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2005-09-23

単己の菩薩


 MLの過去ログに面白いものがあったのでご紹介しよう。ある方が、「単己の菩薩」というハンドルを使用。私がこれにケチをつけた(笑)。ただ、この方、現在は参加されてなく、承諾も得てないので、「S」さんとしておく。


S


 小野さんより、


 地涌の菩薩の集いである学会に席を置きながら、「単己の菩薩」を乗るのは関いたしません。ハンドルを変えられた方がいいといます。要らぬ誤解を生みかねませんので。


 との、ご指摘を受けました。


 私としては、命の理由は従地涌出品の「単己にして遠離(おんり)の行を楽(ねが)える」という眷族のない地涌の菩薩味で、他掲示板での書き込みの際に使用していました。同時に、学会の「一人立つ精神」を表す言葉でもある(聖教のコラム)ので、引き続き使用していましたが、確かに小野さんのいわれる通り、「要らぬ誤解を生みかね」るので、本の一部をとって、「S]としました。


小野不一


 ああー、よかった(笑)。単己の菩薩とは、書かれていた通り、眷属のいない菩薩のことです。つまり、折伏できない菩薩のことなんです。昔はよく、個人折伏ができてないと、「お前は単己の菩薩か!」と怒鳴られたものです。単己を乗ると、役職否定、責任否定となりかねません。


 学会員は、皆、地涌の菩薩です。六万恒河沙の眷属がいることを強く確信します。


S


 組織・幹部が違うと色々ですね(笑)。私は、先に書いたように、「一人立つ」精神と教わりました。


小野不一


 それは誤りです。眷属がいないということは、一番最後に信するということなんです。だから、折伏ができないんです。


 学会員ではない人の方が多い現代にあって、単己の菩薩は登場するはずがありません。


 六万恒河沙の最後尾にいるのが単己の菩薩なのです。


S


 ちょっと待って下さい。それは違うといます。


 経文(従地涌出品)に、「是の大威徳の 精進の菩薩は 誰か其の為に法を説き 教化して成就せる 誰に従って初めて発し 何れの法を称揚し 誰れの経を受持し行じ 何れの道を修習せる 是の如き菩薩は 神通大智力あり」とあり、六万恒河沙の眷属ある菩薩も単己なる菩薩地涌の菩薩として差別を設けていないのです。


 また、先生も御義口伝の文をあげ「釈尊・所具の菩薩なるが故本地本化の弟子を召すなり」と仰っています。また、大聖人も「一人を手本として一切衆生平等」と仰せです。(『法華経の智』聖教ワイド文庫 280p)


 いかがお考えでしょうか?


小野不一


 切り文ですね。その前に、「単己にして眷属なく 独処を楽(ねが)う者」とあるのに、どうして無視するんですか?


 この本というのは、六万恒河沙の眷属を率いた地涌の菩薩が陸続と登場することを示し、「算数(さんじゅ)譬喩も能(あた)わず」という部分にあるのです。その中に、眷属を率いてない単己の菩薩が出てきます。わざわざ、こうした菩薩を登場させるところが、大変、数学的で面白いところです。


 また、大聖人も「一人を手本として一切衆生平等」と仰せです。


 全く見当違いですね。「一人」を「単己の菩薩」とするならば、誰一人、折伏できないことになります。


 差別云々ということではなくして、多様な姿で現れるということでしょう。


 単己の菩薩を「一人立つ」とした解釈は初です。多分、その先輩は勘違いしただけでしょう。一人立ち上がっても、眷属がいないんですから、孤独の極地ということになってしまいます。立ち上がっても、座る他ない(笑)。これを繰り返せば、ヒンズースクワットになりますわな。


『御義口伝講義』に関しては、手元にないのでわかりません。


 要は、「眷属がいない」ということを、どのように捉えるかということです。これは、「法を説く相手がいない」ということでしょう。


 だからこそ、「誤解を生みかねない」と注申し上げたのです。あとは、ご自分でよく索して下さい。


S


 まず、該当箇所の本は、「一一の菩薩は、皆、これ大衆の唱導の首(はじめ)にして」であり、そして「六万の恒河沙等の眷属を将(ひき)いたり。況んや、五万・四万 (中略) 況んや、また単(ただ)、己のみ遠離の行を楽(ねが)えるものをや」とそれぞれの菩薩への賛嘆の言葉が続きます


 この箇所のサンスクリット訳は


 このような偉大な人である菩薩たちに伴われ、大いなる侍者に伴われた集団の師のうちの六十のガンジス河の数と同じ幾百千コーティ・ナユタもの菩薩たち、その人たちが、サハー世界の大地の裂け目からここに一緒に出現したのだ。ましてや、五十のガンジス河の砂(の数)に同じ菩薩たちを侍者とする偉大な人である菩薩たちについては言うまでもない。ましてや……(中略)……ましてや、百・千の侍者を有する偉大な人である菩薩たちについては言うまでもない。ましてや、……(中略)……ましてや、四十、三十、二十、十、五、四、三、二の菩薩たちを侍者とする偉大な人である菩薩たちについては言うまでもない。ましてや、他の一人(の侍者)と一の偉大な人である菩薩たちについては言うまでもない。ましてや、侍者のいない、一人でいることを楽しんでいる偉大な人である菩薩については言うまでもない。


 この内の最後の一節が「単己の菩薩」と漢訳されています。侍者がいないという味で「単己」なのであり、一人でいることが何も悪いこととは言われていません。今何をすべきなのかが重要なのです。一人で勝手な行動をするというようなイメージをもって読んだ幹部の我見で、その誤りが独り歩きを始めたのだと考えます。


 釈尊も「サイの角のようにただ独り歩め」と何度も繰り返して説いています。


小野不一


 あなたが引用している経文は、いずれも地涌の菩薩を讃嘆したものであって、「父は若く、子は老ゆ」と同じ類いです。これは、久遠実成を示すところに目的があることを知るべきでしょう。


 私が考える単己の菩薩とは、例えば、病気が悩みで入会したが、間もなく亡くなった方なんかが当たるといます。眷属がいないということは、そういうことでしょう。そうであっても、立派な地涌の菩薩だということです。出産直後に亡くなった福子なども同様です。


 戸田先生は、「折伏とは、自分の眷属を見つけることだ」と仰せです。単己の菩薩乗れば、この指導を否定することになります。


dio


 Sさんのおっしゃる通り、地涌の菩薩に差別はありません。皆、五濁悪世の末法で南無妙法蓮華経を流布する使命を約束、自覚して生まれ出でた存在です。しかしながら、役割には違いがある。「遠離の行を楽(ねが)える」とは、まさに、たったひとりで孤独に戦い死んでいくことを今世においては自ら買って出て、その姿でもって人々を教化していく使命を担った菩薩であると私は捉えます。


S


 中々話がかみ合わないのは、話の角度が違うからではないかといます。小野さんは「単己の菩薩」とは、折伏をしない菩薩・出来ない菩薩の謂い。私は誰か特定の人を指すのではなく「一人立つ『精神』」と考えています。


 先生も『法華経の智』の中で「己です。法華経自体が釈尊の己説法であると戸田先生は言われました。序品や神力品の瑞相も、聞や菩薩たちとの対話も、宝の出現も、地涌の菩薩の涌出も、全部、釈尊己のドラマと見ることができる。」また、御義口伝の「釈尊・所具の菩薩なるが故本地本化の弟子を召すなり」、観心本尊抄の「上行・無辺行・浄行・安立行等は我等が己菩薩なり」等の文をあげて教えてくださっています。


 また、「眷属」という語を「折伏した人」「折伏する相手」と捉えているようですが、眷属という語は御書の中でも大雑把に言うと三種に使われています。「妻子・眷属」のように『一族・仲間』、「王の眷属」のように『従者』、そして、「迦葉阿難」をあげ『脇士』の三種です。ここでは、『仲間』が適当かといます。なぜなら、この「眷属」も地涌の菩薩なのですから。


 つまり、私もSGIが世界190ヶ国に広がったと聞けば六万恒河沙の同志と共に戦う喜びをじ、一人の友人と法対話をする時は、一人の法者として目の前の友人の幸せをから願い祈ります。



 最初に結論を述べておきますが、“単己の菩薩”という捉え方は、特別な菩薩を表しているようで、私は否定的です。地涌の菩薩の中にも、単己の場合があるというだけで、十分な気がします。それ以上に特別な味があるのなら、出典or文証を紹介してください。


 法華経では、従地涌出品第十五に2ヶ所にできてきます。少々長いですが、該当箇所を引用します。


1.『一一の菩薩、皆是れ大衆の唱導の首なり。各六万恒河沙等の眷属を将いたり。況や五万、四万、三万、二万、一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。況や復、乃至一恒河沙、半恒河沙、四分の一、乃至千万億那由佗分の一なるをや。況や復、千万億那由佗の眷属なるをや。況や復、億万の眷属なるをや。況や復、千万、百万、乃至一万なるをや。況や復、一千、一百、乃至一十なるをや。況や復、五、四、三、二、一の弟子を将いたる者をや。況や復、“単己にして、遠離の行を楽えるをや”。是の如き等比、無量無辺にして、算数譬喩も知ること能わざる所なり』(453p)


2.『一一の諸の菩薩の 所将の諸の眷属 其の数量有ること無く 恒河沙等の如し 或は大菩薩の 六万恒沙を将いたる有り 是の如き諸の大衆 一道を求む 是の諸の大師等 六万恒河沙あり 倶に来って供養し 及び是の経を護持す 五万恒沙を将いたる 其の数是れに過ぎたり 四万及び三万 二万より一万に至る 一千一百等 乃至一恒沙 半及び三四分 億万分の一 千万那由佗 万億の諸の弟子 乃ち半億に至る 其の数復上に過ぎたり 百万より一万に至り 一千及び一百 五十と一十と 乃至三二一 “単己にして眷属無く 独処を楽う者” 倶に所に来至せる 其の数転た上に過ぎたり 是の如き諸の大衆 若し人籌を行いて数うること 恒沙劫を過ぐとも 猶尽くして知ること能わじ』(459p)


 1は、地涌の菩薩の登場後にその姿を描いたシーンです。2は、地涌の菩薩に疑問を持った弥勒菩薩の質問の中で、弥勒が地涌の菩薩を描写しているところです。2の直前には、『時に弥勒菩薩摩訶薩、八千恒河沙の諸の菩薩等のの所を知り、並びに自ら所疑を決せんと欲して合掌し、に向かいたてまつりて偈を以って問いて曰さく』とあり、2は偈文になっています。形は違えど、基本的に、1と2はほぼ同一内容のもので、内容的には繰り返しです。


 1と2を読んでみると分かるといますが、地涌の菩薩はさまざまな形態をなしています。もの凄い数の眷属を率いているものから、少々の眷属だけのもの、わずか数人の弟子を引き連れているもの、そしてたった一人で遠くの地で修行に励んでいるもの等々。


 なぜこのように描写しているのか? それは、地涌の菩薩は、あらゆる場所に存在し、しかもその数は無量無辺だからです。大中小とさまざまなグループを織りなし、そしてたった一人の場合もあると。要するに、ここでは数を挙げているが数が問題なのではなく、いろいろな(ありとあらゆる)地涌の菩薩がいるということでしょう。これは、さまざまな国・社会・環境の中に、地涌の菩薩が存在するということを味しているのだと考えます。


 ただ、1では『遠離の行を楽える』、2では『独処を楽う者』とあります。“楽”を“ねがう”と訓読みしてますが、願うなのか、たのしむなのか。手元に現代語訳がないので分かりませんが、おそらく字義(語源)通り、たのしむだといますが、古語や漢文には素人なので、正解は分かりません。“たのしむ”だとすると、独(ひとり)りを楽しんでいるように見えますが、地涌の菩薩ですから、孤独というにも負けず遊楽し、広布に励んでいる姿と考えます。


 現代風に俗っぽく言えば、単己とは単身赴任とも言えるでしょう(笑)。また、自分の住む地域に信をしている人が他に誰もいなければ、これも単己でしょう。また、海外広布にひとりで頑張っている人、海外でたった一人で信している人は、まさに単己と捉えても良いのではないでしょうか。


 つまり、単己とは、あくまでも数を言っているだけで、そこに特別の味はないと私は考えます。この点は、Sさんと小野さんとも異なります。眷属がいないという表現をどう捉えるかの問題はありますが、折伏ができないとするのは早計だといますし、飛躍しすぎだとも考えます。


 一人立つ精神とは、単己の場合には特に強く必要でしょうが、地涌の菩薩の共通の要諦です。それを顕しているのが四弘誓願であり、すべての地涌の菩薩がこの誓願をしているはずです。そうであるからこそ、地涌の菩薩に法を付嘱されたわけです。


 涌出品では、「師子は伴侶を求めず」の趣旨で単己になったということは描かれてませんので、単己である故に一人立つ精神を強調していると捉えるのも間違いではないが、これも飛躍であるといます。


 ただし、訓読みされている“楽(ねが)う”を、願う・誓願と解釈した場合は、そうした一人立つ精神を強調しているといえますが、漢和辞典を当たっても楽=願の味は見出せませんでした。それが、先に“たのしむ”と捉えた根拠にもなっています。


 また、眷属について。


 これは、第一次宗門問題の時、坊主どもから、地涌の菩薩は大聖人に限るのであってお前らはその眷属である。よって、自分たちを地涌の菩薩と称することは謗法だと癖をつけた。しかし、法華経での描写を見れば分かるとおり、眷属は集団として捉えています(もちろん、眷属にはもっと深い味があるわけですが、本題からそれるので省きます)。眷属も地涌の菩薩であることに代わりはなく、その中からリーダーを排出しているだけでしょう。当然、ある場合には、リーダー自らが折伏をして眷属を増やしているでしょう。まさに、現代の私たち学会の姿です。


 最後にまとめれば、単己とは、現時点では眷属がいなくて、たとえ独(ひと)りでもいかなるにも負けず、信に広布に励んでいる地涌の菩薩を指すのだと私は考えます。


 しかし、単己の菩薩と称して特別に捉える必要を私はじません。どれほど眷属がいようとも、究極は一人ひとりの信がすべてであり、肝要です。涌出品でいう単己は、こうした究極の信を表したものでもないと考えます。


 単己の菩薩と称すると、何か特別の菩薩であるかのようなを持ちかねません。全員が、地涌の菩薩でよいのではないでしょうか。御書や天台の三大部にも当たってみましたが、単己について見あたりませんでした。『御義口伝講義』も手元にありませんので、特別な記載があるのかどうか分かりませんが、地涌の菩薩であっても、たった一人っきりの時・場合もあるというこで良いのではないでしょうか。私には、それだけで良いようにうのですが。


 大聖人の戦いも、たったおひとりからの出発でした。お一人だった当時の大聖人を、ざわざ単己の菩薩と称するのでしょうか?


 また長くなってしまいましたが、単己の菩薩として取り上げることまでを否定はしませんが、特別称する必要も私はじません。


小野不一


 さあて、またぞろ蒸し返しましょうか(笑)。


 最初に結論を述べておきますが、“単己の菩薩”という捉え方は、特別な菩薩を表しているようで、私は否定的です。


 私としては、既に書いたように、「眷属がいない」という点に着目せざるを得ません。


 数学的で面白い見方だといます。つまり、例えば、六万恒河沙の眷属がいたとすれば、“六万恒河沙人目”の菩薩は単己ということになりましょう。無限に現れると、涌出品が終わらなくなってしまいます(笑)。その味からも、起承転結というか、成住壊空というか、地涌の菩薩の登場を完結させるために、敢(あ)えて登場させているような気がします。


 また、単身赴任であっても、後輩の面倒をみたり、新たな友人を折伏してゆけば、単己とはならないと考えます。海外のメンバーについても同様です。


 ですから、前に書いた、例えば、生まれて直ぐに亡くなった子供がいたとしても、親に信を教えるケースもあるわけですから、これは厳密にいえば単己ではありません。親が眷属となるでしょうね。


 結論的に申し上げると、世界に信してない人が一人でもいれば、単己の菩薩とはならない。地球が滅亡する寸前に入会した人が、単己の菩薩ということになる、というのが私の考えです(笑)。


 ちなみに、御書を検索してみたところ、「単己の菩薩」とうい言葉は、1ヶ所もありません。



 さあて、またぞろ蒸し返しましょうか(笑)。


 了解(笑)。


 私としては、既に書いたように、「眷属がいない」という点に着目せざるを得ません。


 ここは、同です。というか、この部分が一番の問題点だと考えます。


「単己にして眷属無く」のところは、弥勒(みろく)の質問の中で弥勒の視点からの描写ですので、眷属がいないということに私は特別な味はないと考えました。ここでの眷属とは、リーダーに従う集団・グループという味が中・表になっていると考えます。


 しかし、弥勒の視点といえども久遠実成の釈尊の己説法であることに代わりはありませんので、“現時点では”集団を率いていないと捉えるのが正解かなと考えたわけです。


 なぜこう考えたかと言えば、天涯孤独であっても眷属がいないというのはあり得ないとうからです。眷属とは、自分に縁のある人の総称だと捉えます。その範囲は、同志を初めてとして、信の有無にかかわらず、親族・友人・知人・同僚・顔見知り等々もです。中でも、似たような格・傾向・宿の人を特に眷属と称する場合もあります。


 ここからは、完全な我見であり、飛躍ですが(笑)、私はもっと広範囲に眷属を考えています。同時間(時代)・同空間(国土)に存在するものすべてが眷属ではないかと。こう捉えると、全宇宙すべてになってしまうわけですが、そこまで広げると実がなくなってしまうので(笑)、取りあえず、同時代に生きている人(有情)、存在するもの(非情)すべてが眷属であるというのが、私の考え方です。もちろん、三世(時・空間)を超えて宿縁深きつながりも眷属です。


 でも、こう捉えるとき、まったく見知らぬ人であっても、生涯出会うこともないであろう人々であっても、私は身近にじられるようになったからです。実際に身近にいる人々(出会った人々)との違いは、宿縁の浅深の差だといます。


 よって、眷属がいないというのは、本来あり得ないことだと考えるわけです。ちょっと、話がそれましたが(笑)


小野不一


 よって、眷属がいないというのは、本来あり得ないことだと考えるわけです。


 いや、そうなんですよ。


 迹化の菩薩達が、滅後の弘教を誓い、これをしりぞけるところから涌出品は始まります。で、釈尊が地涌の菩薩を紹介する。「是の諸人等能く我が滅後に於いて、護持し、読誦し、広く此の経を説かん」。


 つまり、滅後の弘教をするのは、この人達なんだよ、って紹介しているのに、眷族がいない菩薩がいるのは、本来、おかしいですよね?(笑)


 そこに、数学的な概があるような気がしてなりません。


S


“楽”を“ねがう”と訓読みしてますが、願うなのか、たのしむなのか。


 サンスクリット語原典では「楽しむ」だそうです。しかし、それを鳩摩羅什は敢(あ)えて「楽(ねがう)」と訳したのは、私は、「楽しんで願う」(自ら進んでそれを希望する)としたのではないかといますが、いかがでしょうか?


S


 聖教のコラムに「単己の菩薩」があったと以前に書きましたが、遂に、その切り抜きを見つけました。16年間保管していた教学試験の問題の切り抜きの中から出てきました。以下がそれです。


明鏡「単己の菩薩聖教新聞


 十人十色というように、人にはそれぞれ個がある。法華経に登場する地涌の菩薩にも、「単己の菩薩」という“個派”がいる。

「単己にして眷属無く独処を楽う者」

 自分だけ眷属がなく、一人でいることを願う人……それぞれが無数の眷属を引き連れている菩薩たちの間では、ちょっと変わった存在だ。

 その人間像をい描いてみると「自立の人」「孤独を愛する家」といったタイプだろうか。利他行に励む菩薩にとって、他者とのかかわりは生命のはず。いつも一人でいたがるのは菩薩の身上とも違うはずである。

 ところが、この単己の菩薩は、実は個派どころか“最大多数派”である。

 経文には「その数うたた上に過ぎたり」、つまり眷属を率いた菩薩よりも数が多いと説かれているのだ。(略)

 たとえば眷属がなくとも地涌の菩薩……その本質は、他の誰をも頼らずただ一人でも広布に向かって進む人格の輝きを言ったものとも考えられる。

 ともあれ、そうした多彩な人々が堂々たる菩薩たちの一員として描かれていること自体、「地涌の菩薩」が全人類を包むことの象徴といえよう。

 同志とともに広布の第一線で活躍する人はもちろん、そうでない人も、それぞれの尊い使命がある。学会の会友運動の広がりは、万人の人間の開花を目指す「地涌の法」の理的な歩みである。独善と抑圧の日顕宗は、地涌とはベクトルが正反対の「天宗」だ。(泊)


小野不一


 小野です。まだ、続くとは予外(笑)。


 地涌の菩薩にも、「単己の菩薩」という”個派”がいる。

「単己にして眷属無く独処を楽う者」


 署が(泊)となっているところを見ると、小泊(こどまり)さんでしょうかね。眷属のいない単己という存在を「個」と考えるのは、どうなんでしょう? 孤独な人を「個的」とは普通言いませんよね。


 ところが、この単己の菩薩は、実は個派どころか“最大多数派”である。

 経文には「その数うたた上に過ぎたり」、つまり眷属を率いた菩薩よりも数が多いと説かれているのだ。(略)

 たとえば眷属がなくとも地涌の菩薩…その本質は、他の誰をも頼らずただ一人でも広布に向かって進む人格の輝きを言ったものとも考えられる。


 これは誤りです。正確には、眷属の多い菩薩から順番に記述され、その最後に、


 百万より一万に至り 一千及び一百

 五十と一十と 乃至三二一

 単己にして眷属無く 独処を楽(ねが)う者

 倶(とも)に所に来至せる 其の数転(うた)た上に過ぎたり


 と書かれているのです。つまり、六万恒河沙の眷属を率いている菩薩より、五万恒河沙を率いる菩薩の数は多く、それよりも一千人の眷属を率いる菩薩は多く云々ということですから、単己の菩薩が一番多いといっているわけではなく、「一千以下から単己に至るまでの菩薩」に掛かっている言葉でしょう。


 しかも、その直後で、「恒沙劫という時間を経ても数えることができない」と書かれているのですから、一人ぼっちの菩薩が一番多かったという観察自体が成り立たないと考えます。ちなみに一人ぼっちの語源は、一人法師(笑)。


 釈尊の本眷属ともいえる地涌の菩薩が数えることのできないほど現れるところに元があるのです。



「明鏡」で一番問題な箇所は、小野さんの指摘通りですね。


 今回の問答?(笑)で、私が気になるのは、「単己の菩薩と称してなぜ“単己”がことさら取り上げられるようになったのか」ということなのですが。単己の所だけ、単純な描写ではなくその姿勢も描かれているからなのでしょうが。


 最初に述べたとおり、該当箇所は、地涌の菩薩があまりにも大多数なのでその有り様を描写しているだけだとうのですが。で、「その中には単己で登場してきた者もいる」と。「眷属無く」の眷属とは、この場合数の描写ですから広義の味で「集団・グループ」を表していると考えるのが妥当だといます。ですから、眷属がいないor持たないということではなく、“集団を引き連れていない単独”という単純な味だといます。単己の理由として「遠離の行を楽(う)」「独処を楽う」と描写されているわけです。


 そこに何らかの義・解釈を見いだすことも味はあるでしょうが、飛躍しすぎるものは、やはり考え物です。


「楽」に関してですが、“楽しむ”ではなく、やはり“願う”の味が正解のようです。または、両方の味を含んでいるのかもしれませんが。他の箇所にも出てきますが、訓読も、味からも、願うに当たりますね。法華経の訓読は、学会版以外にも他にもあるのですが、他のものも“ねがう”と訓読されているようです。古文・漢文に詳しい方が解説してくださるとありがたいのですが。


 この点は、今後の課題にして、私も勉強してみます。

単己の菩薩:関連指導


 法華経の従地涌出品第十五に、六万恒河沙の地涌の菩薩の出現が説かれた。その中に“単己にして眷族無く、独処を楽(ねが)う者”という“単己の菩薩のことが述べられている。

 チームワークを保って戦ってゆく人は、福運を積める人である。独りよがりの人は、単己の菩薩である。それでは福運は積めない。


【『指導メモ』 1966-06-01発行(聖教新聞社:絶版)】


「単己にして眷族無く 独処を楽(ねが)う者 倶(とも)に所に来至せる 其の数転(うた)た上に過ぎたり」

 これは、たとえ組織から離れ、たった一人で御本尊を拝んでいるような人がいたとしても、因果の法則に基づき、必ずや広宣流布の流れの中へと最終的には帰ってくるとの文である。

 ともかく、集合離散を繰り返しつつ、それが広宣流布への大河の流れとなってゆくわけである。


【立宗記勤行儀式 1977-04-28 古屋・中部文化会館