Hatena::ブログ(Diary)

斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


WWW を検索 創価王道を検索

2006-03-29

土台づくりは教育から


 イベリア半島の南端・サグレス岬。大西洋の荒波以外には何も見えぬ荒涼たる地である。この岬に王子は移り住み、世界初の「航海学校」を創設した。

“まず、教育だ。土台づくりだ。あわてずに、じっくりと確実にやるんだ”――王子はこう考えていたに違いない。そのは、私にもよくわかる気がする。

 王子はその学校に、ありとあらゆる分野の一流の学者を招いた。航海術はもちろん、地図製作、造船、地理学、数学、医学、天文学等々。

 人種は問わなかった。ユダヤ人、アラビア人、そして、ルネサンスの先進国イタリアからも一級の知が集まり、自由に研究を重ね、教育に没頭した。


 この当時、最先端の知識と技術を持っていたのは、実はイスラム教徒とユダヤ人である。ヨーロッパはキリスト教のために遅れていた。

 それにしても、ユダヤ人はあらゆる時代に、常に最高峰の知識人を輩出してきた。

 ちなみに、現代に最も大きな影響を与えた3人の家も、みなユダヤ人である。

 宇宙の法則に迫ったアインシュタイン、社会・経済発展の法則を扱ったマルクス、そして理・無識の世界の法則に着目したフロイト。

 詳しい論議は、ここでは避けたい。しかし、しみの中にこそ、民族の偉大な精華は発現し、陸続と人材を輩出した。「」と「栄光」との間に一つの法則ずるのは、私一人ではあるまい。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 日顕による宗門問題以降、先生の提案によって、青年部は「大学校運動」を開始した。「しっかりと時間をかけて、学会精神を学んでゆくのだ」(趣)。日蓮正宗という足かせがなくなり、自由の気風が横溢(おういつ)した内容だった。今、振り返ってみると、短期間で終わってしまったことが残でならない。


 各地域の最高幹部は新しい発を求めて、若手を集めては企画を練った。私は“ミスター企画”だ。こうなると必ずが掛かった。大衆迎合に流された企画も見受けられたが、それすらも貴重な訓練だった。若さに不可欠なもの――それは試行錯誤という営みだ。


 広宣流布という運動を、自分達の頭で考え、遂行する貴重な体験だった。学会の垣根を低くすることを真剣に論じ合った。ある幹部は言った。「昔の学会は、入り口が広くて、出口が狭かった(笑)。これからは、出口を広くするのが戦いだ」と。


 ボイスエイド(カンボジア・ラジオ支援キャンペーン)で、ラジオを集めたのもこの頃だ(1992年/平成4年)。


 大学校運動が何となく惰に流され始めた。友人を集めてはいたものの、そこには折伏精神が全くなかった。県青県男会でも激しい議論を戦わせ、「今こそ、折伏だ!」と気を吐いたのは、江東と関西だけだった。


 江東男子部は、1ヶで5000部の新聞啓蒙を行った。中央からは、全然、評価されなかったけど(笑)。


 我が地域の大学校運動は、「江東21世紀アカデミー」と銘打って行われた。草創期の幹部の話や、打ち合わせで、先輩幹部とやり取りした内容は、今でも私の血となり肉となっている。

5.3記念協議会


 私が第三代会長を辞任したのは、昭和54年(1979年)424日であった。

 その直後の53日、創価大学の体育館で行われた本部総会が、私の実質的な“会長辞任の総会”となった。

 私は総会を終えると、東京の本部には帰らず、その足で神奈川へ向かった。

 神奈川文化会館に行って、はるかな未来と、広大な海を見つめて、全世界の広宣流布の指揮を執ろう!──そう決していた。

 55日、私は神奈川文化会館で、大きく「正義」と書いた。

 脇書きには「われ一人正義の旗持つ也」と綴り、この書を永久に保管するように言った。

 何があろうと、正義は正義である。法は勝負である。

 正義は、断じて勝たねばならないのだ。

 わが人生は、まさしく波瀾万丈であった。

 頼みとできる何ものも持たず、ただ一人、戸田先生の後を継いで、「正義」の旗を掲げて戦い抜いてきた。


【新宿区】