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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2006-11-16

見習いは「威張る文化」だ


「学ぶ」の語源は「真似ぶ」であり、日本には“見習い”という文化がある。いや、あったと過去形にすべきか。中途半端な立場で職人の味方を演じる永六輔なんぞは、さも美徳であるかの如く、よく口にしている。


 同じ類いの言葉に「以」というのがある。「言わずもがな」とかね。多分、迦葉拈華微笑(ねんげみしょう)の故事に由来しているのだろう。


 共通するのは、相手に「理解すること」を強要している点である。「そんなこと、一々言わなくったってわかるだろうが!」という精神である。「不立文字(ふりゅうもんじ)」を掲げた禅宗の本質と一緒で、言葉に対する不信と否定が露(あら)わになっている。


 職人は実力の世界でもあり、畜生の世界でもある。仕事ができるというだけで威張る。古くからいるというだけで威張る。年長者だからと威張る。威張る場所が他にないから威張る(笑)。


 ちょいと待てよ。こいつあ、何も職人の世界に限ったことじゃなかったね(笑)。社会全体がこんな風になってるね。お上に額づいてきた遺伝子が捻(ね)じれて、何らかの権威によって“自分がお上の側になろう”とする根が垣間見える。


 社長だから威張る。政治家だから、医師だから、教師だから威張る。大人だから威張る、男だから威張る。そこに“自分”はない。あるのは肩書だけ。立場を失った途端、不遇な人生が待ち構えている。


「孤高」という言葉を私が愛してやまないのは、「俺は、俺だ。俺以外の何者でもない」というストレートな生きざまに魅了されるからだ。


 威張る生命状態を法用語で「勝他の」という。“他人に勝ろう勝ろう”とする命である。自分自身を見つめて努力をすれば、聞・縁覚となるのだが、如何せん“勝る”ことが目的と化して、自分を見失う生命である。


 修羅は、大海の水が膝の下に届かぬほど大きな姿を見せるが、力ある人物に正体を暴露されると蓮の中に身を隠す。結局、「自分を大きく見せる」ことに腐しているだけで、それは虚像に過ぎない。


 背伸びをし続ける人は、必ずふくらはぎがつるよ(笑)。少し屈(かが)むぐらいの方が、自由に動けるというものだ。


三類の強敵」も少し視点を変えると、「威張る人々」に見えてくる。一番、威張っているのが僣聖増上慢。確かに威張っていたね。今は見る影もないけど(笑)。


 広布とは、威張る人々を破折し尽くし、あらゆる人間が平等な社会を実現することだ。