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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2006-10-16

若草山の山焼き


 万葉の香りも高き白鳳山明日香文化会館で、久方ぶりに奈良の同志の皆さまと、勤行・唱題し、ともどもに広宣流布を祈し、自身の一生成を願い、また、先祖代々の追善法要ができたことを、最大の幸福としみじみずるものである。

 奈良へ来てうことは、若草山のことである。その若草山は必ず一年に一回、山焼きといって焼かれるという。しかし、その焼かれた若草山には必ず、また春になれば、根があるがゆえに若草が萌え出ずる。

 人生もまた、同じである。根がある人は必ず、また栄える。その根とは信であり、福運である。その根をより強く、より逞しく張ってゆくならば、一族、眷属が永遠に繁栄しゆくのである。また、和合僧という根を地域に張り巡らせてゆくえば、いかに三障四魔の火で焼かれても、また時が来れば、青々と蘇生してゆくことは間違いないであろう。

 自信をもって、決して焦らず、着実に、自身の福運の根と信の根を、また、地域の広宣流布の根を張っていただきたい。


【奈良支部結成17周年記幹部会 1978-01-25 奈良・明日香文化会館


 歴史的な指導の一つ。私はこの指導を拝す度に涙が出て仕方がない。


 この年の高校新報11日号で先生は、中江兆民の「一年有半」を通したメッセージを高等部に贈った。それから、まさしく「一年有半」で会長を勇退される。


 私は当時、中学2年。何も知らなかった。この時の高校2年生が、会長就任の年(昭和35年/1960年)に生まれた世代であり、高校1年生は昭和36年(1961年)生まれで、「国士10万結集」の年に生まれた使命深き世代である。メッセージを託された高等部は、まさに「先生の本眷属」といっていいだろう。私の周囲を見回しても、昭和36年生まれは充実していて、層が厚い。


 師の像するに、討ち入り前の赤穂浪士の如き境ではなかったか。師亡き後、悲嘆の中から三十にして立ち、師の指導のままに「七つの鐘」を乱打し続けた18年間。広布という大義に生き、弟子の道をひた走り、激闘に次ぐ激闘。時に死線をかいくぐり、ただ「会員のために」、満身創痍(まんしんそうい)となりながらも、生きて生きて生き抜かれた。


 浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)には四十七人の義士がいた。しかし、戸田先生には、たった一人の弟子しかいなかった。鳳(おおとり)は世界広布への飛翔のために、一旦、雌伏(しふく)せざるを得なかった。弟子が不甲斐なかったがゆえに。


 かような状況下にありながら、「たとえ、山焼きにあおうとも、信の根を大地に張れ! 師弟の根を伸ばせ!」と愛する門下に語りかける先生の姿をう時、私の胸に火焔(かえん)が荒れ狂う。


 200番目の学術称号を高に語る幹部を見ると、「あなたは、昭和54年に何をしていたんですか?」と言いたくなってしまう。


 先生がいなければ、広布は途絶えていたに違いない。このに報いることがなければ、堕地獄は必定。

創価新報にダメ出し


 1018日付の創価新報にダメ出しをしておこう。


 一番最後のページの右下に「部長の日記」みたいなシリーズものが掲載されている。


108日

 2級試験を終え、迎えた連休。受験者の健闘をたたえる味も込めて、バーベキュー大会を開催した。


 この記事を読んだ全国の部長達は、「バーベキュー大会」を奨励されているようにじるんじゃないか? 誰が金を出したのかも書いてない。


1010日

 バーベキュー大会で自信がついたのか、“拡大”のアイデアは、いろいろ浮かぶ。

 野球大会やサッカー大会、ラジオ体操への参加、街の清掃などなど。勉強熱な山部地区リーダーからは、社会や地域の問題を語り合う「タウンミーティング」をやったら、なんて見も。即座に却下されたけど。


 この文章は主語が欠けているので、「誰のアイディア」で、誰が「却下した」のか、さっぱりわからない。それと、老婆から書いておくが、機関紙とはいえ新聞なんだから、「アイデア」なんて表記はご勘弁願いたい(「アイディア」が正しい)。


 創価学会では、宴席を始めとする飲み食い、スポーツ大会、夏季研修と称した海水浴などの類いは一切禁止である。とは言うものの、内々でやる場合は確かにある。だが、それとこれとは別問題だ。我々は「こっそり」やっているのだ。


 会員に一切の金銭的な負担をかけないというのが原則なのだ。広布第一章においては、会員同志の年賀状を禁止していたほど学会は潔癖なんだよ。


 テストケースとして一つ書いておこう。これは、青年部時代に私が担当していた部で実際にあった話だ。大きな闘争を終えて、部で打ち上げを行った。私は会合があったため参加できなかった。部長に電話をして様子と参加者を確認した。一人の地区リーダーが来てなかった。「来るって言ってたんですけどね」。後日、そのメンバーと膝を交えて懇談した。「おう、そういや、この間の打ち上げは、どうしたんだ?」。一つ小さく頷いて彼は沈黙した。私は待った。

「実は……」

「うん」

「前から仕事が順調じゃなくって、嫁さんの実家から借金してます。生活も切り詰めているんで、行くに行けなかったんです」

「そうか。じゃあ、かえって悪いことしちゃったな。あんまり気にすんなよ。お前が、そういう生活の中で戦い切ったことが人生最高のい出になる。自信をもって戦え」


 この場合、組織で打ち上げを行ったことによって、本来、しなくてもいいはずの“嫌ない”をさせられたメンバーが出たということ。この事実は重い。


 尚、「組織利用の定義」も併せて参照されたい。

連絡・徹底事項


 以下のボランティア団体はいずれも統一教会の下部組織で、教団の資金源になっている模様。大学生が訪問してくるケースが多いが、原理研のメンバーわれる。被害者に自覚がないため、関連施設の近隣や、大学のある地域は重々注されたし。

團伊玖磨


 團(だん)さんには、海が似合った。自由。活力。自分を小さな専門に閉じ込めない闊達(かったつ)さ。

 團家は、七百余年前、南宋が蒙古に滅ぼされた時に、中国大陸から海をわたって九州にたどりついた一族だという。海は團さんにとって、わがルーツへとつながる道であり、せせこましい日本から自分を解放する扉だったのだろうか。いつも海が見える場所を仕事場にしてこられた。かつての葉山のお宅も海のそば。そこに創価大学学生と教員がおじゃましたことがある。昭和49年の6ころ。大学の「愛唱歌集のレコード」に推薦文をもらおうというのである。何とも図々しいお願いである!

 しかし團さんは、いやな顔ひとつせず、応接間のプレーヤーでレコードをかけ、創価大学学生歌などを聞いてくださった。創価大学のことも、あれこれ質問し、建学の精神も尋ねられたようだ。「うーん、なるほど。すごい理ですね。みなさんが頑張っていくんだね」「あなたたちのような素晴らしい学生さんが集まっているから、こういう曲ができるんでしょうね」

 もちろん励ましとして言ってくださったわけであり、ありがたいことであった。その場で、すらすらと、こんな推薦文を書いてくださった。「創価大学が出来て3年有半。その間に若い真面目なエネルギーが胸の中から歌い出でた音楽の数々が収められたのが、このレコードだ。不潔な、唇(くち)にするのも恥ずかしい歌が巷に氾濫している昨今、すがすがしいこのレコードは、日本の青年の強い志と、世に毒されぬ正しさを歌い上げて余すところ無い。真面目で、すがすがしい青年達のを映したこのレコードを奨したい」

 温かい方だった。親しい芸術部の方に「鼓笛隊に曲を書いてあげたいね」とも言われていたという。


【「池田SGI会長の素晴らしき出会い」第22回 日本文化に巨歩/作曲家・團伊玖磨氏/聖教新聞 2001-06-24付】


「気しい親父」――これが、團伊玖磨氏の『パイプの煙』(日文庫:絶版)を読んだ時の率直な所である。『好きな歌・嫌いな歌』(文春文庫:絶版)を読んだ時、それは確信に変わった。


 私が、團伊玖磨という前を初めて識したのは中学の時分である。それは、音楽の時間だった。生徒にビンタを食らわすことで有な女教師が、團氏のエピソードを教えてくれた。「この曲を作った方は実に変わった人物で、苗字が略字の『団』で書かれている手紙は、現金書留を除いて全て読まずに捨てている」と。


 後年、團氏のエッセイを読むと、確かにそう書かれていた。文章には、いい味での上流階級の薫りがあった。今時の「セレブ」とは異なり、ノーブレス・オブリージュ(身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務がある)がじられた。嫌味と無縁の文章は、筋が通っていた。


 そんな大物作曲家である團伊玖磨氏と先生に交流があったことを、この随筆で初めて知った。


 以下は、別サイトに書いた私の文章である――


 517日、旅先の中国で團伊玖磨氏逝去。36年間の長きにわたって『アサヒグラフ』に連載された『パイプのけむり』。同誌休刊のため連載を終えた時、「敗戦から立ち上がったこの国が、今のようにうちしおれてしまったのは、なぜなんだろう。まだまだ書きたいことはある」とつぶやいたのが忘れられない。

日新聞夕刊 2001-05-18付】


▼『パイプのけむり』は私も好きだった▼ある対談で文化について、発信するということについて、熱気のこもった持論を展開されていた。衝撃的な内容だった▼志に生きた作曲家は走りに走り抜いて一生にピリオドを打った。




 作曲家の團伊玖磨氏、517日逝去。

とか哲学を、動に変えて聴衆に届けておられた」とはソプラノ歌手・佐藤しのぶの弁。冗談好きで『パイプのけむり』には、入れ歯を英国で作ったら英語の発音がよくなったとほめられたエピソードを紹介。

日新聞夕刊 2001年625日付】


▼「聴き手のことを考えずに書かれた“実験的”な作品などは全く認めません。また、怜悧(れいり)な音楽や凄絶な音楽にも共しますが、音楽には何より基本的な温かさが必要だとっています」(『私の日本音楽史』)▼また、あるレコードの推薦文では「不潔な唇(くち)にするのも恥ずかしい歌が巷に氾濫している昨今、すがすがしいこのレコードは、日本の青年の強い志と、世に毒されぬ正しさを歌い上げて余すところがない」とも▼父君は三井財閥の大黒柱であった團琢磨(だん たくま)男爵。「事は事それ自体が目的であって、金もうけのためではない。金もうけがしたいなら、相場でもやるがいい」という信条の持ち主であった▼中国大陸の5の空を、“つう”の如く翔んでいったことだろう。謹んでご冥福を祈る。

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