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斧節【onobusi】 このページをアンテナに追加 RSSフィード


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2007-01-11

しょう地三郎氏


 折しも今年は、日本の“障害児教育の父”であり柱であるしょう(日+舛)地先生が、福岡県に尊き「しいのみ学園」を創立されて50年となります。

 しょう地先生の命をかけた大闘争は、今、「教育の世紀」の希望の太陽となって、世界を照らし始めました。

 先生は勝ちました! 先生のご功績は、永遠に不滅です(大拍手)。

 つい最近、NHKの特集番組でも、98歳(当時)になるしょう地先生の頭脳が、いかに創造力に満ちあふれ、いかに若々しいか、医学的に検証されておりました。皆で見ました。深く銘しました。

 私は、このしょう地先生からいただいたお手紙を、創価教育の重宝として、大事にしております。

 そこには、先生の「夢」がつづられておりました。

 しょう地先生の「夢」とは、100歳を記して、わがアメリカ創価大学を訪問され、英語で教育講演をしてくださることなのです。創立者として、からお礼を申し上げます(大拍手)。

 アメリカ創価大学が全学を挙(あ)げて、先生を熱烈にお待ち申しあげていることを、ここに伝えさせていただきます(大拍手)。



【長春大学誉教授授与式でのスピーチ 2004-10-03 聖教新聞社】


 翌年に講演が実現。その喜びを赤裸々に綴ったしょう地氏の投書が、聖教新聞の「」に掲載された。そして今日付の新聞に再び、しょう地氏の投書が。まさか、新年勤行会にまで参加されていたとは! その求道と正視眼の瞳に畏敬(いけい)のを覚える。

強引勧誘で3人逮捕、「顕正会」本部捜索


 宗教法人顕正会」の会員の男ら3人が、男子大学生に入会するよう強引に勧誘した疑いが強まり、神奈川県警は男らを逮捕するとともに、さいたま市にある「顕正会」本部を初めて捜索しました。

 強要の疑いで家宅捜索を受けているのは、さいたま市大宮区にある「顕正会」本部と、神奈川県小田原市にある「顕正会」小田原会館など6ヶ所です。

 県警は南足柄市に住む会社員、大川正規容疑者(28)と、小田原市に住む会社員、寒河江真容疑者(30)、それに神奈川県内に住む19歳の少年の、「顕正会」の会員合わせて3人を逮捕しました。

 調べによりますと3人は去年9、厚木市の男子大学生(20)を「顕正会」小田原会館に連れ込み、前や住所を無理やり聞き出し入会手続きをさせた疑いが持たれています。

顕正会」は教系の宗教法人で、インターネットのホームページには、「日蓮聖人に背く日本は必ず滅びる」などど終末を唱えています。

顕正会」をめぐっては、強引な勧誘活動を行ったとして会員が逮捕されるなど、各地でトラブルが相次いでいますが、「顕正会」本部に警察の捜索が入ったのは初めてのことです。

 今回の捜索について、「顕正会」は「完全なる不当な捜索で不当な逮捕だ」とコメントしています。


【TBS】

2007-01-09

幹部と懇談


 ある幹部と話し合う。我が家にて。私からは言いたい放題を言ってのけた。誠実なる返答あり。その言に嘘はないだろう。だが、現実が変わらなければ、虚妄(こもう)と化す。それでも私は、話を聞いてもらったことに対して謝しなければなるまい。そして今日から、新たな祈りを捧げる。私にとって本当の味での新年が明けた。

2007-01-08

『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳


 警察庁の資料によると交通事故による死者数は、平成8年(1996年)以降、1万人を下回り、確実に減少しつつある。それでも昨年は、6352人(概数)もの方々が尊い命を犠牲にしている。


 この10年間だと、8万2279人の方が亡くなっている。事故とはいえ、8万2279人が殺され、8万2279人のドライバーが殺したことになる。犠牲者のご家族や友人の哀しみは計り知れない。


 先日、「字の言」で“六次の隔たり”について書かれていたが、交通事故の犠牲者は、2次の隔たりぐらいで必ずいることだろう。私の周囲でも、高校の同級生が10代で死亡しており、その他にもお二方を失っている。


 駒沢氏は昨年、逝去された。引退した後も、全国を飛び回っていた。テレビのインタビューに対し、わなわなと口を震わせながら、「だって、(被害者が)可哀だろう」と答えていた姿が忘れられない。


 交通事故の悲惨は死亡したことだけにとどまらない。「死人に口なし」と言わんばかりに、加害者が平然と嘘をつき、裁判は加害者の証言を元に進められる。


 死刑賛成論者はこの本を読むがいい。裁判所や警察、保険界がどれだけデタラメで、インチキに満ちているかを知ることができよう。


 事故とは、人と車と環境の合作である。そのうち、衝突とは純粋に物理現象であり、偶然や例外の入り込む余地はない。結果があれば必ず原因がある。

 結果が四角であれば原因は必ず四角であり、丸いものではありえない。人の五を経由した材料に頼るな、その安易さが技術力進歩を阻害し、誤らせる。情報の材料は必ず、どこかにある。

 人は誤りを犯すが、物は誤ることができない。


 これが駒沢氏の信だった。更に、弁護士を対象とした研修会では、こう語っている――


 私の場合には、いわゆる人証、人の説明、これはいっさい使いません。なぜならば、人は間違いを犯すことがあるからです。けれどもモノは絶対に誤らない。モノは誤ることができないのです。だから、できるかぎりモノから聞く。モノのキズというのは、非常に雄弁にぶつかった瞬間のかたちを説明してくれているのです。

 言葉を話せなくなった弱者に代わって、ものを言ってくれるのは、事故の痕跡しかありません。もし皆さんがご相談をお受けになった段階で間に合えば、事故車でも衣類でも持ち物ひとつでもいいから、その現場にあったものを保存するようにアドバイスしてください。いたずらにうろたえたり、嘆き悲しんだりしているだけでは、絶対に事故は解決できません。「泣くのは明日からにしなさい。今日は我慢して現場へ行って写真を撮ってきなさい」と、ちょっと厳しく残酷なようですけれども、とにかく証拠保全に全力を傾けていただきたいといます。


 駒沢氏は、ブレーキ痕や細かい傷、そして、被害者の衣類などから、事故状況を探り当てる。その駒沢氏の正確無比な鑑定書をもってしても、裁判に負けることがあるのだ。


 本書を読めば、日本はとてもじゃないが法治国家と呼べないことに気づくだろう。鳴りを潜めた「耐震偽装問題」も同様だが、被害者が泣き寝入りして解決する問題が多過ぎる。


 家族が交通事故の犠にとなる前に、必ず読んでおくべき本である。

交通事故鑑定人―鑑定歴五〇年・駒沢幹也の事件ファイル (角川oneテーマ21)

オシムの言葉


 宮元啓一氏の著作を読むと、しばしば「釈尊ニヒリズム」という言葉が出てくる。読むたびに釈尊の顔が、天地茂やゴルゴ13とダブって仕方がなかった(笑)。眉間に皺(しわ)を寄せて煙草をくゆらしながら、おもむろにライフルのスコープを覗く釈尊――あり得ないね(笑)。ともすれば、虚無主義と訳されるニヒリズムだが、ニーチェをえば、そんな浅はかなものではあるまい。現実の悩を達観し、笑い飛ばす精神力とも考えられる。


 その味からも、オシム監督の言葉はニヒリズムに満ちている。人々の熱狂を冷静へと導く余韻に満ちている。


 ――日本での生活に満足しているか。代表監督の重圧はあるとうが……。


「私の出身国(ボスニア・ヘルツェゴビナ)は、起きた時に、もう一日生きなければならないことが幸福なのか不幸なのかを考えなければいけないような国だった。日本の生活とはまったく比べものにならない。重圧は、慣れてしまうと自分で受けたくなるもの。家内からも重圧を受けているので、重圧の毎日だ」

オシムの言葉―フィールドの向こうに人生が見える

西岡常一


 この宮大工棟梁を、年末年始に放映された「あの人に逢いたい」(NHK)で初めて知った。その西岡常一氏が「創価薬王の集い」で紹介されていた。人と人とがつながると、こういう面白さがある。薬王さんのページにあったリンクが素晴らしいので、こちらでも紹介しておこう――

2007-01-06

闘争の焦点は人材育成


 いよいよ広宣流布も「秋の陣」を迎える。

 焦点は何か。

「人材」である。これからのリーダーを、徹して鍛え、育てゆくことだ。

戸田先生は、人材を求めておられた。

「ますます、人材が必要である。いつでも私の手駒となる人材が輩出してほしい」

「青年部は、みな、私の手駒となってもらいたい。いつ、いかなる大任を受けても、悠々と引き受けてもらいたい」

師の仰せ通りに、私は広布の最前線に身を投じた。行く先々で、栄光の凱歌を轟かせた。


【関西・九州・中国・四国合同研修会 2006-08-07 長野研修道場


 植物にせよ、ペットにせよ、人間にせよ、「育てる」には時間を要する。だから、「たか子」が求められる――失礼、「待つ覚悟」だった。


 そして、手を抜けば死が待っている。だが、水をやり過ぎれば種は腐り、エサを与え過ぎると犬は糖尿病になり、過保護に育てられると人は大人になれない。


「育てる」行為は元々本能に備わっていたはずだ。しかし、そこで育った人間は動物と変わりがなかったことだろう。雑草は放っておいても伸びるが、胡蝶蘭はそうはいかない。社会が複雑になった現在、親ですらまともに子供を育てられなくなってしまった。


 広宣流布が流れそのものであるならば、人材育成なくして令法久住はあり得ない。人間は十人十色だ。ここに人材育成のしさがある。100人いれば、100通りの育て方がある。自分との格闘を避けているリーダーは、ギリシャ神話の「プロクルステスのベッド」のように、枠にはめ込もうとする。そこにあるのは“自分の都合”だけだ。


 私は盆栽が嫌いで仕方がない。針金でグルグル巻きにされた姿は、大リーグボール養成ギプスそのものだ。勝手に自由を奪って、自分のい通りに育てようとする姿勢は、醜悪としか言いようがない。同じことを人間に対して施せば――必ず壊れる。


 幼い子にどんぶり飯を山ほど食べさせたところで、突然、大きくなることはない。毎日毎日、同じことを繰り返し、その中で愛情を注ぎ、言葉をかけ、反応を確認しながら、ある時、振り返ると、「育っている」事実を知るのだ。


 会合で立派な話をする幹部は多いが、実際に人を育てている幹部は見当たらない。隠れているようにもえないのだが(笑)。


 今日は、23歳の池田先生が、戸田先生から後事の一切を託された「師弟相伝」の日。

アンケート


 放置したままになっているアンケートだが、是非ともご協力願いたい。何とか、サンプル数を1000ぐらいにしたいと考えてます。数字の背景をつかみたいので、出来るだけコメントも書いて頂きたい。

2007-01-05

『銀と金』福本伸行


 遅ればせながら今日から正休み。暮れから昨日まで、ずっと仕事をしていた。皆が働いている時に休むというのは実に気分がいい(笑)。


 というわけで、『銀と金』を再読。


 痺れるものは、何度読んでも痺れるものだ。チト、面倒なんで、以前、書いた書評を紹介する(尚、引用箇所だけ大幅に増やした)――


 43年生きてきたが、よもや、これほどの漫画に出くわすとはわなかった。


 私のは痺れた。そして、魂を撃たれた。


 真剣は柄(つか)で斬れという。

 素人同士が刀で斬り合いをすると、みな腰がひけて、刃(やいば)が人間に届かないそうだ。

 人を斬るには刃(は)で斬ろうとしてはダメで、柄で斬るくらいで、はじめて人間に刃が届くという。

 柄で斬る、つまり踏み込むということだ……!

 真剣勝負とは、そういうもの。

 わしは踏み込み、森田君は退(さが)った。

 さっき退った理由を、さも戦略のようにグチャグチャと述べていたが、あんな理屈じゃ、わしには勝てん。

 一見、森田君のいうことは、いいことずくめ。

 まるで安全と勝利を同時につかめるみたいなことをいう。

 しかし、修羅場とはそういうものでない。

 勝負の分かれ目、最後の最後、ただこの一牌という牌をひくには、理ではダメだ。

 事実、君は「理」で自分の和了牌(あがりはい)を見送り、わざわざ、わしにふりこんだ。

 ククク……。

 理に頼ると、今と同じ過ちを何度でも繰り返す。永遠に……。

 ギャンブルの決定的瞬間で見あやまる一歩先にある勝利をつかめない。とどのつまり理ではダメなんだ。最後の一線は越えられない。

 では何によって越えるかというと、狂気だ……!

 最後の一線は……に狂気を宿して、初めて越えられる……!


【『銀と金』第6巻】


 丸山健二も及ばぬ言葉の数々――。ギャンブルとは無縁な私が読んでも十分、堪能できた。


 第9巻末尾の邦男の科白(せりふ)を読んだ瞬間、私は本を閉じ嗚咽を漏らした。嘘偽りない話だ。そしてもう一度同じ科白を吐いた時、私は本に顔を当てて泣いた。


 男であれば読め。女は読まなくていい。


 今夜は眠れそうにない――。


 そして私はまたしても、邦男の科白(せりふ)で嗚咽を漏らした。何度も読み返し、その度に泣いた。たった一言に込められた怒りと悲しみの深さに、泣くことしか出来なかった。


 私の好きな『ゼロ』や『鉄コン筋クリート』(本大洋)ですら、福本作品と較べると童話の類いになってしまう。三悪道、四悪趣への迫り方が桁違いなのだ。


 この作品が尻切れトンボとなってしまったのは、間違いなく「邦男」のせいだ。作者の予を凌駕(りょうが)した人物が生まれた時、予定していたストーリーがぶち壊されたのだ。邦男の圧倒的な存在を目の当たりにした森田鉄雄は、足を洗うことを決する。そこでこの作品は事実上、終わっているといってよい。否、登場人物達によって「終わらされた」のだ。

銀と金 (1) (双葉文庫―名作シリーズ) 銀と金 (2) (双葉文庫―名作シリーズ) 銀と金 (3) (双葉文庫―名作シリーズ (ふ-15-3)) 銀と金 (4) (双葉文庫―名作シリーズ (ふ-15-4))

銀と金 (5) (双葉文庫―名作シリーズ (ふ-15-05)) 銀と金 (6) (双葉文庫―名作シリーズ (ふ-15-06)) 銀と金 (7) (双葉文庫―名作シリーズ (ふ-15-07)) 銀と金 (8) (双葉文庫―名作シリーズ (ふ-15-08))

名を上げよ


 以下の御聖訓を公明党候補者に捧ぐ――


 聖徳太子は守屋の悪を倒して法を興し秀郷は将門を挫いてを後代に留む、然らば法華経の強敵為る御帰依の寺僧を退治して宜く善神の擁護を蒙るべき者なり(171頁)


 当世日本国に第一に富める者は日蓮なるべし命は法華経にたてまつりをば後代に留べし(223頁)


 されば諸菩薩諸天人等は法華経の敵の出来せよかし前の御誓はたして釈迦尊並びに多宝如来にもげに前にして誓いしが如く、法華経の御ためにはをも身命をも惜まざりけりはれまいらせんとこそおぼすらめ(1351頁)


 ともかくも法華経をたて身をまかせ給うべし(1360頁)


 但うれしき事は武士の習ひ君の御為に宇治勢多を渡し前をかけなんどしてありし人は、たとひ身は死すれどもを後代に挙げ候ぞかし(1415頁)


 今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり、此れこそ宇治川を渡せし所よ是こそ勢多を渡せし所よを揚るかをくだすかなり、人身は受け法華経は信じしとは是なり(1451頁)


 設いにあらねども竜樹天親天台伝教なんど申せし聖人賢人等は程こそなかりしかども三世の事を粗知しめされて候しかばをも未来まで流されて候き(1473頁)

2007-01-04

世間の腐臭


赤い野菜のコパン」が美味しい。独特の酸味と香ばしさが堪(たま)らん。量も控えめでグッド。


 世間を渡り歩いていると時折、ドブのような腐臭をじることがある。人の狡(ずる)さに驚き、卑しさにたじろぎながら、嫌悪が募る一方だ。四十を過ぎたというのに、面と向かって「てめえはロクでもない人間のクズだな!」と言うことが年に数回ある。私は忍耐強いのだが、堪忍袋の緒が少し細くできているのだ。もしも、私が不軽菩薩だったら、悪口を言われるたびに殴りつけてやっているだろう。嫌いな人物は誰もが避けたい。だが私の場合、その前に明快なの疎通を望む。つまり、「お前なんか大っ嫌いだよ」と言わずにはいられない分なのだ。これは、腐臭が自分に移らないようにするための防衛手段である。とは言うものの、怨憎会(おんぞうえく)は避けようがない。ってなわけで、「仕方がないので」(笑)人間革命に挑むこととしよう。


 法華経の行者といはれぬる事はや不祥なりまぬかれがたき身なり(903頁)

2007-01-03

牧口先生、戸田先生の教え《抜粋》


「愚か者に広宣流布の指揮は執れぬ!」

「打てば響くような人間になれ!」

末法道修行とは、人々が一緒に並んで、一緒に手を組んで、一緒にかけをかけながら、勝ち進んでいくのだ!」

「信を根本として、団結してやっていけば、失敗はない」

「戦えば戦うほど、そして強くなればなるほど、法勝負の実証は、早く出てくる」(牧口先生

「大人というのは、人が成功した後を追っていく。保守的だ。

 青年は革新的でなければならない。時代に生き、新しいものを求めていくところに若さがあるのだ」

「戦いというのは、最後は『本当に楽しかった』と言えるまでやらなければならない。そうでなければ、本当の戦いとはいえない」

「男が怯(ひる)めば男ではない。覚悟の信に立て! 覚悟の人生を生きよ!」


《※牧口先生と注記したもの以外は戸田先生の指導》


【関西・九州・中国・四国合同研修会 2006-08-07 長野研修道場


 大聖人は「法と申すは道理なり」(1169頁)と仰せだ。私は今まで、「法は道理にかなっている」と読んできたが、最近になって変わった。「法は道理そのものである」という風に読めるようになった。つまり、「法≧道理」ではなくして、「法=道理」ということである。


 大聖人は続けて「道理と申すは主に勝つ物なり」(同頁)と指南し、四条金吾に対して具体的で細やかなアドバイスをされている。「道理は権力(主)に勝つ」とされているが、現実はどうだろう。「無理が通れば道理が引っ込む」傾向の方が強い気もする。


 我々はともすると御消文に書かれた一文を、教条主義的に捉えがちだ。植木雅俊氏の『釈尊と日蓮の女性観』(論創社)を読むと、そのような教条主義的な読み方が、いかに皮相的なものであるかがよくわかる。


 そう考えるとこの御聖訓は、四条金吾が仕えていた江間氏が「道理を弁(わきま)える人物だった」という前提のもとで書かれたのかも知れない。


 大聖人は道理を尽くし、三度にわたって国家権力を諌(いさ)めたものの、聞き入れられることはなかった。では果たして、大聖人は「主に勝てなかった」のだろうか。


 そうではあるまい。大聖人には民衆からの支持があった。そして今、世界190ヶ国の民衆が日蓮法を渇望し、日本においては代表メンバーが政権与党の一員となっている。


 万人が納得するのが道理である。理だけでもなく、道だけでもない。理と道とが一体となった智そのものである。そして、道理を貫いているのは、人間平等の精神だ。


 先師、師の教えは、厳しいようでありながらも、道理にかなっている。誰もが頷(うなづ)ける内容だ。


 道理を踏みにじるリーダーは、会員を犠牲にしている。そんな輩は断じて許してはならない。昂然(こうぜん)と叫びを上げよう。「先生の指導と違うではないか!」と。


 前は創価学会でも、実体が創価学会じゃない組織があるよ。

『希望対話 21世紀を生きる君たちへ』/いじめ 4


前川女子中等部長●中学生から、こんな見がありました。

「今、少年犯罪が、たくさんニュースで放送されていて、『勇気あるよねぇ』と友だちは言っていたけど、そんなものは勇気でもなんでもないとう。自分の周りにイジメをしている人がいたら、『やめろ』という一言を……。それが立派な勇気だとう」


いじめ」なくすカギは周囲に


池田先生●利口だね! その通りです!

いじめをなくす」ためのカギを握っているのは、実は「周りで見ている人たち」です。 いじめている人に対して、「やめろ」と言えるかどうか。

 いじめられている人に対して、「私たちは、あなたの味方なんだ」と伝えてあげられるかどうか。

 それとも、「私には関係ない」と、「見て見ぬふり」をするのか。それで決まってしまう。

 だから、みんな「勇気」を出してほしい。

 二度とない中学生時代です。いじめの黒雲なんか、みんなの勇気の風で吹き払って、楽しい青空を仰いで生きてもらいたいんです。


前川●「いじめが全然ない世界」……素晴らしいですね!


闇と光の境目


池田先生●たった一人でいい。たった一人でも、味方になってくれたら、どんなにうれしいか。

 いじめられている時、人は「世界中が、みんな自分の敵だ」とじてしまう。

 誰も信じられない。人間が信じられない。人生が信じられない。

 真っ暗な闇の中に、ひとりで座り込んでいるようなものです。

 そんな時に、一人でいい、「自分は、あなたの味方だ!」と伝えてくれる人がいれば、闇の中に「光」が差すんです。

「真っ暗な闇」なのか、うっすらでも「明かりが点っているのか」。これは大きな違いです。いや、正反対というくらい違う。

 その「一人」がいるかどうかが、光と闇の「分かれ目」なんです。


堀井・元中等部長●そういます。その通りです。

 私も、いじめられて、いじめられて、中学の3年間、それでも、なんとか耐えることができました。それは実は、一人の友だちがいたからなんです。

 2年生になって、クラス替えがありました。あとでわかったんですが、私の知らないうちに、うちの母が、そっと学校に頼んでくれたんです。それで少し、ましになりました。

 新しいクラスになって、最初に隣に座ったのがA君でした。A君は、、登校すると、「おはよう!」とをかけてくれたんです。それが、すごい驚きで、本当に、うれしかったんです……。

 それが一日だけじゃないんです。次の日も、また次の日も、をかけてくれる。A君だけでした、そんな人は。

 みんな、私がいじめられているのを知っていて、かかわりあいになるのを避けていましたから。


池田先生●そこだね、問題は! それにしても、A君という人は偉い人だね。


一番かっこいい


堀井●はい。彼とは、パソコンの趣味も一緒で、ゲームの話もしました。「これ、おもしろいから、読んでみろよ!」って、マンガを貸してくれたのも、よく覚えています。その時、中学生活で初めて「生きているんだ!」って実できたんです。

 池田先生が言われた通りです。私も、ひとすじ、「光」があったから、生きられたんです。

 特別なことじゃなくていいんです。体育の時や林間学校などでグループをつくる時に、「お前は、どうするの?」とをかけてくれたり、そういう、ちょっとしたづかいが、本当に、うれしいんです。

 ですから、私が中等部長だった時も、中等部のみんなに、いつも「A君のような人になってください。しんでいる人にをかけてあげられる人になってください。その人こそ『一番かっこいい人』なんです」と訴えていました。


池田先生●A君とは、今も友だちですか?


堀井●はい、大親友です。


村・前女子中等部長●私も高校時代ですが、「仲間はずれ」にされた時、いつも守ってくれる人がいました。その人とは、今も親しくしています。そういう人には自然と友だちが集まってきます。


「諸悪の根源」


池田先生●そういう人が増えたぶんだけ、学校は変わるね。

 これは、本当に大事なことなんです。

 大きく言うと、今の社会のほとんどの問題も、「私には関係ない」と言う人が多いことが「諸悪の根源」といっていい。

 悪に対して「自分には関係ない」と言う。自分の身にふりかかってこないかぎり、見て見ぬ ふりをする。それが実は、「悪を応援する」ことになる。


堀井●牧口先生(初代会長)は、「善いことをしないのは、結果として、悪いことをするのと同じ」と言われました。


池田先生●その通りです。

「線路に石が置いてある。そのままにしておいたら、汽車が事故を起こすかもしれない。それなのに、石をどけようとしないのは、結果 としては、線路に石を置いたのと同じことになる」

 そういう信でした。だから牧口先生は、いつも先頭に立って、悪と戦った。だから、いつもいじめられていた。当時の教育界からも、宗門からも、国家権力からも。

「悪からいじめられ通した人生」でした。それは、牧口先生の栄光です。われわれの誇りです。


村●「善いことをしないのは、悪いことをするのと同じ」というのは、ふつうの考えとは、だいぶ違いますね。ふつうは、「何もしない」のは、「善ではないけれども、悪でもない」と考えます。


池田先生●たとえば、池で溺れている人がいる。自分が突き落としたわけではない。だからといって、何もしないで見ているとしたら、どうだろう? 突き落とした悪とは、同じでないとしても、別の味で、これも「悪」ではないだろうか。


堀井●いじめを「見て見ぬふり」をしているのは、本当に「溺れている人を見殺しにする」のと似ています。


池田先生●厳しく言えば、それは「いじめている人間の協力者」なんです。「共犯者」になってしまうんです。


前川●(傍観している人は)自分では気づいていないかもしれません!


「あなたが代わりにいじめられて」


池田先生●「自分がいじめられているんじゃないから、いい」。そうっているとしたら、それは「自分がいじめられるのはいやだから、あなたがいじめられてね」と願っているのと同じです。


村●卑怯――ですね。


池田先生●「私には関係ない」というのは「楽」かもしれない。しかし、この「私には関係ない」が、一番、人間を堕落させていく。

「私には関係ない」と、つぶやくたびに、自分の「人間らしさ」が削られ、どんどん消えていってしまう。そこに気がついてもらいたいんです。

 消極的に「何もしない」ことは、積極的に「自分をだめにしている」んです。

 それを自覚しないと、年ごとに、だんだん、つまらない人間になっていく。悪を平気で許す無気力な人間になってしまう。


学年とともに「何もしない」が増加


前川●4ヶ国での「いじめ調査」があります。〈1997年調査、本年発表。国際いじめ問題研究会〉

 それで印象的だったのは、「いじめを見聞きした時にどうするか」という問いに対して、イギリスでは、中学生になると「いじめをやめるように働きかける生徒」が増加しています。

 ところが、日本では、「注したり、先生に助けを求める」という答えが、小学生から中学生へと学年が上がるにつれて少なくなっているんです。


池田先生●なるほど、大事な調査だね。

 ただ私は、「だから日本の中学生は、だめだ」とはいません。

数字」が示している「本当の味」を知ることは、どんな場合も、実にしいものなんです。

 日本の中学生には、「その身になってみなければわからない」しみがあるんだと、私はう。


前川●ありがとうございます。


堀井●たしかに、せっかく勇気を出して、学校の先生に言っても、何にも本気ではしてくれなかった――たとえば、こんな経験を一度でもしたら、中学生はもう、誰も信用できなくなってしまいます。


前川●実は、「いじめを見ても止められなかった」という悩みも寄せられているんです。中学2年生の女子からなんですが……。


池田先生●そう! でも、それで悩むなんて、それだけで立派だとうよ。


前川●こういうです。

「私のクラスのある女子が、数人の男の子に『バカ』『グズ』『くさい』とか言われ、その子の配った給食は食べないと言われたり、カバンをけられたりしています」


池田先生●ひどいね……聞いただけで胸がつぶれるいがする。自分たちが何をしているのか、本当に彼らはわからないんだね!


前川●「ほかの女子も“あの子はやられて当たり前”のようなじで、注は、まったくしません。私はとても、いやでいやで、見ていられなくて、注したいのですが、男の子たちがこわくて、何も言えません。どうしたら助けてあげられるでしょうか」


「止めると、自分がやられる」


村●これは大勢の人の気持ちだとうんです。

いじめをなんとかしたい」。でもそうすると「今度は、自分が、いじめられる」。その 恐怖から、立ちすくんでしまうんだといます。


前川●ひどくなると、「一緒にいじめないと、自分がやられるから」と、いじめに加わる場合があります。


堀井●今、「あの子はやられて当たり前」という一節がありましたが、そううことで、周囲が、いじめ正当化しているんですね。

 いじめる側は、なんだかんだと「いじめる理由」をつくってきます。もちろん、「人をいじめていい理由」なんか、絶対にありません! あるわけがありません。

 全部、自分たちの「醜い」を正当化するための「言いわけ」です。


村●「○○はグズだから、いじめられて当たり前だ」「自分でまいた種だから、しかたがない」「私には関係ない」

 周りがこうなってしまうと、もうクラスの中で、誰もいじめを止められなくなってしまいますね。


何とかしたい!その「」を貫け


池田先生●そんな中で、質問の彼女は「私には関係ない」とはっていない。「何とかしたい」とっている。それだけで、ずっとずっと偉いよ。

「何とかしたい」とう、そのを大事にしてもらいたい。

 なぜか。そのを持ち続けていれば、いつかきっと「何とかできる」からです。

 万一、中学生時代にできなければ、高校で、大学で、社会で、きっと「何かできる」自分になれる。

 反対に、「自分には何もできないんだ」と、あきらめたら、そのとたんに、本当に何もできなくなってしまう。これは大事なことなんです。

 それを前提にして、私は、そのクラスの「現実」をよく知りもしないで、簡単に「勇気を出して、いじめを止めなさい」と言うのは、言うほうが無責任だとう。

 その結果、どんな事態になるか、わからないのだから。

 今、ずっと「いじめ」について一緒に考え、語っているけれども、これは、あくまでも「原則」です。

「現実」は千差万別で、全部、違う。だから、一律には言えない。そんな簡単なものではない。

「どんな場合でも、勇気を出して、いじめを止めなさい」と言うことは、やさしいよ。

 しかし、その結果、大切な中等部のみんなが傷ついたりする可能があるとしたら、それは言えません。私は、みんなが大事なんです。誰も危ない目にはあわせたくない。


まず「祈り」を!


池田先生●だから、最低限、言えるのは、「絶対に自分は、いじめない」こと。

 そして御本尊に、いじめられている子のことを「真剣に祈ってあげる」こと。

 その上で、できれば、何らかの方法で、その子に「自分の配している気持ちを伝える」こと。

 正直に「自分は今は、いじめを止める勇気がないけど、悪いのは絶対に、いじめている側だから! あなたは、ちっとも悪くない! 私は毎日、祈っているから!」と手紙を書くだけでもいいとう。


村●それだって、勇気がいります。立派なことですね。

 事実、そんなふうに手紙を書いた女子もいるんです。すると少しずつ、その子がを開いてくれて、味方もだんだん増えていって、いじめがなくなっていったんです。


堀井●手紙やメモには、自分の前を書きたくなかったら、それでもいいといます。


池田先生●それと、誰か仲間をさがすことです。

いじめをやめさせたい」とっている人は、きっと、ほかにもいるとう。いなければ、つくればいい。「同志」をつくるんです。

「自分ひとり」と、「もう一人同志がいる」とでは、大違いです。


前川●ある女子は、グループの中で、いい関係の時に、「いじめってイヤだね」「もし、私たちの間で、これから、いじめをされたり、いじめを見たりしたら、正直に話し合おうね」と、みんなで約束したそうです。

 それがあったから、ひとりが仲間はずれにされそうになった時にも、助けることができたそうです。


堀井●それと、先生に話す時は、「自分が言ったということは秘密にしておいてください」と、はっきりを押したほうがいいと、私はいます。

 いじめっ子に対しては、その先生から、「ほかの先生から聞いた」「ほかの先生が見ていた」と言ってもらえばいいんですから。


信頼できる人に協力してもらう


池田先生●ご両親とか、先輩とか、誰でもいいから、「この人は信頼できる」という人に相談して協力してもらってもいい。方法は、いろいろあるとう。

 まずは「自分にできる範囲」でいいんです。

 今の自分にできることは「小さなこと」かもしれない。

 その小ささを恥じて、手を引っ込めてしまう人が多いんです。しかし、そんな必要はない。

「今、自分にできること」をやった人が、偉いんです。


「何か」始める


池田先生●フランスのミッテラン前大統領の奥さんは、熱人権活動家です。

 創価大学でお会いした時、こんな話をされていた。

「たとえば、目の前に、50人の人が溺れているとします。でも私には当面、ひとりにしか救いの手を差しのべられない。でも、まず、ひとりを助ければ、次の人を助けることもできます。やがて、それを全体に及ぼしていくことができるんです」


堀井●そういます。「いじめ」というと、何か話を広げてしまって、「こんな社会だから」とか「ちょっとくらい努力したって、焼け石に水だ」とか、何もしない言いわけばかりする傾向があります。

 しかし、「焼け石」だって、みんなが「水」をかければ、冷えていきます。


池田先生●そのためには、誰かが「水」をかけ始めることだ。

 誰かが「何か」始めることだ。


前川●私たち担当者も「自分たちにできることは何なのか」を真剣に考えたいといます。


反発されたら


池田先生●それで、みんながいじめられている人に、「手を差しのべた」とする。

 しかし、だからといって、謝されるとはかぎらない。反対に、「よけいなことはしないで!」と反発されるかもしれない。

 いじめられてきた人は、が傷ついているから、人間を、中々信じられない。そういう場合が多い。人を「警戒」しているかもしれない。

 だから、もし、そういう反発にあっても、怒ってはいけない。わかってあげなければいけない。

 第一、さっきも言ったように、いじめと戦うことは、「自分自身のを救う」ためでもある。自分が「悪の共犯者」にならないためでもある。

 だから「友を助ける」ことは、実は「自分のため」でもあるんです。「自分のを助けている」んです。

 だから、きせがましくうことは間違いだし、「自分のためでもあるんだ」とえば、反発されても腹は立たないはずです。

 腹が立つのは、「助けてあげているんだ」という、の「おごり」があるからです。


子どもが何も話してくれない」


村●よくわかりました。

 もう一点だけ、親ごさんから「子どもの様子が何かおかしいのですが、いくら聞いても、話してくれないんです」という相談があったのですが……。


池田先生●それは配でしょうね。

 ただ、しくて、しくて、言いたくても言葉にならない。どう話していいか、わからない――そういう気持ちも、わかってあげてほしいといます。

 それに、子どもにだって、プライドがあります。自分がいじめられている状況は話したくないという気持ちもあるでしょう。

 いじめによって、その子のプライドは、ますます繊細になり、ピリピリしています。

 そこにもっていって、「いじめられているんじゃないの?」「話して、話して」と“追及”されることは、痛です。

 だから、ともかく、「自分は、何があっても、あなたが何をしても、あなたの味方だ」というメッセージを、繰り返し、繰り返し、に染み入らせることではないでしょうか。 そうやって、「そばにいてあげる」だけでいい場合がある。その「愛情」さえ伝われば、それが「支え」になるんです。

 もちろん、中には、「自分の子なんだから、遠慮していてはならない」とう方もいらっしゃるといます。それはそれで正しいです。

 子どもが逃げても、追いかけて、抱きしめて、追いすがってでも、「私は絶対にあなたの力になる」ことを、とことん伝えていく。とことんつきあって、話を聞き出していく。

 どちらを選ぶかは、まさに家庭しだいです。ふだんのコミュニケーションの密度にも左右されます。いつもは対話らしい対話もないのに、問題が起こって、いきなり「何でも話して」と言っても、そう簡単ではないでしょう。


村●ある中等部員は、いじめにあっていることを親に話した時、「一生懸命に話そうとするんですが、自分で何を言っているのか、わからなくなっちゃうんです。口からいろんな言葉が出るけれども、つじつまがあわなくなるんです」と言っていました。

 それほど、子どもたちのは激しく揺れているんです。


池田先生●だからこそ、何時間でも、何日でも、根気よく、「聞き役」に徹していただきたいんです。子どもたちは、話すことで、自分の頭を整理して、自分で解決方法を見つけていくこともあるんです。

 だから、まずは、「アドバイスする」ことよりも、「をからっぽにして、ただただ聞く」くらいの気持ちでいいのではないかと私はいます。

 また、たったひと言、ぽつりと言った言葉でも、大事にしてください。

 その「ひと言」に「せいいっぱいのい」がこめられているんです。

 ともかく、どんな場合でも、親ごさんこそ、子どもたちにとって、最大の味方です。最大の「安」を与えてあげてほしいといます。


前川●担当者も、何かできることがあれば、何でも応援したいとっています。遠慮なく、地元の青年部に連携をとってみてください。

もちろん相談を受けた担当者は「プライバシー個人的なこと)は厳守」でお願いします。


池田先生●大事なことだね。「口が軽い」幹部は、最低の幹部です。


堀井●ある担当者は、「何か悩んでいそうだ」とじると、その子を車に乗せて走るんだそうです。目的地もなく、特別 な話をするのでもなく、“ただ走る”だけなんです。もちろん、安全には十分注してです。

 そして最後に一緒に「ラーメンを食べる」んです。


池田先生●いろんな知恵があるんだね。 頼もしいね!


「受け入れてくれる人がいたから」


池田先生●中学生のこんな詩がありました。

「悲しくて つらい時もあった

 何もかも捨てて 逃げたい時もあったんだ

 だけど がんばったよ

 私を受け入れてくれる人が一人でもいたから

 認めてくれる人が一人でもいたから……

 うれしかったから……

 まだ の中は不安と恐怖と孤独で いっぱいだけど

 信じてくれる人のために

 認めてくれた人のために

 ……それと自分のために

 だから“負けないよ 絶対に”」

 ある人みんなが、全国で、全世界で、駆けずり回って、いじめられている人に伝えてほしいのです。

「君は、ひとりぼっちじゃないんだ!」と。


学生から


おそれないで止めてください!

「私のクラスに、いじめられてばかりの男子がいます。みんなが、いや味などを言ったりしているうちに、私も『何かヤダな、あいつ……』とっていました。でもある日、私の友だちが『これっておかしいよね? 何にもしてないのに、いじめられるなんて!』と言ったのです。私は、その言葉にドキっとしました。そしてそれから、そういうことも少しずつなくなってきたのです。今ではクラスは平和で、私は友だちに謝しています」(中1)


「孤独です。親しかった友人も少しずつ離れていくのがわかりました。『あの人(私)にかかわると自分もイジメられる』。私に接することで、イジメのターゲットが自分にもきてしまう。『イジメ』というのは、そういうもんです。私もそれがわかっていたので、自分からも、友だちから離れるようになりました。ますます孤独になる。こわかったです。学校に行きたくありませんでした」(中2)


「小4の時、いじめがありました。『暴力』ではなく、『集団イジメ』……。一人の女子に対して、みんな無視してました。私は、いじめられるのが、こわかったので、あまり、その子としゃべりませんでした。今、考えてみれば、最低なことをしました。でも今は平気で、よくその子としゃべったり、遊んだりしています。『いじめ』って、見て見ぬ ふりしても『いじめ』だとうから」(中1)


「中2のころ、いじめにあいました。相手は、中1のころ、仲の良かった子たちでした。すっごく悲しくて、悲しくて、泣いていた時、手をさしのべてくれた友だちがいました! その子たち2人は『違うクラス』&『バスで帰る』にもかかわらず、『○○(私のこと)を一人にはできないよ!』の理由で、私と一緒に帰ることになったのです」(中3)


「私は、いじめを見たことが何回もあります。でも私は、いじめにあった経験があったので、『私がいじめられるのではないか』と不安で、止めることができませんでした。一番ずるくて、弱いのは、まわりで黙っている人たちだといます。自分がかわいいがために、友だちを見捨てているのですから。だから、これまで私は、すごく後悔してきました。これからは後悔しないように、勇気を出して止めようといます。みなさんも、いじめを見たら、おそれずに止めに入ってください。いじめは、絶対にあってはいけないものです!」(中2)

 またぞろ、気になる「名字の言」


これから元気で」を見て、気になる「字の言」を発見した。件(くだん)のブログでは、「示唆に富んでいた」としているが、私はどうしようもない違和じてならなかった。以下に全文を紹介しておこう――


▼「好き」と「嫌われたくない」は、一見、同じようで大違い。なぜか。「好き」は相手を尊重したい気持ちであり、「嫌われたくない」は自分の気持ちに執着している面が強い。その結果、嫌われたくないとう人ほど嫌われることもある▼これは、過日亡くなった斎藤茂太氏の言だ(『「なぜか人のに残る人」の共通点』)。「モタさん」の愛称で親しまれ、精神科医・作家など多彩に活躍した氏は生前、本紙にも、たびたび登場してくれた法では「随自意」と説く。根本に他者をう慈悲があれば、嫌われることを恐れず、自身の信を堂々と述べることこそ重要だ。もちろん、他者の見を聞くことは当然だが、それらにいたずらに左右されることなく、自分らしく、信をもって生き抜くことが大切と言えよう▼池田誉会長は、「創価学会は、尊貴なる仏勅の教団である。その素晴らしさを、ありのままに随自意で示していけばよい。そうすれば自他ともに功徳を受ける」と語っている▼自分の見を伝えるには、時には「勇気」が必要だ。それこそが日蓮法の魂であり、歴代会長の大精神である。対話の機会が増える年末年始を迎える。自身の誠を率直に伝える、真の対話をがけたい。(道)


聖教新聞 2006-12-22付】


 私の格が、どれほどひねくれているかを教えて進ぜよう(笑)。

  • 「好き」と「嫌われたくない」は一見しても、再見しても、同じようには見えない。“斎藤茂太氏の言”としているが、こんな紛(まぎ)らわしいテキストは引用すべきでない。「好き」と「嫌いでない」、あるいは「好かれたい」と「嫌われたくない」を比較するならまだしも、単なる詞と文章を比べる方がおかしい。
  • 「嫌われたくないとう人ほど嫌われることもある」――逆に、好かれたいとう人ほど嫌われることもあるよ。牽強付会も甚だしい。
  • 「氏は生前、本紙にも、たびたび登場してくれた」――「下さった」と敬語を使うべきだ。あるいは、「登場」で切っておけばいいのだ。
  • 「根本に他者をう慈悲があれば、嫌われることを恐れず、自身の信を堂々と述べることこそ重要だ」――信を述べること=嫌われる、とする根拠が示されてない。
  • 「他者の見を聞くことは当然だが、それらにいたずらに左右されることなく、自分らしく、信をもって生き抜くことが大切と言えよう」――これまた紛らわしい文章である。「他者の見」に「左右されること」を“悪い”とする根拠が全く示されてない。聖教新聞を購読している知人・友人の方々が読めば、学会員の話にも左右されなくなってしまうよ(笑)。また、随自意とは法華経のことで、「真実を説く」義がある。釈尊法華経を説く際、勇気を必要としたのであろうか? 更に、この文章の展開だと、自分らしさと独善の違いが、よくわからない。
  • 時には必要な勇気=日蓮法の魂、となってしまっている。
  • 要は、「相手に嫌われることを恐れないで、しっかりと折伏していこう」との論旨だとわれるが、如何せん、文章が滅茶茶になってしまっている。自分の言いたいことを一方的に伝えようとすると、こんな具合になりやすい。
  • 本音は命令のクセに、「真の対話をがけたい」などと、あたかも自分の決のように締めくくって誤化している。

 同じ学会員でも、受け止め方にこれほどの差があることを示し、もって、創価学会員の多様を証明したつもりである(笑)。

2007-01-02

先生、79歳のお誕生日


 今日は先生のお誕生日。79歳になられた。明年のお誕生日までに、何をもって荘厳するか――。

池田先生の特集番組が放映


 16日午前7:30から、東京MXテレビ「dialogue〜平和社会へのキーワード〜」で放映される予定。誰か録画して、YouTubeにアップしてくれないかしら。

2007-01-01

2007年参院選の与党勝敗ライン


  • 非改選議席自民/46 公明/11 合計57(119議席中、欠員2)
  • 改選議席――自民/66 公明/13 合計79(121議席中)

 公明党の13議席(東京埼玉・神奈川・愛知・大阪選挙区+比例区)を前提にすると、自民52で与党過半数確保となる。自民66で現状維持。自民67以上だと単独過半数となる。

  • 民主党――非改選議席/51 改選議席/31

 民主は50を目標にしており、実現すれば参議院242議席の内、101議席となる。つまり、他の野党で21議席を獲得すれば与野党逆転となる(改選議席の合計は12)。


 与党にとっては「自民52、公明13」が勝敗のボーダーラインとなる。4に行われる参院福島沖縄補選を自民が落とせば、相当の戦を強いられる。


 自民の前回の参院選獲得議席数は46だった。また、2005年の衆院選における自民圧勝は記憶に新しく、次の国政選挙が反対に揺れることは多くの識者が指摘しているところだ。


 自民が52を割れば、安倍首相の責任どころか、政局へと発展することは必至である。

出生数6年ぶり増、06年の出生率1.29前後に


 厚生労働省が公表した2006年の人口動態統計の年間推計によると、日本人の出生数は前年比2万3000人増の108万6000人と、6年ぶりに増えることがわかった。

 これに伴い、合計特殊出生率(1人の女が一生に産む子供の人数に近い推計値)は、過去最低を記録した前年の1.26から1.29前後に回復する見通しだ。

 死亡数は109万2000人となる。出生数を6000人上回るため、2年連続の自然減となる可能がある。

 年間推計は、06年1〜10人口動態統計速報などを基に、11、12分の出生数などを推計したものだ。

 出生数の増加について、厚労省は「雇用情勢の改善などで、20代後半の女の結婚数が増加傾向に転じたことが主な要因だ」と分析している。ただ、同省は出生数が増えたのは例外的な現象で、07年以降は減少するとみている。子供を産む年齢の女(15歳〜49歳)が減り続けていることに加え、出生率が大幅に向上する可能が低いためだ。

 年間の出生数は、第2次ベビーブーム1973年には現在より100万人多い209万人超だった。平成に入った89年から2000年にかけ、120万人前後で推移したが、01年から減少が続いていた。

 国立社会保障・人口問題研究所が昨年末に発表した「日本の将来推計人口」の標準的な中位推計では、5年後の2012年ごろには、毎年30万人規模で人口が減り始め、35年ごろには、和歌山県や香川県の現在の人口に相当する100万人規模の人口が毎年減る「超人口減社会」に突入する。


【読売新聞 2007年11日付】

立正安国論


 若し先ず国土を安んじて現当を祈らんと欲せば速(すみやか)に情慮を回らしいそいで対治を加えよ(31頁)


 地方分権が揺れている。次々と明るみに出た知事の不正と、財政破綻(はたん)が震源地だ。今年の4には、夕張市が財政再建団体となることが既に決まっている。年間の標準財政規模が45億円でありながら、何と600億円を超える負債を隠していた。夕張の市民の方々の瞳に、初日の出はどのように映じたことか。一連の動きに対し、中央の権益が損なわれることを阻む目的で地方自治体の情報がリークされているとする向きもある。だが、悪い事実は動かしようがない。


 戸田先生石川県江沼郡塩屋村(現・加賀市塩屋町)に生まれ、2歳の頃、一家で北海道の厚田村(現・石狩市厚田区)へ移住した。家のために進学を断。年季奉公をしながら学し、17歳で尋常科准訓導の検定試験に合格。そして18歳の時、夕張の真谷地尋常小学校の代用教員に採用された。3年後に退職。上京の後に牧口先生出会い、波乱に満ちた生涯の幕が開く。


 夕張の地は、アイヌ語の「ユーパロ」(鉱泉の湧き出るところ)に由来する。1888年明治21年)に鉱脈が発見され、国内有数の炭鉱の町として栄えた。1960年(昭和35年)には11万6908人の人口だったというのだから、盛況ぶりが窺える。


 飛ぶ鳥を落とす勢いに満ちた炭労(炭鉱労働組合)が学会員を迫害し、全面対決となった(1957年/昭和32年)。戸田先生の命を受け、まだ20代の池田先生が隼(はやぶさ)の如く北の天地へ飛び、炭労が学会対策を公で発表してから、わずか50日ほどで勝負は決した。学会が主催した夕張大会に炭労幹部も出席。その正論の前に「対決」を取り消さざるを得なくなった。


 その炭労が消滅したのが2004年11月19日のこと。公明党の結党の日だった。何という運命の不議か。そして今、夕張市までが破綻の時を迎えた。夕張炭労事件から、ちょうど50年目に当たる。


 財政再建といえば聞こえはいいが、それまでに至る政策判断のミスやインチキぶりは、“税金泥棒”と呼ぶのもおこがましいほどだ。その立場を考えれば、振り込め詐欺よりも悪質な行状といってよかろう。


 ほんの一握りの政治家官僚の政策判断によって、庶民の負担が増え続ける。公明党の全議員は肝に銘じてほしい。大聖人は、「速(すみやか)に情慮を回らしいそいで対治を加えよ」と仰せである。昨今の政治に欠けているのは「情慮」であろう。古来、民の痛みに鈍な政治は必ず滅んでいる。「速(すみやか)に」「いそいで」――立正安国の闘士に求められているのは、果断とスピードだ。


【※「戸田城聖とその時代」の年表を参照した】

戦い勝つことが、人間革命であり、広宣流布


 創立77周年の新年、明けましておめでとうございます! りんけんバンドの「めでたい めでたい」を歌いたい気分。


 御聖訓には、末法濁悪の世で、妙法の広宣流布に戦う人生を、「嬉しきかな」「悦ばしきかな」「楽しきかな」と仰せです。

 これが、我ら創価家族足取りも軽く前進しゆく充実の一年であり、歓喜の中の大歓喜に輝く所願満足の一生であります。


 戦い勝つことが、人間革命であり、になる道です。

 戦い勝つことが、広宣流布であり、立正安国の道です。

 さあ、この一年も、私と共に、久遠元初の大生命力を全身に燃え上がらせながら生き生きと朗らかに勝ち進もう!

 そして師弟不二の信、異体同の信、絶対勝利の信で、あらゆる三類の強敵を打ち破って、痛快に勝ちまくろう!


 師と共に迎えることができた新年の激も新た。そして明日は、先生の79歳のお誕生日。