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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2006-12-31

学会員は「全員平等」


 学会員は、法の眼からみれば、「全員平等」である。

 学会の世界において“偉い人”とは、“役職の高い人”などではない。

 偉いのは、折伏をやった人であり、わが地域に、立派な団結と幸福組織をつくった人だ。

 要するに、信のある人、学会精神を大事にする人が偉いのである。その方々を賛嘆すべきである。それ以外の、どんなごまかしや妥協も、峻厳なる法の前では空しい。

 この一点をリーダーがはき違えると、人のがわからない、冷酷な人間が増えてしまう。

「幹部だから偉い」などと考える人は、が硬直してしまっているのだ。

 創価学会は、学会員のためにある。ゆえに最高幹部は、学会員の“僕(しもべ)”として、全力で動くことだ。


【関西・九州・中国・四国合同研修会 2006-08-07 長野研修道場


 権威主義広宣流布を阻み、官僚が人間主義を破壊する。これが、創価学会一凶だ。


 納得させることが慈悲である。しかし、幹部の稚拙な対話によって、強引に決められた折伏が目立つ。紹介者が疑問を抱くケースさえ珍しくない。そこで、私は提案したい。「題目を唱える人の輪を広げよう」と。


「ちょっと困ったことが起きたので、題目をあげさせてくれ」と友人がやって来るようになれば、これこそ広宣流布ではないか。御安置されたのはいいが、法味を失って干(ひ)からびている御本尊が多過ぎる。ニベアを塗ってあげたいぐらいだ。


 私はを大にして叫びたい。「全てを拒否せよ。しかる後、全てを肯定せよ」と。イエスとノーもはっきり言えない人は、単なるロボットだ。燃え上がる主体がなければ、もはや信仰に値しない。


 ダラダラとうだつの上がらぬ活動を、いつまでやり続けるんだ? そんな人間に明るい未来など存在しない。一生、今のままだよ。年齢を重ねても、役職が上がっても、何一つ変化するものはないだろう。


 私が最も恐れる言葉――それは「酔生夢死」。学会に入れば、酔いから醒めたといえるのだろうか? そんなことはない。今この瞬間の生命が、いかなる律動を奏でているかが問題だ。今だ、今しかない。今、が燃えているのか、くすぶっているのか。前を向いているのか、後ろを振り返っているのか。師のと一致しているのか、離反しているのか――それが問題だ。


 私のは――まだ書いてない年賀状と、手をつけてない大掃除に向けられている(笑)。キーボードを叩いている場合ではないのだ。


 それでは皆さん、この一年、お世話になりました。何が何でも、よいお年を。師弟共戦の黄金の歴史を。2006年よ、さらば――。

2006-12-30

入会したての中学生


 御書講義の最中だった。突然、後ろから大きなが響いた。「あのう、用事があるので帰ってもいいですか?」――。


 振り返るとSさんだった。当時、私は中学1年、Sさんは3年だった。生徒会長をしていたように記憶している。大柄でバンカラな人だった。中体連の野球の試合の時なんぞは、自ら応援団を買って出て、を嗄らしてエールを送ってくれた。ホルモン屋の長男で、入会したばかりと母から聞いていた。


 当時の御書講義は総B長(部長)が行い、小しい質問に対しては、教授の副総B長(副部長)が答えるという形が主流だった。


 総B長がSさんにをかけた。

「あ、構わないよ。S君、今日、勉強した部分でわからないことはあった?」

「まだ、学会に入ったばかりで、とてもしかったです……。ただ、この間、読んだ密教の本にも同じようなことが書いてありましたよ」(場内、静まり返る)


 私は度肝を抜かれた。2歳違いとはいえ、同じ中学生とはえないほど堂々と渡り合っていたからだ。しかも、Sさんの方が威勢がいいのだ(笑)。その後、副総B長が、なんだかんだと言ってたが、私からみても全く説得力がなかった。


 の中を大いなる疑問が貫いた。「俺も、2年経ったら、あんな風になれるのかな?」――結局、なれなかったよ(笑)。学会2世は駄目なんだ。大人に気をつかうから(笑)。「こう答えた方が喜ぶんだろうな」といながら、私は高校の半ばぐらいまで、学会の大人達を喜ばせてやったものだ。


 部員会は殆ど欠かさず参加したが、あまりの馬鹿馬鹿しさに反吐(へど)が出そうだったよ。「幼稚園の学芸会か?」なあんてで罵っていた。本気で向き合ってきた担当者は一人もいなかった。


 その後、男子部となり、10年間にわたって未来部を担当した。私は、Sさんのような未来部と出くわしたくてしようがなかった。だが、その願いはかなわなかった。

全国最高協議会


 去る27、28日の新聞に掲載された「全国最高協議会でのスピーチ」は重要な指導である。師弟の相伝といってよし。これで、明年の闘争の方向が決定付けられた。


 今日、母の誕生日――。

日月調和の時代


 さて、今日は満でもあり、暑い日が続いているので、ここで涼しい「」の話をさせていただきたい。

 といえば、よく戸田先生は“光を浴びながら、人生や哲学、未来を、夜中まで語り合い、論じ合ってこそ青春である”と言われていた。

 ともあれ、地球の衛星である。それは古来から“かぐや姫の宮殿”と親しまれてきたように、私達にはいつも何かを語りかけてくれる“おとぎの世界”でもある。


 また、義は、ロマンの世界にとどまらない。大聖人は御自身のお前について、こう仰せである。

「明かなる事・日月にすぎんや浄(きよ)き事・蓮華にまさるべきや、法華経日月蓮華となり故に妙法蓮華経とく、日蓮日月蓮華との如くなり」(1109頁)

 ――明るいことは太陽と以上のものはない。清浄なことは蓮華以上のものはない。法華経は「日月」と「蓮華」が象徴である。ゆえに妙法蓮華経とづける。日蓮もまた日月蓮華のようである――と。

 この御文には甚深の義があると拝するが、大聖人も御自身を「日月」のごとしと仰せのように、太陽とは切り離せない。

 私どもも常々、「太陽の法」とたたえるが、太陽だけではない。をも包摂する義を持つ法なのである。


 また一般的には、太陽とは互いに相対するものとして考えられている。だが、実は、相対するものの「調和」が価値を生み出す。それは、陽と陰、男と女、火と水、外向と内省等の関係にも見られる非常に大事な原理である。

 人間もまた同じである。いつも「太陽」のようにギラギラ燃えてばかり(笑い)、大で激励ばかり(笑い)では、自分も疲れる。第一、周りが迷惑である(大笑い)。

 皆が疲れている時には、「今日はベートーベンの曲でも」(爆笑)と穏やかに、疲れを癒すことも必要であろう。ともあれ、「」の光が包み込むように、静かに語りかけてゆくことも大切である。

 ある時は「太陽」のような満々たる生命力が必要である。とともに、ある時は「光」のように、清浄で穏やかな「精神の光」と円満な「知恵の光」を持たなくてはならない。

 特にこれからの高齢化社会、成熟社会には、この両面が必要になってくるようにう。

 また、学会にあっても、これまではいささか偏りのある“ミニ太陽”のような人が多かったかもしれない(大笑い)。今後は、「太陽」の力と「満」の光とが、見事に調和されたような人材の成長を目指してゆくべき時代といえよう。


 その味でこれからは、いわば「日月調和の時代」である。

 それは一つには、「自分を見つめる力」が要求される時代である。これまで我が国は「日本株式会社」(笑い)と言われるように、豊かな生活を求めて誰もが皆、せわしなかった。しかし、人間を犠牲にした経済的発展、氾濫する情報を前に、もはや外にばかり目を向ける時代ではなくなっている。今や、内なる自己を見つめる力が強く求められているといってよい。

 もう一つには、従来の男社会に対し、「女」の特質がより重要になる時代である。政治の分野でも、女の発言が重みを増しつつある。ここ東北にあっても、これまで以上に女見を尊重しながら進んでいただきたいとう。


 もちろん、太陽が男が女とは限らない。当然、その反対であってもよい(笑い)。事実、太陽が女詞、が男詞とする言語もある。女を太陽、男とする文化もある。

 かつて、社会運動家の平塚らいてう女史が、「元始(げんし)、女は太陽であった」と語ったことは有である。また私も、婦人は「家庭の太陽」と申し上げてきた。

 要は、「太陽」と「」、両者の絶妙な調和が必要となる時代を迎えていることを知らねばならない。


 かつて私はこう記した。

「昼は太陽と共に謳いながら 生命を燃やそう 夜は静かな光の道で 友の休むのを待って 自分という人間を考えよう」と。

 多くの詩人や歌人がを通して人生を詠み、それはまた日本人、東洋人の一つの精神史を綴ってきた。

 いわばは、を映す鏡である。古来、人々はいを託し、と語り、に我が人生を映して、の内を見つめてきたのである。

 人は、「自分を見つめる」ことを忘れた時、必ず進歩がなくなる。また、自分を見つめない人は、人間的な魅力も出てこないし、最後は枯渇せざるを得ない。

 だからといって、ただ自分を見つめてばかりいて(笑い)、行動のない人には前進も成長もない。大切なことは、実践の中で自分を凝視しつつ、そこで深められた精神を、更なる価値創造へのバネとしてゆくことである。

 その味で私どもは日々、御本尊に向かい、唱題することによって自らを照らし、境涯を深めながら、限りなく前進してゆくことができる。これほど偉大な世界はないし、価値ある人生もない。


 大聖人は妙一女(みょういちにょ)に「御身は忽(たちまち)に五障の雲が晴れて覚を詠(なが)め給うべし」(1262頁)――あなたは、たちまちに五障の雲が晴れて寂光の覚をながめられることでしょう――とのお手紙を認められている。

 五障とは、爾前経において、女人が1.梵天、2.帝釈、3.王、4.転輪聖王、5.になれない、とされた五つの障りのことである。しかし、たとえそのような身であっても、三大秘法御本尊に真剣に題目を唱えるならば、「寂光の覚」をながめられる自分になってゆく。すなわち、界の悟りの智が輝いてゆく。

 己の「界」の満に照らされた、その「智」の光は自身を見つめさせ、同時に他の人をも導く根源の力となる。そして、自身を照らす光が強ければ強いほど、他人への洞察や尊敬が深くなり、慈愛も深まってゆく。指導の力も深まる。

「守護国家論」の中で大聖人は、「内界を知らざれば外の諸も顕われず」(67頁)――自身の界を知らない内は、外の諸も姿を顕さない――と仰せになっている。

 この御文は「十界互具」の義を説かれたものである。また、私どもの信の一についても重要な示唆を与えてくださっていると拝する。すなわち己の「界」の光が強まれば強まるほど、他の人の「界」も確信できる。本来、であるという本源的な尊敬のが起こってくるのである。

 反対に、権威をカサに子を見下し、“我尊し”と威張っている人間は、それ自体、己界を現じていない証拠である。

 当然、「自分を見つめる」力もない。成長も止まる。堕落が始まる。人からも信用されない。

 そして、表では立派そうに振る舞いながら、中には裏で学会を利用しようと策動する者さえ出てくる。まことに「偽りの精神生活」である。それが、責任ある立場にありながら退転し、反逆した人間の正体でもあった。

 信の世界は全部、「自分」の内実がどうかが根本である。表面的な“組織の論理”で決まるのではない。大切なのは、いわゆる「話のうまさ」でも、多くの人を動かしてゆく「立場」でもない。どこまでも信である。一個の人間として、信仰者として偉大なる境涯を開いてゆくことである。それが自身の成を決定してゆく。また、実質的に広宣流布を進めてゆくのである。この原理・原則を私は厳然と言い残しておきたい。


 さて、再びの話に戻ることにしたい。

 アポロ計画以来、の研究は飛躍的に進んできている。その中で最も身近な天体であるに、太陽系全体の歴史が刻み込まれていることもわかってきた。ちょうど「一人」の人間に、「人類」の進化の歴史が集約されているのと似ている。また、「一人」をから味方にすることが「万人」に通じていくのである。

 最近の研究によると、の誕生は約46億年前。太陽系や地球とほぼ同じである。では、はどのようにしてできたのか。これには、地球と一緒にできたとする「兄弟説」、地球から分かれてできたとする「親子説」、地球が漂うをとらえたとする「捕獲説(他人説)」、その他がある。

 原始のは、燃えたぎるマグマの海であった。その後、次第に冷えて、軽い物質が表面の方へ、重い物質は中へと分かれて、地殻とマントルが形成された。

 約44億年前から40億年前までの間、激しい隕石の嵐や雨がを襲った。この時期、地球も含めた太陽系全体が、無数の隕石が飛び交う激動期にあった。

 宇宙においても、また、人間の世界においても、形成期には必ず激しい嵐があるものだ。戸田先生はよく語っておられた。“ある味で、学会も第三代が最も大変だよ。一番、嵐にあうだろう。だが、それを乗り越えれば、あとは永遠に安定していくであろう”と。

 初代、二代も熾烈な建設の闘の連続であった。それにも増して重要な時期が第三代であるならば、未聞の嵐はむしろ当然である。広布の磐石な未来を決する学会の“形成期”を第三代で総仕上げせよとの、先生のおに応える以外に、私の人生はないとっている。


 太陽系の激動期の中で、地球にも多くのクレーター(くぼみ)ができた。が、後の火山活動によってその痕跡はほとんど消されてしまった。

 一方、にはクレーターがそのまま残っている。いわゆる、“のあばた”である。なぜなのか。

 それは、が39〜32億年前まで火成活動をし、「の海」(他より低く、黒く見える部分)などをつくった後、深部まで冷えきり、活動を停止してしまったからである。このことはに、31.5億年より若い岩石がないことからも推定されている。

 つまり、は32億年前に、ほぼ死んでしまった天体である。その寿命は14億年。天体として出発した時のエネルギーが小さく、尽きてしまった。そのため、激動期の状況、いわば傷跡をそのまま表面に残しているのである。

 人生も、活動を止めてしまえば、理を実現し、完成させることはできない。ともかく生きて生きて生き抜いてゆく――その中でこそ様々な傷や痛みも時とともに癒され、人間としての円満な境地も築かれてゆくものだ。美しい緑に包まれた地球のように――。

 また、妙法を信じ、広布へと進んでいる今こそ、三世永遠の幸の旅路への出発の時である。ゆえに大きなエネルギーが必要である。題目を唱えに唱え、“満タン”のエネルギーを蓄えながら、私どもは悠々と幸福の軌道を進んでゆきたい。


 さて、静寂な「死の世界」であるには、ほとんど大気も水もない。大気は地球の10兆分の1。ほぼ真空の世界である。

 大気がないということが、どれほど悲惨なことであるか――。大気に守られないの表面は、「直(じか)に」宇宙空間からの脅威にさらされている。無防備の裸の状態である。

 太陽からのX線や紫外線、帯電粒子すなわち、いわゆる太陽風。また、その他のあらゆる宇宙線や隕石等々、そうした宇宙の“暴力”に何十億年も、は痛められ続けてきた。

 大気がないため、昼夜の温度差も激しい。昼は130度、夜はマイナス170度にもなる。その差、何と300度である。

 これに対し地球は、オゾン層など厚い大気の層や地磁気で保護されている。ゆえに、人類をはじめとする生物が生きてゆける。


 しかし、こうした無数の“宇宙のギャング”達の害に、人間が気づいたのは、つい最近のことである。「大気に守られている」という事実に、長い長い間、誰も気づかなかった。

 あまりにも大きな恵は、人は忘れがちである。あまりにも、すっぽりと身近に包まれているので、空気の偉大さに「謝」することがなかった。

 その大気がない世界の無残さを見て、初めて「地球の素晴らしさ」がわかったのである。地球に住むことが、どれほどありがたいことか。緑したたる宇宙のオアシス地球を、皆で大切にし、皆で真剣に守らなければならない。


 学会も、宇宙の中で最高に幸福な「信の世界」である。

 絶え間なく降り注ぐ物の攻撃から信仰を守り、諸天の力を増幅させながら、福徳の華を繚乱と咲かせている。

 確たる軌道もなく漂うのみの人生が多い中で、自他ともに人生を最も充実させて歩むことができる。

その味で、正法を守りゆく組織が絶対に必要である。人々を守りゆく指導者が必要である。また、ありとあらゆる社会の分野で活躍しゆく同志がいなければならない。

 一人になってしまったなら、無防備ののようなものである。無数のから信仰を守ることは困である。広宣流布も進めることができない。


 学会の存在が、どれほどありがたいか。大切であるか。あまりにも大きく守られているゆえに、その恵を当たり前のようにい、忘れてしまう場合がある。それでは浅はかである。また、守られ過ぎて、ひ弱になってもならない。


 謝のがなければ、もはや信もない。その人の周りの空気は濁り、福徳と歓喜に満ちた新鮮な空気を味わえない。それのみならず、不満と嫉妬で環境をも汚染してゆく。絶対にそうさせてはならない。

 また、そうした人間から、信の世界の清浄な空気を断固、守り抜いていかねばならない。


 にも始めは少しの大気があった。しかし、の重力が小さいため、結局、どんどん宇宙に逃げていってしまった。福運も、それを引きつける信の引力が弱まれば逃げていってしまう(笑い)。

“幸いを万里の外より集める”強盛な信一念で、汲(く)めども尽きぬ満々たる福運と生命力を私どもはたたえてゆきたいものである。


 ところで、は「死の世界」であるにも関わらず、地球に巨大な影響を与えている。

 それはあたかも、宇宙には「生」の力のみならず、「死」の力も存在していることを象徴しているようでもある。

 宇宙に溶け込んだ「死」の状態の生命も、実は様々な面で人間に影響を与えている場合がある。そこに法の追善供養の背景の一つがある。

 御書には「妙は死法は生なり此の生死の二法が十界の当体なり」(1336頁)――(妙法の)妙は死、法は生である。この「生死の二法」が(地獄から界までの)十界の全ての当体である――と。

 生死、生死と永遠に繰り返していく生命。その「生死の二法」からは誰人も免れない。この生と死を貫く大法が妙法である。ゆえに妙法を持(たも)ち続ける人は、自身も三世にわたって幸福である。また、先祖をも救ってゆくことができる。

 反対に、妙法の世界を破壊しようとすることは、そのまま自身の生命を破壊することに通ずる。ゆえに、生死、生死と永遠に悩の極限の境涯となる。


 の引力が、太陽の引力とともに、海の潮汐(ちょうせき)――満ち潮、引き潮を起こしていることは常識である。

 それに加えて、最近ではが人間の行動や理・生理にも大きな影響を与えているという研究も注目されている。

 それによると、満や新の時に、人間の情緒が不安定になり、犯罪件数も増加するという。もちろん、これは主にアメリカでの統計であり、異文化の各国にそのまま当てはめることはできないかもしれない。

 ただ、人間の身体にも「海」がある。すなわち、体液は海水と似た成分である。その「内なる海」が、の変化に応じて何らかの影響を受ける――そうした見方に関が高まっていることは事実である。

 昔からよく知られているように、女の妊娠期間の平均も、満から満までの期間(29.5日)の、ちょうど9倍である。

 このように人は、太陽とともに時を刻む以上に、実はとともに生命の時間を生きている。

 ちなみに日本語の「つき」の語源は、「尽きる」であるともいう。形が段々欠けて尽きてしまうからである。

 しかも、「とき(時)」も、古くは「つき」と同じ味で使われた。例えば、「あかつき(暁)」を「あかとき」と表現した。

 英語の「ムーン(moon)」も「測る」という味が語源にある。「メーター(meter)」「メジャー(measyure)」などの語も親戚である。

「時を測る」ものがであった。「タイム(time)=時」と「タイド(tide)=潮」も同語源である。


 人間はをはじめとする宇宙とともに生きている。その事実は時代とともに、いよいよ明らかになってきている。

 大聖人は常に、日天よ、月天子よ、あらゆる諸天よと呼びかけておられた。

 元東京天文台長・広瀬秀雄氏は、大聖人が「天体の活動と不離不可分の生活をしていた」(『年・・日の天文学』中央公論社)ことに注目され、「依智(えち)の星下り」が“最大光輝の金星”に、「竜の口の光り物」が“エンケ彗星による流星”によると推定しておられる。

 このことは対談『「法と宇宙」を語る』の中でも触れておいた。

 広瀬氏は結論して、日蓮大聖人のいうように「その身と天体との一致まで堅く信じた人は他にほとんどいないとう」(前掲書)と述べておられる。大聖人の広大な御境界の一端に、一流の科学者も関を寄せているのである。

 ともあれ、全宇宙を我が「人生空間」とし、宇宙の運行のリズムに合致して生きる、その妙法受持者の生き方の正しさを、「と人間の関係」をはじめ、科学もまた証明しつつあるといえよう。


 法では「月天」を様々なたとえに用いている。「三昧(がつあいざんまい)」もその一つである。

 父を殺した悪逆の阿闍世王が、提婆達多にだまされ、乗せられて、悪を犯したことを悔い、に「悔熱(げねつ)」を生じた。

 地獄しみ、身体にも悪のできもの(瘡/そう)が出る。誰も治せない。自自得とはいえ、あまりにも悲痛な姿である。

 病気にも「身の病」と「の病」がある。の病の方が治すのはしい。

 この時、釈尊が王の後悔の姿を見て、彼を懺悔させ、そのを癒した。その様子が「太田入道殿御返事」には、次のように描かれている。

「世尊・大悲導師・阿闍世王のために三昧に入りたもう三昧に入り已つて大光明を放つ其の光り清凉にして往いて王の身を照すに身の瘡即ち愈えぬ」(1010頁)

 ――大悲の導師である釈尊は、阿闍世王のために三昧に入られた。そのあと大光明を放たれた。その光は清涼であり、阿闍世王のもとに行って王の身を照らすと、悪瘡(あくそう)はたちまち治った――。

 これは、「の病」を治したの慈悲の光を、優しい光にたとえた話である。


 軽度の「の病」の人は、いよいよ増加している。そういう人には強烈な激励は逆効果になる場合が多い。

 むしろ、粘り強く、静かに話をよく聞いてあげ、同してあげる包容力がポイントとなる。

 一般的にいっても、何か相談すると、話も聞かない内に、いつも「とにかく、題目をあげればいいんだ!」(爆笑)では、やり切れない。たとえ、真実ではあっても、相手が納得できなければ仕方がない。

「真理である」ことと、「説得力がある」ことは違う。どう、その人に「信の力」「唱題の力」を確信させ、発させてゆくか。そこまでに至る力が「指導力」なのである。


 釈尊が「三昧」に入ったということは、深い義があるとう。すなわち、これは妙法の「生命を癒す」力の一分を表している。

 宇宙は妙法の当体であり、日天、月天の働きもまた妙法の力による。大聖人は、この妙法即御自身の御境界を御本尊として御図顕された。御本尊には大日天王を、大月天王をも厳然とお認(したた)めである。

 ゆえに、「三昧」といっても、全て御本尊のお力に含まれる。

 また、妙法を信受し、修行する私どもの生命にも、日天・月天の働きが分々に顕れてくる。


 涅槃経には「」の働きを通して、三昧の六つの義が説かれている(梵行品/ぼんぎょうほん)。

 第一に、光が3000年に一度咲く優曇華(うどんげ)を開花させるように、人の善を開かせる。

 第二に、光が道ゆく人を照らして喜ばせるように、道をゆく人を照らして喜ばせる。

 第三に、新から満へと次第に成長するように、煩悩によるしみが次第に減ってゆく――宿命転換してゆく。

 第四に、十六夜(いざよい)から次第に形が小さくなっていくように煩悩によるしみが、次第に減ってゆく。――宿命転換してゆく。

 第五に、暑い盛りの時、光に涼(りょう)をとるように、人間の「貪り」の悩みの「熱」を冷やし、取り去る。

 第六に、星々の王が満であるように、あらゆる善の「王」である。すなわち大善中の極善が妙法である。


 日月といっても、実は「我が胸中」にある。その明るい光を大きく周囲に放ちながら、日のごとく、のごとく慕われゆく人でありたい。

そして、素晴らしき「我が家」を、「我が地域」を、「我らが社会」を、その「生命の光」「人間の光」で照らし、輝かせてゆくことが私どもの使命なのである。


は犬が吠えるのを気にしない」(The moon does not heed the bark of dogs)というイギリスの諺(ことわざ)がある。

 いかなる卑しい吠えにも、は悠然と高みに澄んで、皓々(こうこう)と地上を照らす。

 これこそ、「信仰者」の姿である。人間の「王者」の姿である。私どもも、この気で進んでまいりたい。


 さて、宇宙から地上に下りて(笑い)、この東北の大地の話をしたい。

 日本列島をはじめとする“弧状(こじょう)”、すなわち“弓なり”の列島を、「花綵(かさい)列島」と表現した人がいる。「花綵」とは「花づな」の味で、列島が花を編んでつくった「花づな」のような形だからである。づけたのは19世紀、ドイツの有な地理学者・ペシェル(1826-1875年)である。牧口先生もこれを受けて「花綵内海」(日本海等のこと)の語を発案されている。

 花綵列島――何と優雅で美しい前であろうか。このにふさわしい日本でありたい。色とりどりの花が、一連(ひとつら)なりに咲き誇り、一本の華麗な花づなをつくる。そのように、日本の各地方、各方面が、それぞれの歴史と特に応じた大輪の花と開いてゆく――。

 東京や大阪だけでもない。いわゆる都市部だけでもない。一つの方面、地域も欠けては「花づな」にならない。いずこも豊かに花開かねばならない。

 大聖人は高橋入道に宛てたお手紙の中で一言「うるわしき日本国」(1461頁)と仰せである。謗法によって国土を汚(けが)されてしまったが、本来、それが大聖人の日本に対するおであられた。そのおを実現することこそ、門下としての使命である。

 私どもが妙法を根底として、豊かな「の花」「文化の花」「平和の花」「教育の花」、また花で、この国を埋(うず)めてゆく時、“人間の花綵列島”ができ上がってゆく。

 この一点のみでも、私どもの使命がどれほど大きいか。皆さま方が将来、どれほど人々から謝される、価値ある行動の人生を歩んでおられるかわからない。

 現在の日本は、列島を花で結ぶどころか、煙突と煤煙(ばいえん)、“マネー”と虚像の世界で埋(う)めかねない傾向がある。経済至上主義のもたらす荒廃は深刻である。

 また、“文化の花綵列島”にこそ、「地方の時代」の内実も備わってくる。現今の都市圏への一極集中は、あまりにもひずみが大きい。


 学会においても、各方面で「最高会議」を真剣に行っている。それも、妙法による理の世界を何としても実現したいからである。我らが広宣の天地を庶民の「幸の花づな」で結ばねばならない。

 そして、花づなを貫き、花々を一つに結ぶものは「学会精神」「正法の魂」という永遠の大綱(おおづな)である。その中軸を貫いてこそ、各地域の花は生き生きと彩りを競うことができる。

 この原理は世界においても、また、身近な地域においても全く同様である。


【第21回本部幹部会 1989-09-15 東北文化会館


創価スピリット」で配信する予定の指導だったが、「いじめ」の連載となってしまい、時期を逸していた。「健康勝利の掲示板」のやり取りで、私が紹介したこともあって、未配信ではあるがアップしておく。


 衛星中継が開始されてから、20日後の会合である。第二次宗門問題前夜ともいうべき時に当たり、歴史に残る指導が次々となされた。


【※衣女史に校正してもらった】

2006-12-29

インターネットに関する覚え書き


ネットは駄目!」という指導組織でまかり通っている。特に婦人部の中で。で、指導している側の人間はといえば、パソコンすらいじってないような人々だ。説得力ゼロ(笑)。個人の情報収集に口を挟む様に、戦時中の検閲をわせる雰囲気をじる。


 既に2004年から、ネット広告がラジオ広告を上回っている。そんな事実も知らずに、「バーチャルな世界だ」とい込んでいるのだろう。世間知らずとしか言いようがない。


 今日付の「字の言」(署は「順」)を読むと、どうやら学会本部もネットを嫌悪しているような節(ふし)が窺える。


 昨今のインターネット社会は、知りたい情報がすぐ手に入る。ややもすると“もの知りになった”と錯覚しがちだ。


 そんな錯覚を起こすのは、多分あんただけだとうがな。発のレベルが、2ちゃんねる以下だよ(笑)。


 ソクラテスはコンピューターなど知りもしない。が、知識と人間をめぐる洞察は、数千年を経てもみずみずしい。この事実こそ、ネット社会の利便より、よほど動的ではなかろうか。


 噴飯物の文章といってよかろう。そもそも、「ソクラテスの洞察」と「ネット社会の利便」を比較するのが間違いだ。大体、「ネット社会」と書いておきながら、それを否定するのは自家撞着に陥ったも同然である。


 もっと、ハッキリ書いておこう。聖教新聞社に電話で質問すると、ちょいと小しい内容の場合、ネットで検索して答えることがあるのだ。一方でそんなことをしていながら、他方ではこんなコラムを書いている。


 ついでに書いておくが、聖教新聞社に電話で教学の質問をすると、どれほど官僚主義に毒されているかが、よくわかるよ(笑)。以前、新聞啓蒙で販売店のミスがあり、情を申し立てたことがあった。その際の聖教職員の対応がとてもよかったので尋ねてみた。「聖教新聞社に、教学の質問はすべきじゃないんですかね?」と。すると周囲を見回すかのような間があり、小で「やめておいた方がいいですね」と答えてくれた。それを聞いた私は、「アッハッハッハッ、やっぱり」。


 インターネットを知らずして、批判する幹部どもは、「民衆は無知蒙昧である」と決めつけているも同然だ。もしも、そんな幹部が周囲にいれば、「『創価王道』を見てから言え!」と反論されよ(笑)。

総県長会議での秋谷会長の指導


 幹部の「励まし」として大切なことは、あくまでも「信の指導」「信の激励」でなければならない。励ます相手の信を奮い立たせることもなく、ただ口先だけで「頑張れ、頑張れ」というのが「励まし」ではない。

 ゆえに、何よりも「家庭指導」「個人指導」に徹していくことが重要である。膝詰めの対話をし、一人ひとりの具体的な悩みをよく聞き、共にその悩みと真っ正面から向き合い、取り組んでいく――そういう幹部の姿勢でなければ、揺るがざる信の楔は、打ち込むことができない。


 また、個人指導では、相手が真剣に信で立ち上がり、功徳を受けていけるかどうか、現証が出るのかどうかは、指導する側の確信で決まる。

 幹部は、激励した相手に「必ず功徳を受けさせてみせる」との強い一で、悩みが解決して喜びの結果が出るまで面倒をみていこうとの真剣さがなければならない。

 個人指導によって悩みが解決していけば、それはその人自身の喜びであるだけでなく、ブロックや地区、支部にも明るい波動が広がり、広布前進の原動力になっていくのである。

 組織における会員の絆といっても、この真剣な個人指導の積み重ねがあって初めて築かれたものである。

 この信頼の絆こそが、今日の学会の強固な団結の基盤となっていることを幹部は忘れてはならない。


 会合での指導も大切であるが、そうした「話」だけでは、生命に刻み込まれ、残るものが少ない場合がある。それに比べ、個人指導を受け、境を克服した体験は、絶対忘れない。その人の生涯の宝となって残っていく。

 ゆえに、いわゆる“会合型”の幹部になってはならない。「他人の体験」を伝える話も大事だが、それだけでは生命を動かす力にはならない。自分が人を励まし、個人指導をして結果が出た体験を語る幹部の話には、説得力があり、動が伝わる。

 本部幹部会での中尾関西婦人部長の話でも、池田先生が、大阪で唯一の「村」であり、奈良との県境にある千早赤阪村まで歩みを運ばれ、一人ひとりへの激励に全力を注がれた話が紹介された。

 この歴史を「宝」として、個人指導、家庭指導に徹していこうという実践は、今の創価学会にとっても、活動の基本として最も大事なことである。

 全幹部が実践していかなければならない課題である。

 そうなれば「会合が多過ぎる」という問題もおのずからなくなるし、幹部がいわゆる「運営型」に陥ることもなくなる。


 幹部が地区に入る時は、決して「上から下を見下ろす」ような、威圧的、命令的に入ってはいけない。上から臨むという態度で入るような本部幹部以上の幹部は嫌われる。本部幹部以上の幹部は皆、「地区を助け、支える存在」なのである。

「皆が困っている問を引き受けてくれた」「未活動だった人が、あの幹部のおかげで立ち上がった」「活動に参加するようになった」「聖教新聞を購読するようになった」と地区部長や地区婦人部長から喜ばれ、謝される幹部でなければならない。

 また幹部は、あくまでも、「皆の力を引き出す」存在である。

 数で煽ったり、押しつけられたとじたら、会員の本当の力は出ない。

 逆に「一人」への信の激励、信指導がなされて、一人ひとりに功徳の喜びがあれば、どんなに厳しい状況も、かえって挑戦の気概が湧くものである。


 どこまでも、一人の会員を大事にした時、創価学会は栄えていく――これは、常に池田先生がご自身の行動を通して教えてくださっていることである。

 私たち自身が個人指導、家庭指導に徹しながら、明年への活動の中で、この先生のご指導通りの実践に取り組み、幹部のあり方の模範を示していきたい。

 この一年、本当にご労さまでした。明年1、「新しい生命」「みずみずしい生命」でお会いし、創価完勝への大前進を開始してまいりたい。


【要旨/創価文化会館 聖教新聞 2003-12-14付】


健康勝利の掲示板」で薬王さんが紹介した指導。既に入力していたことをい出し、アップした次第である。そして、長年にわたって全会員の先頭に立って指揮を執ってこられた秋谷前会長への謝を込めて。


【※入力ミスがあり、薬王さんに校正して頂いた/2006-12-30 08:50】

2006-12-28

「KONOMAMA」Def Tech

Def Tech付け親であるRIZEというバンドのJesse(赤いトレーナー)ってえのあ、ギターの神様Charのせがれ。

民主、立正佼成会との関係強まる・参院選へ候補擁立


 民主党は27日の持ち回り常任幹事会で、来年夏の参院選の比例代表候補に立正佼成会を支持母体とする候補2人の擁立を決めた。いずれも新人で元自民党新潟県議の風間直樹氏と元福岡県直方市議の大島九州男氏。立正佼成会は自民党支持とみられてきたが、創価学会を支持母体とする公明党との連立後は民主党に軸足を移しつつある。

 比例代表では元日青年会議所JC)会頭の高竹和明氏の公認も正式に決定。選挙区では岡山で県議の姫井由美子氏を公認したほか、秋田で元秋田放送アナウンサー浦大悟氏、富山で医師の森田高氏の推薦も決めた。いずれも新人で富山と秋田は社民、国民新両党との統一候補となる見通しだ。


【日本経済新聞 2006-12-28】

高橋好子さん死去 浜四津敏子公明党代表代行の母


 高橋好子さん(たかはし・よしこ=浜四津敏子公明党代表代行の母)24日死去、93歳。平壌生まれ。葬儀告別式は近親者で済ませた。喪主は夫敬文(よしぶみ)氏。


【徳島新聞 2006-12-27】

2006-12-27

創大生がテレビ出演


 今晩、放映される「筑紫徹也のNEWS23 年末スペシャル」(TBS系列)に創大生が登場する予定。

東京は大雨


 昨夜の土砂降りは、32年ぶりの記録らしいよ。河川が増水し、冠水している道路もあるので、用されたし。千葉方面の電車がいくつか不通になっている模様。夜でも構わないから、一人ひとりが配達員さんに謝の言葉を伝えていこう。

2006-12-26

副B長と家庭指導


 新任の副B長と一緒に、初めての家庭指導。今年、転入してきたオジサンのところ行き、「ねえ、初詣(はつもうで)に行きましょうよ!」と、新年勤行会に誘う(笑)。まんまと引っ掛かってくれたよ。一度も会合に出たことはないが、本当にいい人だ。だが、に孤独と悲哀を抱えていることを私は知っている。ついでに、昼間の御書講義をリクエストしてきたバアチャンのお宅も訪ねる。「この人のことさ、今度から副B長って呼んでやってよ!」とバアチャンに言うと、副B長は「やめて下さいよ」とオロオロしていた。今年の新年勤行会は雪に見舞われた。明年は快晴でありますように。


 創価班・牙会・白蓮の諸君、並びに役員の方々へ。ノロウイルスに関する通達が出ているので、しっかりと確認されよ。白樺会・白樺グループのメンバーとも綿密な打ち合わせを。

傲慢な幹部には女性が鉄槌を下せ


 私は、牧口先生戸田先生の言論、指導を、できる限り記し残してきた。

 尊き広布の同志が何が起ころうとも微動だにしない。その基盤を今、万代の未来のためにつくっておかねばならない。

 法は厳しい。ゆえに本当のことを言っておきたいのである。

 真実を語る空気がなければ、組織はダメになってしまう。

 リーダーには、「何でも言える雰囲気」「何でも語り合える環境」をつくる責任がある。

 戸田先生は語られた。

「時代遅れの幹部になるな。幹部自ら勉強し、成長し、『人間革命』していくことだ。そして同時に、新しい時代を創っていく、若い幹部を登用し、バトンタッチしていかねばならない」

 リーダーは、硬直した古い考えになってはダメだ。自分自身が変わり続けることだ。

 常に、新鮮味のある生命で、笑顔で、真で、会員の皆さんに接していただきたい。

 また、先生は次のようにおっしゃっていた。

「ずる賢く、威張り散らすのは悪い幹部だ。人と接する誠の真がわからない」

「幹部の地位を利用して、女を叱るのは、野蛮人のすることである。野蛮人は人間ではない。そういう人間は、断じて学会の世界に入れてはならない」

「威張る幹部、礼儀を知らない幹部、誠のわからない幹部、慈愛のない幹部、生気な幹部、すぐに人を軽蔑し叱る幹部。

 そんな幹部には、女が中となり、厳重な措置を求めていただきたい」


【関西・九州・中国・四国合同研修会 2006-08-07 長野研修道場


 立場の弱い人間が、強くなることが革命に通ずる。上からのトップダウンで変わるのは改革であって、革命ではない。


 革命には破壊が伴う。そのため歴史上の革命は、体制の転覆を図り、大勢の犠牲者を生んだ。目的を果たすためなら手段を選ばなかった。そして、暴力を容認した瞬間から、理は現実の前に敗れたのだ。


 革命を支えているのは“怒り”だ。それも、正義の焔(ほのお)が柱となって噴き上げるほどの怒りである。


 今日、愛については誰も語っている。誰が怒(いかり)について真剣に語ろうとするのであるか。怒の味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無格であるということのしるしである。

 切に義人をう。義人とは何か、──怒ることを知れるものである。


【『人生論ノート三木清(新潮文庫)】


 我々が目指す革命は無血革命である。体制の転覆でもなければ、制度や階級の破壊でもない。生命尊厳を説いた法は、暴力の立ち入る隙(すき)を許さない。人間革命とは、生命の悪を破壊し、宿命の鉄鎖を断ち切る革命だ。エゴを叩き破り、ぬるま湯につかったような生活を打ち破る大闘争だ。


 若い頃、よく先輩から叱咤された。「貴様、そんなところで負けていて、自分の宿命に勝てるとっているのか!」と。学会で受ける訓練は、一切が宿命転換に備えるものだった。それゆえ厳しかった。


 本当のことを書いておこう。現場から私に寄せられる、Webを通じて私のもとに寄せられるメールの殆どは、の弱い学会員からのものである。革命はおろか、見すら言えないような人々だ。時折、小賢しい内容のメールも来るが、訓練を受けているか受けてないかは、瞬時にわかる。どの程度の重さの荷物を抱えているかも、直ぐわかる。自分を誤化そうとする人ほど、言葉を飾るものだ。


 学会員は甘い。一人じゃ何もできないのが多過ぎる。信弱き学会員の多くは、何だかんだと言いながらも、組織に依存しているのだ。を文句で一杯にしながら、会合だけは皆勤賞という学会員の何と多いことか。傍(はた)から見ていると、「文句をいうために活動している」ようなものだ。これぞ、「法華文句」だよ(笑)。


 味のない活動はやめることだ。ストレスじているのであれば、少し休めばいい。“活動病”に冒されている人々は、「それじゃ功徳が出なくなる」とうことだろう。だけど、いいんだよ。どうせ文句だらけの信には、最初っから功徳などないんだから(笑)。


 多くの同志が恐れているのは、「組織内での村八分」だろう。見を言えば言うほど、周囲から疎(うと)んじられ、破和合僧レッテルを貼られ、人事対象から外され、連絡も滞りがちになる。ま、よく見られる光景ですな。


 だから、何なんだ? それが、どうした? そんなことを恐れて引っ込める程度の見であれば、端(はな)っから言わなければいいのだ。所詮、自分の都合で不平不満を並べているから、臆病になるのだ。


 その点、私は強い。私は、それなりに訓練を受けてきている。そして、私が発する見は、会員のを代弁するものだ。個人的な情で、幹部を責めることは決してない。だから、相手が副会長であろうが、会長であろうが、負けることはないよ。そのためとあらば、多少、荒っぽいこともしてみせる。地区のオジサン、オバサンが信しやすくなるためなら、何でもするよ。当たり前だ、そんなことは。


 それが出来ない者は、文句を言わずに引っ込んでろ!

2006-12-25

参議院選挙、投票日は7月22日


 自民、公明両党の幹事長と国会対策委員長は23日、都内のホテルで会談し、来年の通常国会の召集日を125日とすることで一致した。

 会期は623日までの150日間となる。これに伴い、来年の参院選は、国会の会期延長がなければ、公職選挙法の規定により、「75日公示、同22日投票」となる公算だ。与党の国対委員長は週明け、塩崎官房長官と会って、召集日を正式に確定する。

 自民党は当初、参院選投票日を715日とする方向で調整を進めており、通常国会の召集日は119日とする案が有力だった。しかし、公明党は来年4の統一地方選が終わった後、参院選の準備期間を少しでも長く確保したいと主張し、自民党がこれを受け入れた。参院選投票日の715日は3連休の中日で、投票率が下がる可能があることから、「(組織票頼みの与党は)作為的との批判を受けやすくなる」(中川自民党幹事長)として、1週間遅らせるべきだと判断した。


2006年1223日18時51分 読売新聞】

満3周年


 本日、ブログ開設から3周年を迎えた。拙い文章をご覧いただいている全ての方々に謝申し上げる。


 昭和63年(1988年)の今日、先生が江東文化会館を訪問された。当時、地区リーダーだった私は会場には参加できなかったが、5世帯の折伏をもって師に応えた誇りに満ちていた。私にとっては、「勝って先生をお迎えした日」である。

牧口先生「現在が栄えていればこそ、先人が偉大になる」


 牧口先生は、言われていた。

「現在が栄えていればこそ、先人が偉大になるのである。

 今が栄えていなければ、先人の偉大さも光彩がなくなるのである」

 すべてが弟子で決まる。

 弟子の勝利が、師匠の勝利である。


盂蘭盆義を語る 2006-08-06 長野研修道場


 人類の歴史において、偉大な人物は多数存在した。だが、その形骸化し、志は失われていった。淘汰(とうた)――これが歴史の厳しき実相である。(「偉人の後に後継者なし」)


 戒律とはシステムのことである。釈尊亡き後、弟子達は教団のシステムを強化することによって令法久住を試みた。しかし“組織の論理”が、法本来の自由と寛容を奪い去った。それに、抵抗する形で誕生したのが大乗教だった。また、五五百歳堅固そのものが、法が形式化してゆく様相を示している。


 創価学会が隆々たる発展を続けているのは、池田先生が健在だからだ。それ以外の理由は一つもない。


 ボーーーッとしていたらダメだ。像してごらんよ、先生の登場しない聖教新聞を。先生のいらっしゃらない本幹を。「先生に呼吸を合わせる」という言葉が死語になる時代を。


「大聖人亡き後、日興上人が」「牧口先生亡き後、戸田先生が」「戸田先生亡き後、池田先生が」立ち上がったと我々は口にする。だが、そんな簡単なものじゃないよ。自らの絶望を乗り越え、悲嘆に暮れる同志を励ます作が、生易しい決で出来るわけがないのだ。


 大いなる不安に駆られながらも私は、を決して「自立の道」を歩む。

損失補填の背景


 1989年(平成元年)末に就任した三重野・日銀総裁は、公定歩合の大幅引上げという強力な金融引締めを実施しました。そして1990年(平成2年)に入ると、地価と株価の高騰が及ぼす国際的・社会的影響を危惧した大蔵省と日銀が、強力なチームワークを組んで本格的なバブル潰し政策を発動しました。いわゆる融資総量規制です。

 その通達発布の直前に、大蔵省が生保や一部の大手証券会社に対し、「所有株の売りぬけを命じた」という事実を、自分は実際に確認しています。さらに重要なのは、大蔵省が大手証券に対し、大手顧客との間のニギリ(元利を保証する約束)の上に立っていた営特金(資金の運用を一任した契約)を解除することを指導していることです。

 その特金解除命令のおかげで、証券会社が顧客に補填(ほてん)せざるをえないはめになったのです。その実態を知らないメディアによる無責任な者攻撃の効果もあって、証券会社に対する国民の不信を倍加させたのです。(146ページ)


【『先物経済がわかれば本当の経済が見える落合莞爾(かんき出版)1996-01-31】

死刑賛成論者の詭弁


 死刑賛成論者は例外なく、自分を被害者の立場から論じる。自分や家族が加害者となる可能を完全に無視しているところに、死刑賛成論者の詭弁がある。

2006-12-23

厚労省が55年の出生率1.26に下方修正、人口3800万人減少


 厚生労働省の国立社会保障.人口問題研究所は20日、2055年までの日本の将来推計人口を発表した。最も実現が高い中位推計によると、合計特殊出生率(女が生涯に産む子どもの平均数にほぼ相当)は「1.26」で、02年の前回推計値1.39を大きく下方修正。総人口は05年の1億2777万人から55年には8993万人と、半世紀で約3800万人減少すると予測。65歳以上人口は05年から約1100万人増え3646万人となるなど、少子高齢化に歯止めが掛からない将来像が浮かび上がった。

 年齢層別で見ると、年少(0〜14歳)人口が同期間で約1000万人、生産年齢(15〜64歳)人口が約3800万人それぞれ減少。一方、老年(65歳以上)人口は大幅増加し、「5人に2人」が高齢者となる。総人口は46年に9938万人と1億人を割り込む。

 中位推計で出生率が前回から0.13ポイント下方修正されたのは、晩婚化に伴う「構造的な未婚」のほか、あえて結婚しない生き方を選ぶ「選択的な未婚」や若年層離婚の増加傾向などを反映させたため。10年に1.21台に落ち込み、55年は1.26と戦後最低を更新した05年実績と同水準を予測している。

 一方、出生率回復を見込み、中位推計より楽観的な高位推計だと55年時点で1.55、悲観的な低位推計だと1.06にまで落ち込む。少子高齢化の進行は、現役世代が高齢者を支える現行の社会保障制度が揺らぐばかりでなく、労働力人口の減少という形で経済力低下にも直結する。政府は今後、幅広い分野で抜本的な対策を迫られる。


フジサンケイ ビジネスアイ 2006-12-21】

【世銀予測】30年の途上国「中流階級」人口12億人に


【ワシントン】世界銀行は13日、中国やインドなどの発展途上国の経済成長が続く結果、30年の途上国の「中流階級」が12億人に達し、00年の3倍に拡大するとの予測を発表した。途上国が世界経済での存在を増す一方で、地球温暖化が深刻化したり、アフリカの貧困層との格差が拡大する恐れも指摘している。

 世銀は、途上国全体の国内総生産(GDP)が30年には05年の3倍に増え、先進国(1.9倍)を上回るペースで成長すると予測した。

 世銀は「中流階級」を「1人当たり年間所得がブラジルからイタリアの間である4000〜1万7000ドル(約46万〜198万円)」と定義。途上国の「中流階級」は00年に4億人だったが、30年は12億人と世界人口の15%を占めるという。

 これに伴い、アジアを中に、途上国の海外旅行や自動車の購入が伸び、「世界市場は途上国の消費者の好みで左右される傾向が強まり、先進国の影響力が大きく低下する」と指摘している。

 ただ、石油などのエネルギー消費も拡大し、このまま推移すると、地球温暖化をもたらす温室効果ガスの排出量が30年までに50%増えると警告した。また、1日1ドル未満で生活する貧困層は30年に5億5000万人と現在より半減するが、「貧困層の6割がアフリカに集中する」と懸している。


【1213日19時18分配信 毎日新聞】

2006-12-22

思考停止


 昨日、はたと気づいたのだが、人は自分にとって都合のいいところで考を停止させる癖がある。例えば私もよく書く、「メディアの影響」という表現だ。ほぼ100パーセント、結論になっている。ここで考が止まるのだ。で、昨日、少しばかり考をフル回転させたところ、次のような表現となった。


 ――にはメディアの影響が窺え、結局のところ、メディアの影響を受けるマジョリティ(多数派)の愚かさを示しており、そうした愚かさを指摘したところで、世の中は変わるべくもなく、よって私の文章はさしたる味をなさない(笑)。


 どう? 凄い回転しているでしょ(笑)。ここから次のステップへ進むと――


 味をなさない文章を書く私は、優越に浸(ひた)るわけでもなく、批判によって自己表現をしているのであろうか? すると、どことなく、批判は形を変えた依存であるような気もする。私は悪い社会に依存することによって、自らの主張を正当化しているのだろうか? それでは、あまりにもネガティブ(否定的)な考だ。私の怒りが正義に裏打ちされているなら、世の中を論ずる前に、何らかの行動を起こすべきだろう(ちょっと橋本治風)。


 今日は、ここまで(笑)。哲学するのも大変だよ。指摘だけでは、序・正・流通が成り立たない。

昼の御書講義


 昨日から、またぞろ徹夜で仕事。クライアントの事務所付近に着いたのが、午前6時。エンジンを切った車の中で、コートを毛布代わりにして仮眠。既に慣れたものだ。


 80歳を過ぎた婦人部の方が、「私さ、お宅のご主人のこと、結構好きなんだよね」と内のかみさんに言ってきたとのこと。もっと、好きになっておくれ(笑)。私の仕事が現在、昼夜逆転しているため、「昼に御書講義をして欲しい」というも寄せられている。要望がある以上は、応えねばなるまい。

2006-12-21

毎日新聞「みんなの広場」より


いじめる側が100%、1000%悪い」


【奈良県 男子高校生 17歳】


 私は中学生の時にいじめられました。ほとんど毎日、同級生から殴られ、けられ、悪口も言われ、目から涙が出ない日はなく、学校に行くのは嫌になっていました。

 それでも私は学校を休みませんでした。母からもらった本の中に、「いじめいじめる側が100%悪い。1000%悪い」「人をいじめて幸せになった人はいない」と書かれていました。その言葉に大変勇気づけられ、「いじめごときに負けてたまるか!」という気持ちがわいてきたからです。

 私はいじめられている人たちには、「あなたは強い人間だから、自分をいじめないで、まして自殺なんてしないで、いじめられている人も、いじめている人も幸せにできる人になってください」とメッセージを送ります。いじめている人には、「大切なあなたの生命を人をいじめるという醜いことに使わないで、あなたも他のみんなも幸せになるために使ってください」とメッセージを送ります。


【「みんなの広場」/毎日新聞 2006-11-21付】


 関西の同志より、この投書を教えて頂いた。「いじめに勝って、偉い!」。

2006-12-20

文章を書く怖さ


 ネットの掲示板で叩かれた経験のある人なら直ぐわかるだろう(笑)。言葉足らずや表現力不足によって、自分の図してない方向に受け止められることがある。素人だから、稚拙な文章になるのも致し方ないとう。


 文章を書くことは、恥をさらすようなものだ――私にはそんな覚がある。また、書いた以上は、批判にさらされる覚悟が必要だ。当然、的な一貫も求められる。


 以前からそんないを抱えていたが、あるテキストを読んで、それが深まった。

 私は赤さんとは会ったことはないが、前々から尊敬のを覚えていた。代議士という立場でありながら、公明党には珍しく「自分の見」を述べる人に見えたからだ。太田代表の文章と比較すれば、質の違いが一目瞭然だ。


 地方の国会議員は地元に家があり、東京は寝泊りするだけだから、都の一等地に建った宿舎に安い居住費で住むなんてとんでもない、との考えは俗に入りやすいとう。しかし、ことの本質は、政治家として国民に喜びを与え、夢を持たせる仕事をするかどうかではないか。

 タクシーに乗って帰った際に、日本の政治家がこんな狭くて古いアパートに住んでいては、国家の将来ビジョンを考えたり、国民の安・安全を掴み取るための壮大な構など出てくるわけがないと言ったことは印象的に残った。


 その赤氏ですら、こんな過ちを犯してしまうのだ。刀を振るったのはいいが、勢いあまって自分の足まで斬ってしまったようなものだ。歴史を振り返るまでもなく、革命の闘士は、獄中にあろうが、拷問されようが、志を曲げなかった。創価学会が革命を標榜するのも、初代・二代会長の獄中闘争が根底にあることは言うまでもない。


 恵まれた環境からしか、「よりよき政策」が生まれないのであれば、「そのために、皆さん、税金を多く支払って下さい」と街頭で訴えるべきだ。


 赤さんにしては極めて珍しく、「油断」としか言いようがない。期せずして、「よき政策は、政治家の好待遇から生まれる」という内容になってしまっている。


 文章を書くのは怖いことだ。

これ、美味しいよ

 希望小売価格が240円となっているが、ショップ99で売っているので、安されよ。こいつあ、美味いよ。


 以前、ある分区の創価班会で話をした時のこと。私は、冒頭をこう切り出した。

「最近、ジェルタイプのシェービングフォームが出ている。あれを使うと、ヒゲがよく剃(そ)れるんだよなあ(場内、戸惑いながらも笑い)。使ったことのある人?」

「ハイ」(一人)

「剃れるだろう?」

「いやあ、どうッスかね……」

「貴様、話を合わせろ!」(笑)


「いや、だからね、何が言いたいかっていうと、自分が生活の中で『あ、いいな』とったことは何でも言える雰囲気が大事だな、ってうんだよ。信の体験はもちろんだけど、どんな小さなことでも語り合うムードがある組織は発展する。大体、友人が来たって、そういう会合の方がいいだろ?」


 これは、かなり正確な記述だ。私は話をする際、もの凄い時間をかけて内容を練る。特に枕の部分は、自分なりに工夫してきたつもりだ。「つかみ」が大事なんだよ。折伏もそうなんだけど、「つかみ」で失敗すればアウト。人間同様、話も第一印象が勝負だ。


 小さな動、小さな発見、小さな工夫――革命は細部から始まる。法者なんで、「神は細部に宿る」って書きにくいんだよね(笑)。

2006-12-19

『希望対話 21世紀を生きる君たちへ』/いじめ 3


白土中等部長●今回で「いじめ」は3回目になります。

 非常に関が高くて、中学生からも、大人からも、たくさんのが寄せられています。「今まで、何となく、『いじめられるほうにも悪いところがある』とってきましたが、『いじめた側が100パーセント悪い』と池田先生に言ってもらって、モヤモヤしていた気持ちが、すっきりしました」というが、とても多いです。


池田先生●それは、よかった!

 何度も言うけれども、その一点が「いじめをなくす」ための急所です。

 どんな理由があっても、人をしめる「いじめ」をしてはならない。させてもならない。

 そういう子がいたら、周りが、ただちに「絶対にいけないことだ」と教えなければならない。

 親も、学校の先生も、クラスメートも、周囲の大人も、いじめっ子に「教えて」あげてもらいたい。その子は、「自分が何をしているか、わかっていない」のだから。


白土●言っても、わからない場合は……。


「わかるまで」「労を惜しまず」


池田先生●「わかるまで」教えなければならない。おざなりの注では、いじめが陰湿化するだけの可能がある。本人がから「悪かった」とわなければ。

 そのために、どんな労をしようとも、その子に親がつきっきりになってでも、教えなければならないとう。労を惜しまずに。言葉を惜しまずに。時間を惜しまずに。

 今、日本では、この基本的なことができていないのではないだろうか。


いじめも「強くなるために必要」?


堀井・元中等部長●そういます。こんな話があります。

 体に軽い障害のある子が、いじめられていた。しかし、先生は真剣には注しない。その理由を聞いたら「あの子は社会に出てからも、いじめられる。だから、今から、強くなっておかなければいけない」と言ったというのです。


村・前女子中等部長●ひどい!


堀井●極端な例かもしれません。しかし、程度の差こそあれ、こんなバカげた、さかさまの考え方が決して珍しくないのです。

「気が弱いから、いじめられるんだ」とか。まるで気が優しいことが悪いことみたいに――。

 いじめられている子に「強くなれ」と言うだけで、いじめている側に対して「いじめは、絶対に許さない。体を張ってでも、やめさせる」と向かっていく気迫が、大人にない場合が多いんです。


池田先生●学校とは「教育の場」です。「いじめは絶対にいけない」と徹底的に教えこんでいくのでなかったら、どこに「教育」があるのか。何のための「教育」なのか。そう言われてもしかたがない。

 もちろん、口で言うほど簡単なことではないでしょう。また、真剣勝負で取り組んでいる先生も多いといます。

 そして、根本は、「いじめっ子の親」が本気にならなければいけないと、私はいます。

 人を平気でいじめるような子が、将来、幸福になるわけがない。が、花の咲かない「砂漠」になってしまっている。必ず後悔する。


村●本当にそういます。「おもしろ半分で友だちをいじめたことを、ずっと後悔している。しくてたまらない」という人も、私は知っています。


池田先生子ども幸福を願うのならば、一切をなげうってでも、正しい道に引き戻さなければならない。

 子どもを愛し通すことも、「戦い」なんです。

 また周囲も、そういう親の努力を、温かく応援してあげてほしい。突きはなさないで。


そんなつもりは


白土●そこで、きょうは、「いじめる側」になってしまった人から質問が寄せられています。中学3年生の男子なんですが……。

「自分では、その場を盛り上げるために、ある友だちを、ちょっと『からかった』だけのつもりだったのですが、あとで、担任の先生から呼ばれて、『いじめ』だと言われました。話を盛り上げるためには、ちょっとした『ふざけ』や『からかい』も必要だといます。そういうことまで含めて、『いじめ』だと言われるのは、おかしいんじゃないでしょうか」ということなんですが。


村●たしかに、「ふざけ」と「いじめ」は、どこが違うのか。「線引き」はしいですね。

 人によっては、相手に「親しみ」をこめてやっている場合もあります。それを頭から「いじめだ」と言われると、ショックなんです。


白土●ですから、ちょっとした「ふざけ」や「からかい」まで、いじめと言い始めたら、「じゃあ一体、どうしろと言うんだ!」「友だちづき合いもできないよ!」という彼らの叫びも、よくわかるんです。


池田先生●なるほど。自分では「友情の表現」のつもりなのに、先生から「お前、いじめただろ!」なんて言われたら、腹が立つ――そういうことだね。


白土●「あの野郎! 先生に言いつけやがって!」という気持ちもあるでしょう。


村●「そんなにいやだったのなら、ひとこと、直接、言ってくれればいいのに」とうかもしれません。


白土●たしかに、それも一理あります。「告発合戦」みたいになっては、お互いに不幸ですから。


池田先生●そうだね。ただ、「直接、言えなかった」相手の気持ちもわからなければいけない。つまり、それだけの信頼関係、人間関係がなかったからではないだろうか。

 同じ言葉でも、がっちりした信頼関係があれば、「親しみ」を表現する言葉にもなり、そうでなければ、相手を深く傷つける言葉になる。そういう場合がある。

 もちろん、どんな場合でも、絶対に言ってはいけない言葉があり、してはいけないことがあります。


白土●複雑……ですね。


池田先生●いや、基準は単純です。

「相手がいやがることはしない」ということです。


堀井●そうですね。それに尽きますね。


「知らないうちに傷つけている」


池田先生●だから、問題は「相手がいやがっているのに、それがわからなかった」鈍さにある。

 だから、質問のケースは、「今回、自分の鈍さを教えてもらったんだ」「いい勉強になった」とって、率直にあやまったらどうだろう。

 もしも、こういうことがなかったら、「知らないうちに人を傷つけている」人間のまま、大人になってしまったかもしれない。


村●その味では、指摘してくれた相手に謝すべきなんですね。


池田先生●私は、みんなに「かぎりなく温かい人」になってもらいたい。

 傷ついた人のも、君に会うと、ほっとして、自然に微笑みがわく。そんな人になってもらいたい。

 凍りついたさえ、君に会うと、安して、ぐっと、ほぐれていく。そんな人になってもらいたい。

 どこまで大きいのかわからない、どこまで優しく、どこまで強いのか、わからないような、「かぎりなく広き人」になってもらいたい。

 だけれども、今の日本の社会は、まったく反対の、ぎすぎすした、「人の不幸を喜ぶ」ような社会になってしまった。

 その中で生きている君たちは、かわいそうと言えば、本当にかわいそうだ。しかし、それでも、あえて私は言っておきたい。

「どんなに大人がいいかげんでも、君たちだけは、そのまねをするな! 汚い大人のまねをして、人をいじめたりするな! 

 どんなに大人社会が腐っていても、若き君たちだけは、その毒に染まるな! 敢然と『ノー!』と言いたまえ! そして、君たち自身の力で、団結で、君たちの望む未来をつくりたまえ!」と。


大人社会を反映


堀井●本当に、今の日本に住んでいると、「いじめが悪いことなんだ」ということさえ、あいまいになってくるといます。

 今回の質問の場合も、背景は、テレビとかの影響が大きいのではないでしょうか。

 テレビでは、人をバカにしたり、欠点をあげつらって、それで笑いをとって――そういう人が人気者であったり、「かっこいい」とわれているところがあります。


白土●わざと人をしめて、その様子をまわりで笑って見ている。そんな番組もありますね。それこそ、「その場が盛り上がれば、何をしてもいい」というような……。


池田先生●そういうものを小さい時から見ていれば、「それでいいんだ」とってしまうだろうね。


村●簡単に人を殺す番組や、マンガも多いです。


池田先生●昔、江戸川乱歩という推理小説家は、子ども向けの小説には、殺人事件は扱わなかったという。そういう配慮は、社会からなくなってしまったね。


白土●「売れればいいんだ」と開き直っているじです。


堀井●それと、ぜひとも私が言っておきたいのは、低級週刊誌と、その広告です。

 毎週毎週、人の悪口とか、いいかげんなうわさ話とかを書き散らして、「ジャーナリズム」だなんて、とんでもない。単に「いじめる相手」を探しているだけです!

 本来、そんな卑怯な、くだらないものは、見向きもしなければいいわけです。どの国だって、その類のものはありますから。

 ところが、日本では、いやでも見ないわけにはいかなくなっているんです。


村●広告ですね。


「日本では、いじめを奨励」?


堀井●そうです。たとえば電車に乗るだけでも、いやでも、そういう毒々しいものが目に入ってくる。子どもたちも見ます。

 いわば、社会が、いじめを「公認」しているわけです。

 知り合いの北欧の人が「考えられない。クレージーだ」と、びっくりしていました。「日本では、いじめを奨励しているのですか?」と。


村●北欧は人権の先進国ですから。驚くでしょうね。


堀井●つまり、「いじめられている側」は、さらしものになって、悪者みたいに言われ、「いじめている側」は堂々と認められている。

 白昼堂々と泥棒したら、誰でも犯罪だとわかります。しかし、「いじめ」という人権侵害の悪事が、まさに白昼堂々と行われているのが日本なんです。

 その「毒」が、みんなに広がって、ものすごい数の子どもたちをしめているんです。


白土●そういう現実を放置しながら、いくら口で「いじめを憂う」とか言っても、偽善ですね。


村●そういます。そして、子どもというのは、そういう「偽善」を、ちゃんと見抜いているんです。

 そして、大人がいじめを容認している分だけ、「これくらいなら、叱られないだろう」「これくらいなら大丈夫だろう」と計算しながら、やっている面 があるんです。


堀井●ともかく、日本の社会全体が「いじめる側に甘い」といます。いえ、いじめられた私の実から言うと、誰もかれもが「いじめる側の味方」だとしかえませんでした。


いじめる理由


池田先生●私はね、質問してくれた彼については、きっと、「悪かった」と気がつけばやめるとう。そう信じたい。

 しかし、明らかに「いじめ」だとわかっていることを、やっている場合も多い。それは悪質です。

 それにしても、どうして、そんなに人をいじめてしまうのだろうか?


白土●なぜ、いじめが起きるのか。前に、中等部の代表に「アンケート」をとってみました。こんな見が寄せられました。

「毎日の生活が充実していないから」「いじめる側の人間が弱いから」「やきもち」「ストレス」「お互いのことを分かち合っていないから」「ひとりひとり見がちがうのに、みんな同じでないといけないという考えがあるから」「ひとりひとりの良いところをわかろうとしないから」「勉強できる人とできない人を先生が差別 するから」「いじめを止める人がいないから」などです。


池田先生●みんな利口だね。よく見てるね!

 もちろん、「」の問題は、一人一人の身になってみないと、わからないわけだが。


「成績で差別される」ことに反発


村●やはり、大きな背景として、ひとつの枠に入れられることへの反発があるのかもしれません。特に、「成績だけで人間を判断する」という狭い価値観が、影を落としているといます。

「勉強ができない」だけで、何か「ワンランク下の人間」みたいに見る。差別 された人にとって、差別は「全存在を否定される」ことです。

 そういう狭い人間観が、成績が悪い子も、そして、いい子も、両方をおかしくしているのではといます。


「何のため」の哲学がない


池田先生●たしかに、年中、「お前は、だめだ、だめだ」という目で見られ続けたら、誰だって生きるのがいやになるでしょう。

 反対に、「勉強さえしてくれれば、ほかのことは放任」でも、おかしくなります。

 そもそも、「何のために」学ぶのかわからないまま勉強しても、知識だけではは満たされない。

「何のため」がはっきりしていれば、しいことでも人間は耐えられるし、学んだことが全部、を育ててくれる。

 その「何のため」という哲学を大人自身がもっていない。

 一番大事なことを教えないで、細かいことばかり、「あれはダメ」「これもダメ」と管理している。


白土●よく「自分の居場所がない」という表現をします。いろんな味が含まれているといますが、自分の存在をありのまま、まるごと受け入れてくれる場所がないという「さびしさ」があるんだといます。

 そこから、なにかにつけて「いらつき」「むかつく」不安定な状態になるんではないでしょうか。


堀井●外見や成績だけで、人を「決めつけ」ないでほしい――そんな気持ちはわかります。


村●自分という人間を、もっと認めてほしいという叫びかもしれません。


池田先生●そうかもしれない。

じゃあ、どうして、自分が認められなかったら、「むかつく」んだろうか?


一同●……。


池田先生●それは、その人が「人間」だからです。


白土●「人間」だから「むかつく」……?


「人間」だからが飢える


池田先生●「人間」だからこそ、が飢えるんです。お中がいっぱいでも、それだけでは満足できないんです。「人間である証拠」なんです。

 さっき「何のため」という話をしたが、たとえば「将来、楽な暮らしをするために、今、頑張るんだ」と言われても、それだけでは、が満たされないのが人間です。

 だから、むなしさをじている君は、まさに「人間」なんです。


池田先生●「もっと素晴らしい人生があるはずだ」「義ある人生があるはずだ」と、の底で知っているから、いらつくんです。

 だから、むかついたって、かまわない。

 怒ったって、かまわない。

 泣いたって、かまわない。

 わめいたって、かまわない。

 しかし、絶対にいけないことがある。

 それは、その自分のしさを「ごまかす」ことです。自分のさびしさや、むなしさから、目をそらして、ほかの何かで「ごまかす」ことです。

 ゲームで、ごまかす。

 遊びで、ごまかす。

 いじめで、ごまかす。

 ごまかしているかぎり、何も変わらない。いや、ますます、いらつく。悪循環です。

『星の王子さま』(サン=テグジュペリ作)に、「飲みすけ」の話が出てくるでしょう。

 王子さまが「どうして酒を飲んでいるの?」と聞くと、「忘れるため」だと言う。「何を忘れたいの?」と聞くと、「恥ずかしいのを忘れたい」と言う。

「何が恥ずかしいの?」と聞くと……。


村●「飲んでるのが恥ずかしい」と(笑い)。


池田先生●そうそう。笑い話みたいだが、こういう人は多いんだよ。本当に多い。


白土●麻薬みたいなものですね。


堀井●「いじめ」も、麻薬みたいなものです。続けているうちに、だんだん覚がマヒして、人のしみがわからなくなってくる。「いじめることが、楽しくなってくる」ようです。


村●恐ろしいことです。


池田先生●しかし、自分ではわからない。悪臭の場所にずっといると、だんだん臭いをじなくなってしまうようなものだ。


いじめないと自分がやられる」


白土●いじめる理由として、「いじめないと、自分がやられる」という現実もあるんですが……。


池田先生●本当に、悲しい現実だ。「いじめないと、自分がやられる」。それでも、悪には「ノー!」と言って、いじめられたほうが偉いんです。社会が転倒しているんだから「いじめられている人のほうが偉大」なんです。

 ひとりで「ノー!」と言いきれなければ、団結するんです。同じように、「いやいや、いじめに加わっている」人はいるはずです。負けてはいけない。ひとりで悩まず、誰かに相談する勇気も大事です。

 ともかく、「いじめ」の中に逃避してはいけない。人をいじめて、自分のいらいらを、ごまかし、まぎらわせても、何も変わらない。自分をだめにしていくだけだ。


「怒り」は「電気」/破壊にも光にも


池田先生●「大人の社会は、でたらめだ!」。そうう人は、怒りなさい。怒って当然の社会です。しかし、その怒りをぶつける相手は、クラスメートじゃない。

「大人は自分のことばっかり考えている!」。そううならいなさい。しかし、そういう自分も、どれだけ人のことをいやっているのか。

「自分は、そんな悪い人間じゃない!」。その通りだ。君は本来、素晴らしい「人間」なんだ。「人間」だから、怒りがわくんだ。

 怒りのエネルギーは、電気のようなものだ。間違って使えば、すべてを破壊する。賢く使えば、光を点せる。

 怒りを、自分の「夢」に向かって突進するエネルギーに変えるんです。

 はじめは、うまくいかないだろうが、あきらめないで、自分の「いじめ」と戦うんです。

 どうしたら怒りの原因が解決するのか、考えるんです。日記に書くんです。人と語り合うんです。


自分で決まる


池田先生●本当は、君のの中には、いっぱいの「優しさ」がしまわれている。

 なのに、何かで、パイプが詰まって、素直に表に出せなくなってしまっている。私は、そうう。

 誰かに向かって、口だけでもいいから、「ありがとう」「ありがとう」と言ってごらん。そうに出せば、がふっくらするから。

 大人が悪い。社会が悪い。あの子が悪い。そんな「ぐち」を言っても、ちっとも君は輝かない。自分です。自分がどう生きるかです。

 つまんない世の中だったら、自分が、みんなが、おもしろく作り直せばいい。

「人生なんか、つまらない」とうのは、もしかしたら、君自身が「つまらない人間」になっているからかもしれない。

「毎日がむなしい」とじるのは、もしかしたら、君自身が「からっぽの」になっているからかもしれない。

 に「夢」を燃やしている「おもしろい人間」にとっては、人生はおもしろい。つまらないことばかり考えている人間には、人生も「つまらないことばかり」になる。


池田先生●さびしければ、その「さびしさ」を、いじめなんかで、ごまかしてはいけない。さびしければ、本当の友だちをつくりなさい。「さびしさ」は「人間の証拠」なんだから、いじめで、その「いい」を壊してはいけない。


堀井●……私をいじめた子は十数人いましたが、共通 して言えるのは、彼らには、どうしようもない「さびしさ」があったことでした。

 ある時は、狂ったように暴力をふるう。でも反面、急に涙を流し、私の手を握って、「おれたちは友だちだよな」と確認したりするんです。

 いじめる側にも、何かが足りなかったのかなといます。


池田先生●「希望」がなかったんだろうね。

 を燃えたたせる「希望」がないから、人をいじめたりするんだとう。


母の「涙の一言」


堀井●お話をうかがっていて、私の母のことで、い出したことがあるんですが……。


池田先生●ああ、お母さん、大変だったね、偉かったね。


堀井●ありがとうございます。

 中学1年の1学期に、いじめが始まり、2学期はかなり学校を休みました。だから、成績も「がた落ち」でした。

 それで、2学期の成績表をもらって帰宅した時、母に一言、「最低だ!」と言って、投げるようにして成績表を渡したんですね。

 その時でした。

 すでに、この時、親とはまったく話をしない状態だったんですが、母が私を呼びとめ、両手をとって、言ったんです。

「お母さんはね、あなたが何も悪いことをしていないのに、いじめられているのは、つらいよ。でもね、あなたが、いじめる側でなくてよかった。人を傷つける側でなくてよかったとっているよ……」

 母の目からは滝のように涙が流れていました。母は、さらに、こう言ったんです。

「人を傷つけたことは、全部、自分に戻ってくる。いじめた相手の子も、いつか後悔する時が必ず来るよ。だから、その子の分まで祈ってあげられる自分になろうよ」

母は必死でした。こんな母は見たことがありませんでした。

 でも、この時、「生きる屍」のようになっていた私は、母の叫びさえ、体をすっと通 り抜けていくようなじでした。

 こんなに母が真剣になってくれているのに……。でも、周りの一切を、私の体が拒絶するのです。それほど、いじめが、私の体をマヒさせていたんです。


池田先生●残酷だね。いじめは絶対に許せないね。


堀井●地獄の3年間がすぎて、中学卒後は、いじめはなくなりました。

 高校では、パソコン関係の部活で部長もまかされ、高等部の会合にも出られるようになり、「人が変わったようだ」と言われました。

 中学時代の勉強の遅れがひどかったので、必死で勉強もし、京都大学に進学しました。その時も、高等部の友人や担当者の方には、ずいぶんと激励してもらいました。


池田先生●すごい努力だったね。「なんだって、取り返せないことはない」ことを証明してくれたね。


堀井●学生部になって、この法の素晴らしさを誰かに伝えたいと決して、ある友の幸せを御本尊様に真剣に祈っていた時のことです。

いじめをしている子の分まで祈ってあげようよ」という、数年前の母のあの言葉が蘇ってきたんです。私は、熱いものが込み上げてきて、涙を止めることができませんでした。 母が、あの時、私に教えようとしていたのは、「人をいやる」だったのではないかとったんです。

 私は、あのころ、いじめにあって、親も、先生も、友だちも、何もかもが信じられなくなっていました。その渇ききったに、母は「人を愛する」を教えようとしたんだ、と。


池田先生●その通りだ。その通りだよ。

 大人の中に、そのがなくなっているから、「いじめ社会」になっている。

 その現実に、若い人たちは負けてはいけない。むしろ、君たちが変えてもらいたい。いや、君たちにしか変えられない。「今の社会はおかしい!」と気がついた君にしか、変えられない。

 君たちが、いじめなんかのない「新しい時代」をつくってもらいたい。


君だけの使命が必ずある!


池田先生●日本だけじゃない。世界中に、悲惨な現実がある。

 私の師匠は、「この地球から『悲惨』の二字をなくしたい」と叫んだ。そのために私も生きてきた。

 君たちも、世界のどこかで、君が来てくれるのを、ひたすら待っている人がいる。必ずいる。

 君でなければできない使命が、必ずある。

 そうでなければ、今ここに君が生まれてきてはいないはずだから。宇宙には、何一つ「むだなもの」はないのだから!

 しかし、「使命がある」ことと「使命を自覚する」こととは違う。自覚しないままに、自分をだめにする人が多いんです。

 だから、私は言いたい。

 君たちは、人に笑顔を贈るために生まれてきたんだ。

 君たちに、いじめなんか似合わない!


学生から


いじめる」のは「自分をいじめる」のと同じ

いじめる」行為に関して、中学生から寄せられたを紹介します。


いじめられている人はもちろんのことだけど、いじめている人もがさびしいんじゃないかナとう。いじめは、絶対に反対!」(中2)


「お恥ずかしいことに私もいじめをしたことがあります。でもその後、私がいじめられました。私にとって、『られる』より『した』ほうが、ずっと残っています。できれば、もうい出したくありませんが、1秒でも早く、いじめている人にやめてほしい、と言いたい。お願いします! あとでキズつくのは自分だから。もう、いじめ、しないでください!」(中3)


「上をむいて、つばをはくと、自分にかえってクル――という言葉のとおり、いじめれば、自分に“バウンド”して、自分にかえってきます。私は、そういう人に一言いいたいデス。『いじめるのは、自分をいじめるのと同じなんだよ』って」(中1)


いじめって、むずかしい。どこからが『いじめ』で、どこまでが『いじめ』なのか。でも私なりの考えは、その人が、いやないをしていたら、もうそれはいじめなんだとう。自分もやられたら、どんな気持ちか、その気持ちを持つことが大切なんじゃないかな」(中3)


「『いけない!』とはうケド……。私も『小さないじめ』をしているのかもしれない。友達を無視したりとか……。自分でも直そうとしている……。みんなも同じなんじゃないかな? 無視も、立派ないじめの一つだから、私は、ちゃんと直したいとう」(中1)


「私は、小1、小2と、いじめられてました。なのに、小4では、私がいじめていました。グループの中のリーダーみたいな子が、こわかったからデス。いじめのつらさを一番よくわかっているはずなのに、その、たった一人の子が、こわくて、ぬ け出せなかった……。とても、つらく、自分の勇気のなさを実しました。今でも、その子に会うと、目を合わせられません。“ゴメンね”の一言が言えない自分を、今でも、くやんでいます。だから、今度、勇気を出して言ってみようといます。『ゴメンネ……』と」(中3)


「私は小6の時、グループの子たちに、○○ってムカツクよね、と言われました。私は、その子について、べつにムカツクとはってませんでした。でも『そうかな?』と言ったら、自分が友だちから、いやな目で見られるんじゃないかとって、その子のかげぐちを言ってしまいました。中学1年になって、本当にはずかしいことをしてしまったとい、反省しています」(中1)


「人を傷つけるコト……。人を愛するコト……。あなたは、どっちを選びますか? わたしは愛することを選びます……。だって人を傷つけるコトは自分を傷つけるコトだもん。そうでしょ?」(中3)

2006-12-18

知恩・報恩の道こそ、幸福の道


 法は、が根本である。を忘れた人間が、真に人間らしく生きることはできない。

 また、や信義を忘れ果てた社会は、絶対に幸福な社会にならない。

 法者の眼から見れば、というものを知らないがゆえに、どれほど多くの戦争が起こっていることか。

 知らずの振る舞いが、結果的に悲惨な争いを引き起こす。

 を知る。そしてを奉ずる──この知・報の道こそ、幸福の道である。平和の道である。

 ゆえに、を忘れ、人間社会を乱す「不知の輩」とは、人間として、法者として、決然と戦わなければならないのである。


盂蘭盆義を語る 2006-08-06 長野研修道場


 二乗菩薩の決定的な違いは、“利他”の行動にある。釈尊が再三にわたって「二乗は成できない!」と弾呵(だんか)したのも、“利己”の壁を打ち破れなかったためだ。


 菩薩は、自分の幸福を追い求めない。四弘誓願にあるのは一切衆生を救わんとする大情熱(衆生無辺誓願度)だ。そこには、「たとえ、我が身はどうなろうとも、衆生救済にこの身を捧げます!」という師への誓いが込められている。


 菩薩が勇猛果敢に行動するのは、“”に報いるためである。人間はデタラメな動物だ。ともすると、自分にとって都合のいいことをしてもらわないと、中々じないものだ。を知るには、「を開く」必要がある。不満の虜(とりこ)となって、別の環境を望むような人は、その時点でエゴに負けているのだ。


 今一度、祈りを切り替えてみよう。「こうして御本尊に唱題できることに、から謝申し上げます」と。「池田大作先生の弟子となれたことに、から謝申し上げます」と。


 凡夫は「当たり前」とった瞬間から謝のを失う。典で説かれた「一眼の亀」などの喩えは、当たり前とじていたことを、かけがえのない真実に引き上げる目的があったのではないだろうか。


 ここで初めて気づくのだ。報謝の人生とは、生きていることそれ自体に謝し、生を謳歌する一生だと。


 聖教新聞をポストから取る時、配達員さんへの謝を忘れていないだろうか? 会合へ参加した時、拠点を提供して下さっているご家族に謝しているだろうか? 会館へ行った際、創価班、牙会、白蓮、守る会の方々のご労に謝しているだろうか?


 我々は、ものを食べる時ですら、謝を失している。動植物の死によって、命を永らえているにも関わらず。子供が親に謝できない状況それ自体が、社会から“”が喪失した証拠ではあるまいか。


 縁起といっても、所詮、に尽きる。知らずは畜生以下である。鶴だって返しをするのだ。犬だって「三日餌(えさ)を与えればを忘れない」って言うよ。


 まずは、「ありがとう」の言葉を伝える努力をしてゆきたい。「」という字は、「の因」と書く。実に不議な符号の一致だ。


 私が師から受けたは広大なものである。報いようがないほどである。その事実をえば謙虚にならざるを得ないし、戦わざるを得ない。

2006-12-17

心の奥の奥が、どうなっているか


 戸田先生は、牧口先生の道を開いた。

 私は戸田先生の道を開いたのである。

「師弟」「師弟」と口では、いくらでも言える。表面を取り繕い、ごまかすこともできる。

 しかし大切なのは、生命の奥底の一だ。の奥の奥が、どうなっているかだ。

戦うしかない!──このの炎が燃えている人は“善”だ。

 反対に、労は人に押しつけ、自分だけいい子になる──それは“悪”であり、“敵”である。


創価教育代表者会議 2006-08-03 長野研修道場


 組織に横行する官僚主義成果主義を断罪した指導であると私は拝する。


「本物の同志」は、瞬時に見分けることができる。目の輝きと、の響き、颯爽とした振る舞い、泰然自若とした威厳が一体となり、状しい輝きを放っているものだ。反対に、利の人は一生懸命、演技をする。所詮、「見せるための信」に堕している。タレント根の強い連中は、おしなべてスタンドプレーが大好きだ(笑)。一人になれば、電気の切れたネオンサインのようになる。


 例えば、先生の口真似をして、配達員さんを讃える幹部は多い。しかし、実際に配達員さんのもとに足を運んで激励する人は少ない。まして、宮本さんのように、配達に同行して「ヒヤリハット」の確認をするような幹部は、まずいない。また、拠点の主(あるじ)に謝の言葉を並べる幹部も多いが、拠点の大掃除を手伝う幹部はいないよ(笑)。やっているのは支部婦人部長クラスまでだろう。


 自分のは、わかっているようでわからないものだ。だからこそ我々は、明鏡である御本尊に向かって南無し、我が一を照らし出す作をしているのだ。「悟り」とは「気づく」ことである。宿命と悩の味を悟った時、悩みは本因の次元で既に解決しているのだ。


 衆生と云うもと云うも亦此くの如し迷う時は衆生とけ悟る時をばけたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一無明の迷は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法真如の明鏡と成るべし、深く信を発して日夜暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり(384頁)


の奥の奥が、どうなっているか」――そこに、慢や我見、利や惰、迷いや逡巡、中途半端な命が必ずある。これを叩き伏せるのが信の戦いだ。


 先生は、「利の幹部は“敵”だ」と明確に言われた。敵であれば、戦わなければいけない。真面目な会員に負担ばかり押しつける幹部は全員、敵である。敵と戦わない者は謗法与同だ。

リズム


 12日に「動かなければ勝てない」と書いた。そうしたら、15日の聖教新聞の健康ページに「褥瘡(じょくそう=床ずれ)」の記事が掲載された。宇宙のリズムに合致していると、こうなるのだよ(笑)。気づいた人は、どれぐらいいるかな?


「動かなければ腐る」のだ。仙骨とはお尻部分である。つまり、末端ということだ。この記事だけで、私なら30分以上の研究発表ができるよ。

2006-12-16

100万ヒット達成


 今日、100万ヒットを達成した。ただし、「はてなダイアリー」の場合、どのページからアクセスしてもカウントされてしまうので、少々甘い数字となっている。それでも慨深いものがある。2003年12月25日から書き始めたから、ちょうど3年が経った勘定になる。適当に書いた文章を、よくもこれだけの人々が見てくれるものだと驚いている。多くの学会員が求めているものは、「あけっぴろげ本音」なのかも知れない。


 私は私である。背伸びのしようもない。生来の短腹(たんぱら=短気)な気のため、時に怒りに任せて書くことも多い。私は学会が大好きだ。しかし、私は組織が大嫌いだ。これが本音である。私の好きな組織をつくりたい。否、誰もが好きになる組織にしたい。そのためなら、どんなに多忙で疲れていても、私はキーを叩き続ける。

38年越しで、母が父を折伏


明日 投稿者:水無はつか 投稿日:2006-12-16 21:51:07 No.15088


 私の父が創価学会に入会いたします。私の父は来年1の誕生日で70歳となります。私の母が昭和43年、御本尊を授持してから夫(私の父)の入会を祈り続けて38年。母の祈りが遂にかないます。母の初めての折伏が実ります。一番身近で「信」を見続けてきた夫(私の父)が入会するのです。母は組織では何の役職もありません。一婦人部員です。もう多宝会の領域です。教学資格もありません。任用試験も受けたことがありません。ですが、我が家の大黒柱を入会に導く偉大な力を持っていました。


 祈りは必ずかなう! 今回の母の弘教体験から、漠然とした観ではない確信を持つことができました。明日、父の入会記勤行会が行われます。私が実家を離れて既に10年――。明日は早起きして、父と母の祝福に向かいます。


【「富士宮ボーイ掲示板」より転載】


 勝手に転載させて頂いた。読みながら、私は涙が止まらなかった。これこそ、「民衆勝利の劇」そのものである。無の母は勝った。母の勝利は、子の勝利であり、一家の勝利でもあった。「創価の母」の何と偉大なことよ。

2006-12-15

個人の力を侮るな


 ちと、タイトルが力み過ぎたかも(笑)。昨日から徹夜のまま、今から仕事をしたので、頭が朦朧(もうろう)としている。


 聖教新聞は凄い新聞である。それは、先生の言葉が掲載されているからだ。だが、聖教新聞はつまらない新聞でもある。それは、学会の公式見解に縛られた主張しか書けないからだ。つまらないものの最たるものが「社説」である。まず、偉そうな態度が気に入らない。読む度に、「お前は何様のつもりなんだ?」とじる。「お前の給料を払っているのは、俺なんだぞ」とも(笑)。文章の根っこに、「命令」の臭いを観じてならない。どことなく「行政指導」っぽいんだよね(笑)。本音を書かせてもらえば、「給料をもらうために書かれた文章」だとう。個人の顔が全く浮かんでこない。あそこにあるのは、聖教新聞社の看板だけだろう。


 字の言や寸鉄も同様で、昔に比べると格段に筆力が劣っている。純粋な信仰よりも、組織の政治色が色濃く出ている。


 その点、個人は自由だ。束縛するのは「内なる良」のみである。私の駄文だって、学会員に不信を起こさせないだろうと考える範疇(はんちゅう)で、好き勝手に書いているのだ。


 これが、現実の組織や社会であれば、役職や立場、そして、年齢などが邪をして、どうしても自由になれない。


つい最近になって、「教学報」なる資料が、ある地方で発行されていることを知った。多分、個人発信しているのだろう。ここのコラムが実に素晴らしく、勝手に紹介させてもらうことにする(笑)。


磯の香


 目黒区議の政務調査費問題。問題は公明党だけでなく、議会全体に波及しそう◆だがそれは、辞職した6区議の免罪にはならぬ◆ある公明党県議はメルマガで「言語道断。税金で賄(まかな)われている使途について“おかしいじゃないか”と指摘されるような出費をしてはならない……当たり前です」と。これが真っ当な庶民覚◆だが議長はじめ他党区議は「辞めるほどではない」◆えば十数年前、砂利船汚職やリクルート事件、明電工事件など公明党国会議員の不祥事が相次いだ◆その時に辞めなかったのは、あのYだけだった。公明党は「不祥事は議員辞職」が基本◆「臭きことを溷厠(かわや=トイレ)に忘る」(立正安国論 24頁)ことを大聖人は「其の迷誠に深く其の罪浅からず」(同頁)と◆「溷厠」どころか便壺に頭までつかり、迷蒙の罪深き議員・首長が世間に何と多いことか◆こんなこと自慢にならぬが、今回の区議辞職を評価するもある◆だが当然のことがほめられるような、「正義が尊ばれるのは人間生活の中でそれが極めて少ないから」(山本周五郎「寝ぼけ署長」)という現状は悲しい◆不祥事・即辞職の庶民覚に政治を近づけるのも、公明党の使命だ(唄)


 ね、個人は強いでしょう? 中々書ける文章じゃないよ。素人離れしている。聖教の社説と比較すれば、文の頸(つよ)さが桁違いだよ。

2006-12-14

米の死刑囚ら188人、DNA鑑定で続々、無実を証明


 米国でDNA鑑定によって受刑者らが無実を証明されるケースが相次いでいる。こうした受刑者の救出活動をしている非営利組織「イノセンス(無罪)プロジェクト」(IP、本部・ニューヨーク)によると、89年以降、有罪判決が鑑定によって覆ったのは188人にのぼり、死刑囚も14人含まれる。IPは12日、本部で記者会見し、捜査段階でどのような間違いが犯されたのかを調査する「無罪委員会」をニューヨーク州が設置すべきだと訴えた。

 IPによると、有罪がDNA鑑定によって覆された事件のうち、真犯人とみられる人物が見つかったのは約70件。自由を勝ち取った人たちは平均して約12年を刑務所で過ごしていた。ニューヨーク州だけで21人いて、今年も4人が無実を証明された。

 無罪委員会は冤罪があきらかになった受刑者らについて、司法の各方面の専門家が原判決の間違いの原因を追求、再発防止策を提言するものになる。運輸省の航空事故調査委にならったものだ。

 この日の記者会見には殺人罪終身刑を受けたダグラス・ワーニーさん(45)も参加した。犯人しか知り得ない「秘密の暴露」を含む自白を基に起訴され、97年に有罪判決を受けた。

 病弱だったワーニーさんは12時間に及ぶ取り調べで自白を強要されたと裁判で主張したが、受け入れられなかった。再鑑定の結果、現場に残された指紋や血液がワーニーさんのものと一致せず、今年5に釈放された。真犯人とされる人物も見つかった。「もし取り調べの様子をビデオに収めていれば、違法な捜査が行われたことがわかったはずだ」と訴えた。

 IPによると、あいまいな目撃証言、真実でない自白が冤罪の主な原因だという。

日新聞 2006年1213日】


 衝撃的ではありますが、これもまた事実です。刑事司法制度は常に冤罪との戦いでもあるわけですが、死刑制度はそれが誤って適用された場合に、取り返しがきかないという致命的な問題を抱えています。すなわちそれは、「明日は我が身」だということです。被害者の立場になって考えるのは当然ではありますが、加害者の立場に(される)可能があることを常に認識しなければ、反証不能の情論になる危険があるといます。それはとても不幸なことですよね。


 ちなみに、DNA鑑定が「万能ではない」ことも証明されています。


プリン

生前葬について


問い


 ブロック員さんから尋ねられたことを書かせていただきます。それは生前葬についてです。その方は今 我が地区内の施設に入られています。娘さんと子さんがいるのですが、娘さんも障害を持っていて、別の施設に入っています。子さんは入信はしていますが、活動はしていません。また子さんは、その施設に入っているお姉さんのことを疎(うと)んでいるようで、そのブロック員さんは相当を痛めております。なので、お母さん(ブロック員さん)は、「もし、自分が亡くなった後で娘さんが死んだ時、子さんがお姉さんの葬儀をきちんと出してくれるかどうか配だ」と言うのです。それで、自分とその娘さんと二人一緒に生前葬が出来たらいいなと考えたと言うわけです。私も始めて聞いた話なので、ちょっと戸惑ってしまって……。そんな例はあるのでしょうか? また、法から考えるとどうなのでしょうか?


小野不一


 葬儀に関しては、既に宗門問題で学んできたように儀式に過ぎません。「葬儀をしなければ成できない」という御書もありません。


 個人的な見解になりますが、葬儀法要というのは、飽くまでも“遺族”の情的な問題だといます。


 まず、葬儀をするのも、しないのも自由です。また現代では、特に学会が友人葬を始めてから、一般でも様々な葬儀のあり方が模索されてます。生前葬もその一つでしょう。


 書き込みだけでは詳しいことがわかりませんが、問題の本質がどこにあるかを、周囲にいる方々がきちんと理解することが大切です。私には、「お嬢さんの葬儀の問題」ではなくして、「お母さんが、希望を持てない現状」に問題があるようにじてなりません。


 ですから、宿命転換の姿勢を打ち込んで、お母さんが中となって、一家の宿命を転換してゆく決を促すのが先ではないでしょうか。生前葬をしたところで、宿命転換が進むわけではありません。


 但し、お母さんの信許(もと)ない場合とか、生前葬をすれば、お母さんのが軽くなるのであれば、やった方がいいかも知れません。


 行政書士などに相談すれば、お母さんが亡くなったとしても、お嬢さんの葬儀を出す方法は知ることができるといます。役所の福祉課でも相談に乗ってくれるといます。成年後見人制度なども適用できるかも知れません。


 いずれにせよ、あなたが聞いた以上は、あなたの問題にもなったわけですから、ご自身の宿命転換をも賭けて、激励に次ぐ激励をお願いします。



 小野さんが指摘されているように、問題の本質を見極めることが大切ですね。私も、「お母さんが、希望を持てない現状」に問題があるようにじます。


 子さんが、立派な後継者に成長することがお母さんの一番の願いでもあるはずです。


 葬儀に関して補足をすれば、日本の伝統教では、本来の葬儀は在家者の出家のための儀式にありました。亡くなった時に、戒を授(さず)けて門への入門を許すための儀式が本来の義です。


 しかしこれは、飽くまでも在家者が門に入るための儀式としての味で、教本来の義とは全く関係ありません。


 また、僧侶が在家の葬送に積極的に関わるようになったのは、江戸時代の寺檀制度以降です。


 私達は、御本尊を受持した時が受戒ですから、上記のような味も義も全く必要ありません。成できるかどうかは「個人の信」によるのが、当たり前のことです。


 ですから、葬儀は結婚式などと同様に、飽くまでも儀礼セレモニーにすぎません。「僧侶を呼ぶか、呼ばないか」という以前に、“葬儀の有無”によって「成」が決まるわけではありません。


 また生前葬に関しては、最近は生前葬を行う人が増えてましたが、葬儀は儀式ですから、小野さんの指摘にもあるように「お母さんのが軽くなるのであれば」、私もやられた方が良いといます。


 具体的には、経験豊富な幹部に相談することが一番だと考えますが、葬儀社でも相談には乗ってくれるようです。生前葬ではありませんが、生前にどういう葬儀をするか決める「葬儀予約」もできるようです。


 報恩社のHPには「葬儀予約」のコーナーがありました。白蓮社には、「まごころ相談室」のコーナーがありました。


 いずれにしても、策や方法ではなく、個人指導が大切ですね。


問い


 早速、お答えいただきありがとうございました。よく、わかりました。まずはもう一度、ブロック員さんの話しをしっかりと聞いてみます。その上で、地元幹部、儀典部幹部の方にも相談しながら、進めていきたいといます。


徒然草BBSより転載】

2006-12-13

『「欲望」と資本主義 終りなき拡張の論理』佐伯啓思


 資本主義の精神的な起源がヨーロッパの宗教改革にある、とりわけカルヴァン派のプロテスタンティズムにあると論じたのは、ドイツの偉大な社会学者マックス・ウェーバーであったが、そのウェーバー説に対抗したのはゾンバルトであった。ゾンバルトによると、資本主義の起源はそれほど簡単に割り切れるものではないという。さまざまな起源があるというのだ。

 たとえば海賊、それに賭博師も投機的な企家精神を準備した、とかれは論じる。実際、近代の初めには、ヨーロッパ各国とも「職的によく組織された海賊」を奨励したのであり、かれらは「紳士冒険家」と呼ばれる金持ちをパトロンとした。それなりに「由緒ある」活動家であった。「初期の時代の大商人の海賊的格は、大がかりな貿易―植民社会の中にはじめて正しく登場する」とゾンバルトは書いている。これが仮に少々誇張した解釈だとしても、貿易が、場合によっては略奪的な冒険的商であったことはまちがいない。


「消費資本主義」が貴族の贅沢から始まったというゾンバルトの仮説は決して根拠がないというわけではない。「消費」はいつの時代もイメージの消費なのである。もちろん生きていくために食べるだとか着るだとかいうことはあるにしても、それだけで人は満たされるわけではない。人間が動物と同じようにただ生きてゆくだけなら、さしたる資源もエネルギーもいらない。バタイユが述べたように、人はそれ以上のものを生産してしまうのである。真の問題は、この「過剰」をどうやって処理するかにある。

 人が、商品にさえ一定のイメージをあたえてしまうのも、いってみればこの「過剰」の作用にほかならない。イメージはただ食って生きてゆくという観点からすれば、まったく無駄なものだからである。

 しかし、ともかくも、人は承認にイメージをあたえた。そのおかげで、資本主義はこのイメージ生産力と不可分になった。資本主義が、物質生産の拡大の運動であるとすれば、それはとりもなおさず、イメージの拡大運動でもあるのだ。

 だから、資本主義がヨーロッパで生じたということは偶然ではない。経済的な味で文明のむしろ後進国であったヨーロッパが、経済の先進国であるアジアに対して、強い商品イメージを喚起され、欲望をかきたてられたのは不議なことではない。イギリスにしてもむしろ、後進の識が商革命を生むのである。

 考えてみれば、19世紀後半のアメリカもまた、経済的に後進国から出発してヨーロッパに対抗しようという精神から産化を進めたといってもよいだろう。戦後の日本も同じことだ。アメリカに対する後進識から、それをモデルとして産化を行ったのである。どうやら、資本主義はこの後進の識、コンプレックスと無関係ではないようだ。

「欲望」と資本主義―終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)

ブロック座談会の日程について


問い


 ブロック座談会のことで悩んでおります。我が地区には二つのブロックがあり、私は片方のブロック長をしております。最近、ブロック座談会のつど、もう一方のブロックが同じ日時に座談会を開催し、かち合ってしまってます。仕事などの関係で、もう片方のブロックもそうせざるを得ないのでしょうが、こちらが先に日程を決めた後で、同じ日に予定を組まれます。そのため、地区幹部が不在の座談会になり、少し組織運営に疑問をじております。どう信で受け止めればいいのか、お教え頂けると幸いです。


小野不一


 まず、自分のブロックの都合でものを考えていけません。B座の日程は、そのブロックの方々や、B長・白ゆり長の都合を優先するのが当たり前です。


 地区幹部であれば、あなたのような発が出るのはまだ理解できます。


 会合の日程なんぞで不信を起こしてしまうのは愚かです。そんなB長のもとにいるブロック員の方々が気の毒でなりません。


 地区で別の日にフォローの座談会の日を設けたり、自分でミニ座談会を行えばいいだけの話ではないでしょうか? あるいは、他の地区の座談会へ一緒に行けばいいのです。


 努力もしない、知恵も出さない、という姿勢では、現状を打開するのは困です。まず、そんな些細なことに振り回されてしまうご自分の生命をしっかり見つめるのが先です。


 誰かに何かをしてもらうことを望むようになれば、負けです。一切を開く覚悟のある人が一人いれば、皆が救われるのです。


 ご健闘を祈ります。


問い


 迷いのを斬っていただきありがとうございます。地区幹部がこぞって、もう一方のB座に出席することに痛めておりました。


 誰かに何かをしてもらうことを望むようになれば、負けです。一切を開く覚悟のある人が一人いれば、皆が救われるのです。


 ご指摘のお言葉、身に染みました。我がブロックは自分が守る。再度、この気持ちに立ち返り、頑張っていきたいといます。ありがとうございました。


小野不一


 信のある方で何よりです。


 あなたが、そのように、ブロックのことで悩むこと自体が、広宣流布に直結しているのです。今、格闘されていることが、必ずやブロック員さんの幸福と、信行成長につながることでしょう。


 煩(わずらわ)わしいことの中に、本物の鍛えがあることを確信します。


 ブロック長が一生懸命になって、ブロックのことで悩んでいる。その事実が、因果倶時で、磐石なブロックとなってゆくことを確信します。


【「徒然草BBS」より転載】

2006-12-12

動かなければ勝てない


 教職員が動き、語っていった分だけ、大学・学園は発展する。

 動かなければ勝てない。これは万般に通じる鉄則である。


創価教育代表者会議 2006-08-03 長野研修道場


「動かなければ勝てない」――これを肝に銘じたい。


 私の周囲を見渡すと、あまりにも無駄な動きが多い。いくら、打ち合わせや会合をやったところで人は育たないのだ。


 悩める人のための組織であり、一人のための組織である。その本末を転倒すると、組織は人間を失い、必ず制度疲労を起こす。


 幹部が動いてない――ここに組織一凶がある。一見すると動いているように見えるが、打ち出しに躍らされているだけだ。こういう連中が、組織悪を育み、最前線の邪をする。


 幹部は偉そうな顔をしなくていいから、せめて、連れ出しぐらい手伝ったら、どうなんだ?

2006-12-11

奈良法論 2005年12月4日


妙観講・黄倉光治「法道院は間違っていた!」


 動画がアップされている。

『シティ・オブ・ゴッド』


『シティ・オブ・ゴッド』のテレビ版を見た。


CITY OF GOD~THE TV SERIES~


 映画と全然違った(笑)。だが、これはこれで面白い。これほどのテレビ作品をつくれるたあ、大したものだ。世界は才能に満ちている。日本のドラマなど見る価値もないね。


 特筆すべきは、暴力が支配するスラムの自治が、日本の政治よりはるかにまともなことだ。劣悪な環境にいながらも、眩(まぶ)しいほどの春期が描かれて秀逸。映像と音楽が、とにかくファンキー


 しかしながら、個人的な趣味としては映画の方に軍配が上がる。


シティ・オブ・ゴッド DTSスペシャルエディション (初回限定2枚組)


松本大洋の『鉄コン筋クリート』(小学館)と似た世界が描かれている。

「闇社会」においても悪名高い「山崎正友」


 数ヶほど前、ある地方都市において、広域指定暴力団の有力幹部と称する人物に取材する機会があった。山崎正友のことをよく知る人物だったが、いわく、「山友に比べたら、(我々のほうがまだ)善人ですよ。人を泣かすこと、あんまり好きじゃないですから」。さらに、「あいつには規律というものがない。主義・主張の世界を逸脱している。ふつうの人間じゃないですからね。恐喝やるなら、恐喝やってもいいんですよ。でもね、あいつを支持するきちっとした勢力があって、あいつを前面に出してやるならわかるんです。あいつには、受け皿がないでしょ。あいつの受け皿は、イコール《金》です」

「あの野郎はあと、もって5年です。山友は、(裏社会においても)賞味期限すぎてるよ、もう」

 山崎正友が、裏社会の人間とつながりを持ってきたことはよく知られる。80年ごろ、同人の悪事の実態を告発しようとしたジャーナリストに対し、「おれは関西の田岡会長に会った」「人の命が30万円だそうだ。安いな。いくらでも箔をつけたい奴がいる」などと脅して、執筆断させようとした事実もある。


 柳原滋雄コラム日記2006-12-08)より。つまり山崎正友は、やくざ者以下ということだ。

風呂での思索


 昔からものを考える場所として、馬上、厠上(しじょう=トイレ)、枕上(ちんじょう)と言われる。馬なら多少の判断もしてくれようが、自動車となるとそうもいかない。また、内のトイレは狭いので、ものを考えることは可能だが、如何せんメモをとれないので、本を読むだけにしている。更に、私は眠りに就くのが異様に早い(笑)。


 というわけで、私が索する場所は、御本尊の前、パソコン、風呂に限られている。風呂の場合、メモか本を必ず持ち込む。で、浴槽のフタが二つに分かれているので、半分だけ置いて、そこを机代わりにする。メモは、戦いの構や、仕事の段取りなどをいつくままに記すのが常だ。メモ用紙として使うのはチラシである。多少、濡れても構わない。アイディアは、湯船の中から生まれる(笑)。


 最近、書くことが少なくなってきたので、風呂メモでも書いておこう。

  • 浅ましい人間がいても、怒りをもって応ずるなかれ。静かに、浅ましい様を見つめよ。
  • 分かち合う精神を大乗と呼ぶ。も楽も、喜びも悲しみも分かち合いたい。
  • 純粋さは強みでもあり、弱みでもある。人のの純度と強度とは必ずしも一致しない。
  • 書くことは辛い。時間を要する。索を強いられる。何にも増して、誤解を与えぬ慎重さが求められる。そうであればこそ、私はものを書くことで忍耐を学ぶ。書くことは戦いだ。いかに多忙であっても、「書かずにはいられない何か」を持ち続けたい。「抑えることのできないメッセージ」――私はこれを折伏づける。
  • 礼節を欠いた若さは、学ぶ姿勢のないことに起因している。
  • 高校生に贈るメッセージ/非行に走る自由、化粧する自由、スカートの丈を短くする自由、教師に反抗する自由、親を憎む自由、他人を殴る自由、盗む自由、売春する自由、死ぬ自由――理論的にはこうした自由が存在するだろう。だがこれらは“堕落する自由”であり、“逃げる自由”だ。何と不自由な自由であろうか。真の自由とは、恵まれた環境に備わるものではない。内なる境涯に確立するものだ。戸田先生は牢獄にあっても尚、自由だった。「しい方を選択する自由」を失うな。
  • 金がない、地位がない、時間がない、車がない、彼女もいない(笑)。「ない、ない」と言っている内は、「あるもの」に気づかない。
  • 人間を信頼できる人は、誰よりも人間に裏切られた人物である。つまり、人間不信を乗り越えた人だ。

打つべき手を、ただちに打て


 私は創立者として、全力で創大・学園の発展に取り組んでいる。

 キャンパスの建物や設備についても、皆さんと協議し、さらに充実を期してまいりたい。

 学生のため、生徒のために、最高の環境をつくりたい。応援できることは、何でもしたい──これが私のいである。

 日本では予を超える速さで少子化が進み、定員割れを起こす大学や学校が増えてきている。 大学の合併や“倒産”が、現実のものとなっているのだ。

 教育界は「大闘争の時代」に入ったといえる。

 こうした厳しい状況のなかで、「何とかなるだろう」とか「うちは平気だ、配ない」などと、呑気(のんき)に構えるようなことがあってはならない。

 打つべき手を、ただちに打つのだ。

 驕りや油断があれば、簡単に潰れてしまう。敗北してしまう。それでは、あまりにも愚かだ。


創価教育代表者会議 2006-08-03 長野研修道場


広宣流布は連続革命」と同じ内容。対告衆(たいごうしゅ)が変わっているものの、徹底して教えられている重要な指導である。


「手を打つ」とは先手を打つことである。つまり、先を読み切った上で、今、手を入れるのだ。愚かなリーダーは、常に行き当たりばったりで、後手後手になりがちだ。


 例えば、ビジネス界で頭のいいリーダーは、既に“団塊ジュニア”の獲得に動き出している。明年から3年間、団塊の世代がリタイアすることによって、労働力が不足することを見越した行動だ。その時、派遣社員をたくさん抱えている企は、必ず足元をすくわれる羽目となる。それ以降も社会の少子高齢化が進むことから、慢的な人手不足に陥るとわれる。


 また、先手といっても二種類あることを知る必要がある。「攻めの手」と「守りの手」である。


 例えば今、政務調査費の使い方が問題になっている。ご存じのように、発端は公明党目黒区議団だった。その後、他党の議員もデタラメな使い方をしていることが明るみに出た。政務調査費を返還するのは当然としても、辞職までして責任を取ったのは公明党だけである。


 かような問題が起こった場合は、「守りの手」を打たねばならない。しかし、私が知る限り、目黒の不祥事について会合で話す幹部は皆無だ。多分、彼等の座右の銘は「知らぬが」なのだろう。


 学会員が友人と対話をする中で、あらかじめ予される話題である。それを先に示しておかなければ、不信が芽生えかねない。「エー、そんなことがあったの?」なあんてじでね。きちっと打ち込んでおけば、皆が自信をもって語り抜けるのだ。そんなこともできない幹部は、単なる間抜け野郎だ。

2006-12-10

精神疾患に関する覚え書き

  • ギリシャ時代に「メランコリー」と呼ばれていた「うつ」は、19世紀に入ってから病気としての概が確立。
  • うつ病の発症には、その人本来の格や家庭・職場でのストレスなど、さまざまな環境が影響しますが、それ以上に大きな要因は、脳内の神経伝達物質が不足すること。
  • そう考えれば、「の病気」というよりも「神経の病気」と認識できる。
  • 不足している神経伝達物質を薬で補うことによって、症状は確実に改善される。
  • 2週間以上、落ち込んだ気分が続くようであれば、うつ病の可能が考えられる。さらに、落ち込んだ気分と同時に何らかの身体症状があるのも特徴。
  • うつ病の抑うつ気分や、欲低下の症状は、午前中に強く現れる。

【『けんこうさろん』NO.156 2005-04-20発行】

人格障害に関する覚え書き

  • 知能レベルは遺伝子構造によって決定される面が強いようだが、環境的要素、たとえば胎内での環境、幼いころに受けた刺激や栄養分、さらには産まれた順番までが、一部影響を与える。
  • 人間の格の多くの面、たとえば外向や神経質などは、あるていど遺伝的要素に影響される。そのことは理学者のあいだで、昔から知られていた。その科学的な裏づけになったのが、一卵双生児と二卵双生児の比較研究である。
  • アンケート形式で求められた格的特徴(外向、神経質、権威主義情移入など)が、遺伝する可能は35〜50パーセントという結果が出た。これが先天的な割り合い。
  • サイコパスの大脳皮質では、神経生物学的部分と行動的部分を結ぶ重要な鎖の一つが、機能変調を起こしている可能がある。
  • 幼児虐待の経験は、犯罪を起こしやすい傾向にはなるものの、サイコパスの原因とは考えにくい。
  • それよりも、愛情障害の影響と考えられる。愛着は、幼児に親との接触を求めるよううながす先天的な脳の働きで、それによって最初の人間関係が形づくられる。この最初の関係が決定的に大切なのは、それが幼児の生存に関わるだけでなく、関係をとおして、幼児の未成熟な大脳辺縁系組織が、大人の脳の成熟した機能を「利用」しつつ自然に完成されていくためだ。
  • 親が幼児に情移入して反応すると、子どもの中で満足や高揚などのプラスの情が促進され、欲求不満や恐怖などのマイナス情が緩和される。この作用が秩序や安全の覚をやしない、しだいに幼児の記憶に刻まれていく。
  • 研究によれば、幼児期に適切な愛着を体験すると、多くのしあわせな結果が生まれる。情を健全に制御する能力、自伝的記憶、自分の体験や行動を反省する能力などが育つのだ。もっとも重要なのが、のちにほかの人びとと愛のこもったきずなを結べるようになる点だろう。愛着による最初のきずなは生後7ヶ目までに築かれ、たいていの幼児は最初にふれあった相手への愛着をとおして、これらのだいじな能力を発達させていく。
  • 19世紀から20世紀初頭にかけて、アメリカの孤児院で起こった事件。衛生面に神経過敏になりすぎて、完璧な殺菌を目指すあまり、まったくふれてもらえなかった幼児たちがいた。その結果、「非器質生育不全」という障害となり、大半が死亡した。
  • ルーマニアの独裁者チャウシェスク大統領は中絶も避妊も禁止。政権が倒された後に、多数の孤児が見つかった。欧米の多くの人々がこれらの子どもたちを養子として迎え入れたところ、愛情障害によるサディスティックな異常行動が次々と報告された。

【『良心をもたない人たち 25人に1人という恐怖』マーサ・スタウト/木村博江訳(草思社、2006年)】

良心をもたない人たち―25人に1人という恐怖

粘れ!


 今年も残すところ20日余りとなった。闘争も終え、既に顕彰も行われている。だが、本当の勝負はここからだ。たった20日間における粘りと執が、リーダーの力の差となるのだ。組織の戦いは終わっても、自分の戦いを止めるな。もう一歩、粘れ!

明確な「数」を目標として掲げよ


 戸田先生は広布の前進に当たって、明確な「数」を目標として掲げられた。

 数学者としても有だった先生は、この「数」の持つ味についても、しばしば指導してくださった。

 これまでも何度か紹介したが、「創価学会は、地球上で最も尊厳な生命を守り、どれだけの人に妙法を受持せしめ、幸せにしたかということを数えるのである」と言われていた。

 あの歴史的な第二代会長の就任式では、「私が生きている間に、75万世帯の折伏は私の手でいたします」と先生は叫ばれた。

 この「75万」にも、甚深の義が込められていたのである。それは単なる数字ではない。先生の深き誓願と一体の「数」なのである。


【各部合同研修会 2006-08-02 長野研修道場


 草創期は、「決発表」のことを「確信発表」といった。長の一で「いくつ、やります!」と述べた。現在のように、雁首(がんくび)を並べて、「いくつにしようか?」なあんて目標を相談するようなことはなかった。


 昭和25年、文京の支部幹事となった若き先生(当時23歳)。組長、班長、地区部長の確信発表にを澄ませ、ある時は「できるわけがないよ。嘘を言ってはいけない」と叱咤し、またある時は「必ずできるよ」と励ました。先生が「できる」と言われたのは、組長、班長、地区部長の数が一致している時だけだった。これが呼吸というものだ。


 先日の本幹で学生部長が「ここ十数年来で最高の結果を出した」と発表していたが、私は「どうせ、ほとんど御守りだろ?」との中で吐き捨てた。また、「貴様は、その内の何世帯に関わってきたんだ?」ともった。


 御守り御本尊の授与に関しては以前、書いた通りである(「学歴本位になれば学会は崩壊」)。私が懸しているのは、折伏の歓喜が以前に比べて劣ってきていることだ。「一人の人を救う喜び」が「組織目標を達成する喜び」に変わってきてやしないか? 成果は出るものの、人が育ってない組織は要注だ。


 数字がデタラメだと、顕彰義も薄れる。幹部の利を満足させるために、数字が操作されている。特定の地域の婦人部内にこうした傾向が強く、それに手を貸さない壮年幹部が痛い目に遭うことも珍しくない。


 虚空会の儀式で、地涌の菩薩が自分の眷属にエキストラを起用しているような様子になってるよ(笑)。人材育成を阻害しているのは、幹部による成果主義だ。地道に人を育てている人が全く評価されない組織になってしまった。


 でもね、どんな組織にいたって構わないんだよ。結局ね、全部、自分で決まるんだから。自分の周囲に強い絆を広げていけばいいだけの話だ。同志とは、志を同じくする人のことである。私は、インチキ幹部を同志とったことは一度もない。


「一人立つ精神」とは、幹部を当てにしない精神のことだ。

2006-12-09

WILLCOMを推す


 新装開店した聖教新聞社のサイトに広告があったので、まあ、勧めても大丈夫だろう(笑)。


 私は5〜6年前からWILLCOM(旧DDIポケット)を愛用している。本と音楽以外に関しては、無駄な金をつかわないという信条に基づいている。に1万円以上も携帯の通話料を払っている人間は、はっきり言って馬鹿だとうね。


 それと、使ってみれば直ぐにわかることだが、音質が格段にいい。携帯電話がこもって聞こえるほどだ。


 WILLCOMの定額プランなら、額2900円でPHSへの通話(他社も可)、すべてのメール(携帯、パソコンも)がし放題。日本中の人々がWILLCOMになれば、もはや固定電話も必要なくなる(笑)。


 ただし、PHSと携帯電話間の通話料はべらぼうに高い。だから、仕事などで携帯とやり取りする機会が多い人は、やめておいた方がいい。尚、固定電話との通話料はPHSの方が安い。


 本当は、安心だフォン発信先が3件まで。受信専用/額1029円)にしたいぐらいだ。否、創価班出身の私は無線機でやり取りすることを望んでいる(笑)。


「無駄は謗法である」と得られよ。

 あるいは知り合い全員にSkypeを持たせるという手もあるか(笑)。こうなれば、通信費は無料だ。また、ソニーからは今こんなものが発売される。

一騎当千の師子王たれ!


「一騎当千」という言葉は、どこからきているか。

 それは「一人当千(いちにんとうせん)」という言葉からである。

 釈尊が入滅する直前に説いた涅槃経に、如来の力を讃えた「一人当千」という言葉がある。

「大力士有らん。其の力千に当り、更に能(よ)く之を降伏(ごうぷく)する者有ること無し。故に此の人を一人当千と称す」(岩野真雄編『国訳一切経印度撰述部 涅槃部一』大東出版社、現代表記に改めた)

 すなわち、誰人たりとも倒すことのできない、千人力の偉大な力士を「一人当千」という。

 その大力士のごとく、はかりしれない智で四を降(くだ)す無敵の存在こそ、であるというのである。

 まさに「一人当千」「一騎当千」の力を発揮しゆく源泉こそ、法なのである。

 広宣流布を成し遂げゆく法の師弟に、この「一人当千」「一騎当千」の力が湧現し、具足しないわけがない。

 牧口先生は、「羊千匹より、獅子一匹たれ」と叫ばれた。

 いわんや、リーダーの皆さま方は、この創価の師弟の道に直結して、一人が「一千」、否「一万」にも匹敵する師子王の大力を出し切っていくことだ。その生命の勢いと気迫が大事である。

 新しい人材を、新しい青年を、きら星のごとく育て、新しい広宣流布の圧倒的な勝利、勝利の時代を断固とつくろう! そのための各部合同研修会である。


【各部合同研修会 2006-08-02 長野研修道場


「一騎当千」という言葉が典から出たものとは私も知らなかった。


 言うは易く行うはし、である。本幹衛中で原田会長が「師匠に守られる弟子から、師匠を守る弟子に」なあんて話をしていたが、とても本気とはえない(笑)。無理に決まってるよ。私に言わせりゃ、そんなことをうこと自体が謗法だ(笑)。自分の責任範囲を死守する――これしかない。


 一人が千人に匹敵するというのだから、千人の敵を味方にしなくてはなるまい。まあ、平均寿命を無視して、人生八十年と考えれば、1年あたり12.5人の友好拡大が求められる。とはいうものの、学校に行ってる間は勉強が本分となるので、20歳以降で計算すれば16.7人となる。こりゃ、中々大変だ。


 強敵を伏して始て力士をしる(957頁)


 明年はこの御聖訓を引っさげて戦い抜いてゆく予定。強敵とは、目上の人、嫌いな人、手な人のことである。


 テーマは、「一人当千の陣列で全員当選」に決まり(笑)。

太田春子さん死去 太田昭宏公明党代表の母


 太田春子さん(おおた・はるこ=太田昭宏公明党代表の母)1日死去、94歳。愛知県出身。告別式は近親者で済ませた。喪主は長男昭宏(あきひろ)氏。


【徳島新聞 2006-12-05】

2006-12-08

人生は劇


 今日、本幹衛中に参加。冒頭、夫婦のやり取りを例えにこう指導された。


 人生は劇だから。色々あっていいんだ。


 これこそ、目黒区議団の不祥事に対する指導であると私は確信した。公明党目黒区議団の不祥事はその後、党本部にも波及しているとの報道もある。しかし、何があろうとも、私のは揺るがなくなった。結局、自分が弟子として真っ直ぐに生きていけばいいだけの話だ。


 特筆すべきことは、先生が矢島周平前を挙げたことだ。わかる人にはわかるだろうし、わからない人は知る必要がない。


 聖教新聞の原田副理事長は、もっときちんと頭を下げるべきだ。多分、緊張していたのだろうが、あれじゃ駄目だ。

Gメールを推す

 以前は招待制だったが、最近、自由に登録できるようになった無料のWebメール。メールアドレスをGメール一本にしたところ、何と、スパムメール(迷惑メール)が全く来なくなった。こいつあ凄い! 1999年からネットに接続して以来、初めてのことだ。POP3にも対応しているので、自分のメーラーで受信することも可能だ。

2006-12-05

精神疾患について


健康勝利の掲示板」で、ホストの薬王さんから、精神疾患について色々とご教示を受けた。大変、有益な内容とわれるので、ここに転載させて頂く。


小野不一


 私見ながら、「鬱病や心身症などの精神疾患は、多分、過去のトラウマ(心的外傷)から自分の心と身体を守っている状態のような気がする」とブログに書いたんですが、専門家の目から見ると、どうなんでしょうか?


薬王


「過去のトラウマ的外傷)から自分のと身体を守っている状態のような気がする」


 生きものの本能として、外からの攻撃(理的危機・ストレス・トラウマ等を含む)があった場合、逃げる・戦う・硬直する、と3通りあります。


 初めに、も身体も「柔軟」がある人はクヨクヨせず、どんなことも対処できます。多くの身症や精神疾患の方は、身体的にも理的にもこの「柔軟」が失われていることがみられます。


 まず、何かストレスを受けた場合、に余裕のある人とはサッと逃げれます。何事もなかったようにうまく逃げて、後に不安や不満・執着が残りません。泣くことも逃げになります。


 戦った場合は、その場で不満や恐れが発散できるので、これも後に残るのは少ない。


 最後に問題なのが、硬直(固まる)です。


 過去の出来事(ストレス)に対し、身体や神経は防御反応を示します。小野さんの言う通り、自分のと身体を守っている状態です。これは、当たり前といえばそうでして、本能がそうさせています。


 ただここで問題なのは、ストレスに対して、発散できず、我慢(硬直)した状態が長く続いた時です。これは抑圧エネルギーといって筋肉や神経系統に残こるのです。また、抑圧されたエネルギーは次から次へと噴出して、精神的変調をきたしてくるのです。


 我慢(硬直)=交神経の過剰刺激=自律神経失調=ホルモンバランス変調=だるい・つらい等、身体的にも変調が出てきます。色不二ですね。


 精神疾患の解決法は多種多様です。現在の理療法は過去を振り返り、原因を追求することに重点を置いているようですが、法の現当二世、未来へ希望を生み出す力は精神疾患の解決に重要かとっています。


小野不一


 やはり、餅は餅屋ですね。大変、勉強になります。


 逃げる・戦う・硬直する


 これは初でした。確かに動物の弱肉強食の世界では、よく見られる態度ですね。


 翻って人間の世界を考えますと、「逃げづらい環境」が束縛している側面が窺えます。職場でのパワーハラスメントを支えているのは、「賃金を失うことへの恐れ」→「生活への不安」→「忍耐=硬直状態」のような気がします。


 学会組織の場合、これが更に強く発揮されます。多くの善良な会員が、法の正しさと組織の無謬を混同しているためです。ゆえに、モラルハラスメントパワーハラスメントの被害は、より大きなものとなると考えます。


 勝手ながら、もう一つ質問があります。「精神安定剤は“ものを考えられなくするための薬”だ。頭が働かないようにして、自殺を防ぐものだ」と聞いたことがあるのですが、これは正しいのでしょうか? 多くの患者が「強い薬」と表現して、忌み嫌っております。人によっては、3〜4時間以上、何もできなくなるといいます。こうした理由から、服用すべき薬を捨てている患者も珍しくありません。また、先日私が激励した青年は、家族の介護があるため、服用したくてもできない状況にあります。


薬王


「精神安定剤は“ものを考えられなくするための薬”だ。頭が働かないようにして、自殺を防ぐものだ」と聞いたことがあるのですが、これは正しいのでしょうか?


 精神安定剤は脳内の神経伝達物質に作用します。医師ではないので薬学のことは詳しくわかりませんが、精神安定剤に限らず、薬とはなんらかの二次的作用(副作用)は必ずあります。


 多くの患者が「強い薬」と表現して、忌み嫌っております。人によっては、3〜4時間以上、何もできなくなるといいます。こうした理由から、服用すべき薬を捨てている患者も珍しくありません。


 薬を飲む側の価値観や空・観など、その人のの働き方により、「同じ薬」でも効果は大きく変ってきます。3〜4時間以上、何もできなくなるといっても、「鬱状態よりましだ」とう人には効き、「強い薬」の副作用に不安を抱えている人に効果は期待できません。


 また、先日私が激励した青年は、家族の介護があるため、服用したくてもできない状況にあります。


 青年が若ければ若いほど、家族を介護する、ということが気になります。


 人間が生きるための働きには、丈夫になりたいとうことから、病気が治りたい、健康でいたいなど頭で考えています。しかしその一方で、の根底には、事のついでに壊したい、壊しておきたい、身体の弱いことを知らしめたい、などの「の方向」が生じます。


 頭(理)では介護をしなければとわかっていても、青年の生きる要求は満たされていない。人は要求が満たされないと、そのエネルギーは他人(外)に当るか、自分(内)を痛める方向のどちらかへ向かうからです。


小野不一


 いやはや、凄い展開になってきました。本当に学ぶことばかりです。


 人間が生きる為の働きには、丈夫になりたいとうことから、病気が治りたい、健康でいたいなど頭で考えていますが、の根底には、事のついでに壊したい、壊しておきたい、体の弱いことを知らしめたい、などの「の方向」が生じます。


 とすると、精神疾患は「本人の絶望を表現している場合」があるということでしょうか? 生きるためにリストカットをする若者と同じように、自らを傷つけるケースがあるという理解で宜しいでしょうか?


 また、「薬を飲む側の価値観や空・観」が薬効に影響するとすれば、医師への信頼があれば、プラシーボ効果も望めるのでしょうか?


小野不一


 質問ばかりとなってしまい、まことに恐縮です。こうした機会は中々ないものですから、甘えさせてもらいます。


 以前からってたんですが、貧しい国に精神疾患は少ないようにじます。衣食住が満たされない生活環境では、確かな生きる志が育まれるようにもえます。この私のい込みが正しいとすれば、精神疾患は満ち足りた生活の後に襲われるストレスが原因と考えることは可能でしょうか?


 また、私が運動部出身ということもあり、「ものを考えられなくなるほど身体を動かせば、精神疾患になる暇もない」と考えているのですが、これについてはどうでしょう?


 ちなみに私の実家で引きこもりになったとしたら、多分、殴って治されたことは疑う余地がありません(笑)。


薬王


 とすると、精神疾患は「本人の絶望を表現している場合」があるということでしょうか? 生きるためにリストカットをする若者と同じように、自らを傷つけるケースがあるという理解で宜しいでしょうか?


 そうだといます。人は「我ここにあり」と存在の主張を示さずにはいられないからです。「俺はこんなに力があるんだ」しかり「私はこんなに傷ついているんだ」しかり……。


 また、リストカットは若者にはみられますが、大人がすることはあまり聞きません。これは、若い時は生きる力が強く、その奥には壊してもまた再生する力を持っていると考えられます。怖いところ、危険な場所へ行くことにワクワクしたり、また傷付けることに快すらじることもあります。


 また、「薬を飲む側の価値観や空・観」が薬効に影響するとすれば、医師への信頼があれば、プラシーボ効果も望めるのでしょうか?


 医師への信頼は、プラシーボ効果を増大させるでしょう。このプラシーボ効果を引き出すのも、あくまで本人の側にあり、いくら医師が人格的にすぐれていても、説明が上手でも、受け取る側のによります。「この薬は効くようだ」と、いったん空がはじまり、「何日後にはこんな状態になるかな」と、連が続くと観となります。この観は、本来のの働きではなく、別に作り上げたなのですが、こうしての方向が固まってくると、識では否定しても体は反応してしまうのです。


薬王


 質問ばかりとなってしまい、まことに恐縮です。こうした機会は中々ないものですから、甘えさせてもらいます。


 こちらこそ! 応えることで勉強になっております。


 以前からってたんですが、貧しい国に精神疾患は少ないようにじます。衣食住が満たされない生活環境では、確かな生きる志が育まれるようにもえます。この私のい込みが正しいとすれば、精神疾患は満ち足りた生活の後に襲われるストレスが原因と考えることは可能でしょうか?


 人でも動物でもはじめに「生きてゆく」という生命の要求あります。貧しい国ではまさに、生きるために生きているので、先進国よりもかえって、伸び伸びと生きているように私はえます。


 確か、動物実験だとったのですが、ストレスがまったくなくなると、死んでしまうようなんです。ストレスもひとつの刺激ですが、満ち足りた生活にはストレスや刺激が多少必要ですが限度もあり、それを転換して生きるバネに変えてゆきたいですね。


 また、私が運動部出身ということもあり、「ものを考えられなくなるほど身体を動かせば、精神疾患になる暇もない」と考えているのですが、これについてはどうでしょう?


 同です。体を動かすという点で、運動はエネルギーの発散で良いのです。あくまで程々に(^^)


 ちなみに私の実家で引きこもりになったとしたら、多分、殴って治されたことは疑う余地がありません(笑)。


 野的ですね(笑)。強い子(人)に育つわけです(^^)


小野不一


 いつも、本当にありがとうございます。モヤモヤした考えが、どんどんスッキリしてきます。


 魯の人改め、魯ひとさんが、書いたテキストです。

 http://karagura.blog01.linkclub.jp/index.php?itemid=17929


 ご存じないかも知れませんが、魯ひとさん自身が鬱病の経験をお持ちです。


 私はこの方の見識の深さ、執ともいえるほどの教学に対する姿勢を拝見すると、仰ぐようないに駆られます。


 ただ、この文章に関しては、どうもスッキリしないのです。私は、精神疾患は、どう考えても「の病」だといます。「身の病」であれば身体の部位を特定できるからです。


 私の考えでは、魯ひとさんとは全く逆で、健常者もみんな、「の病」に冒されているといます。格や分に始まり、何かしら社会やコミュニティー、他人に対する違和など、「の病」は枚挙に暇がありません。


「彼女が欲しくてたまらない」なあんてのは、「の病」以外の何ものでもありません(笑)。「恋の病」ってえのも、ありますな(ニヤリ)。女子部の皆さん、お気をつけ遊ばせ。


 つまり私の考えでは、「の病」は人類の宿なのです。療内科の医師も、これを避けることはできません。皆、病んでいるのです。だからこそ、反省し、決し、前へ前へと人生の歩みを運んでいる。


 宿命や環境に毒された生命――私はこれを「の病」とづけます。


薬王


 私は職柄(整体)、身体の側面から診る傾向が強いです。の働きは体に表れ、逆に体の働きがに影響します。そして、身体を診ながらとの関連をみて、その人がどんな反応・行動をするのかを観てゆきます。では、そのと体を動かしている大元は何かというと「生命」と考えています。


 一方、人は家族をはじめ、人との関わりなしに生きてゆけない、また社会や時代の流れに沿って生きているので、それを見過ごすわけにはいけない。 個人(一人)の体から出発して、その社会、時代の流れをみてゆきます。


 とすると、現代の「の病」は私も、人類の宿=生命の宿の表れとみていますが、それと共に、その影響は身体にも如実に表れています。


 ギスギスした生きにくい社会で、今の人は過度の緊張状態が抜けません。その緊張状態は、呼吸器や脊椎神経に表れ、硬直を生じ、頭(脳)の過敏としても出ています。その箇所を手技療法や運動動作・言葉かけにより改善してゆきます。


 緊張の抜けない人は、ちょとした刺激(ストレス)で過敏になり、すぐキレたり、怒ったり、些細な事柄を大きな問題に摩り替えてみたりします。また弾力を失い、体が硬くなると、考え方までコチコチで、集中力に欠け、ひとつのことにこだわったり、出来もしない事を考え続け、疲れ果てたりします。 このような体の状態が「の病」や今の「いじめ」に繋がっているとみています。


 私が懸するのは、鬱病という「病」が一般化し、流行(はや)りだしたことです。健全な人が少し、気分が落ち込んだだけで、鬱病という「病のイメージ」に結びつけてしまう。単なる気分の落ち込みを「かもしれない……」とい込みが強くなると、本当の鬱病に化けてしまうからです。まあ、鬱に限らず病気になる大半は、このようなものなのですが……。


薬王


 私も一つお聞きしたいのですが、「の病」の方が題目を上げると「症状が出るからやめたほうがいい」と、聞くのですがどうなのでしょう?


 7〜8年前、私の部員さん(男20代)で「の病」を持ち、その専門の病院に通っていた部員さんがいたのですが、よく一緒に題目を上げていました。その時、症状が出ることはなかったのですが、どうなんでしょうか?


小野不一


 また弾力を失い、体が硬くなると、考え方までコチコチで、集中力に欠け、ひとつのことにこだわったり、出来もしない事を考え続け、疲れ果てたりします。


 竹内敏晴氏が全く同じことを言ってます。身体がいびつになったため、が出なくなっていると。(『ことばが劈(ひら)かれるとき』ちくま文庫)


小野不一


の病」の方が題目を上げると「症状が出るからやめたほうがいい」と、聞くのですがどうなのでしょう?


 唱題自体に義務じたり、生命力が躁状態につながるためだとわれます。自然に発生した自分の志で行う場合は、問題がないとわれますが、「やらないといけない」というい込みがあれば、逆効果になるとわれます。


 私の経験から申せば、「本人に題目を唱えることを強要する」よりも、「お前のことは俺が祈っているから配ない」と言うのが適切なあり方だとじます。


 人間はともすると、問題があると本人に押し付ける傾向があります。それを自分の問題とするのが内外相対だといます。


薬王


 唱題自体に義務じたり、生命力が躁状態につながるためだとわれます。


 ありがとうございます。体験を通した答えに頭が下がるいです。


 追伸――「の病」の方が薬を飲むことに抵抗がある場合、下記の本が参考になるかも知れないので、ご紹介しておきます。

 低血糖症の症状が「の病」の症状を引き起こしている?とみているようです。


 HPhttp://www.shinjuku-clinic.jp/

 ブログ/http://orthomolecule.jugem.jp/?cid=7


小野不一


 溝口氏の書籍は知ってますが、まだ読んでおりません。


 食べ物の影響は大きいといます。ただ、個人的には、栄養面よりも食品添加物などの化学物質や化学肥料の影響の方が大きいようにじます。


 また、谷口祐司氏によれば、おむつの様変わりも赤ちゃんに深刻な影響を与えているようです。谷口氏によれば、紙おむつの登場以降、赤ちゃんが母親に噛み付くようになったと指摘しています。「キレる」状態といってもいいでしょう。


 内は兄弟が多く、下の3人は私が育てたようなもの。で、いまだに直らない癖があるんですが、赤ちゃんが泣くとおむつの中をさわってしまうのです(笑)。布おむつを使っていると、赤ちゃんは不快を訴え、泣いてそれを伝えました。おむつ交換が遅くなると、お尻にアカギレができました。おむつを交換すると、キャッキャッとを上げて喜んでおりました。


 つまり、不快を覚えることによって、快を知るわけです。紙おむつはこれを奪った。


 更に谷口氏によれば、若いお母さんが「オンブする姿」を嫌い、抱っこするようになったことも問題であると指摘しています。理由は、抱っこの場合、お母さんの身体と赤ちゃんの身体が逆方向に動くため。おんぶだと一体がある。


 そして、これは私の見解になりますが、幼児から「遊ぶ文化」が喪失したことも大きな原因だといます。ゲームなどを初めとする、屋内の遊びは、身体的な刺激が少な過ぎます。外で遊ぶことによって皮膚覚が研ぎ澄まされ、子供同士の社会が形成されます。私の世代(43歳)であれば誰もが経験しているといますが、初めて木登りをする時は年長者が手を貸してくれたものです。こうした行為を受け継ぐことによって、社会の基盤が形成されていたようにいます。


小野不一


 ヨガなんか効きそうですね(笑)。あと、平均台とか。キーワードは柔軟とバランス覚といったところでしょうか。


小野不一


「言と云うはいを響かしてを顕すを云うなり、凡夫は我がに迷うて知らず覚らざるなり」なのかな、といました。


 というよりも、「いが響かない身体」になってしまったということなんでしょうね。吹いても鳴らないラッパ状態です。


薬王


 つまり、不快を覚えることによって、快を知るわけです。紙おむつはこれを奪った。


 今の紙おむつは吸収がよく、赤ちゃんがオシッコや便をしても、快・不快をじにくい。赤ちゃんは言葉を話せないので快・不快、腹が減ったなどを泣いて訴えます。その点、布おむつの場合は不快をじやすく、親は「あっ、したな……」と分かりました。


 つまり、赤ちゃんは泣くことで親の注を引き、安を得るのですが、紙おむつというのは、不快が少ないので赤ちゃんも泣かない。すると親のほうも勝手がよく、無関になります。これが親と子の信頼コミュニケーションがはかれなくなる始まりといえるでしょう。


 はじめのボタンのかけ違いが、後々大きな問題になってゆくと考えられます。


薬王


 ヨガなんか効きそうですね(笑)。あと、平均台とか。キーワードは柔軟とバランス覚といったところでしょうか。


 脳味噌の、柔軟とバランス覚には任天堂の脳トレを(笑)。


 編集記――硬直した身体をほぐすために、一番重要なのは「睡眠」です。


薬王


 というよりも、「いが響かない身体」になってしまったということなんでしょうね。吹いても鳴らないラッパ状態です。


 師子吼して、ラッパを磨くしかないようですね。

2006-12-04

太宗は地方政治を重視


貞観政要』には太宗が、各地方の民衆の暮らしを、どれほど真剣に考えていたかが記されている。

「我は毎夜、いつも人民のことを考え、時には夜半になるまでも寝つかれないことがある」

 この責任こそ、指導者の条件である。

 これこそまさに、戸田先生のご境であった。そして先生の後を継いで、世界広布の全責任を担った私も同様である。

“あの地域は大丈夫だろうか”

“あの人は、元気になっただろうか”

“あの地方に、どのような激励の手を打てばよいだろうか”

“未来を磐石にするために、今、何が必要だろうか”

 太宗も、そうしたいで常に占められていたに違いない。

 この君は、「地方」の指導者を重視した。

“地方の指導者は、本当に国家の治乱(治まることと乱れること)に関係する重要な職責である。ゆえに、多くの臣下の中でも、最もそれにふさわしい良い人物を得なければならない”という考えであった。

 民衆と触れ合うことの少ない、位の高い指導者よりも、地方に密着し、人々の現実の生活に根ざして働く地方の指導者が、どれほど大切か。

 私が対談したドイツのヴァイツゼッカー大統領は、「公正な社会」を実現する上での「地方」の重要を、こう指摘している。

「市町村では隣人がどのような生活をしているかが分かるため、政治家はできもしない公約を並べることはできない。地方政治こそが民主主義を育てる学校と言える」(1999年57日付「毎日新聞」)

 これは、すべての社会に当てはまる方程式ではないだろうか。

 大統領は、「人生には妥協はつきものだが、政治家や年配者は情けない妥協をしてしまいがちだ。だが、若い人々は控えめにならず、どしどしものを言ってほしい」(同)とも語っている。

 私は青年部に、「正義のを上げよ! 庶民を愚弄する指導者の傲慢を許すな!」と、強く申し上げたい。


【全国最高協議会 4 2006-08-01 学会本部別館】


 この指導で、私のの中のスイッチが入った。「統一地方選は来年だよ」とっていた自分の迂闊(うかつ)さを呪った。先生の先手の早さに肝を冷やしながら、「今、戦うこと」の味をわずにいられなかった。


 地方政治は、天下国家を論ずるものではない。ある面で些事(さじ)にまみれた世界であろう。給与は公務員並みにもらえるものの、慶弔費などが嵩(かさ)み、決して「旨味(うまみ)」のある仕事とはいえない。まして、公明党の場合、次から次へと現場が寄せられる。情もスムーズかつ、ストレートに届けられる(笑)。


 下町のある区議に至っては、四者からの情を突きつけられて泣き出したこともある。その内容は、「男子部時代に気合いを入れられたから、投票したくない」「バス停で会っても挨拶をしない」といった代物で、私は議員に同情せざるを得なかった。


 そんな現状にある中で、先生は地方政治家へ大きなエールを寄せて下さったのだ。日夜、同じ活動を繰り返す我々も、明確な目標を睨(にら)むことによって、確かな勝因を積み上げる姿勢に変わった。


 戦いが進めば、が出るのは当然である。しかも、は一番弱いところを攻めてくる。よもや、身内の不祥事によってしむ羽目になるとは、夢にもわなかったよ(笑)。


 公明党や学会の脇が甘いのは仕方がない側面もある。元々、善が基本になっているから、悪党が出てきた時のことを定してないためだ。先日、不祥事が発覚した目黒区議団に対して、党本部は自主調査を命じた。この「自主調査」自体が、そもそもおかしい話だ。どうして、悪事を働いた連中に調べさせるのだ? それでは調査の味をなさないだろう? と考えるのが普通だよ(笑)。


 しかし何があろうとも、この指導の味が失われることはない。否、知事を初めとする自治体の不正が次々と明らかになっている今、ますます重みを増している。


 創価学会の政治参加は地方政治から始まった。その義を踏まえながら、“創価の世紀”の新しい歴史を拓いて参りたい。

2006-12-03

『心に太陽をもて』山本有三


 いつも、出たとこ勝負で座談会に望んでいる男子部諸君は(笑)、この本の「パナマ運河物語」を読んで、連載中の『新・人間革命』「凱歌の章」とリンクさせて、研究発表を行うべし。壮婦から絶賛されることは私が請け合おう。私のノートからいくつか抜粋しておく。


 自然と取っくんでうまくいかないのは、自然を知らないからだ。自然をけいべつしているからだ。自然の真実をさぐり、自然を活用すれば、自然も必らず人間と調和してくれる。


 その事が、古代と同じく、人間をムチで追い立てて、成しとげられるものであったならば、それは人間の恥辱を大きく歴史に残すことにほかなりません。ムチではなく、正しい理解が人間を仕事に駆り立ててこそ、その仕事は人間のほこりとなりましょう。


 労働者たちは言いました。

「おやじは、夜、寝るときにも、運河をかかえて、ベッドにはいるんだぜ、きっと」


 やむなく、人間で実験をしてみるよりほかはありませんでした。しかし、いのちにかかわる実験ですから、他人を使うというわけにはいきません。とうとう彼らは、「われわれの生命をさし出そう。われわれ自身のからだで、実験してみよう」と悲壮な決をしました。


 黄熱病は蚊が伝染させる。ただこれだけのことを確実に知るまでに、人間はなんという大きな犠牲を払ったことでしょう。なん万という生命をうばわれ、なん百万という金をむなしく費やしたのち、少数のすぐれた研究者のいのちがけのによって、はじめて、それが確実な知識となったのでした。しかし、一たん、それが確実な知識となるやいなや、人間は、もはや黄熱病にもてあそばれる弱い生物ではなくなりました。


 若い衛生隊員は、ときどき我慢し切れないように、いらだちました。こんなことで、どうしてわれわれの仕事がやって行けよう。どうしてこのおそるべき流行病を防ぐことができよう。だが、当のゴーガスはいつも静かな微笑を浮かべたまま、人々の無理解をしのんで行きました。彼のも、目も、いつもの落ちつきを失ったことはありません。彼と向かい合っていると、だれでも、自然ともちが静かになるのをじるほどでした。彼は今までに、なん百人、なん千人という熱病患者を取りあつかってきていました。その経験のおかげで、彼はいつとはなしに、こういう余裕のあるを持つようになったのです。

 ゴーガスが人々の無理解に対して腹を立てなかったのは、医者としての自信のためばかりではありませんでした。そのうえに、もう一つ、――彼は人間に対して深い愛情を持っていたのです。


 ゴーサルズは、どんな人に向かっても、一々、しっかりした返事をあたえました。


「あきれたなあ。おやじは、きょうも働いているんだなあ!」


心に太陽を持て

『日蓮正宗の神話』松岡幹夫(論創社)


日顕の大邪説は万代までの恥!


改革僧が日顕糾弾の「日蓮正宗の神話」を発刊


法主以外の石山僧が書いた本尊の写真を初公開


【『フェイク』第784号/2006-11-24


 青年僧侶改革同盟岡幹夫氏(雄茂から改)が『日蓮正宗の神話』(論創社、定価3800円)と題した日顕弾劾の書を今末、出版する運びとなった。


 本年2岡氏が約1年間に及ぶ日顕宗との文書法論に完全勝利したことは、既に本紙683号で報じた。


 岡氏は勝利を宣言した「新改革通信」号外の中で「まず、この一年間における日顕との問答記録を総括したい」「加えて、ひとえに宗門改革のため、今の宗門の教義が、いかに捏造的で逸脱に満ちているかを詳細に論証する書も作成中である」と述べていた。


 前者は、A4で494ページ及ぶ『松岡雄茂――阿部日顕・邪義破折班 問答記録』(非売品)としてまとめられ、本年4に関係各所に送付されたが、これには連戦連敗の日顕・日如は一言の反論もできなかった。


 そして今回、岡氏は後者の予告も実現させて『日蓮正宗の神話』を出版する。いつもながら、岡氏の有言実行ぶりには驚かされる。『日蓮正宗の神話』は413ページの大著である。内容は、日顕宗の法主信仰の邪義をあらゆる角度から破折することにより、もはや日蓮大聖人・日興上人の正法正義は創価学会のみにある、と学問的に宣言するものとなっている。


 岡氏は1986年に日蓮正宗の僧侶となって以来、20年間にわたり大石寺の歴史と教義を研究し続けてきた。本書は、長年の文献精査と現地調査を踏まえて執筆された力作であり、今後、日蓮正宗研究の必読書となるに違いない。


 本書の見所は数え切れないほどあるが、まずは日顕宗破折の現場で活用できる箇所を紹介してみたい。


 日顕宗の坊主らは、よく「御本尊のことは御法主上人猊下だけの特権」などと言い、学会御本尊授与を謗法呼ばわりする。


 しかし、岡氏によれば、それは後からできたルールであり、草創期の日興門流では御本尊書写の規則がなかったのだという。その証拠として、岡氏は、日興上人から第6世・日時の代までに法主以外の7人の僧が合計25体もの御本尊を書写・授与していたという資料上の事実を示し、分かりやすく一覧表にまとめている。


 また「一般僧侶による御本尊書写は、交通不便の時代、大石寺から遠く離れた場所にいる僧俗のために特別に許された例外だ」とも日顕宗は言うが、こうした弁解が通用しなくなる決定的資料を、岡氏は初公開しているのである。


日蓮正宗の神話』の第三論文(「本尊権の貫主独占」という神話の虚構)では、江戸時代の大石寺の高僧が書写した本尊が、写真入りで詳細に紹介されている。


 この高僧のは日掌と言い、大石寺の寂日坊の住職を務める本山の代官だった。日掌は、幕末の文政6年、62才の時、大石寺近郊の外神八幡神社に安置するための御本尊を認めている。


 当時は49世・日荘の代であり、隠居した48世・日量もいたのに、日掌は本尊を認めて神社の氏子に授与したのである。


 ともあれ、本書の出版により、日顕宗の邪説が改めて満天下にさらされ、その元凶たる日顕の汚が万代まで伝わることになったわけである。


宗門の「血脈」の欺瞞を歴史的に検証


新刊「日蓮正宗の神話」に早くも高まる反響


日蓮正宗」とは邪宗の僧が考えた称だった!


【『フェイク』第786号/2006-11-28】


 青年僧侶改革同盟岡幹夫氏の新著『日蓮正宗の神話』は、本紙784号で発刊を報じて以来、早くも反響が高まってきている。


 同書は宗門の「血脈神話」の正体を初めて歴史的に解明した書でもある。そのことは、同書の第一論文(「血脈の貫主は絶対」という神話の形成)と第二論文(「貫主のみ知る秘伝」という神話の崩壊)の中で、詳しく説き明かされている。


 今、要点をかいつまんで示すと、宗門には次のような「血脈」の歴史があったという。


 1.日蓮大聖人から日興上人へ三大秘法の教義を伝授(13世紀後半)


 2.宗門上代の学僧が、中古天台の血脈と接触(14世紀〜)


 3.日有上人が本因妙・信無二の立場から歴代法主の血脈を強調し始める(15世紀前半)


 4.左京阿闍梨・日教が大石寺門流に「唯授一人血脈相承」のを持ち込む(15世紀後半)


 5.要法寺門流との交流等を通じて「唯授一人血脈相承」のが宗門内に定着(16世紀後半〜17世紀前半)


 6.日寛上人によって「唯授一人血脈相承」の教義が理論的に開示される(18世紀初頭)


 7.日亨上人が、日寛上人の『六巻抄』『文段集』や相伝書類を出版公開する(20世紀前半)


 8.創価学会の民衆教学運動によって日寛教学が広く普及。大石寺の相承法門の核部分は、全て公開される(20世紀前半〜現在)


 以上が、大石寺の「血脈」の歴史的実態である。


 こうしてみると、現在の創価学会は、途中の「唯授一人血脈相承」による教義の神秘化から自由になり、日蓮大聖人・日興上人の時代の三大秘法の信に立ち返ったのだ、という点が明らかになってくる。


 岡氏は、左京日教に端を発する唯授一人の血脈神話が、本来の大石寺教学からみて「一種の外来」にすぎないと指弾している。 


 その味から、創価学会こそが日蓮―日興の正統教義を継承する教団であり、日顕宗の方は、途中の外来にしがみつく亜流の信仰団体であるといえよう。


 余談になるが、『日蓮正宗の神話』の「序」に面白いエピソードが紹介されている。


 話は、大石寺と要法寺が共に「日蓮宗興門派」に所属していた頃の明治11年にさかのぼる。


 身延派等の一致派が「日蓮宗」と公称したことに危機を抱いた興門派は、自分たちも正統を示せるような宗に変えようと、興門諸山から見を集めた。その時に、要法寺から出された宗案が「日蓮正宗」だった。


 結局、この案は採用されなかったが、大石寺は興門派から分離独立後、大正の初めに要法寺案の「日蓮正宗」を無断でパクり、宗にして今日に至っている。


 日顕宗の輩は、何かにつけて「日蓮正宗」の宗を自慢し、学会員に向かって「オタクは何宗?」と悪態をつくが、そんな時は、こちらも言い返してあげよう。「日蓮正宗って誰がつけた前か知ってるか? 京都の邪宗の坊主が考えた前なんだよ」と。呵々大笑。


 なお『日蓮正宗の神話』は、全国のどの書店からも注文、取り寄せができる。


日蓮正宗の神話

2006-12-02

ヤンキー先生を称える


 先日のニュース――


 緊急提言の焦点は、いじめをした「加害者」への対応だった。当初は「出席停止」を明記する厳しい案も浮上したが、「社会奉仕」「別教室での教育」といった対応を例示するにとどめた。

 背景には、委員間の激論があった。ヤンキー先生で知られる再生会議担当室長の義家弘介氏は「加害者に反省させることが先決。いじめられた子が我慢し、転校しているのは本末転倒」と問題提起。一方で「出席停止の子どもの面倒を誰が見るのか」(陰山英男立命館小学校副校長)など、“排除の論理”につながりかねない強硬措置に慎重な見も根強かった。


【西日本新聞 2006-11-30】

 この顔ぶれのどこに、いじめを知る人がいるのだろうか? 権威や力のある人物はともすると「いじめる側」になりがちだ。いじめの実態を知るのは、ヤンキー先生だけではないのか?


 義家氏は北星学園余市高校で教鞭をとっていたが、マスコミへ露出するようになってから、学校側や父兄との軋轢(あつれき)が原因で退職。現在は横浜市で教育委員をしている。


 テレビで見る最近の顔からは、以前のような笑顔が消えた。顔つきは精悍(せいかん)になったものの、目がどことなく虚(うつ)ろだ。あれは、散々嫌な目に遭った者の表情だ。


 教育再生会議の緊急提言を受けて、こんな社説もあった――


 政府の教育再生会議がいじめ問題への緊急提言を公表した。いじめは許さない、大人が真剣に向き合うといった明確なメッセージを示したことは一応、評価できる。

 ただ、いじめを放置した教員への懲戒処分やいじめた子の社会奉仕など、懲で対処しようとする姿勢は問題だ。被害者を守るのと同時に、いじめる側に目を向けて、丁寧な対応ができる環境を整える方が先だ。


【信濃毎日新聞 2006-11-30】


 この文章を書いた人物は間違いなく、いじめに対して何の行動もしてないはずだ。小賢しい頭で、あれこれと癖をつけているだけの話。いじめと交通事故は似ている。被害に遭わない内は他人事なのだ。


 このような的外れの議論が繰り広げられる中で、伊吹文部科学大臣は必修科目未履修問題を槍玉にあげ、「教育委員会に対する文部科学省の権限強化をすべき」との考えを示した。これでは、ジャイアンに、ドラえもんのポケットを渡すようなものだろう。


 いじめ報道を見ていて、胸がムカムカしてくるのは、メディアが絶対に自分達の影響について言及しないためだ。凶器の如くたくさんのマイクを突きつける姿は、いじめそのものではないのか?


 義家氏の見は、至極、真っ当なものでありながら、誰もが目をつぶってきたことだ。子供達が次々と命を絶っている今、いじめを“教育の枠の中”で論じるべきではないと私は考える。「死のう」としている子供達を守るためにも、現段階では「犯罪を取り締まるスタンス」で臨むべきだ。

統一地方選特例法が成立

  • 48日/都道府県と政令指定市の首長議会選挙
  • 422日/一般市と町村、東京23区の首長と議会の選挙

2006-12-01

「顕正会」の会員2人逮捕、事務所捜索


 宗教法人顕正会」の会員の女2人が、埼玉県に住む48歳の女を勧誘中に女の持っていたお守りをはさみで切ったとして、埼玉県警に逮捕されました。県警は、茨県にある「顕正会」の事務所も捜索しました。

 器物損壊の疑いで逮捕されたのは、東京都江戸川区に住む「顕正会」会員、溝口順子容疑者(47)ら2人です。

 溝口容疑者らは今年4埼玉県行田市内のレストランで、48歳の主婦に「お金が入って来なくなる」などと言い、主婦の持っていたお守り2個をはさみで切った疑いが持たれています。

 調べによりますと、溝口容疑者らは「を治すにはいい方法がある」などと言って、およそ5時間に渡り、「顕正会」に入信するよう、この主婦を勧誘したということです。

 さらに、勧誘を受けた主婦は「茨県にある事務所に連れて行かれた」と話しているということです。調べに対し溝口容疑者は「知らない」「関係ない」と話しているということです。警察は、詳しいいきさつを調べています。


【TBS 30日13:40】