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2006-04-30

“戦う座談会”が学会の伝統


 私どもが入信した当時、何事にも真剣でありました。座談会へ出席するのにも希望があり、喜びがあった。また、みずみずしい気持ちで、座談会から帰途についたい出が一人ひとりにあるとう。その希望、喜びがある時、各自の人間革命が最も前進している時といえる。たとえ幹部になっても、信の新鮮な喜びを失い、妙法の歓喜の中の大歓喜の境涯を湧現できないようであっては、真の信・行・学とはいえないとう。

 したがって、私はあらゆる活動の中で、この座談会を最も重視し、“戦う座談会”を学会の大伝統として再確認し、力強く実践に移したいといますが、いかがでしょうか。


【「創価学会座談会」/1968-01〜1969-04までの本部幹部会の指導を中に、まとめたもの】


 どこで戦うのか? 全会員に希望と歓喜を与える一点で勝負するのだ。


 それにしても先生は、実際の現場にいる我々よりも、はるかに現場のことを知悉(ちしつ)しておられる。


 今日一日の活動を終えて帰路につく際、一の奥底に何が脈打っているのか。どのような境界になっているのか。諸法は三千羅列の厳しき実相となってあらわれる。


 ためを連発し、「疲れた」を連発し、帰宅するなり、冷えたビールを手に取って、テレビのスイッチを入れてる男子部はいないか?(笑)


 役職の段階を経てゆくにしたがって、同じ役職であっても人によって力の差が歴然と現れる。私の研究によれば、地区リーダー同士の力量の差よりも、部長同士の方が大きく、本部長、区男と上がるに連れて、その差は圧倒的なものとなる。壮年・婦人の臨床実験は行ってないが(笑)、まあ、同じようなもんだろう。


 で、力の差はどこでつくのか? まず、信の基本である行学に対する個人的な取り組みが差となる。そして、何にも増して決定的なのは、広布最前線で、どこまで戦ったかという一点である。


 最近は、“会合に出る”のが“戦い”だと錯覚しているのが多いね。そういう連中とは口も利きたくないよ。


“戦い”ってのはね、“引っくり返すこと”なんだ。そういう勝負所を知らなければ、広布の指揮も執れないし、人も育てられないし、座談会も盛り上げられない。


 法自(おのずか)ら弘まらず人法を弘むる故に人法ともに尊し(856頁)


 法といっても人に帰着する。組織といっても人に帰着し、座談会といっても人に帰着するのだ。


 人々を笑わせなければ、芸人とはいえない。人々を幸福にしなければ、広宣流布とはいえない。希望と歓喜を与えなければ、座談会とはいえない。

座談会は生命興隆の人間復興運動


 運動、活動といっても、結局は人間である。その人間が、あくまで主体なのです。したがって、その人間に成長をもたらすべき、潤いのある生命交流のないところには、殺伐とした疲弊が残るのみでしょう。

 人間一人ひとりが至高の目的に感応し合い、啓発し合って、自己を変革、成長させていけない運動は悲しい。

 私達の運動は、あくまでも第一義に人間に根差す。つまり、人間自身の変革を最大のエネルギーにしてゆく運動といってよい。したがって、座談会なくして学会の人間復興運動は前進しません。否、空転するだけだ。

 例えていえば、座談会は大河のようなものである。あらゆる会合、活動等は、あくまで大河に注ぎ込む支流です。友好活動も地域の行動も、全て座談会という大河へ合流して、人間讃歌の民衆の大海へと進む。その大河は両岸に見事な人間文化の肥沃(ひよく)な土壌を育てつつ、支流を集め、幾多の妙法文化の実りをもたらしてゆく。

 座談会から地域の活動へ、そうして座談会に帰ってきて、再び信仰を脈動させ、再び地域へ、この反復です。したがって、座談会があくまで活動の母である。源泉である。中者は、それら広布の勇士が力を得るような座談会にしてゆくべきだし、参加者全員の信仰のエネルギーの総量を、一人ひとりのエネルギーにしてゆくのです。それを真実の民衆平和と民衆向上の草の根民主主義の法といえまいか。


【「座談会」について 聖教新聞 1974-01-01〜1974-01-05 《てい談者/上田雅一青年部長、八矢弓子婦人部書記長》】


 運動の成果が一人ひとりに帰着しないと、「殺伐とした疲弊が残るのみ」という結果になる。これは、どんな運動でも避けられない方程式だ。


 ここで言われていることが全てだ。座談会が“活動の臓”にならなければ、何をやっても空転するだけである。


 それにしても、先生は凄い。凄過ぎる。46歳にして、これほどの卓越した言葉で、世界の民衆を牽引されている。もうね、天才などという領域を軽く超えてるね。私の知る言葉では、「」としか表現のしようがない。


 あんまり凄過ぎて、ためが出てくらあ(笑)。

新たな回路をつくれ


 脳は機能障害を負うと、新たな神経回路をつくり、回復を目指そうとする。昨夜放映されていた番組によると、脊髄でも同様の例があるという。


 人間の身体は、微弱な電気信号によって動いている。その信号を伝えるのが神経だ。神経系は、中枢神経と末梢神経とに大きく分けられる。中枢神経は脳や脊髄に集中している。脳による判断・命令などは、脊髄を介されて全身に伝えられる。末梢神経とは、脳からの指示を筋肉に伝えたり(運動神経)、覚器官による刺激情報を中枢神経に伝える働き(覚神経)がある。大雑把にいってしまえば、中枢神経は情報処理、末梢神経が情報伝達ということになろうか。


 よくにする自律神経とは、末梢神経に含まれるもので、識することなく働いている。汗をかいたり、食べ物を消化したり、など。自律神経は交神経(緊張時に働く)と副交神経(リラックス時に働く)に分かれる。高い場所から下を見下ろすと目まいを起こし、全力疾走すれば拍数が上がり、極度の緊張を覚えれば冷や汗をかく。ところが、何もしてないのに、日常生活の中で突然、こういう状態になる人がいる。これが、自律神経失調症。女ホルモンと関係があるとされ、妊娠・出産や更年期などに起こりやすいといわれる。


 正座をした時に足が痺れるのは、末梢神経の圧迫と血行不良による一過の麻痺である。


 では早速、これを組織に当てはめてみるとしよう(笑)。


 学会全体の中枢神経は、会長を中とした方面長・総県長クラスといっていいだろう。また、分区であれば、執行会議の対象となる本部長以上が中枢神経といえる。後は、推して知るべし。


 一人のロクデナシが存在したとする。ロクデナシが図するのは、成果主義という利、金品や女に絡んだ組織利用、ただ単に楽をしたいという官僚主義などである。また、厳密にいえば、伝達事項に終始して、そのや呼吸を伝えない者も官僚主義といえよう。


 中枢神経が冒されると、人の身体は自由を失われる。例えば、脳梗塞の場合、片麻痺(左右いずれかの半身麻痺)という症状が出る。つまり、学会本部におかしな野郎が出ると、東日本か西日本が全滅する危険がある。「そんな大袈裟な……」とうなかれ。昭和54年に、学会は頚椎(けいつい)を骨折して、全身麻痺となったことがあるのだから。


 幹部が“患部”となってしまっている。そのため、足の爪先が“寒さ”をじているにも関わらず、中枢神経に伝わらない現状がある。脳からの指示・命令は一方的に伝えられるのだが、覚器官からのフィードバックが欠如している。


 組織の機能障害を判断するのは簡単だ。自分が指導を受けるべき“一段飛び”の幹部(地区部長であれば本部長、支部長であれば区長)が信用に足る人物かどうかである。この信血脈のラインが絶望的であれば、直ちに別の回路をつなぐ必要がある。


 新たな神経回路を発達させるには刺激が不可欠だ。我々にとって生命への最大の刺激は、勤行・唱題と御書と先生のスピーチに尽きる。ここに徹してゆけば、必ず新たな回路が見つかる。


 ゆえに、いかなる組織に所属していようとも、あきらめてはいけない。そして、何にも増して重要なことは、「悪い幹部を追い出す」ことである。


 涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責駈遣挙処せずんば当に知るべし是の人は法の中の怨なり。若し能く駈遣呵責挙処せんは是れ我が弟子真の聞なり」云云、此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置とを能く能く腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし(1056頁)

問題意識


 境涯によって問題識は異なる。往々にして境涯の高い人ほど、小さな問題を見逃さないものだ。団結を築けない要因は、日常的な小事の中にある、というのが私の持論である。


 今、目立つのは、現場の幹部が問題を報告した際に、それを受けた先輩幹部が、“問題視”しないことだ。その奥底にあるのは、“面倒なことは避けたい”、“自分の手を汚したくない”という保身の論理である。


 例えば、怨嫉した人が出たとしよう。信の上からみれば、怨嫉した方が負けである。だが、衆生世間の上からみると、怨嫉させた方にも問題があるかもしれない。最も危機を抱かないとならないことは、怨嫉が組織の水面下で伝播(でんぱ)する可能があること。


「問題はない方がいいに決まってる」とっている人は、学会幹部としては30点だな(笑)。問題はある方がいいに決まってる。問題があればこそ、幹部としての使命を果たし、変毒為薬組織革命をなし得るのだから。


 彼等御勘気を蒙るの時南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経と唱え奉ると云云、偏に只事に非ず定めて平金吾の身に十羅刹入り易(かわ)りて法華経の行者を試みたもうか、例せば雪山童子尸毘王等の如し将た又悪鬼其の身に入る者か、釈迦多宝十方の諸梵帝等五五百歳の法華経の行者を守護す可きの御誓は是なり、大論に云く能く毒を変じて薬と為す、天台云く毒を変じて薬と為す云云、妙の字虚しからずんば定めて須臾に賞有らんか(1455頁)


 平左衛門尉による熱原信徒への弾圧は、十羅刹女法華経の行者を試しているのであろうか、との御指南である。


「問題です。あなたは、また、あなたの組織はこの問題を乗り越えることができるでしょうか?」――これが問題の本質である。


 報告された問題を過小評価する幹部は、以下の御聖訓を理解してない証拠だ。


 譬ば海上を船にのるに船おろそかにあらざれどもあか入りぬれば必ず船中の人人一時に死するなり、なはて堅固なれども蟻の穴あれば必ず終に湛へたる水のたまらざるが如し、謗法不信のあかをとり信のなはてをかたむべきなり、浅き罪ならば我よりゆるして功徳を得さすべし、重きあやまちならば信をはげまして消滅さすべし(1308頁)


 広宣流布の団結も、長年にわたって積み重ねてきた福運も、蟻の一穴(いっけつ)から破られる。

2006-04-29

座談会には参加者全員の信心の姿勢が反映する


 一人という宗教などあり得ない。宗教も実社会の中にある。ゆえに、相互に啓発し合う“同志和合の人間錬磨”を離れてはあり得ない。座談会の環境、雰囲気は、そこに参加する全員の信の姿勢からみなぎるものであり、各人はそれを呼吸し合い、膚(はだ)から染み入るように、生命で信というものを体現させてゆく座といってよい。

 例えば、水の流れが濁っていたり、非常に微量であれば、水の浄化作用は発揮されない。反対に流れが清らかであり、水量も豊富であれば、浄化作用があるように、座談会の雰囲気は参加者一人ひとりの生命を洗い、それが清浄な力強い流れであれば、人間をたくましく根本から蘇生させ、やがて社会へ向かって浄化の強靭な力と変わる。


【「座談会」について 聖教新聞 1974-01-01〜1974-01-05 《てい談者/上田雅一青年部長、八矢弓子婦人部書記長》】


“理座談会”を端的に語って、あますところがない。先生のにかなった座談会は、私の甘い考えを木っ端微塵にするほど高い位置にある。


 幹部であれば、結集を呼びかける前に、皆が「後輩や友人を出したくなる」ような座談会になっているかどうかを確認されよ。ホラー映画並みの寒気(さむけ)を催す座談会はないか?(笑)


 座談会は中央行事で、本部幹部会と同格の会合である。統監でも報告されていることから、その重要が理解できよう。ところが、座談会に参加できなかった方々へのフォローの仕方をみると、「何じゃ、これは!」とジーパン刑事の科白(せりふ)を口にしたくなる。


 本来であれば、壮婦の地区幹部以上、男女の部幹部以上が訪問し、座談会御書を学んで、はじめて参加数に入れるというのがルールだ。ところが今時ときたら、顔を合わせただけでカウントしている現実がある。こんなデタラメな数字顕彰されたって誰も喜べるはずがない。喜んでいるのは一部の幹部だけだよ。こういう組織で育った人は、それが普通だとい込んでるから、もっと厄介だ。


 どうして、かような事態に陥ってしまったか? 答えは簡単だ。上の幹部が、実態はどうあれ、“数字”を求めたからだ。こうして、広宣流布の貴重な訓練の場が次々と失われてゆく。


「会う努力」、「話す努力」、「家に上がる努力」、「連れ出す努力」――これこそが“外交の力”なのだ。「連絡だけだったら、伝書鳩を飛ばせ!」というのが私の口癖だ。


 相手を、「何としても成長させたい」、「幸せになってほしい」という切実な一があればこそ、足を運ぶ一歩一歩が福運となり、力となり、三変土田となるのだ。


 また、こうしたいの深いリーダーがいればこそ、座談会の内容は充実する。


 自分が楽をして得になることは、何一つないよ。

2006-04-28

感応妙で座談会を盛り上げよ


 信仰の世界は人間対人間の“感応の妙”の力によって盛り上がっていくといってよい。ともかく、“生命対生命の世界のバネ”が求道と変改をもたらす。各人の信仰の深化向上は、決して自分一個の殻に閉じこもっていては、できるものではない。ただ題目を唱え、一人して教学を学ぶという孤絶した姿では、その人の成長はないといってよい。日寛上人の「観心本尊抄文段」には次のようにある。

「九界・感応道交し、能修・所修境智冥合し、甚深の境涯言語道断行所滅なり。豈(あに)妙の字に非ずや」

 ここでは九界=衆生と、界=御本尊との感応道交が示されている。つまりそれは境智冥合した甚深の交流でなされるのであって、言語や識を超えた次元における感応道交であるとう。ゆえに“妙”というのであろう。

 結局、法の会得とか体得というものは、生命対生命の交流でなされるのです。座談会はまさに、その生命発現の“感応の妙”で盛り上がってゆく。理論のみでもない。事務連絡的なものでもない。

 座談会がなぜ学会の根本であり、全てといえるか――それは常楽我浄座談会でこそ、“感応妙”の原理によって、人間一人ひとりの生命の奥底に信の楔(くさび)が打たれ、そこから、人間の変革と成長がもたらされるからだ。教育や指導・教授ではなし得ないものが、座談会という道修行にはあり、それが社会的第一線の活動の基調になるといってよい。


【「座談会」について 聖教新聞 1974-01-01〜1974-01-05 《てい談者/上田雅一青年部長、八矢弓子婦人部書記長》】


 メールマガジンで省略した部分も掲載しておく。


感応妙」とは、衆生がじ、が衆生に応じてゆくのが妙であること。昔はよくにした言葉だが、最近は聞きませんな。


 座談会の成否は長の一による。中者が、「参加した全員を決させずにおくものか!」という情熱にあふれ、皆を電させるほど生命のボルトが高まっていれば、座談会は必ず成功する。最近は、自分が発電してないのに放電しようとする人が多い(笑)。


 長とは形式をいっているのではない。「絶対に盛り上げてみせる」という人が一人いれば、座談会は盛り上がるのだ。私は、登壇しなくても盛り上げる自信があるよ。


 これは、私が男子部の本部長をしていた頃の話である。あるB担(現在の白ゆり長)さんに招かれて、ブロック座談会に入った。部長時代にも入っていた地区だった。副支部長が間に合えば御書講義を、間に合わなければ幹部指導を、とのことだった。転入してきたばかりの婦人部が二人いた。全員発言で、お一方が自己紹介をした。そして、二人目の方が話した時、座談会は一気にあらぬ方向へ傾いた。「私、御本尊様を返したいんですけど!」。その瞬間、B長が後ずさりしたのを私は見逃さなかった(笑)。ご婦人は一気にまくし立てた。


「幸せになれるからと聞かされて、子の紹介で信した。だけど、ちっとも幸せにならない。喘を患っていて、発作を起こすと死んでしまうかもしれない。いつ、発作が出るかとうと、おちおち買い物にも行けない。独り暮らしで、不安を抱えながら生活するのにウンザリしている」という趣旨だった。


 皆、呆気(あっけ)にとられていた。私も正直、「弱ったな」ってったよ。まだ、30歳だったからねえ(笑)。しかし、何とかするしかなかった。口角泡を飛ばすバアチャンの話を私がさえぎった。


「言いたいことは、よくわかりました。ところで、信されたのは、いつですか?」

「2年前よ」

子さんは、最近来てないんですか?」

「学会に入った途端、来なくなったのよ」

「きっと、学会活動で忙しいんでしょう」

「違う! 野球をやってるのよ!」


 第1ラウンド、敗退――。


「お母さんね、晩の勤行はしてますか?」

「エッ、それは、あの……」


 形勢逆転(笑)。「それじゃあ、駄目ですよ。いいですか、我々は大聖人の仰せの通りに信して、初めて功徳を受けられるんです。それを、勤行もしないで、『幸せになれない』なんていうのは当たり前じゃありませんか!」。私は一気に畳み込んだ。言葉がとめどなくあふれ、抑えることができなくなった。


 私の大に、バアチャンはしゅんとなった。その時である、後ろにいたヤングミセスが幼い子を抱きながら立ち上がった。

「この子も小児喘だったんですが、信で治ったんですよ!」

 続いてB担が言った。

司会をやっているのが、内の子なんですけど、この子も小児喘だったんですよ。でも、治りましたよ!」

 皆が口々に、「よくなりますよ!」、「治るわよ!」、「頑張りましょう!」とを掛けた。

 座談会場は、それまで経験したことのない熱気に包まれていた。

「治るに決まってるんです!」と私が叫んだ。バアチャンは小さなで「すみませんでした」と言った。


 時間がなくなったので、私は御書講義を2分で終わらせた。座談会が終わろうとした時、何も知らない地区部長が入ってきた。「やあやあ、どうもすみませんねえ。仕事先で果物をたくさんもらって来たんで、皆さん、持って帰って下さい」と朗らかに語った。皆、拍子抜けした(笑)。


 私は果物を取ってバアチャンに手渡した。肩に手を置いて、「さっきは、随分と乱暴な言い方をして、すいませんでしたね」と言った。バアチャンは笑いながら答えた「いえ、こっちの方こそ、あんなことを言っちゃって……。これから、ちゃんと信していきます」。


 これ以降、このバアチャンが会合に出ないと、直ぐ私にが掛かるようになった。私が行くと、「全く、嫌な人を連れてきて、弱ったね」と言いながらも、必ず出るのだ(笑)。


 あの座談会は、確かに一対一の対話ではなし得ぬ「感応の妙」をじた。そう考えると、御本尊にしたためられているのも、菩薩による座談会に見えてくるから不議だ。


民衆は手応えを求めている」で紹介した座談会と共に、忘れられない“金のい出”である。

2006-04-27

勤行、座談会、教学が絶対の柱


 言うまでもなく、創価学会の根本路線は、どこまでも正法の「信行学」の実践に尽きるのであります。その「信」の対象は、日蓮聖人久遠元初の南無妙法蓮華如来たる御本尊であります。

「行」は、末法御本日蓮大聖人の仰せ通りの如説修行であります。

「学」ぶのは、日蓮大聖人の経典・御書であります。ゆえに、勤行、座談会、教学の三つこそ、創価学会の絶対の柱なのであります。更に、創価学会の運動の基調は、この信行学を根本とした、個人における物両面にわたる幸福の実証であるとともに、社会全体の平和と文化の推進であります。

 これこそが、日蓮大聖人の「立正安国」の御精神であり、それを身をもって実践し、万年の未来へ鏡として残されたのが、初代会長・牧口常三郎先生、第二代会長・戸田城聖先生でありました。

 すなわち、創価学会は再三申し上げているごとく、法を基調とした平和・文化推進の団体なのであります。これ以外に法を社会に展開して昇華させてゆく道はありません。

 私もまた、この精神と路線を受け継ぎ、血注いで実践してまいりましたが、創価学会員であるならば、永久に、この理と実践の原点を見失ってはならないと、この席を借りて申し上げておきたいといますが、いかがでしょうか(拍手)。

 そこで、以上の創価学会の大綱の路線を根本として、この現実社会における展開の基本理として、次の5点を明確にし、皆さま方の賛同を得られれば、不変の創価学会精神として定めておきたいのであります。

 それは、


 一、創価学会は、永遠に民衆の側に立つ。

 一、創価学会の実践は、人間革命の運動である。

 一、創価学会は、中道の大道を歩む。

 一、創価学会の社会的義は、平和を守り、人間文化の興隆にある。

 一、創価学会は、人間の精神の自由、なかんずく信教の自由を死守する。


 以上の5項目であります。

 それぞれの具体的問題については、これまでの総会でも、種々論じてまいりました。ある味では、きょうの話は、これまで述べてきたことを総括する形になるとともに、それを根本精神としておきたいのであります。


【第39回本部総会 1976-10-24 札幌文化会館


「永遠に法中道を進もう」と題した歴史的講演である。レコードにもなっている。「健康・青春の年」から翌年の「教学の年」を目指すこの時に、創価学会の基本理5項と、信・行・学という根本路線を宣言された。七つの鐘の総仕上げまで残すところ3年となり、学会は日本の一宗教団体という枠組を超えた一大民衆運動を展開することになったのである。この講演によって広宣流布が、法即社会という現実的な段階に入った。


 この年、『月刊ペン』が3号、4号と、ありもしないスキャンダルを捏造して創価学会誹謗中傷した。後日、編集長の隈部大蔵(くまべ だいぞう)は逮捕され、当時の最高額である金20万円の支払いを命じられた。


 もはや学会は、無視できる存在ではなくなった。当時、選挙において、公明党と自民党の議席数が反比例する結果が著(いちじる)しかった。つまり、公明党の議席が増えれば自民党が減り、公明党が減ると自民党が増えるという相関関係にあった。ということは、自民党のターゲットは自(おの)ずと公明党になる。投票日が近づくにつれ、週刊誌にはウソで固めた下劣な記事が踊った。


 手弁当で応援する公明党支持者は、金まみれの腐臭に満ちた権力者の理解をはるかに超えた存在だった。彼等は自分達の言いなりにならない庶民群を恐れた。牙を剥(む)き出しにした権力者にも、地涌の菩薩は怯(ひる)むことがなかった。動揺したのは、中途半端に活動している一部の壮年部だけだった(笑)。


 創価学会に関する報道が、メディアの姿勢を浮き彫りにした。彼等は、女スキャンダルであれば事実も確認せずに報道し、法の崇高な理には振り向きもしなかった。そもそも、学会を報じるのであれば、一切に優先してこの講演を掲載すべきではないか!


 第一次宗門問題の引き金となった講演(「仏教史観を語る」)が、この3ヶ後(1977年125日)であることからも、どれほど重要な総会であったかが理解できる。


 先生は既に、七つの鐘の終了である1979年(昭和54年)どころか、1990平成2年/大石寺開創700年、戸田先生33回忌)まで見据えておられた。この大きな節目は、750万世帯を達成(1970年/昭和45年)し、正本堂を建立(1972年/昭和47年)した創価学会にとって最重要のものだった。しかし、1979年に会長勇退1990年には総講頭罷免という大に遭遇したのである。


 学会の歴史を学べば学ぶほど、仏勅の所以(ゆえん)が理解できる。そして、三代会長が不世出の師匠であることが実される。

2006-04-26

御肉牙に関する請願書


戸田二代会長が宗門に提出した請願書 その一


 学会の戸田第二代会長は昭和31年317日、65世日淳法主の登座に伴う「お肉牙(おにくげ/御生骨)拝観」を約1ヶ後に控え、宗門側に見具申。宗務院総監と宗会議長に「請願書」を、日亨・日昇・日淳の三猊下には、お伺い書を提出して、公開を求めていた。


 請願書では冒頭、4下旬に御座替りの盛儀が取り行われ、その際、お肉牙を拝観できる喜びを述べた後、この拝観と関連して「宗門万年のためをいまして、愚見ではありますが、いささか考へる所がございますので、何卒、慎重御審議の上、採用していただき度く御願いに及ぶものでございます」と、次のように丁重に記されていた。


請願書(要旨)


一、御肉牙は今迄は宗門内の者にのみ拝観を許されて居りますが、最初(昔)は御本山の幹部の方だけの様に伺っております。

次に時代が経つにつれて強信なる信徒にも拝観を許される様になり、次いで時代と共に拝観の範囲も拡げられて、近年は御座替りに参加した宗徒一般に拝観が許され、去る立宗七百年祭には拝観者数が四千にも達しました。

以上の様に御肉牙の拝観は時代の変遷と共に一般化して参りまして、特に今度の御座替りには数万の宗徒が拝観を許される事になっております。


 この傾向よりしましても、又現在の宗門の発展より見ましても、この世界的秘宝「御肉牙」に関し、世界的にその存在を発表して反響を待つべき時であると信ずるものでありますが、この儀ば如何なものでございましょうか。


 特に医学界・生物学界・生理学界・その他科学界に広く発表したならば謗法となるものでありましょうか、ならぬものでありましようか、この点につき御伺い申し上げます。


 右の理由といたしましては、御生骨は広宣流布へのための御生骨であるとうかがっております。この事から考へますと、宗門興隆の現在、発表した方が良いと存じます。


 そして発表すれば外部で事の真偽の疑いを持つ者もありましようし、その他、色々と反響が大きい事と豫され、これが日蓮正宗の法の正しさを世に知らせる遠因となると愚考する次第でございます。


二、過去釈迦法の時代におきましても、羅什三蔵の舌が焼けなかった事は、法の正邪と法力佛力の問題として刮目すべき事実でありまして、選時抄その他の諸御抄に明かな所でありますが、それにも拘らず現代の人々はこの厳然たる事実を「後世に創作された単たる伝説」としか考へていない有様であります。


 これと同じ様に私共が現在この眼で拝観する事を得、ただ「妙」としか言い得ない「御肉牙」の不議も、遠い将来に「単なる創作された伝説」として考えられる事を恐れるものでございます。そうなれば、一には御本力を疑はせ大いなる御威光を汚し奉り、且つは不信疑惑の謗法を起させる事ともなり、誠に憂慮すべき事となりますので、この爲には是非共「御生骨に関する正確な記録」を取って後世に残し伝える必要があると考えるものであります。


【『フェイク』第711号 2006-04-26】


戸田二代会長が宗門に提出した請願書 その二


 戸田第二代会長が昭和31年、宗門側に提出した請願書の続きを紹介する。


三、過去六百年来、御宝蔵に秘蔵厳護し奉った「戒旦大御本尊様」も、宗門の飛躍的発展を期に、昨年大奉安殿に御遷座ましまし、この事は近い将来、広布大願成就の暁に、対外的に広く拝ませるための第一歩として、大きな義を持つ事柄でありました。


 この大御本尊様護持方法の御宝蔵から奉安殿への発展と同じ味で「御生骨」も宗内に秘蔵厳護の立場より一歩進めて、広く外部へその存在を現すべき時機と信ずるものであります。


 又、今後の御座替り以降は御生骨の現状について、数万の拝観者の口から広く世に語り伝えられる事が必至でありますが、唯一回で数分に満たぬ拝観の各々のじで伝えられる事は、これ又誠に危険な伝え方を生ずる憂いが多いとぞんじます。その為にはこの人々に正確な根拠を与える為にも、写真、その他客観的な記録全般をまとめて置くべきであると信じます。


 以上、種々の理由により、何卒、宗門当局におかれましては、この際「御生骨記録委員会」を結成して、御座替りの盛儀を期に御肉牙に関する一切の正確な記録をとって頂き度く、若しこの儀を御入れ下され、その上御許しがありますならば、及ばずながら聖教新聞社で如何なる点につきましても、全面的に御協力申し上げたい所存でございます。何卒微忠の真を了として愚見を御採用下さいますよう書面をもつて謹んで誓願申し上げます。

                             敬白

 昭和三十一年十七日

        創 価 学 会

                会長 戸田城聖 印


 以上が請願書であるが、提出に際し、紹介(宗会)議員として千種法輝、柿沼広澄のほか、当時は若僧であった阿部信雄(日顕)の計3前を連ねていた。


 この請願書を受け取った宗会は「宗務院へ回付」し、宗務院は「三猊下(日亨・日昇・日淳)の向を伺う」ことになったが、結局、宗門は戸田会長の良識的な見を無視し、現在に至るまで公開していない。いかにも坊主らしい狡猾な手法で握り潰してしまったのである。


 これにより「正確な記録を残し、世界にその存在を示さなければ創作された単なる伝説になってしまう」との戸田会長の憂慮が現実になってしまった。


 過日の座替法要の際、或いは五十年毎の御遠忌の時に信徒に拝観を許可してきたといっても、数分に満たない、良く分からない内拝では、公開とは言いい。


 そもそも「お肉牙」と称するものは身延派にもあり、大石寺専売特許ではない。しかも、こちらは写真撮影もされて、公開されている。「大聖人の御尊体の一部を直ちに拝し得た」(「妙」)と言うなら、堂々と公開に踏み切ったらどうか!


 ところで、この請願書の紹介議員に若き日の日顕前を連ねているのは実に面白い。請願書の趣旨に賛同していた証拠である。ただ、日顕の場合、後年、大御本尊を種々方法で鑑定して「偽物」と断定したように、正確な記録を残すだけでは飽きたらないところが、「法滅の妖怪」と言われる所以(ゆえん)である。



【『フェイク』第712号 2006-04-27】

座談会とは何か


 何事によらず言葉だけで終わっていては観であり、具体的な行動には一つもつながらない。信仰という本因の立場から、法の原理に照らして、座談会とは何なのかを、深く、強く、各人の生命に再び刻んでゆきたい。座談会学会の伝統といくら叫んでいても、それ自体が既に惰であっては、更に広布への深い根は張れない。個人にあっても未来創出の力にはなってこない。


【「座談会」について 聖教新聞 1974-01-01〜1974-01-05 《てい談者/上田雅一青年部長、八矢弓子婦人部書記長》】


 これが、「お知らせ」でも紹介した、414日付の『新・人間革命』に書かれた鼎談(ていだん)。


 1974年(昭和49年)は「社会の年」。“学会伝統の座談会をあらゆる会合に優先して、もう一度、充実していこうという”との方針が本部より発表されていた。聖教新聞の元旦から、この勢いである。全国各地の地区部長のお屠蘇(とそ)気分も吹っ飛んだことだろう(笑)。


 戸田先生が出獄して以来、教学と座談会が学会の伝統である。万が一、真剣に取り組んでない幹部がいるとすれば、その野郎は学会幹部に非ずと断じておこう。


 視点を変えれば、座談会は老若男女が集う社会の縮図そのものだ。ここに、信吹を吹き込み、広布への決を促すことが幹部の仕事なのだ。もしも、座談会が惰に陥っている組織があるとすれば、もはや、学会とは関係のない組織になっている自覚が必要だ。直ちに、支部幹部以上で手を入れるか、人事に着手するしかない。


 新入会メンバーが育たないのは、座談会に出さないからである。そもそも、折伏の段階で座談会に出てないケースが多過ぎる。大体、紹介者と周囲の幹部が座談会を軽視しているんだから、どうしようもない。


 どうも、座談会に対する誤解がまかり通っているようにじてならない。本来の座談会とは、式次第なんか要らないのだ。中者と参加者が自由に語り合うのが本当の姿だ。だから、折伏の際も、入会3原則のために座談会に出席させるのではなくして、座談会折伏の決着をつけるべきなのだ。ところが今時ときたら、座談会終了後に折伏をするもんだから、帰宅時間が気になって仕方がない。友人が参加した場合は、式次第を一切無視して、そのまま折伏すりゃいいんだよ。中者が、「今日は友人の方がお見えになっているので、皆さんの信仰体験を教えてあげて下さい」と発言を促せば、後はどうにでもなる。


 幹部が手本を示さないから、地区部長が育たない。地区部長が育たないから、座談会が惰になる。こんな悪循環はないだろうか? 地区部長に問題があるとすれば、それは本部長の責任だ。


座談会が三度のメシより好き」ってえのが、本物の学会っ子だ。

忘れまじ4.24


 1994年と記憶する。長谷川副会長と秋山総合婦人部長が、会長勇退の歴史を幾度となく語った。私は、自分が聞いたものだけで満足できず、男子部の先輩をはじめ、親しくしていた婦人部や女子部の幹部にも聞きまくった。それをまとめたものが、「聞き書き4.24」である。


 その後、先生が随筆などに書いて下さり、埋もれていた歴史の真実を教えて下さった。今、“創価三代の師弟”の最終章の時を迎え、私のはいたずらに逸(はや)る。


 そこで、しっかりと時間をかけて、「聞き書き4.24」を書き改める決をした。原文のニュアンスが変わりかねないため、ここに「忘れまじ4.24」と題して、稿を改める次第である。会長勇退の歴史に関して、何かご存じの方がいらっしゃれば、是非ともご教示を願うものである。




 昭和36年(1961年)、学生部から初めての司法試験合格者が誕生した。京都大学に在学する25歳の青年だった。3年を経て弁護士になった。組織においては、27歳で学生部の部長となり、わずか5ヶ後に学生部常任幹事となった。そして、29歳で理事補に任命され、副学生部長にもなった。31歳で理事に就任。更に、33歳で副理事長にまで昇格した。学生部の部長から副理事長になるまで、たった6年しか要してない事実が、期待の大きさを物語っていた。34歳の時(昭和45年/1970年)、創価学会顧問弁護士となった。山崎正友その人である。【書きかけ】

盗作


 トップページにも謳ってある通り、私のサイトの文章は、URLさえ明記してもらえば転載しても一向に構わない。だがその実態は、「陥りやすい安易さ」にも書いたように、単なるコピー、剽窃(ひょうせつ)がまかり通っている。ある方から教えてもらってわかったんだが、私の書いた「聞き書き4.24」を、そのまま掲載しているサイトがある。「常勝の空」というのがそれ。こういう下劣なやり方を目(ま)の当たりにすると、ミュージシャンや作家が著作権に対して神経質になる気持ちがよく理解できる。だって考えてみてよ。向こうのサイトから、更にコピーする連中だって出るんだよ。で、挙げ句の果てには、コピーのコピーに手が加えられ、内容は変質し、誤った情報が飛び交うようになるのだ。いわば、“ネット越しの伝言ゲーム”だ。過去にも、ダウンロードできる情報として利用されたことがあった。そのサイトに抗議したところ、「知り合いから、もらった」という話だった。かような面々が、「7.5Hz」などの怪文書の流布に手を貸しているんじゃないのか?


【※抗議したところ、「同志から頂いたものを、そのまま掲載した」とのことだった。そうだったとしても、出所不明なものをアップするのはどうかとう】

2006-04-25

「誓」


 昭和54年(1979年)の53日、私は、ただ一文字、「誓」としたためた。それは、私が第三代会長を辞任した直後の本部総会の日であった。

 師弟の「誓」に生き抜く限り、恐れるものなど何もない。


【5.3記代表者会議 2006-04-25 創価文化会館

会長勇退の年齢


 会長勇退の時、先生は51歳だった。戸田先生が第二代会長に就任されたのも51歳だった。また、73日に戸田先生は出獄され、同じ日に池田先生は入獄された。この事実を知った時、「若退若出(にゃくたいにゃくしゅつ)」という寿量品の言葉を私はった。不二の師弟の間に生死一大事の血脈が流れ通う。

4.24の歴史


 ある方から、4.24についてやり取りをしている掲示板があることを教えてもらった。


 その気持ちはわからないでもない。いまだに明らかにされてないことが多いのも事実だ。しかし、「会長勇退」は語り継ぐべき歴史であって、“語り合う”事柄ではない。皆で考えたり、論じ合ってしまえば、自分の責任は不問に付される。また、誰かに責任を押しつけるのも愚かな行為と言わざるを得ない。


 信とは、御本尊と自分、そして、師匠と自分に帰着することを弁(わきま)えたい。その間に夾雑物(きょうざつぶつ)を入れると、必ず複雑が生じる。


 典では、釈尊という師匠を中とした“生命の対話”が繰り広げられている。弟子同士の雑談は一切、記されてない。4.24学会にとって一大事の歴史である。軽々しく論じ合うような真似は互いに戒め合いたい。所詮、自分の信で受け止めるしかない問題だ。“4.24ウォッチャー”になるなかれ。

泥棒事件


 高齢の支部副婦人部長から電話。聞けば、「折伏しようとっていた友人が、泥棒に入られた」と言う。「そりゃ大変だ」ってことで、かみさんと3人で、差し入れを携えて友人宅へすっ飛んで行った。調書を取り終えたお巡りさんに私が呼ばれ、元で「侵入の痕跡がなく、通帳があった場所も二転三転してます」と教えられる。「じゃあ、きっと勘違いだね。こっちで探してみるよ」と言っておいた。少し経つと、またぞろ警察官の二人組が来た。さっき聞かされた話を小で伝え、「みんなで探せば出てくるとうんだよ」と言うと、二人組は部屋の中を調べ始めた。私は郵便局へ連絡を取り、事情を説明した。しばらくすると、一人の警官が私に合図をし、「これ……」と通帳を渡した。「お母さん、これじゃない?」と私が言うと、「あったーーーっ!」と大きなを上げた。皆で大笑い。二人の警察官は嫌な顔一つせず、「よかった、よかった」と帰って行った。とんだドタバタ劇だったが、折伏の追い風となったことは確かだ。

2006-04-24

会長勇退から27年


 今日、会長勇退から27年目。現在、吉田松陰の指導を配信しているが、時を逸すると無駄になってしまうので、本日、大量のメールマガジンを発行する。携帯で受信されている方はパケット代が生じるが、何卒、お許し願いたい。

吉田松陰と門下 その一念の相違


 さて本日は、青年部の参加者も多い。そこで、吉田松陰とその門下について少々触れておきたい。

 ご承知のように吉田松陰は、満29歳で死刑に散った。まことに若い。青年である。この一人の青年が近代日本の幕を大きく開けた。古き時代は倒れた。驚くべき歴史である。

 その影響力の根源はどこにあったか。陰という人物の本質をどう見るか。当然、多くの論者がおり、様々な見方がある。また、諸君にも将来、考えていただきたい。本日は、彼の言葉から一点のみお話したい。


 陰はある時、門下に対しこう言った。「僕は忠義をする積(つも)り、諸友(しょゆう)は功をなす積り」と。

“自分は成否はともあれ、忠義の赤誠を貫くつもりである。それなのに諸君は、手柄を立てるつもりなのだ。見が違い、生き方が違う”と厳しく指弾したのである。

 すなわちこれは、陰が、門下の久坂玄瑞、高杉晋作らを指しで批判し、「絶交」した時の言葉である。

 ――諸君には、私のがわからない。

 ――ああ、真の同志は、まことに少ない。

 陰は嘆いた。この師弟に何があったのか。


 時に、陰にとって最後の年、安政6年(1859年)1のことであった。この年の10に彼は刑死する(安政の大獄)。

 陰はこの時、萩の「野山獄(のやまごく)」にいた。獄中でも彼は革命への動きを止めようとしなかった。彼はいつでも計画し、どこでも実行に移そうとしていた。

 真の革命家は皆そうである。牢獄も彼のを縛ることはできない。

 陰はこれ以前から、次々と門下に策を授けた。

 長州(山口県)の藩主・毛利慶親(よしちか/後に敬親〈たかちか〉と改)を、参勤交代の途中、カゴを止め、京都で「討幕へ」と説得しようという計画もその一つである。“もう時代は変わった”と、大に行動させようとしたのである。

 また、水野土佐守(とさのかみ)や、老中・間部詮勝(まなべ あきかつ)の襲撃なども考えた。

 いは次々と浮かび巡る。頭脳は激しく回転する。陰のいは激しかった。

 ――常に生き急ぎ、死に急いでいたかのごとき陰。生きることにも急(せ)き、死にゆくことに急であった。

 そのは私にも痛いほどよくわかる。青春の日、私はい定めていた。「戸田先生のご存命中に死のう」と。

 私には妻も子もあった。しかし、後世に戸田門下生の範を示しておきたかった。こういう地涌の闘士がいたのか、末法広宣流布に殉じた若武者がいたのかと――。

 しかし、その戸田先生に見破られてしまった。

「大作、お前は死に急いでいる。それは困る。お前が死んだら、俺の後はどうなるのだ!」

 それで、私も生きた。生き抜く以外になくなった。生死を超えた師弟であった。厳粛にして美しき、一体の師弟の絆であった。何ものもその間に介在することはできなかった。


 獄中にあって、陰はジリジリした。

 いは逸(はや)れども、動くに動けない。誰か、我がとして走ってくれる者はいないか。

 ところが――。門下は、彼の計画にことごとく反対した。

 藩主のカゴを止める計画も、やろうという者は入江(いりえ)兄弟(入江杉蔵・野村和作)のみ。しかし、兄弟は若く、足軽の身分でもあり、大した仕事はできなかった。

 一般にも、ある程度、力のある人間は傲慢になり、ずるくなって、身を粉(こ)にしない。保身を図る。一方、純真な人間には力がないことが多い。こういう傾向があるようだ。

 力もあり、人間的にも労を惜しまぬ誠実さがある、そのような人物が多く出てこそ、大事は成る。


 激しいといえば、まことに激しい陰の情熱である。弟子達には理解できない。それどころか、師を諌(いさ)めさえした。

 高杉晋作、久坂玄瑞、中谷正亮(なかたに しょうすけ)、その他の弟子達も皆、陰に背を向けた。江戸にいる彼らから手紙が届いた。

 ――先生のお気持ちはよくわかりますが、時期尚早であり、(老中襲撃など)成功の見込みは少なく、長州藩そのものを危機に追い込むことになりかねません。ここは我慢をして、時を待つべきです、との内容であった。

 門下の双璧といわれた久坂、高杉ですらこうである。

 別の計画も、実行に走ろうとした門下を、他の門下生が説得して、やめさせる始末であった。藩に計画を“密告”した門下すらいた。裏切りである。

 陰は嘆いた。私のを知る弟子は、どこにもいないのか――。陰は孤立し悩んだ。


 久坂、高杉らの手紙が届いた時、陰はある人に宛ててこう書いた。

「吾が輩皆に先駆て死んで見せたら觀(かんかん)して起(たつ)るものもあらん、夫れがなき程では何方(なんぼう)時を待ちたりとて時はこぬなり」(安政6年正11日、某宛書簡。山口県教育会編『吉田松陰全集』第8巻、大和書房刊。手紙の引用は以下、同書から。全て安政6年)

 ――僕が、皆に先駆けて死んで見せたら、気にじて立ち上がる者も出るかもしれない。そうする者がいないようでは、いくら時を待ったところで時はこない――と。

“時を待つ”のではない。言ってわからなければ、一命を捨てて“時をつくる”。その死は、決して門下生らが言うような「犬死に」ではない、と。

 結果的には、やがて陰の死が門下を立ち上がらせ、この時の彼の手紙の通りになった。


 更に陰は言う。

 革命の炎を燃え立たせたのは自分ではないか。その正義の炎に対抗する「逆焔(ぎゃくえん)」も自分が煽ったのだ。その僕の動きを止めようとは何という得違いか。

「且(か)つ今の逆焔は誰(た)れが是れを激(げき)したるぞ、吾が輩に非ずや。吾が輩なければ此の逆焔千年たつてもなし。吾が輩あれば此の逆焔はいつでもある。忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むやうなものではなし。吾が輩屏(へいそく)すれば逆焔も屏せようが、吾が輩再び勃興すれば逆焔も再び勃興する、幾度も同様なり」(同書簡)

 ――その上、今、革命に対する炎は、一体誰が燃え立たせたのか。この僕ではないか。僕がいなければ、この炎は1000年たってもなかったことだろう。僕さえいれば、この炎はいつでもある。

 忠義というのは、「鬼のいない間に、(一入れて)茶を飲む」ようなものではない。

 僕がをひそめれば、炎もをひそめる(小さくなる)だろう。僕が再び立てば、炎も再び大きく燃え上がる。これは何度やっても同じことだ――。

「忠義と申すものは鬼の留守の間に茶にして呑むやうなものではなし」――何と痛烈な言葉であろうか。

 何やかやと理由をつけて動こうとせず、その実、危険を避けて我が身をかばおうとしている。そうした門下の政治的な要領のよい生き方と弱さを叱咤しているのである。

 何より、「革命の火種」としての陰の自負は大きかった。自分が立てば、反動も大きい。その通りだろう。当然ではないか。我こそ「革命の当体」なのだ。その僕を抑えて、時を待つなどといったところで、何年たっても何一つ変わらないぞと。

 炎を広げるには、「火種」を第一に守り抜いてゆく。これが当然過ぎるほど当然の道理である。その道理が見えないのかと、陰はあえて言わざるを得なかった。

 広宣流布も、「火種」を守り抜けば、いつでも燃え広がる。また、永遠に続いてゆく。「火種」を消せば、広布の炎も消える。この重大な一点を忘れてはならない。

 今、私は戸田先生から受け継いだ、正法広宣流布への確かな火種を世界に広げながら、更に次の時代のため、万年のために、真正の「革命の火種」を青年諸君の魂に伝えようとしている。


 この後に、冒頭に挙げた有な言葉が出てくる。

「江戸居(えどい)の諸友久坂・中谷・高杉なども皆僕と所見違ふなり。其の分れる所は僕は忠義をする積り、諸友は功をなす積り」(同書簡)と。

 ――江戸にいる諸友、久坂、中谷、高杉なども皆、僕と考えが違う。そのわかれるところは、僕は忠義をするつもりであり、諸友は功(手柄)をなすつもりなのだ――と。

 陰のいう「忠義」と「功」とは、言葉は古いが、現代的にはこうもいえよう。

 報酬を求めぬ「私なき赤誠」と、功にとらわれた「政治的方便」と。別のところで陰は、同じことを「真」とも表現している。

 師弟の違い。それは、大義に死する革命詩人と、功に生きる政治的人間との違いであった。

 ――たとえ我が身がどうなろうと、身を賭して正義を明らかにすべきではないか。それでこそ、“時”をつくり、時代を開いていける。今やらねば、いつやるのだ。このまま、おめおめと生き、火種を消してしまうのか。

 ――上手に「生きよう生きよう」と立ち回るのは「功の人」である。国家のためにと言いながら、生きて功を立て、革命の甘い汁を吸おうというのか。

 ――(高杉・久坂・中谷らは)皆、「ぬれ手で粟(あわ)をつかむ」つもりなのか――。

 陰の言葉は、いよいよ激しい。高杉よ、久坂よ、「時を待て」とは何たる言い草だ。皆、労もせず、「ぬれ手で粟」で、功のみを得ようというのか、と。


 客観的には、あるいは弟子達の状況判断にも無理からぬ面があったかもしれない。実際、そう論じる人もいる。

 また、「手柄」を立てることが悪いというのでもない。何の手柄も立てられないのでは仕方ないともいえるかもしれない。

 しかし、陰が言いたいのは、そんなことではなかった。自分と弟子達の「奥底の一の差」を嘆いたのである。

「革命のための人生」なのか。それとも、「人生のための革命利用」なのか。

 私どもでいえば、広宣流布のために自分を捧げるのか、自分のために広布を利用し、信学会を利用するのか。この「一の差」は微妙である。ある味でタッチの差である。

 しかし、その結果は大きく異なる。広布のため、正法のために――との信の一は、諸天を大きく動かし、友の道を限りなく開いてゆく。

 自身の生命にも、三世永遠の福徳の軌道、確たる“レール”が築かれてゆく。

 反対に、口には広布を唱え、裏では堕ち、身が堕ちてしてまった人間もいる。立場や利、金銭に執着し、そのを「本」として、巧みに泳ぎつつ生きてゆく。これまでの退転者らがそうであった。

 また、人に認められよう、ほめられようとの一で行動する人もいる。しかも、自分では結構、頑張っているつもりでいる。自分で自分のエゴがわからない。


 陰がここで言うのも、弟子達が自覚していないの底の「臆病」と「野」を撃っているのである。

 弟子を知る者、師にしかず――。師匠には弟子が自分で気づかぬまでわかっている。反対に、師のを知る弟子はあまりに少ない。


 吉田兼好の『徒然草』に、「師の眼力」を書いた一文(第92段)がある。

「或人、弓射る事を習ふに、諸矢をたばさみて的に向ふ。師の云はく、『初の人、二つの矢を持つ事なかれ。後の矢を頼みて、始めの矢に等閑(なほざり)のあり。毎度、ただ、得失なく、この一矢(ひとや)に定むべしとへ』と云ふ。わづかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんとはんや。懈怠(けだい)の、みづから知らずといへども、師これを知る。この戒め、万事にわたるべし」と。

 ――ある人が弓を習っていた。二本の矢を手にはさんで的に向かった。弓の師匠が言った。「初の人は、二本の矢を持ってはならない。二本目の矢を頼んで、(まだ一本あるとい)初めの矢をなおざりにするが出るからである。

 毎回、矢を射るたびに、当たり外れを気にせず、ただ、『この一矢で終わりにしよう』とえ」と。

 わずかに二本の矢である。師匠の前で、一本をおろそかにしようとうだろうか。しかし、怠(なま)けのは、自分では気づかなくても、師匠は知っているのである。この戒めは、万事に通じるものである――。

 更に兼好は言う。

「道を学する人、夕(ゆうべ)には(あした)あらん事をひ、には夕あらん事をひて、重ねてねんごろに修せんことを期す。況んや、一刹那の中において、懈怠のある事を知らんや。何ぞ、ただ今の一において、直ちにする事の甚だき」

 ――道を学ぶ人も、夕方には、明日のがあることをい、には夕方があることをって、その時には、再び真剣に修行しようと決する。

(それほどであるのだから)いわんや一瞬の間に、怠けがあることを知ることができようか。「ただ今の一」において、直ちになすべきことを実行することの何としいことか――。


 師匠は、弟子のがよくわかるものである。だからこそ、自分の怠けに気づかず、真剣に道を求めようとしない弟子のために、教え、励まして成長させようとする。

 師がいてこそ、求める道も正しく進み、究(きわ)めてゆくことができる。自身の成長も、人生の向上もある。

 ともあれ、人生も、青春も長いようで短い。「この一矢」「ただ今の一」をきちんと定めて、充実した価値ある一日一日を生きてゆかねばならない。そのために、どうしても師が必要である。このことを教えた『徒然草』の文である。


 さて、陰の門下は師から遠ざかった。「先生、おとなしくしていてください。今は、行動しないで、静かにしていてください」――彼らの根を一言でいえば、こうであった。

 そこには、師を危ない目に遭わせたくないという情もあったつもりかもしれない。しかし、その本質は、師のを知らず、自分達の賢(さか)しらな考えにとらわれていた臆病のでもあった。

「先生のお守(も)りに困っているんだ」とさえ、愚痴を言った門下もいる。これは手紙が残されている。

 陰は嘆いた。「勤王(きんのう)のきの字を吐きし初めより、小弟(しょうてい)索(もと)より一死をはめての事なり」(113日、兄杉梅太郎宛書簡)と。

「勤王」の「き」の字を口にして、革命を志した時から、既に一死を覚悟している。何を恐れることがあろうか。なのに、“状勢が厳しい”“今はその時ではない”などと門下達は言う。今更、何の「臆病論」(同書簡)なのだ。

 大義に死す者がいないとは、太平の世に柔弱(にゅうじゃく)になりきったのか。「日本もよくもよくも衰へたこと」(123日以後、入江杉蔵宛書簡)だ。情けない限りだ。「哀し哀し」(215日以前、某宛書簡)と、陰は血涙をしぼった。

 この時の陰のいは、「星落秋風五丈原」の歌の一節「成否を誰(た)れかあげつらふ 一死尽くしゝ身の誠」に通じるものがあろう。

 戸田先生はかつて、「五丈原」の歌を青年部に歌わされたが、この歌詞のところにくると、涙されるのが常であった。

“無責任な傍観者が何を言おうと、広宣流布は断じてなさねばならない。一体、誰がそれを成すのか”とのいが、歌詞と二重写しになって胸に迫ってこられたに違いない。

 しかし、戸田先生のもとには常に私がいた。私は、「広宣流布」の「こ」の字を口にした時から、は決めていた。死も覚悟の上だった。そして、戸田先生の誓願実現のために走りに走った。

 戸田先生も、「大作がいるからな」と喜んでくださっていたし、私に一切を託された。一切を託せる弟子をもつことほど、師にとっての喜びはないし、幸せはない。

 広宣流布も、また大闘争であり、当然、戦術、戦略というべきものもある。また、冷徹な情報分析も絶対に必要である。しかし、より根本的なものは「師弟の道」である。その道を外れては、どんな作戦も価値を生まないことを知らねばならない。


 さて、陰は明治以後になると、いわゆる「勤王の志士」として、軍国主義などに利用されてきた歴史がある。

 しかし彼が、しみの果てに至った結論は、実は「民衆による革命」であった。「草莽崛起(そうもうくっき/民草、民衆の決起)」――これが陰の最後の考えであった。

 他人は信ずるに足らず、幕府も諸大も頼むに足りない。では、どうするのか。――民衆である。革命は民衆に拠(よ)るしかない――と。陰だけではない。歴史上、まがりなりにも革命を成し遂げた人物は、やはり民衆に焦点をあてていた。

「草莽崛起、豈(あ)に他人の力を假(か)らんや。恐れながら、天も幕府・吾が藩も入らぬ、只(た)だ六尺の微躯(びく)が入用」(4頃、野村和作宛書簡)――もない民衆の決起、もはやそれしかない。どうして他人の力など借りようか。恐れながら廷もいらぬ、幕府もいらぬ、我が藩もいらぬ、ただこの六尺の身があればよい――と。

 もう誰も頼らない。我が身一身が炎と燃えれば、火は民草に燃え広がろう。権力者など当てにするのは一切やめだ――と。

 民衆は弱いようで強い。いざとなれば権力など、ものともしない。怖(お)じない。無の民衆の力こそ、革命の真の原動力である。広布という未聞の大もまた、無の庶民によって、逞しく切り開かれてきた。


 陰がこの「民衆決起」の考えに至った発端は、どこにあったか。それは、日蓮大聖人の戦いであった。彼は書いている。

「余が策の鼻を云ふが、日蓮鎌倉の盛時(せいじ)に當(あた)りて能く其の道天下に弘む。北條時頼、彼の髠(こん/髪をそられた罪人のこと。ここでは日蓮大聖人を指す)を制すること能(あた)はず。實行(じっこう)刻尊信すべし、爰(ここ)ぢや爰ぢや」(同書簡)

 ――この戦略をいついた発端は、日蓮(大聖人)は鎌倉幕府の勢いの盛んな時に、よくその教えを天下に広めた。(権力者である)執権北条時頼でさえ、彼を制することができなかった。(この事実から考えついたのだ)「実行」と「刻」と。(しみつつ実践に生きることは)尊(たっと)ぶべきであり、信ずべきである。肝なのはここだ、ここだ――と。


 この「民衆決起論」は、やがて弟子達に受け継がれ、近代日本の扉をこじ開けるテコになる。

 いわば、日蓮大聖人の、権力をものともしない「民が子」(1332頁)としての戦いが、時代を超えて陰に飛び火し、明治維新の淵源をもつくっていったのである。


 こうした手紙を書いた約半年後、陰は江戸で処刑される。

 門下の衝撃は大きかった。「仇を報(むく)わでは」と皆、泣いた。そして、師の手紙や遺文を集めた。それぞれが、ばらばらに持っていたものを結集し、皆で学んだのである。

 そこで、初めて弟子達は陰の真を知った。「これが、我が師のであったのか」――そのの深さ、慈愛の大きさ。改めて自分達が師を知ることのあまりに少なかったことを悔いた。


 陰は遺言に言う。

「諸友蓋(けだ)し吾が志を知らん、為(た)めに我れを哀しむなかれ。我れを哀しむは我れを知るに如(し)かず。我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如かざるなり」(1020日頃、「諸友に語(つ)ぐる書」)

 ――諸君は僕のを知っているであろう。(死にゆく)僕のことを悲しんではならない。僕の死を悲しむよりは、僕(の)を知ってくれる方がよい。僕(の)を知るということは、僕の志を受け継ぎ、更に大きく実現してくれることに他ならない――。


 師のを知った弟子達は、炎と燃えて立ち上がった。もはや彼らに迷いはない。革命の本格的な野火(のび)は、ここから広がり始めたのである。

 やがて、「民衆決起論」は、高杉晋作の奇兵隊(農民まで含めた新軍隊)を実現させた。そればかりではない。

 陰の「幕府もいらぬ、藩もいらぬ」との到達点は、久坂玄瑞を通じて坂本竜馬に、そして、全国の志士達にと伝えられ、革命の爆発の発火点となっていった。

 孤独の中の陰の魂の叫びが、やがて、こだまにこだまを重ね、新しい時代を開いていったのである。


 やがて、久坂も高杉も師のを抱きしめながら、大義のために死んでいった。

 生き残り、革命の甘い汁を吸ったのは、伊藤博文や山県有朋ら、一ランクも二ランクも下の人物であった。

 革命に殉じた人々の功績と労を、生き残った者が自らの保身や功のために利用する。広宣流布の歩みにあっては、こうしたことは絶対にあってはならない。

 妙法広布に生き、殉じた功労者が最大に称えられ、報われ、また、末永く顕彰されてゆく麗しい世界。これこそ、学会のあるべき姿であると、私は願してやまない。


 ともあれ、時の権力者と真っ向から戦う中で、もなき庶民をこの上なく愛され、大切にされた日蓮大聖人。その大聖人に自らの革命の偉大な模範を見出したのが吉田松陰であった。

 そして、“民衆”への限りない御自愛を注がれて戦われた大聖人のおのままに、広宣流布への民衆の大河を、広く深く築いているのが、私ども創価学会であると、重ねて申し上げておきたい。


【第11回関西総会 1989-10-12 関西文化会館


 無茶な発行の仕方をしてしまい、大変、恐縮している。424日にどうしても伝えたかったので、ご理解願いたい。私が最も大切にしている指導の一つ。


 弟子に裏切られた陰の境を、先生は余すところなくすくい取り、師匠と弟子の一の違いを鮮やかに描かれている。これは、「会長勇退」の歴史そのものだ。


 この指導は、会長勇退の報を聞いて真っ先に駆けつけた、藤原武さんを初めとする「関西の七勇士」に対する、先生の返礼とわれてならない。


 東京ではなかったところに、私は深い義をじるのだ。東京は3年で人口が入れ替わるといわれる。土着や愛郷に劣る分だけ、を揺らす傾向が強い。各区のプライドが、単なる地域エゴで終わってしまう姿も見受けられる。東京は広過ぎて一体に欠ける。


 この指導を誰よりも真剣に読まなければならないのは東京だ。


 昭和54年に負わされた傷に塩を擦り込みながら、本日より明年の4.24を目指したい。

2006-04-23

教義上の妥協は寛容に非ず


 宗教の教義、信仰の上での誤りを追及し、それを正してゆくということが最高の慈悲であります。すなわち、教義上の寛容・不寛容と、その人を救ってゆうという上での寛容・不寛容とは、全く別の問題であります。そればかりではなく、教義の上では妥協せず、純粋であることが、結果的には真の寛容になっていることは明瞭なのであります。例えるならば、子供が知らずに毒を飲もうとしている、あるいは悪い道に走ろうとしている時に、もし、親が真に子供を愛していれば、我が子を厳しく叱るのは当然であります。これを黙って見ているような親は、むしろ無慈悲の謗りを免れないでありましょう。あらゆる道理から考え、法華経涅槃経等の経文の明鏡に照らし、我が日蓮正宗創価学会折伏こそ、最高の慈悲の実践行為であり、学会に対して不寛容排他的という非を浴びせることは、全くの誤謬(ごびゅう)であり、偏見であると言いたいのであります。

 更に事実の上で、創価学会座談会はあらゆる人に大きく開かれた門戸であります。そこでは、誰人に対しても差別せず、慈悲を根底に、道理を尽くした民衆救済の偉大なる戦いが展開されております。もし、排他的であるならば、座談会に外部の人を呼ぶわけもないし、入信を許すこともあり得ないでしょう。しかし、教義の上で他宗に寛容であることは、理非を無視した妥協であり、宗教としての堕落ではないでしょうか。正法正義を顕示した清廉潔白な宗教であるならば、どこまでも教義に関しては純粋を保ち、妥協や寛容でないのが当然であります。

 これに対し、人間の上からいえば、寛容・不寛容は慈悲の問題であります。もし、この面に関して不寛容であるならば、それは無慈悲であり、冷酷無残な宗教という以外にはありません。妙法は教義の上ではあくまでも正義を顕示してまいりますが、その根底の精神・究極の理は全民衆の救済・幸福にあります。しかして、この全民衆救済の大理達成のためには、毅然としてどこまでも正法正義を掲げ、破邪顕正の険を振るっていく以外にはないということを、ここに宣言しておきたいのであります。そして更に、妙法を根底にするならば、また、信が確立された時には、あらゆる流通分として生かされてゆくのであります。これこそ偉大なる寛容の哲理であり、究極であります。その時には、一切を正しい生命観の上から如実知見していけるし、それによる人間の主体の確立によって、一切を自在に使いこなしてゆける大法なのであります。


【第16回青年部総会 1967-11-19 両国日本大学講堂】


 有な指導。先生この時、39歳。


 我々が普段、ってはいるものの言葉にできない急所をズバリと衝いて、余すところがない。


 カレル・ヴァン・ウォルフレン氏がこう書いている。


 国家主義的な傾向のある日本人は、日本人の考え方の“柔軟”を美点だと考えているようだ。中曽根首相は1984年8に全国向けに放映されたテレビのインタビューで、日本人はその柔軟のために、西洋人に比べ有利な立場に立てると示唆した。彼はこの点を誇りにしているようだった。彼は、その時、日本人は個人として神道キリスト教と共に教を受け入れる多神教であると説明した。彼によると、日本人の考え方は「一神教の西洋人」な考え方より寛容であることになる。究極的に相容れない信を同時に受け入れるのは、実際には、どれも信じないのと同じだと、彼がってもみなかったのは明らかだ。


【『日本/権力構造の謎』篠原勝訳(早川書房、1990年/ハヤカワ文庫、1994年)】


 更に、多神教の影響による国民を次のように鋭く指摘している。


“自己にとっての真理”に行動を制約されるという伝統がなかったから、日本人はあることを“信じ”ながら完全に別のことができる。


【同書】


 生まれた時はお宮参りをし、結婚式は教会で行い、葬式は教で出す――なあんてえのあ、その典型だ。妥協に甘い民族であればこそ、長期間にわたって天皇制と幕府というダブルスタンダードが通用したのだ。


 教義上の妥協は、信仰の破綻である。そもそも、妥協した時点で信ずるに値(あたい)しなくなっている。


 種種の大出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり(232頁)


 妥協に馴染んだ日本に哲学が生まれる土壌はなかった。哲学とは、自分の頭で善悪を判断する作だ。村の掟に背いてまで善を主張すれば、村八分は避けられない。国家全体が大きな村みたいな社会において、日蓮法は異質な存在だ。なぜなら、村の掟に従わないからだ。


 民主主義は、個人という概によって支えられている。我が国にとっては、いずれも輸入品だ。多分、英語を翻訳する際につくられた言葉だろう。


 しかるに大聖人は、鎌倉時代にありながら、「日蓮一人」と、何度も何度も書かれている。また、大聖人にとっての門下は、単なる村の構成員ではなく、一人ひとりが、かけがえのない存在として大切にされていたことは、御消文からも明らかである。更に、以下の御文もある。


 王は民を親とし(1554頁)


 大国の王は民ををやとし(1598頁)


 日蓮法の普遍が一目瞭然である。人間と生命を完璧に説き明かしていればこそ、時代や民族を越えて、あらゆる人々が共できるのだ。


 人法ともに尊し(856頁)


 なれば、日蓮法の教義にふさわしい人格を培うことが、我々の最優先課題となろう。


日本 権力構造の謎〈上〉 (ハヤカワ文庫NF) 日本 権力構造の謎〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

2006-04-22

昭和31年「関西は信心で勝ち、東京は策で敗れた」


 当時、大阪地方区の参院選は、誰も勝てるとは考えていませんでした。戸田前会長でさえも、まず大阪は無理だろうとおっしゃっていた。私はただ「ここで勝たなければ広宣流布の構も崩れてしまう。しかし、それよりも関西の学会員が可哀だ。何としても勝たせて、誇り高い関西の学会員になってもらいたい。そのために御本尊様、勝たせ給え」と、その一で私は祈り続けてきたのであります。当時の同志も、本当によく頑張りました。団結を合言葉に、明るく賢明に戦った。そして、徹底的に個人指導を推進し、夜は座談会に総力をあげていったのであります。不平など言わずに、みんなが実践第一で活動しました。つまらぬ怨嫉をしている者は、どんどん遅れてしまい、後になって悔いながらついてきました。その結果はご承知の通り、約22万票の得票で大勝利を収めたのであります。当時の世帯数は約5万世帯でした。予外の勝利に、世間はアッと驚きました。これすなわち、動執生疑であり、社会に対する偉大な折伏となったのであります。

 この関西の船出、関西の底力、関西の戦いぶり、伝統をば、今日集まった幹部の方は、しっかりと受け継いで、未来の幸福という栄冠を目指して、う存分、再び秩序ある前進を開始していただきたいのであります。この時、東京は惨敗を喫しました。戸田前会長は「関西は信で勝ち、東京は策で敗れた」といわれた。この信の戦いと団結、そして、個人指導と座談会の推進こそ、永久に変わらない王冥合の勝利の源泉であることを強く訴えておきたいのであります。


【関西本部幹部大会 1967-06-13 大阪府立体育館】


 世帯数の4倍以上の得票を勝ち取り、不可能を可能にしたのは“個人指導と座談会”であった。“学会丸”という船は、“座談会”という大海原を進む。


 最近、読売新聞の連載記事で、数度にわたって学会のことが取り上げられている。あまりにも政治的な視点に偏っていて、底の浅い内容で終わってしまっているが、学会に対する世間の関の高さを十分に示している。


「一人を幸福にする」――言葉にすれば簡単だ。しかし、そこに至るまでの地道にして熾烈(しれつ)な闘争を知る人は少ない。学会員の情熱と無私の行動を、“集票力”としてしか判断できないジャーナリズムが見つめるものは、所詮、“マス(集団)”としての大衆だ。本物のジャーナリストが登場すれば、必ずや刮目して学会を評価するに違いない。


「関西は信で勝ち、東京は策で敗れた」との戸田先生の指摘は重い。東京は、広布史に刻印されたこの宿命を転換する必要がある。


 今頃になって、「関西は未来部がどうのこうの」という証言もあるようだが、そんなものは関係ないよ(笑)。関西には池田先生がいて、東京にはいなかった、ただそれだけのことだ。


 関西は新入会のメンバーが多く、東京は古参の幹部が多かった。邪推を恐れずに言えば、28歳の青年リーダーが指揮を執るには、あまりにも“大物幹部”が多過ぎた。また、西日本に一大拠点を築くことが急務であり、何にも増して戸田先生は、真の後継者たる池田先生に大きな戦いの指揮を執らせたかった。


 その戸田先生ですら「無理だ」とっていた戦いに、先生は勝利の二字をもってお応えした。これこそ、“広宣流布の模擬試験”だと私はう。


 詳細は、小説『人間革命』第10巻に描かれているが、闘争を終えた池田先生は“雲海の着”を戸田先生と語り、その責任師匠と完全に一致していた。

本部幹部会


 本幹衛星中継に2連れ出す。終了後、私から逃げ続けていたT2さんを、我が家に招く。少々の配は残るが、やむを得ない。本人も多少、姿勢を正していた。本気で人を育てようとすると、必ずこちらのを揺らす事態が生じる。ここに我が人間革命がある。問題は相手じゃない。自分だ。

2006-04-21

座談会に臨む心構え


 1.音楽会や観劇などに行くような、いわゆる、聞界の生命ではなく、創価学会折伏座談会は、界の生命、界の姿であって、の使いであるという確固たる自覚で臨まなければならない。

 2.相手をよく認識してから評価すること。

 3.相手方が自己本位を主張する場合、その執着に疑いを起こさせること。すなわち動執生疑座談会の中で起こさせること。


【男子部指導会 1952-05-20 ※要点筆記/当時、男子部第4部隊長】


 草創期にあって座談会折伏する場であった。中者がその場でやり取りをしながら、あるメンバーには体験談を語らせ、また、あるメンバーには法理論を説明させ、新来者の発を促した。


 当時、先生は24歳。蒲田支部で201世帯の折伏を成し遂げたのが、同年の2のこと。ということは、男子部幹部が四者の要となって、座談会でどんどん折伏を推進していたことがわかる。


 果たして今の座談会はどうか? 形式に流されるあまり、主要な活動家のみが集い、式次第をこなして終わり――そんな姿が多くはないだろうか? 歓喜もなければ、決もない座談会になってやしないか?


 最大の原因は、支部幹部以上が座談会を軽視していることにある。座談会の何たるかを教え、示す責任を全く果たしていない。が掛かったから、のこのこと出向き、自分に与えられた時間だけ、そつなくこなしているのが今の幹部の大半だろう。


 その結果として、座談会に出席しなくても平然としている青年部になってしまったのだ。


 挙げ句の果てには、入会3原則となっている、「2回以上の座談会への出席」も無視され、チャッチャッと送ってしまっているのが現状だ。


 座談会軽視の風潮を払拭すべく、現状への破折を試みる次第である。

先輩に報告


 私が最も恐れる先輩より電話あり。近況と今、抱えている問題を報告。「学会に革命を起こさないと駄目だな」と言われる。見を求められたので率直に述べる。言葉の端々に私を配するいが込められ、ひたすら襟を正した。

言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊となす


 最後に伝教大師の言葉を紹介しておきたい。

「能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは、国の用なり、能く行い能く言うは国の宝なり。(中略)言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊となす」(『山家学生式』〈さんげがくしょうしき〉)

 すなわち――「智」ありて「行」なきは国の師、「智」なく「行」あるは国の用、「智」と「行」共にあるは国の宝、「智」なく「行」なきは国の賊、と。

 この味で大聖人は、「国宝」中の無上の「国宝」の方であられた。また、門下として、法のため、社会のために、叫び、行動している私どもも、総じては「国宝」の誇りを持ってよいと信ずる。


 そして、“「智」も「行」もないのは国賊”と。何も言わず、何も行動しないのはゼロではない。マイナスの存在なのである。

善をなさないのは悪である。成長しないのは惰である。前進しないのは後退である。

 そして、「杖」の一つにも代わろうと祈らない臆病は、「正法」と、それを弘める「人」への軽視と傲慢の証拠なのではあるまいか。


 最後に、真実なる、また、勇敢なる我が創価学会員の皆さまの「永遠なる幸福」と「永遠なる勝利」「永遠なる栄光」をよりお祈りし、本日の記のスピーチを終わらせていただく。長時間、本当にご労さま。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


“池田門下生”を乗るのであれば、の限りを尽くして師の正義を叫び、地の果てまで走り抜く行動が求められよう。


 金はやけば弥色まさり剣はとげば弥利(と)くなる法華経功徳はほむれば弥功徳まさる、二十八品は正(まさし)き事はわずかなり讃むる言こそ多く候へと食すべし(1242頁)


「人法ともに尊し」(856頁)なれば、最高の持経者を讃嘆することが、法の宣揚に通じる。しかもそれは、語るたび、動くたびに人間革命しゆくものでなくてはならない。そうであってこそ、言葉に深みが増し、説得力が生まれるのだ。“行学の実践なき者は国賊”と互いに戒め合いたい。


 折伏とは、結論すれば「俺のようになりたいだろう!」「俺と同じように生きたいだろう!」というの底からの叫びだ。「ならば、一緒に先生のもとで戦おう!」と民衆を糾合するところに広宣流布の真実の姿がある。


 会長勇退から間もなく27年目を迎える。この時にあって、我々は「杖の一つ」を我が身に受ける覚悟と祈りを開始しよう。残された師弟共戦の時間はあまりにも短い。

2006-04-20

二当らん杖には一は替わるべき事ぞかし


 大聖人は「弥三郎殿御返事」の中で、御自身が二十余年の間、生命(いのち)に及ぶ大を受けてきたのは、ひとえに日本国の一切の人々を救おうとってのことであると述べられ、次のように記されている。

「さればあらん人人は我等が為にと食すべし、若しを知り有る人人は二(ふたつ)当らん杖には一は替わるべき事ぞかし、さこそ無からめ還って怨をなしなんどせらるる事は得ず候」(1450頁)

 ――ゆえにある人々は(大聖人が一身に攻撃を受けていることは)「私達のためである」とわれるべきである。

 もし、「」を知り、ある人々であるならば、(大聖人が)2回、杖で打たれるなら、その内1回は代わって受けるべきではないか。

 そうしないどころか、かえって迫害を加えるなどというのは、まことに納得できないことである――。


 大聖人の御生涯は「少少のは・かずしらず大事の・四度なり」(200頁)――少々のは数え切れない。大は四度である――と仰せの通りの歩みであられた。

「数数見擯出(さくさくけんひんずい)」(たびたび擯出=追放=されること。伊豆、佐渡への流罪がこれに当たる)の経文をはじめ、法華経予言そのままの法、また法であられた。

 それも全て、日本の人々のためではないかと大聖人は仰せである。これほどの大慈悲で、これほど正法を弘め、これほど国にも民衆にも尽くした。にも関わらず、これほどの大である。

 人々はに報いるどころか、かえって迫害を加えてくる。もしも、少しでもある人であれば、大聖人のの、せめて「半分」は我が身に受けようとして当然ではないか、と。

 大聖人は決して嘆いておられたのではない。大聖人を守ろうとしない“なき人々”が、度を過ぎて謗法に陥ることを悲しまれてのお言葉であると拝される。

 また、門下として、この大聖人の御聖訓を拝する時、大聖人お一人にを全て押しつけて、そのまま、おめおめと生き、死んでいけるのか。それで恥ずかしくはないのか、成できるのか、との叱咤のおが胸に轟いてくるようにじられてならない。


 師弟は一体である。日興上人も伊豆へ、佐渡へと師とを共にされた。

 また、次元は異なるが、戸田先生牧口先生にお供して牢獄にまでも行かれた。しかも、そのことを謝さえされていた。弟子として、師のを代わって受けたいとの強き強き一と祈りが、そこにはあったに違いない。私もまた同じであった。

 この方程式、この師弟を貫く信は、現在もまた不変でなければならない。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 この御文を私はこの時、初めて知った。読んではいるはずだった。だが、に掛かってなかった。この一事だけでも、法上の師匠が必要なことは明らかだ。


 言葉は綴るまい。書き連ねるとあまりにも軽薄になってしまう。


 大聖人は御書の中で何度も何度も「数数見擯出」の経文を挙げられ、伊豆と佐渡への流罪によって、の境涯を証明された。


 先生は二度にわたって坊主どもから追放された。そして、“世界の創価学会”となった。第二次宗門問題が起こるのは、この一年後のこと。今にしてうと、法の原理に照らした予言のさえある。


 謝なきところに真の幸福はない。を知り、に報いる生き方こそ人間の王道だ。4.24を目前に控えた今、我が生命の不知を徹底的に打ち破ろう。

組織119番


 組織で解決できない問題を引き受けます。昔のことでも構いません。相談できる幹部がいない。また、相談しても幹部が動かない。こういったメールが多数寄せられているため、い切って窓口を設けることにしました。代弁、代筆でも結構です。ご連絡は以下のフォームから。

50万ヒット達成


 50万ヒット達成。より謝。


 学生部の部の拠点闘争に出席。「会長勇退」の話をする。10ほどの参加。真面目なのは結構だが、少々おとなし過ぎる。私がよろめくほど、ぶつかってきて欲しいというのが本音。さほど、年齢差はじないのだが、向こうから見れば、父親に近い年齢だ。それに気がついた時、軽いショックを覚えた(笑)。だってね、昭和54年には、まだ生まれてなかったって言うんだから。聞けば、皆、昭和60年代生まれ。わず「つい、この間じゃねえか……」とぼやいてしまった。

2006-04-19

漢字の発音


 以前、教用語の読み方について議論したことがありましたね。例えば十界は、「じゅっかい」「じっかい」どちらが正解?


 折角のQ&Aスレなので、これについてまとめておきます。


 漢字の発音は、「字音(漢字音)」と呼ばれています。本来の中国の読み方を「中国字音」、日本の読み方を「日本字音」と呼ばれている。こうした発音は言葉が変化するのと同様に、それぞれの時代によって変化しています。そうした背景もあって、日本字音には、「古音・呉音・漢音・唐音・宋音などの種類がある」とされています。


 現代も使われている教用語の発音は、呉音が中になっています。呉音は漢音より以前に伝わり、平安初期には中国・唐の長安の発音を漢音と称して「正音」とされ、呉音は「和音」と呼ばれていたようです。唐音は、漢音・宋音のどちらにも当てはまるようで、言葉は生き物の証でしょう。


 ですから、伝統や慣習に則り、あるいは重視して、教用語を呉音で発音してもいいわけですが、現代人にはまったく馴染みはありませんね。


 それ以上に問題なのは、鋏さんやfやんが指摘しているように、僧侶の専有物として教用語の発音も利用されていることでしょう。僧侶支配の道具にしていると言われても、現実社会と遊離し権威にすがる僧侶では致し方ない。


 聖教を「しょうきょう」としか認めない坊主ども。呉音なら「しょうぎょう」が正解なのにね(爆)。


【恋】 http://jiyunobosatu.org/


【「創価仏法研鑚掲示板」より転載】

『日蓮自伝考 人そしてこころざし』


日蓮伝再考(一) 伝説の長夜を照らす』の著者・山中講一郎氏の第二弾が明日、発売される。是非とも応援をお願いしたい。


日蓮自伝考―人、そしてこころざし

(水社)


 我がブロックの唱題会。85回目。前の白ゆり長と二人で。唱題を終えるや否や、「この間、地区婦人部長と喧嘩しちゃいました」と、堰(せき)を切ったように語り出した。取るに足らないことで怒鳴られたという。「地区婦人部長は○○さんにとって悪知識です。今は悪知識で構いません。でもね、これから善知識にしていきましょうよ」と話しておく。「私が必ず仇(かたき)はとりますから」とも(笑)。今日は御書を読まずに、「会長勇退」の話をする。


 昨夜、来なかったT2さんのところへ二度、足を運ぶ。昨日は5回行った。22:00過ぎには部屋の灯りが点いていた。勝負の時を逃さぬよう注が必要。

2006-04-18

開目抄


 されば日蓮法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし(202頁)


小野不一


「慈悲のすぐれたる」(202頁)とは、日蓮聖人が我々の凡智では像も及ばない不屈の大慈悲の御信を忍ばれ、父親の子供をうがごとく全人類を救済せんと、妙法という法理を示し遺されたことである。

「おそれをも・だいきぬべし」(202頁)とは普通、天台、伝教が大聖人に対して恐れを抱くという風に理解しがちであるが、第26世日寛上人は文段で「吾が祖、天台・伝教に対して恐れを懐(いだ)くの義なり。これ則ち天台・伝教に勝れたりという故なり」(『日寛上人文段集』124ページ)と釈されいる。すなわち「天台・伝教よりも勝れているということは、天台・伝教に対して恐れ多いことであるが」とのであり、先の「千万が一分」と同じく、謙遜のを示されたのである。

【ハワイでの第1回御書研鑚会 1981-01-19 ハワイ会館


 との指導を見つけたんですが、講義録の通解はどうなってるでしょうか?


おにゆり


 講義録の通解です。


 されば、日蓮法華経に対する智解は、天台・伝教に比べて、千万が一分もおよぶことはないけれども、を忍び慈悲の勝れている点では、像法の天台・伝教は末法日蓮に恐れをもいだくであろう。(283頁)


大勝利


 どちらも正解という事だといます(笑)。


 開目抄愚記(上)で


一、されば日蓮が等文。

 この下は三に功を顕して疑いを立て、広釈の本と為すなり。「千万が一分」等とは、一には卑下の、二には慈悲に対するが為なり。

一、を忍び慈悲のすぐれ等文。

 外に大を忍ぶは、内に慈悲の勝れたる故なり。顕戒論に云く「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と云云。また云云、愚案三八、御書二十三三十五。

一、をそれをも・いだきぬべし等文。 啓蒙に云く「天台・伝教も吾が祖に対しては恐れをも懐きぬ可きなり」と云云。今謂く、吾が祖、天台・伝教に大して恐れを懐くの義なり。これ則ち天台・伝教に勝れたりという故なり。


 となっています。


 謙遜して、1.「日蓮の智解は、天台・伝教に比べて、千万が一分も及ばない」ということは、2.「天台・伝教の慈悲は、日蓮に千万が一分も及ばない」という事であり、この1と2にそれぞれ「をそれをも・いだきぬべし」を続けるとして、1.「日蓮の智解は、天台・伝教に比べて、千万が一分も及ばないが、天台・伝教(といえど)も日蓮に(対して)恐れをいだくだろう」ということは、2.「天台・伝教の慈悲は、日蓮に千万が一分も及ばない、天台・伝教に対して恐れ多いことであるが」と同義を二重に読むことになります。2の方がより強調された釈といます。



 いくつか辞書を引いてみましたが、小学館の日本語大辞典がわかりやすかったので引用します。


古典語の接続助詞「ども」の上に形容詞已然形の語尾「けれ」がついて一語化したもの。活用語の終止形につく。

くだけたスタイルでは「けれど」「けども」「けど」ともなる】

《接続助詞》

1.予に反して対照的に異なる二つの事態を表す文を対比的に接続するのに用いる。

2.〈係助詞「も」のついた文節を上下に伴い〉

一つの事がらをたしかにそうだといったん認め、しかしさらにと、同類の事がらを対比的にあげるのに用いる。

3.ことわりを前置きとして述べ、話の導入とするのに用いる。

《終助詞》

【接続助詞の用法から転じたもの】

言い切る形を避けて表現を和らげ、相手の反応を待つ気持ちを表すのに用いる。


 日寛上人の解釈は、2または3になるとわれます。 通解は、1として解釈しているようですね。1と2の違いは、どちらも対比するための用法ですが、1では異なる事項の対比であり、2では同類の対比になるのだといます。


 どちらを用いるかは、文脈と文から汲み取るしかないといますが、私はまだそこまでしていません。


 該当箇所だけなら、通解通りかな?といますね。古文や国文学に詳しい人がいればいいのですがねぇ。



 この件についてはかつて開目抄愚記を拝読して日寛上人の境涯と論理展開に驚嘆したことがあります。観心本尊抄文段の「竹膜を隔つ」の解釈も驚嘆でしたが……。


 結論は大勝利さんのお考えに私も賛成です。素晴らしい論理だといます。その上で、いわゆる「啓蒙」とは、日寛上人がその内容を徹底的に破折し尽くされた、当時最も権威のあった大聖人の御書の解釈書だったことを付け加えたいといます。不受不施派の日講著で、権力者に迎合した身延派(一致派)的観点が強かった書物です。「教学は日寛上人の昔に帰れ」ですから、大勝利さんの「2の方がより強調」とのご主張をもっと「強調」して、「2こそが主」であると申し上げたい。


fやん


 鋏さんに賛成。大勝利さんのの説に一票。


 それゆえ、日蓮法華経の理解は、天台や伝教には千万分の一にも及ぶことは無いけれども、(日蓮の)を耐え忍ぶ力や慈悲の優れていることについては、(天台や伝教に)恐れ多い気持ちを抱いてしまう(ほど)に違いない。


 確か哲学大辞典の前書きか後書きか凡例かに読み方についての方針が書いてあっったようにいます。聖教新聞などはその方針を踏襲している模様。


【「創価仏法研鑚掲示板」より転載】

田原坂


 草創の幹部である沼川洋一さん(現・熊本県議)も、その場にはいなかったものの、その青春時代この「田原坂」(たばるざか)の歌と共にあった、と懐かしそうに述懐してくれた

 昭和43年11、池田会長が田原坂史跡を訪問した。この時、同行した沼川さんの記憶に鮮烈に残るのは、会長がこの歴史的舞台で語った、

広宣流布という戦いにおいては、どんな堅塁であっても、越さなくてはならない」

 との情熱溢れる一言であった。

 実は、沼川さんが会長からその言葉を聞くのはそれが二度目である。一度目は、昭和33年1116日の熊本支部結成の日のことであった。あの三角港上陸の日でもある。

 結成式直後、総務(※当時の池田先生の役職)は瀬野栄次郎支部長(前衆院議員)の狭い自宅を訪ね、「田原坂」の精神をズバリ指摘したのであった。現在、県総合婦人部長である玲子夫人もその場にいた。

「“越すに越されぬ 田原坂”。ここのところが大事なのです。広布の戦いは越せなかったら退転です。どんなことがあっても、たとえ一人になっても越すのです!」


《※は小野が記入》


【『人間の中へ vol.1』吉村元佑(第三文明社:絶版)1982-12-08発行】


関連リンク

青年よ、君は恥ずかしくないのか


 広宣流布に生き抜いた人の「生死」は、無上道の「生死」である。

 私は40年以上、世界中、数限りない人々の「死」の実相を見てきた。また、詳しく報告も受けてきた。

 その結論として、見事なる「生」は、見事なる「死」をもたらしているといえる。「死」に臨んで、ごまかしは一切きかない。厳しき総決算として現れてくる(席上、昨年亡くなった山川副会長、秋山元国際部長の素晴らしい遺言が紹介された)。

 皆さま方もご承知の通り、多くの先輩は、最後の最後まで立派に信根本に生き、模範の臨終の姿を示してくださっている。

 皆さま方も、「よき人生」を、そして、永遠の幸福へと連なる「素晴らしき生死」をと、私は願してやまない。


 かつて、「ドレフュス事件」の話をした。ユダヤ人であったフランスのドレフュス大尉が、軍部によってスパイ容疑を捏造され、流刑となる。当局は、反ユダヤ人情を利用し、ドレフュスを窮地に追い込んだ。

 その時、敢然と一人立ち上がったのが文豪エミール・ゾラ(1840-1902年)である。彼の作品『居酒屋』や『ナナ』は日本でもよく知られている。ゾラとドレフュス事件との関わりは今日は略させていただく。

 ある時、ゾラはこう呼びかけた。「青年よ、青年よ……」と。

 ――青年よ、青年よ、君は恥ずかしくはないか。正義の人が何の助けもなく、孤立無援で、卑劣な攻撃と戦っている時、それを黙って見ていて、青年よ、君は恥ずかしくないのか、と。

 血涙を流しながらの叫びとも私にはえる。

 ともあれ、「謙虚なる勇者」の正義を、身をもって助けようとしない「臆病な傲慢者(ごうまんしゃ)」であってはならない。それは、断じて法者の生き方ではないからである。


【第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 いよいよ指導の結論部分である。世界と時代の変化・混乱を見据えながら、“精神の大航海時代”を勝ち抜く急所を、我々は教わった。歴史は、ありとあらゆるものを淘汰(とうた)する。ただ平凡に、淡々と努力する程度のレベルで生き残ることはできない。では、いかなる姿勢、覚悟、一で臨まなければならないのか? 広宣流布という未聞の大を担う人物の魂は、どうあるべきなのか?


 信とは確信の異である。祈れば祈るほど、動けば動くほど確信は深まる。更に、同志の体験を聞き、人間革命の実証を見て、確信はより一層深まる。


 昔、ある乙女が、「信すれば、必ず幸せになれる。その証拠として、半眼半口の相で亡くなる」と学会員から聞かされた。女は、「本当かしら?」と疑問にい、確認することにした。それからというもの、学会員の葬儀があると聞くたびに火葬場へ走った。何度も足を運んだある日のこと。火葬場の職員からを掛けられた。「お宅は若いのに、しょっちゅう来ているね。本当に不議なんだが、お宅が来た時は“焼け具合”が全然違うんだ。“地獄火”という言葉があるけど、普段はね、そんなじで炎が猛り狂ったようになって、関節にたまったガスが抜けるたびに遺体が、生きてるように動くんだ。でもね、お嬢さんが来た時は、柔らかい炎が遺体を包み込むようになって、遺体も殆ど動かないんだよ。不議だ」と。若き乙女は、学会員の成死相と、この一言で入会を決した。この女が後年、北海道広布の功労者である緒方博愛(はくあい)さんの夫人となる。


 我々は幸運なことに正しい宗教と巡り会うことができた。後は、正しい実践をするかどうかである。


 ゾラの叫びが、怠惰な私の背中を鞭打つ。それは、師の言葉となって、更に激しく私の肺腑(はいふ)を貫く。


 ゾラは、一面識すらないドレフュス大尉を守るために、を台無しにし、人生を棒に振った。然るに、大ある師匠が迫害されている時に、我々は何をしたというのか? 


 言論問題、第一次・第二次宗門問題と大に遭い、戦ってこられたのは、先生ただお一人である。


 会長勇退の際、首脳幹部の一人は言った。「時の流れは逆らえません」と。それを今、批判するのは簡単だ。「知らなかった」と言うこともできる。その場に居合わせた幹部が、その発言を否定した形跡もない。かような幹部の後ろに連なっていたのが我々ではなかったか? 結果的に、指をくわえて何もしなかったのではないか?


 よくよく以下の指導を読んで頂きたい。

 学会は師匠を見放した。だが、それでも師匠は学会を見放さなかった。池田先生という稀有な師匠によって学会は救われた。これが、「会長勇退」の真実の歴史である。私は当時、高等部だったが、与同罪は免れないものと覚悟している。

波木井は、「はきり」か「はきい」か?


小野不一


 今日付の新聞(2006-04-18)で、波木井(はきい)となってますね。


 はきり(波木井)どのの事は(1151頁)


 と御書には書かれておりますが、これは、「り」と「い」を読み違えていたってことなんでしょうかね?



 小野さんの挙げられ御文以外に、「このはきゐは法にすぎて・かんじ候」(「兵衛志殿御返事」1098頁)との御文もあります。古い哲大には波木井の辞書的見出しとして「はきり」としながら、解説文の冒頭「『はきい』とも読む」とあります。「はぎり」「はぎい」でもよいといます。古文は濁点をつけませんから。


 私が未来部のころは「ハキリ」とか「ハギリ」という読みを聞いた覚えの方が強いのですけれど、まあ、どちらでもどうぞということなのでしょうか。


「大集経」も昔は「ダイシッキョウ」と読めと言われましたが、最近の教学関係のものには「ダイシュウキョウ」とルビがふってあったりします。「通解」も草創期は「ツウゲ」と読んだと母親が言っておりました。他にも随分あるといます。


 本筋と少しずれるようですみませんが、そうした草創期に言い慣(なら)わされてきた読みに、庶民をバカにした坊主たちの衒学(げんがく)的な臭味を、C作戦以降、私はじるようになってきています。


 最初は僧侶から教学を教えてもらったはずですから仕方なかったのでしょうけれど。法華講と乗る面々がネット上で振り回す用語にも、それを強くじます。


【「創価仏法研鑚掲示板」より転載】

すっぽかされる


 昨日のTさんに引き続き、今日も一勝負する予定だったが、結局、来なかった。約束はしていたのだが、「行けないかも知れない」とのことだった。連絡もなし。何となく、最近の私の動きに対して恐れを抱いているのだろう。私は一人、静かに唱題し、結論を出した。「断じて許さん」と(笑)。今は包容すべき時ではない。時を逸すれば人材育成はできないのだ。数日以内に断固たる態度で臨む予定。


 某幹部に指導を受けようと連絡をするも、今日は帰宅が遅いとのこと。


 私は元々敏過ぎる神経を持っているため実に細かいところがある。小さなことに、こだわるのだ。例えば家庭訪問の際は、まず家に上がることにこだわり、一緒に勤行をすることにこだわり、広布推進の行動にこだわる。私の中にたくさんのチェック項目があり、そこで勝負を繰り返しているのだ。家に上がれるにも関わらず、会合に出ない人がいるとすれば、そいつあこっちの問題だ。上がれるようにさえなれば、もうこっちのもんだよ。どうにでもできる。


 何が何でも、二人を同時に育てなければ、片一方が冷めた見方をするようになる。ここで私が踏ん張らないと、今日、約束を破った人物が成長する機会はしばらくの間、失われるだろう。こっちの肚は決まった。後はどういう場で、いかなる言葉をかけるかだ。

2006-04-17

爪上の土


 御書全集の中で、大聖人は23ページにわたって「爪上の土(そうじょうのど)」と書かれている。


 以下、検索結果――

 では、代表的な御文を。


 第一に受けき人身値い法なることを明さば、涅槃経三十三に云く「爾の時に世尊・地の少土を取つて之を爪上に置き迦葉に告げて言く、是の土多きや十方世界の地土多きや、迦葉菩薩に白(もう)して言く、世尊・爪上の土十方所有の土に比べず善男子・人有り身を捨てて還つて人身を得・三悪の身を捨てて人身を受くることを得・諸根完く具して中国に生れ正信を具足して能く道を修習し道を修習し已つて能く正道を修し正道を修し已つて能く解脱を得・解脱を得已つて能く涅槃に入るは爪上の土の如く、人身を捨て已つて三悪の身を得・三悪の身を捨てて三悪の身を得・諸根具せずして辺地に生じ邪倒の見を信じ邪道を修習し解脱常楽の涅槃を得ざるは十方界の所有の地土の如し」[已上経文]此の文は多く法門を集めて一具と為せり人身を捨てて還つて人身を受くるは爪上の土の如し人身を捨てて三悪道に堕るは十方の土の如し三悪の身を捨てて人身を受くるは爪上の土の如く三悪の身を捨てて三悪の身を得るは十方の土の如し人身を受くるは十方の土の如く人身を受けて六根欠けざるは爪上の土の如し人身を受けて六根を欠けざれども辺地に生ずるは十方の土の如く中国に生ずるは爪上の土の如し中国に生ずるは十方の土の如く法に値うは爪上の土の如し、又云く「一闡提と作らず善根を断ぜず是の如き等の涅槃の経典を信ずるは爪上の土の如し乃至・一闡提と作りて諸の善根を断じ是の経を信ぜざる者は十方界所有の地土の如し」[已上経文]此の文の如くんば法華涅槃を信ぜずして一闡提と作るは十方の土の如く法華涅槃を信ずるは爪上の土の如し・此の経文を見て弥涙押えし今日本国の諸人を見聞するに多分は権教を行ず設い身口は実教を行ずと雖もには亦権教を存ず。(63頁)


 講義録がないため適当な解説になるが、お許し願いたい。

  • 三悪道の身を捨て、善を修することによって人間として生まれてくることは爪上の土の如し。
  • 五体満足、あるいは覚器官が正常な状態で生まれてくるのは爪上の土の如し。
  • 法の中国に生まれるのは爪上の土の如し。
  • 法に巡り会うのは爪上の土の如し。
  • 法を信ずることは爪上の土の如し。

 このように五重の段階で、前者を「十方の土」として掘り下げている。それぞれの段階に深い味があることは言うまでもない。絶対的幸福への段階を説かれているようにもじる。


 更に大聖人は、もう一重踏み込まれて、「身はをちねどもをち」(1180頁)るケースを示されている。


 また、こういう御聖訓もある。


 而るに末代悪世には悪知識は大地微塵よりもをほく善知識爪上の土よりもすくなし(1468頁)


 道修行を全うすることが、どれほど困なことかが理解できよう。学会に入ったからといって、安することなかれ(笑)。この御文にある通り、善知識は確かに少ない。巷(ちまた)では絶滅の危機が囁かれている(笑)。


 でもね、求道を赤々と燃やせば必ず見つかる。信感応妙だから、全部、自分の側で決まる。本物のリーダーは少ないが、確かにいる。その善知識を手繰(たぐ)り寄せて、広布と信と師弟の何たるかを学ばなければ、自分が損をする。向こうからやって来るのを待ってはいけない。それでは、サンタクロースや白馬の王子様と変わりがないからだ。


 善知識とは端的にいえば、「彼が為に悪を除く」人の異である。


 結論するに、偉大なる師匠と巡り会ったこと自体が爪上の土である。これほどの福運はない。後は、師の指導を実践し、師をどこまで宣揚できるかが、我々に課せられた使命である。

家庭指導


 Tさんを訪ねる。ミニ座談会のため。「全く勉強してないんで、申しわけないんですが……」と断って、二人で座談会御書を研鑚。私はある決をもって臨んでいたので、踏み込んだ話をした。「Tさんが今まで活動してこなかったのは、客観的に言えば、Tさんに対して善知識がいなかったと言えます。ただ、もう一歩深く考えると、失礼な言い方になりますけど、Tさんが善知識を求めてなかったのかも知れません。それは、私が判断することではなく、Tさん自身が信の上で得する問題です」と、にこやかに言い切った。私を見つめる瞳が真剣。「組織の上下関係ではなく、Tさんと私がお互いに善知識にならなくっちゃいかん、ってことです」。既に60歳を過ぎている方だが、次のステップへの決をしっかりと確認できた。大収穫。


 続いて、Mさん宅を訪問。幹部の無い言動にを煮やし、「もう出番もないし、今後は太陽会の方で頑張ろうとっている。夜の会合は控えようと考えている」と情を吐露。高齢の副支部長である。「面白くない会合なんて出るこたあ、ありませんよ。私もそうしてますから」と笑いながら答えておいた。Mさんが愛してやまない画家の画集を見せて頂く。婦人部の件で夫人に少々言を述べる。

2006-04-16

勝たねば悲惨


 変転する慢のは醜い。それに対し、定まれる人の生死(しょうじ)は美しい。

 ある人が、ギリシャ映画の忘れい一シーンを語ってくれた。題は『旅芸人の記録』。ギリシャ現代史を象徴的に描いた作品である。

 灰色の雲の下、乾いた土を掘って、一人の青年の遺骸が埋められようとしていた。

 青年は第二次大戦中、祖国ギリシャを占領したナチス・ドイツと戦い、勝利した勇敢なゲリラの一人である。ところが、この英雄は戦後、反共的な新政府に追い回されることになる。

 つかまれば拷問。転向のサインをしなければ、死ぬまで、いたぶりが続く。

 ナチスとの戦いから数えて10年。遂に彼は捕らえられる。転向を拒否。

 祖国を救った勇者は、何と、その祖国の政府の手で処刑されてしまうのである。これ以上の悲劇もない。一体、誰のための、何のための戦いであったのか――。

 何事も、勝たねば悲惨である。強く、また強くあらねばならない。


 彼の遺体はボロ切れのようになって、家族に引き渡される。友人達が埋葬に立ち会った。

 荒涼たる原っぱ。暗い空。たった6人の寂しい葬儀――。遺体が埋められようとしたその時である。

 わず一人が「拍手」を送った。1人から2人へ、2人から3人、4人、5人へ……。皆の無言の拍手が勇者の上に、いつまでもいつまでも降り注いだ。

“友よ、君の「死」に、君の「生」に、僕達は熱き「拍手」を送る。それは、どんな優のドラマよりも荘厳な立派な劇であった”。

 彼らのいを、仮に言葉にすれば、このようなものであろうか。


 何の栄誉もない、寂しき埋葬であった。しかし、真実の同志の称賛の「拍手」に包まれた死は、いかなる華美、盛大な権勢家の葬儀よりも美しい。そこには真実の「人間としての勝利」があった。


【第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


旅芸人の記録』は見たことがない。何気なく引用された映画のエピソードだが、“会長勇退”の時の先生の姿とダブってならない。「宗門を救った勇者は、何と、その宗門の手で処刑されてしまうのである」――。


 勇退後、師の下(もと)に馳せ参じた門下生はあまりにも少なかった。最高幹部が傍観する中で、先生は文字通り「ボロ切れ」のようになりながらも、一軒、また一軒と功労者宅を訪ね、無の青年を激励し、末端の会員と対話を積み重ねてこられた。


 創立50周年(1980年)は壊滅状態だった。学会本部には先生の居場所もなかった。聖教新聞からも先生の姿は消えた。坊主の言いなりとなった首脳陣が、師弟の寸断に手を貸した。だがそれでも、先生の全国への転戦はやむことがなかった。


 暗雲を突き破ったのは、「紅の歌」(1981年11)と、長編詩「青年よ 二十一世紀の広布の山を登れ」(1981年1210日)だった。反転攻勢を開始されたのは東京ではなかった。四国1981年118〜14日)であり、九州1981年128〜15日)であり、秋田1982年110〜15日)だったのだ。


 1982年(昭和57年)の新年勤行会――先生は神奈川文化会館にいらっしゃった。師匠が本部で正を迎えないという異常さ。


 表立った会合に出席されるようになったのは、1983年頃からだと記憶している。1981年(昭和56年)、1982年(昭和57年)と「青年の年」が2年続き、それから、全国各地で文化祭が行われた。会長勇退以降の暗いムードを払拭したのは、創立55周年(1985年)だった。そこから、創立60周年(1990年)にかけて青年部を完璧に仕上げ、第二次宗門問題へと突入したのだ。


「七つの鐘」――戸田先生亡き後、悲嘆に打ちひしがれる全会員に希望を与えた指標は、“会長勇退”をもって幕を閉じた。弟子が師匠を裏切った歴史として、永久に刻印されるであろう。


 今年もまた巡り来る424日――この日をいかなる信の決と闘争で迎えるのか。我々が、些事(さじ)に追われる日々の延長の中で、この日を迎えるようなことがあれば、またぞろ、同じ轍(てつ)を踏むことになるだろう。して、成長して、勝って、この日を迎えたい。

「たしかなこと」


 小田和正の歌が流れる「明治安田生命のCM」動するのは、生老病死を越えた“人と人との絆”を描いているためだろう。曲は、アルバム『そうかな』に収録されている「たしかなこと」。

2006-04-15

師への裏切りから地獄の境涯に


 スバッタにとって、師の慈愛の導きも、ただの「束縛」にしかじなかった。要するに、わがままに好きなことがしたかった。既にの根は腐り、堕ちていた。

 堕落した彼には、師が教える「正法」への従順など、実は面倒この上ないことであった。厳しく正義を説く師の存在も、の奥ではうとましい限りにっていた。

そこで釈尊を「独裁者」のように批判した。すなわち、「法」の支配が嫌なあまり、それを「人」の支配であるかのようにすり替え、中傷したのである。

 それほど嫌ならば、やめればよいものを、釈尊が健在の時は言い出せない。ここに臆病の本がある。

 そして、釈尊が死ねば、もう怖いものはない。“さあ、やっと自由になれた!”。彼は卑しく喜んだが、その自由は、成への厳しき軌道から完全に脱線した。“無軌道の自由”であった。

 否、“地獄への軌道”をまっしぐらに下降していた。そのことに気づかないほど、慢という生命の毒は、人を狂わせる。

 ともあれ、釈尊のいる時といない時とで態度を変えてゆく。状況に左右される。それが、「法」を中としていない「慢」の生命なのである。


 釈尊の時代でさえ、人のはかくも恐ろしい。末法の今、少々の悪人が出ることも、ある味で当然かもしれない。

 私どもは、その本を見破り、将来にわたって絶対に悪のうままにさせない力を持たねばならない。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 先生の命を狙った事件があったことを、我々は絶対に忘れてはならない。

 その後、藤原行正は暴力団に金を払えず、逆に自分の命が狙われる羽目となり、国内を逃げ回った。オウム真理教は、司法によって厳しい断罪がなされたのはご存じの通りである。これぞ、還著於本人


 これからも、「先生さえいなければ、自分がい通りに創価学会を動かせる」と猛々しい妄を抱く人物が出てくることだろう。今はおとなしく、猫がネズミを窺うように、目を細めて機を狙っているに違いない。


 どんなに人柄がよくても、悪を見抜けないと幸せにはなれない。我々は、“いい人”であると同時に、“賢い人”、“強い人”でなけばならない。


 悪党は、その根が必ず諸法実相となって現れる。私の父が支部長の時、“御書を畳の上に直接置いた”という一点で、「原島教学部長はおかしい」と見破った。見る人が見れば、わかるものだ。


 官僚主義に毒された幹部を悠々と見下ろしながら、抑えても抑えきれない民衆の歓喜を爆発させてゆこう。

私見:三類の強敵


 現代において、三類の強敵を呼び現したのは、ただ先生お一人である。広布の伸展・布石と併せてメモしておく。

 世界との対話を開始。創価教育の開始。組織の地域化。

 アジアへの楔を打つ。

    • クレムリンにてゴルバチョフ大統領と初会見。席上、ゴ大統領が明年の来日を表明。(1990年727日)
    • ベルリンの壁が崩壊し、東西ドイツが統一される。(1990年103日)
    • 初来日したゴルバチョフ大統領と会見。(1991年428日)

 世界宗教へと飛躍。

「創価スピリット」が1000部に


創価スピリット」の発行部数が、本日をもって1000部を突破した。2003年1225日に発行して以来、実に多くの方々より励まされて、何とか続けることができた。より謝申し上げる。今後も更に力を入れて、「無限の智」ともいうべき先生の指導を発信し続けて参りたい。

2006-04-14

師亡き後で変節


「法」にのっとり、「法」に従うことを嫌がるわがままな修行者は、いつの世にもいた。釈尊の時代も同じであった。

 釈尊が入滅した時である。スバッタという修行者は、その死を聞いて喜び、他の嘆き悲しむ弟子達にこう言ったという。

「やめなさい、友よ。悲しむな。嘆くな。われらはかの偉大な修行者からうまく解放された。〈このことはしてもよい。このことはしてはならない〉といって、われわれは悩まされていたが、今これからは、われわれは何でもやりたいことをしよう。またやりたくないことをしないようにしよう」(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元訳、岩波文庫)と。

 まことに人のは恐ろしい。この時、彼のあまりの暴言は人々を不快にし、経典に記録された。そして現代にまで伝えられ、当時の人間模様を生々しく証言している。

「正法」が永遠であれば、正法に敵対した「悪の言」も永久に伝えられる。そして時が経てば経つほど、その醜い根を後世の人々にさらし、正義の人が、正義ゆえに耐えねばならなかったの大きさを物語る確たる「証拠」となっていくのである。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 スバッタは、「須跋陀」か?」


 師亡き後、必ず変節する輩が出てくる。五老僧の如し。戸田先生が逝去された時も、次期会長の座を狙っていた人物がいた。広布第二章の途中でいなくなったけど(笑)。会長勇退の時も、先生を引っ込めようと躍起になった幹部がいたのだ。まして、創価学会がこれほど大きくなった今、虎視眈々とチャンスを窺っているような人物も、学会本部にいることだろう。“その時”が来れば、いつでも前を挙げて糾弾してやるよ(ニヤリ)。


 先日、「53日へ 私の希望」と題した高柳婦人部長の寄稿が掲載された。


 女には一途な純粋さがあります。それに比べ、典でも、御書を拝しても、男は、時に野や権力欲に結びつきやすい。師弟を引き裂こうとするがつけいりがちです。

聖教新聞 2006-04-13付】


 読んだ瞬間、「高柳、てめえ、なめたこと書いてんじゃねえぞ、コラ! “退転するのは女が先”と、相場は決まってるんだよ!」とったが(笑)、そうではない。ここに、先生の呼吸があるのだ。


 戸田先生の『人間革命』にこうある。


 嫉妬は女ばかりだとったら大間違いだ。男にも嫉妬がある。女の嫉妬はせいぜい家庭を壊すくらいだが、男の嫉妬は世の中を誤らせることが多い。嫉妬という字に、男偏があってもいいんだ。


 つまり、「男疾 男石」という文字になろうか(笑)。


 嫉妬が人を狂わせる。シェイクスピアは「緑の目をした怪物」といい、イギリスの詩人ドライデンは「魂の黄疸(おうだん)」と表現した。


 将来、学会が分裂するような事態になったら、何をどのように判断すればいいのか? さしたる情報もない中で、末端にいる我々は正しい判断をし得るのか? あの、昭和54年の会長勇退の時のように、またしても我々は弱い立場に甘んじて、沈黙を保つのか?


 悪を見抜くには、どうすればよいのか? 徹底した教学の研鑚と、スピーチを学び抜くしかない。大聖人と先生の“”を知ること以外に、その方途はないのだ。更に、広布最前線で必死の闘争を繰り広げる中でしか培われない“覚”、“嗅覚”を磨き抜くことだ。そうすれば、いかなる立場であろうとも、必ず正邪を峻別できる。


「幹部だから」というだけで尊敬してしまうような面々は、五老僧の後についてゆく結果となろう。


 今、我々に課せられているのは、“一人の弟子”として、どう生きるかである。社会において、組織において、“俺は、池田門下生だぞ!”という叫びが全身に脈打っているかどうかである。

『新・人間革命』


 今日付の『新・人間革命』は読んだ? いやあ、呼吸が合ってきてますなあ。こういう痺れるタイミングが、年に5〜6回ほどある。昔はもっと多かったのだが(笑)。


 座談会は、まさに民衆相互の、魂の触発の場といってよい。それだけに広宣流布の最も重要な主戦場なのである。

 伸一は、その座談会の充実に最大の力を注ごうと、を砕き続けた。

 そして、「座談会について」と題して、婦人部幹部、青年部幹部と語り合い、その語らいが聖教新聞の新年号から3回にわたって連載されたのである。

 このなかで伸一は、信仰の深化は生命対生命の交流、すなわち「感応の妙」によってなされ、その場こそが座談会であることを強調していた。

 また、学会活動を川の流れに例え、友好活動や個人指導が“支流”であるとするなら、座談会は“大河”であり、すべては、ここに合流していかなくてはならないと訴えている。


【『新・人間革命』「飛躍」4/聖教新聞 2006-04-14付】

2006-04-13

私見:舎衛の三億


 先日、「お知らせ」で創価データベースへの参加を呼びかけた。直ぐさま、3の応募があった。アクセス数の平均を1000とすれば、0.3%の反応である。


 営の世界でよく言われることだが、販促チラシの反響は1000件に配って3件と言われる。ってえこたあ、ドンピシャリ(笑)。つまり、無機質な情報によって動く人は0.3%しかいないということになろう。


 では、直接、呼びかけた場合はどうなるか? 私が一人ひとりにメールを出してお願いすれば、3%ぐらいにはなるかも知れない。


 何が言いたいかといえば、折伏や家庭指導において、満足のゆく結果が得られるのは、3%ぐらいではないかということ。100人と対話して3人、100軒回って3軒、あるいは、100回通って相手が立ち上がる。まあ、そんなところだろう。


 舎衛の三億とは3分の1の原理だから、中々大変である(笑)。結局、3分の1の生命力で、全体を引っ張ってゆけることを示したものだ。


 学会員はともすると、国民の3分の1と考えがちだ。だがその前に、我が組織の3分の1を活動家にすることが求められよう。3分の1は常に動いている。3分の1は話ができる。3分の1は厳しい。ここまで、持ってゆけるかどうかである。


 そう考えると、打ち出しだけで動く人は0.3%(笑)。しっかりと話をしていけば3%となる。で、広宣流布を呼びかける人が10人いれば33%となる。


 一家で考えれば、3人家族の内、一人が信強盛で、一人は未入会だが理解はある、一人は猛反対。これでいいのだ。


 一年の内、3分の1だけ勤行している。そりゃ、駄目だよ(笑)。


 私が青年部の頃は、目標を立てる際、入決3に対して折伏1世帯と考えてきた。で、入決1に対して折伏現場(幹部が入る)3。折伏現場1に対して法対話が3。これは、ある程度の目安にはなるだろう。整理すると、折伏1世帯を決めるには、入決3=折伏現場9=法対話27、となる。


 昔、ある先輩がこう語った。「幹部の比率も、本部職員・自営サラリーマンが3分の1ずつというのが理的だ」と。確かに頷ける。


 舎衛の三億を企に当てはめると、会社に忠誠を尽くし猛烈に働く人、そこそこ真面目な人、デタラメ社員。これが3分の1ずついればいいということになる。


 いかなる団体にも当てはまりそうな原理・原則ですな。凄い!

2006-04-12

大慢のものは敵に随う


 来るべき21世紀の「精神の大航海時代」。私は学会こそ、その新世紀の王者であると確信している。

 その希望の出発に当たり、軌道を誤らぬため、大切な一点を本日は確認しておきたい。

 それは、「法」を根本に生きるか、自己中に生きるか、ということである。そして、何があっても、「法」を根本に生きる人こそ、真の勇者であるということである。


 よく「傲慢であってはならない」という。誰もがそうい、そう強調する。しかし、それでは実際には、どう“慢”を見極めるか。

 表面が謙譲そのものであっても、シェークスピアが言うように、その謙虚さが「野がその足場にする梯子(はしご)」(『ジュリアス・シーザー』)である場合もある。すなわち、悪い野を達成する足がかりとして、「謙虚な人物」との信用を得るための演技である。

 ――その場その場で、状況にうまくへつらう生き方。それが本当の「謙虚さ」なのかどうか。反対に、昂然と胸を張って、自己を貫く生き方。それは「高慢」と非されるべきなのかどうか。ここに重要な課題がある。


 大聖人は「撰時抄」に、こう仰せである。「大慢のものは敵に随う」(287頁)と。大慢のものは、いざという時には、敵にしたがってしまうとの御指南である。

状況が変化すると、それとともにが揺れる。が転ずる。それが不安定な「慢」の生命である。

 いつも、どちらにつこうか、どう動いた方が得か、そんなことばかり考えている。要するに「保身」の一である。

 自分を大事にし、よくしてくれるから、こっちについておこう。形勢が変わったから、今度はあっちへ行こう。そのように、落ち着きなく、常に自分の利害を中に“機”をうかがっている。「法」が根本ではなく、自分の「エゴ」が根本である。ここに慢の本質がある。

 これまでの退転者らも、皆「大慢のもの」であった。ゆえに、純粋な信の世界にいられなくなると、「敵に随う」姿を見せた。全て大聖人の仰せ通りの実相である。


 謙虚に「法」を中にする者の勇気、そして、傲慢に「自分」を中にする者の臆病――。

 ある人は言う。「佐渡御書」のあまりにも有な次の一節も、これら二つの正反対の生き方を対比されているとも拝せるのではないかと。そうとも言えるかも知れない。

「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人(かたうど)をなして智者を失はん時は師子王の如くなるをもてる者必ずになるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜むの強盛なるべしおごれる者は強敵に値ておそるる出来するなり」(957頁)と。

 御文の大をわかりやすく言えば、「悪王」すなわち悪しき“社会的権力”が、正法を破壊しようとする時、「邪法の僧」すなわち、よこしまな“宗教的権威”が味方し、連合軍をつくって、智者を亡き者にしようとする。智者とは正法を正しく弘め教えている者、すなわち日蓮大聖人であられる。

 その時に、師子王のようなを持って悪と戦う者は、必ずになる。例えば大聖人がそうであると。

 そして、「これは傲りから戦ったのではない。『正法を惜しむ』が強く盛んなためである。傲っている者は、強い敵にあえば、必ず恐れるが出てくる」と仰せである。


 この御文にお示しのごとく、権力と権威が連合軍を成して行う「迫害の構図」は、永遠に不変である。

 その時に、正法を惜しみ、広宣流布を第一義とするゆえに、敢然と「師子王」のようなで戦えるか否か。戦い抜けば必ず成できる。

 しかし、「法」を大切にわない傲慢の人は、臆病な「恐れる」が出てきて、逃げてしまうであろうと御指摘になっている。普段、威張っているような人間ほど、大事な時に一歩退(ひ)いてしまうものである。


 端的に結論すれば、こうも言えるかも知れない。すなわち、「傲慢」は「臆病」とセットになっている。そして、「謙虚さ」は「勇気」と表裏一体である。

 たとえ誰に傲慢とわれようと、「法」を中に生き、「広宣流布」を根本として生きる人は、常に変わらない。いざいという時は、いよいよ力が出る。

 反対に、「自分」を中にして、うまく泳いでいるだけの人は、正法の勢力が強く、自分に利用できる時には、そちらにつき、形勢が変わると敵方にさえついてしまう。


 こうした大聖人の教えを拝する時、最も偉い人とは誰か。それは何の地位も権威もなくとも、「正法」のため、「広宣流布」のために、現実に日夜行動している無の地涌の友である。学会の同志である。私は深く強く、そう確信する。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 指導の白眉をなす部分である。正宗分といってもいいだろう。“創価の遺誡置文”と私は受け止めている。


 この指導さえ肚(はら)に入っていれば、インチキ幹部に騙(だま)されることはない。


 今、一番多いのは“小市民的詐欺師”、“創価の木っ端役人”である(笑)。役職を演じているだけの小人物。力不足を“謙虚さ”と“人のよさ”で一生懸命補っている。個人折伏と家庭指導が手な連中だ。やたら、「頑張りましょう」とは言うが、「頑張ります」とは絶対言わない(笑)。


 これ以外には、“キャラクター勝負型”というのがある。一見すると個的で魅力あふれる面々だ。ところがどっこい、この手の幹部は、信ではなく、持って生まれたキャラクターで勝負している。つまり、タレントだ。脚光を浴びることが大好きで、地道な闘争を最も手とするタイプである。


「慢」とは不幸の根本原因である五毒(貪・瞋・癡・慢・疑)の一つ。他人と比較する中でしか、自分の価値を見出せない生命のこと。「自分の方が上だ」という勝他のに突き動かされている境涯である。


 続いて、慢ランキングを(笑)。


 1位 祈ってない。

 2位 動いてない。(個人折伏、家庭指導)

 3位 勉強してない。

 4位 指導を受けない。

 5位 人の見を聞かない、求めない。


 我々はともすると、語気の強さや、分不相応な話をにして、「増上慢め」などとじることが多い。しかし、法華経方便品で「上慢」と言われた5000人のメンバーは、会合の途中で帰ってしまった人々のことである。これは、折伏されても学会員の話にを傾けない人や、指導されても頑(かたく)なにを閉ざす人といえよう。


 仮令(たとい)強言なれども人をたすくれば実語軟語なるべし、設ひ軟語なれども人を損ずるは妄語強言なり、当世学匠等の法門は軟語実語と人人は食したれども皆強言妄語なり、の本たる法華経に背く故なるべし、日蓮申す者は無間地獄に堕つべし禅宗真言宗も又謬(あやまり)の宗なりなんど申し候は強言とは食すとも実語軟語なるべし(890頁)


 大聖人はここで、強言と軟語を対照させ、妄語と実語を示されている。イメージや印象による判断を破折し、相手を幸せにするかどうかの一点を鋭く見抜くよう御指南されている。


“法華の慢”に関しては、「法華取要抄」で紹介した御文以外では、「顕未来記」にある。


 我が言は大慢に似たれども記を扶け如来の実語を顕さんが為なり(507頁)


「法が中」なのか、それとも「自分が中」なのか。微妙な違いである。本人ですら自覚してない場合も多い。


 大慢の人物は、いざとなれば敵に従う。そうであれば、徹して敵と戦い、民衆をしめる一切の勢力と果敢に戦う人が、「法中」のリーダーであり、真実の謙虚の人といえよう。上の言いなりになっているのは30点。

「吉田松陰シリーズ」を配信


 座談会の指導は、No.616で一旦終了。その後、予定を変更して、吉田松陰シリーズを配信する。会長勇退の歴史を再度、確認するのが目的。

2006-04-11

封建主義が権威に隷属する精神性を形成


 ところで、アジアを支配した封建主義や、南米に見られた神君主義は、人々の精神を、いわば骨抜きにしていった。つまり、人々は命令されたり、服従することに慣れきってしまったのである。そこに、ヨーロッパ人という“新しい主人”が侵入し、それに簡単に仕えてしまった精神的土壌があった。容易に奴隷にされたのである。

 また、そこには「仕方がない」という宿命論の網にとらわれた悲しい、弱いがあった。

 一方、ヨーロッパの人々には、ルネサンス(人間復興、文芸復興)を通して鍛えられた「個人主義」と「自立せる志」があった。人間を抑圧する勢力と戦い、自らの信に生きる「強さ」を持っていた。それによって培われた「何としても行くのだ。勝つのだ」という「志」が、アジアや南米の人々に瀰漫(びまん)していた「あきらめ」のに打ち勝った。これが、“大航海時代”の精神の一断面であったといえよう。

 社会的権威や権力に媚びへつらったり、従順であることだけが、決して正しい信仰者の生き方ではない。それらと妥協せず、真実の人間の生き方を求めて戦ってゆくのが信仰の精神である。


【第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 今、私の一番言いたいことが、これ。


 我々は日顕宗に勝った。完璧に勝った。だが、凋落(ちょうらく)したとはいえ、日顕宗がなくなったわけではない。


 我々に求められているのは、“悪の根”を絶つ闘争と、悪を許さぬ精神である。つまり、外に向かっては日顕宗の邪悪を説き、内にあっては官僚主義の幹部を諌(いさ)める実践が必要。


 まだまだ、幹部が威張っている。信ではなく、役職で勝負しているのが山ほどいる。自ら広宣流布の先頭に立つこともなく、組織目標を末端にやらせようとしているだけの連中が多過ぎる。


 幹部の仕事は、会員に「何かをやらせる」ことではなく、一人ひとりに「功徳を受けさせる」ことだ。そんなことすら、見失っている愚か者ばかりだ。愚将に率いられた民衆は必ず無気力になる。挙げ句の果てには、“羊千匹グループ”と化す。羊は、可もなく不可もない位置をキープすることが信の目的となる。


 官僚主義は、仕事をしない幹部と沈黙を保つ人々が境地冥合して形成される。ロクデナシと傍観者が奏でるハーモニーなのだ(笑)。


 信仰の目的は、“魂の自由”の獲得にある。


 個人であろうとすること、それが最深の、また最高のである。


【『人生論ノート三木清(新潮文庫)】


 初めて目にした時から、私のに突き刺さったまま、離れない言葉の一つ。自由と自立を結んだ強靭な精神が光っている。成とは、「本当の自分になる」ことだ。そうであれば、この言葉を体現するのが地涌の菩薩の本領だとう。役職でもなく、組織でもない。裸の自分で勝負できる人物が、今ほど求められている時はない。


 先日、NHKで“夜回り先生”こと、水谷修氏のドキュメントが放映されていた。薬物やリストカットで悩む子供達を守っている人物だ。自らがリンパ腫に冒されてからは教壇を下りて、全国各地で講演を行い、メールや電話で相談を受けている。


 彼の下(もと)に来た電話の最年少は、小学4年生の男児だそうだ。「僕、これから、死ぬんだ」と――。


 児童の話によれば――学校では毎日、いじめに遭っている。なぜなら、両親がパチンコに興じ、洗濯もしなければ、風呂にも入れてくれないからだ。悪臭を放つ彼は格好のいじめの対象となった。それどころか、パチンコで負けるたびに、両親からも虐待されていた。憂さ晴らしのために、両親は子供の尻に煙草の火を押しつけた。「かちかち山」と言われると、幼い子は黙ってズボンを下げた。


 リストカットは小学1年から行ってきた。それでも耐えることができず、少年は寝る前に、紐(ひも)でい切り自分の首を絞めて、識が朦朧となってから、やっと眠ることができたという。


 自殺い立ったのは、先生の一言だった。あまりにも、いじめが酷いので、先生に直訴した。「だけど、いじめられる方にだって原因があるんだぞ。お母さんに頼んで、週に2回ぐらいは風呂に入れてもらえ」――その一言で、少年は生きる望みを失った。


 水谷氏は問いかけた。「君が信頼できる大人はいないか?」と。少年は弾んだで答えた。「いるよ! それはね、ばあちゃん先生って言うんだ。校長先生なんだけど、毎、校門の前で皆の頭を撫でてくれるんだよ。こんな臭い僕の頭も撫でてくれるんだ」。


 水谷氏は少年を説得する。「とにかく、今日は死んじゃいけない。明日、ばあちゃん先生に全部話して、それからもう一度、校長室から電話をして欲しい。君の決が明日になっても変わらないようだったら、水谷は決して止めないから」と。


 翌日、再び電話があった。「ばあちゃん先生に全部、話したよ」と。ばあちゃん先生は、受話器を握る少年を抱きしめながら泣いていた。ばあちゃん先生に水谷氏は語った。「少年は親から虐待されてます。絶対に家には帰さないで下さい。今直ぐ、児童相談所に預けてほしい。警察の方へは水谷から連絡をします」と。


 生まれてから、まだ10年しか経たない子供の命は守られた。


 しかし、ばあちゃん先生は、水谷氏の指示に従わなかった。児童相談所へ連絡をしなかったのだ。


 ばあちゃん先生は、水谷氏と話したその日の内に辞職願いを出し、自分で子供を引き取ったという。少年は今も、ばあちゃん先生と暮らしているそうだ。


 教育に懸ける本物の情熱が、安閑と校長の椅子に座ることを拒否したのだ。


個人であろうとすること」とは、こういうことなのだとう。

敵を見抜く鋭い目を持て


 そのことでい起こすのは、戸田先生がよく言われていたことである。

学会ほど純粋で、人のよいところはない。これほどの価値ある、素晴らしい団体はない。反面、悪い人間にとって、これほど利用できるところもないだろう。いわば獲物を狙う獣の前に置かれた新鮮な鯛(たい)のようなものだ。必ずこの学会を利用し、食い物にする者が出るだろう”と。

 その言葉通り、これまでも学会を利用し、餌食(えじき)にしようとする働きは幾度となくあった。それはまた、皆さま方がよくご存じの通りである。

 大聖人は、「かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ」(931頁)――敵を知らないと、敵にだまされてしまう――と仰せである。

 敵を見抜く鋭い目を持たねばならない。そして、「悪」という敵とは、どこまでも戦い抜くを失ってはならない。それがなくなると、知らず知らず、「」に蹂躙(じゅうりん)され、「悪」に食い破られてしまう。


【第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 この頃から何度も何度も繰り返し指導された内容である。会長勇退から丁度10年が経過していた。当時、何とはなしに、「またぞろ、悪い幹部が出てくるのかな」というような、漠然としたいを抱いていた。


 私は、1987年に上京して以来、ありとあらゆる人に「会長勇退」の話を質問してきた。大半の人は何も知らなかった。少し知っている方ですら、「学会にも行き過ぎがあった。模刻本尊が、動かしようのない証拠だ」という程度の認識だった。


 夫れ賢人は安きに居て危きを歎き佞人は危きに居て安きを歎く(969頁)


 先生の指導は、平時において戦時に備えるものだった。我々が指導の味に気づいたのは、1990年1227日だった。その時、「悪を見抜き、悪と徹底して戦う」という精神は、既に青年部の背骨と化していた。


 我々に本当の信を教えて下さったのは先生だった。幹部ではなかった。大体、会長勇退の時の悔しさを語った幹部は、一人として見たことがなかった。その味で幹部は、昭和54年と何も変わってなかった。


 私が20代、30代を江東の地で過ごしたのは、幸運としか言いようがない。江東男子部は昭和55年から折伏戦において9年連続全国制覇。自分達の決で反転攻勢の狼煙(のろし)を上げた。そこに脈々と流れる精神と伝統を、我が血肉としながら、一歩も退(ひ)くことなく結果を出し続けた。会長勇退について、幹部が沈黙を保っている中で、江東男子部は結果をもって「魂の借り」を返してきたのだ。“仇討ち”こそ、江東男子部の血脈であった。


 今頃になって、寝言のような幹部の手記が聖教に掲載されている。全くもって笑いが止まらないよ。藤原関西長と、四国の久米副会長以外の話は鵜呑みにしない方がよろしい。

水谷修氏の番組


 水谷修氏の番組(「封建主義が権威に隷属する精神性を形成」にて紹介)は、少女から掛かってきた電話で締めくくられていた。「先生、私、本当に生きてるだけでいいの?」――。


 まだ、10代の少女の震えるようなに、私は衝撃を受けた。生まれてから、たかだか十数年で、生と死の間を彷徨(さまよ)う少女がいる現実。彼女が見た闇は、どれほど深かったのだろう。無気力の奈落から、一本の蜘蛛(くも)の糸を辿るようにして、掛けられた電話。どうして、見知らぬ他人に救いを求めなければならなかったのか。親にも、友達にも打ち明けられぬ。本当だったら死んでしまいたい。だが、水谷氏からのメッセージは彼女に届いていた。


「そうだよ」と答えてくれる人が一人でもいれば、人は生きていけるのだ。

2006-04-10

歴史の空白


 創価学会の歴史に実は空白期間がある。それは、昭和54年(1979年)1〜55年(1980年)3までの期間だ。この間の池田先生の指導は存在しない。「三代会長を永遠の指導者」と位置づけておきながら、こうしたことが不問に付されているのは、断じておかしい。ま、いくら私が叫んだところで、聖教新聞社は動かないだろうから(笑)、この期間の指導、あるいは記事をお持ちの方は、是非とも小野にお譲り願いたい。あるいは、貸して下され。


 先生の足跡をざっと記しておく。


昭和54年(1979年)


01 『大白蓮華』1号に年頭所

01-01 新年勤行会(学会本部)

01-02 静岡指導(〜4日)

01-05 東京支部長会(立川文化会館

01-06 ルーマニアのラデュ・イオアン・ボグダン駐日大使と会談(立川文化会館

01-08 静岡県婦人部ブロック担当員勤行会(創価文化会館

01-09 東北指導(〜16日)

01-19 第232回1本部幹部会川崎文化会館

01-20 オックスフォード大学のブライアン・R・ウィルソン社会学教授と会談(国際友好会館

01-23 インドのアビタール・シン駐日大使と会談(聖教新聞社)

01-30 第13回東京支部長会(立川文化会館

02-01 九州幹部会(九州研修道場

02 『大白蓮華』に巻頭言

02-03 鹿児島空港よりインド訪問の旅へ出発(〜20日)

02-23 千葉指導(〜24日)

02-27 神奈川・藤沢支部結成16周年記勤行会(湘南文化会館

02-28 小田原文化会館開館記勤行会

03 『大白蓮華』に巻頭言

03-03 東京創価小学校の第1回児童祭に出席

03-04 小学生文化新聞に『雪国の王子さま』を寄稿

03-09 インドのネルー大学アジア・アフリカ言語研究所のS・B・バルマ日本語助教授-会談(聖教新聞社)

03-12 東京・中の区の山支部都5大Bの協議会に出席

03-15 東京・府中市の本町支部梅三大Bの座談会に出席

03-16 創価学園の第9回卒式に出席

03-18 創価大学第5回卒式に出席

03-19 多摩川圏代表幹部会(桜ヶ丘文化会館

03-23 インド大使公邸を訪問。アビタール・シン駐日大使と会談

03-30 新宿文化会館開館1周年記勤行会

04 『大白蓮華』に巻頭言

04-07 創価大学を訪問した中華全国青年連合会代表団を歓迎

04-09 創価大学第9回入学式に出席

04-12 来日中のトウ穎超(とうえいちょう)女史と会談(港区・迎賓館

04-14 神奈川文化会館開館記勤行会に出席

04-16 ヘンリー・A・キッシンジャー博士と会談(国際友好開館)

04-24 聖教新聞に所「『七つの鐘』終了にあたって」を掲載

04-25 聖教新聞に「全国の会員の皆様へ」との挨拶を掲載

04-26 日達上人に法華講総講頭の辞表を提出

05-03 「七つの鐘」総仕上げ記幹部会に出席(創大体育館)

05-13 総本山大石寺に参詣。御開扉のあと、初代・二代会長の墓所に参詣

05-19 寥承志・中日友好協会会長と会談(千代田区・ホテルニューオータニ)

05-22 ソ連・ノーボスツイ通信社のユーリ・V・ゾディエフ国際部長、ウラディスラフ・I・ドナエフ論説委員、並びにソ連大使館のクズネツォフ参事官と会談(神奈川文化会館

05-25 ザンビアのM・K・チーフ・マパンザ駐日大使と会談(聖教新聞社)

05-27 神奈川の9大学会の合同総会に出席

05-29 中国文芸会の周楊氏と会談(神奈川文化会館

06-15 ニュージーランドのR・M・ミラー駐日大使と会談(聖教新聞社)

06-25 ナイジェリアのB・A・T・バレワ駐日大使と会談(神奈川文化会館

07-03 ヒルダ・チェン・アブイ教授(コスタリカ大学)と会談(神奈川文化会館

07-05 ハーバード大学のエズラ・F・ヴォーゲル教授と会談(聖教新聞社)

07-13 インドの詩人クリシュナ・スリニバス博士と会談(神奈川文化会館

07-17 第8回滝山祭、第12回栄光祭に出席(創価大学)

07-18 ユーゴスラビアのセルモ・ハシンベゴヴィッチ駐日大使と会談(聖教新聞社)

07-19 ソ連訪日代表団一行(団長・フェドセーエフ対文連幹部会事務局長)と懇談(聖教新聞社)


【※これ以降に関しては、「創価クロニクル」に掲載してゆく予定】

東京国立博物館「最澄と天台の国宝」


 東京国立博物館へ「最澄と天台の国宝」を見にゆく。平安時代、鎌倉時代法華経写本の数々が、私でも読める文字で表記されていた。漢字文化の長遠な歴史に驚くばかり。像・具が多数、展示されていたが、所詮、権力の庇護(ひご)があった証拠であろう。私は、佐渡に流された大聖人わずにいられなかった。高貴な品物も確かに価値があろう。だが、の継承には遠く及ばない。悪鬼を踏みつけている四天王の頭に、私の足を乗っけてやろうかとったよ(笑)。

2006-04-09

「自己満足」に衰亡の因


 ところで、15〜16世紀の大航海時代に、なぜヨーロッパが歴史の主役となり得たのか。

 アラブや中国は当時、ヨーロッパより文化的にも栄えていた。ずっと優れた航海技術を持っていた。それなのになぜ、これらの文明先進国は、後進国のヨーロッパに後(おく)れをとったのか。

 色々な理由が挙げられるが、結論的にいえば、アラブ世界も、中国(当時は明国)も、物質的に満ち足りていた。ゆえに、それ以上、自己の世界を広げようとのいが弱かった。いわば、自己満足していた面があることを否定できない。

 そこに、「飢えたヨーロッパ」が襲いかかった。侵略、略奪である。善悪をいえば、もちろん、ヨーロッパが「悪」である。しかし、そう言って非したところで、奪われた人命も富も返ってはこない。所詮、敗北はどこまでいっても敗北である。

 以後、アジア、アフリカ、南米の民衆は、ヨーロッパの列強のために、長く悩の歳を送ることになってゆく。


 何事も、「自己満足」に陥り、「もう、これでいいだろう」とった時から、後退が始まる。その刹那から、かつての中国・明(みん)の一面のように進取の気を失い、保守化し、自分のカラに閉じこもってしまう。そこには新しい世界へと打って出る“勢い”がなくなる。ゆえに狂暴な力の前に餌食となり、蹂躙(じゅうりん)される結果となる。

 その味で、絶えざる“冒険”“挑戦”の一の姿勢が、鋭く敵を見抜き、敵を破るのである。その気概を失ってしまえば、もはや厳しい現実社会で生き残ることはできない。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 国家が衰退し、歴史の谷間に沈みゆくのも、「自己満足」という油断に起因しているとの指摘。


 日日につより給へすこしもたゆむあらばたよりをうべし(1190頁)


 この御聖訓が、個人にとどまることなく、あらゆる団体、地域、国家にまで及ぶという味になろう。一の変化が歴史の興亡盛衰を織り成す。


 中年期に陥りやすい傾向も全く同じ原因によるものだ(「40代」)。


 では、具体的な「絶えざる挑戦」とは何か? それは、いくつになろうとも新たな出会いを求めることと、日々学び続けることであろう。つまり、自分の生活の中から常に“新しい発見”がある限り、精神は衰えることがない。そして、“発見できた”という事実にこそ、人間革命の実証があるのだ。


 青年部を卒して真っ先にショックを受けるのは、壮年部が“惰の泥沼”と化していることだ(笑)。だがそこで、成長しない人々の間(はざま)に埋没してしまうか、その方々から何かを学んでいけるかは、人によって異なる。


 日本人には冒険が少ないのと同様、発明が少ないといわれる。発明は、現状を打開しようという欲の結晶だ。ところが、日本人の場合、忍耐を美徳とする伝統的価値があるため、必要以上に我慢し続ける羽目となる。そのため、現状に甘んじる結果となり、発明が生まれにくいというのである。


 煩悩即菩提とは、ある面からいえば、不満即成長と私は考える。環境に対して、自分自身に対して不満を持たなくなれば、新しい価値は絶対に生み出せない。なぜなら、“惰を破壊する”作なくして、創造の営みは実現しないからだ。ただし、不満の奴隷となってしまえば本末転倒である。


 冒険とは、いまだかつて自分が到達したことのない高みを目指す行為だ。道往く人々は皆、同じ姿で歩いている。しかし、どこを目指して、いかなる決がその一歩一歩に込められているか。ここで、人生の命運が分かれる。

2006-04-07

悪党は永久追放


 今日付の紙上座談会より――


 悪党は党の永久追放は、もちろんだ。学会も破門、永久追放で当然だ。これからも悪いやつがいたら、断固、追放してもらいたい。また追放していこうじゃないか。


 ま、口先だけなら、何とでも言えるわな。私が今、関わっている問題は、最高幹部も見て見ぬ振りを決め込んでるぞ(笑)。何も知らない青年部幹部は呑気(のんき)でいいね。羨ましい限り。

2006-04-06

衰亡の要因は急激な膨張に


 さて、話は戻るが、ポルトガルはこうして「海の覇者」「時代の勝者」となった。南米(ブラジル)からアジアまで広がる大帝国をつくり上げた。日本にも、いわゆる南蛮文化をもたらしている。

 しかし、その繁栄も長くは続かなかった。それは何が原因であったか。本日、私が申し上げたい焦点もここにある。その要因の一つを要約していえば、自らの国力を超えて、はるかに膨張し、拡大に走り過ぎたためだといわれる。

大航海時代を拡大すればするほど船員が必要となる。船員確保のために農民がどんどん転用され、航海用の食糧をつくる人手が足りなくなる。そのため、外国から食糧を買い入れなければならない。だが、足元を見られたりして、高い値をつけられる。そうした結果、貿易による利益よりも、費用の方が高くつくようになる。

 こうして航海に出れば出るほど赤字が膨(ふく)らむという悪循環に陥ってしまった。植民地の維持のために本国が疲弊するという事態をも招いた。

このことは、スペインも同様であった。ポルトガルとともに世界の海を二分していたスペインも、せっかく手に入れた「富」を蓄積して、自国の資本を育てるだけの基礎体力がなかった。そのため、後進のオランダに、また、イギリスに「海上の覇権」は移り、「富」は奪われていった。

 所詮、「富」も「権力」も無常である。

 ポルトガルもスペインも、繁栄を持続し、拡大する基礎体力を持っていなかった。そのため、世界への行動範囲が広がれば広がるほど、発展への対応をしくした。それが、自らの立場を危うくし、繁栄への歯車を逆回転させることになった。

 このことは、いかなる国、団体、組織にあっても、十分留しなければならないことである。

 学会もこれまでは発展に次ぐ発展であった。組織的にも伸びに伸びてきた。そこで私は、次への大いなる前進のために、今はもう一度、足元を固め、基礎体力を強くしておかねばならないとう。組織を十分に整備し、人材の育成・鍛錬に全力を挙げていかねばならないと深く決している。

 そうでないと、大聖人の御遺命である広宣流布を、どこまでも進め、拡大していく創価学会の使命が果せなくなってしまうからである。

 したがって、今は組織の発展を急ぐ必要はない。焦ってもならない。「人材」を、ともかく「人材」をつくることである。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 これは大事な部分。私は当時、本部高等部長をしていて、高等部員とも学び合ったい出がある。


 ライブドア社の凋落(ちょうらく)にも、相通じる要素があった。体力を上回る運動をすれば、倒れることは必定。


 高血圧などで臓に負荷がかかると、通常よりも強い力が求められ、筋が発達する。これが、心臓肥大


 一気にでき上がったものは、一気に崩れる。令法久住とは、末法永遠にわたる漸進主義だ。上昇志向だけでは必ず行き詰まる。前三後一とは、わずかな油断も許さぬ師子王の構えである。


 弘教と人材育成が相俟(ま)って進むところに、組織の発展がある。人材育成のホシは、教学を打ち込むことにある。これすなわち、行学の二道。広宣流布は横に十方と広がり、令法久住は縦に永遠と深化する。


 日顕問題の一年半前に、先生が「足元を固めよう」と言われた義は計り知れない。


 実は、会長勇退一年半前にも同様の指導がなされていた。第1回創価班総会(昭和52年16日)では、“創価灯”たれ、との指導があり、第208回2本部幹部会昭和52年220日)では、「第二陣、第三陣の人材群を育て、陸続と輩出させゆことを、私ども全幹部の最重要課題として取り組んでゆくことを、互いに銘記してゆきたい」との方針が示された。


 この頃、先生は軒並み、東京男子部の会合に出席されている。


 昭和52年の新年勤行会の指導(「学会の信心に無量の福運が」)をえば、山崎正友と坊主どもの策略は表立ったものとなっていたことだろう。正本堂建立から、わずか4年後のことである。旭日の勢いで発展し続ける創価学会に対して、坊主が嫉妬の炎を燃やしたことは、容易に像できる。


 そして、学会は坊主の前に膝を屈した。最高幹部は傍観し、東京男子部は手も足も出すことができなかった。戸田先生亡き後、全学会員を鼓舞した“七つの鐘”の指針は、会長勇退をもって幕を閉じた。弟子が師匠を裏切った痛恨の歴史である。


 先生は、新しい創価学会をつくるため、衛星中継によって直接、会員に向かって語りかけた。師弟の血脈は最前線にまで脈々と流れ通った。こうして、本物の池田門下生が育成された。正木副会長が言う「広布決着世代」とは、この世代のことだ。日顕は現代における平左衛門尉の役を担うこととなった。創価ルネサンスは、学会にとっての佐前佐後となった。


 更なる新時代となった今、人を育てられない幹部は邪だ。どけろ!

「冒険」とは「自己実現」であり「自己表現」


 歴史上のかつての“航海”は、むしろ多くの悲惨と争いをもたらした。悲しい、残酷な歴史であったといってよい。

 だが、私どもの旅は、反対に「平和」と「文化」を運びゆく大航海である。しかも、今や世界的視野に立って行動すべき段階に入った。

 そこで必要となるのは、若々しき「冒険」の魂である。「冒険」とは「自己実現」であり、「自己表現」である。

 自らの力がフルに発揮されるのも、もはや引き返す術(すべ)なき「冒険」での鍛えによる。そこには、「独創」がわき、「人格」が確立される。「動」が広がる。「団結」も生まれる――。

 これに対し現代日本は、“アンチ冒険”の官僚的発、体質が染みわたっているといわれる。しかし、それでは人生の深き価値が生まれない。

 また、「科学」も、この冒険のから生まれた。否、新しい世界はどこでも、若々しき未知への挑戦から突破口が開かれてきた。

 その味で、「平和の新世界」「広宣流布の新大陸」へと、青年諸君にこそ、私は勇気ある「新航海」の先駆をお願いしたいのである。

 日蓮聖人は「椎地四郎殿御書」にこう仰せである。

「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」(1448頁)

 ――迷(めいく)に満ちた人生の大海を渡るには、“妙法”の船でなければ不可能である――と。

 私達こそ、“妙法”の船に乗り、進む勇者である。その確信も深く、広布の航海者としての誉れある人生を、堂々と生き切ってゆきたい。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 冒険とは、「危険を冒(おか)す」ことの謂い。つまり、今までやったことがない、計算できない、リスクが高い、失敗する可能がある、等々の要素がある。


 日本人は農耕民族で、団体戦によって生き抜いてきた歴史がある。このため、皆と同じ平均が好まれ、「出る杭(くい)は打たれる」結果となる。右にならえで、「寄らば大樹の陰」、「長い物には巻かれろ」と強者に媚びる。ま、ジャイアンにくっついているスネ夫みたいなもんだな(笑)。


 村社会では余計な真似をすると嫌われる。優先されるのは正義ではなく、“村のしきたり”だ。閉ざされたコミュニティで、掟(おきて)に従わなければ村八分となる。火事と葬式の場合は村で面倒をみるので“八分”となっている。完全に除外しないところから、理ではなく情による判断であることが明白だ。


 こんな話がある。昔、ある山国に、並外れた跳躍力を持つ男がいた。高い塀でもひとっ跳び。現代に生まれていれば、オリンピック選手になったことだろう。村中の評判となり、大にも届く。やがては、将軍の知るところとなった。将軍は男を呼び寄せて、「やらせてみよ」と命ずる。用された柵の反対側には、たくさんの竹槍(たけやり)が埋め込まれていた。権力者にとって利用価値がなければ、高跳びでさえも危険視された。【『冒険と日本人』本多勝一(日文庫)による】


 村社会では新しいことをしようとすると、必ず反対される。若き先生が、軍楽隊(現在の音楽隊)や体育大会(後の文化祭)を提案した時、最高幹部である理事室は強く反対した。民音をつくる時も、ソ連を訪問する時も、反対した幹部がいた。いつの時代も、頭の古い抵抗勢力が存在した。


 学会組織も、中者次第で“村”みたいになってるところがあるね(笑)。後輩に見を求めない組織や、反対見を嫌う組織は、完璧な村ですぜ(ニヤリ)。


 そんな組織悪に負けてはならない。生命力を満々とたぎらせて、冒険に挑もう。青年ならば、岡本太郎の言葉を、よくよく噛みしめて欲しい。「可もなく不可もないのは不可」とされた牧口先生の精神を見失うな。

2006-04-05

新時代を開くのは青年の勇気


 彼は土産(みやげ)にバラの花などを採集して帰った。穏やかそのものである。それも当然、この岬が位置するのはカナリア諸島の約240km南。アフリカ全体の大きさから見れば、“航海学校”からでさえ、いかほども離れていなかった。

 ゆえに地理上の発見としては、ほとんど価値もないように見えた。しかし、それまでの「恐怖の岬」という「の境界線」「臆病の壁」を越えた。そこに決定的義があった。(ボジャドール岬に関するエピソードについては、前掲書を参照)

 遠洋航海に従事する「波濤会」の方からも、かつて同様の話をうかがったことがある。


 一人の勇者が壁を越えれば、あとは次々と続く。ついにアフリカ西海岸を踏破。やがてアフリカ南端「喜望峰」の発見(1488年)、インドへの新航路発見(1498年)と続く。

つまり、「大航海時代」とは、あの無の船乗りが、かの小さな岬をい切って越えた、その瞬間に本格的な幕を開けたのである。


 ともあれ、新しい時代を開くのは、常に青年の勇気である。誰を頼るのでもない。若き勇者が一人立つならば、いかなる困な道も切り開いていけるものだ。

 この後、マゼランの一行が世界一周に成功したのは1522年。王子の死から60年後、航海学校設立から100年後であった。えば、学会も創立60周年に過ぎない。戦後の再建からみれば、実質40年である。今、私は、創立100年、200年の確かな未来を目指している。そのための人材をいかに育てるか。広布という壮大な航海における課題もここにある。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 一人を手本として一切衆生平等なること是くの如し(564頁)


 一は万が母といへり(498頁)


 その一人となるのか、それとも、誰かの後ろにくっついてゆくのか。


 夜の山道を車で走ると、直ぐにわかることだが、別の車が前を走っていると、非常に楽だ。しかし、自分の車しかないと、見通しが悪いため、神経を集中させて、慎重な運転となる。後続は楽な分だけ、新たな発見が少ない。


 我々の戦いの目的は人間革命にある。だから、成果が目的になってしまうと、必ず行き詰まる。その結果として、人が育たなくなる。何のための目標か。目標を達成する中で、いかなる人材群をつくり上げるのか。長の一にその理があって、初めて強靭な団結が生まれる。「我が生命の新たな地平を開いた!」という一人ひとりの実こそ、本物の勝利だ。

5.3記念最高協議会


 いざという時に、その人の真価がわかる。

昭和54年424日。私が会長を辞任した時、驚きと怒りに燃えて、駆けつけた同志がいた。

「先生、会長を辞めないでください!」「どうして辞められるのですか!」「だれが辞めさせたのですか!」──その真剣な紅涙したたる叫びを、私は生涯、忘れることはできない。

 嵐の時こそ、師とともに殉じていこう!

 それこそ、真の弟子の道である。そこに魂の劇が光っていくものだ。

 正義なるがゆえに迫害される。これが歴史の常であった。人権の世紀、真の民主主義を築くためには、民衆が、もっと強く、もっと賢明にならなければならない。


東京牧口記会館

元祖デマ男 藤原弘達の正体(下)



原田男子部教学部長●ところで前回、「元祖デマ男」藤原弘達(ひろたつ)の話が出た。


高木男子部書記長●藤原の出した学会中傷の本が、どれだけデタラメだったか。

 何しろ藤原は、学会にただの一度も取材せずに出版した。しかも、自分は書かずに、学生のアルバイトにまとめさせた。この一点だけでも明々白々だ。


佐藤男子部長●藤原が本を出したのは、昭和44年1110日だ。これが、どういう時期だったか。

 3週間後の122日、衆議院が解散し、同27日には衆院選が行われた。


森山学生部長●選挙の直前のタイミングに出版したんだな。


原田●当時の新聞等を調べてみた。この年は早くから「衆院の解散が5か年末にある」と取り沙汰されていた。

 7には都議会議員選挙があった。だから、5の解散がなくなった時点で「解散は11の佐藤首相(当時)の訪米後」という見方が強まっていた。


高木●829日には、佐藤首相自身が「12解散」を示唆した。マスコミが一斉に報じ、一気に年末選挙のムードになった。


佐藤●当時の関係者の話によると、藤原の本は7に出版企画が煮詰まったという。831日には全国に広告を出した。


原田●首相が解散を示唆した翌々日に広告を打ち、解散の3週間前に出版した。衆院選への流れと完全に動きが一致している。


竹内青年部長●とうてい偶然とは考えられない。藤原が「選挙の時期」を狙ったことは、当時の記録からも明らかだ。


森山●大体、出版の2ヶ以上も前から、全国に広告を出すなんて、異例中の異例だ。


原田●しかも藤原は、この本を2年前にできたばかりの出版社から出した。当時は誰も知らない会社だった。


高木●そういうところを使わないと出せない代物だったんだよ。


佐藤●その通りだ。まともな本を、まともに売るつもりなら、の知れた出版社から出せばいい。

 実際、藤原は当時、講談社や読売新聞社などから何冊か本を出していた。


森山●それだけじゃない。藤原は「初版10万部で出版する」と触れ回っていた。

 本の初版は平均で約8000部と言われている。それが10万部だ。


竹内●無の出版社しか出せないデタラメ本を「初版で10万部」か。誰がどう見ても、まともな出版じゃない。


高木●当時、評論家の大宅(おおや)壮一氏が鋭く指摘していた。

「(藤原の本は)選挙のドサクサを利用し、お買い上げ的な効果を狙って出したという風に、第三者が解釈しても仕方のない一面を持っている」

「場合によっては恐喝の一歩手前という格を持ってくる」と斬り捨てていた。


原田●他のマスコミも見破っていた。

「藤原は、本をまともに売ろうとしたんじゃない。初めから『学会の買い取り』を狙ったんじゃないか」

「選挙前に『さあ出しますよ』と宣伝すれば、出回らないように学会が買い取ると踏んだんだろう」と指摘する専門家もいた。


森山●大宅氏は、藤原の本の内容についても一刀両断していた。

「安易なプロセスによって書き上げられている。きわめてぞんざいな方法である。これではキワモノ出版といわざるを得ない」とバッサリだ。


竹内●書かれた藤原は大慌(あわ)て。狂ったように大宅氏を中傷しだした。

 大宅氏の評論を載せた雑誌にまで「マスコミ界の内ゲバ(=仲間への攻撃)」などと噛みついた。


原田●よっぽど痛いところを突かれたんだな(笑い)。


佐藤●前回も話したが、本の広告が出た後、学会の代表が藤原に会いに行った。

“学会に関する本を出すなら、極端な決めつけではなく、きちんと取材もして、事実に基づいて書いて欲しい”

“また、そのために資料も提供するし、どこでも案内する”と要望した。


高木●ところが藤原は、最後まで一度も取材せずに本を出した。

 それどころか、学会に「買い上げ」の図などないと知るや突然、“言論弾圧だ”などと騒ぎ出した。


森山●なぜ、大騒ぎを始めたのか。自分の本を宣伝しようという魂胆が見え隠れしているな。


竹内●他でもない、藤原本人が“騒いだから売れた”と白状している。

 本の初版は10万部だったが、藤原は後で「騒ぎにならなかったら、3万か5万しか売れなかったろう」と漏らしていた。


原田●要するに、「売らんがため」「金儲けのため」じゃないか。


佐藤●藤原は裏で特定の政治家と根深く結びついていた。「権力の側」の人間だった。

 本が出た後、与党の大物政治家が“よくやった”“頑張ってくれ”と藤原を激励していた。有な話だ。


高木●それだけじゃない。藤原はこの本を宣伝するために、長年「不倶戴天(ふぐたいてん)の敵」だった共産党とも手を結んだ。


森山●その通りだ。当時、共産党は機関紙で毎日のように藤原の本を大宣伝した。誰が見ても、一番の“大スポンサー”だった。


竹内●藤原本人が“共産党は、あれだけ宣伝してくれた。何百万円、何千万円の宣伝費かもしれない”と謝していたほどだ。


原田●だが、その直前まで藤原は共産党について、どう言っていたか。

「(共産党の)やり方はまことに卑劣でありしかも陰険でさえある。ヤミ討ちとか背信などは当たり前のことで、しかも常にカゲにかくれて、同調者を操る」

「日共の現実を知れば知るほど、幻滅は大きく、むしろ嫌悪の情さえおぼえる」等々、完全にこき下ろしていた。


佐藤●ところが、本の宣伝をしてもらった途端、コロッと変わった。その同じ口で「共産党を見直した」「高く評価したい」「謝している」などと持ち上げ始めた。


高木●「まことに卑劣」「陰険」で「嫌悪」してきた相手を、いっぺんに「見直した」「高く評価」か。馬鹿馬鹿しい!


森山●同の評論家からも笑われていた。

「藤原の態度は、どう見ても異常」

「本を売りたいという焦りで『赤旗』を利用したのでは、商人の立場と変わりない」等々、馬鹿にされ抜いていた。


原田●とにかく藤原という男は、病的な「無節操」「無」で有だった。

 経営評論家の三鬼陽之助(みき ようのすけ)氏も語っていた。

「調子がいいんだ。中国の人と話しているときには『佐藤内閣絶対反対』てなことをいってて、日本向けのわれわれの座談会になると『佐藤内閣支持』の立場でモノをいう」と証言していた。


竹内●その男が金儲けを狙って、「商人の立場」で学会中傷の本を書き殴った。これが真相だ。


佐藤●共産党も負けず劣らず、変節の狂態をさらした。共産党はそれまで機関紙で藤原を散々罵倒していた。

「低劣、野卑(やひ)」「(藤原の文章は)およそ低級で、ゴロツキ雑誌などに見受けられる古くさい『アカ』攻撃や中傷」「まじめに相手にする価値あるしろものではない」

藤原弘達なる人物こそ、時の権力におもねって『出世』することしか頭にない『保守的な人間』」(「赤旗」昭和42年227日付)等々、口を極めて罵っていた。


高木●ところが、藤原が学会中傷の本を出した途端に大応援。

 掌(てのひら)を返して、藤原を「正義の味方」「真実の友」などと持ち上げ始めた。藤原本人が、そう言っていた。


森山●共産党は藤原に取材し、衆院選投票日の10日前から機関紙に毎日、学会、公明党を中傷する記事を掲載。最後は号外まで出して馬鹿騒ぎした。


原田●「選挙狙い」「票狙い」の魂胆が見え見えじゃないか。


竹内●嫉妬だよ、嫉妬。共産党は公明政治連盟(公明党の前身)の時代から、国政選挙で一度も公明に勝ったことがなかった。


高木●その通りだ。公明党が衆院に初進出した昭和42年の衆院選挙でも、公明党は一挙に25議席を獲得したが、共産党はたったの5議席。全く相手にならなかった。


佐藤●まともに争ったんじゃ、逆立ちしても公明党には勝てない。そこで「低級で、ゴロツキ」の藤原のデタラメ本に飛びついた。藤原を使って、何とか学会と公明党に嫌がらせをしようと血眼(ちまなこ)だったんだ。


高木●あそこは今も同じだ。偉そうに「理論」だ、何だと言うが、本質は「謀略」「デマ宣伝」。体質が全然、変わらない。


森山●だから皆から、「進歩がない」と馬鹿にされている。


竹内●要するに、藤原のデタラメ本騒ぎは、「金狙い」と「票狙い」で起こしたものだった。


原田●馬鹿馬鹿しい。「信なき言論、煙のごとし」だ。

 今の学会を見よ! 池田先生の指揮のもと、世界190ヶ国・地域に隆々と大発展だ。

 公明党も連立政権参加7年目を向かえ、政界の要として力を発揮している。


佐藤●藤原は、“公明党が勝てば、学会が国教化する”などと馬鹿騒ぎをしていたが、全く逆だ。学会は「世界宗教」だ。今や世界の常識だ。


高木●藤原の末路は惨めだった。平成6年、反学会の宗教団体などがつくった「四会」に顧問として参加。だが、その直後から衰弱し、最後は表に出られなくなったまま、平成11年、病気で死亡した。


森山●四会も平成13年に空中分解し、崩壊した。


原田●戸田先生は、学会に対する、したり顔の浅薄な“評論”を笑い飛ばしておられた。

なぜ、学会は発展しているのか。「学会には信がある! 御本尊様がある! この御本尊功徳から、みな出たものではないか。それに気がつかない」。一刀両断に斬り捨てておられた。


佐藤●御書に「当世の習いそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(1339頁)と仰せの通りだ。

 藤原なんか、「学会の信」を何一つ知らずに、デタラメを書き殴った。「習い損ないの学者」の典型だ。


高木●いまだに、その同類の輩がいるな。


竹内●学会は大発展した。戸田先生が指導された通り、「学会の信が正しい」証拠だ。

 そして、「学会の師弟」こそ、最高の正義である証だ。

 さあ、「5.3」へ! 「青年の拡大」を合言葉に、猛然と戦おうじゃないか!


創価新報 2006-04-05付】

「下から上を動かせ」シリーズを配信


「創価スピリット」で座談会の指導を連日、配信している。1週間ほど経ったら、「下から上を動かせ」シリーズとなる予定。どうか、先輩幹部に啓蒙して頂けると幸いである(笑)。


 私は、何もしない幹部は絶対に許さないし、何もしない自分は、もっと許さない。

2006-04-04

書けない理由


 結構、好きなことを書いているようにみえて、実はそうでもないんだな、これが(笑)。


 発言する時もそうだが、学会員の場合、相手に不信を与えると、自分にが出る。「いや、そんなつもりじゃなくて……」という言いわけは通用しない。相手が勝手に誤解したとしても駄目。自分が不信を与えるキッカケになったという時点でアウト。


 で、結局、踏み込んだ内容は書くわけにいかなくなるのだ。本当だったらね、悪い野郎の前を次々と列挙し、バッサバッサと斬って捨てたいところ。


 だがそれでは、先生に弓を引くことになりかねないし、何にも増して、現実を変革する志を放棄したことになってしまう。自分が評論家となった瞬間に、地涌の菩薩としての使命は失われる。


 手の届かないような問題になると、途方に暮れるあまり、無力に襲われることもある。それでも、「絶対に何とかしてみせる!」と歯ぎしりしながら、御本尊に向かってきた。一度でも逃げたり、あきらめたりすれば、それは“信仰の死”を味するからだ。


 今日も、大変な問題と戦う支部長の方からメールを頂いた。私はこれを目にして、「自分に何ができるか?」と我が身を苛(さいな)み続けているところだ。何もしなければ、与同罪は必定。


 泣いて済むような問題なら、まだ楽だ。涙も涸(か)れ果て、を死なせることで、何とか耐えている人々が現実にいる。「そんな組織創価学会ではない!」といくら叫んだところで、現実は変わらない。


 小さな悪を放置する官僚主義によって、しめられている会員がそこここにいる。信賞必もなく、実力主義もなくなれば、組織は必ず崩壊してゆく。一人でもしんでいる人がいれば、私はそれを“組織の崩壊”とづけよう。


 それにしても、学会幹部の中に木っ端(こっぱ)役人みたいのがこんなに増えたのは、どういうわけだ? 一見、下手(したて)に出ながらも、指示・命令・要求を伝達しているだけの幹部がウヨウヨしてる。かような面々を、「ボウフラー尊者」とでもづけておこうか(笑)。


 ボウフラは、閉ざされた水溜まりの中に発生する。これを流れる川につなげるためには、たった一人の清冽な信をもって壁に斬り込んでゆくしかない。


 先生のにかなった“本当の学会”を築くためなら、呻(うめ)きながらも、のた打ち回りながらも、前進してゆきたい。転ぶようなことがあれば、地でも前に倒れてみせるよ(ニヤリ)。

臆病の岬を越えよ!


 さて、大航海時代は実質的にいつ始まったのか。このことに触れたい。

 1434年、一人のポルトガル人がアフリカ西海岸を南下していた。彼はエンリケ王子の元で学んだ、いわば“門下生”である。

 王子はアフリカ西海外を懸命に探索していた。そこはまだ“未知の世界”だった。しかし、夢は中々実現しない。なぜか。船乗りたちが、ある地点以上に進もうとしないのである。

 その場所はボジャドール岬。この岬から向こうは、「暗黒の海」と信じられていた。怪物たちが棲み、海は煮えたぎり、滝となって落下していると、中世以来、伝えられていた。

「岬を越えて南進せよ!」。いくら王子が言っても無駄だった。船乗りたちは15年間、王子の命(めい)に背き続けた。ある者は、王子をだまし続けて他の進路をとった。

 面従腹背――それでも王子は耐えた。15年目にとうとう彼は言う。

「おまえたちみんなが、ありもしないことに妄をいだいているのが、まったく不議でならない。もしかりに、世界でいわれているような噂が、すこしでも根拠のあるものならば、わたしもおまえたちをこれほどまでに責めはしない。

 しかしおまえたちの話を聞いていると、ごくわずかの航海者たちの見に過ぎないではないか。しかもその連中というのは、たかだかフランドル地方だとか、そのほかかれらがいつも航海する目的地の港に通じる航路からはずれてしまえば、羅針盤も航海用の海図も使い方がわからない連中ばかりなのだ」(集英社『図説 探検の世界史 1』ダンカン・カースレイル)

 風評にだまされるな! 何も知らない者たちの噂にだまされるな!――王子の叱咤に、ついに一人の門下が肚(はら)を決めた。

「行こう! 岬を越えよう!」

 そして彼は超えた。王子の確信通り、“向こうの海”は何でもなかった。

像していたのと、実際は正反対だった!」


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 応仁の乱が1467〜1477年。日本が戦国時代に突入した頃に、エンリケ航海王子は世界を目指した。


 そういや、カンサスというバンドのアルバム・ジャケット(『暗黒への曳航/point of know return』)が「暗黒の海」だった。また、7世紀頃のインドでは、大きな亀の上で、象が世界を支えていると考えられていた(「地図のれきし」)。果てしない海の向こうは、恐怖の対象でしかなかった。


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 15年という時間をかけて、エンリケ航海王子は人々の迷妄を打ち破る。科学的態度と道理を尽くして。


 現実の航海にあってすら、これほどの困があった。まして、釈尊大聖人が妙法を覚知し、説こうとした時、どれほど巨大な壁が立ちはだかったことだろう。まさしく、像の域を超えたものであったに違いない。


 エンリケの一が、皆のに革命を起こした。一艘(いっそう)の船が壁を破って、未知への世界に躍り出た。それによって、全ての船が世界を目指した。


 我々にも根拠のない先入観が存在した。“坊主”というだけで尊敬していた時期が確かにあった。葬儀法要は坊主の仕事とい込んでいた。我々は僧俗和合という指導を忠実に守ってきたが、学会の発展に乗じて坊主は金の亡者と化していた。


 まあね、大きなハードルは日顕問題によってクリアしたが、小さなものは、まだまだ、あるよ(笑)。御書をしっかりと研鑚してないと、組織悪に翻弄されるから、お気をつけ遊ばせ。


 法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり(1169頁)


 そうであれば、道理に合わないことは、きっちりと拒絶できてこそ、“自立の信仰”といえよう。道理に外れたことを「信で受け止める」のは、皆がしむ結果になるので、悪であると認識されよ。

2006-04-03

「航海」と「漂流」の違い


 エンリケ王子が開いた大洋への航海の道。ところで「航海」と「漂流」の違いはどこにあるか。

 一つには、明確な「航路」があることである。行方(ゆくえ)もわからず、海に漂うだけでは航海とはいえない。私どもにも明確な人生の「航路」があり、羅針盤がある。

 もう一つは、「出発点に帰ってくる」ことである。

 恐らくアメリカ大陸にもインドにも、偶然流されて漂着した船乗りは大勢いたことであろう。しかし彼らは、それを故郷に知らせることができなかった。“行きっ放し”では漂流と変わらない。

 原点である祖国と世界を往復し、どちらをも豊かにしてこそ「航海」である。

 信を根本に、時代・社会の大海原へと進みゆく皆さま方の「航海」も、方程式は同じかもしれない。

 信学会という“祖国”と、社会という現実世界との往復作を忘れては、いつしか人生と社会の「漂流者」となってしまう。そのようなことがあってはならない。

 特に社会的地位や立場が重要になればなるほど、このことを絶対に忘れてはならないと、私は強く申し上げておきたい。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 商売は集金をもって終わり、戦いは報告をもって完結する。


 糸の切れた凧(たこ)であっても、風向き次第で高く上がることもある。そこに勘違いが生まれる。「こんなに頑張っているのに」「こんなに戦っているのに」という「のに信」になると危ない。


 御本尊の前から出発し、御本尊のもとに帰ってくる。これが信即生活。学会から出発し、学会に帰ってくるのが法即社会だ。同じ往復作をしていても、座標軸が逆転すると本末転倒となる。仕事に追われてしまうと、会社が出発点になる。本地がサラリーマンで、外用(げゆう)の辺が地涌の菩薩となってしまうので要注


 今、自分が「航海」をしているのか、それとも「漂流」になっているのか、そこが問題だ。


 もう一歩、突っ込んでいえば、「指導を受ける」ところから出発し、「勝敗の報告」をしてこそ本当の戦いである。

通夜


 先輩のお兄さんの通夜。墨田区にて。一時代を築いた同志が集う。ある先輩より、「この間、転入してきた壮年部から、『小野さんって知ってますか?』って訊かれたんだよ。小野ちゃん、ネットでブイブイやってるらしいな」と言われる。あな恐ろし。内容を慎重にする必要あり(笑)。


 この春、創大を卒したメンバーより、メールが来る。「小野さんから教えて頂いた『後輩を守る』ことを第一に考えて一生懸命、頑張ります!」と。私からの血脈は確かに流れ通った。


 通夜で同席した先輩に電話。現在(いま)の組織に抱いている危機が、全く同じものだった。“最後の江東男子部”として、互いに決を深めた。


 先生の指導、二度目の熟読。遂に『新・人間革命』に追いつく。品川での指導。私が上京して、最初に住んだのが品川区の青物横丁だった。不議。指導を読むごとに、異様な昂奮に駆られ、読んでも読んでも飢餓に襲われる。


 今日は結婚記日だったが、何もできず。

2006-04-02

風に向かって走れ


 ところで、大航海を可能にしたものの一つは「新しい船」であった。

 要約し、わかりやすく言うと、王子らの工夫もあって、「風に向かって走る船」が開発されたのである。

 それまでの航海は「風向き次第」であった。追い風の季節風を待っての旅であった。それを様々な技術改良によって、順風の時のみならず、あらゆる風向きの場合にも前進できるようにしたのである。

 この発明は、自然を克服した大きな一歩だった。まさに“必要は発明の母”である。

 人間もまた、風向きで流されるのではなく、目的地を目指して“風に向かって走る”力があって初めて「人生の大航海」ができる。

 その力の源泉となるのが「信」であり、信によって培った「信」である。そして、人間としての偉大な使命の「自覚」なのである。

 いわゆる順風満帆の人生、山登りでいえば、ふもとの方をもなく歩いて回るような人生は、何の味わいもなく、また、大きな価値を生まないものである。むしろ、険な山の尾根に敢然と挑み、山頂を目指す生き方こそ、大いなる「価値」と「歴史」を残すものだ。

 いわんや私どもの「広布」と「人生」の歩みは、あらゆる向かい風にも力強く挑戦し、新しい価値と歴史をつくりながら、人類史に永遠の光彩を放ちゆく、誉れの航海であると申し上げたい。


第20回本部幹部会 1989-08-17 長野研修道場


 これを座談会で実験した壮年部の方がいた(笑)。私は直接見てないのだが、隣の地区の男子部が「もう、凄かったッスよ」と語っていた。水を張ったタライに、手作りの帆船を浮かべ、正面から扇風機を回したそうだ。何度やっても、船が引っくり返ったという(笑)。だが、その気やよし。忘れ得ぬエピソードである。


 風が強ければ強いほど、凧(たこ)は天高く舞う。四度の大とは、困を極めるほどに、より深き使命に目覚め、自体を顕照しゆく生きざまを示されたもの。生命(いのち)に及ぶほどの危険に遭遇しても尚、「喜悦はかりなし」(1360頁)と、自在に人生を楽しむ絶対的幸福境涯の高らかな人間讃歌だ。


 僧・日顕によって、学会は真の世界宗教へと飛躍した。ここに、学会のみが、大聖人の衣鉢を継ぐ、正当な和合僧である証が存在する。


 学会全体に襲い掛かった風雨は、全て先生が受けられた。そして、これほどの功績・績を残されながらも、いまだに戸田門下生として弟子の道を貫かれている。我々は“反転攻勢”などと軽々しく言ってのけるが、それはひとえに先生の一から始まり、先生の一に帰着しているのだ。


 その師じるのであれば、せめて、自分に向かって吹く風には、堂々と立ち向かってゆきたい。


 大風吹けば求羅は倍増するなり(1136頁)

2006-04-01

後輩が結婚


 後輩の結婚披露宴。浦安にて。以前、私が彼女を紹介するも、まとまらなかったので責任をじていた。めでたし、めでたし。懐かしき顔、多々。私の友人も参加。婦人部のYさん、Kさんと、しばし歓談。3年振りに会っても、パッと信の波長が合う。