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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2006-03-30

Oさんの通夜


 Oさんの通夜へ往く。婦人部、お二方を伴って。


 亡くなったその日に私は、共通の先輩だった神田學志さんに、Oさんの越し方を手紙で報告した。以前、Oさんのことを書いたブロック通信も同封しておいた。


 Oさんは、今から10年ほど前に、組織でとんでもないトラブルに遭遇した。それ以降、組織から距離を置くことになる。普通の人なら、とっくに退転したことだろう。M支部長(副区長兼任)が足繁く通い、Oさんは少しずつを開いていった。その後、B長となったMさん(副本部長兼任)の人とナリに、Oさんは強く惹かれていった。そして、私の登場である(笑)。


 Oさんは、私が江東区から引っ越してきたと知るなり、「じゃあ、神田さんのことは知ってるでしょう?」と訊いてきた。「知ってるも何も、私は20代の頃から親しく指導を受け、男子部時代から壮婦を連れて行って、指導を受けてきたんですよ。まあ、言ってみりゃ、私は神田門下生の一人です」と胸を張った。


 それから、少ししてOさん宅を訪れた際のこと。私が、「Oさん、神田さんに電話してみましょうよ!」と言うと、突然、顔を曇らせた。江戸っ子らしいシャキシャキした物言いで「大体さ、こっちは30年以上も、挨拶すらしてねえんだよ。どの面(つら)下げて、おめおめと、話せるかってえんだよ」と言い放った。


 私はにこやかに、「あっ、全然、関係ないッスから」と応じ、携帯でダイヤルした(笑)。「神田さんに板橋でお世話になったOさんという方をご存じですか?」「ああ、知ってるよ」「実は、私が引っ越した先の組織で一緒になりまして。今、Oさんのところにいるので、替わります」と、私は電話を手渡した。


「ああ、神田さんですか! Oでございます。本当にご無沙汰しておりました――」。闘病のことを報告すると、すかさず指導が入った。「ハイッ、ハイッ、ありがとうございます」の連発である。電話を切るなり、「母さん、あの神田さんが、『よく、頑張ったな』って褒めてくれたよ。あの神田さんが!」と、子供のようにはしゃいでいた。


 神田さんは、すかさず激励の手紙まで送って下さった。


 ここからOさんの、広布第一章、第二章を地区部長として戦った生命力が蘇った。私は一日おきぐらいに訪ね、夜が更(ふ)けるのも忘れて語り合った。


 草創期の大先輩である神田さんによって、Oさんは完全に救われた。2年と数ヶにわたって、私と語ってきたのは、組織から離れていた空白期間を埋める作だったのだ。実の父親とよりも、この方と話した時間の方が長いほどだった。


 こうしたことを、神田さんに報告した。そして今日、返事が届いた。そこに書かれていたのは、「今度生死の縛を切つて果を遂げしめ給え」(177頁)との御聖訓をわせる凄まじい指導だった。私は、荘厳なる生死の実相を教えられ、ただただ激に打ち震え、決を新たにした。


 23日にOさんが逝去し、25日には知人の家で女の子が誕生。令法久住は連綿と続く――。


 以下、ブロック通信に書いたものと併せて、一部をご紹介する――


 大聖人有縁の地である大田区池上に生まれる。曲がったことが大嫌いな江戸っ子気質は今も変わらない。戸田先生の遺言であった300万世帯を目指す折伏戦の渦中で入会。昭和37年のこと。

 学会とはそれ以前から縁があった。先生が蒲田支部で指揮を執った昭和28年に初めて折伏を受けた。それ以来、大の学会嫌いに。昭和33年にも東京駅で、3.16の儀式に向かう多くの学会員と遭遇している。

 入会から2ヶ後、初登山。偶然にも池田先生と一緒に御開扉を受けることができた。総本山からの帰路の車中で、組長に任命された。部員が一人もいない組からの出発だった。当時の支部長が神田學志さん(創価高校副理事長)。支部長の帰宅を待ち、夜毎(よごと)、12時過ぎに指導を受けた日々は今でも最大の誇り。求道の実践は、70世帯の弘教となって結実した。

 昭和40年、新宿区へ移転。繁華街のある百人町で地区部長に。新宿では、数々の先生との出会いが。

 宿命の嵐が吹き荒れたのは昭和43年から。酔っ払い運転の大型トラックに衝突され、脊髄(せきずい)骨折の大怪我。100日の入院生活を余儀なくされた。退院後、3ヶして再び、交通事故に。今度は、セメントを積載した大型トラックの脇見運転だった。この時、両足の大腿(だいたい)骨を骨折し、識不明の重体に。それからというもの、後遺症に悩まされる日々が続いた。

 昭和55年には肺気腫を患(わずら)い、平成14年には膵臓(すいぞう)癌になった。更に昨年1、リンパ腺で癌が発見された。ひたぶるな唱題に徹し、「断じて、癌では死なない。死ぬ時は他の病気」と断言した。

 来し方を振り返り、「入会するまでに、散々、学会批判をしたい知らされた」と笑う。放射線治療・抗癌剤の副作用が全く現れず、医師が首をかしげたほど。病室で副作用にしむ大勢の人々を見て、の底から功徳を実した。昨年の8以降、体調はすこぶる良好。元気がありあまって、奥さんが手を焼くほど。

「すぎし存命不議とおもはせ給へ」(1192頁)の御文をかみしめる毎日。

 八王子に来たのは昭和50年。不議にも、大田区、新宿区、八王子と、師弟有縁の地で戦ってきた誉(ほま)れに胸を張る。

 地域貢献にも尽力。自治会副会長の時、バスの運行時間は、7:00-21:00だった。何度もバス会社と交渉を重ねた末、ついに6:00-23:30までの延長を勝ち取り、団地住民の足を確保した。

 言われなき誤解にしみ抜いたこともあった。だが、絶対に逃げるような真似はしなかった。ここにこの人の真骨頂がある。

 6人の子宝に恵まれ、9人の孫に囲まれる。長女は、創価高校の勤務を経た後、市議会議員に。次男は創価大学を卒後、大手建設会社に就職。現在、茨県全域の責任者として、職場で創価の旗を振る。

 誰よりも厳しいを知る人は、誰よりも素晴らしい功徳を実する人でもあった。労を重ねたことによって、誰よりも人の痛みを知るリーダーとなった。今、胸の中を去来するのは、深き報謝のい。


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