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2006-08-30

謗法払い


小野不一


 今日、気づいたんですが、御書には「謗法払い」という言葉はありませんね。


 その昔、突然亡くなった学会員の遺品を整理したところ、他宗のお守りが見つかった、なあんて話がまことしやかに語られていた(笑)。これは、ひょっとして、学会特有の都市伝説なんだろうか?


 草創期特有の教条主義的なまでの謗法払いが、世間の要らぬ誤解の原因になったことも見逃すわけにいかない。


 個人的には、信の自覚が芽生えてから、本人の自然な気持ちから行うべきだと考える。


 皆さんは、いかが?


宮ちゃん


 個人的には、信の自覚が芽生えてから、本人の自然な気持ちから行うべきだと考える。


 私も同じ見です。


コスモス


 個人的には、信の自覚が芽生えてから、本人の自然な気持ちから行うべきだと考える。


 個人の自覚を促し決する為にも謗法払いは必要のようにもいます。状況などを考えた時、それが全てとはいいませんが。でもやはり、後々のその方の信を考えると基本はこれではないかといます。


小野不一


 では、御書に謗法払いという言葉がないことを、どう考えますか?


プリン


 でも、御書に書かれていないからといって、謗法払いが「不要」とまではおっしゃってないんですよね?


 私としては(御書に書かれているかは別として)、我々の信仰する大聖人法が「唯一」の「絶対的な教え」とする教義から論理的に導かれるものが謗法払いだといますね。


fやん


 二には去し文永八年九十二日申の時に平左衛門尉に向つて云く日蓮は日本国の棟梁なり予を失なうは日本国の柱橦を倒すなり、只今に自界反逆とてどしうちして他国侵逼とて此の国の人人他国に打ち殺さるのみならず多くいけどりにせらるべし、建長寺寿福寺極楽寺長楽寺等の一切の者禅僧等が寺をばやきはらいて彼等が頚をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ(287頁)


 もっと過激だったりして。ま、文が無くとも、義やは汲んでいるといます。


卞氏


 小野さんに賛成です。


 自分にとって謗法払いを必要だとじることはあるかとおもいますが、その「儀式的行為」を教条的に捉えるのは間違いであるといます。


 例えば、感応が強い人で道修行の上で妨げになりそうだから、払い捨てる覚悟を持てということがあるでしょう。また、これまでの過った信仰へと感応しそうだとわれるから、捨てた方がいい。以前までは、このようなことで謗法払いが有効だとされてきた一面があるようですが、現代ではどうでしょうか。


 自分にはもう必要のない物だとおもうなら捨てればよい。信が深まれば自然に不要な物がわかる(現段階での学会の姿勢)。大事な物をむりやり捨てらされたといういが強くなれば、かえってマイナスになるでしょう。


 いずれの方法にせよ、相手の方を信頼しつつの個人指導が為されることが前提にあって容認されるものです。


小野不一


 あんまり盛り上がりませんでしたねー。失敗した(笑)。


 私の言いたいことは「常識を疑え」ということです。学会が推進するのは化儀広宣流布ですから、もちろん御本尊を安置するという形式を広めることが根本となります。


 また、歴史を振り返れば、御授戒も謗法払いも、学会が宗門に教えてきたことも事実です。これ自体が民衆による革命といえましょう。


 しかしながら、2世、3世、4世の時代となり、草創期の吹や行動原理、はたまた信の姿勢に至るまで、随分と様変わりしてきている。


 私は、広宣流布が革命でなくてはいかんと考えております。師匠が「結果を示せ!」と指導すれば、弟子が強引な折伏をする。かようなことが、いつまでも続けられるとはえない。


 我々は出来上がった組織の上に乗っかって、あまりにも安易な信の姿勢になってやしないだろうか?


fやん


 謗法払いに関する問題提起を受けて、広宣流布まで展開した回答をするというのは結構、超人的な理解力の持ち主だとうのですが(笑)。


 池田先生は、人間革命その他の著述で広宣流布の定義を繰り返しされています。会長就任の第一に「化儀の広宣流布を目指し」と仰られてからそれは一貫しています。要約すると「広宣流布とは平和・教育・文化を推進する運動だ」ということになります。(注:現代では「広宣流布」といえば「化儀の広宣流布」のことです)


 弟子としては、その運動をどう具現化するかが喫緊の課題になってきていることでしょうか。小野さんの仰るとおり「強引な折伏」では、その答えになっていないといます。


 具現化には、的側面と運動的側面があるといます。強引な折伏をしなくても的・運動的に優れたものであれば、現状を改善できる可能があります。それには、先に折伏相手である現代の日本人というものを分析する必要がありそうです。


コスモス


 では、御書に謗法払いという言葉がないことを、どう考えますか?


 私も草創期特有の教条主義的なまでの誤解を生むような謗法払いのみに焦点をあてた場合は、小野さんの見に賛成です。


 素朴にったことですが、


 師匠が「結果を示せ!」と指導すれば、弟子が強引な折伏をする。


 というこの時点での部分で既に信しているといえるのかと考えました。


 の伴っていない折伏は後の入信された方が悲惨な方も多いですね。何の為に信しているのか。また目指さなければならない目的を見失っている方が多いようにいます。



 謗法払いが必要かどうか? 私は疑問です。謗法とは正法に背く行為のことです。行為ですから、その根底には当然に不信があります。


 正法に帰依し信受すれば不信ではありませんので、神棚や他宗の本尊などを処分しなければならない必要は特別ないと考えます。正法に帰依すれば、それらは脇士となり、諸天善神と化すとも考えられます。どちらも拝む(爆)、ということであれば、これは正法に背く行為ですからもちろん謗法です。


 しかしながら、正法に帰依することでそれまでの不信・謗法を謝すといういのもとに処分をするのも当然の気持ちであるといます。私なら処分しますし、するように勧めます。「こそ大切」だからです。


 また同様に、神社閣に行くことや行事に参加することも、それ自体は謗法ではありません。これらは、信受でも帰依でもありません。最近はまったく行っていませんが、古刹は大好きです(笑)。


 現代は、交流や友好が多方面に及んでいますので、厳格に謗法を気にしていたら何もできなくなりますし、生きていくうえでも多少の謗法は誰しもが日々犯しています。信強盛であり、そこに報謝があれば、多少の謗法は気にする必要はないといます。そして、懺悔滅罪すれば、すべて罪障消滅します。


 こう述べてくると神札はどうなんだ?と批判が聞こえてきそう(笑)。あれは信仰の帰依の対象であり、強制といえども受持は謗法です。まして宗門においておや(爆)。


 fやんが引用した「撰時抄」は、やはり当時の時代・社会背景、そして人々のと信仰をもとにした破折です。それをそのまま、現代に当てはめることにはムリがあると考えます。原理としては変わらなくても、も信仰も激変しています。化儀の広宣流布の話題が出ているように、時応機応や宗教五綱などに応じ変化していくのが当然です。四箇の格言を見直すことへの批判がありますが、まさに的外れです(笑)。


 また、大聖人が当時の邪宗に対して実際に暴力行為をしたことは、全くありません。宗教の五綱や邪宗に対しての強言の真については、山中講一郎氏の『日蓮自伝考』に詳しいので是非一読を勧めます。


fやん


 痛いところを突かれましたね。実は、撰時抄の当該部分は、平左衛門尉に捕縛されている状況下でなされた発言です。つまり、テロルを推奨しているわけではなく、逆に大聖人御自身がテロにさらされている中でなされた強言であることを考えるべきだとというのが山中氏の仰りたいことですね。誤解を招く書き込みをして、すみません。


小野不一


 っていうかさ、学会員はあまりにも物事を定型化・固定化して捉えるところが目立つんだよね。「謗法払い」という言葉が御書に書かれてないことに気づいた時、何だか愕然とするいになった。この年になるまで気づかなかったこと自体が、私自身、組織主義に毒されてきた証拠だとう。


 大聖人は民衆をありとあらゆる束縛から解き放ち、自由にされることをお望みだったに違いない。では果たして、我々の指導組織は、会員一人ひとりを自由にしようと、どの程度の努力をしているだろうか? 時として、成果を出すための手段にしているような面が否めないんじゃないか?


 先生の指導を聴くと、の底からホッとするし、何とも言いい充実に満ちあふれる。しかし、中堅幹部を経て落ちてくる「打ち出し」は、実に事務的な内容と化している。


 このギャップが私は怖い。


小野不一


 さすが、恋さん。私にゃ、これだけの論理的な文章は書けない(笑)。


 私が憂えているのは、謗法払いの味をきちんと理解せず、単なる形式的な手続きとして行い、相手のを平然と傷つけている学会員がいやしないか、ってことなんです。


 形式がまかり通ると、内面の闘争がおろそかになる。先生は以前、「広宣流布は精神闘争だ」と指導されました。の格闘がなくなると、人は形式に安住するものです。


「ただこそ大切なれ」とは言うものの、現実にどれだけ自分がをつかい、配り、砕いているか――甚だ疑問になってきます。


まりん


 私のカレシ君は、4年前に入会しました。当初入会前は紙札が3個部屋にありました。それは、彼が信じるからというより……遠く離れた彼の郷里の母が子をい案じて持たせたものであり、彼は母親の気持ちを大切にうが故に棄てられないものでした。


 私もそれが、わかっていたため咎(とが)めませんでしたし、入会後も口出しは一切せずに紙札の扱いを本人のに任せました。


 すると最初は、大切にずっと飾っておりました。が、信が深まり時が経つに連れ……一枚一枚見えるように飾ってあった紙札が、部屋の角に重ねて置かれるようになり……その内、物の陰にヒッソリとしまわれるようになり……先日、転居した後は…あの紙札は何処へやら。姿を消しました。


 謗法払いは本人のですべきといます。私たちは信が深まるように祈り行動するのが大切といます。


fやん


 正直、5年前に(ネット上で)お会いしたころとは、論調が変わってきてるなあとじています。まだ、その時は青年部でいらっしゃいましたが。八王子に行ったのが大きかったんでしょうか。もちろん、悪い変化だと考えているわけではありません。以前より、内在的な悪に対する糾弾が増えたようにいます。根本には先生の指導があるとじていますが……。


 形式主義というのは、官僚主義と密接な関わりのある言葉だといます。現実に合わせるのではなく、現実のほうを形式に合わせようとするものです。根本には、対象をコントロール可能なものにしたいという欲求があるといます。現代人の病理みたいな側面もありますね。複雑な現実を直視するのは面倒というわけです。精神闘争なんてかったるくてやってられっかという本音が見え隠れしています。


 自由の問題はしいですね。自律には内省が伴っていますが、そこを省略すると形式主義に堕するのだといます。他人だけではなく、自分自身をも束縛してしまう危険があります。偏見の虜になってしまうのです。ただ、自由そのものは幹部が与えるといった質のものではなく、不断の努力によって自ら獲得していくものだと考えています。その過程に他人が介在した段階でそれは「自由」ではなくなるからです。教における自由とは偏見や執着からの自由だと考えています。ですから、考えることをやめた時点で教的ではなくなるといます。


 学会における自由とは何でしょうか。活動をしないことでしょうか(笑)。そうではないとはうのですが、小野さんが仰るような事実があるために問題をややこしくしているといます。理形は、自立的で自律的な信仰者の集団になることです。上からあーしろこーしろと言われて動くというスタイルがそれとは正反対であるのは自明です。何かもうちょっとシンプルにできないもんですかね。


 御本尊にお題目を唱えたら幸せになりました。そしたら他人にも教えてあげたくなりました。その結果、学会員の数も聖教新聞の部数も公明党の支持者も増えました。ってえのが自然な流れだとうのですが、逆になってませんでしょうか。あなた本当に幸せですかと問い詰めたい(笑)。幹部は会員の幸福のためにいるんですよね。だから、とりあえず今いる会員さんを本当に幸福にするのが先決だといます。そうすると、今度は会員さんと対話することが必要になってきます。「君は幸せか?」「君にとって幸せってなんだい」「どうなりたい」って具合に。で、学会員が幸福者の集まりになれば、無理な折伏なんかしなくても向こうから寄ってくるんではないでしょうか。何か顛倒してますですねえ。


沖浦克治


 学会における自由とは何でしょうか。


 創価学会員でいる事が自分の権利だとうことでしょう。権利ですから、嫌なことはやらなければいいんです。好きなことを見つけるんです。それに人生をかけると良いといます。


 お題目も同じです。権利ですからね、嫌な時はやめて良いんですよ。その代わり、誰もあげろ、とは言えませんから、自分が挫折すればお仕舞いになります。復帰には勇気が要りますから。

 

 義務なら、もっとやれ、サボるな、などと言う人が必ず現れるものです。権利にはそんな人はいません。大変なことかも知れませんね。


コスモス


 一会員からの書込みです。以前、義務で活動しているとっていた一人です。しかし義務で活動していただけではなかったです。私の場合はもっと深く内観していくと組織依存、怠惰、慢。愚痴や文句。色んな要素が考えらます。


 沖浦さんの書き込み、


 義務なら、もっとやれ、サボるな、などと言う人が必ず現れるものです。


 にはとても考えさせられるものがあります。


 自分自身との精神闘争がなければその時点で信形骸化しますね。ともにもかくにもこの信は精進行ですね。


コスモス


 沖浦さんの続きですが、そんな自分との格闘をはじめだして一年ほど経ちましたが、我が家では御本尊様を三所帯送ることができました(私の母含む)。その折伏は強引でもなんでもありません。その全ての方が創価学会に入信したいと自分から求められてこられた方たちでした(法対話をあまりせずに本流に至りましたので、これ折伏?という疑問もありますが)。私は沖浦さんの姿を見てました。私にとってはとても影響あるものでした。自分との格闘をしてなんとか形の信を突破していこうとっています。


小野不一


 やはり、八王子に来たのが大きいね。プチ人間革命(笑)。よもや、学会にこんな酷い組織があるとは夢にもわなかった。第2総東京では「大学職員天国」と言われている模様。


 幹部の力不足が、会員にストレスを与えまくっている。何十年も信をしてきた方々が、どうしてこんないをしなくっちゃいけないのだろうとじること多々。が痛む分だけ怒りの炎が燃え上がる。


 でも多分、これが平均的な組織の現状なんでしょうな。


 こんな現状になってしまったのは、一人ひとりの弱さを、組織力でカバーしてきたため。だが今となっては、既に組織の態(てい)をなしてない。


小野不一


 私も「沖浦スタイル」(敬を表して)に賛成です。ただし、地区幹部以下に限る(笑)。


 革命というのは、既存の権力に対して「NO!」と叫ぶことです。バスの座席を立つよう言われたローザ・パークス女史然り、神札を受け取るよう促された牧口先生また然り。


 最前線で戦っている方々は皆、真面目に地道な闘争をされている。そして、決まったように人がいい。自分の見を堂々と述べるような人は殆どいない。それをいいことに、権威主義の幹部が現れれば、拒否する道しか残されてない。


 動けば動くほどストレスが溜まるようなら、少し休むべきだと言いたい。特に婦人部に目立つのが、動いた分だけ怨嫉している人(笑)。これじゃ、功徳など出るはずもない。


小野不一


 権利と義務に関して。


 これは私が学会2世であるところに原因があるのかも知れません。私は、信は義務だとってます。信というよりも、広宣流布ですかね。


 何せ幼い頃から、勤行をしないと飯を食わせてもらえなかったんで(笑)。


 この問題については、二十歳(はたち)の頃から、先輩と何度もやり取りしてきました。負けたことなし(笑)。


 先生が「信仰は権利である」と指導されていることは、置いておきます(笑)。


 私が義務だとう最大の理由は、「権利は放棄できるもの」だからです。義務は放棄できません(笑)。


 私はよく青年部時代から、ウルトラマンを例えにして話をするのですが、怪獣と戦うことは、ウルトラマンにとっての権利というよりは、義務であるようにずるのです。「人間は小さくて弱い。だからこそ、私が戦って地球の平和を守るのだ!」というウルトラマンの決が窺えます。


「信するか、しないか」っていう時は、権利ですね。しかし、後輩を成長させる、守る、幸せにする、ということは私にとっては義務です。これは、放棄できない責任があるためです。


小野不一


 価値論の観点から言えば、会合や学会活動は、楽しくて(美)、ためになり(利)、正しいという実相が当たり前。


 しかし現実は、善のために、美利の価値を無視、あるいは我慢し過ぎたキライがある。


 組織で革命を起こすだけの力がなければ、避した方がいい(笑)。


沖浦克治


 コスモスさん、よかったですね。嬉しいですよ。


沖浦克治


 小野さん、権利と自由の裏には、義務と責任が存在し切り離せない。こう言うことでいかがでしょうか?


小野不一


 仰る通りです。率直な覚としては、上の幹部には権利を主張し、後輩に対しては義務が生じるってじでしょうか。


 私は壮年部になってからというもの、突然入った会合は全部拒否します(笑)。



 権利と自由の裏には、義務と責任が存在し切り離せない。私も、常にこう考えています。


 信における義務と責任は、「誓願」を認識&自覚&決をしてからだといますね。

法華経の行者といえるのは、誓願があってこそ。


【※「創価仏法研鑚掲示板」より転載】

2006-08-29

有島重武さん


 聖教紙上で連載中の「わが忘れ得ぬ同志」。掉尾となる第9回(2006-08-27付)で、先生は有島重武さんのことを書いて下さった。


 有島さんは、見るからにジェントルマンで、少年のような清々(すがすが)しさが印象的な方だった。長身で背筋はピンと伸び、言葉にはいつも溌剌(はつらつ)さがあった。高齢になられてからも、澱(よど)みをじさせるところが全くなかった。


 第二次宗門問題直後から開催された「大学校運動」にも、いち早く出席し、「民族の興隆には常に歌があり、学会の発展の陰には学会歌があった」ことを教えて下さった。おもむろに「じゃあ、やるか!」とを上げ、ピアノで「紅の歌」のメロディーを弾かれた。その若々しい立ち居振る舞いに私は度肝を抜かれた。


 男子部の地区大会にまで足を運び、学会の歴史を語って下さった。既にが悪くなっていたため、の大きい私が元で通訳をしたこともあった。しかし、に介することもなく、どんどん青年と対話をされていた。皆の職を尋ね、「その道で日本一になっていきなさい!」と激励された。「僕も青年部の時に、池田先生からそう言われたんだよ!」。


 終生、青年をこよなく愛した有島君は、地元・江東区の青年たちと、約10年間、1回ほど、自宅で御書の勉強会を続けた。

 そこから、第一級の広布の人材が育っている。


 この勉強会を始めたのは男子部の部長だった。その彼が今、総区男子部長として指揮を執っている。


 第2東京記文化音楽祭の終了後、「創価同窓の集い」(学会草創メンバーの代表による会合)が創大ニューロワールで行われた(1991年114日)。そこに、ピアノを演奏する有島さんの姿があった。先生からをかけられると、パッと直立して笑顔で答えていた。


 先生と同じように、いつも「軍楽隊」と言われていた。そこには、何十年経とうとも、戸田先生の下(もと)で結成された当時と変わらぬ精神が脈打っていた。


 逝去されてから数日後、神田學志さんが「盟友を失った」と嘆いておられた。


 大先輩が亡くなるたびに、「草創の精神を風化させてなるものか!」と決が漲(みなぎ)ってくる。


追記


 以下のページの中ほどに有島家の系図がある。作家の里見とん氏も伯父に当たるとは知らなかった。尚、先生は里見氏と会われている。

2006-08-28

一日一日が改革


 一日一日が、勉強である。

 一日一日が、改革である。

 一日一日が、人間革命である。

 一日一日が、真剣勝負である。

 リーダーは常に情報を共有し、見を交換しながら、良き智を出し合い、的確な改革の布石を打ってまいりたい。

 イギリスの歴史学者・トインビー博士は語っている。

「変革の必然に対処する建設的な方法は、変革がぬきさしならなくなってくる以前に、自発的に変革を行うことである。われわれが行動を起すのが早ければ早いほど、われわれの選択の範囲は広くなるだろう」(『中央公論』1962年7号)

 大事なことは、「先手」を打つことだ。

 手を打つべき時に、手を打たないことを「後手」という。

「後手は敗北」「先手は必勝」である。

 特に現代社会は、変化のスピードがどんどん早まっている。ゆえに指導者が安閑としていては、時代に取り残されてしまう。

 インドの大詩人タゴールは言った。

「頭を働かせない者は、わずかな変化をも受けつけない固定化した習慣になじんでしまうものである」(森本達雄訳「自治への願い」/『タゴール著作集 第8巻』所収、第三文明社)

 常に頭脳を回転させて、斬新な発をしながら進むことだ。

硬直した慣習は一つ一つ見直して、柔軟に変化させ、日々、生き生きと脱皮させていくことだ。


【第2総東京代表協議会 2006-02-20 東京牧口記会館


 トインビー博士とタゴールの指摘は実に鋭い。西洋と東洋を代表する二人のが見事に響き合っている。


 変革は、ダムが決壊するようなやり方よりも、高きから低きへ滑らかに流れる川のような姿が理的だ。先生が常に言われる「漸進主義」の元もここにあるのだろう。そう考えれば、人間革命は漸進主義そのものである。


 一人の不平不満、一つの負担が、全体に通じる場合がある。幹部がいかに何も知らないかを教えて進ぜよう(笑)。各地区でビデオを購入しているのは、殆どの場合、同じ人物である。しかも、買い続けている人のことを地区部長も地区婦人部長も知らない。


 ある老夫婦のお宅にお邪していた時のことである。奥さんが言いにくそうにして、「実は今まで○○さんに頼まれて毎、ビデオを買ってきたんですが、置き場所にも困っているんで、来からお断りしてもいいでしょうか?」と尋ねてきた。私はすかさず、「ああ、そうだったんですか。長い間、どうもありがとうございました。担当者には私から伝えておきますよ。気がつかなくって、すみませんでしたね」と答えた。この方、未活動の婦人である。


 翌年、ビデオの担当者が新しい人に代わった。この方は、厳しい生活闘争の真っ只中にあって、自分でビデオを買えるだけの余裕がなかった。それを聞いた私のかみさんが毎、購入するようになった。これも誰一人、知らない。


 あるいは、民音のチケットや公明党の党費においても、同様のケースがあるかも知れない。


 組織は、また幹部は、末端の人々のを軽くするために存在しているのだ。にも関わらず、負担を強いる結果となっている。こうした事実を知らない幹部は皆が皆、官僚主義に毒された面々であると断言しておく。


 問題が起きてから手を入れるのでは遅い。問題が起こりそうな時に、先手を打って未然に防ぐ。これが上将である。自分のことは差し置いても「皆のために!」と神経を擦り減らすほどのいがあれば、おのずと見えてくるものである。


 上になればなるほど幹部は、“聞く”と“動く足”を持って欲しい。それすら持ってないのが多過ぎるよ。

2006-08-24

悪の根を断ち切るまで戦い抜け!


 先生は、学会の麗(うるわ)しい和合を破ろうとする者がいたならば、青年部が、ただちに戦えと厳命された。

「いくら立派そうに見えても、悪に対して、弱い人間、悪と戦わない人間は、結局、ずる賢い人間だ」

 これが師の未来への警鐘であった。

 最高幹部の皆さまであるゆえに、あえて厳しく言い残しておきたい。

 悪と戦わなければ、悪を容認し、悪に加担するのと同じである。

 それは、既に師弟を忘れ、信を食い破られた姿だ。

 その根底は、「臆病」であり、「保身」であり、「背信」である。

 その「の毒気(どっけ)」は、いつしか蔓延(まんえん)し、尊き信の和合を壊していく。

「もう、これくらいでいいだろう」──そんな中途半端なが毛筋(けすじ)ほどでもあれば、悪の根を断ち切ることなどできない。

 毒気は断じて一掃し、吹き払わねばならない。

「戦う」が清浄な伝統をつくる。

 最後の最後まで、邪悪をすべて根絶するまで、正義を叫び抜く。

 この戦う学会精神を、身をもって未来に継承していただきたい。

「学会に腰抜けの人間はいらない。悪への怒りなき者は去れ!

私は、最後の一人になっても戦う!」

 これこそ、惰弱な幹部に対する戸田先生の痛烈なる叫びであった。


【最高協議会 2006-02-19 牧口記会館


 組織が大きくなると、一人ひとりの責任が薄れる。会員の責任は1000万分の1ぐらいで、副会長の責任は300分の1程度となる(笑)。何か事が起こったとしても、「きっと誰かが何とかしてくれるだろう」となりやすい。


 下劣な週刊誌に先生を誹謗中傷するデマが掲載されたとしよう。その見出しを見た瞬間、「なあんだ、またか……」とうのか、それとも、怒髪天を衝くほどの怒りに打ち震えるのか。弟子を乗る資格がそこで問われる。


「敵との戦い」が打ち出しで落ちてくると、そこに“怒り”は存在しない。「エー、悪との戦いということで、○○日までに報告をお願いします。以上」ってなじだよ(笑)。竹入よりも、こういう幹部を何とかしてもらいたいね。虚(むな)しい掛け、空(むな)しい数字には、もうウンザリだ。


 教宣活動にはダブルスタンダードがある。「敵と戦え!」とハッパをかけておきながら、中央からのお達しで「勝手なことはするな」と釘を刺されるのである。学会員が集まる場所でどんなに叫んでも、悪は根絶できない。プロパガンダなら共産党に任せておけばいいのだ。


 現在の組織では、正義が強ければ強いほど、ジレンマを抱えることになる。だがそれでも、正義の焔(ほのお)を赤々と燃え上がらせ、民衆の依怙依託(えこえたく)となる人が、真正の池田門下生である。

2006-08-23

通夜


 今日、後輩のお母さんの通夜。世法でみれば、不遇の死であったかも知れない。しかし、法の眼(まなこ)でみれば、自由自在の境涯へと旅立ったことは疑いなし。死して尚、偉大なる生命力が、必ずや後輩を守ることだろう。

『周恩来、池田大作と中日友好』孔繁豊、紀亜光/周恩来トウ穎超研究会訳


 日本との国交正常化を強く願い、率先して行動した周総理。猛烈な非を受けながらも、日中国交正常化を訴え続けた池田誉会長。そして迎えた国交回復。

 2人の指導者の“一期一会”の会見から、さらに、平和友好条約締結。世々代々にわたる永遠の友好を築くために果たした役割と貢献を、歴史のページをひもときながら詳細に描き出す。


白帝社サイトより】


周恩来、池田大作と中日友好

2006-08-19

号令だけの幹部を許すな


 リーダーは、どこまでも会員一人ひとりを大事にしていくことだ。 深い慈悲をもって接していくことだ。

 皆のために尽くすのが、リーダーである。組織の上に乗っかって、偉ぶったり、号令だけかけるような人間を許してはならない。

 広宣流布のために尽くして迫害され、弾圧された。牢獄へ行った──これが学会の三代の会長である。

 それを、自分は一切、を受けることもなく、偉ぶって、同志をしめる──そうした幹部が出たとすれば、それは“物”である。恐ろしいことである。そうした人間に対しては、女をあげ、断固として戦ってもらいたい。


【女子部・婦人部合同協議会 2006-02-14 信濃文化センター】


 皆のために自分を犠牲にできるか、あるいは、自分のために皆を利用するのか――。外と容易に判断できそうなものだが、実はそうでもない(笑)。


 特に、打ち出しを推進することに四している幹部は危ない。明確なビジョン、展望、目的がなければ、打ち出しなんぞに味はない。それじゃ、ただの雇われ兵だ。


 また、質問や見が出て、十分に納得させることができなければ、それは、ただの押し付けとなる。力もなければ、頭も働かない幹部に限って、「とにかく頑張ろう!」「とにかく題目だ!」を連発する。正論を吐くのが指導であれば、コンピュータに任せればいいのだ。


「一日に一万遍のお題目よ!」なあんて言う婦人部幹部も多い。こんな幹部は信用しちゃいけないよ。御書のどこにもそんなことは書いてないのだから。こんな指導が、まことしやかにまかり通っているから、一万遍あがらない学会員が皆、落ち込んでしまうのだ。相手に「やれ!」という指導は鵜呑みにしないことだ。


“100万遍の唱題”は、信即生活の上からも納得できる目標だ。それ以外は、信用する必要なし。


 役職が上がれば上がるほど、「つべこべ言わないで、何でも構わないから、結果を出してくれ」と望むようになる(笑)。後輩の幸福とか、人間革命なんて関係なくなっちまう。これが、権力の奴隷と化した浅ましい姿だ。


「俺はそうじゃない!」と言い切れる幹部がいるなら、「目標は我々幹部でやりますから、皆さんは自分の幸福を目指して下さい」と言ってみせろ。

2006-08-15

思い切って言わなければ変わらない


 私は広宣流布の土台を築くために、私財を捧げ、一切を投げ打って、学会のため、同志のために尽くしてきた。

 いよいよ、これからが総仕上げだとっている。

 学会が、もう一歩強くなり、永遠に発展するために大事なのは「幹部革命」である。

 上の立場になって人から何も言われなくなると、人間は往々にして悪くなる。格好よく見せようとする。

 この点、幹部はよくよく自覚しなければならない。

 どこまでも、学会のため、同志のための幹部である。

 もしも、ずるい幹部や威張る幹部が出たら、皆がどんどん言わなければならない。正さなければならない。

 また幹部自身も、皆にどんどん言わせなければならない。

 抑えつけるのでは、よき人材がいなくなってしまう。

 牧口先生は常々、「下から上を動かせ」と教えられた。

「上から下」ばかりではいけない。「下から上へ」積極的に見を言っていく。そういう雰囲気があってこそ、新しい前進が生まれる。

沈黙するということは、慎重なのではなく、臆病なのである」

 これは19世紀、人権のために闘ったスペインの女、コンセプシオン・アレナルの言葉である。

 遠慮などいらない。

 言うべきことを言わないのは、臆病である。

 い切って言わなければ、変わらない。

 皆が変革のためのを上げていく。堕落した幹部は厳しく正す。

 ここに、これからの長い未来に向けて、学会を磐石にしていく重大な一点がある。

 人種差別撤廃のために戦った、20世紀のアメリカの女、ヴァージニア・ダーは述べている。

「邪悪への寛容は、さらなる悪を生み出してきたようにえるのです」

「たとえ何が起ころうとも、悪人とは闘わなければならないとうのです」

 学会員は人がいい。それにつけいる狡猾な悪人も出てくる。

 断じて騙(だま)されてはならない。許してはならない。愚かであってはならない。

 邪悪に対しては、容赦なく攻めるのだ。そうでなければ、こちらが損をする。徹して攻めて攻め抜いていくのである。

 悪に対しては直(ただ)ちに反撃する。これが大事である。

 ぐずぐずしていれば悪は広がる。小さな兆候も見逃してはならない。清浄な学会を守るために、リーダーは厳然と戦わねばならない。


 これまでも学会のお陰で偉くなりながら、私利私欲に駆られ、卑劣にも同志を裏切った人間がいた。

「忘は重大な悪徳であって、われわれの堪えがたいもの」とは、古代ローマの大哲学者セネカの言葉である。

 私は忘の人間と戦いながら、戸田先生をお守りし、師の構の実現のために走り抜いてきた。

 太陽は一つである。同じように、私にとっての師匠は、ただ戸田先生しかいないと決めて戦ってきた。

 広布を阻む、あらゆる悪を打ち砕いてきた。だから学会はここまで発展したのである。


【婦人部代表幹部協議会 2006-02-10 東京・新宿区】


 ずるい幹部が多過ぎて、モグラ叩き状態だ。次から次と出てきやがるよ(笑)。


 法民主主義こそ、学会が永遠に発展しゆく根本軌道であるとの指導。これを実践しなければ学会は崩壊する。


 現実は厳しい。保身の幹部が結託し、問題を放置している。官僚主義こそ悪の温床である。


 週に一度だけ動くパート幹部、会合専門・打ち出し専門の幹部、電話だけのオペレーター幹部、書類だけ配るコピー幹部……。こんなのが何千人、何万人いたところで革命は成らない。


 先輩諸氏は、後輩のためにもっと犠牲になるべきだ。「一将功成って万骨枯る」ようなことがあれば、堕地獄必定と知れ。

2006-08-12

2006-08-10

学会員サイト


 学会員が経営している会社サイトを教えて下さい。法人・個人を問いません。

2006-08-09

友の声に素早く呼応せよ


 私は毎日、世界中の同志から様々な報告を受けている。

 同志から寄せられるには、私はいち早く、確実に反応してきた。

 ある時は激励の伝言を送り、ある時は御礼を述べる。緊急で指示を出さなければならない時もある。

 友のに直ぐに呼応する。何かの手を打つ。

 こうした一つの誠実な反応があれば、友のにパッと喜びが広がる。勇気が広がる。

 何より、懸命に戦う友への“礼儀”であるといえよう。

 特に日本人は曖昧で、物事を決めないといわれる。

 世界中どこでも、一流の人は決断が早いものだ。

 自分から皆のを聞き、どんどん報告してもらう。そういう配りもリーダーは忘れてはならない。


【婦人部代表幹部協議会 2006-02-10 東京・新宿区】


 例えば、留守番電話に伝言があったとしよう。後輩からの場合、「○○です。また、電話します」という内容が大半である。私は直ぐに電話をかける。既に遅い時間であれば、翌に必ず連絡する。相手のを聞くまで、「何かあったのかな? 事故か、悩みか、問題か……」とに緊張が走る。いい報告を期待することは絶対にない。


 私にとっては、これが普通だ。何の努力も要さない。20代から条件反射になっている。ゆえに、私から電話をし、「メッセージをお聞きになりましたら、ご連絡下さい。何時でも結構です」と言ってるにも関わらず、電話をしてこなかった幹部は二度と信用しない。たとえ、相手が副会長であったとしてもだ。クソ幹部を相手にしていると、こっちの信までおかしくなっちまう。


 先生が指導されていることは策ではない。演じようとしたって無理だよ(笑)。人間の発露として、自然に振る舞うことができなければ、役職に乗っかって踏ん反り返っている証拠だ。


 先生は偉大である。だが、偉大な幹部は少ない。ってこたあ、自分が偉大になるしかないね(笑)。共々に偉大な弟子に!


【※指導は、NON氏の投稿によるもの】

2006-08-08

諸君は家庭の“主役”


 ともあれ、楽しく、有義な夏休みを過ごしていただきたい。諸君は将来、社会の立派なリーダーになる使命の人である。そのための土台をつくっているのだという自覚で、賢明に一日一日を送ってほしい。

 家庭においても、両親と触れ合う時間が多くなる。よい面もあれば、悪い面もあろう。

 夫婦喧嘩を見る機会も増えるかもしれない(大笑い)。子供にとっては、嫌なことだとうが、いたずらに深刻になっても仕方がない。

 始まったら、「あ、やってるな。『健康な証拠』だ」(爆笑)と、大らかに包容してあげる(笑い)くらいで、よいのではないか。実際、相当の生命力がなければ、夫婦喧嘩などできない(大笑い)。派手にやっている内は、「まだ、元気だな(爆笑)。健康上、大丈夫だな」と前向きに考えていけばよい(笑い)。


 親子の喧嘩も頻繁(ひんぱん)になるかもしれない。親というものは久遠の昔以来(爆笑)、子供を叱るものである。また、何とか親の権威と面目を保とうとする。その切ない立場をわかってあげることだ(大笑い)。

 お父さんが威張りだしたら、「うん、お父さんは今世は願って庶民に生まれてきた(笑い)。しかし、せめて家ではミニ“大統領”か“大社長”になってみたいんだな(大笑い)。オヤジもしいところだ(爆笑)。ここはひとつ、犠牲的精神で(笑い)、民衆の一人になって聞いてあげよう(大笑い)」と。

 こう考えられたら、その人は大人である(大拍手)。

 また、お母さんが怒(おこ)りだしても(笑い)、ともかく返事だけは(爆笑)「はい」「その通りです」と素直さを上手に演じておけば(笑い)、向こうもそれ以上、怒りようがなくなる(大笑い、拍手)。

 胸の中では「こんなに泣いたり、怒ったり、百面相みたいだな(笑い)。女優になれなかったから、来世に備えて練習しているのかな(爆笑)」と考えてあげる余裕をもっていてもいい(爆笑)。

 そして、たまには「父上、肩でもお揉みしましょう」(大笑い)と、お世辞でいいから言って(爆笑)、「さすがに良い子供に育った」と、喜ばせてあげるくらいのサービス精神があってもよいのではないだろうか(大拍手)。


 ともあれ、諸君もまた、家庭における“主役”である。脇役ではない。自分の家庭を、自分の主体的な努力で、明るく健康な方向へ、幸福の方向へと建設してゆく権利がある。また、責任がある場合もある。

 家庭に限らず、あらゆる人生の舞台において、あの人がこうだから、この人がああしてくれたら、などとばかりい、不平不満でを揺らしているのでは、わびしい。自分が損である。

 強く、自分自身の生命に生きることである。人はどうであれ、自分は自分である。利己主義はいけないが、よい味での個人主義、人格の自立が必要である。

 自分が一番大事である。一番尊いし、様々な素晴らしい可能をもっている。その大切な自分の人生を、他人に振り回されて暗くし、台無しにすることは愚かである。

 ヨーロッパでは個人主義が発達した。これは一面では様々な経験と労を経ての結論であったともいえる。「結局、これでいくしかない」と。このことについては、いつの日か、また論じたいとう。


【第2回未来部総会 1989-08-10 長野研修道場


 アップするのを忘れてたよ(笑)。2005年1122日に発行したもの。


 残虐極まりない少年犯罪が起こるたびに、「教育がどうのこうの」とメディアは論じる。最近の傾向としては、「親に問題がある」という論調が優勢。「で、どうすりゃいいんだ?」と私は胸の内で必ず吐き捨てる。「親が悪い」と100万回言ったところで何の解決にもならないのだ。「てめえの子供を連れて、テレビに出てみろよ」ともう。


 バブルが弾けてからというもの、テレビを始めとするメディアは、寄ってたかって「叩く」風潮が強くなった。亀田父子、村上ファンドホリエモンなんぞはその典型だろう。大衆の憎悪を煽り立て、バッシングする様が、ファシズムわせる。何度も何度も垂れ流される映像によって、世論は片一方にどっと傾く。メディアの“2ちゃんねる化”といってよい。叩くなら、母さんの肩だけにして欲しいもんだね。


 この指導をただ笑いながら読んでるようじゃ30点(笑)。先生が未来部に対しておっしゃっていることは、常識とは正反対である。家庭がギスギスしていれば、親に責任があるのは当然であり、注されるべきは親である。


 ところが先生は、「そんな、クソみたいな親は相手にしなくていいよ」とは言わない。「でき損ないの親の元に生まれてこなければならない自分の宿命を呪え」とも言わない。ま、そんなことを言うのは、私ぐらいか(笑)。


 この指導は凄い。“現実主義に根差した智”そのものである。これが法だ。親を否定すれば、子供が傷つく。また、何かを否定することは逃避につながる。反対に安易な肯定は、あきらめを生む。


 智は、明るく逞しい方向へと人生を引っ張ってくれる。つまり、暗い方向へ進ませるのは悪知恵ってことだ。


 何にも増して智は、人の一を変える。正しい方向へと生き方を変化させるのだ。


 芸術的としか言いようのない指導である。


 未来部の諸君、い出多き夏休みであるように。どうせ汗を流すなら、偉大な何かのために汗を流そう。絶対無事故で。

お願い

 この指導の会場がわかる方がいらっしゃったら、ぜひとも教えておくんなさい。多分、『今日より明日へ』62に掲載されているはずです。昨日から探しているんですが、中々見つからないので。「カレーの市民」の指導です。

※J女史より教えて頂いた。より謝申し上げます。明後日より配信予定。

2006-08-03

お互いに、言いたいことは、はっきりと言っていく


 時代は大きく変わりつつある。少子化の進展も予以上に早い。日本の人口も減り始めたといわれる。

 さまざまな味で、組織を変革し、新たな時代への対応を考えていかねばならない。リーダーが、そういう識をもっていくことが大切である。

 ともあれ、学会は「率直」でいくことだ。

 変に気取ったり、格好つけたり、そんなことをする必要はない。

 お互いに、言いたいことは、はっきりと言っていく。これが大事である。

 そうして、皆の英知を集めていくのである。


【全国代表協議会 2006-01-27 創価文化会館


 2004年の合計特殊出生率は1.29である。長期的に人口を維持できる水準が2.07というから、このままだと21世紀末には、日本の人口が半分ほどになってしまう勘定だ。

 その上、高齢化に拍車がかかってくるのだから、大変な事態が定される。

 まあ、単純化してしまえば、働き手一人でもって、お年寄りと子供を養うような社会構造となる。どのような歪(ひず)みが現れるのか像もつかない。景気は上向きつつあるものの、税負担が大きくなることも予され、深刻なストレスが大手を振って歩き回るに違いない。


 人口が減少しつつある今、大事なことは「内部をしっかりと仕上げる」ことだ。今、デタラメな成果を出しているところは、必ず数年後にはツケとなって返ってくる。支部長以上の役職を担っている人であれば、「せめて一年間に一人は育てなさいよ」と言っておきたい。そんなことすら出来ない幹部は邪でしようがない。昔、戦ったから、幹部になったのだろうが、今、何もしてないのが多過ぎる。


 先生からこれだけの指導を受けている現在、昨日までと同じ戦いをしていれば、それは謗法である。「変わってない」という現実が、既に堕落している証拠なのだ。


 大聖人が身延に入られてから、日興上人は勇猛果敢な折伏を展開された。弘教の火の手は次々と燃え上がり、その中から熱原の三烈士が登場した。入信わずか一年あまり。文字すら読めなかったであろう農民信徒が、権力者の迫害に屈することなく殉教を貫いた。


 我々は歴史としては知っている。だが、実際の日興上人の激闘は知らない。首を斬られても尚、妙法を唱え続けることのできる後輩を育てた人なんて、いやしないだろう。自分だって危ないもんだ。しかも熱原の三烈士は多分、大聖人とお会いしてないとうよ。


 残された時間は少ない。我々が、日興上人の後に続くか、五老僧となるかの分かれ道に差し掛かっている。

全ページが消失?


 いやあ、青くなっちまった。突然、全てのページが見れなくなっちゃうんだもの。これが、デジタル情報の恐ろしさ。まさに、破壊は一瞬。レンタル・サーバーがPHPのバージョンアップをしたことによって、PukiWikiのバグが判明した次第。

2006-08-02

『ALWAYS 三丁目の夕日』


 映画『ALWAYS 三丁目の夕日』に、小道具で『冒険少年』が出ているらしい。

2006-08-01

戸田先生「悪への怒りなき者は去れ!」


 更に、戸田先生の指導を紹介したい。

 先生は言われた。

「どんなに人柄が良くても、立派そうに見えても、悪に対して弱い人間、悪と戦わない人間は、結局、正義がない。信がない。本当の人格がない。ずる賢い人間だ」

学会に、腰抜けの人間はいらない。悪への怒りなき者は去れ! 私は、最後の一人になっても戦う!」

 いくら言葉がうまくても、敵と戦えない人間はリーダー失格である。

 学会に仇をなし、師匠を傷つける輩とは断じて戦う──そうした気概と行動があってこそ、本物の広宣流布の指導者である。


【全国代表協議会 2006-01-27 創価文化会館


 戸田先生の胸の内には、軍部からの迫害によって退転していった戦前の最高幹部の不甲斐ない姿が刻印されていたに違いない。彼等は、平穏な時は一丁前の口を叩きながら、我が身にが降りかかると一目散に逃げ出した。


 更に、時の権力に迎合しようとした坊主の姿と、それに敢然と異を唱えた牧口先生の姿も。


 絶体絶命となった時、人の根が現れる。学会に保身の人物は要らない。師は、革命児のみを必要とされているのだ。


 壮年幹部に染みついた、妥協・狡猾・虚言・馴れ合い事なかれ主義を私は恐れる。ドブのような腐臭をじることも珍しくない。


 惰という時間を経て腐敗に至る。これが怖い。師弟という炎を燃やしている限り、腐ることはない。だが、新たな水と材料を加えないと煮詰まってしまう(笑)。


 先生とをつなげ、祈りを重ねながら、新たな出会いを求め、いまだかつてない目標に挑みたい。


 東京は、やっと梅雨明け。