリバリ気合いの入った方だった。

2005-04-06

創価教育学体系


 実は、牧口先生の『創価教育学体系』の草稿は、現職の小学校校長としての激務の中で、時間を生み出しては、広告の紙や封筒の裏、反古紙(ほごがみ)などに書きつづられたものだった。

 何事も整った環境や形式がなければできないというのでは、本物の戦いではない。むしろ、何もないような厳しい環境の中から、傑出した創造がなされるのが歴史の常でもある。

 さて、『体系』を出版するには、膨大な草稿を整理・編集しなければならない。

 当初、牧口先生は、この作を後輩の、ある教員に依頼された。私もその教員のことは、よく聞いている。後々まで自分のわがままで皆に迷惑をかけた。彼は、自分は文家だとうぬぼれていて、この仕事も真剣に取り組もうとはしなかった。

 力のない者ほど傲慢になる。彼が3ヶもかけてまとめた原稿は、統一がなく、気ままな教育漫談とでもいうべき薄っぺらなものになってしまった。牧口先生の深さが、彼には全く理解できていなかった。

「困ったものだ。他に誰かいないだろうか」。牧口先生の困惑は大きかった。

 その時、戸田先生が整理・編集を自ら申し出たのである。「私がやりましょう。一切をなげうってやりましょう」と。

 はじめ、牧口先生はためらわれたようだ。もちろん、戸田先生は大変な勉強家であられたが、率直にいって、戸田先生以上の文筆家が他にもいるかもしれない。また、戸田先生にこれ以上の労をかけまいとのお気持ちもあったろう。

 だが、戸田先生は一歩も譲らなかった。「牧口先生には、とうてい及びませんが、自分もこれまで懸命に学んでまいりました。書物も読んで読みきりました。私の持てる力を、全て出しきって立派にやり遂げます」と。

 先生のために、どうかやらせてください――。この戸田先生の気迫と誠に、牧口先生は目に涙を浮かべながら、「君に頼もう。すまないが、力いっぱいやってくれたまえ」と託された。

 愛弟子の成長と無償の真牧口先生は、どれほどかありがたく、うれしくわれたことであろう。

 当時、戸田先生は、昼は私塾の時習学館で教え、夜は中央大学で学ばれていた。その多忙極まる生活の中で、師より託されたこの仕事に血を注ぎ、見事に完成させておられる。

 中途半端はどこまでいっても中途半端である。何事もなしえない。いわんや峻厳な師弟の関係に中途半端は許されない。師のを現実の上に見事に実現してこそ、初めて師弟であるといえるのではないだろうか。

 こうして、ついに歴史的な『創価教育学体系』の第一巻は完成し、大きな反響を呼ぶことになる。

 戸田先生は後に「陰の力であった自分のことは、誰一人ほめもしなかったが、私は一人、会の笑みを浮かべていた」と述懐されている。

 ――これでいいんだ。牧口先生が世に出、この本が評価されれば、自分にはこれ以上の喜びはない。そういう境であられたとう。

 古今東西、まことの弟子の道とは、そういうものである。

 1951年(昭和26年)53日。嵐を乗り越えて、晴れの会長就任の日を迎えられた戸田先生の姿を見ながら、私も全く同じ喜びをかみしめていた。

 誰が知らなくてもよい。誰が認めなくてもよい。無認識な世間の評価など問題ではない。

 ただ、師の大いなる理を、我が渾身の力で実現し、証明していく。ここにのみ「弟子の証」がある。そして、一切の毀誉褒貶を超越して、胸中の真実に生きゆく「人間の証」がある。


創価大学第3回滝山友光の集い 1989-01-16 創価大学】


 学会創立の知られざるドラマ。弟子が一切を担って立ち上がったところに、創価の淵源があった。ご存じのように、「創価学会」という前自体が、師弟のやり取りから生まれたものである。


 恵まれた環境で、万端の準備を整えて船出したわけではない事実を、私達は深く受け止めねばなるまい。


 師弟という魂を失って組織主義に陥れば、それは創価学会ではない。師弟というタテの線を強靭なものとしながら、徹して後輩を育成することが、信のラインとなる。時代がどのように変わろうとも、信はタテ線で、広布は横という面に広がってゆく。


 師を陰で支えゆく弟子が、真の後継だ。やたらと、日向(ひなた)でアピールするのは偽者なり(笑)。

一代五時継図


 玄義の五に云く恵能く惑を破し理を顕す理は惑を破すこと能わず、理若し惑を破せば一切衆生悉く理を具す何が故ぞ破せざる、若し此の恵を得れば則ち能く惑を破す故に智を用(も)つて乗体と為す文(689頁)


 三惑未断の凡夫の迷妄を断つのは智による。理とは知識である。智は言葉に表れる。故に対話が求められる。智とは関係の中で発揮されるものだ。我々の智は、以信代をもって旨とす。つまり、ひたぶるな祈りに支えられた言葉こそ、智の言葉である。化他行なき信を“知恵の輪信”とづける。一人で楽しむが故に(笑)。巧みな言いわけを、“法華経の悪知恵”とは申すなり(笑)。勇んで宮殿に入るが如き雄々しき唱題行に徹したい。

2005-04-04

青年は革命の闘士たれ


 新しき時代の新しき扉。それを開けるのは常に、燃え盛る青春の情熱である。妥協なく、理に生きる青年の行動である。

 しいたげられた民衆への愛情、金剛のごとき正義、不当な権力への怒り、倦(う)むことを知らぬ不屈のパッション(熱情)……。

 周夫妻をはじめとする青年たちの奮起は、やがて広範な大衆を巻き込んで、かつてない社会変革の潮流を生み出していく。それは、中国はもちろん、世界の命運をも変えていくほどの巨大な歴史の潮であった。

 まして、妙法を持(たも)った青年部の諸君は、誰よりも不幸な民衆の見方となり、民衆勢力を迫害する存在とは生命を賭して戦う革命の闘士であってほしい。

 私も戦った。「革命は死なり」の覚悟で。自己一身の功徳とか幸福とか、もとより眼中になかった。ただ「広宣流布」を目指した。人類の嘆きの宿命を転換する、この壮大な革命運動に敢然と生き、戦い、死んでいくことのみが私の願いであり、祈りであった。

 そして、師・戸田先生の遺志を継いで、どう尊き子を守り、どう広布の使命を果たしていくか。今日に至るまで、ただ、それのみを時々刻々にじ、い巡らしてきた。私のには他の何ものもない。


【1.15合同記幹部会 1989-01-15 創価文化会館


 この少し後に、以下の指導あり。


「覚悟の青年」が革命の成否を決する。この方程式は、現在も、また未来も不変である。


 戸田先生は、「三代会長は、牧口門下には渡さない(趣)」と言われた。その理由は、“老人であるから”というものだった。


 新時代を開拓するのは青年である。41歳の私じゃ駄目なんだよ(笑)。大人になると妥協を強いられる場面が増える。人は妥協した分だけ腐ってゆく。が鈍になってゆき、要領を覚えて老獪(ろうかい)な生き方を身につける人物も多い。どう頑張っても考え方が保守的になってゆく。


 青年には社会的な力がない。さしたる経験もなければ、知識もない。だが、理を求めてやまない純粋がある。一言の激励でガラリと変わる可能も秘めている。ちょっとしたキッカケを与えれば、ぐんぐんと伸びてゆくのが青年だ。壮年は、そうはいかない(笑)。


 失敗を恐れるあまり消極的になるような青年に、大いなる仕事はできない。若い内は失敗が許される。だから、どんどん失敗すべきなのだ。若くして謙虚になる必要はない。小ぢんまりとした青年を、私は青年として認めない。


 青年であれば、求道の炎を燃やせ。具体的には、先輩にどんどん質問してゆくことである。じっと黙って、一方的にものを教えてもらう受け身の姿勢であってはならない。


 私が男子部となった頃の部活動者会は、勤行が終わるや否や、私の質問から始まった。私は何か言われたからといって、「はい」と素直に返事をするような青年ではなかった(笑)。自分で疑問にったこと、友人から尋ねられて答えられなかったことが殆どだった。活動者会の半分は、私と部長のやり取りだった。4年ほど続いたと記憶している。


 ある時、同じ地区で戦う先輩から、「お前がいると誰もしゃべれないよ」と言われた。少し遠慮をすることにした。すると、部長から「体調でも悪いのか?」と詰(なじ)られた。この瞬間、遠慮という文字は、私の辞書から消え去った。


 上京してからというもの、求道の炎は更に燃え上がった。私はありとあらゆる学会員に質問をしまくった。「先生と会ったことはありますか?」、「会長勇退の頃の話を教えて下さい」、「タテ線時代のことを教えて下さい」等々。元々、学会の歴史に詳しいこともあって、話は常に弾んだ。『前進』を読んでいたおかげで、昔の幹部の前は一通り知っていた。


 こうしたことを通して私は、今の学会があるのは、草創の茨の道を切り拓いてきた民衆王者の闘争によるものだと知った。そして私は、このような人々と同じ道を歩みたいと、の底から熱望した。その先頭を歩んでいるのが池田先生だった。


 学会の歴史を語る先輩の話にを傾ける時、いつであっても、「ああ、きっと自分は、この人の後に続いて、地涌の儀式に参加してたんだろうな」という興奮に襲われる(笑)。

2005-04-03

報恩抄


 法を習い極めんとをもはばいとまあらずば叶うべからず(293頁)


【建治2年721日 55歳御作】


時間かけずに、お湯かけて」というキャッチフレーズが昔あった。だが、道修行の場合、そうはいかない。しっかりと時間をかけて訓練を受けなければ、成はかなわない。新入会の友にしっかりと打ち込んでおきたい御聖訓の一つ。

トウ穎超(えいちょう)女史


 5年前の第六次訪中の際、北京でお会いした時、トウ(登+オオザト)女史は「私は、池田先生がなされる仕事のこと、創価学会創価大学のことを、いつもい浮かべているのですよ」と語っておられた。今回の訪日団に託しての、おづかいからも、私は深く温かい女史の「」がじられてならない。

」というものはまことに不議である。どんなに遠く離れていても、また、活躍の舞台や立場は異なっていても、「信頼」と「友誼」のは、まっすぐに通い合う。なかんずく、信に命を賭けて戦っている人間と人間との間には、あらゆる夾雑物(きょうざつぶつ)を超えて、無言のうちに「魂」の共鳴が響き合うものだ。

 私には内外を問わず、世界の各地にそうした深き「人間の絆」、「魂と魂との絆」を結んだ友が多くいる。それは、私にとってかけがえのない「人生の宝」となっている。

 次元は異なるが、天台大師は「感応妙(かんのうみょう)」と述べている。これは衆生じ、がその衆生の機に応じることを味する。一次元からいえば、と衆生との妙なる「」の交流ともいえよう。また、大聖人は“こそ大切なれ”と仰せである。清浄無垢なる信によってこそ、御本尊へと通じ、妙法の世界に包まれた楽しくも充実した人生を満喫できる。

 いずれにしても、人間どのような「」を持つかである。邪、悪、嫉みの、利用のは、多くの人々との魂の共鳴もない。実にわびしく、寂しい人生となってしまう。いわんや、そうしたでは御本尊に通じない。結局は何事も全て自分自身の「」の反映なのである。

 10年前の1979年(昭和54年)、陽春の412日、来日されたトウ女史と、元赤坂の迎賓館で再会した。

 その折、周総理が桜が好きだったこともあり、私ども夫婦の真として、八重桜をお贈りした。トウ女史は、時間が許せば私の家を訪問したかった、と言われながら、こぼれるような笑顔で喜ばれていた。

 実はこの再会は、私の会長勇退の10日ほど前のことであった。別れ際に、私がその向を伝えると、トウ女史は「まだまだ、若過ぎます。そして、何よりもあなたは人民から多くの支持を得ています。人民の支持のある限り、決して退いてはいけません」と、真剣な面持ちで言われた。

 人生の大先輩からの、からの励ましに対して、私は「ありがとうございます」と答えた。自分の進退は自分で決めることであるが、大変、ありがたい言葉だった。

 トウ女史は、人民を見下し、君臨しようとする勢力と絶対に妥協しなかった。

 かつて、いわゆる「四人組」の一人である江青(毛沢東夫人)は、自分の側(そば)で働く服務員を奴隷のように扱った。江青は、自分の目より高い場所から話すことを認めず、このため服務員は腰をかがめるか、ひざまずくかしなければならなかったという。

 このような横暴な振る舞いをトウ女史は、断じて許さなかった。“一歩も退いてはなりません”との私への温かな直言も、そうしたご自身の戦いを踏まえての言葉であった、とわれてならない。

 近年、私どもの信仰の世界にも、自分の野のために学会員を利用し、踏みにじろうとした者が出た。正信会と称する悪侶や、学会に多大な迷惑をかけて退転した連中は、自分の欲望のとりことなって、純真な会員を踏み台とし、利用し抜いた者たちといってよい。ちょうど、中国の四人組と、その方程式は同じとみる人たちがいる。

 トウ女史は、あるとき私ども夫婦に、しみじみと語られたことがある。

「私は若い日、来同志(周総理のことを、女史はこう呼んでいた)と二人で約束したことがあるのです。それは、人民のために奉仕するということです」と。

 そして「このことは、死んでも変わりません」といわれ、周総理の遺骨を中国の大地に撒(ま)いたことも、その精神に則った上での、二人の秘められた約束であったと明かされていた。

 まさしく「人民とともに」「人民のために」――これがトウ女史と周総理のを結び、貫いていた根本の一点であった。

 私ども学会の幹部も、妙法の同志のために、学会員のためにとの一点を、どんなことがあっても忘れてはならない。

 学会員は広宣流布のために戦っておられる尊い子である。その方々を絶対に守り抜かなくてはいけない。また、その方々に尽くし切るために私どもがある。

 会員の方々こそ幸せになってほしい、素晴らしい人生であっていただきたいと願い、行動するのが幹部である。会員をないがしろにしたり、軽くみたりすることなど、もってのほかである。それを何かあると、自分の保身のために右顧左眄(うこさべん)して、目的を見失うような卑怯な人間になってはならない。それでは民衆の指導者でもないし、学会の幹部として失格である。

 ちなみにトウ女史の「穎超(えいちょう)」というお前には、“群を抜いて、すぐれる”との字義がある。「は体をあらわす」好例といってよい。

 アメリカのジャーナリストであるエドガー・スノー氏(1905-72年)は、中国の革命運動のさなか、激動の解放区に飛び込み、中国共産党の戦いを、いち早く世界に伝えた行動で有である。歴史の潮流と人物の真実を洞察し、正しく知らせる筋金入りのジャーナリストであった。こうした人物が今はあまりにも少ない。

 そのスノー氏がトウ女史のことを、「私の出会った中国の女の中で、最も鋭い政治的頭脳の持主の一人であった」(『アジアの戦争』森谷巌訳/筑摩書房)と絶賛したことは、よく知られている。

 それでいて、女史が人民の輪の中に飛び込んでいく振る舞いには、人を圧するような気位もなければ、澄ました気取りも微塵もない。

 少女の頃から変わらないようなおかっぱ頭。小柄な身体を、飾り気のない中山服(ちゅうざんふく)に包み、ざっくばらんで、いつも穏やかな微笑を浮かべておられる。

 私は、人民とともに生きる本当の「革命家」の風貌をそこにじる。

 学会の強さもまた、かけらほどの「気位」や「気取り」もなく、ありのままの庶民と人間を貫いてきたところにある。この一点が続く限り、学会は永久に発展していくことができる。

 反対に、指導者が自分をよく見せようと気取ったり、自分は特別なのだというような驕慢にとらわれたりしたのでは、そこには真の学会精神は全くない。リーダーが庶民と、いささかでも遊離した途端に、広宣流布の前進は失速していく。


【1.15合同記幹部会 1989-01-15 創価文化会館


「やめてはいけません」こう直言した人物は、民衆と共に戦い抜いてきた闘士だった。学会の側近幹部で「やめないで下さい」と言った者は一人もいなかった。「やむを得ない」、「仕方がない」というムードが蔓延していた。


 昭和54年のその時、私は16歳だった。何も知らない高等部だったとはいえ、与同罪は免れない。私に天草四郎並みの力があれば、何とかできたかもしれないのだ。


 不議なことだが、昭和54年を境にして、先生が会長に就任された昭和35年生まれのメンバーが、学生部・男子部となっている。


 トウ穎超(えいちょう)さんの言葉をうと、周来夫妻と先生の関係は、単なる国交回復にとどまらず、東洋広布を決定づけた運命的な出会いじてならない。この出会いがなかったならば、中国は現在と異なった顔を見せたことだろう。人類をが、巨人を引き合わせたとしか考えられない。


 我々にあっても、広布への決定(けつじょう)した使命と責任があれば、しかるべき出会いがあるものだ。狭い世界に安住している人は、どうしても成長が鈍い。それなりに頑張っているように見えながら、どこの組織であろうとも通用するメンバーは極めて少ない。訓練を受けてきた人や、修羅場をくぐり抜けてきた人には、瞬時に理解し合える阿吽(あうん)の呼吸がある。


 今年で、会長勇退から26年が経過した。何十年経とうが、私ので古傷となることはない。弟子が師匠を裏切った日が424日だ。


 小罪なれども懺悔せざれば悪道をまぬがれず、大逆なれども懺悔すれば罪きへぬ(930頁)


 いつまでも先生に甘えることは許されない段階となった。弟子一同が総立ちとなって、報の誠を尽くす以外に道なし。


 風邪をひいてしまい、一昨日から頗(すこぶ)る体調悪し。昨日は丸一日寝てた。ご注あそばせ。

2005-04-02

崇峻天皇御書


【1170-1174頁】

背景

  • 建治3年(1277年)911日 56歳御作
  • 四条金吾
  • 於身延
  • 「三種財宝御書」
    • 主君の江間氏を折伏したため、四条金吾は不興を買っていた。
    • 建治3年69日、三位房日行が竜象房と法論(桑ヶ谷問答)。四条金吾がこれに同席。
    • 同席していただけであるにも関わらず、四条金吾が暴力沙汰をしでかしたと讒言(ざんげん)される。
    • 讒言は江間氏のにも及び、法華経を捨てる起請文を書かねば所領を没収すると命じた(623日)。
    • これに対して、大聖人が四条金吾に代わって筆を執られたのが「頼基陳状」(625日/1153頁)である。
    • 9に入り、江間氏が疫病にかかった。医術に秀でていた四条金吾が治療に当たり、快方へ向かった。江間氏からの誤解は解けたが、同僚からの嫉妬は更に強まった。

1173頁14行目


 中務三郎左衛門尉は主の御ためにも法の御ためにも世間のねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ、穴賢・穴賢、蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財よりの財第一なり、此の御文を御覧あらんよりはの財をつませ給うべし(1173頁)


2005年4座談会拝読御書】


【中務三郎左衛門尉】四条金吾のこと。中務のは、父が中務省の職にあったことによる。三郎は三男を味し、左衛門尉は官で、金吾はその中国風の呼称。

関連御書


 人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちてを・くた(腐)して死せんよりは生きて一日なりともをあげん事こそ大切なれ(直前の御文/同頁)


 一代の肝法華経法華経の修行の肝は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ(この御書の結論部分/1174頁)


 このうへはたとひ一分の御なくともうらみまいらせ給うべき主にはあらず、それにかさねたる御を申し所領をきらはせ給う事・御とがにあらずや、賢人は八風と申して八(やつ)のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利(うるおい)・衰(おとろえ)・毀(やぶれ)・誉(ほまれ)・称(たたえ)・譏(そしり)・(くるしみ)・楽(たのしみ)なり、をを(むね)は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなりしかるを・ひり(非理)に主をうらみなんどし候へば・いかに申せども天まほり給う事なし、訴訟を申せど叶いぬべき事もあり、申さぬに叶うべきを申せば叶わぬ事も候(「八風抄」 与四条金吾 建治3年/1151頁)


 一切世間の治生産は皆実相と相違背せず(1070/1466/1597頁)


 天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか(254頁)


  • 主とは職場や地域。法とは広宣流布を遂行する組織のこと。
  • 「世間のねも」が、「世間においてのがけも」と訳されているが、どうも違和を覚える。これでは、前の二つの「ためにも」と並列になってしまう。“世間の根”そのままで構わないとう。信即生活、法即社会であるが故に、信によって深まり、豊かになった人間は、そのまま世間で通用するものでなくてはならない。信仰の実証は必ず世間=社会で発揮される。
  • 蔵の財よりも身の財は「すぐれ」、身の財よりもの財は「第一」とされている。第一とは根本の義か。
  • を惜しみ、のためとあらば死をも辞さない武士の身にとって、武功・勲功は現代社会の地位や誉よりもはるかに重みがあったことだろう。四条金吾が短気であったことを踏まえると、それなりに腕の立つ武士であったことは間違いない。
  • 讒言され、迫害される中にあって、「の財をつませ給うべし」との御指南は厳しい。短気な四条金吾のことだから、いつでも片をつけてやろうと手ぐすね引いて待ち構えていたかもしれぬ。だが、大聖人は、「根で勝負せよ!」、「信で戦え!」と示されている。
  • 財は、人生にとって大切なものを示している。
  • 三角形で表すと、上から蔵の財・身の財・の財となる。また、蔵の財・身の財は美・利の価値であり、の財は善の価値ともいえよう。
  • 四条金吾にとっては、蔵の財=所領、身の財=身分・医術・武術に相当。医術をもって江間氏の信頼を回復したことを踏まえると、信根本の軌道を示された重要さが尚一層、理解できる。
  • この御文から「職場で実証を示す」姿を考えると、給料が上がることや、技術を身につけた、職位が上がったなどということよりも、人間を称讃されることが大切となる。組織においても同様で、役職の高い人物が偉いのではなく、信根が潔く、真っ直ぐな人こそ人材である。
  • 池田先生が世界の大学から、173もの学位を授与され、400を超える誉市民となっている事実こそ、この御聖訓を誰よりも実践されている証拠である。
  • 堕落僧・阿部日顕は、海外諸国から糾弾されることはあっても、評価されることは全くない。富士宮の「人人の口にうたはれ」ることすらない(笑)。それどころか、宗内にあってすら人望もなく、多くの僧侶が“近い将来、除歴されることは間違いない”とにらんでいる。80歳を過ぎて尚、蔵の財に執着する姿は、浅ましいにもほどがある。

関連指導


(アレクサンドル・デュマ著『モンテ・クリスト伯』で)主人公のエドモン・ダンテスが社交界で成功したのは、財力でも知恵でもない。「信用」があったからである。


戸田先生/『旭日の世紀を求めて』 金庸対談 244p】


 時光の父の逝去は、入信してまだ1年ないし4年という短い歳であった。それにも関わらず、大聖人は「成」は間違いないとされ、その上で亡き人のよき人柄をしのばれ、また、家族をいやられて、その死を深く悼(いた)まれている(御書1510頁)。

 ここで、故南条兵衛七郎について「人柄のよさ」を言われたのは、「人柄」というものは、信の純粋に影響するとみられていたことが拝せる。この御指南を決して見逃してはならないと私はう。「人柄」は、その人のもつ人間の輝きであり、生き方の基本をなすものといってよい。人柄の悪い人は、一時は成功したようにみえても、結局は人々の信頼を失い、惨めな人生の結末を迎えることが多い。

 その味で、「人柄」というものは、まことに大切な実相である。特に青年部の若き皆さまは人格を磨き、「人柄」つまり「根」のよき人として、自身をつくりあげていただきたい。


【第2東京支部長会 1987-10-11 立川文化会館