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2006-10-31

ミラーサイト


 本拠地である「創価ネットワーク」のミラーサイトを立ち上げた。

 ネットで商売をしている関係もあって、ずっとレンタルサーバーを使ってきたが、「創価wiki」(PukiWikiを使用)が崩壊したことで、考え直さざるを得なくなった。


 大体さー、2万円も払ってダメなものが、無料の「はてな」で出来るってえのが、納得いかないわな。


 それともう一つ大きな問題は、スパムメールが多いことだ。これは、某ショップモールに登録していて、商売用のアドレスが公開されているため。何とかして欲しいんだがねえ。


 私は少々乱暴なところもあるのだが、実は大変、神経が細かい。そう、「ミスター繊細」とは私のことだ(笑)。スパムメールは悪質な行為である。しかし、受信した途端、今度は自分がスパム行為を支えているような覚に捉われる。そして、スパムの量は確実に増え、人生の貴重な時間が「Delete」キーを叩くことに費やされるのだ。もう、我慢ならないね。私は繊細な上に短気なのだ。郷里の言葉でいえば「ミスター短腹(たんぱら)」。


 そこで、1年計画で全てのサイトを無料ページに移動することにした。無料サイトであれば、私が突然死んだとしても保存されるから安だ(笑)。更に、メールアドレスは、Gmailで十分間に合う。


 有料のレンタルサーバーを使っている方は一考された方がよろし。

  • NINJA TOOLS 【容量無制限、ファイル置き場可、CGI不可、広告小さい】
  • FC2 【容量1GB、ファイルマネージャー、CGI不可、胡散臭い広告が多いのが

国会万歳!

 国会は実に有義だ。税金を払っている国民は政治家の底から謝していることだろう。民主党の参議院議員・広野ただし氏の質問。「万年野党の面目躍如」といったところ。そんな下らねー質問してるから、頭がハゲるんだよ。

2006-10-30

「Rydeen」YMO

「あんまり信とは関係ないことを紹介するなよ」とった君は甘い。甘過ぎる! この曲が収録されたアルバム『Solid State Survivor』は、1979年925日に発売されたのだ。つまり、会長勇退の年ってこと。時代が大きく変わることを象徴していた曲である。

「生死一大事血脈抄講義」抄録 6


 十界といっても、決して固定した環境、客観的な情勢をいうのではない。自己自身の生死の山河の中に十界の当体があるということであります。

 借金取りに追われるとか、受験勉強しむなどということが地獄界の生命の一つとして考えられてまいりました。しかし、より本源的には、地獄しみも、生死にかかわるしみであります。生きたい、死にたくないというあがきから、地獄しみが生まれてくる。様々なしみは、その派生的なものといってもよい。餓鬼界も、生死にかかわる「貪り」の生命でありましょう。言い換えれば、日々の生活はその奥深くに「生死」というテーマが常にかかわっているのであります。病気でしむのも死にたくないからであり、誉や地位を追求するのも、学問の道を目指すのも、その人の人生へのかかわり方からくる問題なのであります。

 日常の些細な事象、それをただそのままでとらえていれば、生命の本義はわからない。些細な喜怒哀楽のようにみえても、奥深くで生死ということ、生命・人生ということと結びついているのであります。世の人々はそれを識的にか、無識的にか、避けているに過ぎないのであります。    

 この十界の変遷(へんせん)の奥に横たわる、深刻な生死の課題、生命自体の問題に取り組み、それを昇華させていってこそ、初めて境涯の転換もある。六道から四聖へ、二乗から菩薩道へ、また界へという人間革命は、生死とかかわる姿勢、人生への態度、そして生命の究極法を求めることによってしか、なし得ないともいえるのであります。


【『「生死一大事血脈抄」の池田会長講義』/聖教新聞 1977-04-18、20、22、25、27、30日付】


 メールマガジンの指導が短過ぎたので、大幅に付け足しておいた。


 ためが出るほどの指導である。以下、要暗記のこと――

  • 自己自身の生死の山河の中に十界の当体がある。
  • しみ」は生死と関わっている。
  • 日々の生活の奥深くには「生死」というテーマが常に関わっている。
  • 楽」とは、その人の人生への関わり方が現れたもの。

 先生は、人生と生命の天才であられる。私の持ち合わせる貧しいボキャブラリーでは、そうとしか表現のしようがない。ただただを飲んで、「凄い!」と叫ぶ以外にない。多分こういう覚を抱かせる人を、古(いにしえ)の衆生は「」とづけたのだろう。


」とは世間でいう位とは異なる。釈尊も大聖人も「私はだから拝め」なんて一度も言ってない。だから尊敬されたのではなく、尊敬されたからなんだとうね。さしずめ、「諸法実相抄」の倶体倶用の如し。


 十界論ってえのあ、やっぱり凄いね。生命の変化相、固有と尊厳、平等と可能、方向と志向、垂直の時間と水平の空間、環境と主体、因果応報と縁起……。生命をあますところなくすくいとった上で、切り取られた境涯の断面図が十界なのだ。


 もっともっと、十界論から派生した研究・索が必要だ。

2006-10-29

「生死一大事血脈抄講義」抄録 5


 なお、これは生死を人間の一生、また三世という巨視の眼でとらえたものでありますが、私どもは瞬間瞬間にも生死を繰り返しつつ、一生という、より大きな生死を形成しており、小さな生命の生死が大きな生命の生死を支えていることも知らなければならないとうのであります。

 空間的な尺度で生死をみていった場合でも、例えば星雲が生々流転を遂げるのは、個々の星の成住壊空の集積であり、その星も様々な生物、山河の生死の上に、その一生をつくりゆくのであります。人間の一生をみても、生まれた時に受けた色法を、最後までたもつのではない。大部分の細胞は、生まれては死に、生まれては死んでいく。その生死が新陳代謝をして身体へ若々しい活力を与え、全体としての生命を支えていくのであります。また我々の生命に生死が同居している場合もあります。

 例えば爪や髪は死であります。非情といってもよい。その根源は生でありましょう。生から死への移行は水の流れるごとく自然であり、また新しい髪や爪が伸びてくる。この生死の累積が一個の生命となるのです。

 このように、生命は個別的、無統一的に存在するのではなく、重層的、統一的存在であり、小さな生命がより大きな生命を形成し、小さな生死の支流が大きな生死の流れに注ぎ込んでいき、やがては宇宙生命という大海に流入していくのであります。生命というものの不議さをぜざるを得ない。

 また、時間的な眼でみれば、一瞬一瞬、私どもは生死を体験しているといえる。今この一瞬の生命が地獄界であれば、地獄界が「生」で、他の九界は「死」の状態である。ところが病気でしんでいたのが、病気が治ったとする。嬉しくて嬉しくてしようがない。天界です。

 そうすると、一瞬前の地獄界は、どこにもない。地獄界の死であります。すなわち、地獄界は他の境界とともに死となり、そこには天界の生命が生き生きとあらわれる。病気が治って、さあこの歓喜を皆に伝えていこう、法対話をしようというふうに変わっていけば天界の死で、菩薩界の生というふうに移っていくでありましょう。瞬間瞬間、十界のいずれかが生、他の九界は死となっており、次の瞬間には他の生死と変わっていく。その積み重ねとして一生があるのです。このように瞬間に生死がそなわるのも、決して天界が生の時に他の九界が「無」になっているということではない。冥伏しているからこそ、次の瞬間に「生」となってあらわれるのは、いうまでもないことであります。

 したがって、生死といっても、現在の一瞬をどう生きるかの積み重ねであります。永遠も一瞬の連続であり、一瞬に生涯が凝縮されてくる。瞬間の一が生死の根源となっていくのであり、大きくは宿命転換の原理もそこにあると考察できるのであります。

 現在の一瞬を大切にし、立派に生を輝かせ、爽やかに次の一瞬の生へと移っていけば、還滅門(げんめつもん)の生死となり、六道の中を、暗き生死から暗き生死へと落ち込んでいく生死は、流転門の生死であります。その故にこそ、生死の二法を貫く南無妙法蓮華経の法によって、一瞬を永遠に生きる生死の転換が必要となってくるのであります。


【『「生死一大事血脈抄」の池田会長講義』/聖教新聞 1977-04-18、20、22、25、27、30日付】


 法の基本的な概だが、若いメンバーのために敢(あ)えて書いた箇所。法は複眼である。天高く舞う鷲の俯瞰(ふかん)と、地を這う蟻の視線を持ち、天体望遠鏡と顕微鏡の視点を併せ持つ。永遠といっても瞬間瞬間の積み重ねである。そして、生の実は「今」という刹那(せつな)にしか存在しない。自分という一点を中に、現在の一瞬は如々として去り、未来が如々として流れ来る。


 とてつもなく大きな流れの中で、宿命に翻弄されゆく「流転門」の人生となるか、それとも、生死の縛を滅し、妙法と一体の「還滅門」の一生となるかは、自分次第である。否、自分というよりは今世だね。そして、今世といっても、今この瞬間に凝結していることを我々は自覚しなければならない。


 だからね、所詮「今」なんだよなー(笑)。題目あげてる時なんかは、本当にそれを実するよね。惰に流されたり、決に燃えたり、義務の塊(かたまり)になったり、神々しさと懐かしさで一杯になることもある。これが、生命の実相だ。普段は皆、何となく頑張っているような気になっている。だが、その実態は、御本尊の前で南無した時に露見するのだよ(笑)。だから結局、信とは、自分と御本尊だけが知る世界なんだね。


還滅門」と「帰命」がダブる。人々の欲望が渦巻く社会で戦う我々は、常に妙法の大地に帰り、再びそこから立ち上がって行こう。

2006-10-28

「生死一大事血脈抄講義」抄録 4


 生を顕在化、死を潜在化ととらえる法の究極の哲理は、なんと、悠久、偉大な生命をみてとっていることでしょうか。

 しかも、その生と死は不二であると説いているのです。生を働かしているものは潜在化した妙なるカであり、また、潜在化した生命は、やがて縁にふれて顕在化し、ダイナミックな生を営み、色彩豊かに個を発揮していきます。やがて、その生は静かに退き、死へと赴く。しかし、その潜在化は新しいエネルギーを蓄えつつ、新しい次の生を待つのであります。

 いわば生は、それまで休し、蓄えた生命のカの爆発であり、燃焼であり、やがてその生命の一巻の書を綴り終えて、死に赴く。その宇宙それ自体に冥伏し、潜在化した生命は、宇宙生命の力をそこに充電させながら、生への飛翔を待つのであります。

 これが、本来の生死であり、この宇宙本然のリズムの根源が、南無妙法蓮華経であります。ところが、その本然のリズムとの波長が合わず、偏向を帯びた生命は、その生死の流転の中に、主として地獄、餓鬼、畜生界等に偏りつつ、ぎこちない運命をたどっていきます。いわゆる宿といわれるものが、それであり、重々しい鉄鎖にしばられつつ生まれ、また死んでいくのであります。

 この偏向した生命を、本有の生死へと転換していくものこそ何か。まさしくそれは、南無妙法蓮華経の一法に帰し、その一法から発していくしかないのであります。


【『「生死一大事血脈抄」の池田会長講義』/聖教新聞 1977-04-18、20、22、25、27、30日付】


 生死について、寿量品の「若退若出(にゃくたいにゃくしゅつ)」の文を挙げて講義された箇所。「起は是れ法の起滅は是れ法の滅」(1337頁)も同様のと考えてよかろう。


 有無という二元論ではなくして、顕在化と潜在化という変化相。戸田先生が獄中で悟達されたきっかけとなった「三十四の非ず」がい出される。


 生命とは、中道とは――。まだまだ索が足らず。

2006-10-27

パロディ


 明治安田生命のCMをパロったもの。死ぬほど笑える。昨夜、見つけたのだが、今日、腹筋が筋肉痛になってるほどだ。こんなに笑ったのは、何十年ぶりだよ(笑)。「言葉にできない」というよりは、「言葉にならない」――。

2006-10-26

「生死一大事血脈抄講義」抄録 3


 まず「生死」とは、生と死ということであり、大きく二つの味があります。一つは、生老病死の四苦を略して「生死」といい、しみを表す場合と、いま一つは、永遠の生命観に立って、生まれては死に、死んではまた生まれてくるという、生死の流転を繰り返す当体を表す場合とであります。

 ここでの「生死」は、いうまでもなく生命を味しているのであります。

生と死は、生命の変化の姿であり、逆にいえば、生と死にしか生命はあらわれないのであります。

 凡夫の眼には、生命は生で始まり、死で終わるとしか映らない。しかし、法の視点は、この限界を打ち破って、生とあらわれ、死として持続している全体を貫く「生命」そのものをとらえたのであります。


【『「生死一大事血脈抄」の池田会長講義』/聖教新聞 1977-04-18、20、22、25、27、30日付】


 生命は生死というリズムを奏でながら、永遠を貫く。動物に未来という概はない。であれば、死ねば終わりとする考え方は、やや動物的なのかも知れぬ。


 科学の発達は、生命をあまりにも矮小化(わいしょうか)したがある。法で説かれる三世十方に広がりゆく生命を、ちっぽけな脳みそや、もっとちっぽけなDNAに押し込もうとしている。


 生の味を深めることがなければ、科学もも不毛だ。悶にのた打ち回る人や、悲嘆に打ち沈む人を救えないのであれば、一片のパンにすら劣るのではなかろうか。


 生きてるのか死んでるのかわからないような、そんな生き方だけはしたくない。他人の顔色を窺いながら、あっちでペコペコしながら、こっちで悪口を吐いている人々がいる。住宅ローンに縛られて、やりたくもない仕事をダラダラと続けるサラリーマンがいる。愛情のひとかけらもなく、互いの短所だけを冷たく見つめ合い、「子供がいるから仕方がない」とためをつきながら、何十年も同じ屋根の下で暮らしている夫婦がいる。


 こんな人々に限って、全く別の世界に幸福を求めているものだ。自分が幸せでないのは、会社のせいであり、亭主のせいであり、周囲のせいであり、環境のせいであり、政治のせいであり、教育のせいであり、時代のせいであり、世界のせいなのだ。


 これほど不自由な生き方はあるまい。黙っていても何も変わらない。自由が欲しいなら――叫べ!

報道の自由――北朝鮮5年連続最下位、日本は51位


 国際的なジャーナリスト団体「国境なき記者団」(本部パリ)は24日、168か国を対象に報道の自由に関する調査結果を公表した。

 北鮮が調査開始の2002年以来、5年連続で最下位、日本は51位(前年37位)だった。

 調査結果は北鮮について、「絶対的な権力を握る金正日体制が報道界を完全に支配している」として報道の自由がないことを指摘している。東アジアや中東に報道の自由に欠ける国が多く、ミャンマー164位、中国163位、イラン162位、イラク154位などの順。

 逆に、上位は欧州諸国が占め、1位はフィンランド、アイルランド、アイスランド、オランダの4か国となった。日本については、記者クラブの存在とナショナリズムの高揚を順位低下の理由として指摘した。

 米国も当局と記者団との関係悪化で前年比で9位後退して53位だった。


【読売新聞 2006-10-24

「ネット教学部」部員を募集!


 はてなの機能が、私の構をどんどん膨(ふく)らませてくれる。


創価辞典委員会」のメンバーを中に「ネット教学部」(仮称)を立ち上げる。で、辞書やリンクを充実させた上で、御書全文をコピーする。こうすれば、登録したキーワードの自動リンクが網羅できる。つまり、語句注解、背景、資料つきの御書が出来上がるのだ。こいつあ、案だ!


 しかーーーしっ、はてなへの結集を叫んだにも関わらず、私の熱烈なメッセージに応じた方は、わずかに3という現状である。「創価辞典委員会」に関しては、たった一人……。


 ま、愚痴を吐いても仕方がない。先んずる者は孤独を愛する必要がある(笑)。ってなわけで、「ネット教学部」部員を募集! 申し込みは以下から――

 尚、労多くして功少なき作になることが明らかなので、御書は非公開とし、グループメンバーのみで活用できるようにすることを申し添えておく。

昭和17年2月1日に行われた幹部会


☆牧口会長総論、「依法不依人」の精神を以て、一家も一社も各支部も専制的指導を誡めよ。

☆新支部長決定 かくて支部数は二十五となる。

☆野島理事の提案に基き、次の如く決定

 一、折伏強化運動 各支部は会員を倍加すること。各支部毎に一人が一人以上を折伏すること、第一期は六末とし、増加会員を理事長に報告する。各支部は地域的に会員を定めること。各支部長は各支部会員簿を整理し、三一日までに理事長に報告する。

 二、挺身隊の設置 各支部より挺身隊員候補者男子二以上を推薦し、本部理事会により決定する。

  目的

   1.各職域の指導的地位にある者を折伏する

   2.特別会員の獲得

   3.退転者の再折伏

   4.当宗の害虫的信仰者の再折伏

   5.僧侶の諫暁

 三、婦人部の活躍

    婦人部も挺身隊に準じて、各支部より挺身隊二以上を推薦する。

 四、地方支部は右に従う


【『価値創造』第6号(昭和17年210日発行)】


 当局による弾圧が始まったのが、この頃(昭和17年/1942年)だった。戦前の創価教育学会は、教員達が牧口先生を慕って自然に会員数が増えていったものと勝手にい込んでいたが、大間違いであることが判った。先師牧口先生は一人立ち上がって、宗教革命の火の手を上げた。既に前年の昭和16年(1941年)暮れ頃から、牧口先生は政府との対決姿勢を明らかにされていた。齢(よわい)七十を過ぎて、まさに三類の強敵を呼び起こす闘争をし抜かれた。機関誌の『価値創造』はこの後、510日に発行した第9号をもって、当局の指示によって廃刊に追い込まれた。


 1010日、日蓮正宗宗務院は、伊勢神宮を遥拝するよう「院達」を出した。更に1119日には、日蓮正宗で報国団が結成される。宗門も法華講も、戦争への協力を惜しまなかった。このような状況下にありながら、牧口先生座談会を開き、折伏を推進された。既に特高刑事が座談会を監視するようになっていた。そして遂に、翌昭和18年(1943年)76日の逮捕劇となる。


 法華講員は、「害虫的信仰者」だった。これが歴史の事実である。更に、「僧侶の諫暁」とは、日蓮正宗の坊主に対するものであろう。これが他宗であれば、「破折」と表現するはずだ。日蓮正宗は既に邪宗と化していた。

野崎勲副会長


『正論』(産経新聞社)の編集長・大島信三による野崎副会長の死を悼(いた)む記事。こんな記事があったのね。

2006-10-25

イーホームズ藤田東吾社長、官邸直訴


「犬のおまわりさん」ならぬ、おまわりさんは犬

官僚はもっと犬

 権力者に睨(にら)まれた市民がどのように扱われるかが一目瞭然である。創価の三代会長が闘ってきたのは、こういう相手だったのだ。

臓器提供について


小野不一


 法上、臓器提供については、どのように考えればよいのでしょうか?


 昔、「遺体を損してはならない」というような文章を読んだような記憶があるんですが……。


 以前、先生が書かれた「脳死論文」(『東洋哲学研究』)では、特に「やれ」とも、「やるな」とも書かれておりませんでした。


 ただ個人的には、臓器提供が「相手の宿命転換になる」とはえません。



 法上、臓器提供については、どのように考えればよいのでしょうか?


 私も小野さんと同様の疑問を持っています。死刑廃止に抱くような、私個人の明確な答えがありません。


 脳死移植についてのさまざまな論考や書物を読みました。もちろん先生のテキストも拝読しました。現行の脳死移植の法律にも、議論されている改正案についても、釈然としないいがあります。


 脳死移植については、臓が動いていても人間の死なのだと、そこまで画然と割り切れるのかという疑問があります。欧米キリスト教の唯論的な人体観にはなじめません。いわゆる和田移植についても、功を焦った医者のフライング殺人との疑いをぬぐいきれません。


 またこれは、先に事件が報道された生体間の移植についても言えることですが、金持ちや強い立場にある者が、貧乏人や弱い立場の人を犠牲にする可能を捨て切れません。法律上の規制はあっても、抜け道はどこにでもあるものですから。


 アメリカで多発している子供の失踪の一部はそうした需要のためではないかとのおぞましい考察を読んだことがあります。途上国のアングラ市場では公然と売買されているという噂も聞きます。


 一方で、臓器移植は、優秀な人工臓器が開発されるまでの過渡期の需要だとする見もあります。


 ただ個人的には、臓器提供が「相手の宿命転換になる」とはえません。


 これは私も同です。


命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりとも・これを延るならば千万両の金にもすぎたり」(「可延定書」986頁)


一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」(同頁)


 との御金言はズシンときますが……。祈り、索し続けるしかないのだといます。


小野不一


 鋏さん、いつも理知的な応答をありがとうございます。


 大事なことだとうので、ちょっとメモしておきますね。

  • そもそも、自分の死を他人に勝手に決めて欲しくない。
  • 臓器提供は、人体を部品化するようで嫌だ。
  • 何となく、「他人の不幸(死)の上に自分の幸福を置いている」ような気がする。
  • 提供してもらう側が、「他人の死」を願うようになることを避けられない。
  • 臓器提供によって、「自分の宿命を見つめる機会」が奪われる。
  • 本当に純粋な人であれば、「生きながらにして」臓器提供を申し出る可能がある。
  • 既に、臓器を目的とした人身売買がアジアを中に横行している。
  • 臓器提供を善とするならば、提供しない人が悪になりそうな気がする(笑)。

 こんなところでしょうか。


小野不一


 脳死が話題となった頃、こんな川柳がありました。


 命日が 脳と臓 二回あり


 わずを上げて笑ったものです。あっけらかんとしていながらも、痛烈な揶揄と皮肉が込められています。



 そういえば夏休みに、女房の実家近くの温泉入浴施設の仮眠コーナーのようなところで、見るともなしに見ていた映画、確か『アイランド』とかいう題だったといますが、臓器提供代理母等に関するおぞましい近未来の仮世界を描いていて、途中で見るに堪えず、仮眠室を出てきてしまった覚えがあります。


 人間の身命というのは、軽々に扱われてはいけないと改めて強くいます。小野さんの論点メモ、その通りだといます。


 臓器移植がなければ死への恐怖と隣りあわせで生きていかなければならない様々な病気や障害のある方がいる事は承知していますが……。


小野不一


 そして臓器移植は、新しい形の幸不幸を生み出し、悲劇と不運を構成する。


【「富士宮掲示板」より転載】

2006-10-24

「High on Life」Def Tech

 中々サビに至らないところがいい。聴き手を欲求不満に追い込んでおいて、一気にカタルシスが訪れる。ジャワイアンレゲエの見本ともいうべき曲。


 私は個人的に、「第三文明は“Def Tech”から始まった」と後世の歴史家が記すことになると考えている。天才といってもいいだろうし、縁覚界の衆生といってもいいだろう。しかも、出てくるタイミングが凄い。言うことなし。

雨宮朋絵

 この間の、「日曜てい談」に登場した女子部。

2006-10-23

大阪9区は関西魂の勝利


 1位 原田憲治(自民・新) 11万1226 当選

 2位 大谷信盛(民主・元) 9万2424

 3位 藤木邦顕(共産・新) 1万7774


 共産党に入れるのは投票用紙のムダになるだけだ。環境問題の観点からも、「共産党は候補者を立てるべきではない」と進言しておきたい。


 今回は神奈川16区と同じく、安倍政権にとって負けられない戦いだった。15日には訪中訪韓直後の安倍総理が茨木入りし、応援演説を行いてこ入れ、公明党太田昭宏代表がひんぱんに支援に来るなど、「自分の選挙より力が入った」(街頭演説会での公明党幹部)というくらいに、自公が総力を挙げた選挙戦だった。

 原田氏は共同インタビューに対し、「自公連立の安倍、太田体制で改革を前進していくことが認められたということだ。特に公明党支持者の方が簿を手に友人への支援を進めていただく姿を見た時、激した」と自公の連携を勝因に挙げた。


【夕刊JanJan】


 原田さんにとって短期決戦の選挙だった。6末に地元は原田さん擁立でまとまったが、党本部の向で公募が行われ、予備選を経て原田さんが候補に選ばれたのは8だった。さらに、府議時代の選挙区は箕面市と豊能、能勢両町で、大票田の茨木市では知度が低かった。

 しかし、9下旬から自民、公明両党が本格的に動き出し、国会議員や秘書らを大量動員する総力戦で劣勢をばん回。北鮮の核実験による国際情勢の緊張も与党の追い風となり、勝利を呼び込んだ。原田さんは「皆さんのおかげで西田さんの議席を守り抜くことができた。本当にありがとうございました」とをふるわせた。


【毎日新聞】


 一方、民主党は4の千葉7区補選で勝利した勢いを持続できず、今後、小沢代表ら執行部への批判がくすぶる可能もある。


【読売新聞】


 鳩山氏は22日夜、党本部で記者会見し、「両選挙区とも自民党議員の死去に伴う選挙。安倍首相の若さも買われた」と敗因を分析した。

 しかし、党内「不統一」を結党以来の弱点と指摘されてきた民主党が、小沢氏が代表に就いて以来、表向き結束を保つことができたのは、ひとえに「小沢氏なら、選挙で自民党に勝てる」との期待があればこそだ。

 その「神話」に疑問符がつけば、再び党内の路線対立が先鋭化することも予される。北鮮の核実験をめぐり、この事態を周辺事態と認定できないと主張する小沢氏に対し、前原誠司前代表が公然と異議を唱えるなど、党内には早くも不穏な空気が漂う。


【産経新聞】


衆院大阪9区補選の投票率は52.15%で、前回衆院選(05年)67.56%を15.41ポイント、前々回(03年)57.08%を4.93ポイント下回った。ただ、02年の衆院大阪10区補選41.45%よりも10.7ポイント高く、投票率の低調さが懸される補選としては有権者の関が比較的高くなったといえる。


【毎日新聞】

お願い


 全ページのアンカー(大見出しの固定リンク)を「p」で統一しました。そのため、URLが若干変わったページがあります。


 そこでお願いなんですが、リンク切れがありましたら、お手数ですが該当ページにコメントして頂けると助かります。宜しくお願いします。

シマー学長、ブルジョ教授


「世界との語らい」の第12回は、モントリオール大学(カナダ)のシマー元学長と、ブルジョ教授。以下、参考情報――

2006-10-22

大阪9区補選


 今年の423日に行われた千葉7区の補選は、自民候補が惜敗した。

  • 太田和美(民主党・新)―8万7046 当選
  • 斎藤健(自民・前)―――8万6091 次点

 その差、955票。わずか1%の差だった。


「大阪よ、何としても仇を討ってくれ!」――東京・関東一同



 大勝利、おめでとう! 大勝利、ありがとう! 大勝利、万歳!

2006-10-21

明日、大阪9区の投票日


 いよいよ明日、大阪9区(茨木市・池田市・箕面市・豊能町・能勢町)の投票日となった。大阪の同志にからのエールを送る!

「生死一大事血脈抄講義」抄録 2


「生死」とは、生まれては死に、死んではまた生まれてくる、すなわち生死流転の運命的なこの生命をいいます。

「一大事」とは、最も根本の肝要という味であります。「一」とは、たくさんある中の一つということではなく、これ一つ以外にないという味の“一”であります。その唯一無二の根本の大事ということが「一大事」なのです。

 したがって「生死一大事」とは、生命における最重要の大事ということであり、生命の極底の法を指すのであります。

血脈」とは、生命の中にリズムを奏でて、脈打ちながら流れていくものということであります。すなわち、「生」と「死」という変化の姿の奥底にあって、不変に続いていくところの生命をいいます。

 法における師弟の関係は、師としてのが覚知した生命の極理を、そのまま弟子の生命に伝えることにあります。故に、師が自らの悟った法を、そのまま弟子に伝えていくことをも「血脈」と称するのであります。

 したがって「生死一大事血脈」ということを一言に要約して述べれは、生命の究極の法がいかにしてから衆生に伝えられ、生死流転の衆生の生命に顕現されていくか、ということであります。これこそ法の最も肝要であり、単なる観ではどうしようもない、実践の哲学感応の哲学たる所以(ゆえん)がここにあるわけであります。


【『「生死一大事血脈抄」の池田会長講義』/聖教新聞 1977-04-18、20、22、25、27、30日付】


 いつも、うるさいことを言うようで恐縮だが、必ず本文(1336〜1338頁)に目を通して頂きたい。安易な行動が、惰弱な精神を育むことを戒め合いたい。


 生死に二あり。生老病死(四苦)と、生死流転の当体と。そして、一大事に三大秘法の義あり。一(本尊)、大(戒壇)、事(題目)と。


 ここから我見コーナーとなるので、重々注して読まれよ。鵜呑みにすると、が出る可能あり(笑)。


法の真髄は師弟にある」――先生が、これでもかというほど繰り返し繰り返し指導されている。学会精神といっても師弟に尽きる。もう少し詳しく言うと、「弟子として生き抜く人生」にある。先生は、200もの学術称号を授与されていながら、今尚、戸田門下生として弟子の道を全うされている。


 私は、戸田先生の指導は一通り読んでいる。牧口先生の指導も、そこそこ読んでいる。その上で申し上げるが、先生ほど師弟については言及されてない。


 もう一つ。私は御書を2回読破している。しかし大聖人も、先生ほどは師弟について書かれていない。


 ここで教史に目を転じてみよう。釈尊が実際に行ったのは対機説法といわれる一対一の対話だった。そして、説いた法を文字にすることはなかった。釈尊が禁じたとも伝えられている。経典となったのは、釈尊滅後200年頃だった。釈尊亡き後、付法蔵の二十四人、天台、伝教を経て、正法は大聖人に流れ通った。


 この間においては師匠がいなければ法は学ぶことは不可能だった。人間と人間の間に法は脈動した。否、鎌倉時代というよりは、印刷技術の発達してない明治初期までは同様の歴史を重ねてきた。勝海舟福沢諭吉は蘭学の典籍を書き写していたのだから。


 私の言いたいことはこうだ。法流布にあって「師弟」とは、言葉にする必要もないほど当たり前の覚だったのだ。源遠長流とは、無数の師弟が織りなすの継承だ。しかも大事なことは、固定化した教条主義的に伝えたのではなくして、時に止揚し、時に体系化を図りながら進化を遂げていることである。


 そう考えると、明治に生まれた牧口先生戸田先生にとっても当たり前の覚だったに違いない。


 生き生きとした師弟の対話が法の生命線だった。これを否定したのが日蓮正宗の歴史ではなかったか。「唯受一人(ゆいじゅいちにん)」などと神秘をもたせ、そのクセ、中身は相伝書だけという体(てい)たらく。対話という開かれた精神から遠ざかることは避けられなかった。


 第一次宗門問題の時、我々は愚かにも「法主という権威」を信じていた。御書のどこにも書かれてないのに。誤った血脈信仰が「坊主が上で信徒は下」という識を植え付けた。


 先生は七つの鐘の総仕上げ(=勇退)を2年前にして、法の血脈を通わせようと、この講義をされたのだとう。しかし、弟子は坊主に額(ぬか)づき、師を裏切った――。


 実は、この講義そのものが「創価血脈相承」だった。そして先生は、今再び、“最後の池田門下生”に対して、「生死一大事血脈抄講義」をされている。今こそ、弟子が発迹顕本する時である。

2006-10-20

忌まわしき10月20日


 今日は、初めての小選挙区で惨敗を喫した日である。死ぬまで忘れることはないだろう。

「学校へ行くと子供が殺される」という現実


 相次いで痛ましいニュースが報じられている。北海道滝川市で小6女児が、福岡県筑前町では中2男子生徒が自殺した。


 自殺だけでも大問題だが、周囲の対応の悪さが人々の怒りの炎に油を注いだ。滝川市では市教委が頑(かたく)なに“いじめ”があった事実を認めなかった。更に、報告を受けた道教委は上司に報告もせず、あろうことか遺書のコピーを紛失していた。筑前町では、校長と町教委が遺族を訪問したが、両親との話し合いを拒否した。まさに、いじめの追い討ちだ。


 とは言うものの、かまびすしい報道を見れば、「教育基本法改正」へ追い風を送っているのは明白だ。メディアよ、汝のは“権力の代弁者”なり。


 私にはまだ子供がいないので、偉そうなことは言いたくないが、現段階で弁(わきま)えておくべき最低限度のことを確認しておきたい。悠長な議論をしている段階はとっくに過ぎている。


 まず第一点。「子供を学校に行かせると、自殺に追い込まれる場合がある」という事実を自覚すること。予兆があれば、直ちに避させなくてはならない。我が子の不登校で悩んでいる親御さんもいるかも知れないが、そのおかげで、あなたの子供は死なないで済んでいるのかも知れない。


 次にこれは見になるが、教育委員会なるものの廃止を求めたい。教育委員会の辞書に「いじめ」という項目は存在しない。ひょっとしたら、「問題」という言葉も載ってないかもね。彼等の存在が教育現場を複雑なものにしている。邪だ。いらない。いられては困る。知り合いに教育委員会の人がいれば、直ちに辞職するよう促す運動を起こしたい。


 いじめを本気で解決するなら、監視体制を組むしかない。それが必要であれば、主婦や大学生、定年退職者などのボランティアを教室に常駐する。あるいは非常勤として雇用してもいいだろう。


いじめは昔からあった」などと馬鹿げたことを言う連中を許してはいけない。質と構造が全く違うのだ。私は経験者から直接聞いたことがあるが、生卵をぶつけられたり、ゴルフクラブで殴られたこともあったそうだ。


 子供をいじめから守るために、格闘技を習わせるのも一つの手かも知れない。暴力とは、畜生界の世界である。より強い力を示した方が必ず勝つ。


 いささか学会指導にそぐわない部分もあるが、以上が率直な私の考えである。


 社会の構造が非情に薄っぺらなものとなり、垂直の線でしかつながってないことを痛する。親と子、先生と生徒、いずれも縦の線である。いじめによって横の線は断絶されている。本当ならば、近所のオジサン、オバサン、お兄さん、お姉さんといった“斜め”の線が機能するのが成熟した社会の姿だ。


 下劣メディアの代表『週刊新潮』が、筑前町で自殺した生徒の実と、この生徒をいじめた教諭の顔写真を掲載した。『週刊新潮』を買う人々は、罪の識もなく、いじめを囃(はや)し立てているような種類の人間である。


 こういった世相を鑑み、「創価スピリット」で連載している夏季指導シリーズは一旦休み、明日より『希望対話』を配信する予定である。子供の命を守るために、内外を問わずチェーンメールのように転送しまくって頂きたい。尚、鼎談(ていだん)の主要部分のみを配信し、全文は改めて掲載する予定である。

2006-10-19

「生死一大事血脈抄講義」抄録 1


 本抄は、戸田先生が何度も講義してくださった懐かしい御書であります。

 戸田先生は「この生死一大事血脈抄を読むのは、とても面倒です。スラスラ読んでわかったともうが、またわからなくなってくる。境涯が深まるたびに、読み方が深まってくる」という味のことを、何回となく語っておられた。

 また戸田先生は「日蓮門下にとって信の骨髄の御書であり、これを離れて広宣流布もなければ信の核法の骨髄に触れることはできない」とまで申されていました。そして、また「地涌の菩薩の実践の明鏡ともいうべき書である」と仰せられておりました。

 私も、文証・理証・現証の上からそれを確信しております。また、私自身、種々の会合で、再三再四、講義をし、索を重ねてもまいりました。そのたびごとに一節一節の擬縮された内容に驚きもし、激を新たにしてまいりました。まことに不議な一書としか言いようがありません。いつしか私にとっては、運命的な一書とさえなっておりました。


【『「生死一大事血脈抄」の池田会長講義』/聖教新聞 1977-04-18、20、22、25、27、30日付】


 私は「ミスター親切」だ。今後、私のを呼ぶ時は「“親切な”小野さん」と言うことを義務づけたい。


 男女の本部長以上の役職を担っているメンバーであれば、大白誌上で「生死一大事血脈抄講義」を連載する旨が報じられた時点で、真っ先にこの講義を探し求め、学んでおくのが当たり前だとうよ。読むのが精一杯、時に読んだり読まなかったり、なあんてえのあ幹部失格だ。否、弟子としての資格も剥奪(はくだつ)してやりたい。そもそも、地涌の菩薩に受け身の人などいるはずがないのだ。


 この講義は53日を記して発表されたもので、後日、小冊子として編まれた。私は3回読んでいる。


 1には「諸法実相抄」講義が連載された(11、4、5、6日付)。両抄は、昭和25年(1950年)から昭和26年(1951年)の会長就任直前に至る期間で、先生も戸田先生から講義を受けておられる。このように、御書の選定一つにも“師弟の義”があることを我々は知らねばならない。


会長勇退」の2年前である。既に正信会の悪侶どもは騒ぎ始めていた。その中にあっても尚、師の瞳は会員を見つめていた。世間や坊主は全く関係なかった。全学会員が大聖人に直結するには、今どのような楔(くさび)を打つべきなのか――その一点で行われた講義と像する。


 今だからわかることがある――そう確信し、抄録を連載することにした次第である。

2006-10-18

学会歌「星落秋風五丈原」


 作曲者:不詳


一、

  祁山悲愁の風更けて

  陣雲暗し五丈原

  零露の文は繁くして

  草枯れ馬は肥ゆれども

  蜀軍の旗光無く

  鼓角の音も今しづか

  丞相病あつかりき

  丞相病あつかりき


二、

  夢寐に忘れぬ君王の

  いまはの御こと畏みて

  を焦し身をつくす

  暴露のつとめ幾とせか

  今落葉の雨の音

  大樹ひとたび倒れなば

  漢室の運はたいかに

  丞相病あつかりき


三、

  四海の波瀾収まらで

  民はみ天は泣き

  いつかは見なん太平の

  のどけき春の夢

  群雄立てことごとく

  中原鹿を争ふも

  たれか王者の師を学ぶ

  丞相病あつかりき


四、

  嗚呼南陽の旧草廬

  二十余年のいにしへの

  夢はたいかに安かりし

  光を包み香をかくし

  隴畝に民と交れば

  王佐の才に富める身も

  ただ一曲の梁歩吟

  丞相病あつかりき


五、

  成否を誰れかあげつらふ

  一死尽くしし身の誠

  仰げば銀河影冴えて

  無数の星斗光濃し

  照すやいなや英雄の

  孤忠の胸ひとつ

  其壮烈にじては

  鬼神も哭かむ秋の風


六、

  嗚呼五丈原秋の夜半

  あらしは叫び露は泣き

  銀漢清く星高く

  神秘の色につつまれて

  天地微かに光るとき

  無量の齎らして

  千載の末今も尚

  はかんばしき諸葛亮

  はかんばしき諸葛亮

【※学会歌となった経緯は、『人間革命』第7巻、「飛翔」の章に詳しい/実に不議なことだが、土井晩翠は牧口先生と同じ明治4年の生まれである】

2006-10-17

星落秋風五丈原


土井晩翠「星落秋風五丈原(ほしおつしゅうふうごじょうげん)」


(「せいらくしゅうふうごじょうげん」とも)


一、

 祁山(きざん)悲秋の 風更けて 陣雲暗し 五丈原

 零露(れいろ)の文(あや)は 繁くして 草枯れ馬は 肥ゆれども

 蜀軍の旗 光無く 鼓角(こかく)の音も 今しづか

 丞相(じょうしょう)病 あつかりき


 清渭(せいい)の流れ 水やせて むせぶ非情の 秋の聲(こえ)

 夜(よ)は關山(かんざん)の 風泣いて 暗に迷ふか かりがねは

 令風霜の 威もすごく 守る諸營(とりで)の 垣の外

 丞相病 あつかりき


 帳中(ちょうちゅう)眠りかすかにて 短檠(たんけい)光 薄ければ

 こゝにも見ゆる 秋の色  銀甲(ぎんこう)堅く よろへども

 見よや待衞(じえい)の 面影に 無限の愁い 溢るゝを

 丞相病 あつかりき


 風塵遠し 三尺の 劍(つるぎ)は光 曇らねど

 秋に傷めば 柏(しょうはく)の 色もおのづと うつろふを

 漢騎十萬(じゅうまん) 今さらに 見るや故郷の 夢いかに

 丞相病 あつかりき


 夢寐(むび)に忘れぬ 君王の いまわの御(み)こと 畏(かしこ)みて

 を焦がし 身をつくす 暴露(ばくろ)のつとめ 幾とせか

 今落葉(らくよう)の 雨の音 大樹(たいき)ひとたび 倒れなば

 漢室の運 はたいかに

 丞相病 あつかりき


 四海の波瀾 收まらで 民はみ 天は泣き

 いつかは見なん 太平の のどけき 春の夢

 群雄立ちて ことごとく 中原(ちゅうげん)鹿(しか)を 爭ふも

 たれか王者の 師を學ぶ

 丞相病 あつかりき


 末は黄河の 水濁る 三代の源(げん) 遠くして

 伊周(いしゅう)の跡は 今いづこ 道は衰へ 文(ふみ)弊れ

 管仲(かんちゅう)去りて 九百年 樂毅(がっき)滅びて 四百年

 誰か王者の 治(ち)を

 丞相病 あつかりき


二、

 嗚呼南陽の 舊草廬(きゅうそうろ) 二十餘年(よねん)の いにしえの

 夢はたいかに 安かりし 光を包み 香をかくし

 隴畝(ろうほ)に民と 交われば 王佐の才に 富める身も

 たゞ一曲の 梁父吟(りょうほぎん)


 閑雲(かんうん)野鶴(やかく) 空(そら)濶(ひろ)く

 風に嘯(うそぶ)く 身はひとり を湖上に 碎(くだ)きては

 ゆくへ波間の 舟ひと葉 ゆふべ暮鐘(ぼしょう)に 誘はれて

 訪ふは山寺(さんじ)の の影


 江山(こうざん)さむる あけぼのゝ 雪に驢(ろ)を驅(か)る 道の上

 寒梅痩せて 春早み  幽林(ゆうりん)風を 穿(うが)つとき

 伴(とも)は野鳥の 暮の歌 紫雲たなびく 洞(ほら)の中

 誰そや棊局(ききょく)の 友の身は


 其(その)隆中(りゅうちゅう)の 別天地 空のあなたを 眺むれば

 大盜(たいとう)競(き)ほひ はびこりて あらびて榮華(えいが) さながらに

 風の枯葉(こよう)を 掃(はら)ふごと 治亂(ちらん)興亡 おもほへば

 世は一局の 棊(き)なりけり


 其(その)世を治め 世を救ふ 經綸(けいりん)胸に 溢るれど

 榮利を俗に 求めねば 岡も臥龍(がりょう)の を負ひつ

 亂(はな)れし世にも 花は咲き 花また散りて 春秋(しゅんじゅう)の

 遷(うつ)りはこゝに 二十七


 高眠遂に 永からず 信義四海に 溢れたる

 君が三たびの 音づれを 背(そむ)きはてめや 知己(ちき)の

 羽扇(うせん)綸巾(かんきん) 風輕(かろ)き

 姿は替へで 立ちいづる 草廬あしたの ぬしやたれ


 古琴(こきん)の友よ さらばいざ 曉(あけぼの)たむる 西窓(せいそう)の

 殘の影よ さらばいざ 白鶴(はっかく)歸(かえ)れ 嶺の

 蒼猿(そうえん)眠れ 谷の橋 岡も替へよや 臥龍(がりょう)の

 草廬あしたの ぬしもなし


 成算胸に 藏(おさま)りて 乾坤(けんこん)こゝに 一局棊(いっきょくき)

 たゞ掌上(しょうじょう)に 指すがごと 三分の計 はや成れば

 見よ九天の 雲は垂れ 四海の水は 皆立(たち)て

 蛟龍(こうりゅう)飛びぬ 淵の外


三、

 英才雲と 群がれる 世も千仭(せんじん)の 鳳(ほう)高く

 翔(か)くる雲井の 伴(とも)や誰(た)そ 東(ひがし)新野(しんや)の 夏の草

 南(みなみ)瀘水(ろすい)の 秋の波 

 戎馬(じゅうば)關山(かんざん) いくとせか 風塵暗き ただなかに

 たてしいさをの 數いかに


 江陵去りて 行先は 武昌夏口の 秋の陣

 一葉(いちよう)輕く 棹さして 三寸の舌 呉に説けば

 見よ大江の 風狂ひ 焔(ほのお)亂れて 姦雄の

 雄圖(ゆうと)碎けぬ 波あらく


 劔閣(けんかく)天に そび入りて あらしは叫び 雲は散り

 金鼓(きんこ)震(ふる)ひて 十萬の 雄師は圍(かこ)む 成都

 漢中尋(つい)で 陷(おちい)りて 三分の基(もと) はや固し


 定軍山の 霧は晴れ 汚陽(べんよう)の渡り は澄み

 赤符(せきふ)再び 世に出(い)でゝ 興(おこ)るべかりし 漢の運

 天か股肱の 命(めい)盡きて 襄陽遂に 守りなく

 玉泉山(ぎょくせんざん)の 夕まぐれ 恨みは長し 雲の色


 中原北に 眺むれば 冕旒(べんりゅう)塵に 汚されて

 炎精(えんせい)あはれ 色も無し さらば漢家の 一宗派(いちそうは)

 わが君王を いただきて 踏ませまつらむ 九五(きゅうご)の位(い)

 天の暦數 こゝにつぐ 時建安の 二十六

 景星(けいせい)照りて 錦江(きんこう)の 流に泛(うか)ぶ 花の影


 花とこしへの 春ならじ 夏の火峯(かほう)の 雲落ちて

 御林(ぎょりん)の陣を 焚(や)き掃ふ 四十餘營(よえい)の あといづこ、

 雲雨(うんう)荒臺(こうだい) 夢ならず 巫山(ふざん)のかたへ 秋寒く 

 も白帝の のうち 龍駕(りょうが)駐(とどま)る いつまでか


 その三峽の 道遠き 永安宮(えいあんきゅう)の 夜の雨

 泣いて聞きけむ 龍榻(りょうとう)に 君がいまわの みことのり

 忍べば遠き いにしえの 三顧の知遇 またこゝに

 重ねて篤き 君の 諸王に父と 拜(はい)されし

 (おもい)やいかに 其(その)宵(よい)の


 邊塞(へんさい)遠く 雲分けて 

 瘴烟(しょうえん)蠻雨(ばんう) ものすごき

 不毛の郷(きょう)に 攻め入れば 暗し瀘水(ろすい)の 夜半(よわ)の

 妙算世にも 比(たぐい)なき 智仁を兼ぬる ほこさきに

 南蠻いくたび 驚きて 君を崇(あが)めし 「神なり」と


四、

 南方すでに 定まりて 兵は精(くわ)しく 糧(かて)は足る

 君王の志 うけつぎて 姦(かん)を攘(はら)はん 時は今

 江漢(こうかん)常武(じょうぶ) いにしへの

 ためしを今に こゝに見る 建興五年 あけの空

 日は暖かに 大旗(おおはた)の 龍蛇(りょうだ)も動く 春の雲

 馬は嘶(いなな)き 人勇む 三軍の師を 隨へて

 中原北に うち上る


 六たび祁山の 嶺の上 風雲動き 旗かへり

 天地もどよむ 漢の軍 偏師節度を 誤れる

 街亭の敗(はい) 何かある 鯨鯢(げいげい)吼(ほ)えて 波怒り

 あらし狂うて 草伏せば 王師十萬 秋高く

 武都(ぶと)陰平(いんぺい)を 平げて 立てり渭南の 岸の上


 拒(ふせ)ぐはたそや 敵の軍 かれ中原の 一奇才

 韜略(とうりゃく)深く 密ながら 君に向はん すべぞなき

 納めも受けむ 贈られし 素衣巾幗(そいきんかく)の あなどりも

 陣を堅うし 手を束(つか)ね 魏軍守りて 打ち出でず


 鴻果(はた)し 收むべき その時天は 貸さずして

 出師(すいし)なかばに 君病みぬ 三顧の遠い むかしより

 夢寐に忘れぬ 君の 答て盡(つく)す まごゝろを

 示すか吐ける 紅血(くれない)は 建興の十三 秋なかば

 丞相病 篤かりき


五、

 魏軍の營(えい)も 音絶て 夜(よ)は靜かなり 五丈原

 たゝずとふ 今のまも 丹(たんしん)國を 忘られず

 病を扶(たす)け 身を起し 臥帳(がちょう)掲げて 立ちいづる

 夜半の大空 雲もなし


 刀斗(ちょうと)聲無く 露落ちて 旌旗(せいき)は寒し 風清し

 三軍ひとしく 聲呑みて つゝしみ迎ふ 大軍師

 羽扇綸巾(うせんかんきん) 膚(はだ)寒み おもわやつれし 病める身を

 知るや情(なさけ)の 小夜(さよ)あらし


 諸壘あまねく 經(へ)廻(めぐ)りて 輪車(りんしゃ)靜かに きしり行く

 星斗(せいと)は開く 天の陣 山河はつらぬ 地の營所(えいしょ)

 つるぎは光り 影冴えて 結ぶに似たり 夜半の霜


 嗚呼陣頭に あらわれて 敵とまた見ん 時やいつ

 祁山の嶺(みね)に 長驅(ちょうく)して

 は勇む 風の前 王師たゞちに 北をさし

 馬に河洛に 飲まさむと 願ひしそれも あだなりや

 胸裏(きょうり)百萬 兵はあり 帳下三千 將足るも

 彼れはた時を いかにせん


六、

 成敗遂に 天の命 事あらかじめ 圖(はか)られず

 舊都(きゅうと)再び 駕(が)を迎へ 麟臺(りんだい)永く を傳ふ

 春玉樓(ぎょくろう)の 花の色 いさをし成りて 南陽に

 琴書(きんしょ)をまたも 友とせむ 望みは遂に 空(むな)しきか


 君(くんおん)酬(むく)ふ 身の一死 今更我を 惜しまねど

 行末いかに 漢の運 過ぎしを忍び 後(のち)計る

 無限のい 無限の情(じょう) 南成都(せいと)の 空いづこ

 玉壘(ぎょくるい)今は 秋更けて 錦江の水 痩せぬべく

 鐵馬(てつば)あらしに 嘶きて 劔關の雲 睡(ねぶ)るべく


 明主の知遇 身に受けて 三顧のに ゆくりなく

 立ちも出でけむ 舊草廬 嗚呼鳳(ほう)遂に 衰へて

 今に楚狂(そきょう)の 歌もあれ 人生氣に じては

 成否をたれか あげつらふ


 成否をたれか あげつらふ 一死盡くしゝ 身の誠

 仰げば銀河 影冴えて 無數の星斗 光濃し

 照すやいなや 英雄の 孤忠の 胸ひとつ

 其(その)壯烈に じては 鬼神も哭かむ 秋の風


七、

 鬼神も哭かむ 秋の風 行(ゆき)て渭水の 岸の上

 夫の殘柳(ざんりゅう)の 恨み訪(と)へ

 劫初(ごうしょ)このかた 絶えまなき 無限のあらし 吹(ふき)過ぎて

 野は一叢(いっそう)の 露深く 世は北邱(ほくぼう)の 墓高く


 蘭(らん)は碎けぬ 露のもと 桂(かつら)は折れぬ 霜の前

 霞(かすみ)に包む 花の色  蜂蝶(ほうちょう)睡(ねむ)る 草の蔭

 色もにほひも 消(きえ)去りて 有情(うじょう)も同じ 世々の秋


 群雄次第に 凋落し 雄圖(ゆうと)は鴻(こう)の 去るに似て

 山河幾とせ 秋の色 榮華盛衰 ことごとく

 むなしき空に 消え行けば 世は一場(いちじょう)の 春の夢


 撃たるゝものも 撃つものも 今更こゝに 見かえれば

 共に夕(ゆうべ)の 嶺の雲 風に亂れて 散るがごと、

 蠻觸(ばんしょく)二邦 角の上 蝸牛の譬 おもほへば 世ゝの姿は これなりき


 金棺灰を 葬りて 魚水の契り 君王も 今泉臺(せんだい)の 夜の客

 中原北を 眺むれば 銅雀臺(どうじゃくだい)の 春の

 今は雲間の よその影 大江(たいこう)の南 建の 花の盛も いつまでか


 五虎の將軍 今いづこ 神機(しんき)きほひし 江南の

 かれも英才 いまいづこ 北の渭水の 岸守る

 仲達(ちゅうたつ)かれも いつまでか 聞けば魏軍の 夜半の陣

 一曲遠し 悲茄(ひか)の聲


 更に碧(みどり)の 空の上  靜かにてらす 星の色

 かすけき光 眺むれば 神祕は深し 無象(むしょう)の世

 あはれ無限の 大うみに 溶くるうたかた 其(その)はては

 いかなる岸に 泛(うか)ぶらむ 千仭暗し わだつみの

 底の白玉 誰か得む 幽渺(ゆうびょう)境(さかい) 窮(きわ)みなし

 鬼神のあとを 誰か見む


 嗚呼五丈原 秋の夜半 あらしは叫び 露は泣き

 銀漢(ぎんかん)清く 星高く 神祕の色に つゝまれて

 天地微かに 光るとき 無量の 齎(もた)らして

「無限の淵」に 立てる見よ 功いづれ 夢のあと

 消えざるものは たゞ誠 を盡し 身を致し

 成否を天に 委(ゆだ)ねては 魂遠く 離れゆく


 高き尊き たぐいなき 「悲運」を君よ 天に謝せ

 青史の照らし 見るところ 管仲樂毅 たそや彼

 伊呂の伯仲 眺むれば 「萬古の霄(そら)の 一羽毛」

 千仭翔(かく)る 鳳(ほう)の影 草廬にありて 龍と臥し

 四海に出でゝ 龍と飛ぶ 千載の末 今も尚

 はかんばしき 諸葛亮

「善」とは何か、「悪」とは何か


 ある時、一人の青年が牧口先生に質問した。ちょうど60年前の話である。

 まだ信していなかった青年は、こう尋ねたという。

 高い次元における善悪を、どうすれば凡人が判断できるのでしょうか?

「善」とは何か。「悪」とは何か。善悪をどう判断していけばよいのか――まことに大きな課題である。今の時代も多くの人が迷っている。

 青年らしい鋭い問いかけを、牧口先生は真正面から受け止められる。先生の偉大な人格を彷彿(ほうふつ)とさせるエピソードである。

 牧口先生は、厳しい表情で答えられた。

「それは観ではわからない。実行だ! 今の社会、道徳論、倫理観などでは解明できない。大物の宗教家でさえ曖昧である。彼らは葬式屋だから判別の道さえわかっていないのだ」

 低次元の宗教屋には、何が善であり悪であるかさえわからない――と。自分が自分でわからない。混乱している。


 それでは、どうすればよいのか。牧口先生は、きっぱりと結論された。

「世界最高の宗教を命がけで修行する。その努力と勇気があれば、わかるようになる。若者は実行と決だ。やれば必ずできる」

命がけで実践すればわかる。しなければわからない。――これが先生の主張である。

 牧口先生ご自身が、広宣流布のために、文字通り“命がけ”で法を実践された。だから、善悪の判断が明快であった。皆を正しく指導できたのである。

 その後、大聖人法をいちばん守るべき宗門が堕落し、神札を受けるという謗法にまみれた時も、その極悪の姿を正しく見抜かれた。そして断固として戦われた。

 私も広布のために命をかけて戦っている。だから善も悪も、はっきりとわかる。

 善と悪、は常に一緒に現れる。気をつけないと、見分けがつかなくなる。ほど恐ろしいものはない。

 そのを見きわめるのが法である。と戦い、勝つための法である。見きわめる力、勝つ力は、命がけの信からしか生まれない。

 を見きわめなければ、本当の戦いはできない。

 真剣なる闘争を貫いた人――結局、その人が一番の幸福者である。栄光の人である。勝利者である。最高の善の世界を、晴れ晴れと生き抜ける人である。


 牧口先生は、青年をこう励まされた。

「勇猛精進したまえ。実行だよ。精進だよ。老人にはなったが、私も実践しています」

 時に、牧口先生は63歳。偉大なる“求道の言葉”である。私の胸に深く突き刺さっている。

 みすみずしい求道――そこに法の源流があり、信の原点がある。また、創価学会の大道がある。

「求道の人」は、いつも若々しい。喜びをもっている。すがすがしい。謙虚に自分を見つめ、謙虚に自分をつくりあげている。だから、偉大な自分ができあがる。

 いつまでも生き生きと、どこまでも求道の人生を進んでいく――その人が本物の法者であり、創価学会の同志である。


【第77回本部幹部会 1994-04-23 東京牧口記会館


 メールマガジンの読者から、「入会検討中です」というメールが寄せられた。緊張が走った(笑)。数日後に発信したのが、この指導である。


 青年の質問は、観の次元であったことだろう。それに対して牧口先生は、「世界最高の宗教を命がけで修行すれば、必ずわかる!」と答えた。これこそ、「無明を切る利剣」(725/760/991頁)の言葉だ。慈悲と破折が一体となった智の言論である。


 牧口先生は、青年の質問を真正面から受け止め、軽んじるところがない。一人の人間として、誠実かつ真剣に対話をされている。本当に偉大なことである。


 一部の婦人部幹部で、折伏している最中に「そんなこといいから、一緒にやりましょうよ!」を連発する人がいる。対話が成立してないことにすら気づいてないようだ(笑)。


【※指導は、宮本氏の投稿によるもの】

スペンサー・シリーズ


 丸山健二に愛をつかしてからというもの、愛読書は専(もっぱ)ら、ロバート・B・パーカージェフリー・ディーヴァーになってしまった。


 私は立ってドアへ行った。ドアを開けて警備員の一人に頷いた。彼らが入って来てアルブズにまた手錠をかけ、身体検査をすると、連れて出て行った。その間、彼はぴんと背筋を伸ばし、部屋から出る時、振り返りもしなかった。

終身刑で入っていると」アルヴズがいなくなると、ホークが言った、「望みを抱くと長生きはできない。生き抜くためには冷静な精神状態でいなければならない」

「判ってる」

「あの中には、憎悪と権力以外、ほとんどなにもない」

「なにもないよりはいい」私が言った。


悪党 スペンサー・シリーズ

高木美智代さん

 知らない内に、高木美智代さんのサイトができていた。


 私は、高木さんの筋金入りのファンである(笑)。「ひざまずいて足をお舐(な)め」と言われれば、いつでも用ができているほど(笑)。


 8月10日付のコラムを是非とも読んで頂きたい。


 弟さんは、私の組織にいた。私よりも年長でありながら、少年よりも美しい瞳の持ち主だった。


 弟さんが交通事故に遭ってから、お母さんとお姉さんの二人で、2ヶ間にわたって10時間唱題をされたと聞いている。お母さんが癌を克服した時とは比べものにならないほどの唱題をしたとも。


 他にも素晴らしいエピソードがあるんだが、世間の誤解を生みかねないので書くことは控えておこう。

2006-10-16

若草山の山焼き


 万葉の香りも高き白鳳山明日香文化会館で、久方ぶりに奈良の同志の皆さまと、勤行・唱題し、ともどもに広宣流布を祈し、自身の一生成を願い、また、先祖代々の追善法要ができたことを、最大の幸福としみじみずるものである。

 奈良へ来てうことは、若草山のことである。その若草山は必ず一年に一回、山焼きといって焼かれるという。しかし、その焼かれた若草山には必ず、また春になれば、根があるがゆえに若草が萌え出ずる。

 人生もまた、同じである。根がある人は必ず、また栄える。その根とは信であり、福運である。その根をより強く、より逞しく張ってゆくならば、一族、眷属が永遠に繁栄しゆくのである。また、和合僧という根を地域に張り巡らせてゆくえば、いかに三障四魔の火で焼かれても、また時が来れば、青々と蘇生してゆくことは間違いないであろう。

 自信をもって、決して焦らず、着実に、自身の福運の根と信の根を、また、地域の広宣流布の根を張っていただきたい。


【奈良支部結成17周年記幹部会 1978-01-25 奈良・明日香文化会館


 歴史的な指導の一つ。私はこの指導を拝す度に涙が出て仕方がない。


 この年の高校新報11日号で先生は、中江兆民の「一年有半」を通したメッセージを高等部に贈った。それから、まさしく「一年有半」で会長を勇退される。


 私は当時、中学2年。何も知らなかった。この時の高校2年生が、会長就任の年(昭和35年/1960年)に生まれた世代であり、高校1年生は昭和36年(1961年)生まれで、「国士10万結集」の年に生まれた使命深き世代である。メッセージを託された高等部は、まさに「先生の本眷属」といっていいだろう。私の周囲を見回しても、昭和36年生まれは充実していて、層が厚い。


 師の像するに、討ち入り前の赤穂浪士の如き境ではなかったか。師亡き後、悲嘆の中から三十にして立ち、師の指導のままに「七つの鐘」を乱打し続けた18年間。広布という大義に生き、弟子の道をひた走り、激闘に次ぐ激闘。時に死線をかいくぐり、ただ「会員のために」、満身創痍(まんしんそうい)となりながらも、生きて生きて生き抜かれた。


 浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)には四十七人の義士がいた。しかし、戸田先生には、たった一人の弟子しかいなかった。鳳(おおとり)は世界広布への飛翔のために、一旦、雌伏(しふく)せざるを得なかった。弟子が不甲斐なかったがゆえに。


 かような状況下にありながら、「たとえ、山焼きにあおうとも、信の根を大地に張れ! 師弟の根を伸ばせ!」と愛する門下に語りかける先生の姿をう時、私の胸に火焔(かえん)が荒れ狂う。


 200番目の学術称号を高に語る幹部を見ると、「あなたは、昭和54年に何をしていたんですか?」と言いたくなってしまう。


 先生がいなければ、広布は途絶えていたに違いない。このに報いることがなければ、堕地獄は必定。

創価新報にダメ出し


 1018日付の創価新報にダメ出しをしておこう。


 一番最後のページの右下に「部長の日記」みたいなシリーズものが掲載されている。


108日

 2級試験を終え、迎えた連休。受験者の健闘をたたえる味も込めて、バーベキュー大会を開催した。


 この記事を読んだ全国の部長達は、「バーベキュー大会」を奨励されているようにじるんじゃないか? 誰が金を出したのかも書いてない。


1010日

 バーベキュー大会で自信がついたのか、“拡大”のアイデアは、いろいろ浮かぶ。

 野球大会やサッカー大会、ラジオ体操への参加、街の清掃などなど。勉強熱な山部地区リーダーからは、社会や地域の問題を語り合う「タウンミーティング」をやったら、なんて見も。即座に却下されたけど。


 この文章は主語が欠けているので、「誰のアイディア」で、誰が「却下した」のか、さっぱりわからない。それと、老婆から書いておくが、機関紙とはいえ新聞なんだから、「アイデア」なんて表記はご勘弁願いたい(「アイディア」が正しい)。


 創価学会では、宴席を始めとする飲み食い、スポーツ大会、夏季研修と称した海水浴などの類いは一切禁止である。とは言うものの、内々でやる場合は確かにある。だが、それとこれとは別問題だ。我々は「こっそり」やっているのだ。


 会員に一切の金銭的な負担をかけないというのが原則なのだ。広布第一章においては、会員同志の年賀状を禁止していたほど学会は潔癖なんだよ。


 テストケースとして一つ書いておこう。これは、青年部時代に私が担当していた部で実際にあった話だ。大きな闘争を終えて、部で打ち上げを行った。私は会合があったため参加できなかった。部長に電話をして様子と参加者を確認した。一人の地区リーダーが来てなかった。「来るって言ってたんですけどね」。後日、そのメンバーと膝を交えて懇談した。「おう、そういや、この間の打ち上げは、どうしたんだ?」。一つ小さく頷いて彼は沈黙した。私は待った。

「実は……」

「うん」

「前から仕事が順調じゃなくって、嫁さんの実家から借金してます。生活も切り詰めているんで、行くに行けなかったんです」

「そうか。じゃあ、かえって悪いことしちゃったな。あんまり気にすんなよ。お前が、そういう生活の中で戦い切ったことが人生最高のい出になる。自信をもって戦え」


 この場合、組織で打ち上げを行ったことによって、本来、しなくてもいいはずの“嫌ない”をさせられたメンバーが出たということ。この事実は重い。


 尚、「組織利用の定義」も併せて参照されたい。

連絡・徹底事項


 以下のボランティア団体はいずれも統一教会の下部組織で、教団の資金源になっている模様。大学生が訪問してくるケースが多いが、原理研のメンバーわれる。被害者に自覚がないため、関連施設の近隣や、大学のある地域は重々注されたし。

團伊玖磨


 團(だん)さんには、海が似合った。自由。活力。自分を小さな専門に閉じ込めない闊達(かったつ)さ。

 團家は、七百余年前、南宋が蒙古に滅ぼされた時に、中国大陸から海をわたって九州にたどりついた一族だという。海は團さんにとって、わがルーツへとつながる道であり、せせこましい日本から自分を解放する扉だったのだろうか。いつも海が見える場所を仕事場にしてこられた。かつての葉山のお宅も海のそば。そこに創価大学学生と教員がおじゃましたことがある。昭和49年の6ころ。大学の「愛唱歌集のレコード」に推薦文をもらおうというのである。何とも図々しいお願いである!

 しかし團さんは、いやな顔ひとつせず、応接間のプレーヤーでレコードをかけ、創価大学学生歌などを聞いてくださった。創価大学のことも、あれこれ質問し、建学の精神も尋ねられたようだ。「うーん、なるほど。すごい理ですね。みなさんが頑張っていくんだね」「あなたたちのような素晴らしい学生さんが集まっているから、こういう曲ができるんでしょうね」

 もちろん励ましとして言ってくださったわけであり、ありがたいことであった。その場で、すらすらと、こんな推薦文を書いてくださった。「創価大学が出来て3年有半。その間に若い真面目なエネルギーが胸の中から歌い出でた音楽の数々が収められたのが、このレコードだ。不潔な、唇(くち)にするのも恥ずかしい歌が巷に氾濫している昨今、すがすがしいこのレコードは、日本の青年の強い志と、世に毒されぬ正しさを歌い上げて余すところ無い。真面目で、すがすがしい青年達のを映したこのレコードを奨したい」

 温かい方だった。親しい芸術部の方に「鼓笛隊に曲を書いてあげたいね」とも言われていたという。


【「池田SGI会長の素晴らしき出会い」第22回 日本文化に巨歩/作曲家・團伊玖磨氏/聖教新聞 2001-06-24付】


「気しい親父」――これが、團伊玖磨氏の『パイプの煙』(日文庫:絶版)を読んだ時の率直な所である。『好きな歌・嫌いな歌』(文春文庫:絶版)を読んだ時、それは確信に変わった。


 私が、團伊玖磨という前を初めて識したのは中学の時分である。それは、音楽の時間だった。生徒にビンタを食らわすことで有な女教師が、團氏のエピソードを教えてくれた。「この曲を作った方は実に変わった人物で、苗字が略字の『団』で書かれている手紙は、現金書留を除いて全て読まずに捨てている」と。


 後年、團氏のエッセイを読むと、確かにそう書かれていた。文章には、いい味での上流階級の薫りがあった。今時の「セレブ」とは異なり、ノーブレス・オブリージュ(身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務がある)がじられた。嫌味と無縁の文章は、筋が通っていた。


 そんな大物作曲家である團伊玖磨氏と先生に交流があったことを、この随筆で初めて知った。


 以下は、別サイトに書いた私の文章である――


 517日、旅先の中国で團伊玖磨氏逝去。36年間の長きにわたって『アサヒグラフ』に連載された『パイプのけむり』。同誌休刊のため連載を終えた時、「敗戦から立ち上がったこの国が、今のようにうちしおれてしまったのは、なぜなんだろう。まだまだ書きたいことはある」とつぶやいたのが忘れられない。

日新聞夕刊 2001-05-18付】


▼『パイプのけむり』は私も好きだった▼ある対談で文化について、発信するということについて、熱気のこもった持論を展開されていた。衝撃的な内容だった▼志に生きた作曲家は走りに走り抜いて一生にピリオドを打った。




 作曲家の團伊玖磨氏、517日逝去。

とか哲学を、動に変えて聴衆に届けておられた」とはソプラノ歌手・佐藤しのぶの弁。冗談好きで『パイプのけむり』には、入れ歯を英国で作ったら英語の発音がよくなったとほめられたエピソードを紹介。

日新聞夕刊 2001年625日付】


▼「聴き手のことを考えずに書かれた“実験的”な作品などは全く認めません。また、怜悧(れいり)な音楽や凄絶な音楽にも共しますが、音楽には何より基本的な温かさが必要だとっています」(『私の日本音楽史』)▼また、あるレコードの推薦文では「不潔な唇(くち)にするのも恥ずかしい歌が巷に氾濫している昨今、すがすがしいこのレコードは、日本の青年の強い志と、世に毒されぬ正しさを歌い上げて余すところがない」とも▼父君は三井財閥の大黒柱であった團琢磨(だん たくま)男爵。「事は事それ自体が目的であって、金もうけのためではない。金もうけがしたいなら、相場でもやるがいい」という信条の持ち主であった▼中国大陸の5の空を、“つう”の如く翔んでいったことだろう。謹んでご冥福を祈る。

2006-10-14

表彰の意義


 晴れがましく、記表彰の栄誉に浴された全国の功労者の皆さん方に、から“おめでとう”と申し上げたい。表彰のつくものは、一般世間においても、一つの儀式として数多く行われてきている。しかし、これまでも大勢の識者から指摘されている通り、それらの多くは、時とともに色褪せてゆく利の表彰ということができよう。

 これに対して、皆さん方に対する表彰は、御本日蓮聖人の三世通暁の法理にのっとって行われるものであり、もったいなくも日蓮大聖人、三世十方菩薩から称賛されるのと同じ義を有することを確信していただきたいのである。

 言うまでもなく学会表彰は、この世で誰人もなし得なかった不幸な友の救済と、人間革命運動を推進してきた最も尊い功労者に贈られるものである。したがって、我が学会の顕彰こそ、まさしく“生命の勲章”ともいえるものであり、後世に顕彰されゆく最も誉ある福運の象徴であることを、ともどもに銘記し合ってゆきたい。


【会長就任17周年記表彰式 1977-05-01 創価大学体育館】


 こういうことは、きちっと踏まえておきたい。私は、「広布の語り部」「創価の伝承者」として余生を過ごすつもりである(あと30年ほど)。


表彰ったって、どうせ一部の幹部で選んでいるんだろう?」というも聞こえてきそうだが、そんな浅いレベルのものではない。もちろん因果倶時だから、自分が祈り、行動した瞬間に、“生命の勲章”は決定されている。その上で、「和合僧である学会から表彰された」という事実が因となり、次の果につながってゆくのだ。軽々しく考えてはいけない。


 私が高校生の頃のこと。何の気なしに本棚の上にあった丸い筒を開けてみた。それは、父がもらった表彰状だった。「池田大作」と書かれていた。既に、父とは断絶状態にあったが、何とも誇らしげな気持ちになったものだ。丸い筒に入った表彰状はいくつもあった。それを部屋に飾ってないことに、私は更なる動を覚えた。「男ってえのあ――やっぱり、そうだよな」と。


 私は表彰状こそもらってないが、金褒章を始め、数々の激励品を頂いてきた。書籍は30冊あまり。その他、メダル、短冊、押印入り和紙多数、原稿の復刻版多数、小説『人間革命』の挿絵の有田焼、写真、ネクタイ3本、ネクタイピン、ワイシャツ、3色のサンバイザー、ステーキ皿、海外のジャム、テレフォンカード等々。お小遣いを頂いたことも。


 今、振り返って、「本当に自分は頂く資格があったのか?」と疑暗鬼に駆られる。「今日、果たして、そのに報いたのか?」と我が身を責める。


 広宣流布労を知った分しか、先生のことは理解できない。衛星中継を見て、涙を流す人を時折、見かける。厳しいことを言わせてもらうが、涙にも十界があり、境涯によって味が異なる。


「先生!」と皆が言う。しかし、十人十色、千差万別の「先生」がいるのだ。いずれも、「自分」というフィルターを通して理解していることを自覚したい。


 北京師範大学から200番目の学術称号となる「誉教授」を授与された先生は、水の如く淡々と挨拶をされていた。不謹慎なことを書かせてもらうが、やはり先生はカッコイイ(笑)。

二木啓孝(ふたつき ひろたか)という人物


 イエロージャーナリズムで飯を食ってる連中の一人。いわば、「ミスター醜聞」。人が吐いたゲロを食ってるような手合いだ。先日も、関西のローカル放送で、先生の悪口を言ってた模様。まあ、以下のページをご覧あれ。どんな種類の人間なのか一目瞭然。

中国は文字の国


 伝承文化の歴史からいいますと、中国文学は早くから文字化してしまったということのため、むしろ口承文学としての格の叙事詩を残す機会を失ったのではないかとう。文字が早くからできすぎた、逆説的な言い方になりますが、そのようなことではないかとうのであります。

 文字以外の伝え方として、いくらか興味のある話がございますので、ご紹介しておきますと、文字のなかった時代を未文字社会という。文字が未だ生まれなかった社会として、そのように呼ぶわけです。人間の歴史を50万年として、未文字社会は49万5000年ですかね。その長い間が未文字社会ということになるわけでありますけれど、その中で古い伝承を、のちまでも残しているという民族も、まだいくらかおるのですね。


【『白川静 文字講話 I』(平凡社)】


 文字に関する覚え書きを――


 世界最古の文字は、エジプトのヒエログリフである。紀元前3200年前につくられたというのが定説。ナポレオンがエジプト遠征の途中で発見したロゼッタ・ストーンによって解読が可能となった。


 これより随分と後になるが、インド奉献石板浮き彫り絵に書かれたサンスクリット文字がインド最古のもので、紀元前3世紀。


 一方、漢字のルーツとされる甲骨文字(亀甲獣骨文字)は占いの結果を書くために使われ、殷代後期(紀元前14〜11世紀)とされる。ということは、御書に度々書かれている「殷の紂王」の時代(紀元前11世紀)も含まれている。【甲骨文字の写真


 日本最古のものは、4世紀前半に書かれた三重県片部遺跡出土の土器墨書「田」、という文字。


 現存する最古の書物「古事記」が712年。620年に、「天皇記」「国記」が聖徳太子によって書かれているが、645年の大化の改新時に焼失。


 釈迦法を止揚し、体系化したのは中国の天台大師である。しかし、こうしたテキストを読むと、漢字が果たした役割も大きいようにじる。釈尊の時代に文字は存在したが、法を文字化することはなかった。天台は文字をもって再構築した。大聖人は、更に文字で曼荼羅を顕した。「文理真正の経王なれば文字即実相なり実相即妙法なり」(383頁)。


 中国の文字は基本の字形がそのまま後にまで残っておって、基本形がわかっておれば、その延長戦の上で、すべて理解することができる。ところが、ヒエログリフがヒエロティックになり、デモティックになるというような段階は、大変に省略が激しくて、とてもその推移のあとがわからないのです。


【同】


 つまり、法がヨーロッパに伝わっていれば、文字の変遷(へんせん)によってが混乱した可能がある。というよりはむしろ、堀堅士氏の「イエスが説いたのは大乗仏教だった」という説が補強されることになりそうだ。


 三国四師の「三国」についても、しっかりと学ぶ必要あり。

幹部のマナーがなってない


 昨夜、本幹衛中に行く。先々に副B長になった方と、3ヶぶりに参加する方を伴って。


 私の組織は東京都下の田舎のため、幹部の携帯マナーがまるでなってない。前任の区長自ら、衛星中継の合間によく携帯電話を使用していた。いつか、首を絞めてやろうとっていたのだが、知らぬ間に組織が異動となっていた。幹部が話している最中、前に座っている婦人部が携帯メールを打っている姿も決して珍しくない。


 このような常識のない幹部が非常に多い。できることなら、一度脱会して、世間で常識を学んでから、再入会して欲しいもんだ。


 前々から私はを煮やしていた。すると昨日、こんなことが起こった。衛星中継の受信状況がよくなかったのか、担当役員がやたらとデカイで内線を使って話をしていた。私が二度ばかり、舌打ちをして睨(にら)み付けた。効き目なし。と、私が連れ出した副B長が普通ので「うるさいな」と言った。これまた効き目なし。副B長は叫んだ。「前の方、うるさいぞ!」。婦人部の目が私の後方に集まっていた。振り向くと、立ち上がった副B長が男子部の役員に止められていた。すかさず私が歩み寄り、「いいよ、いいよ」とを掛け、内線で話している幹部に「もっと、小さなで!」と伝えた。


 帰り際に、「いやあ、○○さんが暴れるのかとったよ。どうせやるなら、ぶん殴ってやってもいいよ。殴った後で私が止めるから」と言うと、ケラケラと笑っていた。彼と私だから、よかったようなものだ。このように、最前線での戦いを、デタラメな幹部が木っ端微塵にしてくれる。私が7回ほど足を運んで、やっと連れ出しているのだ。


 最前列の青年部に先生がを掛けられる。女子部の一人が出身校を尋ねられ、「名桜大学です」「エッ、何大学?」「前のに、桜と書きます。沖縄です。先生、ありがとうございました!」という、やり取りがあった。


 ご存じのように、沖縄は去る910日に統一選があり、見事完勝した。時を合わせるように、91日から再び連載が開始された『新・人間革命』は、沖縄を舞台とした「虹の舞」の章だった。一人の女子部と先生のやり取りで、沖縄いも寄らぬ最高の総括をすることができた。決して偶然ではない。の所作とは、こういうものなのだ。


 海外のメンバーによる「五丈原の歌」は全く悔しい限り。実は、いつの日か先生の前で歌おうとに決め、私はずっと練習を重ねてきたのだ。でも、いいや(笑)。

2006-10-13

御本尊をいただく当日ダメになる


【問い】折伏しないと功徳がないというので、折伏しています。ところが、判まで押して、いよいよ今日、御授戒というになると、その前の晩に夫婦ゲンカをして、大抵ダメになるが、どうしたものでしょう。


【答え】折伏をしなければ功徳はありません。今のような場合は立派に折伏しているのです。功徳はあります。やるやらないは向こうの自由です。何も、創価学会へ引っ張り込んでしまわなければ折伏にならないなどと考えてはダメです。それはそれで折伏になっているのだから、判子(はんこ)押したといっても、借金の時に判子を押して払わない人が、たくさんいるではないですか。ましてや折伏です、次の日になって女房とケンカしてやめたといっても、それで結構なのです。そう言ってやりなさい。ああ、結構結構と。

 功徳があるのです。どうしても創価学会員にしなければダメだとか、御本尊を持たせなければダメだとか頑張るから、おかしな事件が起きてしまうのです。御本尊様はお見通しです。我々にはわかりませんけれども、それがわからないような様ではだらしがなさ過ぎます。あなたの誠は十分、御本尊様に通じております。やめたやめないは、向こうの勝手ではないですか。そこまで行けば大丈夫なのです。判子なんか押しても、払わない人がいるのですから。立派に折伏したことになっているのだということがわかりましたか。

 では、もう一言申し上げます。それは、折伏になっているのです。それを折伏というのです。聞く聞かないは向こうの勝手なのです。日蓮大聖人様が佐渡からお帰りのときに、あるアミダ寺にお弟子をやって、「どうせ言っても聞くこともあるまい、しかし一応は行ってこい」と命じられたことがあります。これは立派な、日蓮大聖人様の折伏ではないですか。相手は聞くわけがありません。その寺の前を通る時に一応いわなければの精神に反するから、それでお弟子をやって折伏させたのです。相手は聞きません。それで立派な折伏なのです。わかりましたか。判子まで押しても御本尊様を返してきたりするのです。すると、を受けるのです。いやだったらやめなさい、と言っておけばいいのです。後できちんと目が覚めます。これは不議なものです。そう急がなくてもいいのです。


【『戸田城聖先生 質問会集』 1963-08-02発行】


 締め切りが近づくと、オロオロする幹部にコピーしてやるといい(笑)。


 ここに指導の極がある。指導の目的は、相手のを軽くしてあげること。追い込むことでもなければ、指摘することでもない。


 質問をした方は、の雲が瞬時にして払われ、自信をもって堂々と折伏に挑んだことだろう。


「お前の一が弱いから、決まるものも決まらないんだ!」(私の決まり文句)――これは指導ではなく、単なる「評価」だ。幹部はレフェリーに非ず。しかしまあ、今時は、線からはみ出た途端、ピーピー笛を吹くような手合いが多いからねえ(笑)。


【※指導は、Technodon氏の投稿によるもの】

幹部殿御返事


 支部幹部以上、副会長以下の諸氏へ――。


 あなたはひょっとして、地区協議会に顔を出しているだけで、「最前線で戦っている気」になってやしないだろうか? しかつめらしい顔で最後に話をする時、役職を演じるだけの道化師と化してないだろうか? あなたがいなければ、「困る」という人が果たして何人いるだろうか? きっと、一人もいないとうよ(笑)。


 あなたは戦ってきた。だからこそ、現在の役職に就(つ)いている。しかし、それは過去の話だ。本当に戦ったのは、10年前か、20年前か、30年前のことだ。今は活動しているだけだよね(笑)。


 人は戦い続ける限り、成長していける。戦わなくなった途端、生命は澱(よど)み、経験だけでものを言うようになる。話なんて、いくらでもできる。指導することもしくはない。だが、そこには信吹きがない。言葉が相手の命に響かない。真剣でないのは自分が一番よくわかっているはずだ。


 人生は確実に堕落のカーブを描き、動がなくなってゆく。「そこそこの財産と、家、車、子供、孫がいるのだから、よしとしよう」――そうった途端、下らない人間になっている。


 そんなあなたが晩節を汚さぬよう現場を私が届けよう。


 まず、担当になった組織の地区部長を訪問すること。次に、地区部長を自宅に招くこと。


 そして、ブロックに至るまでの日程を全て抑え、参加すること。更に、地区部長・B長と一緒に家庭指導を行うこと。


 一人でも回ること。未活動のメンバーを会合に出すこと。上がれなかったお宅に上がること。勤行をしてないメンバーに勤行をさせ、折伏をしてない人に折伏をさせ、教学を打ち込むこと。信じられないほど、座談会を盛り上げること。今まで誰一人聞き出せなかった悩みを聞き出すこと。


 ここまで出来れば、「可」としよう。それが出来ないなら、直ちに役職を返上せよ。

2006-10-12

踏んだり、蹴られたりしなければ、精神がふやけてしまう


 若き君よ、理の華を散らせてはならぬ。生あるかぎり「もう、これまでだ」などと言うな。少しくらいの労で「人間とは、世間とは、こんなものだ」などと言うな。

 君が純粋であればあるだけ、誤解と攻撃が、山とのしかかることもある。に合わない仕事をしなければならないこともある。

 しかし、のままにならないからこそ、修行なのだ。そこで奮闘してこそ、「を転じて楽となし、敗北を転じて勝利となす」痛快さも味わえるのだ。

 安穏は魂を殺し、順調は魂を殺し、自己満足は魂を殺す。

 から血を流したことのない人間が、どれほど、つまらないか。どん底を見たことのない人生が、どれほど味気ないか。

 つまずき、立ち上がるたびに、本当の人生を学べるのだ。耐えて生きている人のもわかるのだ。

 踏んだり、蹴られたりしなければ、精神がふやけてしまう。

 強い人間は、不幸さえも楽しんでいけるのだ。


【池田誉会長の写真紀行 光は詩う 第23回「桜樹燦爛」/聖教新聞  2000-04-02付】


 執筆されたのは春。進学と就職の季節でもある。新たな舞台へと巣立つ青年に、全魂のエールを送られている。


 淡い夢は、必ず現実にぶつかって打ち砕かれる。その時に、どのような判断を下すか。言いわけをしながら逃げるのか、黙々と忍耐のドラマを貫くのか。20代前半の選択で、人生は大きく分かれる。


 自分の人生なんだから、好きなように選ぶがいい。ただし、自分で責任を取ることを忘れるな。安易な判断をすれば、安易な人生となってゆき、困に挑めば、その分だけ人生は豊かになってゆく。


 他人のために生きてるわけじゃないんだから、自分で選ぶべきだ。


 一体全体、どういう人生を歩みたいんだ? どんな人間になりたいんだ? それを基準にすれば、判断を誤る可能は少ない。


 池田門下を乗り、師の後に続こうとするならば、先生のようにすればいいのだ。簡単な話だ(笑)。自分で自分を誤化そうとするから、話がややこしくなるのだ。

2006-10-11

小泉前首相と池田名誉会長「30分会った」 公明代表


 公明党太田代表は11日の記者会見で、小泉前首相が退任直後、創価学会池田大作誉会長と会談したことを明らかにした。「ごく短時間、30分ほど会ったと聞いている」と述べた。一方、安倍首相が就任前に池田氏と会ったとされる点については「全く承知していない」と語った。

 創価学会広報室によると、小泉前首相から池田氏に退任のあいさつを申し入れ、928日に東京都内の聖教新聞本社で会談した。小泉前首相は「外遊中に池田誉会長の存在を改めて認識した」と語り、池田氏は識者との交流や、大学での講演について述べたという。創価学会の秋谷栄之助会長や草川昭三・公明党副代表らが同席した。


【asahi.com 2006-10-11】

木を植えるは十年の計、人を育てるは百年の計


 花にあらば、何をって咲くのだろう。

 花に言葉あれば、何を語ってくれるだろう。


 創価大学の枝垂(しだ)れ桜。

 光が「紅の滝」のように垂れていた。紅は燦々(さんさん)と輝き、爛々(らんらん)と燃えて、麗春の喜びを、命いっぱいに歌っていた。

 4も半ばを過ぎ、都内では、すでに葉桜の季節になっていたが、大学の若き枝垂れ桜は、今が「花時」であった。

 竹林のある静かな庭に、ゆったりと花の波、花の滝。花の衣に花錦。

 創価大学の緑は、武蔵野の自然を残すとともに、創立の後も、何かにつけて樹を増やしてきた。

「年々歳々、樹々が育つように、若き学徒よ大樹に育て」と祈りつつ。


 木を植えるは、十年の計。

 人を育てるは、百年の計。

 各地の桜の所も「次の世代の人たちを喜ばせたい」。そういう気持ちの人たちがいたからこそ、今、花を楽しめるのではないだろうか。


【池田誉会長の写真紀行 光は詩う 第23回「桜樹燦爛」/聖教新聞 2000-04-02付】


 私が何かを書いて、これほど美しい文章を汚(けが)す必要もなかろう(笑)。何も考えず、ただに出して堪能されよ。

第二章の学会のすべてを諸君に託す


 最後に、今日の師の誕生日の佳(よ)き日に、戸田先生の歌を二首紹介し、諸君の1990年への凛々しい旅立ちを祝福いたします。


 三類の 強敵あれど 師子の子は

   広布の旅に 雄々しくぞ起て


 師子王の 雄叫び聞いて 奮い立つ

   広布の旅の 子等ぞ勇まし


 第二章の学会のすべてを、諸君に託します。万事、よろしく頼みます。


【第26回男子部総会メッセージ 1977-02-11 大阪・関西戸田記講堂】


 会長勇退の2年前の男子部総会。このメッセージは、竜の口の法難における大聖人と四条金吾のやり取りを彷彿(ほうふつ)とさせる。


 前年の昭和51年(1976年)、『月刊ペン』が3号、4号と立て続けに、根も葉もないスキャンダルを報じた。学会を取り巻く状況は緊迫の度を増していた。


 メッセージには二つの重要な義があった。一つは、115日に行われた第9回教学部大会(関西戸田記講堂)で、「仏教史観を語る」と題した講演をされた直後に発表されたこと。そしてもう一つは、関西で行われたことだ。


 残なことに、私は高校生だったため、当時の様子が全くわからない。ただ、支部長・婦人部長をしていた両親が殆ど家にいなかったのは、それ以前と変わりがなかった。


 学会の歴史を編んだものに、『日蓮正宗創価学会東京大学法華経研究会編(山喜房書林/昭和37年53日)、『革命の大河 創価学会四十五年史』上藤和之、大野靖之編(昭和50年1118日)の2冊があるが、いずれも現在となっては古過ぎる内容だ。


 日顕による第二次宗門問題以降、我々は宗史を初めとする過去の歴史を捉え直す作に挑んだ。「大聖人直結」と「御書根本」を標榜し、日蓮法とは異質な“衣(聖職者)の権威”を斥(しりぞ)けた。ここに、「創価ルネサンス」があったのだ。


 その味からも、二度の宗門問題を中とした学会の歴史即池田先生の歴史を、きちんと編纂(へんさん)しておく必要があろう。なかんずく、昭和54年(1979年)前後の歴史は不明な点が多過ぎる。新たな会則で「三代会長を永遠の指導者」と位置づけておきながら、当時の指導も公表しないようでは、今尚、“宗門に屈した姿”のままと言われてもやむを得ない。(※当時の書籍には、指導の要旨しか記録されていない)


 御書であっても、「又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただの爾前の経とをぼしめせ」(1489頁)と、佐前と佐後に大きく分かれる。創価ルネサンス前と後の指導が、大きく異なるのは全ての学会員が既に承知している。


 先生は114〜23日まで関西に滞在されていた。男子部総会は既に、予定されていたことだろう。16日には、事実上の結成式となる第1回創価班総会に出席された。そして、関西男子部に楔(くさび)を打ち込まれたのだ。男子部総会っていったって、開催地のメンバーが一番多く集まるのは当然だ。


 東京は権威に弱い(笑)。権威に強い私が言うのだから間違いない。学会本部の指示となれば、坊主の向であっても言いなりになる生命がある。その点、関西は東京から離れていることが強味となる。


 先生が絶体絶命の危地にあって、最も深い信頼を寄せた関西男子部である。勇退直後、真っ先に師の下(もと)に馳せ参じたのも、若き藤原関西長を筆頭とする関西七勇士であった。この血脈を関西は永遠に忘れてはならないとう。


 折しも、大阪9区(茨木市・池田市・箕面市・豊能町・能勢町)の補選が告示となった。明年の参院選の動向を左右すると多くの指摘あり。安倍政権の命運を関西が担っている。

重力と戦う朝青龍

 まるで別の世界で相撲をとっているようだ。以下は、サンケイスポーツの記事――


この横綱だけができる、至宝の芸当だ。


勝利への執、はがねの筋力、絶妙なバランス覚…。

青龍が肉体の英知をかき集めて、全勝を守りきった。

 幕内最年長(36歳)の琴ノ若との結びの一番。立ち合い、素早くもろ差しに。だが、琴ノ若が必死に手を伸ばし、得の左上手をつかむ。横綱は強引に下手投げを放つが、琴ノ若の腕力が勝る。壮絶な投げの打ち合い。青龍の体が裏返しになった次の瞬間、館内は信じられない光景を目にした。


 青龍が、右腕だけで相手のまわしにぶら下がっていたのだ。レスリングの“ブリッジ”のような体勢でわずかなすき間をつくり、土俵への落下に抵抗。琴ノ若の左手とほぼ同時に土俵に落ちると、行事軍配は琴ノ若へあがった。琴ノ若の金星に見えた一番に、館内からすさまじい数の座布団が土俵に向かって投げ込まれ、すぐに審判団から物言いがついた。


 長い国技の歴史でもおそらく目にすることはなかった、ウルトラC級の粘り腰。土俵上の協議は約4分間という異例の長い時間をかけ、審判長の三保ケ関親方(元大関増位山)は「西方力士の手と、東方力士(青龍)の体が落ちるのが同時と見て取り直しとします」と宣告。取り直しの一番は、横綱が格を見せつけ、切り返しで白星をもぎとった。


 ブン投げられても、体が1回転しても負けない青龍は、風呂から上がると得満面に切り出した。「どうだった? 残ってたでしょ。琴ノ若関が先に落ちていた。オレが決めることじゃない、審判が決めることだけど、ちゃんと見てたね。きょうの相撲は面白かった。ブリッジ? プロレスの技みたいだね」


 モンゴルでは柔道クラブに所属。同じクラブに所属していた弟分の赤龍は「横綱は本当に運動神経抜群だった。サッカーもバスケットボールでもなんでも一番だった」。青龍と親交があり、場所前にも部屋に激励に訪れたアテネ五輪・ハンマー投げ代表の室伏広治(29)も「素晴らしい筋肉のつき方をしている」と絶賛していた。


 体重は140キロと小柄な体格ながら、最強の地位を守り続ける支えは、たぐいまれな運動神経と筋力があってこそ。猛げいこで開花させた才能が、相撲の歴史を覆すはなれ技を呼んだのだ。「琴ノ若関とサーカスにでもいこうかな」。青龍劇場は、一瞬たりとも目を離せない。

2006-10-10

OpenOffice.org日本ユーザー会

 ワープロや表計算、プレゼンテーションがまとまって入っているフリーソフト。Microsoft Officeは、もう不要だ。

真面目の語義


 私は明年で入信40年を迎える。その間、実に多くの人生を見てきた。その体験の上から、一つの結論として確言できることがある。それは、人柄のよい“真面目(まじめ)”な人格の人こそが、結局、最後に人生の勝利者となり、幸福者になっているという事実である。平凡といえば、これ以上、平凡な原理もない。しかし、ここに最も重要にして銘記すべき一つの基準がある。

 どこの世界にあっても、真面目で真剣でなければ長続きしない。これが道理である。いわんや信仰の世界においては、の奥底に誠実な真面目さと、謙虚な実直さがなければ、生涯の信仰を全うできるものではない。

 また、「信」といっても様々な信の姿がある。“火の信”もあれば、“水の信”もある。格好のみの偽りの信もある。見た目の華やかさや、一時の活躍の姿だけではわからない。

 ゆえに極論すれば、信を抜きにしても、一個の人格として真面目な人であるかどうか――。そこにから信頼し、安して後事を託せる人物か否かの分岐点がある。根が真面目であり、その上に強盛な信が備わっていることが大切なのである。


真面目」の語義ならびに語源をみてみると――真面目味に主として、1.真剣な顔つきであること。真のこもった顔つき。2.真剣な態度。3.本気であること。真摯さ。4.戯(たわむ)れでないこと。誠実であること。虚飾がないこと。率直、実直、真実であること、などがある。

 また、その語源には諸説あるが、主なものに、1.マサシキ目(正しき目)の義、2.真子とシ目(真の目)の義、3.真筋目(真の筋目)の義、などが挙げられている。

 更に漢語の真面目(シンメンボク、シンメンモク)には、1.ありのままの姿。本然のままで偽り飾りのないこと。真相、実相、2.まじめ、実直、の義がある――。

 ここからいえることの一つは、やはり“目”がを表すということだ。落ち着きがあり、澄んだ“正しき目”でなければならない。

 また、偽りや虚飾は不真面目に通じる。口に美辞を並べながら、陰で要領をつかい、諸問題を引き起こし、人々をしめたりする人間は、この類いである。不真面目な人は、長い目でみれば、必ずといってよいほど挫折し、堕ちている。真面目な人は、一見、華々しくはみえない場合があるが、時とともに、にじみ出る人格の光彩がある。そこに人々は信頼を寄せてくるのである。

 更に、“真剣”でなければならないということだ。一流の人物は、例外なく陰で人の何倍、何十倍もの真剣な精進を重ねている。また、我が学会も、諸君のご両親等をはじめとする諸先輩方が、真剣の二字で築き上げたものである。

要するに学会は、真面目だったからここまで大発展を遂げた。このことを絶対に忘れてはならない。真面目さの中に凝結した自己の人格と一が、我が人生を飾っていくのである。


“悩み”のない人はいない。人生は悩みと葛藤の連続であるといってよい。しかし、悩みと労があるからこそ、成長も前進もあるのである。たとえ、いかなる煩悶(はんもん)があったとしても、「煩悩即菩提」の原理で、しみを成長と幸せへの糧としゆくところに、人間としての成長がある。その味から、労と葛藤こそ飛翔への原動力である。

 広宣流布の一切を後継しゆくのは、若き諸君たちである。今後、それぞれの立場にあって、全責任を担い活躍していかなければならない。それは、生死の大海に漂うしみの衆生を、妙法の大船に乗せ、三世にわたり真実の幸福の道へ導くための労作である。そのリーダーとしての立場が諸君である。

 その重大な責任は、青春時代の“労”と“鍛え”なくして、決して果たすことはできない。ゆえに、若き日の絶えざる精進を忘れてはいけない。


 やがて、皆さん方は、青年部から壮年部へと移行していくのは当然の姿である。人によって様々であるが、青年部時代の華やかな舞台から、壮年部の地味な活動の場へと進む場合もある。そのために若干のさびしさをずることがあるかもしれない。しかし、その時にこそ、信を深め、自身を磨いていけるか――ここに大きな分かれ道がある。

 人生は、マラソンレースのようなものだ。調子のいい時もあれば、悪い時もある。自分が評価される時もあれば、されない時もある。ともあれ、いかなる立場にあっても、「本有常住」の一を強く持って、自身の責任に全力で取り組んでいただきたい。その誠実と真剣の行動の中に、一切が開けていくことを知ってほしい。


 諸君は、若き日に広布を誓い合い、多くの同志とともに金の歴史を刻んでいる妙法の青年リーダーである。諸君にだけは絶対に退転してほしくない。信の挫折である退転は、いかなる理由があったとしても、自分自身を、そして、自身の青春の誓いを裏切ることになってしまうからだ。それでは、あまりにも惨めである。

 私も、師・戸田先生との若き日の“誓い”に、人生の全てを賭けてきた。あらゆるに耐え、信の道を進んできた。価値ある人生は、青春時代の“誓い”を、生涯貫くところに実現されることを確信していたからである。今は全く悔いがない。

 信仰の真髄は“生涯不退”にある。どうか諸君は、幸不幸の人生の荒波を経たとしても、どこまでも青春の誓いも固く、生涯、求道と不退の大道を歩み抜いていただきたい。


【青年部代表者会議 1986-12-17 創価学会新館】


 昭和61年の指導である。当時、太田青年部長・浅見男子部長という体制だった。会長勇退から反転攻勢に転じた歴史は、このお二方を抜きにして語れない。昭和56、57年(19811982年)と2年連続で「青年の年」と銘打ち、全国各地で文化祭が繰り広げられた。聖教新聞に先生の指導も掲載されるようになった。


 青年部長・男子部長の叫びが、全男子部を奮い立たせた。男子部が、あらゆる闘争の先頭に立った。先生の手づくりの青年部が誕生した。


 昭和54年(1979年)以降、会長勇退という事実が時間の経過とともに風化して、自然に盛り上がったわけではないことを、現在の青年部に知ってもらいたい。


 全国の青年が師の指揮を求めて懸命に戦った。しかし、再び障が襲い掛かった。昭和57年(1982年)1015、20、27日と、先生が検察側の証人として出廷することになった。東京地裁に向かう車の後を、右翼街宣車が追いかけ、誹謗中傷の限りを尽くし、裁判所の前では待ち構えていた数十社のマスコミがフラッシュを浴びせた。


 札幌でも部長以上の幹部による唱題会が連日行われていた。しかし、師匠を晒(さら)し者にしてしまった。


「諸君にだけは絶対に退転してほしくない」――先生はどんないで、この言葉を発せられたことか。


 男なら力を示せ。力がなければ、師を宣揚することはできない。

たゆまざる 歩みおそろし かたつむり


「たゆまざる 歩みおそろし かたつむり」

 これは、ある日本の有な彫刻家の方の、座右の銘です。

 カタツムリは、皆さんもよく知っているように、ほかの動物とくらべてたいへんにゆっくりとした、のろい歩みをします。しかし、私たちがちょっと目を離していると、いつのまにかおどろくほど前へ進んでいる。

 この彫刻家の方は、人の一生というものは、そういうカタツムリのように、毎日、着実に歩んでいくことがすばらしいのだと、述べているのでしょう。


【「君よ、日々努力の人に」/小学生文化新聞 1986-01-01付】


 紹介されているのは北村西望翁の句である。ガンジーの「善きことはカタツムリの速度で動く」という言葉と深く共鳴している。長崎の平和記念像を制作している渦中で目にした光景を詠んだものである。


 この指導を配信してから、聖教新聞で氏のことが紹介された記事を見て吃驚(びっくり)した。先生との交流があったことを知らなかったからだ。先生の周りに人物が集まる様は、さながら、「磁石の鉄をすうがごとし琥珀の塵をとるがごとし」(1347頁)といった観がある。


 オシム・ジャパンの要として注目を集めている羽生直剛(はにゅう なおたけ)選手(ジェフユナイテッド市原・千葉所属)が、高校新報のインタビューで次のように語っていた。


 夢を持つことは大切です。でも、先のことを頭で考えるだけなのは、よくないといます。地道に目の前のことを、その時その時に全力でやっていくと、面白いことや幸せなことがやってきます。小さな階段でも、一歩ずつ上っていけば、今までと違う景色が必ず広がって見える。お互いに自分らしく、自分ができる最大限のことを、やり切っていきましょう!


【高校新報 2006-09-27付】


 一流は一流と響き合う。以下にイチローの言葉を紹介する。索の糧とされたい。


 小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だとっています。




 今自分にできること。頑張ればできそうなこと。そういうことを積み重ねていかないと、遠くの大きな目標は近づいてこない。




 少しずつ前に進んでいるという覚は、人間としてすごく大事。




 成績は出ているから今の自分でいいんだ、という評価を自分でしてしまっていたら、今の自分はない。




 僕はいつも一生懸命プレーしていますが、今日はよい結果が出なかった。でも、だからといって後悔もしていないし、恥ずかしいともっていません。なぜなら、できる限りの努力をしたからです。




 自分のできることをとことんやってきたという識があるかないか。それを実践してきた自分がいること、継続できたこと、そこに誇りを持つべきだ。




 やれることはすべてやったし、手を抜いたことはありません。常にやれることをやろうとした自分がいたこと、それに対して、準備した自分がいたことを誇りにっています。




 積み重ねていかないと、遠くの大きな目標は近づいてこない。




 結果が出ない時、どういう自分でいられるか。決してあきらめない姿勢が、何かを生み出すきっかけをつくる。

2006-10-09

年度別テーマ


2000年代


1990年代


1980年代

1970年代


1960年代

日中首脳会談が実現


 昨日8日、待望の日中首脳会談が北京の地で実現した。首相(926日就任)となる直前の安倍晋三氏が920日に学会本部を訪れ、先生と会談した(毎日新聞による)。そして、日中国交正常化から34年目となる929日、中国の王毅中日大使が先生のもとを訪れている。王冥合の一つの姿であることを実する。28日には、小泉前首相も先生に退任の挨拶をしている(日本経済新聞による)。

2006-10-08

今こそ創価の正義を叫べ


 ここ数年間は、世間の批判・中傷に流され、何かに遠慮しているかのような風潮があった。そして、あの凛々しい勇敢なる創価精神というものが薄れ、行動が鈍りつつあることを配していた。

 そこでもう一度、確固たる原点に立ち返って、主張すべきことは主張し、行動すべきことは行動しなければならないと決するに至ったのである。

 広宣流布と平和実現への私どもの正しい績をそのまま多数の人々に伝えていくことは、ともどもに広宣流布の推進に通ずると確信していきたいものである。


【墨田区懇談会 1984-12-13 墨田文化会館


 会長勇退1979年/昭和54年)によって学会は揺れた。それから5年を経て、先生は自ら反転攻勢を宣言された。第三代会長就任の地、墨田で。


 ここから、創立55周年(1985年/昭和60年)を目指して、怒涛の勢いで戦いが展開された。そして、創立60周年から更なる上昇カーブを描いて学会は発展した。


 1979年424日から1984年までの期間は、「創価学会の忌まわしき歴史」と言っていいだろう。

“ホシ”を外すな


 先生は何かといえば、よく“ホシ”ということを強調しておいででありました。

“ホシ”というのは、スターという味ではありません。あらゆる問題について、何が“焦点”“急所”であるか。また、何が“肝要”か、何が“核”であるか、どこをどうすれば値打ちが出てくるか。その“勘所(かんどころ)”をしっかり抑えろ、ということであります。「広・略・要」の内、“要”をきちんと握りしめよ、というご見であったかとうのであります。

口幅ったいようでありますが、戦後の学会の再建の初期において、不肖私を事実上の総責任者として、この関西、大阪に派遣なさったのも、そういう“ホシ”の手の打ち方であったと私は信じております。


【戸田前会長19回忌法要 1976-04-02 大阪・関西戸田記講堂】


 昭和51年だから、会長勇退の3年前に行われた法要である。


 夏季研修での「徒然草」の指導とも共鳴する内容だ。戦いのホシ、対話のホシ、会合のホシ、人材育成のホシ、そして、祈りのホシをしっかりと見極めたい。ホシを外せば空転せざるを得ないからだ。

もっともっと「下」が強くなって、「上」を動かしていくのだ


 誰にでも平等に、最高に尊い「の生命」がある。それを法は教えている。

 民衆が強くなり、賢くなり、幸福になっていく──それが、全人類の幸福のために立たれた大聖人の願いであった。

 21世紀こそ「民衆が主役」の時代にしたい。

 もっともっと「下」が強くなって、「上」を動かしていくのだ。これは牧口先生が言われていた方程式である。

 もちろん学会においては、役職は「責任職」であり、上も下もない。広宣流布のための組織であり、尊き使命は、皆、全く同じである。

「地涌の菩薩」の誇りに燃えて、むしろ第一線の同志が幹部以上に、広宣流布の拡大に尽くしてくださっている。

 そうであるのに、幹部だからと威張るような人間がいたならば、皆がどんどん見を言っていくべきである。

 いわんや、学会のおかげで社会的に偉くなりながら、信を忘れて広布のために戦わない。増上慢になって学会を見下す。そういう忘の人間は、容赦なく責めるべきである。それが本人を救うことにもなる。

 同志の間に余計な遠慮などいらない。また、あってもならない。

 大事なことは、皆が喜び勇んで、広布のために進んでゆくことである。


【第58回本部幹部会 2006-03-09 東京牧口記会館


 関西と東京下町に共通するのは「熱い言葉」だ。いを言葉に託す術(すべ)を得ているようにじる。見栄や惑が少なく、あけすけである。貧しいゆえに、人々が助け合わないと生きてゆけなかった歴史が、言葉を生き生きとさせたのだろう。


 15年ほど前にこんなことがあった。総区の支部長会で一人の支部婦人部長が、学会本部から来た古参の副会長を、泣きながら怒鳴りつけた。副会長の顔はみるみる青ざめ、直ちに謝罪した。


 副会長が本部に戻ると、第一庶務から電話が入った。「江東区は、どうでしたか?」と。副会長は包み隠さず全てを報告した。電話は1時間に及んだという。


 その日の内に、この報告が先生に伝わった。「江東は、何でも言い合える雰囲気があるんだ。それは私がつくったんだ。その支部婦人部長は私が直接、激励してあげよう」(主)と先生は言われた。


 深夜12時過ぎ、先生の言葉が支部婦人部長に伝えられた。涙が止まらなかった。


 この支部婦人部長は、当時、私が男子部の部長で組んでいた方である。よく、晩飯をご馳走になったものだ(笑)。喧嘩もたくさんした。二人でぐるになって支部長をいじめたこともあったな(笑)。


 とにかく青年部を応援してくれた。また、婦人部長の手に負えない婦人部のメンバーは、私が面倒をみた。互いに守り合って進んでいった。支部長もいい方だった。


 私が部長を外れて本部長になる旨を告げた時、支部長も婦人部長も「おめでとう」とは言わなかった。これが、私の自慢だ。

池田先生に200番目の名誉学術称号

 昨夜、八王子の空で満が皓々(こうこう)と輝いていた。家庭指導を終え、エレベーターの前で擦れ違ったオバサンに、「凄いが出てますよ」と言うと、外に出たオバサンが「うわあー」とを上げたほど。大月天も先生を寿(ことほ)いでいた。これほどのは、生まれて初めて見た。サングラスをしようかとうほど眩(まぶ)しかった。


 満

  共に見つめむ

     創価かな


 満の如き御境涯と御多光(幸)を祈りつつ


 2006年107日

2006-10-07

邪悪な幹部を責め抜け


 師匠といっても、正義の師匠もいれば、邪悪の師匠もいる。

 正義の師を求めよ!

 邪悪の師を避けよ!

 その違いを鋭く見抜け! 決して、だまされるな! ──これが、蓮祖の峻厳なる戒めである。

 邪悪な師には従ってはならない。従えば、皆が悪に染まってしまうからだ。

 日顕がそうである。

 宗門があれほど腐敗し、堕落したのも、誤った指導者に従ったゆえである。

 邪悪な人間はたとえ師であっても、それを遠ざけ、叩き出していかねばならない。

 どこの世界でも同じことである。

 我が学会も、断じて油断してはいけない。

 役職や立場を利用してインチキをしたり、同志をしめる人間が出たならば、絶対に許してはならない。

「あなたは間違っている!」「おかしいではないか!」と厳しく責め抜いて、 その悪を暴いていくのだ。

 そうでなければ学会を破壊し、同志を不幸にしてしまうからだ。

 その点を厳しく見極めていかねばならない。

 これが大聖人の厳命であり、私の遺言であると申し上げておきたい。


【第58回本部幹部会 2006-03-09 東京牧口記会館


 だからといって、早まった行動をしてはいけない(笑)。「よし、今度の活動者会で、部長襲撃を決行だ」とかね。間違いなく返り討ちに遭(あう)うから、やめておきなさいよ(笑)。


 今はその時ではない。悪い幹部って言ったって、高(たか)が知れている。無責任な官僚は多いが、そんな連中は放って置いてよろしい。


 もちろん、後輩が犠牲になってる場合は、直ちに行動を起こすべきだ。それ以外はダメ(笑)。今は力を貯(た)める時だ。


 真剣を抜いて立ち上がるのは――師、亡き後だ。


 昭和33年118日、若き先生は日記にこう書かれている。


 午後2時より、輸送会議。最高首脳(理事)たちは、その実態を知らず、現場の青年のやりにくきことを配する。


 先生のおられぬ間の責任は、理事長であり、理事だ。怒りたいい、激し。


 夕刻、先生とお目にかかる。

「やりづらくとも、君たちが、学会を支えてゆくのだ」と、厳しき指導あり。先生の胸中……。


 戸田先生が逝去される3ヶ前のことである。


『大白蓮華』の特集でも、この頃の貴重な証言が数多くなされているが、理事室がどれほど先生の足を引っ張ったことか。戸田先生亡き後、彼等が五老僧にならないで済んだのは、ひとえに先生の慈悲の為せる(わざ)ではなかったか。


 人間理は実に複雑微妙である。正しい理屈を叫べば変わるという単純なものではないのだ。時に情が入り乱れ、惑が交錯し、立場や経験が邪をする。


 一番大事なことは、「現実を変革する」ことだ。それができる人なら、行動を起こすことも、やぶさかではない。


 青年部は今の内に、しっかりと喧嘩をできるだけの胆力をつけておくことだ。

PHARMACY 1.00

 必死で探して、やっと見つけたフリーソフト。ページ全体のスクリーンショットが作成できる。通常のスクリーンショットは、画面に表示されている部分しか保存できないが、このソフトを使えば、blogのような縦長のページであっても丸々保存が可能。しかも操作が簡単で、URLをペーストするだけ。


 Webの世界は、記事が消失することが多いので、こうしたツールは極めて便利だ。例えば、掲示板から遁走直前の法華講員とのやり取りを保存するという手もある(笑)。

2006-10-06

スターバーストの如く人材群を輩出せよ


 美しく渦巻く銀河にあっても、巨大な星たちが幾万、幾十万と、一気に集中して誕生する現象がある。

 それが「スターバースト」と天文学で呼ばれる、爆発的な星の形成である。

 銀河が鮮烈な輝きを放つ。壮大なる大宇宙のドラマである。

 広宣流布の大回転にあっても、新しい人材が爆発的に誕生すべき時がある。

 今、新しいその時が来た!

 今こそ、全員が「会長」の自覚を持つことだ。広布の全責任を担い立つのだ。

 一人ひとりが「勇気」と「戦闘力」と「学会精神」を爆発させていくことである。

 嫉妬と悪口(あっこう)の輩にさえも「学会はすごい」「かなわない」「今までの何倍、何十、何百倍も人材が出てきた」とわせるような戦いをしようではないか。

 その戦いの根本は何か。

 自分自身の人間革命である。

 組織をどう動かすかではない。自分を革命することだ。自分が生まれ変わっていくことだ。

 新しい自分の光、人間としての輝きを出してゆくことである。

 そして、その新しい輝きをどこに向けていくべきか。

 後輩を育てること、広宣流布の人材を育てることに向けるのである。

 あの日あの時──仙台の青葉址での戸田先生の勇姿を、私は、生涯、忘れることができない。〈1954年(昭和29年)425日〉

創価学会は、人材をもってを築け!」

 これが師・戸田先生の永遠の指針である。

 私はもう一度、学会の偉大な前進の原動力となる人材の育成を始めるつもりである。


【第58回本部幹部会 2006-03-09 東京牧口記会館


 とは言うものの、冥王星みたいな組織も多いことだろう(笑)。「太陽系の惑星から外されてしまいました」なあんてね。先生の指導の勢いが増せば増すほど、落ち込むばかり。冷ややかに見つめる後輩からは「内の中者はブラックホール」と陰口を叩かれる。そんなんじゃダメだ。


 先生が言われているのだから、人材は間違いなくいる。見えてないだけだ。過去に捉われながら、曇った瞳で眺めているから見えないのだ。


 私なら、そうだなあ、男子部であればどんなに厳しい部であっても、3年くれれば、必ず10人は集まるようにする自信がある。いざとなったら、殴ったり、蹴ったりしてでも集めてみせるよ(笑)。


 30歳を過ぎている本部長以上のメンバーで、それができない者は、ハッキリ言って邪者だ。一年で一人も育てられないような部長も要らないね。人材育成を阻む最大の原因は、力のない幹部なんだよ。お願いだから、どこかへ行ってくれ。後輩があまりにも気の毒だから。


 師弟共戦の時間は限られている。今、師の下(もと)に後輩を集わせることのできない幹部は、学会の敵だ。

朝の会合は10時以降に


 それで今度は夜が早いと、頭のいい人は反対に「、早く集まろうではないか」(笑い)。そういうヘーゲルの弁証法が出る(笑い)。したがって、私はの会合がもしかあるような場合があったとしても、絶対に午前10時以前の会合はしてはならない。10時以降にしていただきたい。日曜日だけは、これは9時から会合をしてもよろしいのではないかと。早勤行等は一切、禁止する。全部、自分の家でしっかり勤行をすれば一切が含まれる。ただし、選挙戦が始まった場合には、また考え直して頑張りたいと、こういう考えですけれども、よろしいでしょうか。


【第46回本部幹部会 1964-02-27 日大講堂】


 そろそろ、「師匠から言われないと気づかない」という弟子の傾向を何とかしたいとうが、どうだろう?


 社会とは、生活の中で培われるセンスのことである。「常識」というのは、その最低ラインだ。信仰者である我々は、「良識の人」と輝いてゆきたいものだ。


 私が男子部の分区書記長となってからは、21:00を超える開始時間の部活動者会はやらせなかった。さまざまな理由があって「21:30からやりたい」というがあっても認めなかった。「いいか。お前らがよくったって、隣近所が迷惑するんだぞ」と。更に、「お前は集まらないと指揮を取れないのか」とも言っておいた。大体ね、集まらないなら、集めるのが戦いなんだよ。それをだ、集まらないと何もできないと中者がい込んでる時点で既に負けてるんだよ。暴走族じゃあるまいし……。


 21:00からの会合であっても、「泥棒のように、抜き足、差し足、忍び足で集え」と厳命した。いまだに私は、会館を出て直ぐに携帯で話している若造を見ると殺を覚える。


 23:00過ぎに広布が進むことは、断じてない。男子部はこれを肝に銘じてもらいたい。

「化儀」とは社会への応用


 化儀の“化”は応用です。“化学”の“化”は化ける方ですが。今、法の立場からは“形式”をいうわけです。制度とか政治になります。結局は、社会を味することになるのです。


四国第一本部地区部長会 1964-01-16 四国本部広間】


化儀」が形式を味するのは知っていたが、「社会」と捉えることは知らなかった。既に読んでいたはずの指導だが、目からウロコが落ちるいがした。若い頃に読んだ指導は、見落としているものが多過ぎる。やはり経験不足のゆえか。


 大聖人化法(=法体)の広宣流布、そして創価学会化儀の広宣流布。我々は、御本尊を安置し、南無するという儀式を弘めている。これによって人々は功徳に浴し、社会に活力を与えてゆけるのだ。


 人生とは、地涌の菩薩が織り成す偉大なる儀式なのかも知れない。

2006-10-05

創価ネットワーク

 既にMLを解散したため、「創価学会ML」改め「創価ネットワーク」とした(URLも変更)。ここが私の本拠地となる。創価王道のアーカイブも準備中。

第6回公明党大会:動画

 太田代表の雄弁ぶりは、青年部長時代と全く変わってない。これだけの迫力と切れ味をもつ人は、学会にもそうそういない。


 安倍首相が次のように挨拶した――


 私の祖父の岸信介も、父の安倍晋太郎も御党とは交友関係の深い間柄でもあった。両党が50年の歴史を経て、今、第2期の連立政権時代を迎えるに当たって私が自由民主党の総裁として、そして連立内閣の首班として、連立を率いていく立場になったことは、何か特別な運命をじている。


 時間のない方は、以下を目安にされよ(いずれも「午後の映像」)――

  • 5分40秒 太田代表挨拶
  • 24分 安倍首相挨拶
  • 30分 上記発言

2006-10-04

YouTubeの動画保存法


 時々質問メールが寄せられるのだが、ここで紹介している動画はいずれも「YouTube」へリンクしているだけである。どれも完全に著作権が無視されているので、いつ削除されるかわからない。保存したい方は、以下のページにダウンロードする方法が書かれている。

 尚、動画のURLは、画面の再生ボタン以外の部分ををクリックすると別画面で表示される。再生するには、FLVプレーヤーが必要。

今再び草創の魂を燃やせ!


 我が学会員は、再びここに、草創期のたくましい開拓精神、建設精神をもたなくてはならぬ。そして、おのおのが新しき時代を築く先駆を切ろうではないか。

「源遠ければ流ながし」――広宣流布への前進には、決して行き詰まりはない。こんこんと湧き出ずる泉のごとく、学会は、永遠に青年の気概をもって、発展しつづけるのである。

 学会員の成長は、すなわち社会人としての成長である。社会に力強い繁栄と隆昌をもたらすのが、学会の精神である。

 そもそも、一般社会においては、功成りを遂げたとき、ついに慢を起こし安逸をむさぼって堕落する人のいかに多いことか。また、いかなる団体、政党、教団といえども、ある段階にいたって、惰に流され、腐敗し、滅び去ってしまうのが、歴史の常であった。全て草創期の厳しい精神を忘れたゆえんであり、根源に、正しい信のなきゆえである。

 しからば、草創期の精神とは何か。根本は大目的達成まで、峻厳なる信と、堅固なる自覚を貫くことである。新時代とともに生き、いかなる時代にあっても、常に燃え上がってやまぬ信がなければならぬ。

 学会の草創期においては、あらゆる活動が、実に生き生きとして、激しい気迫に満ちていた。全幹部は宗教革命の第一線に立って戦った。


【巻頭言「草創期」 1963-07-01】


 私が生まれる直前の巻頭言である。それだけにい入れが深い(笑)。43年前の『大白蓮華』に記されたもの。


 広布史を学べば学ぶほど、先生が打たれた先手に驚かされる。今から見れば、昭和38年は広布第一章であり、草創期といってよい。先生が会長に就任されてから3年。まだ35歳であった。前年の昭和37年(1962年)1127日には300万世帯を達成。戸田先生亡き後、「空中分解」するどころか、加速度を増して怒涛の勢いで広布の奔流は流れた。


 戸田先生が「あと7年間で、300万世帯の創価学会にしたいな」と言われたのが、昭和33年の210日である。逝去の2ヶ前。それを、わずか4年で実現したのだ。75万世帯の達成が昭和32年12だから、5年間で4倍の勢力となったことになる。しかもこの間(かん)、会長不在の時期が2年あったにも関わらずだ。師亡き後の弟子の団結は更に強靭の度を増し、若き会長を中創価の旗が全国に翻(ひるがえ)った。


 翌昭和39年(1964年)は、戸田先生の7回忌に当たる年だった。「七つの鐘」の第五の鐘は乱打された。師の遺言はことごとく完璧に成し遂げられた。


 組織が拡大に次ぐ拡大をする中で、「草創の精神に還れ」と指導された味は重い。機先を制して官僚主義を打破されたようにもずる。この後、第六の鐘で広宣流布は大河の時代を迎える。清流は川幅を広げ、スピードを緩(ゆる)める。流れは、どうしたって澱(よど)んでくる。ゴミや猫の死体も浮いている(笑)。


 実際の河を見てみよう。河口が海と等しくなってる河は一つもない。大河は、ほんの少しずつ川幅を広げながら、一気に海へと流入している。であれば、あらゆる運動もまた、拡大し続けることは不可能なのかも知れない。大切なのは、どんなに遅々としていても、海を目指して流れ続けることだ。


 その小さな前進は、生半可な決で成し遂げられるものではない。もがきしむような格闘に挑み、岩に爪を立てる覚悟が求められる。その覚悟を支えるものが、「草創の精神」だ。どんな荒地であろうとも、鍬(くわ)一本で己の力を発揮しながら開拓する精神だ。

2006-10-03

『心にナイフをしのばせて』奥野修司


 奥野修司著『にナイフをしのばせて』(文藝春秋)が売れてるようだ。


 キッカケとなったのは、よみうりテレビ(近畿圏/日本テレビ系列)の「たかじんのそこまで言って委員会」という番組。ここで評論家の宮崎哲弥氏が紹介した。

 衝撃的な内容だ。被害者は子供を殺された挙げ句、その後も地獄の人生が続く。一方、罪を犯した人物は少年法に守られ、のうのうと充実した人生を謳歌する。犯罪者は謝罪もせず、約束していた賠償金も払ってないという。何という矛盾。まさに“殺され損”といってよい。誰もが怒り頭に発することだろう。


 だが、ちょっと待て。こういう時こそ冷静になる必要がある。人間は情を煽られると、一つの方向へどっと傾いてしまう。右寄りの連中が、国民情を煽るのと変わらなくなってしまう。


 全く逆方向から考えてみよう。

  • 犯罪者は弁護士になってはいけないのか?
  • 犯罪者は金持ちになってはいけないのか?
  • 犯罪者は幸せになってはいけないのか?

 こうした問いへの明快な答えが必要なのは明らかだ。所詮、本に書かれていることは、わずかな部分に過ぎない。一読して全てを知ったような気になることが一番怖い。


 被害者の情を完璧に解決する方法は二つしかない。拷問による処刑か、奴隷のような役(くえき)か。そして、一度でも人を殺した者は一生涯、拘束する。これなら、誰もが納得するだろう。


 しかし、先日、「死刑制度について」にも書いた通り、万が一、冤罪(えんざい)となった場合、取り返しのつかないことになる。罪は憎むべきだが、犯した罪の内容は千差万別だ。それを、改正されたり、改悪されたりする法律で裁かなくてはならないのだ。


 こうして考えると、やはり、「人が人を裁く」国法の限界をじる。確かに、現行の少年法には問題がある。だが、安易な厳化を急ぐ前に、被害者家族に対するケアと賠償を手厚くするのが先決だ。


心にナイフをしのばせて

2006-10-02

“浅はかな有名人”になるな


 現在、このように広布の道が大きく開けてきた。その陰には、決して華やかな表舞台に出ることなく、黙々と活躍してきた無数の信の勇者がおられる。その反面、利にとらわれて、広布の第一線での労を避け、汗水を流すこともなく要領よく活動し、何かにつけて表に立っては自己を偉く見せようとする人もいる。

 そうした人々は、有になったり、何かの立場を得たりすることを功徳のように考え、組織において日夜、労を重ね、愚直なまでに地道に活躍をしている方々を睥睨(へいげい)し、見下していくものだ。そのような浅はかな“有人”が今までにもいたことはご存じの通りである。また、これからもあるかもしれない。

 しかし彼らは、いわゆる世渡りがうまいというべきであって、深き信と人生の完結への正しき軌道、行路に則(のっと)ってはいない。ある者は利の卑しき根であり、何よりも我慢偏執のである。

「我慢」とは、我尊しとおごる“慢”であり、「偏執」とは偏った考えに執着していくである。御書の仰せに従わず、広宣流布の正しき軌道から外れた我慢偏執のこそ、信の最大の敵である。

 表面のみ信ありげな姿の中途半端な生き方では、一時はよいように見えても、最後は成という生命の完結を得ることなく、しみの境涯になってゆくことを知っていただきたい。


【金会全国代表者会議 1986-02-22 創価学会本部】


 陰で戦う金会に対し、「我が使命に生きよ!」と指導されている。金会は、創価班や牙会よりも最高幹部と接する機会が多い。時には堕落した幹部の振る舞いを目の当たりにすることもあるだろう。信とは相容れない矛盾にしむこともあるだろう。しかし、任務上のことは組織で相談することもかなわない。その上、彼等は会員の目に留まることもない。


「その中で戦え!」と先生は言われているのだとう。「それが、私の歩んできた道でもある」と。


 信強盛とは、陰で闘争し抜く人の異である。されば、いかなる立場になろうとも“陰徳の人”でありたい。そしてまた、“陰徳の人”を讃えるリーダーでありたい。


 近頃じゃ、会館でしか活動してないクソ幹部がいるよ(笑)。

太田昭宏代表の挨拶


 党の歴史において、公明党議員の使命と自覚を忘れ、カネや誉欲におぼれて、支持者の期待を裏切った政治家が党の指導的立場にいたことは、痛恨の極みであり、それを許した党のあり方も厳しく反省しなければなりません。


 聖教新聞紙上座談会には見られない論調だ。期待が高まる。それにしても、「闘う人間主義」「生活現場主義」と、相変わらずキャッチコピーが上手い。

2006-10-01

チャレンジトーク:水谷修氏


水谷修さん(夜回り先生)×棚野信久さん(総東京男子部長)/聖教新聞 2006-10-01付】


水谷●講演でも必ず言うんです。来場した先生たちには1日10回、お母さん方には50回、子供をほめてください、って。

 子供たちの周りが、温かい言葉で満たされたなら、を病む子供なんかいなくなる。

 創価学会の集いにも、温かい言葉があふれているから、皆が集まってくるのでしょう?


棚野●その通りです。地域の友が集う座談会は、温かい励ましと、笑いが絶えません。


水谷●葬式教化した日本の宗教の多くは、ほとんど力を失ってしまった。

 僕は、創価学会座談会が、子供たちに“本物の信仰”を伝える場となってくれることを期待しているんです。

 戦後の学校教育は、人生において信仰を持つ義を伝えず、子供たちは正しい信仰観を培うことができなかった。これも、現代社会の荒廃の大きな要因の一つだとう。


棚野●社会問題化するカルト宗教が、若者の間ではびこってしまう原因も、同様ですね。


水谷●人が生きていくためには、“本物の宗教”が必要なんです。

 に傷を負った子供たちにも、祈りの中で、改めて自分を見つめる機会をつくってあげてほしい。




水谷●の絆を誰よりも持っているのが、創価学会の青年部だよ。僕も学会員の友人を通して、多くの青年と交流してきました。

 ぜひ、子供たちの信頼できる友人として、親身になって話を聞いてあげられる青年であってほしい。


棚野●水谷先生は、深い悩みの淵に沈む子供たちに「過去のことはいいんだよ」と励まされています。傷ついたを癒(いや)すためにがけられていることは何でしょうか?


水谷●そういう励ましは、君たちの方が専門家だ(笑い)。何といっても、祈りの力がある。僕があなたの立場だったら、悩んでいるメンバーと一緒にお題目だよ(笑い)。1時間、題目をあげたら、きっとが通じ合う。


 遂に外部の方から、唱題を勧められる時代となった(笑)。


 水谷氏は胸腺リンパ腫を患っており、余命3年と宣告されてから、既に6年が経過している。この間、「身動きがとれなくなるから」という理由で、一切の癌治療を拒否している。