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2006-03-25

彼岸の意義


 今日(21日)は「春分の日」。彼岸中日である。

 私は、ここ東京牧口記会館で、広宣流布という最高無上の人生を生き抜き、亡くなられたすべての同志の方々、また先祖代々の諸精霊の追善回向を、懇(ねんご)ろに行わせていただいた。

 また、全同志とご家族、友人の皆さまが、三世永遠にわたって安穏と福徳に包まれるよう、真剣に祈させていただいた。、

 彼岸の中日には、太陽がほぼ真東から昇り、真西に沈む。昼と夜の長さが同じになり、春の彼岸からは昼が、秋の彼岸からは夜が、日一日と長くなっていく。

 地球の一年の運行の節目である。

 大宇宙を貫く妙法とともに生きる私たちは、この日を「生命の元旦」「三世の勝利への出発」とのいで、進んでまいりたい。


彼岸」の義については、これまで繰り返し語ってきたが、あらためて皆さまと確認しておきたい。

彼岸」とは「向こう側の岸」。

此岸(しがん=こちら側の岸)」との対比で用いられる。

法では、生死や煩悩の迷いの世界を「此岸」に譬え、解脱涅槃・成の悟りの境涯を「彼岸」と表現している。

 宗教哲学一般でも、「彼岸」は、より広く「真理を悟った境地」「日常からの超越」などの味で用いられる。

 たとえば、ニーチェの有な著作の一つは『善悪の彼岸』と訳された。


 また彼岸は、成の境涯を指すとともに、そうした境涯に到る「修行」「実践」の味も含んでいる。すなわち「到彼岸(とうひがん=彼岸に到る)」である。

 大乗教では、成の境涯に到るための修行に六つの行を立て、これを「六波羅蜜」と呼ぶ。

 具体的には「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智」である。

「波羅蜜」とは梵語(ぼんご=古代インドの文章語)の“パーラミター”の音訳であり、これを訳すると「到彼岸」となる。

 法華経訳で知られる鳩摩羅什の解釈によるといわれる。

 法華経序品にも「通達大智、到於彼岸(つうだつだいち・とうおひがん=大智に通達し、彼岸に到り)」と説かれている。

 日蓮聖人は「観心本尊抄」で、無量義経の「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」等の文を引かれつつ、「これらの文のは、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足しているということであり、私たちは、この妙法蓮華経の五字を受持すれば自然に釈尊の因果の功徳を譲り与えられるのである」(246頁、通解)と仰せである。

 私たちは、妙法を「受持」、すなわちから信じ、自行化他の実践を貫くことによって、六波羅蜜の一つ一つを修行しなくても、同じ修行の功徳を得て、「彼岸に到る」、すなわち成の境涯を得ることができるのである。


 しかし今日では、こうした元々の義を離れて、「彼岸」は、春分秋分をはさむ7日間に行われる「彼岸会(ひがんえ)」、また、その季節のことを指す場合が多い。

 彼岸会は日本独特の年中行事で、聖徳太子の時代から始まったともいわれる。

 春分、秋分の行事としてあった各地の先祖祭りや農耕儀式と一体化して、江戸時代に寺・墓参りが盛んになったという。

 太陽に豊作を願う「日願(ひがん)」に由来するとの説もある。

 また彼岸会は、西方浄土の広がりにともなって定着したといわれる。春分、秋分には太陽が真西に沈むので、西方浄土を願い求める契機と考えられた。

 しかし、もとより、彼岸は、西方浄土など、他の世界に求めても得ることはできない。妙法を受持し、実践することによって、わが胸中に界を顕し、この現実世界を常寂光土と輝かせていけるのである。

 御書に「夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はず・ただ我等がむね(胸)の間にあり、これをさと(悟)るをといふ・これにまよ(迷)ふを凡夫と云う」(1504頁)と仰せの通りである。


 そして日蓮法では「常彼岸」、すなわち毎日が彼岸会である。日々の勤行・唱題こそ最高の回向(廻向)であり、私たちの道修行の功徳を先祖、子孫に「廻(めぐら=回)し向ける」のである。

 回向といっても、どこまでも、自分自身の信が根本なのである。

 日顕宗が言うような、「坊主を呼んで追善しなければ、先祖は成しない」とか「婆を立てなければ追善回向にならない」という主張は全くの邪義である。

 御書に出てくる「彼岸」という言葉も、いずれも、本来の「悟りの世界」の味で使われている。

 その上で私たちは、「随方毘尼」の法理の上から、日本の風習を尊重し、三世の同志がさわやかに集い、広布を誓い合う機会として、「彼岸法要」を行っているのである。

〈「随方毘尼」とは、法の本義に違わないかぎり、各地域や時代の風習に従うべきであるとする考え〉

 御聖訓には「過去の生死・現在の生死・未来の生死と、三世それぞれの生死において法華経から離れないことを法華の血脈相承というのである」(1337頁、通解)とある。

 三世にわたる勝利の根本は、「何があっても私は御本尊根本でいく!」という不退の信を貫くことである。


 日蓮大聖人は、御義口伝に仰せである。

「今、日蓮と、その弟子たちが、亡くなられた聖霊を追善し、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱えるとき、題目の光が無間地獄にまで至って、即身成仏させる。廻向の文は、ここから事起こるのである」(712頁、通解)

 題目の力は計り知れないほど大きい。

 私たちが唱える題目の“光明”は、全宇宙のすみずみにまで届き、無間地獄の境涯でしむ衆生をも照らし、即身成仏させていくのである。

「さじき女房御返事」には、「この功徳は、あなたの父母や祖父母、さらに無量無辺(むりょうむへん)の衆生にも及んでいくでしょう」(1231頁、通解)と仰せである。

 広布に生きる信の偉大な功徳は、亡くなった人や、子孫末代にまでも伝わっていく。真の追善は、妙法によるしかない。妙法の功力は、今世だけでなく、三世にわたって人々を救いきっていくからである。

 日蓮大聖人の門下に、浄蓮房という人がいる。

 その父親は、信仰者として亡くなった。

 この浄蓮房に対して、大聖人は、「父母の遺した体は子の色である。今、浄蓮上人が法華経を持(たも)たれた功徳は慈父の功徳となる」(1434頁、通解)と仰せである。

 信をしなかった親であっても、子である自分が妙法を受持すれば、その功徳は親の功徳ともなる。

 私たちが、今こうやって生きているのは父母のお陰である。この体は、父母から授かったものである。自分自身の成は、父母の成につながっていくのだ。

 過去がどうかではない。「今」で決まる。

 先祖がどうかではない。「自分」がどうかで決まる。

 目覚めた「一人」が、太陽となって、一家、一族を妙法の光で照らしていけばよいのである。

「自身がに成らなくては、父母さえ救うことはしい。ましてや、他人を救うことなどできない」(1429頁、通解)との御聖訓を深く銘記したい。


 信に励めば、必ず「三障四魔」が競い起こる。信を妨げようとする働きが、様々な形をとって現れてくる。

 大聖人は、亡き父の後を継いで、広宣流布のために戦う青年・南条時光に、こう御手紙で記されている。

「あなたが大事とっている人たちが信を制止し、大きながくるであろう。そのときまさにこのこと(諸天の守護)がかなうに違いない、と確信して、いよいよ強盛に信に励むべきである。そうであるならば亡き父上の聖霊は成されるであろう。成されたならば、あなたのもとに来られて、守護されるであろう」(1512頁、通解)

 の時こそ、宿命転換と一生成のチャンスである。それと同時に、父母の成もかなっていく。

 ゆえに、この御文の後で大聖人は、“他の人から信を妨害しようとする動きがあったならば、むしろ喜んでいきなさい”と教えられている。

「賢者はよろこび愚者は退く」(1091頁)との御金言を拝し、大のときにこそ、強盛な信を奮い起こし、勇敢に前進してまいりたい。


 大聖人は、夫に先立たれ、子をも亡くした南条時光の母に、次のような御手紙を送られている。

「悲母が我が子を恋しくわれるならば、南無妙法蓮華経と唱えられて、亡き夫君と御子と同じ所に生まれようと願っていかれなさい。

 一つの種は一つの種であり、別の種は別の種です。同じ妙法蓮華経の種をに孕(はら)まれるならば、同じ妙法蓮華経の国へお生まれになるでしょう。

 父と母と子の三人が顔を合わせられる時、そのお悦びはいかばかりで、いかに嬉しくわれることでしょう」(1570頁、通解)

 私たちは、親や、子、家族をはじめ、愛する人とのつらい別離に出あうことがある。しかしそれは、“永遠の別れ”ではない。

 妙法の力用によって、必ず同じ妙法蓮華経の国に生まれ、再び会うことができる。

大聖人の仰せに、絶対に間違いはない。


【春期彼岸勤行法要 2006-03-21 牧口記会館聖教新聞 2006-03-25付】

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