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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2006-03-24

Oさん逝く


 昨日、午前2時30分、Oさん逝く享年、76歳。気骨の人。奇しくも同じ先輩から訓練を受けていた。広布第一章、第二章を戦い抜いたリーダーで、信の筋目に厳しかった。笑みをたたえた顔が、勝利を雄弁に物語っていた。Kさんに、会わせることがかなわなかったことだけが無。数年前から癌と闘うも、「絶対に癌では死なない」と断言。「死ぬ時は他の病気」と言い切った。謂(いわ)れなき誤解によって、しみ抜いた経験もあった。第一線から退いた時期もあった。しかし、信だけは一歩も退(ひ)かなかった。病室に集まった子や孫の手を次々と握り、「今まで、ありがとう」と礼を述べ、長男に遺書を書かせてから、眠るように亡くなったという。見事な人生の完結という他ない。


 親子ほども年が離れていながら、私にだけは何でも語ってくれた。10年前の組織と幹部に、どんな仕打ちをされたかも聞いた。いまだに、この誤解は根強く残っていて、デマを鵜呑みにしている幹部も多い。私は、どんなことがあろうとも、この方の仇討ちをするつもりだ。

発想の転換が新時代の突破口を開く


 大航海時代以前、実はヨーロッパは、世界の中でも閉鎖的な地域であり、さほど豊かでもなかった。

それに対し、アラブ世界をはじめ、アジアの方がよほど学問も進み、豊かでもあった。

 当時、東洋はヨーロッパ人にとって、いわば憧れの地であった。そのロマンの大地との交流は、東西を細々と結ぶシルクロードによって、辛うじて保たれていた。が、14世紀にはチムール帝国の興隆によって、シルクロードは閉ざされ、交通は遮断された。

 東洋との交渉の停止。それは、ヨーロッパ世界の行き詰まりをも味した。

この時、発を転換し、新たな東洋への道を開こうとした国があった。――“陸”がダメなら“海”がある。東洋への“海の道”を開拓すればよい。必ずや、その新たな道を開いてみせる――と。こうした新時代の突破口を開いたのは、ポルトガルであった。

 これも一つの「知恵」の力である。「発」の勝利といってもよい。歴史の「挑戦」への立派な「応戦」であった。

 豊かな「知恵」と「発」。いつの時代も、これを持つ者が次々と境を開き、勝ち越えてゆく。まして妙法は、限りない「知恵」と「発」の源泉である。ゆえに、私どもに打開できない境はないし、どこまでいっても行き詰まりがないことを確信されたい。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 つまり、“坊主”が駄目なら“友人葬”があるってこと(笑)。


 くれぐれも間違いのないように書いておくが、創価学会は“坊主と手を切った”わけではない。一方的に破門されたのである。まあ、我々の気としては、“手を切った”でもいいんだが、これじゃあ、外部の方が誤解してしまう恐れがある。結果的には、“癌”が摘出されたような格好になったけどね(笑)。


 坊主と袂(たもと)を分かち、真っ先に問題となったのは、御本尊下付と葬儀法要だった。学会は、これを会友(校友)運動と友人葬で乗り切った。不議なことに、バブルが弾けた後、新たな葬儀のあり方が社会的にも見直されるようになった。生前葬や音楽葬、はたまた、散骨など、故人の志に基づいて自由に行う風潮が高まった。ありきたりの儀式を嫌ったといってもよいだろう。


 その先駆を切ったのが、学会の友人葬だった。普段、話したこともない、見知らぬ坊主に読経してもらうぐらいなら、地域でお世話になった先輩にやってもらった方が、断然いいよね。また、学会の場合、大半の参列者が読経・唱題に和するので、何といってもがこもっている。実際、友人葬に参加して、学会への理解を深め、入会に至った方も少なくない。


 何かあるたびに、「困った、困った」を連発するような人は、発の転換がしい。いかなる困があろうとも、「何とかしよう」と前向きに進む姿勢があって、初めて発は転換する。「押しても駄目なら、引いてみな」という柔軟さが求められよう。


 振り返れば、“伝統の2”の淵源となった昭和27年の蒲田支部での闘争において、「組(現在のブロック)」に光を当てたことも、“発の転換”といえよう。更に、軍楽隊(現在の音楽隊)の結成や、体育大会(後の文化祭)など、いずれも“発の転換”をもって、若き先生が牽引(けんいん)してきたのが学会の歴史であった。


 発の貧しい者は、新時代のリーダーたり得ない。

曽谷殿御返事


 文句の一に云く「既に未だ真を発さざれば第一義天に慙じ諸の聖人に愧ず即是れ有羞の僧なり観若し発するは即真実の僧なり」云云、涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責駈遣挙処せずんば当に知るべし是の人は法の中の怨なり。若し能く駈遣呵責挙処せんは是れ我が弟子真の聞なり」云云、此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし、南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成を願はば火の中に水を求め水の中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入失本故は是なり、経に云く「在在諸の土に常に師と倶に生ぜん」又云く「若し法師に親近せば速かに菩薩の道を得ん是の師に随順して学せば恒沙のを見たてまつることを得ん」釈に云く「本此のに従つて初めて道を発し亦此のに従つて不退地に住す」又云く「初め此の菩薩に従つて結縁し還此の菩薩に於て成就す」云云、返す返すも本従たがへずして成せしめ給うべし、釈尊は一切衆生の本従の師にて而も主親の徳を備へ給う、此法門を日蓮申す故に忠言に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候法華経は種の如くはうへての如く衆生は田の如くなり、若し此等の義をたがへさせ給はば日蓮後生は助け申すまじく候(1056頁)


 今の学会は、本部職員・大学職員・創大出身者を中とした官僚主義に毒されている。無責任な幹部を「駈遣呵責挙処」せよ。それだけで、先生のにかなった組織へと変貌できる。ダラ漢を支えているのは、沈黙する民衆だ。そはこれ、「うるし千ばいに蟹の足一つ」の結果となることを自覚したい。異体同事なかれ主義は違う。少々の摩擦を恐れるような臆病者に何ができようか。


 官僚主義者が望むのは、羊千匹のような会員だ。おとなしくて、余計なことは言わずに、どんなことにでも従い、言いなりとなる。そんな人々を好む。反対見や問題提起をするような師子は嫌われる。つまり官僚は、常に民衆をコントロール下に置きたがるものなのだ。


 どうしても、勇気ある発言ができない人は、まず、下らない会合の拒否から始めるといいだろう(ニヤリ)。自分の人生なんだから、その程度の主導権は握った方がいいよ。信は、功徳も自分持ちなんだから、一々遠慮をする必要はない。


 活動しながらストレスを溜めるのが一番愚かだとう。功徳を得るためなら我慢しようという、その魂胆が浅ましい。


 本物の創価学会を築くには、会員一人ひとりがこの御聖訓を実践する他ない。幹部に期待している内は駄目だ。どんなに期待したところで、サンタクロースは来ない。


 官僚主義権威主義は、具体的には、打ち出し主義・形式主義・書類主義・命令主義・事務主義となって現れる。それらは、必ず下の人達に対して、何らかの負担を与える。に少しの負担をじる人が一人でもいれば致命的だ。


 この御聖訓を大で100回読むことを勧めておこう。それでも、に変化が生じないようなら、学会を去るべきだ。「いてもいなくてもいい人」が何百万人いたって、広宣流布が進むはずもないのだから。


「羊千匹よりも師子一匹たれ」と牧口先生は叫ばれた。“創価三代の師弟”を乗るのであれば、自分が今いる組織師子として吼(ほ)えるべきだ。