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2006-03-16

指導主義


 創価学会指導主義である。つまり、“御本尊を拝もうではないか”と御本尊を指し示していくことが指導である。御本尊とは何かと説明することは第二義でよい。それよりも、具体的な実践活動を教え、題目をしっかりあげさせることが指導なのである。



 質問を受けた場合も、わからないから指導できないということはない。“わかる人のところへ一緒に行こう”、これが立派な指導である。指導は一から十まで自分が教えるという教授主義ではいけない。指導主義の方がずっと価値があり、どこまでいっても行き詰まりはない。



 教授主義は、必ず行き詰まりがあり、知ったかぶりの偽善になることが多い。したがって、指導を根本に、もちろん教授もしなければならない場合もあり、訓練が必要とされる場合もあり、擁護する場合もある。指導主義には、これらの全部の要素が包含されているのである。



 指導主義の精神を忘れると、情になったり、権威主義になったりする。指導主義の根底には、あくまで慈愛がなければならない。指導主義だからといって、要領よく自分が責任を回避し、一緒に問題解決に努力するということをせず、人まかせにするのは、指導主義ではなく、要領主義といわねばならぬ。



 指導には変な遠慮はいらない。率直に広宣流布へ向かっての、熱烈な確信を訴えるべきである。また、自らの体験を通して、人間にあふれた信の激励をすることである。更に、若々しい、新しい覚をもった指導、斬新味を加えた指導が大切である。

形式にとらわれず、時代に相応しながら、妙法を根幹とした指導でいくべきである。



 指導に行った先では、最高度に将来を考えて手を打たなければならない。その場限りの話や指導だけで終わっては、自己満足に過ぎず、聡明な指導者ではない。また、現地でつくったスケジュールに引きずり回されるような指導であってはならない。現地の人の考えつかない、もう一歩、大局的見地から、行く先々で将来のための楔(くさび)を打たなければならない。



 指導には、優しくいたわってゆくが大切である。けれども、言うべきことを言わないのはいけない。厳しく言ってあげることが、相手の大いなる飛躍の源泉になる場合がある。また、幹部が元気で指導に臨めば、相手も元気になる。境地の二法であり、依正不二である。

この指導によって、信の自覚を生じさせよう、生涯の道修行の活力にしよう、という確信が一切の指導の根本になる。


【『指導メモ』 1966-06-01発行】


 これを知らずして学会幹部を乗ることは許されない。激励の奥底に指導主義を欠いてしまえば、口先だけの愛となろう。


 進むべき方向を指し示すためには、自分がリードしている必要がある。同じ位置では駄目だ。境涯において、何歩も何十歩も何百歩も先んじていればこそ、的確な指導が可能となる。


 10代、20代で既に何かから逃げたことのある人は、それが生涯の壁となる。「ちょっと、よくなっては逆戻り」という繰り返しになりがちだ。全部、自分がわかっているはずだ。


 ありとあらゆる課題に挑戦し、乗り越え、境涯を革命した人のみが、信の醍醐味を知る人だ。そして、その楽が人間を深めるのである。


 善知識とは、指導する関係のことだと私はう。指導する場合もあれば、指導される場合もある。一方通行では駄目だ。「指導しているだけ」、「指導を受けてるだけ」の人は偏っている。自ら指導を求め、それを後輩に伝えてゆく。ここに和合僧の生命線がある。善知識が多い人は幸せだ。善知識が多い人ほど動がある。


 法華経において地涌の菩薩が陸続と出現する様は、正しい信指導によって、次々と民衆が立ち上がる姿を表現したものと信ずる。


 今日、3.16の儀式から48周年を迎える。

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