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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2005-08-04

子供の非行


質問●今年、17歳になる長男に、悪い友達がついて、よそへ泊まって帰ってきません。下山すれば帰っているでしょうか。どういう不良かというと、パチンコ屋へ行っているのです。学校の成績は断然悪く、兄妹二人で、家は建築で、こづかいは自由にさせず、500〜600円から1000円ぐらいにとめております。父親は固い人で、家の教育はやかましく、始めの内は折檻しましたが、今は何も言いません。母親も同じです。


指導●これは一番重大な問題です。お山に来ている内に帰ってきます。この後は三段の教えがあります。外道の方から、法の方まで話してみましょう。

 子供をよく育てる方法として、一番大事な家庭教育があります。子供と喧嘩するくらいに母親が口やかましいことが理です。父親は甘やかし放題甘やかす。男の子は年頃になると、父親を何となく煙たく、何となく嫌になるのです。その本能を知って、子供の人格を尊重してやる育て方をする。母親はうんとやかましくしなければなりません。子供の畜生道に負ける母親は、子供を育てられません。子供が不良になったら、殺して死ぬという覚悟がなくてはいけません。世の中に、慈悲ほど怖いものはありません。情ほど怖いものはありません。母親の愛情は、父親と段違いです。

 信の問題に入ります。一番やさしく、ご利益のあることは、肺病が治ることと、貧乏人が金持ちになることです。面倒なのは精神病を治すこと。それにも増して面倒なのは、死ぬべき寿命を延ばすことです。不良を直すことも面倒です。不良が直った例はいくらでもあります。深い深い信が必要です。子供に信させることです。

 法上の問題は、そういう子供を生んだ両親の宿命です。その子を、じっと見た時、この子を立派にしなければいけない、この子こそ自らをにするのかと、拝むようになる境こそ大切です。


【『戸田城聖全集』第2巻 質問会編 1982-01-26発行】


 中学1年、高校1年の夏休みは要注。玉手箱を開けた後の浦島太郎みたいに、髪の毛の色が変わっていることがある。浮き沈みの激しい季節は、ちょっとしたことで良くもなれば、悪くもなる。とはいうものの、この世界は第六天の魔王の所領だから、数多くの悪縁が未来部を取り巻いている。


 男であれば経験があるとうが、喫煙や万引きなどは、“肝試し”的な覚で行われる。「こんなこともできないのか?」「何言ってやがる。そんなこと、わけねーよ」なあんて、やり取りになりがち。また、先輩から強制される場合も多い。いずれにせよ、最初の内は後味が悪いのだが、段々とが麻痺してゆく。悪に対して鈍となってしまえば、親や先生の注なんぞには貸さない。


 基本的なことだが、まず担当者は、「未来部を見守っている」というメッセージを常に具体的に発信することだ。自分を見つめる眼差しをじれば、それだけでも励みになる。観客は多ければ多いほどいい。多くの青年部や壮年・婦人も一緒になってを注げば、多少、道を踏み外すことがあっても、直ぐに戻ってくる。


「子供の畜生道に負ける母親は、子供を育てられません」との指摘は重要だ。母親が甘やかせば甘やかすほど、子供はわがままになる。ひ弱な人格は、イジメの現場を見ても傍観を決め込むようになる。自分さえイジメられなければよしとする子供が、まともな大人になる見込みはない。


 荒れ放題の子供や、引きこもりの子供を持つ親は、必ずこう言いわけをする。「どうしていいのか、わからなかった」と。この無責任さが、子供の人生を歪めたことにすら気づいてない。やるべきことは、いくらでもある。出来ることは無限にある。


 昼間は庖丁を振り回し、夜は母親の胸で眠る小学校4年生の不登校児童がいた。母親が我が身を振り返り、次のように述べている。


 1. 子どもの前で他人の批判を平気でしていた。

 2. 世間体を大切にして人前でいい子を演じる八方美人だった。

 3. 自分の好きでパートに出ていたのに「お母さんがどれだけしんどいとってんの!」とカッカしながら子育てや家事をやっていた。

 4. 「ローンを早く返せない、働きが悪い」と子どもの前で父親をけなしていた。

 5. 自分はさんざん叱るのに、わが子が父親や他人から叱られるのがとても嫌だった。

 6. 悪いことをしたから叱ったのに、直ぐさま後悔したり食事の世話を焼いたりして、ご機嫌を取っていた。

 7. 全てにおいて中途半端だった。

 8. 我が子に代わって友だちに取られたおもちゃを取り返しにいったり、言えないことを伝えにいったりしていた。

 9. 何事に対しても遅くて下手な我が子にイラつき、ほとんど母親が手を出して代行していた。

 10. テストの点が悪いとか、あの時になぜ友達を許したのかとか、叱ってはいけないところでさんざん叱り、人に迷惑をかけたり父親に悪い態度を取った時など、肝なところで適当な叱り方しかできず、甘かった。

 11. 子どもの顔色を窺いながら子どもに最高の環境を常に先回りして整えてしまい、自らので親に要求してくる機会を完全に奪っていた。

 12. 子どもの進路については決して譲らないくせに、我が子の要求に直ぐさま応じて、子育て(信)を譲りまくっていた。

 13. 学校から帰ってきた我が子の野次馬になり、根掘り葉掘り聞き出しては干渉し、クラスメートや担任の批判を親子でしていた。

 14. おなかが痛い、頭がボ―ッとする、歩く気になれないと子どもが訴えると配になって大げさに反応し、熱も計らずに簡単に学校を休ませていた。


 親の身勝手な期待や欲望を満たすために子供がいるわけではない。


 親となり、子となった以上は、“宿命共同体”である。親が変われば子は変わるし、子が変われば親も変わる。

武士の間で賭博が広まる


 御成敗式目が作られた頃の武士は戦乱のない久方ぶりの平穏な暮らしを楽しんでいた。しかし「いざ鎌倉」の号令がかかれば、馳せ参じなければならない武士にとって平穏な生活はあまりに退屈な日々であった。その結果、賭博が楽しみの一つになっていた。

 戦争を生とする武士である坂東武者のことだから、気は宮中にいる貴族よりはるかに荒い。しかもひとたび合戦が起これば、それは生か死かの世界である。おのずと神にすがり占いの入り込む余地も大きかったであろう。賭博も派手であった。

 それが証拠に鎌倉幕府が制定した御成敗式目の追加法には、10回以上も賭博禁令が出されている。嘉禄2年(1226年)に出されたのが最初のようだが、御成敗式目51ヶ条が成立した貞永元年(1232年)より前に、発布されているということは注目に値する。つまり、きちんと整備された法律が出来る前に、個別法として賭博の禁令が出されたということはよほど喫緊の課題だったのだ。

 この禁令は「賭博の輩停止すべき事」という題目で、「最近、遊蕩の輩が賭博をしている。限度を知らず宅財まで賭けて勝負をしている。喧嘩も甚だしく、楽しく遊んでいるとうと、殺し合いに発展することもある。これまでも禁止ししてきたところだが、一切禁止とし反した者は断罪に処す」(『中世法制史料集』)といった内容である。(中略)

 鎌倉時代の賭博は双六に加えて「四一半(しいちはん)」というのも登場した(増川宏一『賭博 III』)。度々出された禁令のなかにも四一半という言葉が見える。双六は何度もサイコロを振って駒を進めるルールだから時間がかかったが、四一半の基本は二つのサイコロを振って偶数か奇数かを当てる丁半賭博である。勝負は早い。

 ただし四と一の目が出たときは、胴元の役得として勝った者にも半分しか払わないというオプションがついていた。オイチョカブの「シッピン」とか「クッピン」といって四と一、九と一の札を親が引いたら、親の総取りになるルールがあるが、おそらくその元になったものだろう。




 第二次元寇から16年後の永仁5年(1297年)に徳政令が出されることになるのだが、少々疑問を投げかけたい。先ほど紹介した賭博の禁令と利倍法は、鎌倉初期に出されたものである。賭博の禁令には宅財を賭けて命がけでやっている愚か者がいると書かれていた。法令に書かれるぐらいだから、実際にそれで困った御家人もいたことだろう。

 まったく下衆(げす)な像だが、表の理由は元寇による金詰まりだが、じつは賭博の清算も幕府は図したのではないだろうか。


【『金貸しの日本史』水上宏明(新潮新書)】