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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2005-07-07

青年は望みが大き過ぎるぐらいで、ちょうどよい


 戸田先生は、よく私ども青年に語ってくださった。

「大事は、20代、30代でやる決が大切だ。40代に入ってから“さあ、やろう”といっても、決してできるものではない」と。

 また、「青年は、望みが大き過ぎるぐらいで、ちょうどよいのだ。この人生で実現できるのは、自分の考えの何分の一かだ。初めから望みが小さいようでは、何もできないで終わる。それでは何のための人生か」とも教えられた。

 20代、30代という青春の日々を、いかに「大いなる理」を抱いて戦いきっていくか。そこにこそ、長いようで短いこの一生を、最大に「満足」と「充実」で飾りゆくための“ホシ”がある。

 青春は再び返らない。40代、50代になって、侘びしい「悔い」をかみしめる人生であっては不幸である。また、不完全燃焼の燃えさしのような、ブスブスとくすぶる愚癡の人生となっては哀れである。

 ゆえに、健康でう存分働ける青春時代にこそ、若き生命を完全燃焼しきっていくべきであろう。それが他ならぬ自分のためである。

 青年よ、高く大いなる理に生きよ、炎となって進め――それが、戸田先生の教えであった。その理の峰が高ければ高いほど、尽きせぬ充実がある。パッション(情熱)が湧き、成長がある。信の無限の力がみなぎってくる。

 そして、「広宣流布」こそ、人類の最高峰にして、最も義深き、偉大なる理である。また、最も現実的にして、時代と世界が求めてやまなぬ理である。

 この広布の大理に青春を、人生を、あますところなく燃やしきっていく。そこにこそ日蓮大聖人の仰せにかなった一生涯があり、不変の学会精神の骨髄がある。


【第1回本部幹部会 1988-01-20 創価文化会館


 壮年となって、一番よく聞く話の一つはこれだ。「定年退職して、う存分、本を読もうとったら、老眼になってしまった。若い時に、本気で読んでおくべきだった」というもの。既に、数十の方から同様の話をにしている。


 私はそれなりに戦ってきたつもりだ。まあ、その辺の区男の10倍はやってきた。その辺の男子部の100倍は叱られてきた。それでも、やはり悔いが残っている。一生懸命とか、必死とか、精一杯とか、真剣などという言葉が当てはまる内は駄目なんでしょうな。「尋常でない」「狂っている」と言われるぐらいでなけりゃ、抜きん出た力を獲得することはできない。平凡な壮年部で終わりたくないので、これから、挑戦することにしよう(笑)。


「若いから何もできない」のか? そうではない。「若いからこそ何でもできる」のだ。20代の内から、小ぢんまりとした人格者になることなかれ。“破天荒”、“型破り”をモットーとせよ。


 人間は、本当にポジティブ(積極的)になると、目覚まし時計がなくても、、目が覚めるものだ。例えば、明日、今勤めている会社の社長になるとしよう。興奮のあまり、中々眠りにつくことができず、それでいて、は自然の内に目が覚めることは間違いない。「今日も、広宣流布のために戦える!」とドキドキ、ワクワクしていれば、そのようなリズムになるのだ。


 私はというと、サプリメントで鉄分を補給し、100円ショップの足指パットを着用し、酒と煙草ののみ過ぎに注しながら、勝ちに挑戦する日々である(笑)。

下山御消息


 而るを余・此の事を見る故に彼が檀那等が大悪をおそれず強盛にせむる故に両火房・内内諸方に讒言を企てて余が口を塞がんとはげみしなり(348頁)


「下山御消」は十大部の一つ。昨夜、ブロック唱題会にて拝読した部分。


 両火房とは、極楽寺良観のこと。文永12年(1275)323日に鎌倉で大火があった。この時、良観が住職をしていた極楽寺より出火。更に、鎌倉幕府の御所をも延焼した。この両所が焼けたことをもって、大聖人は「両火房」とづけた。ユーモアもさることながら、これほど辛辣(しんらつ)な仇もない。


 文永8年(1271年)、幕府からの要請を受け、良観は618日から祈雨を開始。新暦だと77日(丁度、今日)に当たるから、空梅雨(からつゆ)で恐るべき猛暑が続いていたことが像できる。


 雨乞いは、古代から現代に至るまで、自分達の無力さをい知らされた人々によって、宗教的な行事として行われてきた。特に日本の場合、農耕によって食糧が支えられているため、異常気象ともなると多数の死者を出すことになる。


「風が吹けば桶屋が儲かる」という諺(ことわざ)がある。ここで、埃(ほこり)が立つと、なぜ、眼を悪くする人々が増えるのかというと、医療や衛生概が発達してないことが考えられる。水で眼を洗うことを知らなかった人もいただろうし、水が手に入りにくかった環境に住んでた人もいたことだろう。こう考えると、祈雨という行事が、どれほどの重みがあったか少しは理解できよう。


 良観が祈雨を始めることを知った大聖人は、直ちに手紙を差し出す。


 七日の内にふらし給はば日蓮無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成りて二百五十戒持つべし、雨ふらぬほどならば彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし、上代も祈雨に付て勝負を決したる例これ多し、所謂護命と伝教大師と守敏と弘法なり、仍て良観房の所へ周防房入沢の入道と申す者を遣わす御房と入道は良観が弟子又者なりいまに日蓮が法門を用うる事なし是を以て勝負とせむ(1157頁)


 それは、“生き”と仰がれている僣聖増上慢への烈々たる挑戦状だった。


 喜び勇んだ良観は、120あまりの弟子を伴って、「頭より煙を出だし、を天にひびかし、あるいは、あるいは請雨経、あるいは法華経、あるいは八斎戒を説きて種種に祈請」(1158頁)した(笑)。ところが蓋(ふた)を開けてみると、露ばかりの雨も降ることはなかった。それどころか、大風が吹き荒れた。約束の7日目に、「使者ありのままに申す処に良観房は涙を流す弟子檀那同じくをおしまず口惜しがる」(1158頁)と顛末(てんまつ)が伝えられた。


 一丈のほりをこへぬもの十丈二十丈のほりをこうべきか(912)


 この有な一節は、“雨すら降らすことのできない僧が、人々の成を実現できるはずがない!”という指摘なのだ。良観は、大聖人に延長戦を頼み込み、更に1週間の祈りを捧げたが、無駄な抵抗で終わった。


 威信を失墜した良観がとった行動は、実に汚いものだった。政治的工作をもって、大聖人を亡き者にしようと企(たくら)んだのだ。華々しく慈善事に手を染めてきた“生き”の正体はこんなもんだった。


 良観の底から恐れたのは、大聖人の雄弁だった。偉大なる言論戦に、敵は震え上がったのだ。日蓮門下であるならば、同じ道を歩みたい。

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