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2006-03-04

検証:日蓮仏法の理論


【「絶望の淵で掴(つか)んだもの」の続き】


 私は、大変良質な研究材料として、我が身での病の実験を行ったも同然です。何と、まりんは、気がつかない間にモルモットとなっていた! ということです。


 皆さん、この体験を読まれて、おわかりになるかといますが、最終解決に至るまで、母そのものが変化することはずっとありませんでしたね。


 どんどん、変化を遂げたのは私のほうです。結局、環境をどうこうしよう、相手を変えようとったところで自分の力ではどーにもなりません。


 日蓮法の根幹は、「相手ではなく、自分が変われ」です。自分が変わることで、自分の環境が見事に変わっていく。それが法の理論であり、結果として出てくるものであります。


 自分のが変わったとき、それに連動するかのように母も自然に変わりました。


検証:物事の考え方にはAとBが存在する


 母に対する見方は大きな変化を遂げましたが、どちらもそれなりに理由をもった見方です。


 A――母は、むごい仕打ちを繰り返す。私は傷つくばかり。とんでもない存在である。

 B――母は、むごい仕打ちを繰り返す。が、それは私にの病がどれほど辛いものかを経験させる為の手段であった。

 そうです。物事には必ず両側面の考え方が存在するのです。それに気がつかないで、片方ばかりを見ると、とんでもなくしかったりで、自分の置かれた環境の劣悪さを呪うばかり。


 見方を変えれば、以前と全く別の大変幸福な道を歩んでいくことが可能になります。その、「ものの捉え方の大転換」の方法が、日蓮法の凄さであります。


 他に、具体的な検証例を挙げておきましょう。仕事に対する取り組み方にも、AとBの考え方が存在します。


 A――仕事を「やらされている」と捉え、務に携わる。

 B――仕事を「させてもらえる」と捉え、務に携わる。


 やる気になって気分よく仕事ができて、績が上がり、給料もアップするのはBの考えだという事がわかりますね。


検証:学会組織の必要/一人で信はできない


 一人で題目をあげ、新聞その他を読み、法知識を得ることは可能です。しかし、人は人との関わりの中でしか、自身の成長という本当の信の目的は達成できません。


 組織から離れると自己中に傾き、周りが見えなくなるからです。私の場合も同格で、自己の情から何度も本質を見失いかけました。自殺の方向へ考が傾いたり、母を恨む情に取り付かれたりと、環境にめまぐるしく右往左往し、真実を見失うところでした。

 客観的な眼差し・法の法則の眼で、指導激励くださる信の先輩がいて、初めて宿命転換が可能となり、自己の悟りへつながるということを痛しました。


 池田先生がご指導の中で何度も「一人を大切に」とおっしゃっていました。人は、人の真に突き動かされて進んでゆけるものといます。私も、私を大切にして下さるたくさんの先輩方に支えられ、こうして幸福へと大転換することが出来ました。


 組織の大切さ、温かさを身をもってじます。


検証:御書は学び、身で読み、また学ぶ


 私は理論から入るタイプですので、どうしても御書だけが得と化します。理論も納得するためには大切ですが、実際に自分で本当かどうか実験する(体験する)という過程が必要です。


 私のようなタイプは、理論を納得するまで、のめり込みますが、納得し得た理論を自分で実験し展開していく過程が大変に手ですね。頭でっかち型とでも申しましょうか。


 こういった人は大変に危険です。一つ間違えば、法を自分の都合のいいように改ざんしてしまいます。また、自分に合うもの合わないもの(実行しやすいもの、手をつけたくないもの)を勝手に選びとり、大変、自己中にのめり込みやすくなります。


 釈尊が残した膨大な法経典の中で二乗が許されたのが法華経だけ、というのはこういったことからだと私はいます。


 学会組織内部アンチの人間に、結構このタイプが多いのではないでしょうか。


「各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやををもひ・めこををもひ所領をかへりみること・なかれ無量劫より・このかた・をやこのため所領のために命すてたる事は大地微塵よりも・をほし、法華経のゆへには・いまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき、誓えばゆをわかして水に入れ火を切るにとげざるがごとし、各各い切り給へ此の身を法華経にかうるは石に金をかへ糞に米をかうるなり」(「種種御振舞御書」910頁)


【通解】各々日蓮の弟子と乗る人々は一人も臆するを起こしてはならない。大のときには親のことを配したり妻子のことを配したり所領を顧みてはならない。無量劫の昔から今日まで親や子のため、また所領のために命を捨てた事は大地の土の数ほど多い。だが法華経のためのゆえにはいまだ一度も命をすてたことはない。過去世にずいぶん法華経を修行したけれども、このような大が出てきた場合には退転してしまった。それはたとえばせっかく湯を沸かしておきながら水にいれてしまい、火をおこすのに途中でやめておこしきれないようなものである。それではなにもならないではないか、今度こそ各々覚悟を決めきって修行をやりなおしなさい。命を捨ててもこの身を法華経と交換するのは、石を金と取替え、糞を米と交換するようなものである。


 私が、身を粉にするいで自分のに「法華経の実験」をした結果。特にこの御書の最後の味を、こう納得することができました。


「命を捨ててもこの身を法華経と交換するのは、石を金と取替え、糞を米と交換するようなものである」


 私の法華経実験の結果はこうです。

「宿命を悟りに、功徳に、絶望を希望に交換した」。


 大聖人のおっしゃる言葉が、まさに真実であるとの証明と確信を得ました。