Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2006-03-31

現実を甘くみれば敗北


 王子の偉大さは、夢の実現のために周到な準備をしたことである。「現実」を決して甘くみなかった。

 何事も現実を甘くみることは敗北につながる。いわんや法は、どこまでも厳しく現実と戦い、現実を向上させゆくところにこそ、根本の精神がある。

 では、エンリケ王子はその「現実」に勝利するために、どのような手を打ったのか。

 まず彼は、最新の「情報」「学問」「知識」、そして「人材」を集めに集めた。

 第二に、それらを目的のために使い切る「組織」を確立した。個々人がバラバラであれば、大いなる事も成し遂げられない。一人ひとりの力や才能を結集し、知識を集め、それぞれの持ち味を存分に生かしてゆく。その時、「足し算」ではなく「掛け算」の力が発揮できる。ここに組織の力と必要がある。

 それまでは、どちらかというと「個人」の「経験」のみに頼る航海であった。いわば、あらゆる人材の団結が時代を変えたのである。

 学会の発展も、妙法の力用は当然として、戸田先生の鋭き先見と指導力によって築かれてきた「組織」があったがゆえである。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 学会の歴史を振り返ると、三つの周到な準備があったとわれる。それは、聖教新聞の発行、御書の刊行、そして、衛星中継である。もしも、これらがなかったら、地域格差が学会全体の足を引っ張り、世界宗教へと飛躍することは困だったに違いない。


 今から10年以上前になるが、ある副会長が「皆さんの命の中にある師弟を眠らせたまま、5.3を迎えたくない」と切り出し、会長勇退の歴史を教えて下さったことがある。


 今日、東京は新体制になった。これが、法華経本門最終段階の東京となるだろう。先生が一切の犠牲となって会長を勇退されたのは、ここ東京であった。日顕によって背後から斬りつけられたのも東京だった。そうであれば、東京は“現代の竜の口”といえよう。


 完璧な師弟不二の東京を築いて参りたい。

香典


 友人葬については、香典不要というのが原則となっている。持っていくか、いかないかは、飽くまでも自由だ。金額に関しても、世間の常識にとらわれる必要はない。


 以前、「男子部で“部一同”として香典を出そうかと考えているんですが……」と相談されたことがある。私は、「やめておけ」と言下に否定した。組織で行えば、そこに必ず強制力が生じる。口の軽い愚か者がいれば、金額の多寡も漏れてしまう。そもそも、通夜・葬儀に参加するかしないかは、個々人の自由なのだ。


 故人の死を悼(いた)む気持ちが尊いのであって、世法を気にするあまり、を失ってしまえば本末転倒だ。


 大幹部であっても、家族のみで行っている場合もある。また、故人のにより、香典を受け付けず、参列者に甘酒を振る舞った通夜もある。


 亡き同志を偲(しの)び、その方の分まで、広宣流布の主戦場で戦うことを誓うのが、創価学会の通夜である。

2006-03-30

一人の人間の一念が歴史を塗り替える


 さて、エンリケ航海王子は、この岬で約40年もの間、“大航海”の基礎をつくり続けた。結婚もせず、「海と結婚した王子」と呼ばれた。

実験航海が失敗すれば、王子はその損害を補償したため、借金だらけであった。

 本来ならば、自由気ままに一生を送ることもできた身分であった。しかし、彼は祖国のために一人黙々と働き続けた。

 そして、この王子のひたぶるな「無私の情熱」が、国を挙げて「海へ!」と向かわせる原動力となった。

 世界を変えた“大航海時代”も、まず、エンリケ王子という一人の若者の「の中」に生まれたのである。

 一人の人間の「一」が、どれほど偉大な力を持つか。また、その限りない可能を深く確信した者が勝利者となる。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 19歳の釈尊もまた、王位を捨てて出家した。大いなる目的に生きる者に共通しているのは、いかなる地位や財産にも執着しないところか。とすれば、“王位”を求めるような人生に、真の幸福はない。出家の本来の義もここにあった。


 それにしても、40年という歳が、「四十余年未顕真実」と符号するのが不議。


 春三、甲子園球場で高校球児が舞う季節となった。あらゆるスポーツには、“ゲームの流れ”がある。まだ、大人になりきれてない高校生の場合、それが特に顕著。たった一つのミスで、試合が引っくり返ることも珍しくない。果たして、“ゲームの流れ”とは何か? それは、選手一人ひとりのの変化だろう。あるプレーで、負けてるチームが勝利への執を燃やし、勝ってるチームに不安が広がる。やじろべえのように揺れながら、小さな勝敗の積み重ねがゲームの総決算となる。そこに、人生を象徴するものがあるからこそ、人々はスポーツに熱狂するのだ。


 時代や社会を動かすのも、人々のに他ならない。


「戦いは、『勝つ』と決めた方が必ず勝つ」――これが、創価の将軍学だ。先駆を切るのか、金魚の糞みたいに、ただくっ付いてゆくだけなのか。それを選ぶのは君自身だ。

聖教職員 その二


 これは、一年前ほど前、秋谷会長に提出した報告書である。こういう人物もいることを知って頂きたい。安易な批判ではなく、信の“予防医学”と受け止めて頂けると幸いである。


報告書


 ○○日13:00に、学会本部→聖教新聞社へ電話をした際の対応があまりにもひどかったのでご報告いたします。


 私より、「今座談会御書のことで質問があるのですが」と言うと、女子職員から、「聖教新聞社に詳しい者がおりますので、お掛け直し下さい」とのこと。


 聖教新聞社では、中年とおぼしき女電話に出ました。私より、質問内容を次のように伝えました。「三障四魔に、煩悩障と煩悩が出てきますが、この二つの違いがわかりません」。「哲学大辞典はお持ちですか?」と訊かれ、「はい、既に見ました」と言ったにも関わらず、この女職員は、「今、教哲学大辞典を見てみますので、お待ち下さい」と3分ほど待たせられました。私は仕事中の電話ということもあって、「教哲学大辞典は見たと、先ほど言いましたよね? 失礼ですが、あなたのお前を教えて下さい」と言うと、「ちょっと、お待ち下さい」と、今度は男職員に代わりました。


 この男職員は最初からつっけんどんなじで、「煩悩障と煩悩は同じ味です」と答えました。重ねて私から、「妙な質問をするようですが、同じであれば、どうして二障四や三障三とならなかったのでしょう?」と質問すると、以下のような内容のことを言われました。

「地元の幹部に質問すればいい」

「『聖教新聞社に詳しい者がいる』と言った本部女子職員の対応はまずい」

「学会本部の職員は乗っても、聖教職員は乗る必要がない。そのように指示されている。もし、情を述べたいのであれば、“対応の者”と言えばいい」

「色々な方々(批判的な人も含めて)から、たくさんの電話があるので、対応しきれない」

「『大白蓮華』に書いてある通りだ。それ以上のことは自分で勉強すべきだ」

大聖人に聞かなきゃわらからない」等々。

 まさに、けんもほろろといったじで、取り付く島もありませんでした。


 たまたまこうした対応になったのかも知れませんが、「会員を大切にする」姿勢は微塵もじ取れませんでした。多くの学会員に不信を抱かせかねない問題だとい、ご報告させて頂きました。


 以上

Oさんの通夜


 Oさんの通夜へ往く。婦人部、お二方を伴って。


 亡くなったその日に私は、共通の先輩だった神田學志さんに、Oさんの越し方を手紙で報告した。以前、Oさんのことを書いたブロック通信も同封しておいた。


 Oさんは、今から10年ほど前に、組織でとんでもないトラブルに遭遇した。それ以降、組織から距離を置くことになる。普通の人なら、とっくに退転したことだろう。M支部長(副区長兼任)が足繁く通い、Oさんは少しずつを開いていった。その後、B長となったMさん(副本部長兼任)の人とナリに、Oさんは強く惹かれていった。そして、私の登場である(笑)。


 Oさんは、私が江東区から引っ越してきたと知るなり、「じゃあ、神田さんのことは知ってるでしょう?」と訊いてきた。「知ってるも何も、私は20代の頃から親しく指導を受け、男子部時代から壮婦を連れて行って、指導を受けてきたんですよ。まあ、言ってみりゃ、私は神田門下生の一人です」と胸を張った。


 それから、少ししてOさん宅を訪れた際のこと。私が、「Oさん、神田さんに電話してみましょうよ!」と言うと、突然、顔を曇らせた。江戸っ子らしいシャキシャキした物言いで「大体さ、こっちは30年以上も、挨拶すらしてねえんだよ。どの面(つら)下げて、おめおめと、話せるかってえんだよ」と言い放った。


 私はにこやかに、「あっ、全然、関係ないッスから」と応じ、携帯でダイヤルした(笑)。「神田さんに板橋でお世話になったOさんという方をご存じですか?」「ああ、知ってるよ」「実は、私が引っ越した先の組織で一緒になりまして。今、Oさんのところにいるので、替わります」と、私は電話を手渡した。


「ああ、神田さんですか! Oでございます。本当にご無沙汰しておりました――」。闘病のことを報告すると、すかさず指導が入った。「ハイッ、ハイッ、ありがとうございます」の連発である。電話を切るなり、「母さん、あの神田さんが、『よく、頑張ったな』って褒めてくれたよ。あの神田さんが!」と、子供のようにはしゃいでいた。


 神田さんは、すかさず激励の手紙まで送って下さった。


 ここからOさんの、広布第一章、第二章を地区部長として戦った生命力が蘇った。私は一日おきぐらいに訪ね、夜が更(ふ)けるのも忘れて語り合った。


 草創期の大先輩である神田さんによって、Oさんは完全に救われた。2年と数ヶにわたって、私と語ってきたのは、組織から離れていた空白期間を埋める作だったのだ。実の父親とよりも、この方と話した時間の方が長いほどだった。


 こうしたことを、神田さんに報告した。そして今日、返事が届いた。そこに書かれていたのは、「今度生死の縛を切つて果を遂げしめ給え」(177頁)との御聖訓をわせる凄まじい指導だった。私は、荘厳なる生死の実相を教えられ、ただただ激に打ち震え、決を新たにした。


 23日にOさんが逝去し、25日には知人の家で女の子が誕生。令法久住は連綿と続く――。


 以下、ブロック通信に書いたものと併せて、一部をご紹介する――


 大聖人有縁の地である大田区池上に生まれる。曲がったことが大嫌いな江戸っ子気質は今も変わらない。戸田先生の遺言であった300万世帯を目指す折伏戦の渦中で入会。昭和37年のこと。

 学会とはそれ以前から縁があった。先生が蒲田支部で指揮を執った昭和28年に初めて折伏を受けた。それ以来、大の学会嫌いに。昭和33年にも東京駅で、3.16の儀式に向かう多くの学会員と遭遇している。

 入会から2ヶ後、初登山。偶然にも池田先生と一緒に御開扉を受けることができた。総本山からの帰路の車中で、組長に任命された。部員が一人もいない組からの出発だった。当時の支部長が神田學志さん(創価高校副理事長)。支部長の帰宅を待ち、夜毎(よごと)、12時過ぎに指導を受けた日々は今でも最大の誇り。求道の実践は、70世帯の弘教となって結実した。

 昭和40年、新宿区へ移転。繁華街のある百人町で地区部長に。新宿では、数々の先生との出会いが。

 宿命の嵐が吹き荒れたのは昭和43年から。酔っ払い運転の大型トラックに衝突され、脊髄(せきずい)骨折の大怪我。100日の入院生活を余儀なくされた。退院後、3ヶして再び、交通事故に。今度は、セメントを積載した大型トラックの脇見運転だった。この時、両足の大腿(だいたい)骨を骨折し、識不明の重体に。それからというもの、後遺症に悩まされる日々が続いた。

 昭和55年には肺気腫を患(わずら)い、平成14年には膵臓(すいぞう)癌になった。更に昨年1、リンパ腺で癌が発見された。ひたぶるな唱題に徹し、「断じて、癌では死なない。死ぬ時は他の病気」と断言した。

 来し方を振り返り、「入会するまでに、散々、学会批判をしたい知らされた」と笑う。放射線治療・抗癌剤の副作用が全く現れず、医師が首をかしげたほど。病室で副作用にしむ大勢の人々を見て、の底から功徳を実した。昨年の8以降、体調はすこぶる良好。元気がありあまって、奥さんが手を焼くほど。

「すぎし存命不議とおもはせ給へ」(1192頁)の御文をかみしめる毎日。

 八王子に来たのは昭和50年。不議にも、大田区、新宿区、八王子と、師弟有縁の地で戦ってきた誉(ほま)れに胸を張る。

 地域貢献にも尽力。自治会副会長の時、バスの運行時間は、7:00-21:00だった。何度もバス会社と交渉を重ねた末、ついに6:00-23:30までの延長を勝ち取り、団地住民の足を確保した。

 言われなき誤解にしみ抜いたこともあった。だが、絶対に逃げるような真似はしなかった。ここにこの人の真骨頂がある。

 6人の子宝に恵まれ、9人の孫に囲まれる。長女は、創価高校の勤務を経た後、市議会議員に。次男は創価大学を卒後、大手建設会社に就職。現在、茨県全域の責任者として、職場で創価の旗を振る。

 誰よりも厳しいを知る人は、誰よりも素晴らしい功徳を実する人でもあった。労を重ねたことによって、誰よりも人の痛みを知るリーダーとなった。今、胸の中を去来するのは、深き報謝のい。


f:id:sokaodo:20060928101957j:image


f:id:sokaodo:20060928101956j:image

2006-03-29

土台づくりは教育から


 イベリア半島の南端・サグレス岬。大西洋の荒波以外には何も見えぬ荒涼たる地である。この岬に王子は移り住み、世界初の「航海学校」を創設した。

“まず、教育だ。土台づくりだ。あわてずに、じっくりと確実にやるんだ”――王子はこう考えていたに違いない。そのは、私にもよくわかる気がする。

 王子はその学校に、ありとあらゆる分野の一流の学者を招いた。航海術はもちろん、地図製作、造船、地理学、数学、医学、天文学等々。

 人種は問わなかった。ユダヤ人、アラビア人、そして、ルネサンスの先進国イタリアからも一級の知が集まり、自由に研究を重ね、教育に没頭した。


 この当時、最先端の知識と技術を持っていたのは、実はイスラム教徒とユダヤ人である。ヨーロッパはキリスト教のために遅れていた。

 それにしても、ユダヤ人はあらゆる時代に、常に最高峰の知識人を輩出してきた。

 ちなみに、現代に最も大きな影響を与えた3人の家も、みなユダヤ人である。

 宇宙の法則に迫ったアインシュタイン、社会・経済発展の法則を扱ったマルクス、そして理・無識の世界の法則に着目したフロイト。

 詳しい論議は、ここでは避けたい。しかし、しみの中にこそ、民族の偉大な精華は発現し、陸続と人材を輩出した。「」と「栄光」との間に一つの法則ずるのは、私一人ではあるまい。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 日顕による宗門問題以降、先生の提案によって、青年部は「大学校運動」を開始した。「しっかりと時間をかけて、学会精神を学んでゆくのだ」(趣)。日蓮正宗という足かせがなくなり、自由の気風が横溢(おういつ)した内容だった。今、振り返ってみると、短期間で終わってしまったことが残でならない。


 各地域の最高幹部は新しい発を求めて、若手を集めては企画を練った。私は“ミスター企画”だ。こうなると必ずが掛かった。大衆迎合に流された企画も見受けられたが、それすらも貴重な訓練だった。若さに不可欠なもの――それは試行錯誤という営みだ。


 広宣流布という運動を、自分達の頭で考え、遂行する貴重な体験だった。学会の垣根を低くすることを真剣に論じ合った。ある幹部は言った。「昔の学会は、入り口が広くて、出口が狭かった(笑)。これからは、出口を広くするのが戦いだ」と。


 ボイスエイド(カンボジア・ラジオ支援キャンペーン)で、ラジオを集めたのもこの頃だ(1992年/平成4年)。


 大学校運動が何となく惰に流され始めた。友人を集めてはいたものの、そこには折伏精神が全くなかった。県青県男会でも激しい議論を戦わせ、「今こそ、折伏だ!」と気を吐いたのは、江東と関西だけだった。


 江東男子部は、1ヶで5000部の新聞啓蒙を行った。中央からは、全然、評価されなかったけど(笑)。


 我が地域の大学校運動は、「江東21世紀アカデミー」と銘打って行われた。草創期の幹部の話や、打ち合わせで、先輩幹部とやり取りした内容は、今でも私の血となり肉となっている。

5.3記念協議会


 私が第三代会長を辞任したのは、昭和54年(1979年)424日であった。

 その直後の53日、創価大学の体育館で行われた本部総会が、私の実質的な“会長辞任の総会”となった。

 私は総会を終えると、東京の本部には帰らず、その足で神奈川へ向かった。

 神奈川文化会館に行って、はるかな未来と、広大な海を見つめて、全世界の広宣流布の指揮を執ろう!──そう決していた。

 55日、私は神奈川文化会館で、大きく「正義」と書いた。

 脇書きには「われ一人正義の旗持つ也」と綴り、この書を永久に保管するように言った。

 何があろうと、正義は正義である。法は勝負である。

 正義は、断じて勝たねばならないのだ。

 わが人生は、まさしく波瀾万丈であった。

 頼みとできる何ものも持たず、ただ一人、戸田先生の後を継いで、「正義」の旗を掲げて戦い抜いてきた。


【新宿区】

2006-03-28

Winnyについて


 Winny使用に関して。


 政府(安部官房長官談)も相次ぐ個人情報の漏洩から「Winny使用の禁止」を呼びかけています。今日の聖教にも、青木理事長の談話として「Winny使用の厳禁」が掲載されていました。これらをみると、Winnyそのものが悪のような印象を受けます。Winnyバッシング?(爆)


 確かに、著作権違反に該当するモノが多く流通し、それを目的でWinnyが使用されているのは周知の事実です。しかし、WinnyそのものはP2P(Peer to Peer)を目的とした、普通のアプリケーション・ソフトです。暴論ですが、そもそも、インターネット自体が巨大なP2Pであるとも言えます。個人情報の流出は、そのWinnyを介してウイルスを流し、そのウイルスが再度Winnyを介して情報を流出させていることに起因しています。


 要するに、Winnyは媒体であって、主たる原因はウイルスであるということを認識しないとWinnyの使用、無使用にかかわらず、情報の流出は防げません。Winnyの使用禁止は、次元は異なるが「鳥インフルエンザが恐いから鶏肉を買うのはやめよう」ということで、根本的な対策ではなく、単なる付け焼き刃です。


 ネットにつながっていて、ウイルスに染する可能が有る限り、情報の流出の危険は常にあります。P2PソフトはWinnyだけではありません。同様に有なものに、WinMX、Winnyの後継的なShare、最近ではBitTorrentなどがあります。Winnyそのものは作者の逮捕から開発がすでに終了しているので、Winnyを禁止したとしても、新たなソフトが主流になっていくだけでしょう。更に、メジャーなP2Pソフトでは、YahooやMicrosoftのメッセンジャーソフトがあります。これらも簡単にファイルの交換が可能です。「使用禁止」を訴えるだけでは、「養鶏はやめましょう」「牛肉も恐いから牧畜をやめましょう」という極論にまで至り、インターネット自体をやめるしかなくなるでしょう。


 最も大事なことは、「Winnyの禁止」ではなく、セキュリティ識の向上とそのための教育です。不特定多数が様々な目的でネットを利用している以上、ネット利用者は自己防衛のためにもセキュリティを強化していく義務と責任があります。


 再度、青木理事長の談話に触れると、「事件の関係者の多くはパソコンに詳しい人で、ウイルス対策を十分に施していました。それでもウイルスに染していることに気づかず、情報が流出して初めて気づいたというケースも少なくありません」とあります。私は流出事件の詳しいことは知りませんので、ウイルス対策が十分であったかどうかは、わかりませんが、対策が十分であるのは言うまでもなく、それ以前にウィルとは何か、どうすれば染するのか、といった基本的な知識が欠如しているとわれます。または、対策が十分であることへの過信と甘えでしょう。


 個人情報の流出防止のためには、セキュリティ識向上のための教育が欠かせません。ネット利用者は、セキュリティ強化の義務と責任があることを自覚しなければならないでしょう。ウイルス対策やセキュリティ強化の方法は、ネット検索すれば初者への解説から高度なものまで色々見つかり、直ぐに実践可能です。


セキュリティ強化の一例


 セキュリティ強化の一例を挙げておきます。


 1.アンチウィルスソフトを導入する。

 2.PC1台でもルーターを導入する。

 3.ファイアウォールソフトを導入する。

 4.アンチスパイウェアソフトを導入する。

 5.Windows XPのセキュリティを強化する。

 6.IEのセキュリティを強化する。

 7.タスクを監視する。

 8.パケットを監視する。

  • 最低限、1.アンチウィルスソフトは必須です。2.ルーターは外部からのアクセスを遮断してくれるのでファイアウォールの役割を果たしますが、PC(内部)から外部(ネット)への通信は遮断しませんので、ファイアウォールソフトも導入した方が良いでしょう。
  • Windows XP標準のファイアウォールは、ルーターと同様に外部からのアクセスは遮断しますが、外部への通信は遮断しないのであまり味はありません。7.と8.は、トロイの木馬などの怪しげなソフトが勝手に動いてないかどうかの確認のためですので、不安があれば導入しましょう。

 ルーター以外は、フリーソフトで実現可能です。以下は一例ですので、同種のものは他にもあります。

    • アンチウィルスソフトは、avast
    • ファイアウォールソフトは、ZoneAlarm
    • アンチスパイソフトは、Ad-Aware SE
    • タスク監視は、タスクロガー(TaskLogger) ProcessWalker Windows標準の「タスクマネージャ」の「プロセス」タブでも確認可能。
    • パケット監視は、NEGiES

 上記は各ソフトで検索すればすぐ見つかりますし、詳しい解説サイトもあります。


 面倒な場合は、アンチウィルスソフトとファイアウォールソフトが一緒になった市販のNorton Internet Securityを使いましょう。ただし、非力なPCだと重いです(爆) 私は嫌いですが(笑)、一番無でしょう。


 5.Windows XPのセキュリティの強化は、アカウントを2つ以上作成し、通常は管理者権限ではなく制限ユーザーで利用する。


 さらに、重要なファイルはマイドキュメントに保存せず、別のフォルダを作成して保存する。


 6.IEのセキュリティの強化は、通常はJavaを切っておけばほぼ安。セキュリティを簡単に切り替えられる他のブラウザに乗り換えることがよりベターです。


 上記すべてを実践しても、100%安全でないことは言うまでもありません。


】 「創価法研鑚掲示板」より

2006-03-26

見知らぬ世界に心を開き、人の言葉に耳を傾ける人は強い


 エンリケ航海王子は、ポルトガルの国王ジョアン1世の三男である。若くして(21歳)、北アフリカイスラム世界に触れ、世界の広大さ、そして新時代の足音を確かにじつつ、つかみとっていた。そして“よし、東方への大いなる道を開き、大ポルトガルをつくろう”と決してゆく。

 ――見知らぬ世界にを開き、人の言葉にを傾ける人は強い。その人は常に若々しく成長と進歩の道を歩んでいける。

 反対に、“自分は人の見を聞く必要はない”“今の自分で十分である”と、偉ぶるようになれば、もう人間としての向上はないし、輝きもない。


 大ポルトガル建設の大志を抱いた王子は、まず、華やかな宮廷生活を捨てた。

 彼には王子の立場に安住し、栄華と安逸の日々を過ごすことも可能であったかもしれない。しかし彼は、決然と宮廷を離れ、目的の達成に向かった。いかなる快楽や栄華も、所詮、空(むな)しい幻に過ぎないことを、青年の目は鋭く見抜いていた。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 瞼(まぶた)を閉じれば、人は前へ進めない。瞳が曇っていれば、スピードは出せない。目は見開いていても、その先に何を見つめるか――そこに、・信条・人生観が現れる。


 個人指導や折伏現場で、「それは違う」「いや、そうじゃない」を連発する人が、たまにいる。これは対話になってない証拠だ。自分の話を一方的に相手に押しつける格好になっている。対話とは、相手の話を一旦、自分の中に受け容れる作である。「確かに、そうだよね」「ああ、そうかも知れないね」と同するのが先だ。相手を見下す視線が、理解と納得を妨げる。


 悩みを抱えている場合、先輩に話すこと自体が勇気を必要とする。を決して赤裸々に語った後で後輩が望むのは、“理屈”ではないのだ。私自身、何度も経験しているが、先輩が真剣な面持ちで、振り絞るように発した「そうか」の一言で、どれほど救われたか知れない。を寄せてもらった瞬間から、沸々(ふつふつ)と闘志が湧いてくる。


 まことのみちは世間の事法にて候、金光明経には「若し深く世法を識らば即ち是れ法なり」ととかれ涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是れ説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産は皆実相と相い違背せず」との経文に引き合せてをあらわされて候には彼れ彼れの二経は深の経経なれども彼の経経はいまだあさくして法華経に及ばざれば世間の法を法に依せてしらせて候、法華経はしからずやがて世間の法が法の全体と釈せられて候(1597頁)


 法即社会なれば、学会でしか通用しない人材などあり得ない。学会員からしか相談を受けない副会長と、多くの友人や後輩から悩み事を打ち明けられる白ゆり長と、果たしてどちらが立派なリーダーか?


 教学が進んでくると、おのずと様々な知識や教養の幅が身についてくる。それは、生命の根本法則を知ることによて、興味の対象がどんどん広がり、何に対しても“面白い”とじる精神が養われるからだとう。


「100年に匹敵するこの5年」で一番大切なことは、本物の自分自身をつくり上げることであろう。されば、学ぶことを避け、自らの内側に哲学の柱を築かない人物は、必ず淘汰されてゆく。組織を頼り、依存している人も堕ちてゆく。一人、求道を燃やし、行学の実践に取り組むリーダーのみが生き残る時代に入った。

2006-03-25

忍耐力


 忍耐力や忍辱の鎧というのは、友人や後輩に対して使用するものであって、先輩幹部に使うものには非ず。

逃げ惑う部員をつかまえる


 副B長に登用しようと考えていたメンバーが、ここのところ、私から逃げまくっている(笑)。留守は仕方がないとしても、携帯電話に出ないのは、どう考えてもおかしい。私はふと、「こんなデタラメな野郎だとはわなかった。登用は、まだまだ先の話だな」とった。だが、これが折伏だったら、どうなっているだろう。断じてあきらめることなく、祈りに祈り、不可能を可能にしてみせる! との決に燃えることだろう。この落差に、今の学会の弱さがある。私は師子となって獲物に襲いかかることを、固くに誓った(笑)。


 逃げまくっている人の話(笑)。連絡が取れないので、昨夜、Oさんが亡くなった旨のメモを置いてきた。先ほど電話があり、「いや、吃驚(びっくり)しましたよ」と。切れかかっていた連係が、再び復活。亡きOさんの生命の威光勢力が追い風を送ってくれていることを実した。謝、合掌。

屹立した一人が新たな歴史の舞台を開く


 それにしても、ヨーロッパの最西端のイベリア半島、そのまた西端の、資源も乏しい小国ポルトガルである。当時、人口は約200万といわれる。この国が、なぜ世界中に領土を持つ大帝国に成長したのか。また、ポルトガルを“海の勇者”“時代の勝者”へと押し上げたものは何であったか。

 その原点は、たった一人の青年であった。「一人」の決と努力、実践が、一国を導き、人類の新時代を開いた。その「一人」とは、有なエンリケ(ヘンリー)航海王子(1394〜1460)である。

 人数さえ多ければ物事は成就できる――それは明らかに誤りである。屹立した「一人」があってこそ、歴史の転換は成され、新たな舞台が開かれる。この原理は、今までも何度かお話してきた通りである。

「一人立て」と人に言うことはあまりにたやすい。しかし、現実に自ら“一人立つ”のでなければ、何の味もないし、価値もない。

 むしろ、口で言う必要はないのである。自ら一人立ち、行動してゆけば、必ずや二人、三人と後に続き、やがて澎湃(ほうはい)たるうねりとなってゆくからだ。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 民衆が、力なく座り込み、気力を失って倒れている中で、一人立ち上がるのだ。そして、の限りを尽くして正義を叫び、力の限りを尽くして、手を取り肩に引きかけて、一人でも多くの人々を立ち上がらせる。これが、創価学会による宗教革命だ。


 法華経に現れる宝や、地涌の菩薩の偉大な姿は、人間の尊極を示しているのだ。力のない地涌の菩薩がいるはずがない。力は「あるか、ないか」ではなく、「出すか、出さないか」という次元の問題だ。「力がない」と嘆いている内は、己に敗れている証拠である。自分に勝てずして、革命を遂行できるはずもない。金魚の糞は、いつか必ず水底(みなぞこ)に落ちる。


 地涌の菩薩は大地から涌出した。一人立つ真剣の人もまた、下から出てこなければ駄目だ。

彼岸の意義


 今日(21日)は「春分の日」。彼岸中日である。

 私は、ここ東京牧口記会館で、広宣流布という最高無上の人生を生き抜き、亡くなられたすべての同志の方々、また先祖代々の諸精霊の追善回向を、懇(ねんご)ろに行わせていただいた。

 また、全同志とご家族、友人の皆さまが、三世永遠にわたって安穏と福徳に包まれるよう、真剣に祈させていただいた。、

 彼岸の中日には、太陽がほぼ真東から昇り、真西に沈む。昼と夜の長さが同じになり、春の彼岸からは昼が、秋の彼岸からは夜が、日一日と長くなっていく。

 地球の一年の運行の節目である。

 大宇宙を貫く妙法とともに生きる私たちは、この日を「生命の元旦」「三世の勝利への出発」とのいで、進んでまいりたい。


彼岸」の義については、これまで繰り返し語ってきたが、あらためて皆さまと確認しておきたい。

彼岸」とは「向こう側の岸」。

此岸(しがん=こちら側の岸)」との対比で用いられる。

法では、生死や煩悩の迷いの世界を「此岸」に譬え、解脱涅槃・成の悟りの境涯を「彼岸」と表現している。

 宗教哲学一般でも、「彼岸」は、より広く「真理を悟った境地」「日常からの超越」などの味で用いられる。

 たとえば、ニーチェの有な著作の一つは『善悪の彼岸』と訳された。


 また彼岸は、成の境涯を指すとともに、そうした境涯に到る「修行」「実践」の味も含んでいる。すなわち「到彼岸(とうひがん=彼岸に到る)」である。

 大乗教では、成の境涯に到るための修行に六つの行を立て、これを「六波羅蜜」と呼ぶ。

 具体的には「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智」である。

「波羅蜜」とは梵語(ぼんご=古代インドの文章語)の“パーラミター”の音訳であり、これを訳すると「到彼岸」となる。

 法華経訳で知られる鳩摩羅什の解釈によるといわれる。

 法華経序品にも「通達大智、到於彼岸(つうだつだいち・とうおひがん=大智に通達し、彼岸に到り)」と説かれている。

 日蓮聖人は「観心本尊抄」で、無量義経の「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」等の文を引かれつつ、「これらの文のは、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足しているということであり、私たちは、この妙法蓮華経の五字を受持すれば自然に釈尊の因果の功徳を譲り与えられるのである」(246頁、通解)と仰せである。

 私たちは、妙法を「受持」、すなわちから信じ、自行化他の実践を貫くことによって、六波羅蜜の一つ一つを修行しなくても、同じ修行の功徳を得て、「彼岸に到る」、すなわち成の境涯を得ることができるのである。


 しかし今日では、こうした元々の義を離れて、「彼岸」は、春分秋分をはさむ7日間に行われる「彼岸会(ひがんえ)」、また、その季節のことを指す場合が多い。

 彼岸会は日本独特の年中行事で、聖徳太子の時代から始まったともいわれる。

 春分、秋分の行事としてあった各地の先祖祭りや農耕儀式と一体化して、江戸時代に寺・墓参りが盛んになったという。

 太陽に豊作を願う「日願(ひがん)」に由来するとの説もある。

 また彼岸会は、西方浄土の広がりにともなって定着したといわれる。春分、秋分には太陽が真西に沈むので、西方浄土を願い求める契機と考えられた。

 しかし、もとより、彼岸は、西方浄土など、他の世界に求めても得ることはできない。妙法を受持し、実践することによって、わが胸中に界を顕し、この現実世界を常寂光土と輝かせていけるのである。

 御書に「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむね(胸)の間にあり、これをさと(悟)るをといふ・これにまよ(迷)ふを凡夫と云う」(1504頁)と仰せの通りである。


 そして日蓮法では「常彼岸」、すなわち毎日が彼岸会である。日々の勤行・唱題こそ最高の回向(廻向)であり、私たちの道修行の功徳を先祖、子孫に「廻(めぐら=回)し向ける」のである。

 回向といっても、どこまでも、自分自身の信が根本なのである。

 日顕宗が言うような、「坊主を呼んで追善しなければ、先祖は成しない」とか「婆を立てなければ追善回向にならない」という主張は全くの邪義である。

 御書に出てくる「彼岸」という言葉も、いずれも、本来の「悟りの世界」の味で使われている。

 その上で私たちは、「随方毘尼」の法理の上から、日本の風習を尊重し、三世の同志がさわやかに集い、広布を誓い合う機会として、「彼岸法要」を行っているのである。

〈「随方毘尼」とは、法の本義に違わないかぎり、各地域や時代の風習に従うべきであるとする考え〉

 御聖訓には「過去の生死・現在の生死・未来の生死と、三世それぞれの生死において法華経から離れないことを法華の血脈相承というのである」(1337頁、通解)とある。

 三世にわたる勝利の根本は、「何があっても私は御本尊根本でいく!」という不退の信を貫くことである。


 日蓮大聖人は、御義口伝に仰せである。

「今、日蓮と、その弟子たちが、亡くなられた聖霊を追善し、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱えるとき、題目の光が無間地獄にまで至って、即身成仏させる。廻向の文は、ここから事起こるのである」(712頁、通解)

 題目の力は計り知れないほど大きい。

 私たちが唱える題目の“光明”は、全宇宙のすみずみにまで届き、無間地獄の境涯でしむ衆生をも照らし、即身成仏させていくのである。

「さじき女房御返事」には、「この功徳は、あなたの父母や祖父母、さらに無量無辺(むりょうむへん)の衆生にも及んでいくでしょう」(1231頁、通解)と仰せである。

 広布に生きる信の偉大な功徳は、亡くなった人や、子孫末代にまでも伝わっていく。真の追善は、妙法によるしかない。妙法の功力は、今世だけでなく、三世にわたって人々を救いきっていくからである。

 日蓮大聖人の門下に、浄蓮房という人がいる。

 その父親は、信仰者として亡くなった。

 この浄蓮房に対して、大聖人は、「父母の遺した体は子の色である。今、浄蓮上人が法華経を持(たも)たれた功徳は慈父の功徳となる」(1434頁、通解)と仰せである。

 信をしなかった親であっても、子である自分が妙法を受持すれば、その功徳は親の功徳ともなる。

 私たちが、今こうやって生きているのは父母のお陰である。この体は、父母から授かったものである。自分自身の成は、父母の成につながっていくのだ。

 過去がどうかではない。「今」で決まる。

 先祖がどうかではない。「自分」がどうかで決まる。

 目覚めた「一人」が、太陽となって、一家、一族を妙法の光で照らしていけばよいのである。

「自身がに成らなくては、父母さえ救うことはしい。ましてや、他人を救うことなどできない」(1429頁、通解)との御聖訓を深く銘記したい。


 信に励めば、必ず「三障四魔」が競い起こる。信を妨げようとする働きが、様々な形をとって現れてくる。

 大聖人は、亡き父の後を継いで、広宣流布のために戦う青年・南条時光に、こう御手紙で記されている。

「あなたが大事とっている人たちが信を制止し、大きながくるであろう。そのときまさにこのこと(諸天の守護)がかなうに違いない、と確信して、いよいよ強盛に信に励むべきである。そうであるならば亡き父上の聖霊は成されるであろう。成されたならば、あなたのもとに来られて、守護されるであろう」(1512頁、通解)

 の時こそ、宿命転換と一生成のチャンスである。それと同時に、父母の成もかなっていく。

 ゆえに、この御文の後で大聖人は、“他の人から信を妨害しようとする動きがあったならば、むしろ喜んでいきなさい”と教えられている。

「賢者はよろこび愚者は退く」(1091頁)との御金言を拝し、大のときにこそ、強盛な信を奮い起こし、勇敢に前進してまいりたい。


 大聖人は、夫に先立たれ、子をも亡くした南条時光の母に、次のような御手紙を送られている。

「悲母が我が子を恋しくわれるならば、南無妙法蓮華経と唱えられて、亡き夫君と御子と同じ所に生まれようと願っていかれなさい。

 一つの種は一つの種であり、別の種は別の種です。同じ妙法蓮華経の種をに孕(はら)まれるならば、同じ妙法蓮華経の国へお生まれになるでしょう。

 父と母と子の三人が顔を合わせられる時、そのお悦びはいかばかりで、いかに嬉しくわれることでしょう」(1570頁、通解)

 私たちは、親や、子、家族をはじめ、愛する人とのつらい別離に出あうことがある。しかしそれは、“永遠の別れ”ではない。

 妙法の力用によって、必ず同じ妙法蓮華経の国に生まれ、再び会うことができる。

大聖人の仰せに、絶対に間違いはない。


【春期彼岸勤行法要 2006-03-21 牧口記会館聖教新聞 2006-03-25付】

2006-03-24

Oさん逝く


 昨日、午前2時30分、Oさん逝く享年、76歳。気骨の人。奇しくも同じ先輩から訓練を受けていた。広布第一章、第二章を戦い抜いたリーダーで、信の筋目に厳しかった。笑みをたたえた顔が、勝利を雄弁に物語っていた。Kさんに、会わせることがかなわなかったことだけが無。数年前から癌と闘うも、「絶対に癌では死なない」と断言。「死ぬ時は他の病気」と言い切った。謂(いわ)れなき誤解によって、しみ抜いた経験もあった。第一線から退いた時期もあった。しかし、信だけは一歩も退(ひ)かなかった。病室に集まった子や孫の手を次々と握り、「今まで、ありがとう」と礼を述べ、長男に遺書を書かせてから、眠るように亡くなったという。見事な人生の完結という他ない。


 親子ほども年が離れていながら、私にだけは何でも語ってくれた。10年前の組織と幹部に、どんな仕打ちをされたかも聞いた。いまだに、この誤解は根強く残っていて、デマを鵜呑みにしている幹部も多い。私は、どんなことがあろうとも、この方の仇討ちをするつもりだ。

発想の転換が新時代の突破口を開く


 大航海時代以前、実はヨーロッパは、世界の中でも閉鎖的な地域であり、さほど豊かでもなかった。

それに対し、アラブ世界をはじめ、アジアの方がよほど学問も進み、豊かでもあった。

 当時、東洋はヨーロッパ人にとって、いわば憧れの地であった。そのロマンの大地との交流は、東西を細々と結ぶシルクロードによって、辛うじて保たれていた。が、14世紀にはチムール帝国の興隆によって、シルクロードは閉ざされ、交通は遮断された。

 東洋との交渉の停止。それは、ヨーロッパ世界の行き詰まりをも味した。

この時、発を転換し、新たな東洋への道を開こうとした国があった。――“陸”がダメなら“海”がある。東洋への“海の道”を開拓すればよい。必ずや、その新たな道を開いてみせる――と。こうした新時代の突破口を開いたのは、ポルトガルであった。

 これも一つの「知恵」の力である。「発」の勝利といってもよい。歴史の「挑戦」への立派な「応戦」であった。

 豊かな「知恵」と「発」。いつの時代も、これを持つ者が次々と境を開き、勝ち越えてゆく。まして妙法は、限りない「知恵」と「発」の源泉である。ゆえに、私どもに打開できない境はないし、どこまでいっても行き詰まりがないことを確信されたい。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 つまり、“坊主”が駄目なら“友人葬”があるってこと(笑)。


 くれぐれも間違いのないように書いておくが、創価学会は“坊主と手を切った”わけではない。一方的に破門されたのである。まあ、我々の気としては、“手を切った”でもいいんだが、これじゃあ、外部の方が誤解してしまう恐れがある。結果的には、“癌”が摘出されたような格好になったけどね(笑)。


 坊主と袂(たもと)を分かち、真っ先に問題となったのは、御本尊下付と葬儀法要だった。学会は、これを会友(校友)運動と友人葬で乗り切った。不議なことに、バブルが弾けた後、新たな葬儀のあり方が社会的にも見直されるようになった。生前葬や音楽葬、はたまた、散骨など、故人の志に基づいて自由に行う風潮が高まった。ありきたりの儀式を嫌ったといってもよいだろう。


 その先駆を切ったのが、学会の友人葬だった。普段、話したこともない、見知らぬ坊主に読経してもらうぐらいなら、地域でお世話になった先輩にやってもらった方が、断然いいよね。また、学会の場合、大半の参列者が読経・唱題に和するので、何といってもがこもっている。実際、友人葬に参加して、学会への理解を深め、入会に至った方も少なくない。


 何かあるたびに、「困った、困った」を連発するような人は、発の転換がしい。いかなる困があろうとも、「何とかしよう」と前向きに進む姿勢があって、初めて発は転換する。「押しても駄目なら、引いてみな」という柔軟さが求められよう。


 振り返れば、“伝統の2”の淵源となった昭和27年の蒲田支部での闘争において、「組(現在のブロック)」に光を当てたことも、“発の転換”といえよう。更に、軍楽隊(現在の音楽隊)の結成や、体育大会(後の文化祭)など、いずれも“発の転換”をもって、若き先生が牽引(けんいん)してきたのが学会の歴史であった。


 発の貧しい者は、新時代のリーダーたり得ない。

曽谷殿御返事


 文句の一に云く「既に未だ真を発さざれば第一義天に慙じ諸の聖人に愧ず即是れ有羞の僧なり観若し発するは即真実の僧なり」云云、涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責駈遣挙処せずんば当に知るべし是の人は法の中の怨なり。若し能く駈遣呵責挙処せんは是れ我が弟子真の聞なり」云云、此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入失本故は是なり、経に云く「在在諸の土に常に師と倶に生ぜん」又云く「若し法師に親近せば速かに菩薩の道を得ん是の師に随順して学せば恒沙のを見たてまつることを得ん」釈に云く「本此のに従つて初めて道を発し亦此のに従つて不退地に住す」又云く「初め此の菩薩に従つて結縁し還此の菩薩に於て成就す」云云、返す返すも本従たがへずして成せしめ給うべし、釈尊は一切衆生の本従の師にて而も主親の徳を備へ給う、此法門を日蓮申す故に忠言に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候法華経は種の如くはうへての如く衆生は田の如くなり、若し此等の義をたがへさせ給はば日蓮後生は助け申すまじく候(1056頁)


 今の学会は、本部職員・大学職員・創大出身者を中とした官僚主義に毒されている。無責任な幹部を「駈遣呵責挙処」せよ。それだけで、先生のにかなった組織へと変貌できる。ダラ漢を支えているのは、沈黙する民衆だ。そはこれ、「うるし千ばいに蟹の足一つ」の結果となることを自覚したい。異体同事なかれ主義は違う。少々の摩擦を恐れるような臆病者に何ができようか。


 官僚主義者が望むのは、羊千匹のような会員だ。おとなしくて、余計なことは言わずに、どんなことにでも従い、言いなりとなる。そんな人々を好む。反対見や問題提起をするような師子は嫌われる。つまり官僚は、常に民衆をコントロール下に置きたがるものなのだ。


 どうしても、勇気ある発言ができない人は、まず、下らない会合の拒否から始めるといいだろう(ニヤリ)。自分の人生なんだから、その程度の主導権は握った方がいいよ。信は、功徳も自分持ちなんだから、一々遠慮をする必要はない。


 活動しながらストレスを溜めるのが一番愚かだとう。功徳を得るためなら我慢しようという、その魂胆が浅ましい。


 本物の創価学会を築くには、会員一人ひとりがこの御聖訓を実践する他ない。幹部に期待している内は駄目だ。どんなに期待したところで、サンタクロースは来ない。


 官僚主義権威主義は、具体的には、打ち出し主義・形式主義・書類主義・命令主義・事務主義となって現れる。それらは、必ず下の人達に対して、何らかの負担を与える。に少しの負担をじる人が一人でもいれば致命的だ。


 この御聖訓を大で100回読むことを勧めておこう。それでも、に変化が生じないようなら、学会を去るべきだ。「いてもいなくてもいい人」が何百万人いたって、広宣流布が進むはずもないのだから。


「羊千匹よりも師子一匹たれ」と牧口先生は叫ばれた。“創価三代の師弟”を乗るのであれば、自分が今いる組織師子として吼(ほ)えるべきだ。

2006-03-21

その昔、こういう人がいた


 昨夜、ある人と話していて、急にい出したのでメモしておく。


 Kさんというベテラン地区リーダーがいた。大B長時代を含めると、10年以上、地区幹部をしてきた方。私よりも10歳ほど年上だった。当時、私は副部長兼任の地区リーダー。このKさん、地方にいた時は、部の中の全地区で地区リーダーを務めたことのある猛者(もさ)。若い私が、「ねえ、Kさん、信ってえのあ、本来、こうあるべきなんじゃない? 今の組織は甘過ぎる!」などと相談すると、「確かに小野ちゃんの言う通りだ。だけど、今の時代じゃ、それは通らないよ」と、よくたしなめられた。


 本部担当創価班の結団式に欠席したメンバーが出た。まだ、本山担当があった頃で、本部の方は、さほど厳しい訓練は行われてなかった。後日、部で指導会が行われた。「欠席者を出した事実を、自分がどう捉えているか」と、一人ひとりが詰められた。


 皆一様に「自分の油断です」みたいな話をしていた。中ほどでKさんが指された。その瞬間、Kさんは叫んだ。「さっきから、黙って聞いていれば、何なんだ! こんな、だらしのない創価班は見たことがない。いい加減にしろ!」――。


 さすがの私も呆気(あっけ)にとられた。Kさんは顔を真っ赤にして、ワナワナと震えながら、テーブルを叩いた。あまりの気迫に押されて、とうとう、部長は気合いを入れられなくなった。


 上の幹部から叱られるのは日常茶飯事だった。だが、下の人間が怒(おこ)った時、本当の気合いが入る。それは、やむにやまれぬ純粋な責任から発せられたものだからだ。


 また、これは札幌にいた時のこと。区の創価班会で、幹部が指導している真っ最中だった。後ろの方に座っていた中堅幹部が突然、「○○君、集中しろよ!」と大を挙げた。その瞬間、全参加者の背筋が垂直に伸びた(笑)。注されたのが誰だか、全くわからなかったが、皆、自分に言われたような気がした。


 その昔、確かに下から上を動かした先輩がいたのだ。広布と信に対する真剣勝負の姿勢が、全軍を鼓舞したことは言うまでもない。

2006-03-20

7.5Hz怪文書


 鯖君の投稿「7.5Hz怪文書騒動に思う」を読み直した。一部地域ではいまだに出回っている模様。組織に対する“盲信”の表れか。また、川田副会長の「信仰味を考える」というテキストも出回っているようだが、これまた怪文書である。ご注あそばせ。

歴史を知る者は未来をも知る


 現実の激しい変動とともに、人々の識、世界観が揺れ、生まれ変わる。そうした歴史の転換期は、これまでも人類史に何度か訪れた。

 その一つが、約500年前、15世紀末に始まる「大航海時代」である。アメリカ大陸発見(1492年)、インド航路発見(1498年)、世界一周の達成(1522年)、そして、ヨーロッパ人の世界進出――人々の「世界観」が年ごとに変わり、「新世界」が次々と開け、猛烈な勢いで世界の勢力地図が塗り替わっていった。

 大航海時代、それは新鮮な「冒険」と「発見」の時代である。ヨーロッパ人は、沸騰するような勢いで、東へ東へ、西へ西へと新天地を求めた。

 新しい「物」が、新しい「情報」が、また、新しい「技術」、新しい「チャンス」が、更に、新しい「課題」、新しい「」が現れた。何より、新しい「人間」「個」が誕生し、続々と押し寄せてきた。

 凄まじいスピードの変化の中で、無数のドラマが生まれた。

 21世紀もまた、新たな「大航海時代」となるにちがいない。いわば「精神の大航海時代」「生命の大航海時代」である。絶えざる変化、変動。世界観の転換。個の創造。限りない盛衰と新生のドラマ。躍る「冒険」と「発見」の時代が目前に迫っている。

 その激動期を、どのように乗り越え、勝ち進んでゆくか。それは、歴史に学ぶ以外にない。歴史を知る者は、未来をも知る――これが戸田先生の教えであり、一貫した信でもあった。

500年前の大変革期に誰が勝ったか。なぜ勝ったのか。他はなぜ勝てなかったか。未来への歴史の教訓を得るためにも、それらの点について少々論じておきたい。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 過去の枠組みや常識が通用しなくなると、時代は激しく揺れ動く。行き詰まりによって圧迫された不満が噴出する。それまでは、“当たり前”だったことが通用しなくなり、次々と否定される。過去にしがみつく人や団体は、アッという間に取り残される。


 時代の流れ、人々の機根を正確に洞察しながら、それらをリードしゆくことは至(わざ)だ。しかし、確かな未来を堅持しなければ、たちどころに淘汰される。


 日顕宗は、江戸時代の論理にしがみついてたが故に、凋落(ちょうらく)の一途を辿った。子を軽んじ、衣の権威をかざして、供養集めに狂奔した。とっくの昔に大聖人から見捨てられた存在だった。それでも学会は、僧俗和合の道を選択した。ここに学会の慈悲がある。


 この指導の時点で、先生は宗門問題後を睨(にら)んでいたことと像する。

2006-03-19

座談会に関する指導を配信


 いよいよ明日より、座談会に関する指導をお送りする。今、全体に満ちている“座談会軽視”の風潮を破折するのが目的だ。地区活動者会などで、どんどん活用していただきたい。転送、大歓迎。いくら成果が出ていようと、座談会が盛り上がってないところは、へなちょこ組織だよ(笑)。また、座談会を盛り上げられないような幹部は、クソ幹部と断じておこう(笑)。


 ワールド・ベースボール・クラシックが盛り上がっている。立て続けに2連敗した韓国に、やっと日本が勝った。ミスター誤審こと、ボブ・デービッドソンにもしめられた。ありゃあ、“鼻持ちならないアメリカ”の権化(ごんげ)ですな。白を黒と断言し、黒を白と言いくるめる。昔は、そんな幹部がたくさんいた(笑)。でも、まだ絶滅してないようだね(ニヤリ)。

2006-03-18

阿仏房尼御前御返事


 譬ば海上を船にのるに船おろそかにあらざれどもあか入りぬれば必ず船中の人人一時に死するなり、なはて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し、謗法不信のあかをとり信のなはてをかたむべきなり、浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、重きあやまちならば信をはげまして消滅さすべし(1308頁)


 シロアリという虫は少しの隙からでも家屋に進入して来ます。ちょっとした油断が、家屋の被害を招くのです。


 立地条件にもよりますが、被害に遭いやすい家屋の例です。

  • 家の周りで植物を育てている。壁際に植木鉢を置き、毎日ホースで水やりをしている。
  • いらないものを屋外の家屋側に積み上げている。(不要になった木材・紙類等)
  • ダンボール箱を物入れにして屋外に置いてある。
  • 床下通風孔の前に、物を置いている。(物置・エアコンの室外機等)
  • 木部をコンクリートとかタイルで囲んでしまっている。(玄関周りの柱の下とかお風呂)

 要するに湿気があるとつきやすいのです(床下は乾いていても木部に湿気がある事も)。ダンボール・発泡スチロール(断熱材)等もこのんで喰害します。


 シロアリの種別はここではあまり関係ないので詳しい説明ははぶきますが、神奈川県以西の太平洋側に生するイエシロアリという種は、堅固なコンクリート構造の家屋にも侵入してきます。温度差、地震等による、目に見えるor目に見えない、ひび割れ部分等から進入してくるのです。これに、水分を補給できる場所(結露・水漏れ等)があるとどこでも喰害します。10階建てのマンションの1〜8階に駆除に行ったことがあります。


 お客様からは「これぐらいは大丈夫だとった。こんなものも食べるのですね」というをよく聞きます。生涯で何回も家を建築することはないにもかかわらず。家屋を守ろうという識が低い方が多いのが現実です。何事にも通じますが「これぐらいは」という、ちょっとした油断がいけないのです。見えないところから、大切な財産に被害を及ぼす事のできる害虫なのです。


現今の家屋でできることは?


 最初に紹介した悪条件を少しでも減らす事です。

  • 鉢植えなどは、家屋から離しておく。ホースではなくジョーロをつかう。
  • 屋外には物を置かない。おく場合には家屋との間をとる。(風の流れを作る)
  • 床下通気孔の前はあけておく。
  • 物を置くときは家屋から離す。

 これだけでも、かなりの予防対策になります。


 一番いいのは、5年ごとに予防処理を施すことです。被害に遭ってからでは、修理の必要が発生したりして、結局、高くついてしまうことが多いからです。人によってはアレルギー(特に化学物質アレルギーの方)に及ぼす影響が考えられますので、薬剤に天然の成分のものを使用したり、薬剤を散布しない方法もあります。特に、虫を麻痺させて駆除する薬剤は、頭痛持ちの方に悪影響を及ぼす場合があります。最近では、シロアリの成長を阻害して駆除するタイプの薬剤もあります。


シロアリの見つけ方

  • 玄関・勝手口・風呂の柱の下部をドライバー等で突いてみる。湿気による腐朽の場合もありますが軽く突き刺さるようでしたら被害の可能があります。
  • 床鳴りがする。体重をかけるとグッと沈む場所がある。座板の老朽化の場合もありますが、被害による可能が高いです。
  • 外回りから、基礎部分を見回してみる。特に物を置いている影の部分からシロアリが進入している場合があります。蟻道(ぎどう)といって、ストロー程度の太さの土を固めたものが、地面部分から立ち上がっているとシロアリです。床下からも同じように蟻道を構築して進入します。
  • 押入れの奥のかどなどに、土を盛り上げている。蟻土(ぎど)といってシロアリです。
  • シロアリは光に反応しますので、喰害個所に土を固めて光の侵入を防ごうとします。土があるはずのない所に土がある場合はシロアリです。

 シロアリはもともと、山林に生しており、倒れた木、枯葉等を土に返してくれる益虫なのですが、人間の開発等によって住処が減る一方で、現今の建築法からなる家屋環境に適合して害虫に転じてしまったものです。今でも山林にしかいない種もいます。このような害虫の例はたくさんあります(キクイムシ・ゴキブリなど)。まあ、もともと害虫という立て分けも人間の都合なのですが……。




 シロアリ駆除の仕事をしている男子部の方によるレポートである。御書拝読の参考にされたし。信の湿気を駆除するには、指導を受けることと、唱題しかない。

2006-03-17

“精神の戦国時代”の到来


 また、個人だけにとどまらず、いかなる団体にせよ、時代の急速なテンポについてゆけないところは、みるみる淘汰され、消えてゆく時代である。古き、古き表現もまた同様である。

 その味で21世紀は、あらゆる団体が生き残りを賭けた“新たな戦国時代”ともなるにちがいない。

 それは、もはや軍事力の戦いではない。経済力のみの競争でもない。人々の精神の宇宙をどう開き、を充実させ、人間としての尊厳を実現していけるのか。誰がそれを成せるのか。その一点に焦点を定めた戦いである。その味で、知恵と精神の力の限りを尽くした、まさに“精神の戦国時代”が到来するであろう。

 それは同時に、知力の勝負ともいえる“知の戦国時代”でもある。

一面、大変厳しい時代でもある。しかしその反面、いくらでも伸び、拡大してゆくチャンスが広がっているともいえる。むしろ、痛快にして面白い時代ではないだろうか。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


“大変”だからこそ、“大きく変わる”ことができる。この積極こそ、本因妙の魂だ。手をこまねいて嘆くだけなら、誰にでもできる。


 今、先生は一貫して「女子部を大切に」と指導されている。「先生、そりゃ、ちょいとばかり過保護じゃないッスかね?」と言いたくなるほどの徹底ぶりだ。


 若い女は、社会の中でも最も軽んじられている。職場でも、「どうせ、結婚するまでの腰掛けだろう」という冷たい視線にさらされている。「何もできないくせに生気だ」とか、コピーやお茶を頼まれたり、色んな労があることだろう。言ってみれば、“一人前の大人”として扱われてない現実がある。


 創価の新時代を迎えるに当たり、先生はそこに手を入れられた。当然、社会に対する警鐘の味も込められているだろう。不安定な時代にあって、“次代の母”を育てられようと、全魂を打ち込まれている。


 大体だね、援助交際をしていた世代が既に母親となりつつあるのだ。放っておけば、世の中が滅茶茶になるのは火を見るよりも明らか。喪失されつつあるモラルを回復するためにも、創価の乙女の健闘を祈らずにいられない。


 この指導を実践するためには、結局、民衆の機根を知るしかない。人々が何を求めているのか。どこへ向かおうとしているのか。何が満たされてないのか。何を見失っているのか。こうしたことは、一人ひとりのに分け入るような対話があって、初めて知り得ることができよう。


 また、世間のあらゆる動きを敏に察知すれば、そこに象徴される何かが必ずあるものだ。


 諸法実相の観世音なれば地獄餓鬼畜生等の界界を不議世界と知見するなり、音とは諸法実相なれば衆生として実相のに非ずと云う事なし、寿量品の時は十界本有と説いて無作の三身なり、観音既に法華経を頂受せり然らば此の経受持の行者は観世音の利益より勝れたり云云(776頁)


 観世音菩薩は、世の中の音を観じて人々を救ってゆく。民衆のなきを鋭く察知し、悩をすくい取ってゆくのだ。


 鶴見祐輔著『ナポレオン』(潮文学ライブラリー)の中で、ナポレオンが大地にを当てるシーンが何度となく描かれている。民の鼓動にを澄ます様が劇的であった。


 人類の新たな歴史は、いずれも動乱の中から生まれた。そして、革命は常に無の青年によって成し遂げられた。


 歴史を創るは この船たしか

 我と我が友よ 広布に走れ

2006-03-16

指導主義


 創価学会指導主義である。つまり、“御本尊を拝もうではないか”と御本尊を指し示していくことが指導である。御本尊とは何かと説明することは第二義でよい。それよりも、具体的な実践活動を教え、題目をしっかりあげさせることが指導なのである。



 質問を受けた場合も、わからないから指導できないということはない。“わかる人のところへ一緒に行こう”、これが立派な指導である。指導は一から十まで自分が教えるという教授主義ではいけない。指導主義の方がずっと価値があり、どこまでいっても行き詰まりはない。



 教授主義は、必ず行き詰まりがあり、知ったかぶりの偽善になることが多い。したがって、指導を根本に、もちろん教授もしなければならない場合もあり、訓練が必要とされる場合もあり、擁護する場合もある。指導主義には、これらの全部の要素が包含されているのである。



 指導主義の精神を忘れると、情になったり、権威主義になったりする。指導主義の根底には、あくまで慈愛がなければならない。指導主義だからといって、要領よく自分が責任を回避し、一緒に問題解決に努力するということをせず、人まかせにするのは、指導主義ではなく、要領主義といわねばならぬ。



 指導には変な遠慮はいらない。率直に広宣流布へ向かっての、熱烈な確信を訴えるべきである。また、自らの体験を通して、人間にあふれた信の激励をすることである。更に、若々しい、新しい覚をもった指導、斬新味を加えた指導が大切である。

形式にとらわれず、時代に相応しながら、妙法を根幹とした指導でいくべきである。



 指導に行った先では、最高度に将来を考えて手を打たなければならない。その場限りの話や指導だけで終わっては、自己満足に過ぎず、聡明な指導者ではない。また、現地でつくったスケジュールに引きずり回されるような指導であってはならない。現地の人の考えつかない、もう一歩、大局的見地から、行く先々で将来のための楔(くさび)を打たなければならない。



 指導には、優しくいたわってゆくが大切である。けれども、言うべきことを言わないのはいけない。厳しく言ってあげることが、相手の大いなる飛躍の源泉になる場合がある。また、幹部が元気で指導に臨めば、相手も元気になる。境地の二法であり、依正不二である。

この指導によって、信の自覚を生じさせよう、生涯の道修行の活力にしよう、という確信が一切の指導の根本になる。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 これを知らずして学会幹部を乗ることは許されない。激励の奥底に指導主義を欠いてしまえば、口先だけの愛となろう。


 進むべき方向を指し示すためには、自分がリードしている必要がある。同じ位置では駄目だ。境涯において、何歩も何十歩も何百歩も先んじていればこそ、的確な指導が可能となる。


 10代、20代で既に何かから逃げたことのある人は、それが生涯の壁となる。「ちょっと、よくなっては逆戻り」という繰り返しになりがちだ。全部、自分がわかっているはずだ。


 ありとあらゆる課題に挑戦し、乗り越え、境涯を革命した人のみが、信の醍醐味を知る人だ。そして、その楽が人間を深めるのである。


 善知識とは、指導する関係のことだと私はう。指導する場合もあれば、指導される場合もある。一方通行では駄目だ。「指導しているだけ」、「指導を受けてるだけ」の人は偏っている。自ら指導を求め、それを後輩に伝えてゆく。ここに和合僧の生命線がある。善知識が多い人は幸せだ。善知識が多い人ほど動がある。


 法華経において地涌の菩薩が陸続と出現する様は、正しい信指導によって、次々と民衆が立ち上がる姿を表現したものと信ずる。


 今日、3.16の儀式から48周年を迎える。

グローバル・スタンダードを目指せ


 さて、現代はまさに、目まぐるしい「変化、変化」の時代である。であれ、技術であれ、流行であれ、数年前の「新」は、たちまち「旧」となり、精彩を失う。この傾向は21世紀に向かって、ますます強くなっていこう。

 ものの見方や価値観も多様化し、旧来の世界観で現実を理解することはしくなった。例えば、10年前には像もつかなかった「人間」「物」「情報」の世界的な交流である。これにより、地球の一体化と相互依存は飛躍的に高まり、従来の国家中の考え方は大きく揺らいだ。柔軟にしてグローバル(地球的)な視点なくして、何も語り得ぬ時代である。

 とともに、こうした時代の波浪と変転に流されぬ「個人」「人格」の確立が一段と重要になっている。確かな人生の哲学、そして、人間としての強靭な個。これがなければ、人はいつしか、絶え間ない変化の波に押し流され、社会の激流に翻弄されてしまうであろう。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 御書と同じく、先生の指導も背景と大を押さえることが大事だ。


 1985年のプラザ合意によって、不動産価格が一気に上昇。日本はバブル経済へ突入した。


 あの頃を振り返ると隔世のがある。幹部の必需品も、FAX→ポケットベル携帯電話→パソコンと激しく変化した(笑)。


 好景気で日本中が浮かれていた。誰もが、バラ色のまま、21世紀を迎えると信じていた。一番、いい気になってたのは、日顕宗の坊主どもだろう(笑)。


 ここで先生は先手を打たれた。まず、小冊子『今日より明日へ』を発行(1987年1125日)。1988年前後からは、電話回線を利用した音の同時中継が始まり、第20回本部幹部会の翌週に行われた「第1回東京総会」(1989年824日)で、遂に待望の衛星中継が実現した。


 何にも増して最大の変化は坊主と手を切ったこと。これによって、学会は“自立した民衆”となったのだ。日顕による宗門問題の直後に、大蔵省銀行局長通達「土地関連融資の抑制について」が発出され、これがバブル崩壊の引き金となった(1990年327日)。


 学会も変わった。威張る幹部が減った(笑)。しかし、その一方で個的な幹部もいなくなってしまった。


 時代や社会の変化を乗り切るためには、常にグローバル・スタンダード(世界標準)であろうとする努力が求められる。だが、学会の組織は、いまだに“日本でしか通用しない”やり方が殆どだ。


 昔、こんなことがあった。私は創価班の任務で、会館の正門に立っていた。創価班大学校の指導会が行われていた。と、突然、玄関から数人の足音が鳴り響いた。「オイ、待て!」。気合いを入れられた大学校生が、帰ろうとしていた。分区幹部と総区幹部の2がこれに対応。よく見られる光景だった。私は、「会合では厳しく気合いを入れられても、ここでは温かい励ましがあるんだろうな」とった。


「僕は、イギリスで入会したんです。学会の本当に温かい雰囲気に惹かれて、信したんです。こんな厳しい訓練は嫌です」と大学校生は語った。総区幹部は険しい顔をして言った。「何を言うか! アメリカの最高幹部の○○(実)は問題を起こして、先生を裏切ったんだぞ!(これ以降は、問題があり過ぎるので省略)」「あ、あのう、僕はアメリカじゃなくて、イギリスで入会したんです」「アメリカもイギリスも一緒なんだよ!」。


 激励どころか、気合いの二重奏だった。撃沈された大学校生は、海底にのめり込むほどの追撃を受けて、帰路についた。私はの中で叫んだ。「アメリカとイギリスは違うでしょう」と。


 SGI研修を担当した幹部は、おしなべて「しい」と語る。日本では、まず出ないような質問が数多く出るからだ。また、その国の情勢によって多様な悩みがあるためだ。更に、外国人特有の積極が拍車をかける。


 以下、「座談会にて御書講義」より引用――


 アメリカよりゲストが参加。昔、横浜で女子部長をしていたとのこと。「海外では、『こうあらねばならない』という指導は通用しない。そこに、どれだけの自由があるのか? そして、自分で選択できる範囲が広いのかどうか? この一点が求められている」、「世界で通用するのは、“自分の”だけである。どこの大学を出たとか、本部職員だとか、女子部長だとかは通用しない。そんなもので勝負しようとすれば、必ず、『So what?』(「だから、何?」または「それがどうした?」)と言われてしまう。今の自分がどこまで相手のことを配してあげられるか、同できるか、それでしか納得させられない」と話されていた。


 全くこの通りだ。法に普遍があるなら、組織も普遍を追求すべきだろう。自由と平等の精神に貫かれた組織でなければ、そこに法は存在しない。個人においても、また然り。どんな国であろうと、どんな組織であろうと通用する人格と力を持つべきだ。引っ越した途端に元気がなくなるようじゃ、話にならない。

2006-03-15

ポスト三代会長の基軸


 第58回本部幹部会(牧口記会館 2006-03-09)は歴史を画する会合となった。“創価の師弟”のあるべき姿を確認し、池田先生を中とする三代会長が“永遠の師匠”であることを宣言した内容だった。


 ここに正木壮年部長の指導を記し、「ポスト三代会長(三代会長以降)」の基軸を見失うことなく、“最後の池田門下生”として、使命の完遂を誓い合いたい。


壮年部長アピール


【正木壮年部長/聖教新聞 2006-03-04付】


 35日は、壮年部の結成満40年の記日です。戸田先生との師弟の誓いを果たすため、半世紀を超える激闘を続けてこられた池田先生があってこその学会であり、私たちです。今こそ弟子として、断固たる連続勝利の実証をもって応えていきたい。

 先生の今の戦いは、一言でいえば、「末法万年にわたる広宣流布の将来を見すえ、万代に揺るがぬ創価学会の基盤を確立する」との一点に集約されるといます。

その骨子は二つ。一つは、三代会長の師弟の魂を永遠の原点として残すことです。

 かつて先生は、“教がインドでなぜ、滅んだか”について索を続けたネルー首相が至った結論――“陀の神格化が行われたためである”――を紹介し、次のように語っています。

「本来、教は『人間の生き方』を説いたものであった。『このように生きよ』『人生をこう生きよ』と、我が身で教えた。そこには師弟の道があった。しかし、いつしか『人間・釈尊』は権威化され、人間を超えた神になっていった」

「『』とは、ありがたく礼拝する対象であっても、『その生き方に続く』存在ではなくなった。師弟の道も見えなくなった。教が『人間の生き方』でなくなったとき、インドでは、教は死んでしまった」

 広宣流布を目指す信仰と、ただ拝んで幸せになろうという信仰の違い、また創価学会日顕宗の根本的な違いもここにあります。

 創価学会は、を師弟の道でとらえた。師の生き方に続くのが、弟子の道です。釈尊との師弟、日蓮聖人との師弟、そして折伏の闘将である三代会長との師弟の道の中にしか、生きた教は存在しないという信仰の根幹を自らのものとし、不二の実践を貫いていきたい。

もう一つの骨子は、新たな人材の育成です。

 年頭の全国総県長会議へのメッセージには、「『堅実な発展』を新しい合言葉として」「わが県は、これだけ堅実に発展したという勝利の実証を」とありました。

「堅実な発展」とは、何か。それは、新たな人材を育てることによって、広布を拡大していくことに尽きるといます。

 この戦いで、誰を育てるのか、どの人に壁を越えさせてあげるのか――その視点があるかないかによって、同じ活動をやっても、結果は全く違ってきます。

 先日、出席した東京・世田谷区の会合で、男子部副本部長の活動報告を伺いました。一昨年折伏した4人の友人と、その一人が折伏した友人の新会員5人全員が任用試験に合格し、さらに今年、二人が初めての弘教を実らせたという内容です。

 この7人の新会員の誕生で、地区の雰囲気が一変。勢いのある朗らかな前進をしているといいます。

 尊いのは、一人ひとりを大切にし、共に祈り、共に行動する中で、全員が任用試験に合格するまで育てた方々です。

 折伏が忙しいから人材を育成している時間がないという考え方は違う。むしろ、新しい人材の育成即広布拡大であるととらえ、「号令をかける人間が人材なのではない。人材をつくる人間が、人材なのである」との指導を肝に銘じて、新たな人材の育成に取り組んでいきたい。

 特に壮年部としては、近年、家庭訪問個人指導の地道な実践によって、本当に、新たな活動者が数多く育っています。

 また、各地で太陽会の充実や、ヤング壮年育成の取り組みの素晴らしい伝統が築かれつつあります。

 さらに、「集う十勇士から戦う十勇士へ」とのスローガンのもと、聖教購読の推進に挑戦する地区も多く誕生しています。

 この「戦う壮年部」の素晴らしい流れを一段と強くし、壮年部の3モットーである「生涯求道」「職場で勝利」「地域貢献」を実践し抜く、力ある人材を陸続と輩出していきましょう。


第3回ドイツ最高会議


【ドイツ・フランクフルト近郊 1994-05-24


 偉大なる教が、インドで、どうして滅んだのだろうか。この点について興味深い観点がある。

 ネルー首相は、教滅亡の理由が、ずっと疑問であり、考え続けてきたという。

 アンドレ・マルロー氏に会ったとき、ネルー首相は、索の結論を氏に語った。

 マルロー氏とは私も二度、対談したが、教に深い関を寄せておられた。ヨーロッパに将来、教を基盤とする文明が生まれる可能を否定できないとも語っておられた。

 ネルー首相の考察は次のようであった。

陀の天才は、あくまでも陀が人間であるという事実にもとづいていた。人類の生んだもっとも深遠なるのひとつ、剛毅な精神、このうえなく崇高な惻隠(そくいん=慈愛)の情。さらには、神々にたいしてまっこうからこれと向きあった告訴者の態度」

「しかし陀の神格化が行なわれたとたん、陀その人はこの神々と同列にくわえられ、姿を没してしまった」(アンドレ・マルロー著『反回録』、竹本忠雄訳、新潮社刊)


 釈尊は、あくまで「人間」として生き、神々にも強く訴えた。

 日蓮大聖人も、諸天善神である八幡菩薩を「諫暁」なされている。神にすがるのではなく、“妙なる法”を持(たも)つ「人間」として、神を動かされたのである。


 本来、教は「人間の生き方」を説いたものであった。

「このように生きよ」「人生をこう生きよ」と、我が身で教えた。

 そこには師弟の道があった。

 しかし、いつしか「人間・釈尊」は権威化され、人間を超えた神になっていった。

 今でもインドの多くの人々は、釈尊を尊敬してはいるものの、ヒンズー教の神々のひとりのように、あがめているようである。

」とは、ありがたく礼拝する対象であっても、「その生き方に続く」存在ではなくなった。

師弟の道も見えなくなった。

 教が「人間の生き方」でなくなったとき、インドでは、教は死んでしまった。

 ――これがネルー首相の結論であった。

 今、宗門にも、「人間の生き方」としての教は、まったくない。彼らは、大聖人の法を、「人間はこのように生きよ」という教えではなく、自分たちを権威づけるための飾りにしてしまった。

 自分たちの堕落を正当化するための手段にした。

 法の滅亡の姿である。


 そもそも日蓮大聖人の戦いも、ある面から言えば、「教を人間化する」戦いであられたと拝される。人間の実生活から遊離していた教を、人間の手に取り戻し、現実の生活法として教えられた。

とは、人間(凡夫)である」

「人間(凡夫)こそ、である」

 こう叫ばれた。

 当時、日本でも、阿弥陀とか、大日如来とか、「」を遠い、超越的なものとして説く教が流行していた。

 また法華経でのも、一般には、人間とはかけ離れた存在としてとらえられていた。

 それらを大聖人は逆転された。

日蓮論”の的な義も、ひとつには「教の人間化」にあったと拝される。

 諸法実相抄には、「凡夫は体の三身にして本ぞかし、は用(ゆう)の三身にして迹なり」(1358頁)――凡夫は本体としての三身であり、本である。は、(本体の)働きとしての三身であり、迹である――と仰せである。

 詳しくは論じないが、大聖人の重要な法門である「観心の本尊」も、「字究竟(みょうじくきょう)」も、「等覚一転字妙覚」も、「凡夫即極」も、「教の人間化」という観点から見るとき、その深義に、より迫れるかもしれない。

 妙法を信じ、行じる「人間」こそが「」だということである。妙法の「信」にこそ「界」はあるということである。


 それでは、どのような「人間」が「」なのか。どういう生き方が「」としての生き方なのか。

 日蓮大聖人が教えられたのは、「社会の中で三障四魔と戦い、打ち勝っていく」人生である。

 妙法のため、人間のために、広宣流布に生き抜く人生である。

 そして大聖人自ら、その模範を示されたのである。

 その道に続いているのがSGIである。皆さまである。皆さまこそ「」と輝く方々なのである。


 創価学会は、大聖人の御精神通り、法を「生活の中で」「人間の生き方」として実践してきた。

 大聖人が教の原点に返られたように、創価学会が大聖人の法の信の原点に返ったのである。

「人間」に帰ったのである。

 あるとき、戸田先生は、ひとこと、我々の信は「人間宗」と言われた。徹底した「人間主義」こそが、大聖人の法なのである。


第58回本部幹部会


【正木壮年部長/東京牧口記会館 2006-03-09】


 全国の戦う壮年部の皆さん、結成40周年を記する全国壮年部幹部会の開催、まことにおめでとうございます。

 池田先生昭和41年(1966年)35日、壮年部結成の際、「広宣流布の総仕上げに入った段階では、経験、年功、分別をもった壮年部の活躍が重要です」と強調されました。

 この“広布責任世代”のメンバーこそが「まことの時」ともいうべき今、続々と立ち上がり、池田先生との師弟共戦の誓いを果たすべく、全国、そして全世界190ヶ国・地域の地で戦っています。

 本日は、全国の壮年部同志のいを、そして、ここに集った全ての皆さまのいを込めて、学会の磐石な発展のため確認をしたいといます。


 創価学会は、三代の会長によって、根本的な広宣流布の土台ができ上がりました。この初代、二代、三代の会長が、永遠に学会の魂です。

 この三代会長の精神を、これからの代々の会長も当然のこととして、全幹部が受け継ぎ、世界の広宣流布へ邁進していきたい。これこそ創価学会の永遠の規範であると確信をします。

 えば、初代、二代、三代の会長が、日蓮大聖人の法の大精神を継承してきました。我々は全員、三代の師匠の弟子です。

 秋谷会長も当然のこと、これからの代々の会長も、この三代の師匠の弟子です。これが学会の方程式であり、この精神こそ戸田先生の遺言なのであり、学会としての根本の遺誡です。


 来るべき316日、この日は、学会の広宣流布の原点の日です。そして更に42日、53日へと続いていく。

 ここにおいて、何よりも師弟という学会の根本の精神の継承が最も大事です。

 316日は、青年部の永久の広宣流布の魂を継承する日です。42日は、戸田先生のご命日であり、全世界の会員が、更に広宣流布を深く誓い、師の遺言を果たすために、大前進を決すべき日です。

 そして、53日は、戸田先生の第二代会長就任の日であり、更には、直弟子である第三代会長・池田先生の会長就任の日です。

 最も師弟の精神が凝縮するこの時に、私達は我が生命に深く刻み付けたい。


 牧口先生戸田先生池田先生、この三代の会長によって現在の世界の創価学会の大基盤はでき上がった。そして、この偉大なる三代の師匠を、創価学会は永遠に根本としていく。

 三代の会長こそ、大聖人の法の証明者であり、この三代の精神に続いていくことこそ、師弟不二の道であり、最も大事な、最極の道であり、これこそが大聖人に直結する道であるからです。

 どんな時代が来ても、代々の会長が、何代、何十代と続いても、この三代の会長の指導通りに進めばよい。この三代の原点を忘れなければ、学会は永遠に栄え、また、最大に栄光と勝利の前進をしていくことができる。こう確信をします。


 私達壮年部は、“広布責任世代”の誉れも高く、敵に対しては、猛然と戦い挑み、断じて粉砕をしていきたい。そして、池田先生と行動を、世界に、万代に宣揚し、継承すべく、本日より怒涛の大前進を開始しようではありませんか。

次のリーダーを育てることが本因妙


 指導者となる人物を見つけて、育てることが、一切の戦いに先手を打つ根幹になる。それが無限の未来へ向かって逞しく成長し、絶えず勝利への因をつくっていくことにもなる。これが本因妙である。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 どんなに強い組織であっても、中者が2人、3人と変わると、どこにでも転がってるような組織になってしまうものだ。人材育成の流れをつくるのは、それほどしい。


 学会組織は、壮婦男女という四者別の活動が基軸となっている。本来は衆生世間の相違を生かすための各部である。だが今、男女青年部による人材育成が困な状況となりつつある。


 女子部の場合、若くしてトントン拍子で本部長や区女子部長になってしまった幹部が、折伏も指導もできない現実があり、婦女一体という方向へ大きくハンドルが切られた。


 男子部も、さほど変わらない状況だろう。四者の中にあって、「いないと困る」ような男子部幹部は、最近、お目にかかったことがないよ。


 先日、婦人部幹部から未来部の現状を聞いたが、未来部をどうのこうのと言う前に、担当者を何とかするのが先だ。


 ダイヤモンドは、ダイヤモンドでしか磨くことができない。ダイヤのような人材がいても、木石のような先輩しかいなければ、後輩が光り輝くことは不可能だ。


 この指導を踏まえれば、人が育ってない組織は、敗因を積んでることになろう。


 信組織にあっては、“人を育てる”ことが何にも増して大いなる喜びである。周囲の人々に積極的に関わってゆく中にこそ、菩薩の本領がある。「人材は必ずいる!」そう決めて、血眼になって組織を駆けずり回ることだ。


 我々が“人材育成の達人”とならなければ、三代以降の学会の発展はない。

元祖デマ男 藤原弘達の正体(上)


原田男子部教学部長●あの極悪ペテン師の山崎正友が、また裁判で断罪された。


高木男子部書記長●愛媛県の学会員の男が訴えた裁判だ。「山碕が書いたデマ本で誉を毀損された」と訴えていた。

 横浜地裁は227日、男側の主張を全面的に認め、山崎に対して110万円の損害賠償を命じた。


佐藤男子部長●いかに山崎がデタラメを書き殴ったか。判決は厳しく糾弾している。

「客観的な裏付けが欠ける」「真実とすることはできない」等とバッサリだ。


森山学生部長●そして「(山崎の)違法は決して低いものとはいえない」と断罪した。


竹内青年部長●これで山崎は、何と裁判で12回目の敗北だ。


佐藤●しかも今年に入って4回も断罪された。

 1.公明党の元町議を中傷した事件で17万円の賠償命令(113日、仙台地裁)。

 2.大阪の学会員を中傷した事件で30万円の賠償命令(118日、大阪高裁)。

 3.元部下の男デマで中傷した事件で80万円の賠償命令(123日、東京地裁)。

 そして先ほどの断罪だ。


竹内●たった2ヶで4回も断罪だ。賠償金も合計237万円にのぼる。

 この一点だけでも、どれだけ悪辣、愚劣か! 明々白々じゃないか。


高木●これが、嘘八百で学会攻撃をやってきた男の醜悪な正体だ。化けの皮は全部、剥(は)がれた。


原田●牧□先生いわく「愚人に憎まれたるは第一の光栄なり」だ。

 学会は愚劣な輩から幾多の嫉妬の中傷を受けてきた。それ自体が完璧な正義である証拠だ。


森山●藤原弘達という男がデタラメな本を出して、学会を中傷したこともあったな。


佐藤●昭和44年のことだ。僕も生まれていない昔の話だが(笑い)、デマの構図は今と全く変わらない。むしろ時が経って、より鮮明になる事実もある。

 我々も青年として一度、徹底的に検証しようじゃないか。


竹内●まず重大なことは、藤原は学会本部や公明党に全く取材をせずに本を出したことだ。


高木●何しろ藤原は、学会のことだけで300ページも書いた。それなのに、ただの一度も取材しなかったんだ。


森山●まったく信じられないな! 僕は聖教新聞の記者だったが、たとえ1行の記事でも当事者に直接、事実を確認した。そう教え込まれた。


佐藤●当然だ。それが物を書く人間の常識だ。最低限のルールだ。


原田●中身もインチキだらけ。実際に読んでみたら、一目瞭然だ。

 書きたい放題、デタラメを書いた揚げ句、肝な部分は「〜だろう」「だそうだ」「であろう」と逃げている。


竹内●最初から最後まで「といえるかもしれない」「という見方もできよう」「過言ではないようである」という調子だ。


高木●極めつけは「いるような気がする」「という側面があったことは否定できない」「というようにも理解することができよう」なんてものまである。


森山●馬鹿馬鹿しい。そんな書き方だったら、誰でも何とでも書ける。


佐藤●要するに全部、臆測。ゲスの勘繰りだけ。デマ本の見本だ。


竹内●その上、全くの間違いがワンサとある。

池田先生の青年部時代の役職を間違えるわ。学会の会員数も大幅に間違えるわ。「一事が万事」で、基本的な事実さえデタラメだった。


高木●そもそも編集のプロセス自体が、いい加減だった。藤原本人が白状している。

「私が書くんじゃない、学生のアルバイトを使って、整理して、それをテープで私の味を出すために読みあげるんだ」(『週刊現代』昭和45年122日号)と言している。


森山●メチャクチャだな!


原田●要するに、学生のアルバイトにネタを整理させる。それを藤原は読み上げるだけ。あとはアルバイトが活字にする――それだけで本にしたんだな。


高木●当然、評判は最低最悪だった。特に一流の評論家やジャーナリストは皆「最低の本だ」と馬鹿にしきっていた。


佐藤●たとえば、評論家の大熊信行氏。

「はっきりいって、あの文章からは研究のあとがなにひとつ見出せない。学問的な基礎もなければ、背景もない」とズバリ急所を突いていた。


森山●政治評論家戸川猪佐武氏も“藤原氏の本は、事実を知らないで勝手なことをいう「軽評論」だ”と酷評していた。

 大評論家の大宅壮一氏は“中身がない。パンフレットを引き伸ばしたようなものだ”とバッサリだ。


原田●ゴミ同然の扱いだな。


竹内●そんな本が、なぜ売り出されたのか。

 当時、学会は池田先生の指揮のもと、大発展を続けていた。藤原の本が出た翌年(昭和45年)には「750万世帯」を突破した。


高木●日本中が学会に注目していた。妬みも凄まじかった。そこに目をつけて「学会のことを書けば、嘘でも何でも売れる」と踏んだんだ。


佐藤●戸田先生デマの本質について明確に教えられた。

「学会のことを書きさえすれば、本が売れるという考え方から、ほんとうの根本理を知らずして、書き殴る」と語っておられた。


原田●まさに藤原のことだ。「元祖デマ男」だ。戸田先生は全部、見破っておられた。


森山●いまだに、その残党が何匹かいるな。もう誰からもまともに相手にされないが(笑い)。


高木●だいたい藤原というのは、下劣千万で有だった男だ。

 毎日新聞の記者も「品下劣なやつだ」と吐き捨てていた。


竹内●藤原をよく知る大宅壮一氏なんか、ずばり「エロ達」と呼んでいた。


森山●彼は一時、教授だったが、そこでも評判は最悪だった。

 同僚も「学生にも評判が悪かった。学者としての人間、品に欠けるという評価が多かった」(平瀬己之吉教授『週刊現代』昭和45年49日号)と証言している。


高木●こんな事実もある。

 藤原はアフリカの旅行記を雑誌に書いた。ところが、その内容たるや、自分が黒人女を買春した話をはじめ、下ネタばかり。まるでポルノ小説だった。


森山●ローマに行った時も、現地の日本人に「ローマの女と遊びたいから案内してくれ」と頼んで、大顰蹙(だいひんしゅく)を買った。有な話だ。


佐藤●まだまだあるが、あまりに下品すぎるから、やめておこう。


原田●愚劣なやつ! そんなやつが、学会を中傷するデタラメ千万な本を出そうとした。発売の2ヶ以上も前から、広告まで出して大宣伝していた。


竹内●とにかく悪辣(あくらつ)な「言論の暴力」だった。

 中でも許せなかったのは、藤原が学会の婦人部、女子部を侮辱したことだ。


佐藤●その通りだ。藤原は、こう書いていた。

キャバレーの女の子には学会員が多い”(『文藝春秋』昭和38年7号)

“学会の情報網は信者のキャバレーの女中やホステスが主で、その知的水準の低さは……”(『週刊新潮』昭和44年31日号)等々、まるで“遊女”呼ばわりだった。


高木●馬鹿馬鹿しい。「水準が低い」のは、確かめもせずに嘘八百を書き殴る、お前の文章じゃないか!


森山●当時のキャバレーについて、ちょっと調べてみた。

「(昭和30年代後半から)安キャバレーが次々と生まれた。お客とホステスは話がつけばホテルに行くようになり、キャバレー自体が堕落してしまった」(福富太郎著『昭和キャバレー秘史』)という実態だったようだ。


原田●藤原が本にも同じようにデタラメを書くのは明々白々だった。


竹内●だから広告が出た後、学会側は藤原に忠告した。代表が藤原に会いに行った。

“学会に関する本を出すなら、極端な決めつけではなく、きちんと取材もして、事実に基づいて書いてほしい”“そのために資料も提供するし、どこでも案内する”と要望したんだ。


高木●当然だ。それが言論人のルールだ。最低限の常識じゃないか。


佐藤●ところが、藤原は全く受け入れなかった。結局、最後の最後まで、一度たりとも学会に取材に来なかった。これが真相だ。


森山●このインチキ野郎!


竹内●藤原! こんな話もある。

 彼は戦後日本を代表する政治学者・丸山真男の“門下生”を売りにしていた。ところが、これもデタラメ。「詐称」だった。


原田●木物の「丸山門下」から“大嘘つき”と糾弾され、正休が暴かれた。

 寺沢一・東京大学教授(当時)も「(藤原は)丸山先生の直接指導を受けたといったようなことはまったくない」と断言していた。


佐藤●要するに、インチキ、女狂い、自己顕示欲の固まり。そういう男だ。

 その藤原が、まともな取材を全くせずに、学会中傷のデタラメ本を書き殴ったんだ。


森山●「どういう人間が」「どのようにして」書いたか。全部、明確だな。


竹内●更に「どういう時期に」「どういう目的で」書いたのか。この本をめぐる舞台裏も、明らかになってきた。

 これについては次回、語り合おう。


創価新報 2006-03-15付】

2006-03-14

副区長と家庭指導


 副区長と家庭指導。ブロック幹部の登用をにらんで。2を予定していたが、1は都合つかず。しかし、昨夜、私に電話あり。深夜にも関わらず1時間半も話す。話した分だけ、相手が見えてくる。今日は、よしとしよう。もう1の方のお宅には、初めて上がることができた。これが革命だ。途中、副区長としばし懇談。私の父と同齢の温厚篤実な方。草創の男子部にあって、部隊長を務めるも、全く威張ったところがない。


 日々読み抜く師の指導、昭和45年に至る。先生、42歳。今の私の年である。その内容に驚嘆。勢いにたじろぐ。会長就任から10年にして、750万世帯の創価学会員を涌出させる。私が頭を悩ませている問題についても、完璧な答えあり。この頃の先生のを聴くと、私の魂は震える。ギラギラするほどの生命力が、私の背骨をシャンとさせる。俗衆増上慢の象徴ともいえる言論問題の渦中にあって、当時の師弟は“壮(さか)ん”としか表現のしようがない。地響きを立てながらの広布推進。当時、私は4歳だが、この時代を呼吸しながら育ったことに誇りを覚える。

人材育成の基本


 人材育成については、次の基本的な問題がある。


 第一には、登用してみることである。多少不安や力不足があっても、この人を将来、立派な幹部にしていきたい。また、理事になるよう育てていこうと考えたならば、まず登用して、それから育成していくことである。


 第二には、人生・社会の多くの経験を通して指導力をつけさせることである。ある時はダイナミックな指導、ある時は優しく細かい点に気を配った指導など、幹部自らが範を示して、信を根本とした生活全般の指導力をつけさせてゆくことである。


 第三には、教学力を身につけさせなければならない。どんなに信が強盛でも、大きな事件や、三障四魔に直面した時に、教学がなければ確信がなくなってしまう。また、自由自在に人々を納得させることのできる教学がなければ、法の、社会の指導者にはなれない。


 第四には、その人の人柄である。信頼できる人柄の人物を育てるべきである。根底からにじみ出る純真な人柄であってこそ、多くの人々から信頼されるし、指導者として適当な人といえよう。ただし、人は上辺の顔形だけで判断できるものではない。結局は誠をもち、終始変わらざる一貫のある人が、将来、立派な人材として成長する人といえよう。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 タイミングとしては、育ち始めた時に登用するのだ。育ってからでは遅い。一段落した後では必ずが入るからだ。


 人事とは“戦う場”を与えることに他ならない。単なる階級の授与とは全く味が異なる。信の自覚が高まってきた瞬間を捉えて、次に進むべき戦野を指し示すことなのだ。だから、必要以上に萎縮したり、嬉々とするような人は、どこかがおかしい証拠(笑)。


 指導力とは、信の確信に尽きる。ただし、人情の機微を知らねば、押しつけで終わってしまう。


 教学は、求道の発露。信即生活の中で、学ぶ時間を捻出する努力が求められる。学は光、学ばずは卑し。師曰く「勉強せぬ者は、戸田の弟子に非ず」と。


 人柄は信の純粋に影響する。何らかの作為や功がある人を登用すると、後々トラブルが尽きない。嘘のない人、素直な人、正直な人、誠実な人、真面目な人でなければ、後輩がしむ結果となろう。


 所詮、力あるリーダーのもとからは幾多の人材が輩出され、無能な幹部のもとでは育つべき人も育たない。広布と信の世界にあって、“力”とは信力・行力しかない。一年間で一人も育てられないような幹部は愚将である。いない方がましだ。

2006-03-13

受け身の人


 受け身の人に、組織の問題提起をしてはならない。根本的な責任の相違から、どうしても歯車が噛み合わないからだ。

佐渡御書


 彼(かの)軽毀の衆は始は謗ぜしかども後には信伏随従せりき罪多分は滅して少分有しが父母千人殺したる程の大をうく当世の諸人は翻すなし譬喩品の如く無数劫をや経んずらん三五の塵点をやおくらんずらん。

 これはさてをきぬ日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しとはん僻人等が者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし、修羅がは十八界我は十九界と云ひ外道が云くは一究竟道我は九十五究竟道と云いしが如く日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江(せいこう)が河海をあなづり烏鵲(かささぎ)が鸞鳳(らんほう)をわらふなるべしわらふなるべし(960頁)


 牧口先生座談会で、よく引用された御文。「アッハッハッハッ」と呵々大笑されたと聞く。軍部政府から弾圧され、座談会場を刑事が監視するような状況下にありながらだ。増上慢の本質を暴(あば)き、法華経の行者の自負を高らかに宣言された御聖訓。群盲象を撫でるも、の巨大な姿を知らず。ただ能く信ずる者のみが、その輪郭を辛うじて知り得るのだ。

2006-03-12

『「生老病死と人生」を語る』の連載が終了


 昨日付の新聞にて、『「生老病死と人生」を語る』の連載が終了。最終回は非常に大切な内容だった。医師を幹部、患者を会員として置き換えると、一層よく理解できる。全幹部は聴診器のようなを持て。


 昼、義母と上野原まで墓参り。夜、地区部長が来訪。遠慮がちであった。

幹部としての基本


 幹部になったからといって、その人の信も完璧になったとはいえない。役職は一方便ともいえる。信は一生涯のものである。新しい時代に相応した幹部として、常に成長していくためには、何といっても、自ら勉強し、毎日の題目を人より余計、唱えてゆくことである。



 形式や組織上の役職で、人間の価値を決定したり、大した信でもしているようにわせる幹部は小才子(こさいし)であり、要領主義であり、決して本当の信とはいえぬ。やがて行き詰まり、遂には生命力がおちてくる。誰よりも自分が題目をしっかりあげきって、まず実践してゆくことが、指導者としての第一義でなければならない。



 第二には、班員・地区員の中に、指導しても中々納得しない人がいるとう。その人たちを指導して、よく納得せしめることは折伏に通じる。指導せずに信が一人前になるなら、幹部は必要ない。それを自覚して、粘り強く、勇敢に指導の任にあたっていくことだ。わからせてあげたいという一が慈悲に通ずるともいえる。



 第三には、智を働かせることだ。ぎこちない態度で、判断が明瞭でない、自信のない指導者であってはいけない。随縁真如の智である。常識的にも、また、今まで自分が指導を受けてきた経験からも、こうすべきだと判断したら、その通りに確信をもって指導していくことである。そうすれば支部員の人たちが安する。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 まだまだ、幹部が踏ん反り返っている。あからさまに威張っている幹部は少ないが、動いてないのが山ほどいる。勉強も全くしてない。を塞(ふさ)ぎたくなるような御書講義ばっかりだよ(笑)。これでは、最前線で真面目に戦う同志が可哀だ。


 会員への連絡・連れ出しを行っているのは、地区幹部とブロック幹部だ。ただ、ブロック幹部が機能していれば、地区幹部が動いてないという現実はありますな。支部幹部以上は、会合での伝達係が殆ど(笑)。


 幹部が、会員を法座に連れ出す労をしてないから、いつまで経っても会合が充実しないのだ。必死のいで一人の同志を誘ったにも関わらず、拍子抜けするような会合も多い。


 この指導にある通り、学会幹部であれば、慈悲と智と確信の体現者でなければいけない。自分の都合で、たまーに、ご機嫌伺いのために回る幹部は必要ない。


 最近のことだが、私はあるブロック幹部と話していて、猛烈な危機を抱いた。その人は、こう語った。


「地区協議会が一方的な打ち出しになっているのは、どこの組織でも普通のこと。でも、どんな悪い幹部であっても、長を守らなくてはならない。自分の宿命転換のためには、とにかく我慢することが必要だ。私は言われたことをやるだけで精一杯だ」


 つまり、完全にあきらめているのだ。革命の吹もなければ、随自意の信すらない。その姿は、組織に隷属するサラリーマンと化している。あまりにも長きにわたって、組織悪の犠牲となってきたがゆえに、信が歪(ゆが)められてしまったのだ。無気力な姿勢で活動をしていると、こうした結果になりがちだ。


“信で受け止める”とは我慢を強いられることではない。消極的な姿勢は、信仰の世界にあって自殺行為といえよう。非常識な幹部の振る舞いがあれば、道理を叫んで、打ち破ってゆくことも必要だ。


 正しい信とは、楽しい信だ。楽しくなけりゃ謗法だよ、と言いたい。

2006-03-11

人材育成を頼む


 昨夜、衛星中継に参加する。お二方の壮年を伴って。Tさんより、「会合中であるにも関わらず、携帯電話を鳴らす神経が信じい」と情あり。また、幹部指導で、近隣への配慮を促されたにも関わらず、会館を出るや否や、二人の学生が大で話していた。これに対する指摘もあった。私の所属する区では、司会創価班からの注事項が全く行われていない。これ自体が油断だ。


 帰宅後、副区長に電話をし、今日、連れ出した2の壮年の人材育成をお願いする。まともな幹部は、今のところ、この方しかいない。諸天善神少なき、我が境涯を反省。

沈黙は悪


 更にいくつか、先人の箴言を紹介したい。

 スウェーデンの作家ストリンドベリは、「ひどい目にあわされた方が黙っていると、悪漢の方が正しいことになってしまうのである」と述べている。

 だから戦うのである。ひどい目にあった場合、断じて黙っていてはならない。学会もこの精神である。大聖人の教えとも共鳴する。

 古代ローマの哲学者セネカは、「悪徳はすべて、それが起ったときに押し潰してしまわないと、その根を深く下ろします」と指摘した。

 ゆえに、悪徳と戦い、その根を切らねばならない。

法は勝負」との私たちの姿勢にも通じる。人生において幸福になるのも、正義を証明するにも、勝負である。

 同じく古代ローマの詩人ウェルギリウスの詩句には、「力があるとうゆえに力が出る」との一節がある。

 その通りだとう。ましてや、私たちは最高の妙法を持っている。

“私は題目をあげているんだ、自分には力があるんだ!”とい、行動することである。

“私は駄目だ。あまり話も上手くないし、折伏の力も弱い”とうことがあるかも知れないが、そうではない。

「私は勝てる! 私には力がある!」と確信して進むところにこそ、勝利が輝く。

 とりわけ、青年が自信を持って、自分の無限の力を信じ、発揮していくことだ。牧口先生も、このことを生涯を通して訴えられた。


【第55回本部幹部会 2005-12-08 東京牧口記会館


 組織の内外にわたって通じる指導。内部にも通じるところが最大の問題(笑)。


 先日行われた第58回本部幹部会2006年39日)は、学会の歴史にとどまらず、法史をも画するものだった。人類史にあって、今という時代がどのような味を持つのか――それは、数百年、数千年を経なければ、理解されないのかも知れない。


 ここで私から質問を。「あなたは、ひどい目にあった人を、何人知ってますか?」。


 この答えに、指導者の真価があるのだ。誠実にを傾ける人、広布を成し遂げんとの情熱あふれる人、打てば響く果断の人、そして、権威に屈することなく後輩を守る人。このようなリーダーであれば、あらゆる人々がを開き、指導を求め、それに応えようとするだろう。


 昨年の暮れ頃から、「常懐悲(じょうえひかん) 遂醒悟(しんずいしょうご)」《常に悲を懐(いだ)けばは遂に醒悟せり》という語が頭から離れなくなった。寿量品で説かれる良医病子の譬えの件(くだり)に出てくる言葉だ。良医である父が留守の時に、誤って子供達が毒を飲んでしまう。毒気が深く入ってしまった子供は、父が勧める薬を拒む。その後、父親は一計を案じて、他国から「父死す」との訃報を子供達に伝える。悲しみに悶(もだ)えながらも、が遂に目覚め、色香味美の良薬を服した。子供達の健康を知った父親は、再びに家に帰ってきた。


 寿量品長行の自我偈の直前にある経文だ。


 人は多かれ少なかれ、悲しみ、しみを抱いて生きている。は抜与楽のために、あらゆる方便力を現ずる。そうであれば、法のリーダーは、何にもまして、他者の悲に寄り添い、同する姿勢が求められよう。


「友の悩を、どれだけ引き受けることができるか」――この一点で幹部同士は競うべきだ。地涌の菩薩が威厳に満ちて、素晴らしい姿を示したのは、民衆を守る力があったからだと私は考える。


 今こそ、会員のを代弁せよ! 黙った分だけ、組織は腐ってゆく。

パワー・ハラスメント


 威張りくさった幹部がいれば、「パワー・ハラスメント」について、座談会で研究発表をすればよし(笑)。

2006-03-10

仏の別名は勝者


 さて、の別に「(軍の攻撃に打ち勝った)勝者」とある。

「絶対に負けない」というのがである。

「絶対に勝つ」「断じて勝ってみせる」──これがである。

 法を持(たも)った皆さん方が負けるわけはない。

 いかなる障も、醜い陰謀も、断じて打ち破っていける。絶対に勝っていけるのである。

 戸田先生の時代もの連続であった。

 相次ぐ事の挫折。獄中闘争で病んだ先生のお体は限界に近かった。

 その中で、私は一人立ち上がり、戸田先生をお守りした。

 全財産、全青春、全生命を、師匠である戸田先生に捧げた。

 これが私の永遠の誇りである。

 法の究極は「師弟」である。「師弟不二」である。

法を持つ」ということは、「師弟不二」に生き抜くということである。

「師弟、師弟」と口先では何とでも言える。しかし、現実はそんな簡単なものではない。

 私は本当に全生命を賭して、戸田先生をお守りした。

 師匠をお守りすることが、広宣流布を守り、創価学会を守り、愛する同志を守ることになると知っていたからだ。

 戸田先生と私は深きで結ばれていた。

 亡くなられた今も、そして、来世も、再来世も、私は戸田先生と一緒である。

 それが「法の師弟」の甚深の法則である。

【第55回本部幹部会 2005-12-08 東京牧口記会館


 今、何度も何度も繰り返し、創価の源流を教えて下さっている。私は新聞の文字を目で追いながら、“何となくわかった気になる”自分を恐れる。戸田先生のあまりにも厳しい訓練のエピソードは、私もいくつか知っている。しかしながら、ここに書くことすらできぬ内容だ。


 言葉は、いくらでも飾ることができよう。ちょいとばかり結果を出せば、活動報告をして脚光を浴びることも可能だ。「凄い、凄い!」と口々に褒められ、拍手をもらえることだろう。で、戦いはそこで終わってしまうのだ。これを“活動報告型信”とは申すなり(笑)。かような人物は往々にして、他人の結果を嫉み、あらゆる努力をもって、「凄い自分」を演出してみせる。まあ、広宣流布や一生成とは縁のない種類の人だわな(笑)。


「何が、私の弟子だ!」。そう先生は仰せになっているとう。「後輩の前で偉そうなことを言うのであれば、私と同じ青春を歩んでみろ!」と。昨日付の本部代表者会議(2006-03-04)の指導を読んで、そんな先生のじてならなかった。それは、何が何でも、従藍而青(じゅうらんにしょう)の弟子にしてみせる、という先生の慈悲に他ならない。


 この指導を、群馬の地で闘する我が同志に捧げる。像を絶する問題と格闘する彼こそは、どの学会員よりも“勝者”に近い位置にいる。人間と社会の深い闇を知る人物こそが、真の光を発することができるのだ。渋と辛酸をなめ尽くし、絶望と希望の崖っ淵に立ち、それでも前へ前へと歩みを止めない。その一歩一歩に偉大なる人間革命と、強盛なる信があると、私は信ずる。

プリントアウトの方法


 プリントアウトの質問が寄せられたので、わかる範囲でお答えしておく。ブラウザの表示に忠実に印刷したい場合は、まず、「紙 2001 ver.1.95」という無料ソフトをインストールする。その上で、大見出しから文末までを選択して、右クリック→「ページを紙に取り込む」をクリック。で、「紙」を立ち上げて、保存されたページを右クリックで印刷する。ただ、この方法だと、リンク部分の文字の色が薄くなることを申し添えておく。やっぱり、Wordで作した方が、きれいでしょうな。


 他にいい方法をご存じの方がいらっしゃれば、教えておくんなさい。

2006-03-09

「仏の同志」を最大に守り、讃えよ!


 晩年の大聖人は身延の山中で、粗衣粗食の生活を貫かれた。

 夏は草深く、冬は雪多く。

 そこに質素な庵室を構え、令法久住のために重要な法門を説き、弟子の薫育に全魂を注いでゆかれた。

 大聖人は訪れた門下を、それはそれは大切にされた。

 門下の求道の姿を喜ばれ、“一緒に食事でもしましょう”“お疲れでしょうから泊まっていきなさい”と、長旅の労をねぎらっていかれたのではないだろうか。

 食事といっても、特別な料理はなにもない。

 また、泊まるといっても、当時は蒲団(ふとん)などないし、薄っぺらなものを寝具として使っておられた。

 それらをご自身も用い、門下にも用してあげながら、“風邪などひかないように”等とを配ってくださったことが察せられるのである。

そこには、“自分は僧侶だから”“聖人だから”という権威ぶった態度など微塵もなかった。

 あくまでも、同じ人間として、同志として、門下を尊ばれた。

」といっても、人間とかけ離れた世界にいるのではない。

 ただ南無妙法蓮華経と唱える人々の胸中の肉団にこそ、“の生命”は涌現する。

 ゆえに、妙法を持った人が最も尊い。その人こそ「」である。

 この「の同志」を最大に守り、讃えよ!──ここに日蓮法の真髄があり、創価学会が進んできた道がある。

 だからこそ学会は、ここまで伸びた。世界に大発展したのである。

 権威主義宗教は没落しかない。滅びるしかない。その実態は皆さんがご存じの通りである。

 学会は勝った! 大聖人直結で勝った!

創価学会、万歳!」と、高く叫びたいとうが、いかがだろうか。


【第55回本部幹部会 2005-12-08 東京牧口記会館


「あなたが本当に“楽しい活動”をしていた時のい出は?」

「今の自分があるのは、どのような先輩のおかげですか?」

たまには、こんなやり取りをしてはどうだろう? 絶対に盛り上がるから、やってごらんよ。


 時々、座談会の企画が行き詰まっているという話をにする。全く馬鹿げた話だ。企画なんぞ、いくらだってある。私なら、に10回、座談会があったって困らないよ(笑)。一人ひとりの話にを傾ければ、誰が何を求めているのか、どうすれば信の歓喜を引き出せるか、直ぐわかるものだ。また、社会に目を向ければ、ニュースやテレビ番組など、いくらだってヒントはあるだろう。


 大体だな、「座談会を企画で盛り上げよう」という魂胆が気に入らないね(笑)。会合ってえのは、“長の一”で引っ張ってゆくのだ。極端な話、座談会の式次第なんて要らないのだ。担当幹部、あるいは地区部長を中に、皆で自由に語り合うのが本来の姿である。式次第を時間通りにこなして終わるのが座談会だとったら、大間違いだ。


 冒頭に提示したテーマの隠し味を教えて進ぜよう(笑)。これを、その場で言うと、多分、会場が凍り付いてしまうから要注(笑)。オブラートにくるんで、上手くもってくことだ。


「なぜ、今が楽しくないのか?」

「どうして、今、そのような先輩がいないのか?」


 盛り上がってない組織、結果が出ない組織に共通しているのは、一人ひとりが大切にされてないという現実だ。上から押し付けるように打ち出しを落とし、「あれをやれ、これをせよ」と、必ず命令主義に終始しているはずだ。


 戸田先生は、「この世から悲惨の二字をなくしたい」と言われたが、悲惨の二字に覆い尽くされている地区や部はないか?(笑)


 人間主義とは「民が主(あるじ)」であるという発に貫かれている。そうであれば、組織においては、一人ひとりが主体者であらねばならない。せっかく参加しているにも関わらず、発言することもなく、“聞く側”に追いやられている会員が山ほどいる。


 こんな組織にいれば、折伏なんてできるはずもない。「自分が大切にされている」という実がなければ、「学会は凄い!」と言い切ることができないからだ。


 世間においては貧富の差が拡大していると言われるが、学会においては信の地域差が拡大している。これを打開するには、一段飛びの指導体制をしっかりと確立することだ。区長は支部長を、本部長は地区部長を、支部長はブロック長を激励し抜き、ピカピカの人材に磨いてゆく。組織の形態がどのように変わろうとも、信血脈はタテ線に流れ通うことを銘記したい。


【指導は、NON氏の投稿によるもの】

座談会関連指導


 第20回本部幹部会の指導の配信が終わり次第、座談会に関する指導を連続でお送りする予定。どうか、転送しまくって頂きたい。続いて、教学関連の指導を準備している。


 今日付の新聞に掲載された指導は重要。創価血脈の相承が本格的になりつつある。よくよく行間にいを馳せるべし。多くの学会員が不信を起こしてしまうゆえに、言葉にできない歴史が多々あることを知ろう。


 明日は、江東青年部の日。昭和20年、東京大空襲があった日でもある。

2006-03-08

新組織の核をつくれ


 新しい組織の出発に当たり、大切な点は何か。

 ある幹部に聞くと「団結です。ただちに闘争を開始することです」と答えてくれた

 またある人は、「人材育成です」と言った。

 またある人は、「最初の3ヶ間、全力で第一線を駆けめぐることです」と言った。

 どれも大事なポイントだとう。

 新しい組織。新しい陣列。理の団結を築いていくには、「核」をしっかりとつくることである。

 まず自分自身が、広宣流布のために、強く、深い決を固める。そして、誓いを共にする同志を一人、また一人と糾合する。安して何でも言い合い、激励し合える仲間をつくっていくのである。

 組織が既にあるからといって、全てが順調にうまくいくわけではない。そんなに簡単なものではない。

 でき上がった組織にあぐらをかくようなリーダーであってはならない。自分の信と、誠実と、必死の闘争で、麗(うるわ)しい団結の組織を築き上げていただきたい。

 また、人材育成で大事なことは、「どんどん励ます」ことである。いい人を伸ばすことである。叱ってはいけない。広布に戦ってくださる同志を、真から賞賛し、ほめていくことである。

 そういうリーダーのもとで、人材はぐんぐん育っていく。

 学会には、優秀な若い人材が、たくさんいる。そうした人々を、どんどん育て、どんどん登用し、力をつけさせていかねばならない。

若い人々を育てるのが、急務の課題である。


【代表幹部協議会 2005-11-25 創価文化会館


 先日、「黙々と我が使命を果たせ」に書いた部長時代の話の続きを。


 私は、まず副部長と信頼関係を築こうと努力した。最初の内は、私の方から毎日、連係をとった。直ぐに毎日、顔を合わせるようになった。6畳一間の副部長宅を部の拠点にさせてもらった。全くの偶然だったが、互いの職場が取引先だった。


 2〜3ヶ経った頃だった。「俺さあ、部長のこと誤解してたよ。だって、『小野は、本部内で派閥を持っているから、気をつけろ』なんて聞かされて、ずっと鵜呑みにしてたんだ」。私は笑い飛ばした。「こっちに引っ越してきて、3年ぐらいしか経ってないのに、どうやって派閥をつくるの? つくれるもんなら、教えてもらいたいよ」「そりゃ、そうだよな」と二人で大笑いした。


 6歳年長の方だったが、実に温厚で、人当たりのいい人物だった。入会して5〜6年ということもあって、役職を演じるような妙な真似がなかった。半年後には、毎日の連係は完璧になっていた。旅行先にも、しっかりと電話が来るようになった。で、たまたま、私が地方へ行ってる時に、支部内である問題が起きた。副部長は支部婦人部長から大目玉を食らって、うろたえていた。この婦人部長、怒(おこ)り出すと手がつけられないのだ(笑)。総区の支部長会で、本部から招かれた古参の副会長を怒鳴りつけたこともあった。「いいよ。私が戻ったら何とかするから。しばらく潜伏した方がいいかもよ?」と笑いながら答えておいた。


 帰宅した私は、まず、複数のメンバーから事実関係の確認をし、問題を掌握した。次に、問題を起こした張本人と関係者に厳重なる注をした。それから、支部長、支部婦人部長に詫びを入れにいった。「あなたが謝ることじゃないけど、私、本当に吃驚(びっくり)しちゃったのよー」で終わった。副部長がビビっていることも伝えておいた(笑)。


 この程度のことなら、二日もあれば十分だった。「もう、大丈夫。安していいよ」と言う私を、副部長は尊敬の眼差しで見つめていた(笑)。それ以降、副部長との信頼関係はぐっと深まった。


 私はトラブルがあればあるほど燃えるタイプなのだ(笑)。何もない平穏なのが一番嫌だね。障害物が多ければ多いほど、人生はドラマに満ちてくる。人の一生は言ってみれば“力試し”みたいなものだろう。そんな分が災いして、20代後半から現在に至るまで、事件・事故・トラブルを一手に引き受けてきた。一つ一つの出来事を通して、「絶対に何とかする自信」が身についてきた。胸に妙法を抱く我々に不可能はない。


 核をつくるのは簡単だ。まず、裸の自分をさらけ出すことだ。そして、喧嘩をすることだ。ぶつかり合いを避けるのが一番駄目。ぶつからないと理解し合うことなんかできるわけがない。要は、育てる側の一で決まる。

学会指導のデータベース


 数年前から学会指導のデータベースをつくっているのだが、中々うように進まない。メンバーが少ないことと、コンスタントに入力ができないため。そこで、「じゃあ、一肌脱いでやろうじゃないか」という殊勝な方がいらっしゃれば、是非とも私宛てにメールを頂きたい。今まで、殆どのメンバーがクビになっているので、短くともコツコツ入力してもらえる方を募集する。希望者は、fuitsuアットマーク104.netまで。

2006-03-07

組織革命


 毎日が戦いだ。

 毎日が進歩のための闘争である。改善のための改善ではなく、勝利のための「改善」である。価値を生むための「改善」に取り組むことだ。生きた「改善」を繰り返していくことだ。それが、勝つための法則である。

 今いる環境に安住して、新たな挑戦の行動を起こさなければ、その団体はやがて滅びていく。

 大切なのは、常に自身を変革していくことだ。私たちでいえば「人間革命」である。

 自らを常に新たにし、成長させていくのが、我らの信仰である。そのための最高の方法が唱題であり、学会活動である。


【代表幹部協議会 2005-11-25 創価文化会館


 い切ったことを書こう。


 今の学会の一凶は、幹部が先生の指導に敏に応じないところにある。いつもいつも、具体的な指導をしてもらいながら、旧態依然として平気な顔をしている幹部が多過ぎる。なかんずく、本部長以上が問題だ。


 組織の諸法実相は会合に表れる。特に本部単位よりも大きい会合の場合は、学会歌、活動報告、幹部挨拶、指導という定型化があるため、より一層、顕著になる。役員の動き、原稿チェックの程度、そして、何にも増して幹部の言動を見れば一目瞭然だ。


 一つの会合を行う場合でも、リーダー次第でいくらでも人材育成はできるのだ。信の躍動や、燃え上がる決で会場が満たされなければ、会合を開催する味はない。参加者全員の命を引っくり返し、一気に牽引(けんいん)しゆく長の一が求められる。


 この指導は、トヨタ自動車の発展を支える経営哲学を通したもの。直前では、こう紹介されている。


「世界のトヨタ」の目覚しい発展の要因は、どこにあるのか。

 様々な角度から論じられるが、“常勝トヨタ”を支える特徴として、「着実な経営方針」「危機管理の高さ」「改善に改善を続ける自己変革能力」などが指摘されている。

 トヨタでは「3年間、何も変えなければ会社は潰れる」とまで言われる。奥田碩(ひろし)会長自らが、「変えないことは悪いことだ」と言い切り、社員が常に問題点を指摘し合って、改善への努力を続けている。

 凄いことである。

 ここに「変化の時代」を生き残るための道がある。企のみならず、あらゆる団体が学ぶべき姿勢であろう。

 トヨタでは、各現場から、実に年間60万件もの改善の提案がなされる。そして、その内の90%以上が、実行されているという。

 トヨタの合言葉である「カイゼン(改善)」は、今や世界中に知られる国際語となった。自身を常に変革していく勇気──それが、トヨタの世界的な躍進を可能にしているのである。

 トヨタの張富士夫副会長も、「人間の知恵には限りがない。だからカイゼンも永遠に続く」と述べておられた。


 日本経済はバブルの崩壊以降、「空白の10年」となり、各企はしのぎを削る戦いを繰り広げた。大企は、“リストラとコスト削減”という血を流し、中小企は、金融機関からの貸し渋りによって、倒産が相次いだ。本来であれば、政治主導で乗り越えるべき局だったが、政治家はあまりにも無能だった。


 有なエピソードだが、ファーストリテイリングの創者・柳井正氏は1995年、全国紙の広告で「ユニクロの悪口」を募集した。しかも、何と100万円の懸賞金つき。1万通もの応募があり、これらのクレームによって自社製品を見直し、見事に績を改善した。


 トヨタはカンバン方式で、社内の仕組みを変えた。今では世界中で知られる改革原理をつくった。「確認事項」でも紹介したように紙は一切なく、生産ラインにあっては、歩く歩数まで見直すという徹底ぶりだった。


 我が組織はどうか? 幹部一人ひとりに、真剣な革命精神がたぎっているか? 打ち出しや伝達に終始しているところは、先生のに背いていることを知るべきだ。

第20回本部幹部会


 今、「創価スピリット」で第20回本部幹部会の連載をお送りしているが、これは全文、配信する予定。あまりにも大切な指導なので。

2006-03-06

副役職が死んでいる


 あるいは、殺されている。


 さあて、どんどん建設的な見を述べていこうか(笑)。


 よく言われることだが、一部のエリートを除いて殆どの人は、一生を通すと副役職の期間の方が長い。「副役職の時に信が試される」とも言われますな。つまり、それだけ大変だってこと。


 青年部時代に少ない期間ではあったが、私も副役職を務めた。新任の決として、1.長よりも動く。2.煩(わずら)わしいことの一切を引き受ける。この2点を宣言してきた。


 しかし、壮婦の場合となると、チト異なる。


 例えば、どこの地区にでもいるであろう副支部長や支部副婦人部長は、ほぼ完璧に支部幹部扱いをされていない。打ち出しや連絡等は地区で聞かされるケースが殆ど。上座に座らない人も多い。統監がある地区に所属しているだけで、担当地区すら変わらない幹部が大半だ。特に高齢者の場合、それが顕著。


 例えば、私が所属する第2総東京などは、広布第二章の時、急増する会員数に対応するために、次々と正役職を育てる必要が求められ、挙げ句の果てに副役職が軽んじられる伝統が築かれてしまった(方面幹部談)。


 これでは、副役職が死んでしまうのは当然だろう。


 正役職の幹部が、副役職の人に遠慮をさせている現実が確かにある。また反対に、勝手な遠慮をして、自ら自殺行為をしている副役職の人も多い。


 あらゆることを副役職の幹部と相談しながら、組織を運営してゆくのが正しいあり方だ。人事を始め、組織の展望に至るまで事細かに相談してゆけば、それ自体が偉大なる人材育成になるのだ。人は、見を求められた時、初めて自分が必要とされていることを自覚する。そういった人情の機微を知れ。


 副役職全員を参謀として生かすことのできるリーダーが求められている。


 何もしてない副支部長、副本部長、副区長、副会長が、掃いて捨てるほどいるよ(ニヤリ)。

2006-03-05

悪に対する攻撃精神を忘れるな


 今、私は、これまでの歴史を整理しながら、学会の万年の発展のために、一つ一つ手を打っている。

 戸田先生のご指導も、改めてまとめ始めている。

 戸田先生はしばしば、「外交」について指導された。

「学会の正義を、世間にどう認識させるかが勝負である。外交戦がますます重要になるぞ」

 これからも、してまいりたい。誠実と確信が人の胸を打つのである。

 また、次のようにも言われた。

「悪に対する攻撃精神を忘れるな! 失うな!

 これがなくなったら、広宣流布はできない。バラバラになってしまう」

 広布を破壊しようとしたり、同志をしめる邪悪な人間が現れたならば、絶対に許してはならない。即座に幹部が立ち上がって、猛然と戦うべきだ。

 組織が大きくなってくると、ともすれば、大勢いるから大丈夫だろう、誰かがやるだろうといがちである。この油断が怖い。そこに敵は付け込んでくる。

“自分が戦うのだ!”と自覚した人間が立ち上がるしかない。

“青年よ、攻撃精神を忘れるな!”と強く訴えておきたい。


【代表幹部協議会 2005-11-25 創価文化会館


 その先生が打って下さっている手を、日々じているのかいないのか――そこに、創価の血脈がある。いよいよ、重大な局面に入りつつある。本物の弟子しか生き残れない時代だ。師の呼吸を見失えば、悔いを千載(せんざい)に残すことになろう。


 エラーや、見て見ぬ振りは許されない。事なかれ主義や、馴れ合いを払拭せよ。


下から上を動かせ!」との大号令に、どれだけの末端が反応しているのか? 個人的には、これが最終段階の指導とえてならない。妙法と自分自身のみを拠(よ)り所としながら、地涌の菩薩が陸続と躍り出る時が遂に到来した。「六万恒河沙の眷属を呼び起こしてみせん!」との気で、3.16、4.2、5.3の創価黄金の季節を迎えよう。

2006-03-04

検証:日蓮仏法の理論


【「絶望の淵で掴(つか)んだもの」の続き】


 私は、大変良質な研究材料として、我が身での病の実験を行ったも同然です。何と、まりんは、気がつかない間にモルモットとなっていた! ということです。


 皆さん、この体験を読まれて、おわかりになるかといますが、最終解決に至るまで、母そのものが変化することはずっとありませんでしたね。


 どんどん、変化を遂げたのは私のほうです。結局、環境をどうこうしよう、相手を変えようとったところで自分の力ではどーにもなりません。


 日蓮法の根幹は、「相手ではなく、自分が変われ」です。自分が変わることで、自分の環境が見事に変わっていく。それが法の理論であり、結果として出てくるものであります。


 自分のが変わったとき、それに連動するかのように母も自然に変わりました。


検証:物事の考え方にはAとBが存在する


 母に対する見方は大きな変化を遂げましたが、どちらもそれなりに理由をもった見方です。


 A――母は、むごい仕打ちを繰り返す。私は傷つくばかり。とんでもない存在である。

 B――母は、むごい仕打ちを繰り返す。が、それは私にの病がどれほど辛いものかを経験させる為の手段であった。

 そうです。物事には必ず両側面の考え方が存在するのです。それに気がつかないで、片方ばかりを見ると、とんでもなくしかったりで、自分の置かれた環境の劣悪さを呪うばかり。


 見方を変えれば、以前と全く別の大変幸福な道を歩んでいくことが可能になります。その、「ものの捉え方の大転換」の方法が、日蓮法の凄さであります。


 他に、具体的な検証例を挙げておきましょう。仕事に対する取り組み方にも、AとBの考え方が存在します。


 A――仕事を「やらされている」と捉え、務に携わる。

 B――仕事を「させてもらえる」と捉え、務に携わる。


 やる気になって気分よく仕事ができて、績が上がり、給料もアップするのはBの考えだという事がわかりますね。


検証:学会組織の必要/一人で信はできない


 一人で題目をあげ、新聞その他を読み、法知識を得ることは可能です。しかし、人は人との関わりの中でしか、自身の成長という本当の信の目的は達成できません。


 組織から離れると自己中に傾き、周りが見えなくなるからです。私の場合も同格で、自己の情から何度も本質を見失いかけました。自殺の方向へ考が傾いたり、母を恨む情に取り付かれたりと、環境にめまぐるしく右往左往し、真実を見失うところでした。

 客観的な眼差し・法の法則の眼で、指導激励くださる信の先輩がいて、初めて宿命転換が可能となり、自己の悟りへつながるということを痛しました。


 池田先生がご指導の中で何度も「一人を大切に」とおっしゃっていました。人は、人の真に突き動かされて進んでゆけるものといます。私も、私を大切にして下さるたくさんの先輩方に支えられ、こうして幸福へと大転換することが出来ました。


 組織の大切さ、温かさを身をもってじます。


検証:御書は学び、身で読み、また学ぶ


 私は理論から入るタイプですので、どうしても御書だけが得と化します。理論も納得するためには大切ですが、実際に自分で本当かどうか実験する(体験する)という過程が必要です。


 私のようなタイプは、理論を納得するまで、のめり込みますが、納得し得た理論を自分で実験し展開していく過程が大変に手ですね。頭でっかち型とでも申しましょうか。


 こういった人は大変に危険です。一つ間違えば、法を自分の都合のいいように改ざんしてしまいます。また、自分に合うもの合わないもの(実行しやすいもの、手をつけたくないもの)を勝手に選びとり、大変、自己中にのめり込みやすくなります。


 釈尊が残した膨大な法経典の中で二乗が許されたのが法華経だけ、というのはこういったことからだと私はいます。


 学会組織内部アンチの人間に、結構このタイプが多いのではないでしょうか。


「各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやををもひ・めこををもひ所領をかへりみること・なかれ無量劫より・このかた・をやこのため所領のために命すてたる事は大地微塵よりも・をほし、法華経のゆへには・いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき、誓えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがごとし、各各い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり」(「種種御振舞御書」910頁)


【通解】各々日蓮の弟子と乗る人々は一人も臆するを起こしてはならない。大のときには親のことを配したり妻子のことを配したり所領を顧みてはならない。無量劫の昔から今日まで親や子のため、また所領のために命を捨てた事は大地の土の数ほど多い。だが法華経のためのゆえにはいまだ一度も命をすてたことはない。過去世にずいぶん法華経を修行したけれども、このような大が出てきた場合には退転してしまった。それはたとえばせっかく湯を沸かしておきながら水にいれてしまい、火をおこすのに途中でやめておこしきれないようなものである。それではなにもならないではないか、今度こそ各々覚悟を決めきって修行をやりなおしなさい。命を捨ててもこの身を法華経と交換するのは、石を金と取替え、糞を米と交換するようなものである。


 私が、身を粉にするいで自分のに「法華経の実験」をした結果。特にこの御書の最後の味を、こう納得することができました。


「命を捨ててもこの身を法華経と交換するのは、石を金と取替え、糞を米と交換するようなものである」


 私の法華経実験の結果はこうです。

「宿命を悟りに、功徳に、絶望を希望に交換した」。


 大聖人のおっしゃる言葉が、まさに真実であるとの証明と確信を得ました。

黙々と我が使命を果たせ


 仕事でも、活動でも、大事なことは、「今いる場所」で何かを残していくことだ。

「あの部署なら頑張れるのに」「あの地域ならば戦えるのに」とうこともあるかも知れない。

 しかし、現実はそれほど甘くない。自分自身が確立されていなければ、どんなところにいっても、結局、同じ問題で悩むものだ。すべては「自分」で決まるのである。

 戸田先生は、「牢獄が一番、自分を鍛えられる場所だ」ともおっしゃっていた。身勝手な生き方では、人間としての“芯”をつくることはできないのである。

「どこでもいいです」「どんなところでも頑張ります」──こういう人が一番、強い。

 今いる場所で黙々と、我が使命を果たす人が一番、偉大なのである。

「重大な使命をもつ学会のなかで、自分の使命というものが何かということを、忘れてはならない」──これが戸田先生の厳命であった。


【代表幹部協議会 2005-11-25 創価文化会館


 不自由な環境に打ち勝ってこそ力がつく。


 強敵を伏して始て力士をしる(957頁)


 私が一番しかったのは、部長の時だ。27歳で隣の部へ派遣となった。全く結果の出ない、言わば“お荷物的存在”の部だった。クセのある人が多く、当然ではあるが、殆どが年長者。後で聞いて初めて知ったのだが、その上、「小野は本部内で派閥を持っている。気をつけろ」などという噂が流されていた。


 ここの組織はさすがの私も辟易(へきえき)した。新部結成式に集ったのは、私を入れて4。二人の地区幹部は、洗いざらしの髪で、一人は短パンだった。軽く注をすると、「あ、そう。じゃ、俺、帰るわ」「あ、嘘、嘘。待って、待って」とこっちが下手に出る始末(笑)。4地区の内、機能しているのは1地区だけという現状だった。


 唯一の救いは、支部長と婦人部長が大歓迎してくれたことだった。このお二方は個的なことで有な幹部だった。どちらも気が短く、喧嘩っ早いところが、私と瓜二つ(笑)。しかも、がでかいと来ている。この二人から、「とにかく、男子部を何とかして欲しい」と切望された。


 副部長は6歳年長の方で、最初の内は、やたらぎこちなかった。噂話を真に受けていたためだった。私は、まず一人の味方をつくろうと、この副部長と毎日、会うことを掛けた。


 最初の内は、何をやっても結果が出なかった。部長になって間もない頃、総区を代表して、先生から激励の品を頂戴する機会があった。総区男子部長は授与する際、「結果が出ているわけではないが、本当に大変な中で戦っている」と紹介して下さった。顔を合わせる度に、「どうだ?」「大丈夫です!」というやり取りが続いていた。


 私は、とにかく信の楔を打ち込もうと、御書とスピーチの研鑚を中とするリズムをつくった。少しずつ、活動家が増えだした。転入してくる男子部も出てきた。この間、私は3地区を駆け巡り、地区部長・地区婦人部長と連係を欠かさなかった。


 私は部長になるまでというもの、元気と勢いだけで進んできた。また、それが評価され、大切にされてきた。ところが、この部に来た途端、それが全く通用しなくなったのである。そして私は、“自分が変わらざるを得ない現実”に気づいた。


 ポツリポツリと自分の悩みを打ち明けるメンバーも現れた。御書とスピーチが少しずつではあるが、確実に皆の信の姿勢を正した。高校を卒して、新たな男子部員が登場したことも、大きな影響を与えた。


 9ヶ後、3地区の地区リーダーを変えた。ここから、やっと私のペースにできた。面白いように結果が出だした。仕事で多忙だった地区リーダーの教学試験も勝ち取った。共に研鑚する中で、着実に絆を深めることができた。


 2年3ヶを経て、私は本部長となった。それ以降は、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。今、振り返っても最強の本部だったと自負している。大いなる世代交代の局面を迎えて、私は鬼とならざるを得なかった。江東男子部の伝統は、それほど重いものだった。


 一番、大変な組織だったが、一番、勉強になった組織でもあった。


【※指導は、NON氏の投稿によるもの】

婦人部殿御返事


 先生は最近、一貫して「下から上を動かせ」と指導されている。早速、それを実践して参りたい(笑)。


 先日、ある婦人部の最高幹部が語った話を聞いて、私はを疑った。


 先生は今、「婦人部を大切に」とおっしゃっている。折伏も、新聞啓蒙も、財務も、一番、頑張っているのは婦人部です。威張っている壮年はいませんか? 婦人部を大切にするのが当たり前なんです。


 師の言葉を利用して、殊更(ことさら)、差異を強調する指導に、どんな味があるというのだろう? しかも、根っこに隠されているのは、成果主義に他ならない。婦人部は一番、人数が多いのだから、分母を部員数にして算出するなら、まだ理解できる。


 師の激励を、自分達の権威付けに用いる魂胆が浅ましい。


 全国婦人部幹部会が開始された当初も、先生は婦人部を讃嘆されていた。時の婦人部長であった坂口幾代さんは語った。


 先生は今、婦人部を最高に大切にして下さっている。だからこそ、私達婦人部は“いい気”になってはいけない。どこまでも謙虚に進もう。(趣


 指導の受け止め方に天地雲泥の差がある好例である。信弱き人は、必ず何かで自分を飾ろうと企てる。信強き人は、毀誉褒貶一喜一憂せず、淡々と己(おの)が道を歩む。


 女子部・婦人部を大事にするのは当たり前だ。私も人後に落ちないつもりだ。だが、それをもって、増長する人間がいるとすれば、勘違いも甚だしい。

2006-03-03

絶望の淵で掴(つか)んだもの


【女子部】まりん


 2005年夏の私の闘いの記録を書かせて頂きます。


 まずは、私の生い立ちから語らねばなりません。


 私は、どうしても母が好きになれないまま大人になりました。父のことは大好きです。大変温厚で私の事を包んでくれる人です。母の方は……私のことを、母なりに愛してはいるのでしょうが、ほとんど愛情としてじることができないまま大きくなってしまいました。


 元々、ウチの教育方針は、父と母は正反対でした。母は、私の欠点ばかりを取り上げ、注指導して自覚させるやり方。

「アンタはこれだからダメなのよ! ここを治しなさい!!」

父は、いいところばかりを集中的に褒め、そこを伸ばす教育を私に施しました。

「お前には、お前にしかないいいところが一杯あるんだよ。お父さんはお前のそんなところが大好きだ」

 その正反対な教育を、私は同時に受けて育ちました。つまり、母にいっきり叱られたあとに、直ぐ父がフォローを入れる。そんな毎日を過ごす私は、正直どっちに従うのが正しいのか混乱して大きくなりました。


 両親なりに愛情を注いでくれるのは、子供なりにわかります。ただ、正反対なものを同時にされても……ただただ困ります。それも、両親とも共通項がひとつありました。「過干渉」です。

「親のいう事にちゃんと従っていれば、お前は立派な大人になれるから、安しなさい!」


 こんな風に、勝手に未来のレールを敷かれ、私のいや見よりも、親から見た理的な子供の生き方を勝手に最優先されてしまいました。それを嫌だ嫌だとでは反発しながらも、それをどう親に伝えるべきか、その手段も学べないまま、が次第に歪んでいくのを薄々自覚しながら、密かに気持ちを押し殺して成長しました。


 大らかで寛大な父には、それでも安を持って「お父さん」と甘えることができました。しかし、母には……母だけには……。


 私には、決定的に母に裏切られたい出を忘れることができません。もう、25年も前のことです。小学生だった私に、幼いながらも耐えいことが押し寄せました。「イジメ」です。


 最初は単なる数人の男の子からの冷やかしで始まりました。最初は私も、「嫌だなぁ……」といながら笑って済ませられる範囲でした。それが……日を追うごとにエスカレートしていきました。気がつくと、クラス中の男子からイジメを受ける毎日になっていました。そうなると、もう止まりません。男子だけではなく、女子たちからの無視もはじまります。変に我慢強かった私は、必死で耐えました。更にイジメは飛び火をはじめ、学年全体にまで広がっていきました。廊下を歩けば、他のクラスの知らない男子から罵を浴びせられました。、教室につけば、既に待ち構えていた男子たちから悪口の洗礼を毎日受けました。


 それでも、親には言えなかった。やっぱり、子供として、自分の親には配を掛けたくはありませんから。けれども、我慢にも限度はあるのです。ある日、給食の時間。順番に並んでいると、直ぐ前にいる男子から「お前は、うぜーから並んでんじゃねぇ! 近寄るな、どっか消えろ!」と言われて、自分の中の我慢が切れました。大で泣き出してしまったのです。さすがに担任の先生がイジメの実態に気づき、私を守ろうとしてくださいました。


 しかし……先生のやり方にも、大変傷つきました。先生は、あろうことか「緊急学級会」を開きました。しかも、デカデカと黒板に書くじゃないですか!!「まりんちゃんのイジメについて」と。そして、イジメの首謀者である男子数人を立たせて問い詰めました。「どうして、まりんちゃんをイジメるの!!」


 ……先生、それは大変逆効果です……。私を守って下さる気持ちはありがたいですし、先生を悪くはいません。しかし、その後の状況はひどくなるばかりであることは言わずもがなです。


 もう、どうしようもなかった。守ってもらえるはずの先生にも頼れず、学校での居場所を奪われた小学生の私が最後に頼るところは、やはり親しかありません。


 ある日、恐る恐る母に切り出しました。

「お母さん……私、学校でイジメられてる……」

 母なら、当然護ってくれるものと信じていました。母は私をチラッと見ると、きつい眼差しでこう言い放ちました。

「イジメられるお前が悪い。お前が弱いし何も言えないから相手はイジメるんや。悔しいなら、相手に言い返しなさい!!」


 必死のいで、“助けて欲しい”と娘が差し伸べた手を、母は平気で振り払った。の底から愕然とした。言葉になりませんでした。親しか頼る事の出来ない子供時代に、親子としての決定的なダメージを受けてしまった。


 それ以来、私は正直母を母として認められなくなってしまったのです。実の母親が、実の娘に平気で出来る事なのか。底信じられませんでした。これでは、まるで継母(ままはは)です。


 結局、母は一切取り合ってくれず、配して家に連絡を下さった先生にも「大丈夫です。あの子、それでもちゃんと学校に行ってますから」と言い放った。


 家にも居場所がなければ、結局、辛くとも学校に行かざるを得ない。そんな、まだ幼い私の情をも、母は一切汲んでくれませんでした。そのまま、私は小学校を皆勤で通いました。


 父には、イジメのことが話せませんでした。父が帰宅する前に、母にイジメのことを話してしまってこんな仕打ちを受け、とてもではありませんが父に訴えることが出来ませんでした。


 もし……もしも、父が母と同じ事を私に言ったとしたら……。私は、本当に生きていく場所を失うからです。とても怖くて父に聞けませんでした。私の母に対する決定的な不信はこの幼いときから離れなくなりました。


 それでも、どんなに反発しようが血のつながりだけは解消できません。いくら母親を取り替えたくても、そうはいかないのです。母の温もりを否定しながらも、私はのどこかで母を信じたい気持ちは常に持ち合わせていました。


「母は嫌い。信用できない。けれど、やっぱり母に愛されたい、母を認めたい、認めてほしい」

 いつも、がそう叫んでいました。けれど、いつも母に裏切られました。どうしてそんなこと言うの? どうしてそんなことをするの? ということばかりです。その度にショックを受けながら

「ああ……またか。仕方ない、いつもの事だ」と自分をあきらめさせていました。


 以前から凄い仕打ちを繰り返してきた母が更に迫力を増したのは、ここ数年のことです。


 私には兄がいます。母は一人子で優等生の兄を大変大切にしています。今は家を出て暮らしていますが、週末になると戻ってきます。兄が家を出てから、母は更に兄を可愛がるようになり、愛情注ぎの兄弟格差がもろ出しになってきました。


 夕食のおかずを差別するのです。凄いですよ! ある日、うなぎがメインディッュで出ました。母は私にピシャリ。「これは兄ちゃんが食べるんだから、お前は食べないでね」ひと切れも私に与える事はしませんでした。それどころか「もし、兄ちゃんが食べ残したらば、それは食べていいよ!」と平気で言います。私は。母にとっては野良犬と一緒なんでしょうか……


 それでも私は、精一杯の親孝行をしようと、両親を長崎旅行に行かせました。私は仕事の都合で一緒には行けなかったけれど、全額両親の旅費を出資しました。父も母も喜んで帰ってきました。謝の言葉を述べる両親に私も嬉しさが一杯でした。


 が、喜ぶのもつかの間……。母は、お土産のカステラを、全部兄に渡してしまいました。さすがの私も激怒。「私には食べさせてもらえないの!」。母は悪びれもせず、こう言い放ちます。「そんなに怒らなくても……アンタには、また行った時、買ってきて上げるからいいじゃないの」。


 こんな母、日本に何人いるのでしょう? 私は怒りで頭が変になりそうでした。


 こんな仕打ちを繰り返されても、私は実家を出ませんでした。資金がないわけは一切ありません。私は“貯金王”を自称するくらい、財力には自信がありますので。


 家を出ない理由は他にありました。「今直ぐにでも出てゆきたいけれど、出たら最後、一生母を許せなくなるのは目に見えている」からです。何か、何かきっかけがあれば、きっといつかの底から母を許し愛せる日がくるのではないか。わずかな希望をこれでも持ち続けていました。それまでは、我慢して耐えよう。私の精神力ならまだまだいける! と。あの、壮絶なイジメでも耐え抜いたんだからと、自分を奮い立たせている節(ふし)がありましたね。


 そんないを母は知る由もなく。そこまで言うか! という言葉をまだまだ平気で私に浴びせ続けます。


「アンタに毎もらってる食費が足りない。こんな額で暮らしていけるとってんの?」

 確かに多いとは言えませんが、私は就職してから毎欠かさず2万円を収めています。

それが足りない、というのです。兄も私と同額払っていましたが、文句を言うのはなぜか私にばかりです。第一、兄弟で4万払って、更に父の収入を加えると、我が家の食費って毎いくらかかるのでしょう。4人家族で一人2万で最低8万?? あり得ない額ですがな。そんな毎日豪華な食事はしてません!! どうしてそんなイチャモンを私に言うのか、全く気が知れません……。


 私には自分で凄いなぁとする部分が一つだけありました。

「よくぞ、グレずに大人になった!」

 多な時期に、グレてやりたいとの欲求もありました。両親とも母の教育法で私が育ったなら、間違いなく非行少女へ変貌したことでしょう。 けれど、父の大きな愛情が、私のそのいを阻みました。


「お前には、お前にしかないいいところが、たくさんあるんだ……」

 その言葉に、いつも後押しされていました。父をがっかりさせたくない。父の私への言葉が、いつもに刻まれていました。自分が傷ついた時、いつもその言葉をい出し、信じ抜いてきた。

「こんな私でも、認めてくれる父親がいる!」


 しかし、母の壮絶さは日を追うごとに増すばかりです。私は学会指導で母の偉大さを池田先生がおっしゃるたびに、

「ウチには当てはまらない。ありえない」といました。「母は一家の太陽である」――そんな指導もありましたが、その言葉を聞いた私はただ落胆するしかありません。誰にもそのことは言えませんでした。身内のことを人にさらけ出すには勇気が要る事です。まして、ウチは両親とも支部幹部です。親の体面をうと、とても言えませんでした。


「♪母よ あなたは なんと不議な 豊かな力を 持っているのか」

 有な”母”の歌を聞くたび、が疼(うず)きました。吐き気がするくらい、不快になりました。母は偉大なのか? ウチの母も例外なくそうなのか? 確かに良くも悪くも子供への影響力は甚大ですけれど……。本当に辛かった。哀しかった。


 悩みがあるなら祈ればいい。自分でもわかっているし、一番の近道です。けれど、どうしても母の事だけは祈れません。辛くて悩んでいても、母の事だけは、題目として、御祈として、私のには浮かぶ事すらできないのです。


 そして今年の5ゴールデンウィーク。またひとつ事件が起こります。母は書棚を整理していました。もう、長年の学会関連の書籍で一杯の書棚でした。中には他に、兄の趣味の車の雑誌等、家族のものも入っています。母は書棚に保管してあった、私の高校卒アルバムを引っ張り出してきました。


 そして、イライラした口調で私にアルバムを差し出してこういいました。

「アンタ、コレ滅多に見ないし要らないやろ! 邪やから処分するよ!」


 ……絶句しましたよ。母には今まで色んなことを言われ続けてきましたけれど、ここまで来たか! といましたね。


 私は動揺のあまり震えるで抵抗します。

「私、もう二度と、高校に行きたくても行けないんだよ。大切な記品だから、いるよ。捨てないでよ」

 冷静になれ。冷静に……崩れそうなに自分ではっぱをかけ、私は持ちこたえようと懸命でした。


 次の瞬間。私のいは見事に打ち砕かれました。母の追撃です。

「ええ?? いるのこんなもの!! 邪やから捨てたいのに!! ぶつぶつ……」


 私の中で、明らかに何かが壊れました。の中が真っ暗闇になるのをハッキリ覚えました。あまりのむなしさに、目から涙さえでませんでした。泣きたくても泣けない、言いようのないいが私の全身を駆け巡りました。


 恐らく、私はその瞬間からうつ病へと転落したといます。まだ、自分自身に「私は健常者」とのプライドだけは捨ててませんでしたから、精神科には行きませんでしたが、まず間違いなく病院にいけば診断が降りたでしょう。


 もし、学会っ子でなければ、私は頼るとこはやっぱり精神科しかなく自ら病院の門を叩いたでしょう。けれど、「学会っ子」であり、信の確信もそれなりにある自負をもつ私には精神科に行くことは“恥”である。そんな考えが私を押しとどめました。


 以来、私は人が怖くなりました。誰にも会いたくありません。私のカレシ君とは付き合いが長いのでいいですが、学会活動で同志に会うことがこの上なくキツく、辛く、拷問のようにじました。楽を分かち合ってきた、許せる同志のはずが……次第に学会活動から足が遠のき始めます。


 その頃、仕事でも賞与を減らされてからの闘いも続いていました。実は前年の夏、賞与を突然10万円も減らされ、一年近くも私は職場から干された状態にいたのです。それでも、ずっと、あきらめず密かに闘い続けていたのです。


 お金を減らされた腹立たしさに仕事をやめるのは簡単、仕事の質を落とすのも簡単。けれど、それは法者のすることではない。しいけれど、私は絶対にあきらめない! と誓って仕事を続けていました。「減らされた10万円分、仕事の質を上げよう。あなたは職場に居なくては困る、そういわれる存在になろう!」と。


 まさに職場も、家も、休めるところはどこにもありませんでした。まるで、イジメを受けていた“あの頃”の再来です。そして、私のうつ病は進行していきます。まさに、「ダブルブッキング」です。今まで味わったことのない、とてつもなく非常にしい生命状態に置かれました。


 そんな時……皆さんならどうします? やっぱり基本は題目だ! とうでしょう?? 私もずっとそうっていましたよ。


 けれども、自分がうつ病になってみて、初めて知ったことが一杯ありましたね。うつ病患者にとって、自分で唱える題目がとてつもなくしいことを。まさに、「生命への拷問」です。


 私は、母の言葉にノックアウトしてしまった自分を情けないとっていました。うつ病の本質は「自分の不甲斐なさへの責め、自己否定の生命状態」です。自分を否定しているのに、題目を上げるとどうなるか、説明しましょう。


 題目……それは学会員さんが知っているように、「自己の生命への賛嘆の言葉」です。自己否定のうつ病患者が題目をあげると、生命が混乱を起こすのです。それはまさに、「右手でお前はダメ人間だと自分の頭を殴りながら、左手で偉いね! 凄いね! と自分を撫でて褒める」そんな状態に置かれるのです。私も例外なく、その状況に置かれました。それは、幼い頃から両親に受けた“正反対の教育方針”を同時に施されて困惑した精神状態に似ていました。


 頭では「題目が特効薬」と信じていても、生命が受け付けないので、題目も少ししか上がらない毎日でした。それでも、諸天善神は私を護るものですね!

「もう、駄目かもしれない」

 そんないになったとき、携帯がやかましく鳴り響きました。隣の市に住む、学会員の友人です。しかし、私は電話を取りません。誰とも話したくない、ましてや学会の人とは。そんな生命状態です。


 友人は携帯に出ない私の生命状態を直したようでした。何度も、何度も、呼び出しを切っては鳴らすのです。私が出るまで何度も何度も……たまりませんでした。


 私は仕方なく折れました。真摯な友人のいには流石にかないません。電話を取りました。「もしもし……」つとめて普通に話しかけると、友人は大で問いかけてきました。「まりんちゃん!! なんか悩みあるんやろっ!!! 私には隠したってわかるんやから!!!!」

 彼女の強引な押しを遠慮できず当日に会うことになりました。彼女に、初めて母親の実態を吐露しました。ずっと懸命に耐えてきたが、それ以上の勢いで更に母から追い詰められていると。


 彼女は言いました。

「私も、実は母が嫌いなんだよ。私も人に言えなかった。やっぱり、母親は自分にとって一番身近で大切であって欲しい存在だよ。けれどね、ウチの母も全然優しくないんだ。私を追い込むような事を言うよ。やっぱり、まりんちゃんの眷属なんだね、私も。だからね、まりんちゃんが本当に辛くて伏せてきたことを今日話してくれてほっとしたし、嬉しかったよ。私だけではなかったんだ! 母のことで悩んでるのはってったよ。まりんちゃん! 悩みってね、乗り越えられるときに出て来るんだよ。信ってそうなの。それを疑ってはダメだよ。私の知ってるまりんちゃんなら絶対に大丈夫だから! 安しなよ」

 真剣に私を見つめて語る彼女の真に、オアシスを得たような気持ちになりました。


「ところで、その話。私以外の誰かは知らないのね?」鋭い眼差しに彼女は変わります。「うん、誰にも言えない」私がそういうと、即座に怒られました。

「まりんちゃん何言ってるのよ!! こんな時こそ、指導を受けないとダメじゃないの! そこまで悩んでいて、どうして隠すの! 直ぐに婦人部長に指導を受けなさいよ」

「で、でもぉ……(汗)」

「でも、じゃないの!! わかった?? 帰ったら直ぐだよ! 絶対受けなきゃダメ!」

 身を乗り出すように、彼女は私にを押しました。乗り気にはなれませんが、彼女のいを無にするような行動は流石に取れないと私はいました。


 支部婦人部長かぁ……。帰り道、とぼとぼ歩きながら悶々としていました。母は支部副婦人部長。支部婦人部長は、もちろん、ウチの母を一番見ているでしょう。だからこそ言いにくい。母が学会でどんな顔をして活動しているのかは私はよくわからないけど、母の表と裏、外と家の顔がこんなに違うって知ったらどうわれるのかな。そんなことを考えたりもしました。でも、友人は「女子部よりもこういった件は婦人部幹部が適切」と私に言い切っていました。やっぱり、指導受けるのは支部婦人部長かな……。


 支部婦人部長に電話、しようかな……。そうった瞬間、ウチの女子部部長の顔が浮かんできたのです。不議でした。


“私、部員さんが悩みを抱えているのに、それを知らないでいるのは絶対に嫌なんです!!”

「ああ、いつか二人でお茶を飲みに行ったとき、部長、そんなこと言ってたっけ……」


 どうしてこのタイミングで部長の顔とあの言葉をい出したのか。よくわかりませんが、何度も何度も私のにリフレインをします。


「支部婦人部長には指導をキチンと受けるとして、まず私の組織の部長にも指導を受ける報告をしておかないと……。部長、どうしてまりんさんのしみに気がつかなかったのか、って自分を責めちゃうかも……」


 私はそういなおし、まずは部長にメールをしました。直ぐに、部長から返信が来ました。


「メールありがとうございます! 今、最近まりんさんに会ってないしどうしているんだろうとって題目をあげていたところです! 本当にびっくりしました! けれど、凄く嬉しかったです! 明日、よかったら一度私とお茶にいきませんか? 色々お話できたら、といます」

「え……部長……」

 私の方こそビックリしました。何? 「今、祈っていたところ????」これが、“一三千”ってやつ??? 私は、わけもわからず部長をい出して気になっていたところです。


 以、って言葉は、やっぱり一三千という法則があるからこそなんですね。本当に、法は凄いといました。


 翌日部長と語り合いました。今までの母との関係。友人に話した全てをいのまま語りました。題目を唱えるのが非常にしいということも。


「まりんさんが何か悩んでいるのだってことは、最近会合で会わないので、薄々じていましたが、そういうことだったのですね……」

 部長はそういうと、少し間を置いて続けました。

「私、うまく励ますことが出来たらいいんですけど、どうしたら、まりんさんのを軽くして解決に導いてあげられるか、本当に力不足で言葉になりません。支部婦人部長なら経験もありますし、私なんかよりもっと頼りになりますから、もし、よかったら私から連絡していいですか? お二人で話し合いしづらいようでしたら、嫌でなければ私も含めて3人で指導受けませんか」


 私は部長の提案に、から謝しました。やっぱり、支部婦人部長に自ら連絡を取るのは気が引けていましたから……。「是非、3人でお願いします」。私は部長に指導日程をお任せしました。


 部長からメールがきました。日程が決まったと。一緒にお茶しながら語ろうということになり、その当日がやってきました。


 待ち合わせの時間にお店に行くと、支部婦人部長だけがいらっしゃいました。

「あれ、部長はまだですか」

「うん、ちょっと遅れるって言ってたよ。まりんちゃん、いらっしゃい。よく指導を受けようってって下さったわね。私、安したのよ。指導を受けるって決めたときから既に、解決は始まっているから、まりんちゃんも安なさい」

 そういって支部婦人部長はにっこり笑い、

「まりんちゃん、別に私と二人でもお話できるわよね? 部長は白蓮もやってるしいつも忙しい子だから、まりんちゃんが私と二人でも抵抗なければ、部長には席を外してもらったほうがいいかも知れないわね」

「そうですね……」

 婦人部長の話しやすそうな雰囲気で、その提案に異論はありませんでした。私はメールで部長と連絡を取って、支部婦人部長と二人でお話することにしました。


「実は……」

 私は母のことを語りました。私の母への情の亀裂が、小学校時代のあの事件にあるという事も。

「……」

 支部婦人部長はじっと私の話しにを傾けていました。そして、おもむろに切り出しました。


「私ね、以前からまりんちゃんを配していたのよ。“この子は危ないなぁ、危ないなぁ……”って。何度かあなたと話してみて、ずっとってたけれど、あなたは話し方からして理論的だし、凄く頭がいいのよ。けれども、そういった頭のよさが、恐らく結婚した後で変な方向に行く。ずっとそれを警戒していたの。あなたは頭がいいから、何でも自分で考えるのよ。で、自分の中で結果を出してしまう。だから、他の人なんかに比べて、ほとんど自分から幹部に指導を受けようなんてしないわ。それだから今回、よく指導を受けようとったなって私、嬉しかったのよ。と同時に、人に言うくらいだからよっぽどのことだろうとってた。話しを聞いての直接なは、“いつかこのことで悩むだろうな”とずっと私はっていた。というところね」


 支部婦人部長はそう語ると、私の目を真っ直ぐに見ていました。

「えっ……いつか悩むって?! そうっていた……と?」

 私は絶句しました。まさか、そんな回答が先に出てくるとは。


「まりんちゃんのお母さんは、確かにキツイところがあるという印象はあるわ。自分でもそれは、わかってるとはう。で、なるべく人前でそれを出さないようにしてるよ。けど、時々出ちゃうのね。たまに“ギョッ”とするようなことは、おっしゃるわね」


 母に対する所を簡単に述べて、支部婦人部長は続けます。

「まりんちゃんが、お母さんとの情の亀裂の原因が小学生時代にあるって、よく、自分で知っているわね!! 私、凄いとった。普通、そういう根本原因は、精神科の先生の所に行って調べて初めて発見するものよ。やっぱり、あなた頭がいいのよ。それにしても、これだけはハッキリ言うけれど、間違っているのはお母さんの方。“イジメられる自分が悪い”なんて……。もしも、まりんちゃんが病院に行くようになってその時の状況を精神科の先生に言ってご覧なさい。絶対にお母さんが烈火の如く叱られるわよ。『あなたがお子さんを追い詰めたんだ!』ってね。まりんちゃん。あなたが間違ってるのじゃない。それだけは絶対なんだから、決して自分を責めなくてもいいの。安なさい」


 その言葉を聞いた瞬間、私の目からどっと涙が溢れて止まりませんでした。


「まりんちゃん。信ってね、ずっと持続するためには、どうしても師弟の絆を女子部時代に自分から、つくって行くことなのよ。それがないと、いざというときに信がポキンと折れてしまうの。結婚して婦人部に行けば、もっともっと凄い宿命の嵐が吹き荒れるわよ。そのときに“師弟”がなければね、アッという間に信が崩れるの。女子部時代に生命に師弟を刻みこむ、それは鉄板に文字を刻み込むと同じこと。二度と消えない信を確立できるってことなの。婦人部になってからでは遅いわ。婦人部で師弟を学ぼうとしても、それは氷に文字を刻むようなもの。いずれ溶けていってしまう。あなたは、今この時に崩れない信を確立なさい。その時が来てると、私はうわよ。師弟はね、待っててもわからないの、自分から、先生を求めていくの。そうすれば、師弟とは何かって、必ず見えてくるから」


 支部婦人部長はそういって、自らの女子部時代を語ってくれました。胸のつかえが、すーっとなくなっていく。久々に、スッキリするものを私はじていました。元気を取り戻し、私は学会活動に復帰できるようになりました。


 しかし母はやっぱり、相変わらずです。やはり、とんでもない仕打ち、言動は続きました。


 そして、時は過ぎ。8に入りました。またまたひどい言葉を投げかけられたある日のこと……。私は、押さえきれない鬱憤がたまり母と喧嘩になりました。その時、最初に何を言われて喧嘩になったのか。ハッキリ覚えていません。その喧嘩で母に言われた一言で、頭が真っ白になり記憶が飛んでしまいました。


 喧嘩の挙げ句ブチ切れた私は、初めて言えなかった本音を母にぶつけてしまいました。

「お母さんは、私に今まで一体何をしてきた?? お母さんが私にしてきたことは、“精神虐待”じゃないの!! 前にも、私の卒アルバムを捨てようとしたよね? 私、どれだけ落胆したか、像もつかないの? 子供の大切な記品を、“邪なもの、いらないもの”と平気で子供に言う、そのお母さんの配慮のなさには愕然とくる!!」

 泣きじゃくりながら、必死に訴えました。


 母は、大変驚いた顔をして数秒絶句していました。

「……、お母さん、いつそんなことしたの? 嘘ぉ?? 覚えていないよ……」

「ハア???」

 私の方が絶句です。「覚えていない??? あんなこと平気でしておいて?」

「お母さん、知らないよ。いつそんなことをアンタにしたの?」

私は、また精神が転落してゆくのをじていました……。

 結局、母がする仕打ちは……「その日の気分」でやっている、ということが明らかになったわけです。これはたまりませんでした。


 いや、たまりませんって言葉では表現できかねるほどの、決定的なダメージをまともに食らったわけです。私は、底「もう、まりんはダメだ……もう耐えられない」といました。


「死にたいなぁ……」瞬間的に、そういました。もう、いい。もう、ここまで我慢してこんなこと言われて、これ以上、私にどうしろっていうの。もう、いいじゃん。死ねばいい……自殺しよう。


 頭の中で、その言葉がぐるぐる廻り始めました。しばらくして、「ハッ」としました。「ダメ!私はこれでも法者の端くれだ。信を知っている者としてここで負けたら……」

懸命におかしな考えを打ち消そうと、もう一人の自分がで叫びます。けれど、もう一人の自分も譲りません。

「まりん、今までよくやったよ、けれどもうダメだよ。もういい。もうこれ以上……」

 の葛藤は延々と続きました。うつ病が再発です。それも、本当に危険な状態の……。自殺したい、自殺したい……。ダメ、それはダメ……私は法者……。


 寝ても覚めても、仕事をしていても、常にその葛藤が毎日続きました。題目もあがりません。うつ病患者の題目がしいのは前に書いた通りです。


 仕事には毎日行きました。職場では普通に振舞ってはいましたが、務をこなしながらも、ハッと気がつけば「死にたい」と、強く強くじ続けている自分が居て“ゾッ”としました。また、私は会合に行けなくなりました。


 鏡に映った自分を見て、問いかけました。

「私って、何だろう。何で、こんないをするんだろう」

 私は、明らかに絶望の淵に立っていました。

「ああ……今の私、カレシ君のお父さんと一緒だなぁ……」

 私はひとつの結論にたどり着きました。


 カレシ君のお父さんは2年前、精神病を突然発症しました。一家8人を一人で支えて働いて働いて、家庭不和にも悩み、労に労を重ねた結果の病気でした。私は、「なんとむごい」と同情しながらも、やっぱりどこか他人事に捉えていました。お父さんは昨年、自殺未遂までしています。「家族に、これ以上迷惑を掛けたくない」そのいからとっさにとった行動でした。


 私はそんな悲しい状況をカレシ君から聞きながら、やっぱり他人事にしていた節があります。第一、口には出しませんが大きく偏見をもっていました。


「精神病を患うひとは、頭のネジがどっか飛んだ人だからそうなる」

が弱いから、そんな病気になる」


 だから、あんまり関わりたくない。この病気の人は怖い、気持ち悪い。第一、薬で治らないし! ひそかにそうっていました。


 それが今は自分です。他でもない、この病気の人は怖い、気持ち悪いとっていた本人がそうなっている。その事実に愕然としました。


「お父さんはが弱くて病気になったんじゃなかったんだ。自分の環境に我慢して我慢して、我慢に我慢を重ねて、堕ちて行ったんだ……。私と同じ気持ちだったんだなぁ……。今、初めてわかったよ……」


「絶望の淵に追い込まれた人の気持ちは、みんなこうなのかなぁ……。みんな、死んじゃダメだって葛藤しながら、とっさに電車に飛び込んだり、ナイフで手首切ったり、気がついたらそんな行動をとるものなんだなぁ」


 精神のどん底にいる自分になりはじめて、カレシ君の父のしみを理解しました。

「辛いなぁ……辛いって言葉がまだ軽くえるほど、しいなぁ……」


 カレシ君の父の辛さを、本当に理解した私は、次に猛烈な怒りを覚えました。

「ここまで、実の娘を追い込む実の母って一体何なんだろう!」

憎しみの火焔が轟々(ごうごう)と音を立てて燃え盛りました。


 母のこと、もう一生許せない。許さなくていい。信じようとした私が甘かった。バカだった。家にいて母を信じようなんてわなくて、よかったんだ。家を出よう。スッキリ離れよう! 母なんてどうだっていいじゃん!!


 その後、私は母を憎みじる生命へと変わって行きました。自分では気がつかないうちに、どんどん目つきがおかしくなっていきました。(あとで部長から「まりんさんの表情が変わっていた」と指摘されました)


 もちろん、ずっと会合には出ていません。出るつもりもありませんでしたね。けれど、メールで会合日程は毎度降りてきます。一応目を通しますが、無視、無視。しかし、ある日、別に行きたくはないけど、なんとなく部の日に参加してしまったのでした。何で? 解りません。ふらっと、出たくもないのに出てしまいました。


「ああ! まりんさん、お久しぶりです! ご労様です!」

 部長以下、いつものメンバーが笑顔で迎えてくれました。その後、メンバーと会合で何を語ったのか、何を学んだのか、内容は全く覚えていません。右から左にメンバーの音を通過し、生命に響くものは一切ありませんでした。


「ケッ、なんであたしこんな所にいるんだろ!来る必要もなかったのに!」

そういながら会合は進み、終了。会場を後にし、私はメンバーと一緒に歩きながら帰宅していました。


 部長が私にそっと近寄り、小をかけてくださいました。

「まりんさん。体調大丈夫ですか?」

 部長が私の顔をのぞきこみます。

「まりんさん、何か悩みがあるんじゃないんですか?」

 私の足が止まりました。


「私、ずっと配してました。まりんさんのこと。それに、今日久々に顔を見て、やっぱり何か悩んでいるんじゃないかと……。また、あのことですか?」

 部長はゆっくりと語りかけてきました。

 私は堰(せき)を切ったように情があふれ出しました。

「ウン……しい……」


 私達はメンバーと離れ、二人だけで立ち話になりました。

「母が……母は、その日の気分で平気で私を打ちのめすことが明らかになったの。もう“辛い”を通りこして、ヤバイよ。病院に行こうかとうくらい、気が変になる」

 私は一部始終を話しました。


 部長は、どうしていいかわからない表情をしました。けれど、次に、力を込めるようにこう言ったのです。

「まりんさん、ずっと我慢していたんですね。辛かったですね」

 その言葉が……その一言が、私の生命の端から端まで貫きました。“ああ、そうなんだ。私、ずっと我慢していた”。その言葉が、底染みました。嬉しかった。


“今の私のしみを、から同してくれる人がいる!! たった一人だとしても、本当に解ってくれる人がいる!!”


 私、この一言で生きていけると瞬時にいました。部長の真が、光の矢のように五体を突き抜けました。なぜだか、わかりませんが、凄く安したのを今でも強く覚えています。


 今、一番私が欲しかったのものは、「現在の状況がどんなに悪くとも、今の自分を大丈夫だと認めてもらえる相手の」だったのだといます。


 部長は続けます。

「今日、どうしても、まりんさんに会いたいって題目を送っていました。そしたら、願い通り、まりんさんが部の日に来てくれて!! 本当に願いはかなうんだって、びっくりして、嬉しかったんですよ!!」


 私もビックリでした。ふらふらっと出るつもりもない会合に出てしまったのは。部長の題目に吸い寄せられていたから!ということが、わかったから。ああ、一三千って、ほんとーーーに凄すぎる。また、法は凄いといました。


「まりんさん、辛いですけど逃げちゃダメですよ。家を出ても、どこへ行こうとも、お母さんから離れられたとしても。結婚してまた同じような人と遭遇しますよ。今度、お母さんと同じようなお姑さんとあった時、まりんさんどうするんですか? もう一度、初めから、辛いいを繰り返しますよ。今、この時に乗り越えましょう! 私からも懸命な題目を送ります。必ず、今のしみの味がわかる日が来ます。お母さんに、から謝できる日が来ます。それまで、あきらめちゃ絶対にダメです! 闘いましょう!まりんさんなら出来ます!」


 部長の渾身の励ましで、私はまた立ち直りました。創価学会の強さは、これに尽きるとじましたね。闘志は取り戻しました。けれど、次には一体どうしてよいのやら。悶々とする日が続きます。


 題目は大分落ち着いてあげられるようになってきましたので、御本尊に題目を唱えながら必死で考えました。部長の言葉を。


「今のしみの味が解る……。母にから謝できる……。どうしたら……どうしたら……そして、それはいつなんだろう」


 直ぐには結果は出ません。けれど、部長の励ましは私の生命にしっかりと刻まれていました。

「絶対に、ここからは逃げない!私は部長に約束した! から理解してくれる人の真を裏切ることだけは、断じてしない!」

 題目をあげながら、必死の手探りが続きました。


 何週間過ぎたでしょうか。状況は変わりませんが「逃げない」――それだけは胸に刻んで毎日を送りました。どうしたら、このしみに味を見出せるのか。どうしたら、あの母にから謝できるのか。どうしたら、私は幸福になれるのか。


 懸命にもがき、題目をあげ、毎日を過ごしました。

法対話……?」

 ある日ふと、そんな言葉が口をついて出ました。


考にはまず、理論ありき」が常に信条のはずの、“理論派まりん”が、考えてモノを言うという回路を飛ばして、瞬時にいついたことです。いつもの私にすれば、大変、珍しいことでした。生命自体が、私の第九識が、私の殻(から)を突き破ったかのように、言葉だけが先に口から出てきました。


「あれっ?」

 後から、なんでそんなことを口走ったのか。検証しました。

「大願に立て」

 直ぐ、この言葉が頭に浮かびました。『大白蓮華』に連載されている、池田先生開目抄講義にも太字で書かれていた言葉。広宣流布という大目的を指した言葉。大聖人のお言葉であり、池田先生が繰り返しご指導くださる言葉。


 私は信の中で教学が一番得なのですが(いやいや、教学しか取り得がないかも知れないが)、もしかすると、私の生命自体が私の頭以上に、教学で学んだ事を覚えているのではないか??


 鳥の卵は最初は黄身と白身しかない。けれども液体なのに、温められるとくちばしが出てきて勝手に殻を割るように、私の中から、自分のいもよらない事が起きたりする、それじゃないのかな?


 私はとっさに新池御書の一節をい出していました。

「此の経の信と申すは少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず法華一部に背く事無ければに成り候ぞ、に成り候事は別の様には候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程のにやすやすと成り候なり、譬えば鳥の卵は始めは水なり其の水の中より誰か・なすとも・なけれども嘴(くちばし)よ目よと厳(かざ)り出来て虚空にかけるが如し、我等も無明の卵にして・あさましき身なれども南無妙法蓮華経の母にあたためられ、まいらせて三十二相の嘴出でて八十種好の鎧毛そろひて実相真如の虚空にかけるべし」(1443頁)


 ……大願に立て、それが法の願いであり、大願に立ったとき、必ずになれる。何度も何度も学んできた。今こそ、それを実践するときじゃないか。しいときは人間誰しも自分のことしか考えない。けれど、それを踏み越えて人のために行動するとき、自分の幸福の道も共に開けると。私はそれを何度も何度も会合で、教学で学んできた。


「これだ!」私は、目が覚めるいをしました。行動だわ、行動!! 私はが軽くなりました。自分の事は確かに滅茶茶でグチャグチャだけど、そればっかりに目を向けるばかりじゃなく、友人にも当たってみよう。


 早速、一人の友人にメールをしてみる。最近の文明の利器は便利ですよね。人の都合を聞かなくとも、簡単な内容なら気軽に文字会話が出来てしまうのですから。


 会って話すことができればいいし、直ぐに会うのは無理でも、自分から何かアクションを起こしてみよう。私の気分転換も兼ねて。そうって、「最近どう?」的な挨拶を送信しました。友人から間もなく返信が届きました。私はわくわくしてメールを読みました……が、しかし。「うわっ。なんか機嫌わるっ!! あの人どうしたんだろう(汗)」。友人は、いつになくイラついたような文章を送信してきました。「今、がムシャクシャしてます!」と言いたげな、投げやりな文面。ネエネエ、いきなり、それはないんでないの?? 私も今大変なんだよ。せめて、明るく振る舞ってこちらから送信したのにさぁ。

 ……と、ちょっと落ち込んでぶつぶつ考えましたが……。「もしかして……!」私はいなおします。

情を全面的に出すって事は何かしら“理解して欲しい”との欲求の表れと捉えられる、よね?」


 友人も理由は何か解らないけど、何かに悩んでいる。私も今、凄く自分のことで悩んでいる。辛くても、あきらめない、そのスピリッツを今の私だからこそ、相手に発信できないだろうか?


 私は、直ぐに返信を打ちました。

「私の事、聞いてくれる?今、こんなことで悩んでいるのよ」

これで何人目かな。私の全てを語るのは……そういながらいを綴りました。


 返信がまた、届きます。

「それはまた、大変だね。けど、ったことを言わせてもらうね。きついこと言うよ。親はずっとそれできたんだから、ずっと変わらないとう。このまま家にいれば、まりんちゃんまた同じこと言われるって。そんな親からは離れたほうがいいよ。もういい歳なんだし」

 ……なるほど。そうだよね、これは世間一般ではモットモな見っていうんだろうね。それしか解決方法って、普通はないよね。


 ウーン!! 私の決を、友人にどう言えば、わかってもらえるのかしら。法的な、「から逃げない」という精神を。「嫌なものから離れろ、長いものに巻かれろ」っていう精神風土の日本で、私の得た確信と信を、法の根幹を、どう語ったら伝わるのかしら!!


 私は考えながら、更にメールをします。

「私がどうして家をでないか。像はつく? それなりに蓄えもあるのに、なぜ虐待の家に居ることを選択するか。自分の母親を許せないまま家を出たなら、一生母を恨んで生きていくことは目に見えているから。自分の肉親を許せない自分が、ましてや他人をどこまで信じて許せる? 無理に決まってるよ。だから今、猛烈な辛さと闘ってる! 究極のところ、『人を許す』『人を信じる』というのが、何より一番しい。でも、そこを乗り越えないうちは、たとえ誰と何処にいても、結局は『孤独』やよ。人間は、人との関わりの中でしか暮らしてゆけないのだから! ……だから、解決の糸口が見つかるまでは、どうしても逃げられない!」


 また、返信が友から届きます。

「んーー。まあ、まりんちゃんがそこまで言うなら一緒に住んでもいいじゃん。だけど、それなら、嫌な事言われても、死にたいとか言うべきではないとうよ」

「…………」

 私は携帯を片手に持ったまま、しばらく固まっていました。理論派まりんの友人たち……つまりまりんの眷属たちは、まりんと同じ、理論派揃い。


 このメールで、正直、“これこそごもっともな見”だと、反論できなくなりました。

次の瞬間、言いわけが私の中に巻き起こります。

「そりゃ、そうかも知れないよ、けれども、あなたがもし話を聞くだけでなく、本当に私の立場を体験するのなら、絶対にそんな正論を振りかざせなくなるよ! 私だって、簡単に死にたいなんて考えたりしたんじゃない。しんでしんで、自分を責めて責めた究極の状態に置かれたのよ! そんな、簡単に言い切れる程の精神論ではないんだから……!」


 ……自分を正当化させる言い分が、私のに沸きあがります。悔し紛れに、何か言い返そうと気を取り直して文字ボタンを押そうとしました。……が。直ぐに指が止まりました。やっぱり、引っかかります。友人の言葉が……


「嫌な事を言われても、死にたいとか言うべきではないとうよ」


 友人の言葉は間違ってはいません。母にひどい仕打ちをされて、「死にたい」とか言う私のままじゃ、今後何も進展は望めない。それは確かなことでした。何かをどうしても変えないといけないのです。


 やっぱり友人の理論には対抗できないと、唇を噛みました。悔しくて何か言い返したい気持ちは、たくさんあるけれど、返信メールは打てませんでした。


「嫌な事を言われても、死にたいとか言うべきではない……」

「嫌な事を言われても、死にたいとか言うべきではない……」


 延々と頭の中で繰り返す友人の言葉。完全に、私のに刺さっていました。


「母を、どうやって許せばいいのかな……どうすれば、謝できるのかな……」


 仕事中でも、友人のあのフレーズが離れません。なんだかとっても悔しくて、辛くて、それだけでが一杯でした。


 一分一秒も間隔なく、容赦なく友人の言葉が私の頭を駆け巡ります。その日、仕事をしながらから考え続けて、とうとう昼休みになりました。ご飯を食べながらも、頭ではあの言葉が私を支配し続けていました。


「そもそも、死にたいと私がってしまうまで追い詰める母って、一体どういう存在なんだろう……」


 私は、どんどん考えていました。

「どうしても、あそこまで実の娘を追い詰めなくてはならない理由でもあるんだろうか?」

「母は何か、れっきとした理由があっての行動?」

「私、お陰でエライいをさせられたよなぁ……もう少しで自殺するところだった!」

「結局自殺い留まったけど、確かに精神病は患ってしまったよな……」

「あんなにしい病気だとはわなかったし、ましてや自分は絶対にかからない、私は健常者だといこんでいたから、何かの拍子で誰でもなるって病気とはまったくわなかったなぁ……あれは外だったし、かなりショックだったなぁ」

「もし……無理にでも私の精神を突き落とすために執深くやっていたとしたら?」

「オラオラァ! これでもか! これでもか!! まりんよ、これでもまだ足りないか! 早く早くどん底まで落ちてしまえ!……なんてさぁ」

「まさか母の使命がそれだったりするなんてことあったりしてねえ?」

ハッ!!! 私はわず、口を開けて叫びました。

「ああーーーーーーーーッ!!!」

 私の目の前が一瞬、真っ白になりました。

『母の、使命?!』


 ブツブツ考え続けた挙げ句の果てに、何とはなしに浮かんだその言葉が私の生命全体を駆け抜けました!


 私はわず椅子からガバッ! と立ち上がりました。今までの、母から受けたの一つ一つが、先ほどいついた「使命」という言葉でつながっていきます。しかった場面が、頭の中で映像で一つ一つ鮮明に蘇ります。


 私はついさっきまで、母に辛いいをただ単に「させられた」とっていました。

でも! 実はそうじゃなかったとしたら……。もしも、どうしても必要があって、母が「あえて」私にしてきた事だとすれば……


 母自身は、恐らく何にも考えてしているわけじゃないだろうけど、私にとってはどうしてもひどい仕打ちを経験せざるを得ない理由が、もし「ある」とすれば……


「ああ、そういうことだったんだな……」


 私の中で、今までの味全てが、つながりました。今まで私は何度も母の仕打ちに耐えて来た。けれど、最後はとうとう精神の限界値を振切ってしまい、自殺を考えた。


 そしてそこで、初めて「精神病」というものに向き合った。ずっとずっと軽蔑し、見下してきた「生命の病」に!! 他人事では決してなく、自分、いや誰もがいつなるかも知れないって事に。


 もし、母に極限状態まで追い込まれなければ……。自分から母を避け、家を出ていたなら……。私はいつまでも、この病気を見下し、馬鹿にし続けたに違いない。


 人を自分の了見で見下げ、馬鹿にするという、傲慢な自分の愚かさを、母が嫌われ役を買って出て教えてくれたとしたら!! 悩む人と同じ立場になり初めて、自分のいあがる汚さに気がつく。絶望の淵に立つ人のしみがどれほどのものか。私はい知らされた。


 やっと、初めて母に謝が出来る。傲慢な母だけれど、その傲慢さが私の生命を写しだしてくれる。もしも、嫌われ役が母じゃなければ、絶対にこの私の悟りは無理だ。もし、友人が母のような仕打ちをすれば、私は必然的に、友人を避け、縁を切るだろう。母だから、一番切っても切れない肉親だからこそ、私は自分と向き合い、悟ることができたのだ。


 母は、私をちゃんと愛してくれているのではないか。優しい人間へと成長させるため、私をここまで導いてくれたのではないか。そこまで理解した私の目からは、涙が溢れて止まりませんでした。


「お母さん、ごめんね……。嫌な役を負わせてごめんね……。お母さん、お母さん、ずっと気がつかなくてごめんね……」


 職場の誰もいない場所まで走っていった私は、をひそめて、泣きじゃくりました。

「ずっと恨んでごめんなさい。ずっと解ってあげられなくてごめんなさい」

そのいが私からとめどなく溢れ続けました。


 私が母に対して抱いていたいが変化その日から、母の、あれほどひどかった言動、仕打ちがピタッとなくなったのでした。


 私は母に直接何も言ってはいません。「ごめんなさい」「ありがとう」との一言さえ言ってはいないのです。


 けれど嘘のように、以後はあれだけ悩まされ続けたことが、一切なくなったのです。これも一三千!! 法の凄さ、醍醐味だと驚嘆しました。


 以後母は別人のように、優しくなりました。まさに、御書に仰せの通りです。「地獄しみ ぱつと消へて」――。


 全ては……、全ての環境は自分の生命境涯の行動から発せられ、そのまま自分へと還ってくる。依正不ニの原理が、まさに自分の体験そのものであるということ……。これが、私のこの闘いの最終結論となりました。


 そして嫌いだった母が、誰よりも自慢の母となりました。更に私はすごい功徳を同時に得ることになりました。


「精神病を蔑(さげす)む側の理」と「精神病を患(わずら)う側の理」、どちらも同時に理解できるようになったと共に、その発症の過程、傾向、そして完治のために必要なことを一通り知ることになりました。


 全て自分が体験してきたことです。全部理解できます。


 私は、「の病」に悩む人々を救うという大変大きな使命を持ち、この世に出現した地涌の菩薩ということを紛れもなく自覚したわけです。まさに、新池御書の一節にある、「釈尊程のにやすやすと成り候なり」です。やすやすと簡単に、釈尊ほどのになる手段を得ました。


 それに、今まで学んできた御書と、池田先生のご指導の深い味を知ることができました。この大きな体験したことで、どれほどの重要なことを知ることができたか……。これ以後は、其の事について検証してゆきましょう。


【「検証:日蓮仏法の理論」に続く】(※テキスト制限量をオーバーしているため、別ページとした)

2006-03-02

学歴本位になれば学会は崩壊


 戸田先生は、いつも幹部に明言された。

「上に立つ指導者が、無責任であれば、一切が崩れてしまうぞ!」と。

 指導者が大事である。指導者の責任は大きい。

 また、先生は、学会の役職は、あくまで信が根本であり、学歴や社会的立場で決めてはならないと厳命された。

「精神を重要視する宗教界や界が、学歴本位になっていけば、その団体は必ず分裂し、行き詰まり、崩壊するであろう」

 これが戸田先生の遺言であった。


【代表幹部協議会 2005-11-25 創価文化会館


 衛星中継(当初は音による同時中継)が始まってから、大きく変化したことがある。幹部の動きが鈍くなったことと、末端の求道が強くなったことだ。


 それ以前は、ほんの一握りの代表幹部だけが、メイン会場に参加していたため、各地に戻って伝達の会合が次々と開催された。まあ、中には特権識の塊(かたまり)と化して威張っていたのもいたが、殆どの幹部は、真剣勝負で指導を如是我聞し、伝えていた。


 広布第一章、第二章において、“大幹部”とは支部長以上を指した。力も経験も豊富だった。友人を連れてゆけば折伏は決まったし、悩める後輩を伴ってゆけば解決できた。闘争の具体的な焦点は、“幹部に会わせること”だった。


 果たして、今はどうだろう。まともな幹部を捜すのに四苦八苦している人が多いんじゃないか? まるで、爪上の土のような……(笑)。


 組織内部の転換点となったのは、第二次宗門問題だった。学会は、衣の権威と決別した。ここから、2年以上にわたって本尊流布の戦いがストップしたのである。当時、繰り広げられた“会友運動”の味は大きかった。だが、この期間で幹部がふるいに掛けられたのも確かだった。


 便宜的な処置として、個人折伏をしてない者の部幹部登用が認められた。そして、この頃から、所謂(いわゆる)、“力あるリーダー”よりも、“企画力、調整力のある人物”が重視されるようになった。


 これが、現在に至るまで根を下ろしていると私はう。


 あの頃から、男子部の最高幹部が、創大・東大・早稲田で占められるようになった。学生部のつながりが、そのまま男子部へと引き継がれ、壮年幹部になっている。


 現実に、“親のエゴ”で創大に送り込まれている子も見受けられる。また、その一方で、“学会本部への就職”を狙って創大に入学し、学生自治会のメンバーになるのもいるんだってさ。これじゃ、「東大→官僚」コースと一緒だよ。本部が“安定した就職先”となってしまえば、お先真っ暗だ。


 中には、創価小→創価中→創価高→創大→職員なんてコースを歩んでるのもいるが、こんな純粋培養の世界で育ってきた人物は、三類の強敵なんか知らないんじゃないか?


 その昔、ある男子部最高幹部が語った。「人事とは、99パーセントの人脈と1パーセントの御(ごぶっち)である」と。何らかの揶揄(やゆ)が込められていたとはうが、こうした現実があればこそ、笑える話なのだ。


 総区長以上の正役職が、本部職員で占められているのも、甚(はなは)だ疑問だ。「僧侶の次は、職員だ」と予するは多い。


 そして、またぞろ驚くべき事実を私は発見してしまった(笑)。何と、幹部カードに記載する「本尊流布世帯数」に、御守り御本尊をカウントしていいことになっていたのだ。こうなると、折伏の弱い幹部に対する救済措置にしか見えないね(笑)。


 御守り御本尊の授与を軽視するつもりは毛頭ない。様々な事情で、どうしても御形木御本尊を安置できない方もいよう。しかし、御守りが成果として認められれば、戦いがそこで止まってしまうことを私は恐れるのだ。


 我々が目指しているのは“化儀の広宣流布”である。御本尊を安置するという形式を弘めるのが使命だ。だからこそ、学会は世帯数でカウントしているのだ。つまり、御守り御本尊を、どれほど多くの人に授与しようとも、世帯数は増えない。


 私が若い頃なんぞは、入決ですら「成果じゃない」と断言されたものだ。「いいか、お前。入決をいくつ取ったら広宣流布できるんだ?」と、阿修羅の様相を呈した先輩の顔が鼻の先にあった(笑)。そうやって、広布の厳しさを教えてもらい、安易な姿勢を打ち破ってくれた


 本当に大変だった。だが、今となってみれば、厳しき薫陶に涙をもって謝するのみである。

真面目な人が最後は勝つ


 幹部となり、多忙になったとしても、信仰者としての基本を忘れてはならない。

 ともあれ、人生は「真面目(まじめ)」に徹することだ。

 立場や誉を得て、いい気になったり、真面目にやっているふりをして、隠れて動いてみたり──そうした生き方は、いつしか実像があらわになり、失敗に終わるものだ。

 広宣流布の活動を怠れば、人生の最後に必ず後悔する。子孫もしむ。

 反対に、真面目に広布に励んだ人は、堂々たる勝利の姿で人生を飾り、その功徳は、一家一族、子孫末代をも潤していく。

真面目な人が最後は勝つ」──これが人生の鉄則であり、数多くの人間模様を見てきた私の結論である。


【第2総東京最高協議会 2005-11-18 東京牧口記会館


 何度も何度も繰り返されている指導。不真面目な人物は絶対に長続きしない。学会は、それほど甘くはないよ。


 まず、挙げられるのは、祈りなき人、祈り弱き人、祈り形式の人だ。次に、出たり出なかったりして平然としている人。いざという時に、正体不明の人も同様。


 続いて中級編(笑)。


 折伏をしない人。成果主義官僚主義権威主義の幹部。組織利用の人。活動の選(え)り好みをしている人。呼ばれた時しか入らない担当幹部。我見・増上慢利・怨嫉の人。


 そして、上級編(笑)。


 勉強しない人、指導を受けない人。家庭指導をしない人。後輩の面倒をみていない人。会員の悩みを引き受けていない幹部。見や質問を大事にしない先輩。そして、見や質問がありながら、沈黙を保っている会員だ。


 活動するのに努力を必要としているようなレベルじゃ、まだまだですな。打ち出しに辟易(へきえき)している内も、甘いね(笑)。


 当たり前のように猛然と祈り、決然と広宣流布にいそしむ人が、“普通の学会員”だ。