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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2006-07-31

婦人部の話は聞け、ただし鵜呑みにするな


 ある幹部に指導を受ける。この方が壮年部となった時、先輩から次のように言われたそうだ。「壮年となった以上、これだけは覚えておくように。婦人部の話は聞け。ただし鵜呑みにするな」。確かに首肯できる。

2006-07-29

「世を恐て之を言わずんば仏敵と為らんか」


 どのような組織、団体でも、“太陽”が一つ昇れば、大きく発展する。

 太陽のように生命を燃やして進む「一人」が重要なのである。

 また先生は、「まず、全部、自分たちで責任をもって考えよ」とよく言っておられた。

 師弟の道に生きる。これが根本である。

 その上で、一から十まで師匠がやるのではない。それでは弟子は育たない。

 師のをわがとして、まず弟子たちが自ら、真剣に広布の未来を考えよ  ──戸田先生の厳しき薫陶であった。

 弟子が団結して進む。そのために同志がいて、組織がある。

 牧口先生は、組織は上からではなく、下から変革していくのだ、と訴えておられた。

 広布を阻む動きに対しては、勇気をもってをあげることだ。

「おかしい」とったら、どんな人間に対しても、厳然と言っていくのである。

 おとなしくする必要はない。言わないのは臆病であり、場合によっては、悪につながってしまうからだ。

 日蓮聖人は、法華経を破壊する者を、勇気をもって破折する重要を訴えられ、「世を恐て之を言わずんば敵と為らんか」(1003頁)と仰せである。

 特に青年部の諸君は、「広宣流布は、私たちが責任をもって進める」との気概で団結し、戦っていただきたい。


 リーダーに対して戸田先生は言われた。

「人を引っ張っていくには、誉欲とか金欲をかなぐり捨てることだ」

 幹部だからと威張る。もっと偉くなろうとか、自分のことしか考えない。その醜いが、信を破壊し、人間を堕落させる。

 学会の幹部は、に少しの「保身」があっても絶対に務まらない。本当の勢いが出ない。

 先生は「信の上で呼吸が合わない人は、必ず落後していく」とも言われた。

 勝利は「信の団結」から!──これが先生の結論であった。


【全国代表協議会 2006-01-27 創価文化会館


 創価学会は広宣流布のための組織である。ゆえに、学会の生命線は折伏に尽きる。初代、二代、三代会長は、末法折伏棟梁として、地涌の菩薩の先頭に立って死身弘法の闘争を貫かれた。偉大なる法戦は三類の強敵を現し、真っ向から法勝負を決した。そしてその度ごとに、厳然たる民衆勝利の歴史を示し、悩に喘ぐ民衆を救ってきたのだ。


 学会で一番偉い人は、折伏をする人である。


 一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬の道理に任せて信敬を致す可き事。

 一、弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧のを為す可き事。(1618頁)


 折伏の闘士は、いかなる役職にも過ぎて立派な人なのだ。会長よりも上だよ(笑)。最大に大聖人からお褒めいただけることは間違いない。


 本来なら、上の幹部になればなるほど、折伏をしていて当然だし、折伏の達人であるべきだ。だが、現実はそうなってない。ここに組織が行き詰まる根本原因がある。折伏のできない幹部に限って、人にやらせようとする。棚ぼた成果に期待する。欲しいのは数字だけで、考えていることは自分の対面だけ(笑)。


 私が一番憂えていることは、幹部の力不足によって多くの人々が「功徳の出ない信」をしていることと、「人間革命できない活動」をさせられていることだ。


 今、何も考えてない人が一番危ない。

2006-07-27

率直な声は信頼の証


 何でも話せる人がいる。何も話せない人がいる。率直なは信頼の証。自分を偽り、役職の仮面を被(かぶ)った幹部を見ると、反吐(へど)が出そうになる。最前線で戦う方々は、皆おしなべて嘘がない。幹部になればなるほど対面を保ち、立場に固執する。果たして、どちらが幸せだろうか? 現場に身を置く地好さは何とも表現しい。


 ここのところ、毎日のようにメールを頂戴している。特に、メールマガジンに返信して下さる方々が多い。返事も書けない場合が多いが、謝は尽きない。皆さんの温かいエールが、私の中で“書く力”になっている。顔は見えないし、も聞けない。それでもが通じ合うのが不議。

2006-07-25

『会議革命』齋藤孝


「あなたの会社の会議は大丈夫か?」チェックリスト


いきりチェックしてください)


 1.別のこと(寝ている、絵を描いているなど)をしていても大丈夫

 2.アイディアを出さないくせに、人の見にネガティブなコメントばかりする人がいる

 3.一人の話が長くてウンザリすることがある

 4.「それじゃあ、今までの議論何だったの」とうことがある

 5.判断材料がそろっているのに、「じゃあ、あとで考えよう」と大した理由もなく結論を先送りにする

 6.何のために集められたのかわからないことがある

 7.何も決まらなかったり、新しいアイディアが一つも出てこないことがある

 8.人数が多すぎてディスカッションにならないことがある

 9.見の質でなく、の大きさで決まることがある

 10.“宮中御前会議”のように、役職順に座る慣習になっている

 11.レジュメホワイトボードもなく、議論が宙に舞うにまかせている

 12.「はじめから結論が決まっているんじゃないか」とじることがある

 13.「報告・通達・確認ならメールですむのに」とうことがある

 14.報告や資料説明の時間が長すぎて、一番大事なことを話し合う時間が足りなくなる

 15.見を言うと、「じゃあ君がそれをやってくれ」と言われそうなので、見をひかえる雰囲気がある


 この15ポイントのうち、10個以上にチェックが入った場合には、会議の症状は末期に至っているとってください。




 日本経済をダメにしている元凶のひとつは会議だ。




 私は不毛な会議というものにとにかく怒(いか)っています。

 何も生み出さない会議が日本には多すぎます。それに付き合わされていると、こちらの脳ミソまで腐ってくるじがします。不毛な会議を平然と続けている人々を見るたびに、日本人は会議というものをまだ技化(わざか)していないと痛します。欧米流の会議というものは、日本にはまだ根付いていません。




 私自身が会議で一番不満にっているのは、参加者一人ひとりの能力が会議においてフルに活用されていないということです。会議に自分の時間が奪われていくことが嫌なわけではありません。そうではなくて、自分のもっている能力が100だとしますと、そのうちの10以下しか使わなくとも、その会議には参加できてしまう。そのことが嫌なのです。




「日本的会議」の弱点はアイディアを出さない人でも偉そうにしていられるところにあります。

 本来、会議において偉いということは、課題状況を乗り切る具体的アイディアを出せることを味します。質の高いアイディアを次々に出せる人がその会議では序列が高くあるべきなのです。

 ところが現実にはそうはなっていません。あらかじめ序列が決まっていて、アイディアを出せる才能とは無関係に発言権が分配されています。

 そういう現実がなぜ延々と引き起こされてしまうのかというと、「会議はアイディアを生み出す現場である」という認識が共有されていないからだといます。これをまずみんなで共有するところから会議革命は始まります。




 報告・説明が延々とつづく退屈な会議で、私の隣の人は車の絵を描いていました。ほれぼれするほど上手な絵でしたが、それはじつに象徴的な光景でした。走りたいんでしょう。もっと自分の能力をフルに活動させて、走りたい。しかもその人は車を書くだけではなくて、タイヤから斜線を出して勢いを出して走らせていました。

「この人のこの埋もれていくやる気とエネルギーをどうするんだ、あなたは?」

 と、会議の主催者に問いたいいに駆られました。

 会議の主催者は能力とエネルギーをそれだけ奪っている自覚があるのか。その責任をどう取るのか。

 そういうことにのない主催者ほど、自分の話す量が多い。会議の主催者であるにもかかわらず、他の人の見を上手に回すどころか、自分が話してしまう傾向があります。




 日本の会議が不毛なのは、ひとつには会議の基本モデルが“宮中御前会議”になってしまっているからではないでしょうか。

 普通一般に考えられている宮中御前会議のイメージが、全国津々浦々日本中のあらゆる会議に浸透しています。会議だけでなく結婚式などでも見受けられます。そこまで序列化しなくてもいいのにというぐらい序列化します。

 見渡してみたときにそれは、「序列確認会議」にしかなっていない。

 その会議では、座った時点で各人の発言の重要度は数値換算されています。下々(しもじも)というか、地位の低い人の見は、その見がどんなにクリエイティブであったとしても、かける0.1ポイントほどになっているわけです。それが地位が上がるにしたがって10倍、1万倍に発言の重要度も高まります。「結局それで決まっちゃうのか」と言いたくなります。


会議革命 PHP文庫

2006-07-24

戸田先生「惰性は、大聖人の仏法を腐らせる」


 ここで再び、戸田先生の指導を学びたい。

 戸田先生のことは、いくら語っても語り尽くせない。真実の師弟とは、そういうものである。

 戸田先生はおっしゃった。

「惰は、大聖人の法を腐らせる」と。

 自分は活動しているようにっていても、知らないうちに惰に流されている。進んでいるつもりでいても、実際は停滞している。それが怖い。

 常に常に「強い信」に立つことである。

 新しい目標にチャレンジしていくことだ。


【全国代表協議会 2006-01-27 創価文化会館


 惰ってのはね、生活習慣病みたいなもんだね(笑)。30過ぎたら、もう毎日が惰との戦いだよ。この年代から、極端に勝率が悪くなるところに特徴がある(笑)。


 20代までは土台を築く時。30以降は惰との戦い。これを肝に銘じておきたい。


 ハッキリ書いておくが、人間革命ってのはね、役職に助けられる側面が強いんだよ。だから、2年おきぐらいに役職が変わるような青年部時代ならともかく、壮婦になりゃ、そうはいかない。持久戦を強いられるよ(笑)。


 役職が変わるということは、責任範囲が広くなることと、新たな出会いがあるってことなんだ。つまり、刺激があるってことだわな。新しい人に出会えば、それなりに緊張も出るし、自分の何かを引き出してくれる。


 惰の正体を教えてあげようか。それは、「人間革命しにくい自分自身」なんだ。「自分の弱さと戦おうとしない自分」と言ってもいいだろうね。


 時々、会合に出ない人を揶揄(やゆ)して、「動かざること山の如し」なあんて、よく言ったもんだよ。最近は、幹部の方が当てはまっているけどね(笑)。


 だが、本質はそうじゃないんだ。「相手を動かせない自分」に問題があるんだ。


 惰に勝つ鍵は一つしかない。日々、生活の中で新しい価値を、自分で生み出すことだ。価値ってえのあ、新しい発見、新しい考え、新しい言葉、新しい行動、そして、何よりも新しい祈りだ。


 するってえと、祈りが惰になった時、それは信仰の死を味する。祈りが広がらず、深まらなければ、既に退転と言ってよし。


 カァーーーッ、厳しいねー。でも、これが一生成の厳しさなんだろうね。


【※指導は、NON氏の投稿によるもの】

2006-07-19

ロマン・ロラン「熱のない仲間たちこそ最悪の敵だ」


 人道主義者として、平和運動の先頭に立って戦ったことでも知られるフランスの文豪ロマン・ロラン。

 その戯曲「狼」に次のようなセリフがある。

「熱のない仲間たちこそ最悪の敵だ」

 熱のない仲間たち──つまり、戦いにあって仲間が困っていても、知らん顔。

 いたずらに批判ばかりで、敵と戦う気概もなければ、情熱もない。

 それでは、仲間とは言えない。

 それどころか、敵よりも質(たち)が悪い。“最悪の敵”であると言うのである。

 傍観は「悪」である。

 悪を見て見ぬふりをして、それを増長させるならば、結果的に悪と同じになってしまう──それが牧口先生の叫びであった。

 広宣流布とは言論戦であり、戦である。

 ゆえに、人間を不幸にする誤ったや虚偽とは、断じて戦わねばならない。

 私たちの“武器”は言論である。である。

 正義の言論で、勇気の対話で、悪を悪と言い切り、人々を真実へと目覚めさせていく。

 そして、共に幸福の大道を歩んでいく。

 それが我々の折伏の戦いに他ならない。


【全国代表協議会 2006-01-27 創価文化会館


「熱のない仲間たちこそ最悪の敵だ」――何と辛辣(しんらつ)な言葉か。上辺だけの行動なら誰にでもできる。だが、の中はどうか? 燃えているのか、いないのかが問題だ。


 会合に出ても、伏し目がちで、自分の見を言うこともなく、適当に相槌を打ち、適当に拍手をし、適当に返事をする。こんなのじゃ味がないよ(笑)。どうも最近は、余計なことを言わないのが“団結”だと勘違いしている人が多過ぎる。見をぶつけ合い、戦わせなければ、団結など生まれるはずがないのだ。


 皆が自由にものを言える雰囲気がなければ、権威主義であり、組織主義であり、打ち出し主義であり、事務主義であり、形式主義である証拠だ。その原因は、会員が弱い立場に甘んじているところにある。傍観者がイジメを支え、沈黙が権威主義を支えている。


 熱をもった空気は上に向かう。冷たい空気は下に溜まる。だから、暖房は下に向け、冷房は上に向けるのだ。これが自然の摂理。人間も同様だ。であれば、広布の情熱に燃えた人物に近づくことが大切になる。熱い人に近寄れ。熱い人を求めよ。新しき世紀をつくるのは、青年の熱と力だ。


 あらゆる物質は沸点に至ると気化する。これは物質の世界における革命といってよい。分子となって自由に拡散する姿が、人間革命を彷彿(ほうふつ)とさせる。液体が低温にさらされると固体となる。不自由極まりない(笑)。いるよね、そんな幹部が(笑)。頑固ジジイみたいのがさ。人間は固まったらアウト。それは進歩・向上・成長を失った姿だ。


 熱のない幹部、熱のない会合は避けるべきだ。緊急措置として、嘘をついても構わないよ(笑)。その方が功徳がある。

2006-07-11

「傲慢」は会員への甘え


 中国の周来総理が、リーダーのあり方について警鐘を鳴らした言葉を紹介したい。

「指導者のポストにつくと、謙虚さを失って、親しみにくくなり、自分は大したもので、何でも分かっているといこむ」

 鋭い警鐘である。

 皆さんは、決してそうなってはならない。特に学会員の皆さんは、純真で人がいい。そのことに甘えてはいけない。

 リーダーは、どこまでも謙虚でなければならない。


【全国代表協議会 2006-01-27 創価文化会館


 私が壮年部でなかったら、多分、見落としていた指導だ。また、引っ越してなければ、読み流していたことだろう。立場や地域が変わって、初めて見えてくることは予以上に多い。まるで別世界にいるみたいだよ(笑)。


 まともに戦っていれば、必ず悩みを抱えたメンバーと遭遇する。深刻な相談を寄せられることも、決して珍しくない。宿命と格闘する同志の肩に手を添える時、どうして傲慢になれようか。重荷を背負いながらも、広宣流布に邁進する姿を目の当たりにすれば、人は謙虚にならざるを得ないものだ。


 それができてないから、傲慢な幹部になるのだ。傲慢とは、祈りなく、行動なく、責任なく、慈悲なく、信なくして、涼しい顔で打ち出しを落としている馬鹿者のことを指す。聞く人が聞けば、空虚な言葉を見逃すことは断じてない。本気で戦っているのかいないのかは、10秒以内で峻別できる。


 権力とは、人間を手段にする力のことだ。学会の役職が単なる権力と堕してしまえば、組織は崩壊の一途を辿る。草創期にあって戸田先生は、少人数の会合で男子部に決を促し、一人ひとりに「広宣流布は私がやります!」と大きなで言わせた。今はどうだ? 本部長は支部長にやらせようとして、支部長は地区部長にやらせようとしているんじゃないか? 「頑張りたいといます」と言う幹部はいても、「私がやります」なんて言い切ることができるのは、まずいない。会合の時だけ信があるような顔つきをしている“広布のパートタイマー”が多過ぎるよ(笑)。本部職員主導の組織である限り、官僚主義の打破は困だろう。


 旧ソ連ではチェルノブイリ原発事故以前から、毎年、大きな原子力事故が起きていた。だが、国家機密として鉄のカーテンで隠されていた。ソ連の解体後、次々と事実が明るみに出てきた。ソ連は核兵器開発でアメリカに後(おく)れをとっていた。そのため、原子力発電で先んじようと急ぎ過ぎて、安全対策が二の次にされてきた。こうした背景には、欠陥を指摘して改良することが、“体制批判”と受け取られる恐れがあったからだとされている。


 断じて、同じ轍(てつ)を踏んではなるまい。

2006-07-07

保身の幹部を叱り飛ばせ


 また孔明は、「必ず敗北する徴候」についても述べている。

 その一つは、「むやみに敵を恐れ、その反面、計算高く、利益に敏である」ことだという。

「恐れ」とは、すなわち「臆病」である。「戦う」を失うことである。“いざ戦い”という時に、「またか」とうようではいけない。

 こういう持ちでは、必ず敗北する。

「臆病にては叶うべからず」(1282頁)との御聖訓を銘記したい。

 一方、「計算高く、利益に敏」とは、自己保身の生き方といえよう。どうしたら自分は得をするか、そのことにばかり頭をめぐらせている人間である。

 例えば、から晩まで金儲けのことばかりを気にかけ、信は二の次──幹部がそんなことでは、広布の戦いに勝てるわけがない。

 戸田先生は実に厳しかった。

「要領のいい幹部もいる。傲慢な幹部もいる。学会を利用して、自分がいい立場になることばかり考える幹部もいる。腹の中で学会員を小馬鹿にしたり、大した人間でもないのに自分を偉そうに見せたり、学歴があるからといって尊大ぶる愚劣な幹部もいる」

 こう言われ、「そういう人間は、叱り飛ばせ!」と叫ばれていた。

 広布のため、真面目に健気に戦う学会員こそ尊い。その方々を、どこまでも大切にしたいとの深きおであられたのである。だから厳しかった。

 このおを、そのまま受け継いで私は走り抜いてきた。子である学会員を守るため、悪と徹して戦ってきた。


【全国代表協議会 2006-01-27 創価文化会館


 学会幹部には2種類ある。保身に走る官僚と、捨て身で戦う闘士である。官僚は官僚を求め、闘士は闘士を育てる。つまり、総県長が官僚であれば、その県は官僚主義に覆い尽くされる。組織人事によって決まる。


 要領のいい幹部は、打ち出しだけを正確に落とし、自分は動かない。メモを投函したり、電話だけで済ませているような幹部が山ほどいるよ。で、誰かが結果を出した途端、大騒ぎをして、あちこちに報告を入れる。こうやって手柄を自分のものとしているのだ。上の連中の動きも鈍いから、報告を鵜呑みにして喜んでいるようなのが殆ど。


 動いている人は、動いている人にしかわからない。動いてない幹部に限って、成果しか見てないものだ。婦人部の間では、綱渡りさながらの、危うい御守り本尊授与のエピソードが持てはやされている。


 私の組織にもいるんだが、「先生が、先生が」を連発する幹部に限って、ブロック員を小馬鹿にしている。口を突いて出てくるのは、指示・命令・要求のみだ。人格障害の典型といっていいだろう。しかし残なことだが、学会の組織には、こんな人間をつくり出す土壌が確かにある。


 今は先生がいらっしゃるからいい。だが、先生亡き後、内部告発をする者が続々と現れることだろう。学会員でありながら、アンチ公明を標榜している粗忽(そこつ)な連中のことを言ってるんじゃないよ。あんなのあ、屁みたいなもんだ(笑)。何にも知らない青二才ばかり。


 本当にどうしようもない組織の矛盾に呻吟(しんぎん)しながら、戦い続けている人々がいる。幹部は頬かむりをし、曖昧な態度で見て見ぬ振りを決め込んでいる。


 もしも、悪い幹部を叱り飛ばせば、叱った側が必ず痛い目に遭う(笑)。


 ここで私は一つの提言をしたい。それは、「プチ創価学会をつくれ」ということだ。自分の周囲に小さくても構わないから、本当の創価学会をつくり上げてゆくことだ。支部の一部でも、地区の片隅でも構わない。そこから、猛然と闘争の狼煙(のろし)を上げ、厳然と結果を出してゆく人が、本物の池田門下生である。


 文句は誰にでも言える。愚痴を吐くのも簡単なことだ。やりにくい中でこそ、力を蓄えることが可能となる。しっかりと、10年後、20年後を見据えて、組織の中核を育ててゆくことが最も大事だ。「何が何でも、全員に功徳を受けさせてみせる!」という覚悟なくして、成果を求めるなかれ。歓喜がなければ、疲労しか残らない。一人の歓喜が全軍に波動を与える。義務の奴隷になるなかれ。使命によって立て!


 昨日は牧口先生戸田先生が逮捕された日(昭和18年)。それから、ちょうど20年後に私が生まれた。昨日で43歳となったが、入獄した戸田先生と同い年である。池田先生は43歳で創価大学をつくり、日蓮聖人は43歳で小松原の法難に遭われている。「40代」の指導を読み返しながら、新たな決に燃えている。

2006-07-03

必勝の鍵は、有能な人材が登用され、無能な人間が退けられること


 まず初めに、三国志の英雄・諸葛孔明の勝負の哲学に学びたい。

 戸田先生は、よく孔明を通してリーダーのあり方を話してくださった。

 私は、そうした戸田先生の教えを克明に、日記などに記録していった。その作が、深夜に及ぶことも度々だった。そのことは、私の妻がよく知っている。

 それほど「真剣」だった。真剣だったからこそ、今日の学会ができ上がった。

 真剣でなくして、本物ができるわけがない。いいものができるわけがない。個人の人生においてであれ団体であれ、それは同じである。

 さて孔明は、勝利と敗北の分かれ目をどう見ていたか──。

 まず、「必ず勝つための鍵」の一つとして「有能な人材が登用され、無能な人間が退けられる」ことを挙げている。

 当然、この反対をやれば必ず敗北する。

 適材適所になるよう、いかに人材を配置するか。いかに人を生かしていくか。リーダーは私的な情に左右されず、公平に人を見ていかなければならない。

 この一点に、私は最大にを砕いてきた。これからの学会を担いゆくリーダーは、その責任の重さを自覚していただきたい。


【全国代表協議会 2006-01-27 創価文化会館


 今日は、7.3――。


 官僚は、有能な人材を求めない。便利な人材を求める。官僚とは、自分を殺しながら、自分の利益しか考えない人物のことである。


 今、自分への評価を求める人々は必ず堕ちてゆく。今は力を溜める時だ。弟子の本領を発揮するのは、師匠がいなくなった時である。


 悲しいことに、学会の人事は既に崩れている。電車賃をかけて中央の面接にゆき、副会長から「宜しくお願いします」という一言だけを聞かされているのが現状なのだ。人事面接が、単なる形式的な手続きに終始している。


 官僚主義に毒された組織で、評価される必要は全くない。御本尊様から評価されれば、それでいいのだ。組織の位よりも、信の位を上げよう。


【※指導は、NON氏の投稿によるもの】