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2006-11-04

いずこにあっても光る人に


 ともあれ、光っている人は、いずこにあっても光っている。誰が見ていなくとも、また、いかなる立場であっても、広宣流布への我が行動は、自分自身のが見つめている。御本尊がお見通しである。「冥の照覧」は絶対なのである。


【ブラジル代表協議会 2001-07-25】


 光りといえば誰もが真っ先にい浮かべるのが太陽。太陽の光りは、いつも同じようでありながら、新しくじるから不議だ。ひょっとしたら我々は、フレアなどの活動を微妙にじ取っているのかも。


 普段は目立たないものの、いざとなるといぶし銀のような光りを発する人がいる。反対に、眩(まぶ)しいばかりの光りを放っているように見えながら、何かが起こって急速にくすんでしまう人もいる。前者は、や蛍のようなタイプで、後者はネオンサインみたいなものだろう。


 石田次男福島源次郎、原島嵩山崎正友――彼等は確かに、光り輝いていた時期があった。それは、現在の青年部幹部の比ではなかった。そんな彼等だったが、第一次宗門問題で黒い本を露呈した。彼等は皆、優秀だった。しかし、信がなかった。一種のタレントといってよい。


 そして時を同じくして、学会を取り巻く環境と、学会自体が光りを失った頃、突然、光りを放ち始めた人々がいた。どこの支部にも、どこの地区にも存在した。この方々は無だった。無であるが故により一層の光りを発した。こうした方々が、学会を築き、支えて下さっているのだ。役職の高かった幹部が、おしなべて宗門に屈した歴史を忘れてはならない。


法華経の行者」の身分証明書は三類の強敵である。坊主どもは、いつの時代も迫害に屈し、創価三代の会長は「強敵の科」(1589頁)を顕した。どうやら、“衣の権威”は身内にしか通用しなかったようだ。


 一方、我が組織にあっても、役職が変わる度に“光り方”が変化する人もいる。彼、あるいは彼女達は、自らの欲望を役職に反射させているだけである。つまり、高度に直截的(ちょくせつてき)な表現を許してもらうならば、「クソ野郎」ということになる。


 組織が人の集まりである以上、時に限界を覚えることもある。その最大の理由が“自分の役職”となっている時は――自分が光ってない証拠だ。


 譬へば人のために火をともせば我がまへあきらかなるがごとし(1598頁)


 燃やすのは我が生命である。火を点けるのは、もちろん自分自身だ。速やかに発火点を目指そう。


 法華経の信をとをし給へ火をきるにやすみぬれば火をえず(1118頁)

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